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日蓮大聖人・池田大作

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神奈川県青年、学生代表者会議 若き諸君よ永遠の勝者に

1990.1.15 スピーチ(1989.8〜)(池田大作全集第73巻)

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2  本日の「聖教新聞」(十五日付)にも紹介されていたが、四国の求道の友がこの横浜を訪れ、歴史的な交流幹部会が行われて、ちょうど十年を迎えた。
 その日、昭和五十五年(一九八〇年)一月十四日。四国の四県から千人のメンバーが「さんふらわあ7号」で、この神奈川文化会館をめざして横浜に入港。私も桟橋まで行き、愛する同志を出迎えた。そのときの、船から下り立った凛々しい青年の姿が、今も胸に焼きついて離れない。
 また、交流を終えて四国への帰途につく船上の友を、この会館の窓から歓送のライトを振りながら見守り続けたことも、ついきのうのことのように、鮮やかに蘇ってくる――。
 その後、五月十七日には徳島から、同じく二十日には愛媛から、合わせて二千人の友が神奈川ヘ交流にみえた。
3  求道の人の心は強い
 あれから十年。人生の歳月は早い。あのときの青年たちが、今、どれほど成長し、四国の天地でぞんぶんの活躍をしているかを思い描くとき、私は心からうれしく、また頼もしく感じられてならない。
 「求道の人」の心は明るい。「求道の人」の心は強い。そして「求道の心」の人は尊い。
 「求道の青年」は伸びる。あらゆる障害をも乗り越える力を培いながら、人生に勝ちゆくことができる。
 この方程式は、一国においても、会社や家庭においても同じであろう。いかなる事業の完成をめざす場合にも、またそれぞれの人生においても、一つの目標に向かって青年らしく″雄々しい心″で進むことの大切さを銘記していきたいものである。
4  本日は、港町・横浜にちなみ、「海」「船」にちなんだ話をいくつか紹介したい。(拍手)
 ここ神奈川文化会館から間近に見える山下公園の「氷川丸」(一二、○○○トン)は、テレビや写真などでも有名な″横浜の顔″の一つである。
 この船は一九三〇年(昭和五年)、横浜の地で誕生した。わが学会の創立と同じ年である。初の航海は横浜・神戸間を往復した後、横浜からアメリカのシアトルまでの旅であった。
 私が第三代会長に就任したのは一九六〇年(昭和三十五年)であったが、氷川丸はちょうどこの年に最後の航海を終えた。この二十年間に、太平洋を三百三十八回横断し、二万五千人の船客を運んでいる。
 日本とアメリカを結ぶシアトル航路の客船として活躍し、戦前には、笑いと涙で世界の人々を魅了した喜劇王チャップリンも乗船したことがある。また戦時中は病院船として、戦後しばらくは復員船として働いた。その後はもとの航路に復帰し、アメリカヘ留学する多くの青年も乗せている。
 こうして就航がら六十年を数える水川丸は、いくども嵐の海を越えきたった風格をたたえつつ、今なお市民に親しまれている。私自身も、この船が多くの価値ある仕事をなし、年輪をきざんできたことに、深い感慨をいだく一人である。
 地元の諸君にとっては、あまりに身近な船であるために、かえってその歴史を知る機会が少ない場合もあろう。そこで、学会創立六十周年の意義にちなんで、学会と″同い年″である氷川丸を紹介させていただいた。
5  現代は「情報」が氾濫しているゆえに、一つのことを深く掘り下げて理解しようとするよりも、多くのものを、浅く、感覚的に、頭の片隅にとらえておくだけですませる傾向がある。しかし、これからは「知力の時代」である。深く正確な「知識」がなければ「知恵」を発揮することもできない。
 広宣流布を進めていくうえにおいても、たんに「この信心はすばらしい」と言うのみでは、幅広く仏法への理解を広げゆくことは、とうていできない。あらゆる角度から語りに語り、多彩に表現してこそ、より多くの人々を納得させられる時代である。ゆえに諸君は、みずみずしい向上心をもって「知識」を探究しゆく努力を忘れないでいただきたい。
6  ジェリコーの名画「メデューズ号のいかだ
 さて、十九世紀のフランス・ロマン主義の画家にジェリコーがいる。その代表作は、あのあまりにも有名な「メデューズ号の筏」である。
 それは、パリ・ルーブル美術館の「十九世紀フランス絵画」の部屋に飾られている。縦四九一センチ、横七一六センチという大作である。かつて、私もルーブル美術館を訪ねた折に、この作品に強く感銘した思い出がある。
 この絵は、実際に起きた海難事故を題材としている。事件が起きたのは、制作に取りかかる二年前の一八一六年。西アフリカのセネガルをめざすフランスの軍用船メデューズ号が、沈没したのである。
 この船は、四十四門の大砲と三本のマストを備えたフリゲート艦(軍用の快速帆船)であった。
 イギリスから返還された植民地セネガルの再経営のために、他の三隻とともに西アフリカ沿岸を南下していた。
 七月二日、セネガルの北方アルグィンの浅瀬を航行中に座礁――。ここは、古代から海の難所として知られた所であった。
 五日、艦を放棄し、脱出用につくられていた筏による漂流が始まる。
 十七日、筏に乗った一人が水平線上に、僚艦アルギュス号を発見。必死に助けを呼ぶ、この瞬間をジェリコーは、描いた。
 当初、筏には、百五十人ほどの船員が乗っていた。しかし、飢餓や精神錯乱で次々と倒れ、救助されたのは、たった十五人である。発見された時、筏の上には血まみれの人肉が干されるなど、凄惨を極めていたという。助け出された十五人も、二日後には五人が息をひきとった。ジエリコーは、こうした絶望と、僚艦を発見した希望との対比を、見事な構図の中に描きだしている。
7  当然、この事件は、フランス中でたいへんな物議をかもした。この大惨事の原因は何か。どのような事情が背景にあったのか。
 沈没の原因は、だれの目にも明らかであった。司令官ショマレーがあまりに無能だったのである。それは、スペイン沖を南下するころから、さまざまな面で現れ、船員たちは彼に反発し、皆の心は早くもバラバラになっていた。
 何より決定的なのは、ヌアジブー岬を通過して、しばらくそのまま進んでから方向を変えなければならないのに、岬のあたりから大陸に近づいてしまった――ここに座礁した直接の原因がある。
 ショマレーは、長い亡命生活の間、海から遠ざかっていた。この時、海軍中佐に再登録されたばかりでもあった。しかも脱出にさいして、彼はセネガルの総督らといち早く大型ボートに乗り込み、船員より自己の安全を優先した。
 無能にして無慈悲な指揮者と、部下たちの心の離反。大惨事は、起こるべくして起こったといってよい。
 国家であれ、会社であれ、一家であれ、指導者が無能であれば、その団体は結局、敗北し滅びていく。それは、広宣流布の運動も例外ではない。
 ゆえに指導者は、同志を思いやる心の深さは当然として、知性と知恵を徹底して磨かなければならない。リーダーとしての強靭な頭脳と精神力がなければ、舵をとる″広布の船″をも難破させてしまうからだ。
8  パリでの最大の論点は「士官の任命」にあった。
 ちょうど、時は、ナポレオン没落後の王政復古の時代。王党派の一部は、高級士官には貴族を優先的に採用することを要求し、いわゆるコネや家柄で任官するケースが少なくなかった。
 自由主義的な考えの持ち主たちは、当然のごとく、能力主義による採用を主張した。しかし、革命時代の不遇を取りもどそうとする王侯・貴族らの反動の力も大きかった――。
 いかなる人を指導者に選ぶべきか。いかなる人を真のリーダーと呼ぶべきか。ここに、社会であれ団体であれ、その未来を決定する最大のポイントがある。
 決して、名声や家柄だけで判断してはならない。現実に、力はあるのかどうか。一個の人間としての輝きがあるのか否か。ここに、判断の基準がなければならない。
 いい意味の実力主義、能力主義こそ、民主の時代の基本である。
9  ジエリコーは、この作品の制作に全魂をかたむけた。長年、追い求めてきた主題をやっと見いだしたとの直感もあったろう。それに加え、何とかしてこの惨劇を、後世の人々に残したいとの思いがあったのではないか。
 込み上げる熱情を、詩文につづる人がいる。音楽にうたいあげる人もいる。ジェリコーは絵画に一切を託し、描き尽くさんとした。
 そのために、まずは事件について、さまざまな角度から研究した。生存者を訪ねては、詳細に話を聞く。筏を作った船大工まで探しだし、模型を作らせる。病院の近くに仕事場を設け、死体や重病人の観察を続ける。
 彼は、アトリエにこもると、ほとんど人にも会わず、制作に没頭した。いろいろな場面を想定したデッサンは数限りなく、さらに万全を期し、油彩でも丹念な習作を描いた。
 そして完成した超大作。まさに全精力を注いだ作品は、公表されるや、大きな反響を巻き起こし、ロマン主義絵画の本格的な幕開けを告げるものとなる。
 しかし、ジェリコーは、この五年後、画家として青春を燃焼し、この世を去る。三十二歳の若さであった。
10  ※メデューズ号の遭難ならびにジェリコーについては、朝日新聞日曜版『世界名画の旅2』、ケネス・クラーク『ロマン主義の反逆』(高階秀爾訳、小学館)、阿部良雄「狂気と表象」(季刊『みづゑ』九四四号所収)を参照。
11  『同志の人々』に描かれた人間の心
 作家・山本有三の代表作の一つに戯曲『同志の人々』がある。これについては、かつて有三の出身地・栃本で少しふれたこともある(昭和六十一年九月十五日、第一回栃木県支部長会)。作者が三十五歳の時(大正十二年)、雑誌『改造』に発表された作品である。
 物語の舞台は幕末の文久二年(一八六二年)、京都から薩摩(鹿児島県)へと向かう一艘の船の中の出来事である。
 船には八人の薩摩藩士が幽閉されていた。寺田屋事件全示都伏見の寺田屋で薩摩藩士の急進派らが藩に鎮圧された事件)に加わり、捕らえられて、国元へ護送されていく武士たちである。
 波は高い。船は揺れる。船とともに彼らの心も揺れていた。
 これから先、どうなるのか。本当に国へ帰れるのか。途中で処刑されるのではないか。今までやってきたことも無意味だったのではないか。
 状況がこう悪くなると、ことさらに不安をかきたてる人間も出てくる。「死」の影におびえながら、彼らは疑心暗鬼に、しだいにとらわれていった。
 八日目のこと。局面が変わった。船底に同乗していた公家の臣下二人を殺害すれば、藩士らは軽い刑で許されるというのである。その二人、田中河内介、磋磨介父子は、藩士とともに維新回天を誓い合った同志であった。
 しかし藩としては、幕府の手前、彼らをかくまうことは勤王派の疑いを持たれることになる。大っぴらに処刑するのも京都(公家)に聞こえが悪い。闇に葬ってしまえとの命であった。
12  八人は動揺した。同志を殺すなど、できるはずがない! しかし、彼らがやらなくとも、いずれにせよ父子は助からないのだ。しかも、この命令を断れば、それこそ八人は重罪に処せられるであろう。そのうえ、役人の手による父子殺害の罪まで、彼らに押しつけられてしまうにちがいない。
 同志を裏切ることは悪い。しかし、今それをやらねば、永遠に再挙も不可能になる。大義のためには心を鬼にすべきではないか。ここで節を貫いても、皆、むなしく死んでいくばかりである。それでは維新の大業は成せないではないか。
 ――自己正当化の論理はいくらでもあった。議論は父子殺害にかたむいていった。人間の″心の移ろい″を、作者は鮮やかに描いている。
 そして、ついに実行へ。信ずる同志に裏切られた田中父子の衝撃は大きかった。
 こんなところで、こんな形で死ぬわけにはいかない。息子の磋磨介は言う。
 「不正なものを倒して、新しい世の中にしたいと思えばこそ、今のいのちが惜しまれるのだ。回天の事業が成就しないうちは、それがしには、どうしても目をつむることはできない」(『山本有三全集 第二巻』所収、新潮社)
 しかし、ついに刃に倒れる。そして殺されたわが子を前に、父の河内介は、もはやこれまでと、従容として切腹する。無念の思いはいうまでもない。
 そのなかでも彼は、革命の成功を願いつつ、自分の死が偉業に生かされることを信じ、そのことを″同志″に託して、動じない。生死を超えた荘厳なる姿であった。
 同志を裏切った藩士らとくらべ、あまりにも鮮烈なコントラスト(対照)を示している。
13  たしかに、これは極限状況下のドラマである。しかし、それだけに志を持った人間の「生き方」と「信念」という課題に、鋭い示唆を投げかけていよう。
 このドラマで、いったい、だれが「勝者」であったのか。
 何はともあれ生き延びた藩士たちか。田中父子は、殺されてしまった以上、やはり敗北者といわざるをえないのか。
 「違う」と私は思う。最後の最後まで革命の理想を信じ、その成就を叫びきって殉じた父子こそ、人間としての真実の「勝者」である。反対に、いかなる理屈をつけようとも、ひとたび誓い合った同志を裏切った藩士らこそ、みずからの生命を滅ぼした「敗者」なのだ、と。(拍手)
14  理想を貫いてこそ「生命の勝者」
 口で革命を叫ぶことはたやすい。時代の″勢い″がある場合は、なおさらである。
 幕末の動乱の世――。社会変革を志した若者は、時代の変化また変化を鋭くキャッチし、大いなる理想の実現に熱い血を燃やした。
 その青年の、はやり立つような思いは、友から友へ、国から国へと伝えられ、″時代の熱気″として高まり、脈打っていった。そこには若々しい正義感もあった。″熱病″のような伝染の力もあった。華々しい活躍を夢みる功名心もあったにちがいない。
 こうした時の勢いに乗じて、走り始めることは、ある意味でたやすい。学会でいえば、できあがった組織の上に安住しながら、威勢のよいことを回走っているだけの姿といえるかもしれない。
 しかし、時代を画する革新の動きには、必ずや″反動″がある。これは現在もまた、すべての戦いのなかに起こる、いわば″法則″である。苛烈な迫害と弾圧、中傷と策謀等となって、激しく、また陰険に襲いかかってくる。
 反動こそ、本物の革命家の証明である。本物であり、現実的な力があるからこそ、大きな迫害となって現れる。ゆえに、反動勢力に叩かれている人、その人にこそ注目し、信頼を寄せていくのが、道理を知る者の″眼″である。
 そして、この″反動″があった時こそ、その信念の深さ、一個の人間としての真価が問われる時なのである。この劇では、まさに、その反動の渦中にある人間の姿が描かれている。
15  藩士ら八人は、うかつにも、巧妙な″甘い言葉″に心を動かし、同志を裏切ってしまった。船に閉じ込められ、自分の命が危ういとなったら、すぐにこうである。あまりにも情けない。
 同志の流した血で命をながらえても、彼らはみずからの手で、理想を汚し、自身を汚した事実からは、永遠に逃れることはできない。
 同志を裏切ったこと。それは自分の良心を裏切ったことであった。同志を売ったこと。それは自分の人生を悪に売り渡したことであった。同志の首を切ったこと。それは自分の首を切ったようなものであった。
 その後の彼らの行く末はわからない。しかし″保身″を″同志″よりも優先させた彼らに、より以上の権力の魔手と戦いきる勇気があったかどうか。
 広布の前進のなかにも、目先の利害に惑わされ、そのくせ自己正当化を図りながら、同志を誹謗し、悪の勢力のほうに逃げていった人間もいた。さらに自己の安逸のみを求めて、状況の変化とともに、猫の目のようにくるくると変わりながら、流されていった人もいる。
 本人は利口な生き方と思っているかもしれない。また、それなりの理由をあげるかもしれない。しかし、いかに弁解しようとも、寝返りの事実は消えない。「永遠に同志とともに」と誓った、自分の前言を翻した姿は、万人が見ている。三世十方の仏・菩薩が見ている。何より自分自身が忘れることはできない。
 あまりにも卑劣な、また愚かな、かわいそうな人生である。いわんや、そうした人間に紛動されることなど、愚のなかの愚である。
16  一方、志なかばで、しかも信頼していた同志に裏切られ、死んでいった田中父子は、死んでも死にきれない思いであったろう。だが、彼らの理想の「魂」は最後まで死ななかった。燃え続けた。最期の瞬間まで革命の前進を信じた。彼らこそ、勝者であった。真の「生命」を得た者であった。
 裏切った者が敗者、裏切られた者が勝利者――ここに、人生の表面的な流転の劇を超えた「生命の真実」「人間の真実」がある。まして「広宣流布」という人類の最極の理想に殉じた人は、三世に輝く「永遠の勝利者」である。(拍手)
 ともあれ、大事を成すには、不抜の「信念」がなければならない。そして信念は何より、行動のなかで育まれ、行動のなかで試される。信念は、青春時代に鍛えられ、一生というドラマの最終章で決まる。信念こそが、人間の証である。
 諸君は、志を同じくする「永遠の同志」として、一生涯、誇らかに、うるわしく、すがすがしく、誉れある「同志の心」を貫いていただきたい。そして、時とともに歴史に薫りゆく、永遠の「生命の勝者」の自身をつくりあげていただきたい。(拍手)
17  仏法は「幸福の実像」築く大法
 日蓮大聖人は、法華経法師品にある「是法華経蔵 深固幽遠 無人能到(是の法華経の蔵は深固幽遠にして、人の能く到る無し)」(開結三九三㌻)との文について、「御義口伝」で次のように説かれている。
 「是法華経蔵とは題目なり深固とは本門なり幽遠とは迹門なり無人能到とは謗法なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無人能到の者に非ざるなり
 ――「是の法華経の蔵」とは、南無妙法蓮華経のことである。「深固」とは、本門であり、幽遠(奥深く遠い)とは迹門である。「人の能く到る無し」とは、この深遠な仏法を理解できず、信ずることのできない謗法の者のことである。今、題目を唱え、仏道修行に励む日蓮ならびにその門下は「無人能到(人の能く到る無し)の者ではないのである――。
 ここで大聖人は、法華経すなわち妙法(南無妙法蓮華経の大法)が、いかに深遠な法であるかを示されている。
 法華経二十八品は、前半十四品を「迹門」、後半十四品を「本門」として大別できる。このうち「迹門」では、十界互具、百界千如、一念三千の理法を説き明かし、「本門」では、仏の生命の長遠であることを示して、永遠の生命を明かしている。
 「御義口伝」で大聖人は、「深固」とは、法華経の「本門」、「幽遠」とは「迹門」を指すとされている。つまり、「本門」で、妙法がいかに深固であるかを示し、「透門」で、妙法がいかに幽遠であるかを明かされているわけである。
 謗法の者は、この妙法の「深固幽遠」がわからず、信ずることができない。ゆえに「無人能到」と仰せなのである。
18  妙法こそ最高の生命の法であり、真の幸福への大法である。あまりにも深く、偉大な法であるがゆえに、それがわからない人からはさまざまに誤解され、また非難、迫害さえされるのである。
 尊極なる生命の因果も、大宇宙の根本法も知らない人たちの浅薄な言葉に紛動されて、唯一無二の幸福の大法である妙法の正しさを見きわめようともせず、信心を失ったりしてはならないと、私は強く申し上げておきたい。
 社会や人生には「幸福」と見える姿は多くある。しかし、永遠に崩れない実像の幸福は、仏法による以外にない。
 たとえば、議員や大臣となり、社会的に″偉く″なることが「幸福」であるかといえば、必ずしもそうではない。皆さまもご存じのように、近年、みずからが掘った墓穴に落ちゆく人のなんと多いことか。傲慢と権力のとりことなり、最後は敗北のわびしき姿で退いていった、あの哀れな姿よ。
 また、大統領のように一国の頂点に立つことに憧れる人もいる。しかし、栄華を誇った人生の最終章を、銃殺刑という悲劇で閉じた例もあった。
 社会的立場や評価というものは、じつに変転きわまりない。そうした目先の事象を追い求める生き方は迷走飛行のように不安定なものであり、いつまでも確固とした自分自身の幸福をつくりあげることはできない。
 人間にとって最高にして真実の「幸福」とは何か。永遠に崩れざる勝利とは何か。この課題に解答をあたえ、生命の次元から人生に対する深いとらえ方を明かしたのが、この仏法である。
19  ところで現在、フランス・パリ南郊のビエーブル市内に、文豪ヴイクトル・ユゴーの文学記念館の開設準備が着々と進められている。(=一九九一年6月にオープン)
 このユゴーが、シェークスピアをたたえて、次のように述べている。
 「夢の岬がシェイクスピヤにはある。偉大な詩人たちのなかにはかならず夢の岬がある」アンドレ・モロア『ヴィクトール・ユゴーの生涯』横山正三訳、新潮社)と。
 「夢の岬」とは、さまざまに解釈できるであろうが、ここではただ「現実から理想へ」「現在から永遠へ」「地球から宇宙へ」と延びた岬である、とだけ申し上げておきたい。
 「岬」は一方を陸地に、他方を海に結びつけている。いわば「夢の岬」とは、人生の現実に根ざしつつ、同時に未知なる「可能性の海」に思いを向けた、人間自身の生き方の象徴ともいえょう。
 ″きょうの生活″″きょうの仕事″といった「現実」にしっかりと足を踏まえつっ、心はつねに雄大な「理想」、はるかかなたの「未来」を見つめていく――。これこそ、若き諸君にとってもっとも大切な人生の姿勢である。その意味から、「夢の岬」というュゴーの言葉は多くの示唆に富んでいると思い、紹介させていただいた。(拍手)
20  朝の出発をすがすがしく
 そこで次に、社会へ雄飛する諸君の将来にとって「現実」の課題となる点を語っておきたい。
 それは第一に、会社勤め等にあって「遅刻はしてはならない」という点である。何回も話したことだが、かんたんなようでむずかしいことなので、あらためて申し上げておきたい。
 私は十年間、戸田先生のもとで働かせていただいたが、先生も出勤に対しては厳しかった。私自身も激務の日々にあって、二、三回、体調を崩して遅刻した以外は、休んだことはなかった。
 一日の生活は、朝が勝負である。遅刻をすれば負けである。毎朝、元気に出勤して「おはようございます!」と言う姿が大切である。まず人生、″朝に勝つ″ことが勝利の基である。
 その点、結婚している人にとっては、夫を送り出す夫人の姿勢が大事となる。御書には、「夫」を「矢」に、「妻」を「弓」に讐えられている。弓が弱ければ、矢が遠くへ飛ぶことはできないのが道理である。
 戸田先生は「朝寝坊は、人生の敗北である。そうさせるのは夫人が悪い」と厳しく指導されていた。
 また、「朝廷」(天子が政治をとる所)という言葉があるが、この語のもともとの意味も、″朝に仕事(政務)をする″ということからきたとされている。
 同志を裏切り、退転したり、われわれに迷惑をかけた連中のほとんどが朝の乱れ、生活の狂いから堕落していっている。勤行をしない、何かと理由をつけて朝出勤しない等々――不思議と共通した姿である。
 ともあれ、毎日をすがすがしくスタートし、日々に勝利し、楽しくも晴ればれと人生に勝利しゆく一人一人であっていただきたい。
21  さらに諸君は、職場・社会の「先輩」「同僚」「後輩」と、深い信頼のつながりを結ぶ努力も忘れてはならない。日常の交友や自分の振る舞いをとおして、周囲の人々から信頼され、慕われる存在になることが、社会で勝利しゆく大切な″処世術″である。
 御書に「みやづか仕官いを法華経とをぼしめせ」と教えられているように、社会生活の一切がすべて仏法に通じていくのであり、仏法への理解・共感を広げゆく要諦もここにある。
 終わりに、私は本日の集いを記念し、若き諸君の洋々たる前途を祝福する思いをこめて、次の和歌を詠んだ。
  
  若竹が
    天まで伸びゆく
      姿せる
   創価の君の
      栄光讃えむ
  
  昇りゆく
    旭日仰がむ
      君たちの
   世紀に輝く
      決意嬉しや
  
  幸せと
    使命に生きゆく
      同志かな
   創価の同窓の
      旅路楽しや
 この三首の和歌を諸君に贈り、本日のスピーチを終わりたい。
 (神奈川文化会館)

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