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日蓮大聖人・池田大作

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第二十五回本部幹部会 広布は「慈悲」と「権力」の戦い

1990.1.18 スピーチ(1989.8〜)(池田大作全集第73巻)

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2  建治二年(一二七六年)正月十一日、大聖人は身延の地から、故郷・安房(現在の千葉県南部)の清澄寺の人々にあて、一通の手紙をしたためられた。これが「清澄寺大衆中」という御抄である。
 同抄の冒頭は、次のようなごあいさつで始まっている。
 「新春の慶賀自他幸甚幸甚」――新春を迎え、おたがいに喜ばしい限りである――と。
 大石寺開創七百年、学会創立六十周年を迎えるこの新春――私どもにとってこれほどめでたく、輝かしい出発はないと思う。大聖人も、私どもの晴れやかな姿をご覧になって、「幸甚幸甚」と、さぞかしお喜びくださっているにちがいない。(拍手)
3  このお手紙の中で大聖人は、真言宗の注釈書などの借用を頼まれ、さらに「今年はことに仏法の邪正たださるべき年か」――今年はとくに、仏法の「邪」と「正」が明確にされるべき一年であろう――と仰せになっている。
 この背景として、同抄ご執筆の前年末、真言僧から大聖人のもとに、法論対決を迫る書状が届いていた。大聖人は、すぐに返事を書かれ、法論は望むところである、むしろ多くの人々に法の正邪を明らかにするため、公家等に申し出て公場での対決をせよ、と悠然と応えられている。
 大聖人は、このきたるべき法論に備え、さっそく年頭から清澄寺にあてて必要な文献の収集を依頼されたのである。
 大聖人は森羅万象すべてを見とおされた御本仏であり、法論の勝利はすでに不動であった。しかし、このように一つ一つの法戦にさいして、緻密な準備にあたられたのは、あくまでもつねに法理を尽くして、正法弘通の方軌を後世に示してくださったようにも拝される。
 「広宣流布」は、たんなる″スローガン″ではない。言葉として、いくら高くかかげても意味はない。具体的に一歩一歩、実現していかなければ、大聖人が開かれた無上の幸福の「大道」を後世に広げていくことはできない。それではあまりに、大聖人に申しわけない。このことは戸田先生も、厳しくおっしゃっていた。
 そして広宣流布は、この現実世界を舞台としての、魔軍との熾烈な闘争の連続である。正法の勢いが弱まれば、それだけ魔の軍勢が勢いづいてしまう。
 ゆえに、現実のあらゆる局面において、「仏法は勝負」との証を示していかねばならない。闘争に闘争を重ね、勝ちぬいていく以外にない。個人の幸福も社会の繁栄も、着実な広宣流布の発展も、そのうえにしか築かれていかないからだ。
 私どもにとっても本年は、ますます「正」と「邪」が明確になっていくにちがいない。大聖人門下の誇りと確信に燃えて、誉れの広布の戦いに勇気凛々と臨み、堂々と勝利の栄冠を勝ちとってまいりたい。(拍手)
4  東条景信にみる権力者の迫害の構図
 また大聖人は、先の新年のお手紙の中で、かつて地頭・東条景信の策謀から、清澄寺を厳として守りぬかれたことを述べられている。(地頭とは、鎌倉幕府によって置かれた職名。各地の荘園等で警察権、徴税権などを行使した)
 ご存じのように清澄寺は、大聖人が御年十二歳から修学なされ、十六歳で出家されたゆかりの深い地である。この地方を治めていた景信は、大聖人が清澄寺で立教開宗された時から敵対視し、迫害を始めていた。そして後年の小松原の法難のさい、大聖人を亡きものにしようとして傷をおわせ、門下を殺害した張本人でもある。
 この景信は、権力を背景に清澄寺をみずからの思いのままに支配しようと策動してきた。
 御書には、こう仰せである。
 「東条左衛門景信が悪人として清澄のかいしし飼鹿等をかりとり房房の法師等を念仏者の所従にし・なんとせしに日蓮敵をなして領家のかたうどとなり
 ――東条左衛門景信が悪人となって、清澄寺で飼っている鹿などを狩り取り、各房の法師たちを念仏者の所従(家来)にしようとしてきた。この時、日蓮は反対し、景信に土地を奪われようとしている領主の側の味方をしたのである――。
 景信は地頭という立場を悪用して、他家の領地を不当に収奪しようと謀った。そして、信仰の世界にも介入し、清澄寺を念仏化せんとして圧力を加えてきた。大聖人は、この横暴に対して、道理のある側に味方され、苦しむ人々を守られたのである。
 ――つねに、人々の困苦を思われるお心。よこしまな権力に対しては、敢然と戦う、とのご信念。短いなかにも、大聖人の大慈大悲が拝されてならない一節である。
5  「泣く子と地頭には勝てぬ」という。これは、地頭の横暴さをうまく表現した言葉だが、大聖人御在世当時、地頭がいかに非道であったかを伝える一文がある。
 それは、建治元年(一一一七五年)、紀伊国(現在の和歌山県)・阿氐河あてがわの荘に住む農民が、地頭の非
 法を訴えた文書で、農民がたどたどしいカタカナで懸命につづったものである。
 そこには、たとえば「メコトモヲヲイコメ(=妻子供を追い込め)、ミゝヲキリ(=耳を切り)、ハナヲ〈ソ〉キリ(=鼻をそぎ)、カミヲキリテ、アマニナシテ(=髪を切って尼のようにしてしまい)」などといった、地頭の悪行が記されている。
 まさに大聖人が、「当世は世みだれて民の力よわ」――今の世は乱れて、民の力は弱い――と嘆かれる世相の一端を示すものであった。
 この「民の力よわし」――これを権力者以上に強めていくのが広宣流布の一次元である。そこにしか、真実の幸福と社会の安泰はないからである。
 東欧の「民主」の嵐を思うにつけ、大聖人が七百年前に仰せになったこの御聖訓はあまりにも重い。この大聖人の御精神を継ぐのが、私どもの使命なのである。(拍手)
6  とともに私どもは、仏法者として、地頭など権力の魔性に酔う人間が、正法を迫害していった構図を見落としてはならない。
 大聖人はさらに、「彼の邪義を隠さんが為に諸国の守護・地頭・雑人等を相語らいて」一――極楽寺良観らは自分たちの邪義を隠すために、諸国の守護や地頭、雑人らと語らって大聖人と門下の迫害をすすめた――と。
 こうして悪しき権力、権威は、つねに″魂の自由″を圧迫せんとしてきたのである。
 また、佐渡の一谷入道についても「地頭も又をそろしなんど思いて直ちに法華経にはならず」――地頭に対しても、おそろしいなどという思いをもっていたので、ただちに法華経を信仰することはできなかった――と。
 地頭という権力者の力が、いかに強かったか。そうした権力や権威の、有形無形の壁を敢然と打ち破りゆく、正義の行進。いかなる権力や権威の圧力にも屈しない、一個の人間としての、勇敢なる信仰。それが一人から一人へと、真の″魂の自由″を勝ち広げ、人々の頭上に幸福と勝利の旗を燦然とひるがえしていくのである。(拍手)
7  「法華経の兵法」から希望の力が
 東条景信には、さらに巨大な幕府権力の後ろ盾があった。すなわち、景信の背後には、「極楽寺殿」と呼ばれる北条重時がいた。重時は、幕府の連署(執権の補佐)という重職にあったし、その息子・長時も執権となっている。
 大聖人に、松葉ケ谷の法難、伊豆流罪の弾圧を加えたのも、この父子の時代であった。また清澄寺の内部にも、円智房や実成一房という悪侶が景信と結託し、攪乱を謀っていた。
 したがって、領地の紛争にしても、幕府権力を背景にした景信側のほうが、有利な情勢にあった。そのなかを大聖人は、領家のために、清澄寺のために戦われた。そして見事に勝たれた。間注(裁判)という公の勝負をとおして、有縁の清澄寺を厳然と守られたのである。
 その勝利の根本の力は何だったか。大聖人は、こう仰せである。
 「清澄・二間の二箇の寺・東条が方につくならば日蓮法華経をすてんと、せいじやう精誠の起請をかいて」――もし、清澄寺と二間寺の二つの寺が、東条景信のものとなってしまうならば、日蓮は法華経を捨てようと、真心からの起請文(誓いの文)を書いて――御本尊に祈ったと。
 その結果、「一年が内に両寺は東条が手をはなれ候いしなり」――一年のうちには、この二つの寺は、東条景信の手から離れたのである――。
 こうして、景信の野望を完全に打ち破ることができたわけである。まことに″法華経に勝る兵法なし″である。
8  われわれにも、これまで、さまざまな権力の迫害、策謀の嵐があった。そのなかを「信心」の二字で、すべて勝ちぬいてきた。そして世界に冠たる創価学会を築き、今日の隆々たる広布の大道を切り開いてきた。御本仏日蓮大聖人も″よきかな、よきかな″と必ずやご称讃くださり、お喜びになっておられると信じたい。(拍手)
 先ほども申し上げたように、仏法は「勝負」であり、魔軍との、しのぎを削るような戦いである。負ければ広布の光は消えてしまう。ゆえに絶対に負けるわけにはいかない。
 絶体絶命の状況に追い詰められるときもあろう。しかし、負けられない。絶対に勝ってみせる。
 これが信心である。また、それぐらいの気迫と行動なくして、誉れある大聖人の門下とはいえないし、大法弘通の大信者とはいえないのである。
9  さて、白鳥を見て白馬がいななき、白馬のいななきを聞くと威光勢力を増すという輪陀王の故事がある。大聖人は、この故事を引かれて、次のように教えられている。
 「白馬のなくは我等が南無妙法蓮華経のこえなり、此の声をきかせ給う梵天・帝釈・日月・四天等いかでか色をましひかりをさかんになし給はざるべき、いかでか我等を守護し給はざるべきと・つよづよと・をぼしめすべし
 ――白馬がいななくのは、われらが唱える南無妙法蓮華経の声である。この唱題の声を聞かれた梵天、帝釈、日月、四天等が、どうして色つやを増し、輝きを強くされないはずがあろうか。どうしてわれらを守護されないはずがあろうかと、強々と思われるがよい――。
 朗々たる唱題の声のあるところ、必ずや梵天・帝釈をはじめ、すべての諸天善神の守護はある。それを強く強く確信していきなさい、との仰せである。つまり、強盛なる信心さえあれば、絶対に諸天の加護はあり、一切の道は開かれていくのである。
 どうか、この朗々たる「祈り」と、強い「決意」「行動」で、この一年、まず青年部が勝利の道をつくっていただきたい。
 そして、全幹部で、これまで築かれてきた学会の勝利の大道を、さらに盤石なものとしていっていただきたい。(拍手)
10  ところで大聖人は、このように清澄寺を、東条景信の魔手から守られたことをとおして、清澄寺の人々に、こう訴えられている。
 「大衆も日蓮を心へずに・をもはれん人人は天にすてられ・たてまつらざるべしや、かう申せば愚癡の者は我をのろう呪咀と申すべし後生に無間地獄に堕ちんが不便なれば申すなり
 ――清澄寺の大衆も、この大恩ある日蓮を信じようとしない人々は、どうして諸天に捨てられないことがあろうか。こう言えば、愚かな者は日蓮は自分のことを呪っていると言うであろう。しかし、後生に無間地獄に堕ちるのがかわいそうなので、あえて厳しく言うのである――と。
 宗門にあっても、学会にあっても、大恩を忘れ、この大聖人のお言葉どおり、退転し去った人間がいた。不知恩の人々の未来がいかに哀れであるかは、仏法の原理どおりである。私どもは、前車の轍を絶対に踏んではならない。
 今日まで、権力の魔性から尊き学会を守りぬいたのはだれか。悪侶の嘉動を戒め宗門を厳護してきたのはだれか。また、背信者の卑劣な策謀から会員の方々を守りぬいたのは、いったいだれか。
 後世のために、あえて一言、言い残しておきたい。(拍手)
11  後継の若人は、開道の汗を
 「清澄寺大衆中」を著された建治二年(一二七六年)正月、大聖人は、南条時光にもお手紙をしたためられている。
 時に、大聖人は御年五十五歳。時光は、わずか十八歳。ういういしき青年地頭は、若き広布の指導者として成長もいちじるしく、身延の大聖人に、しばしば真心の御供養をされた。
 その御書には、次のように記されている。
 「釈迦如来の末法に世のみだれたらん時」――釈迦如来の末法で、世の乱れている時に――。
 「王臣・万民・心を一にして一人の法華経の行者をあだまん時」――王臣や万民が心を一つにして一人の法華経の行者に迫害を加えている時――。
 「此の行者かんぱち旱颰の小水に魚のみ・万人にかこまれたる鹿のごとくならん時」――この行者が、早魃の時のわずかばかりの水にすむ魚のように、また大勢の人間に囲まれた鹿のようになっている時――。
 「一人ありて・とぶらはん人は生身の教主釈尊を一劫が間・三業相応して供養しまいらせたらんよりなを功徳すぐるべきよし・如来の金言・分明なり」――一人この行者を助けに訪ねてくる人は、生身の教主釈尊を一劫という計りがたい長遠な時間、身口意の三業から供養し奉るよりも、なお功徳が勝っていると説かれている、如来の金言は明らかである――と。
 思えば、東条景信は、地頭という立場、権力を乱用して、大聖人を苦しめた。
 しかし、時きたりて、広布の舞台には、さっそうと妙法の青年地頭が登場した。むろん彼には、御家人の一人として、幕府権力からの圧迫もあった。しかし、つねに正法迫害の知面に凛然と立ち、最極の正義の存在であられる御本仏をお守りした。弘教の第一線で、法と同志のために戦い、走りぬいた。そして大石寺の開創に尽くすなど、晴れがましい正法外護の生涯を生ききるのである。
 法を弘め、たしかに後世に伝えゆくためには、そうした青年の出現こそ肝要であり、また必然であると確信する。どうか、青年部の諸君は、この厳粛な使命と責任を深く胸にきざみ、果敢に行動しぬいていただきたい。(拍手)
12  かつて、日達上人は、第十六回青年部総会(昭和四十二年十一月)で、こう話された。
 「この青年部も、一朝一夕にできたのではありません。前会長戸田先生が『青年よ、一人立て二人は必ず立たん、三人はまた続くであろう』と叫ばれて折伏を続けられ、更に現会長の大折伏戦の陣頭指揮によって、今日の大青年部となったのであります」
 そして「諸法実相抄」一節を拝しつつ、「やがて、六万恒河沙の自涌の眷属が学会青年部となるのであります。そして南無妙法蓮華経をもって、日本はおろか全世界一同広宣流布となって、人類の幸福、世界の平和が達成せられることと私は確信をもっておるのであります」(『日達上人全集 第一輯第三巻』と。
 また、第三十一回本部総会(昭和四十三年五月三日)では、「如説修行抄」を拝読し、こう明言されている。
 「大聖人様の御金言にしたがって、学会の皆さまは、日夜に折伏に励まれております。それ故、学会員は日々に増大し、我が日蓮正宗は、ますます盛んになり、広宣流布は現前であります。我が国に創価学会があるかぎり、日本国は安泰であり、世界も必ず平和をたもつことができると断言できるのであります」(同前)
 まさしくこのお言葉のとおり、日本の国も安泰となり、世界も平和の方向に向かってきたではないか。(拍手)
 日達上人は、最大に学会を理解され、最大に期待してくださった。また青年部を強く激励してくださった。その深いお心、ご精神が、私どもにとってどれほどうれしく、ありがたいものであったか。私どもは、いやまして正法興隆のために挺身してまいりたい。(拍手)
13  よく、私たちは「僧俗一致とは」との質問を受ける。たしかに、わかっているようで明快になっていない点がある。このなかにも同じ思いでおられる方がいるかもしれない。そこで、一つの次元から、一言だけ申し上げておきたい。
 かつて私は日達上人に「真の僧俗一致とはどういうことですか」とうかがったことがある。それは、昭和四十年(一九六五年)二月、福井県敦賀市の若法寺の落慶入仏式の折のことである。
 日達上人は「僧であれ俗であれ、だれが上とか、だれが下というようなことではない。どっちが偉いの、どっちが偉くないのというような狭い考えではいけない。それは信心とは別問題である。僧俗は、大御本尊を根本とした信心の同志である。広宣流布のために戦いゆく同志である。また、それぞれの役目もある。その上で、互いに励まし合い、助け合い、補い合っていくのが、僧俗一致である。いわゆる他宗教の概念だけでいけば、必ず時代とともに行き詰まる。僧俗一致の心が大聖人のお心であり、僧俗一致がなければ、末法万年まで栄えていくことはできない」と語っておられた。
 私は感銘深くうかがった。ともあれ、いちだんと自覚を新たにしてまいりたい。(拍手)
14  話は変わるが、広宣流布の途上には、当然のことながら、さまざまな妨害や中傷がある。だが、故意につくられた策略の批判は、私たちの信心にとっては無関係であり、意に介す必要はまったくない。
 もちろん、仏法の教義の問題であれば、堂々と論議をし、正邪を決していかねばならない。たとえば「大聖人の教義は誤っている」とか、「三大秘法は間違いだ」「大聖人の御書は論理的におかしい」といった批判に対しては、まっこうから反論し、はっきりと勝負をつけていくべきである。
 しかし、ただ、私どもをおとしいれんがための攻撃や、意図的な作り話、やきもちからの暴言など歯牙にもかける必要はないし、信仰とはまったく関係ないことを申し上げておきたい。
15  唱題は生命の「勝利の歌」
 題目の力はすごい。無限である。妙法は宇宙の根本の法であり、題目は生命の根源のリズムである。広布をめざし、題目を朗々と唱えゆくところ、生命の威光勢力は無量に高まり、無辺に広がっていく。
 「御義口伝」には、法華経・五百弟子受記品の「貧人此の珠を見て 其の心大いに歓喜し」(開結三七一㌻)の文について、こう説かれている。
 「此の文は始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」と。
 ――この経文は、「貧なる人」すなわち妙法を信じていない一切衆生が、「此の珠」すなわち題目、御本尊を受持した結果、はじめてわが生命が本来、仏であると自覚する、これを大歓喜と名づけるのである。すなわち南無妙法蓮華経と唱えることは、歓喜のなかの大歓喜である――。
 他の喜びは浅く、また、たちまちのうちに消え去る。妙法を唱え、わが身に仏の生命を涌現していくとき、いのちの奥底からの歓喜に五体は躍動する。これこそ、崩れざる真実の幸福感である。
16  ところで、英語では、病気を「治す(治る)」という意味の″ヒール(heal)や「健康(ヘルス=health)」の語は、本来、「全体」を意味する″ホウル(whole)」と同根である。
 このことを踏まえていえば、病気が「治る」、「健康」になることは、宇宙の「全体」との調和を取りもどすことといえよう。
 生命は本来、宇宙の「全体」と一体である。その調和が崩れるとき、何らかの「病気」「苦悩」となってあらわれてくる。
 ドイツ・ロマン派の詩人ノヴァーリス(一七七二件〜一八〇一年)は、「あらゆる病気は一つの音楽的問題である――その治癒は一つの音楽的解決である」(「続断片」飯田安訳、『ノヴァーリス全集 第2巻』所収、牧神社)と言った。彼も、病気とは、生命の音楽的なハーモニー、調和の律動に狂いが生じた結果と考えたのであろう。
 音楽は、たしかに「調和」をその生命とする。また、生命の調和に何らかの影響をあたえていく。
 最近、「音楽療法(ミュージック・セラピー、バイオー・ミュージック)」が脚光を浴びているという。その音楽を聴くことによって、心身両面をリラックスさせ、生命の自己調整の力、自然治癒の力が回復していく――主として、そうした効果をねらったものである。
 音楽は心理面のみならず、体調をもよくしていく、というのである。本格的研究は、まだ始まったばかりであり、断定的なことは言えない。ただ「∠炉が生命におよぼす力」について、社会的にも関心が高まっている一例として紹介させていただいた。
 この「音の力」について、すでに四千年前、古代エジプトでは「音楽は魂の薬」と呼んでいた。また健康法として、さまざまな利用も行われていたようだ。
 そこでは、音楽のことを「ヒュ」と言い、これは「歓喜」を本義とした。有名な象形文字では、これを「花開いた蓮華」で表したという。
 生命の歓喜である″音″が蓮華を象徴とした――。妙法もまた「蓮華の法」であり、私どもにとっては、たいへん興味深い話である。
17  さて、このほどフランスに「ヴィクトル・ユゴー文学記念館」が開設されることが決定した。
 明春のオープンをめざして、現在、資料収集など、着々と準備を進めている。設立準備委員会総合委員長の秋谷会長は、大学ではフランス文学の専攻でもあり、日仏の文化に貢献する立派な施設となるよう、全力で取り組んでいる。
 ゆえに、きょうはユゴーの話を会長がすると思ったが、しなかったので(笑い)、私から少々させていただく。(拍手)
18  「万物はうたう」とユゴーの直観
 ユゴーは、青年時代以来、私の愛読する詩人である。
 彼の詩に、″宇宙に通流する散赳ゎのことをつづったものがある。
 「万物はうたう」とユゴーは言う。
  
 「知るがいい、万物は自分の掟や、目的や、たどるべき道を心得ていることを、
 星から虫けらにいたるまで、広大無辺な宇宙は、おたがいの言葉に耳を傾けていることを」
 「万物が話をする、吹きすぎる風も、水面を進むアルキュオン(=伝説上の小島の名)も、草の芽も、花も、種も、土も、水もが」
 「万物は声をあげ、香りを放っているのだ。
 万物は話しかけている、無限の中で、何者かに何かを。
 ある考えがこめられているのだ、森羅万象のあげる壮大なざわめきには」
 「万物はうめく、おまえのように。万物はうたう、私のように。
 万物は話をしているのだ。そして、人間よ、おまえは知っているか?
 なぜ万物が話すのかを。よく聞け。風、波、炎、
 木々、葦、巌、こうしたものすべてが生ある存在だからだ!」
  (「闇の国の語ったこと」から。『ユゴー詩集』辻昶・稲垣直樹訳、潮出版社)
19  詩人が、深き直観知で垣間見た宇宙の様相。それは「壮大なざわめき」の世界であった。
 万物が声を発し、万物がうたう。躍動する「生命」で充満した世界であった。
 仏法では「声仏事を為す」という。″声″に深甚の意義を見ている。
 科学においても、進歩すればするほど、マクロ(極大)の世界から、ミクロ(極小)の世界まで、不可思議ともいうべき調和の律動を認め、それを音楽的ハーモニーとして表現する人もいる。
 生命は何らかの″音声″を発する。また、他の″音声″に耳をかたむけ、反応する。人間の耳には聞こえなくとも、宇宙は、にぎやかな″声と声の響きあう世界″である。花に語りかければ花もこたえる。草も木も、あいさつを返してくれる。
 しかも万物は自分の「たどるべき道」を知っている。自分の使命を十二分に生き、迷うことがない。わが道をいき、わが軌道にのっとって、前進し、みずからの「生命の歌」をうたう。
 ある意味で、人間のみが、良かれ悪しかれ自由な意識を持つゆえに、この軌道から外れてしまう場合が多い。本来の調和を破壊してしまう。仏法とは、その軌道を回復し、さらに無限に向上しゆくための信仰である。真の「人間の道」「生命の道」を歩むための仏道修行なのである。
20  ともあれ、躍動し、声を発する。ここに生命の証がある。
 健康であるにもかかわらず、動かなくなり、声を出さなくなってしまっては、もはや「死せる生命」である。
 森羅万象、何ひとつ変化しないものはない。止まっているものはない。問題は、良く変わるか、悪く変わるかである。良き方向へ、良き方向へと、限りなく変わりゆくために、人間は動かねばならない。声を出さねばならない。
 なかでも広宣流布のため、法のために、動き、声を出すことは、最大の「生命の歓喜」をもたらす。それが宇宙のリズムにもっとも合致した行動だからである。
 その根本は、言うまでもなく唱題である。題目こそ、尊貴にして、宇宙の最極の音声である。すばらしき「健康」と「福徳」、そして「勝利」をもたらす限りなき源泉なのである。
21  日々″新しく生きる″人が青年
 日淳上人は、昭和二十九年(一九五四年)の新年にあたり、こう語られた。
 「私共は御本尊を信じ奉つて三百六十五日、新年の心持ちで暮したいものであります」(『日淳上人全集 上巻』。以下、引用は同じ)と。
 つまり、正月は一年のはじめであり、″物事のはじめ″に新たに立ち返る意義がある。正月を大切に考える人は、自己の本来に立ち返ることを喜ぶ人である、との言である。
 そして「法華経は久遠元初を説き明かされ無始の境に立ち返へることを教へてあるのであります。恐らく正月を大事に祝ふことは法華経より出たことと思はれます」「人間は常に久遠無始の境に住し、三世常住の自己に徹し、年々歳々自己の展開に精進をしなければなりません。その区切りをつけて更に新しく、より更に新しくと進取してゆくところが新年の意義であります」と述べられている。
 すなわち「三百六十五日、新年の心持ち」とは、一日一日、つねに御本尊から出発する、その人にとっては、いわば毎日、久遠元初の世界に立ち返っていることになる。毎日が久遠元初からの出発であり、そこから一生成仏へと、自己の人生を無辺に開いていくことができる。この、いわば″毎日が久遠元初″との清新なる確信と決意を教えておられるのである。
 ここに「本因妙の仏法」の実践のうえの精髄もある。また立ち止まることなく、永遠に向上しゆく″生涯青年″の生き方の根本もある。
 最後に、この一年、皆さま方がますますご健康であり、ご多幸であり、勝利の一年でありますことをお祈りして、本年最初の幹部会のスピーチを終わらせていただく。
 (創価文化会館)

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