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日蓮大聖人・池田大作

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第十回全国婦人部幹部会 自身の行動が即、自己の福徳に

1990.1.24 スピーチ(1989.8〜)(池田大作全集第73巻)

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1  妙法受持の人は人類・社会の柱
 本年初の全国婦人部幹部会、本当におめでとう。大切な皆さま方が風邪などひかれませぬよう、健康な日々でありますよう、私はいつも真剣に念じている。
 また、ただいまの山梨・太陽合唱団のはつらつたる歌声、まことに見事で、サンバのリズムも本場ブラジルを思わせる(笑い、拍手)。真心の演奏に心から感謝申し上げたい。
 さらに、きょうは第十七回の「水俣の日」である。水俣の皆さま方は一切を乗り越えて、これまですばらしい前進の歴史をきざんでくださった。あわせて祝福申し上げる。(拍手)
2  本日は、御書を拝し、簡潔に語っておきたい。
 文永十二年(一二七五年)一月二十七日、日蓮大聖人は身延の地より、四条金吾の妻・日眼女にあてて、お手紙をしたためられた。時に大聖人は五十四歳。日眼女は三十三歳で、いわゆる女性の厄年であった。
 慈父と娘のような年齢差でもある。このお便りで大聖人は、厄年を気にする日眼女に対し、妙法を持つ人には、三十三の厄も三十三の幸いになる、とあたたかく激励されたのである。
 また大聖人は、法華経薬王品第二十二の経文を引かれて、こう仰せである。私どもの内心の自覚として、大切なご指南である。
 「此の世の中の男女僧尼は嫌うべからず法華経を持たせ給う人は一切衆生のしうとこそ仏は御らん候らめ
 ――この世の中の男であれ女であれ、僧であれ尼であれ、法華経(御本尊)を受持された人は、すべての人の″主人″の立場であると、仏は見ておられるでしょう――。
 「一切衆生の主」とは、別しては当然、御本仏日蓮大聖人のことである。そのうえで、総じて大聖人の門下もすべて、全人類の″柱″であり、″中心的存在″であるとのご指導と拝される。
 自分が本当にそうなのであろうか――そう思い、なかなか確信できない方もいらっしゃるにちがいない。しかし、御本仏の仰せは絶対である。
 実践している「法」が最高であるゆえに、受持した「人」も第一の存在なのである。
 自覚するとしないとにかかわらず、正法広宣流布に生きる皆さま方の存在と振る舞い自体が、社会の繁栄を根本的にささえる″主″の働きになっている。その誇りを、皆さま方は決して忘れてはならない。
 続いて「梵王・帝釈は・あをがせ給うらめと・うれしさ申すばかりなし」――この人を大梵天も、帝釈天も、仰いで尊敬されるであろうと思い、うれしさは言いようもない――と述べられているように、いかなる高位の立場の人よりも尊い存在が、皆さま方なのである。
 梵王・帝釈とは、現代的には最高の権力者、世界的大指導者にも通じよう。その人々さえも、皆さま方を仰いで尊敬するにちがいないと。それ以下の政治家、高官などはいうまでもない。
 否、″主″である皆さま方を第一に大切にし、尊敬し、皆さま方のために心をくだき行動する人こそ、真の指導者なのである。(拍手)
 こうした尊貴な立場について大聖人は、″男女僧尼を問わず″と、はっきり断言しておられる。男女間の差別など仏法の世界にはない。在家・出家の間にも、その尊さに差はないとの明文である。
 御書には、在家、出家、男性、女性も含めて、「日蓮が一門」「日蓮が一類」「日蓮が門下」「日蓮が弟子檀那等」など、繰り返ししたためておられる。皆、大御本尊のもとに平等な仏子であり、広宣流布への同志である。これが大聖人の深きお心である。(拍手)
3  仏法の修行においては、″自分のため″の活動が、そのまま″社会のため″に通じていく。″広布のため″の行動が、そのまま″自分のため″になっていく。ここに信心の妙味がある。
 いささかの無駄もなければ、矛盾もない。すべてを生かしながら、″自身の幸福″社会″と″への貢献″を同時に実現していくことができる。これが妙法広布と一生成仏への円満にして軌道なる軒道なのである。(拍手)
 ゆえに皆さま方は、それぞれの立場にあって、″一切衆生の主″″地域の幸福への大指導者″との「確信」と「自覚」、「誇り」と「喜び」をもって、だれよりもすばらしき人生を飾っていただきたい。
 願って今世に、御本尊のもとに生まれてきた私どもである。妙法流布を誓って、馳せ参じた私どもである。その偉大なる使命と力の証明を、何らかのかたちで、わが人生にきざみ、残しゆく一生でありたい。(拍手)
4  勇気と希望あたえるリーダーに
 さて、この尊貴なる立場を、真に輝がせていくものは何か。それは、強盛なる「信心」である。
 大聖人は、同じ御書の後半で、次のようにお示しである。
 「但し信心のよはきものをば法華経を持つ女人なれども・すつると・みえて候」――ただし信心の弱い者は、法華経を受持する女性といえども、諸仏・諸天は捨てる、と書かれている――。
 仏法では、人間としての究極の偉さをどのように説くか。その最終的な尺度をどこにおくか。
 それは、結局「信心」の二字に帰結する。信心が強盛であるか否か。広布への勇気があるかどうか。行動しているのかどうか――。
 いかなる幹部であろうと、信心がなくなれば広布の指導者ではない。社会的な一肩書が何であろうと、真摯な実践がなければ信仰者ではない。そこには、決して真実の福徳は薫らない。いかなる人であれ、「信」を根幹にしていかなければ、すべては空転し、むなしく漂わざるをえないからである。
 続けて「例せば大将軍よはければ・したがうものも・かひなし」(同沐じ――たとえば、大将軍が弱ければ、従う兵士もふがいない――と。
 決戦に臨む軍隊でも、その″魂¨ともいうべき将軍が弱くては、戦いに勝ちぬくことはできない、と断言されている。言うまでもなく、私ども一人一人にとって″魂″とは「信心」であり、奥底の「心」である。信心の心強き人こそ、最後の勝者となる。
 先日(一月二十一日)のスピーチでも「心を悟り知るを名けて如来と云う」との御聖訓を拝読した。また「ただ心こそ大切なれ」との御文は、しばしば学んできたとおりである。
 要するに「心」こそ生命の王座であり、「心」のいかんが人生の価値と勝敗を決する。
 この「心」に、「希望」と「勇気」と「確信」をあたえていくのが、仏法の指導者である。慈悲のリーダーである。その集まりこそ、わが創価学会であると、私は確信する。(拍手)
5  さらに「弓よはければ絃ゆるし・風ゆるければ波ちゐさきは自然の道理なり」――弓が弱ければ絃もゆるい。風がゆるければ波も小さいのが自然の道理である――と。
 ここでも引き続き、信心の心の大切さを、わかりやすい譬えをとおして述べられている。
 ところで「弓矢」といえば、他の御書に、男性を矢、女性を弓に譬えられ、男性の活躍も女性の力によるところが大きいことを示された御金言がある。
 日眼女が、先の御書をいただいた当時、四条金吾は、主君からも同僚がらも怨まれ、苦境に立たされていた。その時に大聖人は、夫人にこうしたお手紙を送られ、最大の激励をされた。
 四条金吾といえば、門下のなかでもひときわ信心も強く、頼もしき存在であった。しかし大聖人は、夫人にも真心の激励をされた。ここに夫婦一体の信心、そして夫人の祈り、女性の存在の重要性が示されていると拝されてならない。
 一家においても、広布においても、婦人の存在と活躍が、いかに大きく大切であるか。
 婦人が″一家の太陽″として、朝から元気に働き、家族や地域のために活動する一家は、おのずと夫や子どもも生き生きとしている。また正義のために祈り、戦う婦人部が盤石であれば、学会は盤石である。そうなればやはり壮年部は、ただ頭をたれ、感謝するしかない。(爆笑)
6  最後に、海外訪問について一言、申し上げたい。
 二月中旬から予定されていた北南米訪問は、本部の意向もあり、総合的に検討した結果、今回は北米に力点をおき、南米には代理が行くことになった。
 その理由として、まず三月、四月に、世界の賓客等、多数の会見の予定が入ったほか、創価大学、創価学園の卒業式への出席、また学会創立六十周年の諸行事もある。さらに、大切な大石寺開創七百年の慶祝行事もひかえている。そして、引き続き中国訪問が予定され、加えてソ連訪問の打診もあった。こうした種々の事情から、どうしても南米訪問を断念せざるをえないとの結論となった。
 ちなみにアメリカでは、第十一回SGI(創価学会インタナショナ)総会、各部の総会に出席するほか、創価大学ロサンゼルス分校(=現在のアメリカ創価大学)での研修、ハマー博士、ならびに何人かの学者との対談等を行う予定である。どうかご了承願いたい。
 ともあれ、婦人部の皆さまのいっそうの健闘と輝かしい栄冠を、私は心から念願したい。
 (創価文化会館)

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