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日蓮大聖人・池田大作

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第十九回全国青年部幹部会 わが人生の最高峰を登りゆけ

1990.1.8 スピーチ(1989.8〜)(池田大作全集第73巻)

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2  昨年暮れ(十二月十三日)、私は著名な平和学者であるハワイ大学のグレン・ペイジ教授と再会し、懇談した。
 ベイジ教授は「非暴力社会」の実現を唱え、長年にわたり努力されてきた。その行動は、「正当なる目的を実現するための暴力は正当である」という従来の暴力肯定論と決鵬し、その転換をめざしたものであった。
 教授は、非暴力運動の目的について「人類に備わる暴力以外の能力の開拓」であるとし、そのために「非暴力地球社会センター」の設置を提唱している。そして「二十一世紀の市民一人一人が、まわ自分の周りに非暴力の世界を築く中心となるべきであり、日常生活を通じて非暴力社会の実現に向けて自己開発を心掛けるべきである」と呼びかけている。
 「非暴力」は、国家による巨大な暴力である戦争の否定から、個人の暴力行為の否定まで、あらゆるレベルを含んでいる。いずれの次元にせよ、その根本には「生命の尊厳」を断じて守りぬく強靭なる意志が不可欠である。ゆえに非暴力の運動は「人間」自身に焦点をあてていかざるをえない。
 教授が人間の「能力の開拓」「自己開発」を訴えているのも、人間をいかに変載しうるかに、運動の究極の成否がかかっているからであろう。
 私どもはこれまで、仏法という「絶対平和」と「生命尊厳」の法理にのっとり、「人間革命」という個人における生命の変革作業を軸として平和・文化運動を進めてきた。これこそ、人類がめざす理想社会の建設への正しき方途であると、教授のこうした指摘からも、私は確信している。
3  また、同じく昨年十二月には、国連本部の首脳の方々とも三度にわたり会談した。一度はラフューディン・アーメド、ヤン・モーテンソンの両事務次長と盆こ、もう一度は明石康事務次長と2十九日)であった。
 このときも、米ソ首脳会談に象徴される「東西冷戦の終結」と、国際社会の「新時代の到来」をめぐって意見を交換しあった。
 「冷戦」から「協調」へ、「対立」から「対話」へ、そして「独裁」から「民主」へという、新たな潮流のもとで、新しい世界秩序への模索が始まっている。今こそ人類の英知を結集して「戦争の世紀」にピリオド(終止符)を打ち、「平和の世紀」の幕を開いていくべきである、との点で意見の一致をみた。そして、「世界市民」の連帯の力で、国連を軸としながら新しい世界秩序の確立へ進んでいくべきであり、私ども「民衆」こそがその主体者であることを確認しあった。
 また時代の趨勢として、「平和」「軍縮」と同様に、「開発」と「教育」、「環境」と「人権」という問題が、ますます重要になってきている。
 これらについても私は、仏法者の当然の責務として、一つ一つ着実に行動してきたつもりである。たとえば、昨秋、私どもがニューヨークの国連本部で開催した「戦争と平和展」(=一九八九年十月二十三日から三十八日間、国連軍縮局、SGIなどの共催で開催した)に対しても、こうした人類の諸課題ヘの先見性と豊富な展示内容に、多くの称讃を頂戴している。また、世界各国からも賛同の声と巡回展への要請をいただいた。
 人類の幸福の実現という観点から、現在、国連が推進し、世界の知識人が訴えていることは、私どもが進めてきた「立正安国」の運動にすべて連動しているのである。
4  変化の時代に深き知性を
 かつて、トインビー博士との対談の折、″愛国心と人類愛″について語りあった。そのさい、博士は「これまで人類の居住地のうち、局地のみに、そしてその住民と政府のみに捧げられてきた政治的献身は、いまや全人類と全世界、いなむしろ全宇宙へと向けられなければなりません」(『二十一世紀への対話』、本全集第3巻に収録)と語っておられた。
 まったくそのとおりだと思う。博士との語らいは、すでに十数年前になるが、まさに、時代の方向性を鋭く見抜いた「良識」の言葉であった。この指摘のとおり、国境という″ワク″を取り除き、全人類、全宇宙を視座にした考え方へと、大きく変えていかなければ、解決できない問題がますます多くなっている。
 大聖人は、次のように教えられている。
 「賢人は安きに居て危きを歎き佞人ねいじんは危きに居て安きを歎く」――賢人は安全な所にいても危険に備え、よこしまで愚かな人は危険な状態にあっても、それを察知して対処しようとせず安穏を願う――と。
 いかに世界の未来を見とおし、「平和」で「安穏」な社会を築いていくか。それが「賢人」の発想である。また指導者には、つねにこの発想と責任感に立って民衆を守り、幸福に導いていくべき使命がある。
5  新しい世界秩序といっても、「人の心」は姓蚕と変わる。その変軽きわまりない人間の心を、明確にリードしゆく指導理念なくしては、一時の安定も時代の変化の波にのまれ、はかなく崩れ去ってしまうであろう。
 大聖人は「減劫御書」にこう記されている。
 「外経をもつて世をさまらざりしゆへに・やうやく仏経をわたして世間ををさめしかば世をだやかなりき、此れはひとへに仏教のかしこきによつて人民の心をくはしくかせるなり
 ――中国や日本では、外道の経書をもってしては世が治まらなくなったために、だんだんに仏教経典を渡して世間を治めたところ、世の中は穏やかになった。これはひとえに、仏教の優れた智慧によって人民の心をくわしく説き明かしているからである――と。
 この御抄では、人間の心に貪瞋癡(むさばり・いかり。おろか)の三毒が強盛になり、善心が弱くなることによって世の中が乱れることを教えられ、人の心を治めうる法が、時代の推移とともにどのように変遷してきたかを示されている。
 つまり、仏教渡来以前の中国や日本では、はじめ儒教や道教など仏教以外の教えで世が治まっていた。しかし人々の悪心が強まり、善心が衰えてくると、外道の教えでは手に負えなくなり、仏教が弘まるにつれて、ようやく世間が穏やかに、安定してきたことを述べられている。そしてそれは、仏法が「人間の心」を明快に説き明かした偉大な智慧の大法であるがゆえである、と仰せである。
 「人間」自身に光があてられていく時代の到来とともに、その「人間の心」を正しくリードしゆく「英知」の存在が、いちだんと強く求められていくといってよい。
 私どもは、「平和の世紀」「人間の時代」をリードしゆく根本の道が、この仏法にあることを、さらに世界の人々に示していきたい。
6  二十一世紀は青年の心の中に
 さて「未来の社会」「これからの地球」といっても、その実像はどこにあるのか――。それはすべて、未来を担いゆく若き君たちの胸中にある。仏法の「一念三千」「因果倶時」の法理では、そのようにとらえることができる。
 今、諸君の心にどのような未来が、どのような希望が描かれているのか――ここに、すべてがかかっているといってよい。
 その意味で、二十一世紀はもう始まっている。諸君の胸のなかで刻々と育まれ、胎動している。ゆえに私は、広宣流布の大いなる″明日″を開くために、全魂をこめ、諸君の胸中の″二十一世紀″に向かって語りかけたいのである。
 二十一世紀はどんな時代になるのか。それは、若き諸君自身が決めていく以外にない。″どうなるか″ではなく″どうするか″である。
 もちろん、国際化の時代になることは間違いない。したがって、これからの人は、今まで以上に語学を身につけておかねばならない。
 また、科学、知識が飛躍的に進歩する時代となろう。そこでは「知力」が不可欠の″武器″となる。それがなくては社会に負けてしまう。そして、その「知力」の源泉となる「智慧」を発揮させていくのが信心であることを忘れてはならない。
 さらに、二十一世紀は「人間主義」「生命主義」の時代にしていかねばならない。これはすでに三十年も前から話してきたことである。人格を磨き、深き哲学を持った″人間″指導者でなければ、人々から尊敬されないし、民衆をリードしていくことはできない。
 また総じて、激しい変化と競争の時代になるであろう。そして、その傾向が強くなればなるほど、心も体も頭脳も、タフでなければ生きぬいていけない。諸君にとって、それら一切の基本をつくる時が″今″なのである。
 とくに変化という点では、社会の流動化は、かつてないスピードで進んでいる。きのうの知識と戦術は、あすにはもう役に立たない。そのうえ、通信衛星網の発達、個人用コンピューター、ファクシミリの普及など、情報革命も急速に進んでいる。
 こうした時に、確固とした「自分」を確立していかなければ、やがて時流に翻弄され、敗北の人生になりかねない。ゆえに私どもは、題目を唱えながら、つねに新しい「知」の世界を発見し、拡大し、時代を先取りして勝っていく以外にない。
 現在のように″スピーチ″という形で、さまざまな角度から話をさせていただくようになってから四年になる。これも時代の流れを見とおしたうえで、新たな″民衆の時代″創出への先手として、皆さま方の「知」の啓発の一助にでもなればと思い、始めたものである。
7  大理想に生きゆく青春たれ
 本日は「青年世紀の年」第三年の出発である。
 この二年間、私は一日の休みもなく、青年とともに語り、学んできた。青年とともに動き、走った。また、四十年以上信心してきて、これまで一日たりとも立ち止まったことはない。
 御書に「今生人界の思出」と仰せのごとく、深き広宣の歴史を懸命につづってきたつもりである。ゆえに私には、一点の悔いもない。
 先日(十二月七日)お会いしたコロンビアのバルコ大統領は″青年と婦人を前面に″との心情を語っておられた。わが学会も「青年世紀の年」の年輪とともに、いよいよ若々しく、勢いを増していくにちがいない。
 「第三代は青年とともに」――これは戸田先生の遺言である。すなわち″第三代が陸続と青年を育成し、柔軟に若さをリードしていければ、学会の未来は盤石である″との、深い洞察と確信の言葉であった。そして先生は、さまざまに「三代論」を語ってくださった。
8  それは昭和二十八年(一九五三年)四月二十八日、「立宗宣言」から七百一年目の佳き日であった。大石寺では、「五重塔修復記念大法要」が奉修された。建立以来二百年ぶりとなる、この五重塔の修復も、戸田先生の大白法守護の一念の結実であった。
 この四月二十八日の夜、南条時光ゆかりの妙蓮寺で、男子部八百人による戸田先生を囲む会を開催。戸田先生のもとで、『三国志』をめぐって、人物論、将軍学を学びあった。
 そこでは、「魏」「呉」「蜀」の三国による「天下三分」の地図を、壁に張って、さまざまに意見を交わした。そのとき、戸田先生が「奇しくも、日本の国情が、今や三国志に相似てきたといわざるをえない」と。
 そして先生は、「蜀」の孔明が、覇道ではなく王道をもって民を守らんとした理想に、深い共感を示されつつ、次のように言われていた。
 「人間は、権力や金のために汲々とするか、信念のために死ぬか、どちらかである。大理想に生きて、そのもとにわれ死なん、というすがすがしい気持ちで諸君は行け」と。
 権力のために、名聞名利やお金のために、生きようとする人がいる。とくに最近は、そのような風潮が目立つ。もし青年まで、その風潮に染まってしまうとすれば、これほどはかないことはない。
 若き諸君は、決してそうであってはならない。大理想の実現のために、情熱を燃やして生きぬいていただきたい。永遠なる大法のために、みずから決めた信念の道を堂々と生きてほしい。それが″青年の命″であると、私は信ずるからである。
9  ところで、三国のうち「呉」の孫権は、父と兄の後を継ぎ、十九歳の若さで第三代として立った。雲のごとく輩出した多くの人材を率いて、半世紀にわたる「呉」の繁栄を築いたのである。
 この孫権について、戸田先生は、こう話された。
 「孫権は三代でありながら、二代のもつ良き補佐を備え、しかも三代の福運をもっていた」、さらに「大事業は、初代と三代が大事である。初代の時、そのもとに英才がいると、その人たちが二代を守る。しかし、三代になるとその英才も老いて、硬く、保守的になる。この人たちには、もはや『若さ』を指導しうる力がない。したがって三代の場合、その『若さ』を補給し、指導できる力のある人物でなければならない」と。
 また、先生は、徳川三百年の存続も、三代家光によるところが大きかったとされつつ、次のように言われていた。
 「私は二代だから硬くなってもよい。三代が大切である。三代で、社会へ、文化へ、大きな布陣をしくのだ」
 私の入信は十九歳。そのとき戸田先生にお会いして以来、先生の後を継ぎ、第三代として立つことが宿命づけられていたのかもしれない。
 そして、戸田先生の構想どおりに、また指針のままに、活動を進めてきた。仏法を基調とした平和、文化、教育の運動を、社会へ、世界へと展開してきたのは、諸君もよくご存じのとおりである。
 大聖人の御遺命はもとより、戸田先生の指導の路線を歩んできたがゆえに、今日の学会の未曾有の発展があったと、私は断言しておきたい。(拍手)
10  戸田先生の焦点は、つねに未来にあり、青年にあった。「現当二世」こそ仏法のいき方である。
 過去にいくら思いを馳せても、希望の未来を開くことはできない。「青年」の熱と力こそ、新しき世紀を創る源泉であり、みずみずしい青年の心に、学会精神は脈動している。
 ちなみに、きたる三月には、ブラジルの地で第十回の世界青年平和文化祭が開催される。そこには約一万人の青年が出演することになっているが、そのほとんどが二十五歳以下である。
 二十五歳といえば、十一年後の二十一世紀には三十六歳である。つまり、二十一世紀のブラジル広布の中核となる世代に、照準をあててのことであるという。
 まさに世界広布を担う青年の人材群は陸続と続いている。このすばらしき青年群像の潮流があるかぎり、正法の栄えは永遠であると、私は喜びにたえない。(拍手)
11  君よ広宣流布のいただきをめざせ
 だれしも、「幸福」を願わない人はいない。しかし、現実社会のなかで人々が追い求めているものは、「虚像の幸福」である場合が、なんと多いことか。名誉や地位、財産というものは、やがて消えゆく、はかない虚ろの栄えなのである。
 仏法がわれわれに指し示すものは、こうした「虚像の幸福」ではない。永遠にわたり崩れない、わが生命の「実像の幸福」の確立にある。
 ゆえに若き諸君は、御書に仰せどおりの、勇敢なる、また悠々たる「信心即生活」の実践の勇者であっていただきたい。
 さて、一八七八年(明治十一年)のことである。一人のイギリス人女性が客船で日本を訪れた。横浜へ向かう船上で、ある時、甲板が急に騒がしくなった。
 口々に「富士が見える!」と言う。
 彼女も富士の名は聞いていた。甲板に出て探してみる。ところが見えない。懸命に探した。しかし、どこにも姿はない。いったい富士はどこにあるのか――。
 ふと、上空を見上げた。すると、思いもよらぬ遠方の空高く、巨大な円錐形の山が見えるではないか。たしかに、白雪をいただく富士が、うっすらと青空の中に浮かんでいた。(イサベラ・L・バード『日本奥地紀行』高梨健吉訳、平凡社、参照)
 彼女は、海岸線の近くだけでなく、″もっと上を″見なければならなかったのだ。
 海上から望む富士――来日する外国人の間では、当時から有名であった。だが、その後も、彼女と同じく、横浜に近づいても富士の姿を見つけられない人が多かったようである。そんな時、船員たちは言った。
 「もっと上を―」
 「もっと上をご覧なさい―」
 ――富士のずばぬけた″高さ″を物語るエピソードである。とともに、何事であれ、また人物についても、″高み″にある存在を視野に入れ、見失わないためには、自分で考える以上に「もっと上を」見続けなければならない、との道理を示唆してはいまいか。
12  たとえて言うなら、私どもは、コ一十一世紀の広布の山」へと登攀しゆく登山者であり、岳人である。
 いかなる高山があろうと、広宣流布という″高み″以上の高峰はない。宇宙を貫く大法則を全世界へと弘めゆく大遠征の頂上であり、永遠の幸福という頂であるからだ。その″高み″へと進んでいくためには、下ばかり向いていては、目標を見失ってしまう。流行歌に「上を向いて歩こう」という歌もあったが(笑い)、ともあれ、しっかりと目的地を見定め、進んでいくことが大切である。
 二十一世紀まで、あと十一年。それはちょうど、私が戸田先生とお会いし、お別れするまでの期間である。
 その十一年――実質十年であったが、私は、戸田先生のもとで、一切を学びに学んだ。労苦に徹した。未来のために力を磨き、たくわえた。毎日が真剣勝負であり、戸田先生の薫陶に、一日の休みもなかった。
 先生も、それは真剣であられた。あたかも″広布の未来がこの訓練で決まる″と信じておられたかのようでもあった。
 次は、諸君の番である。「二十一世紀の広布の山」を登頂することが諸君の使命であり、誓いであるならば、いよいよ本格的な出発の時である。そのスタートにあたり、「君たちよ、小さな自己を乗り越えよ!」、そして「もっと上をめざせ!」「広布の山頂を見つめ進め!」「高き人間完成の頂へ登れ!」と、私は訴えておきたいのである。
13  私どもは、広布の岳人である。そこに、私どもの何より大切な原点がある。
 原点なき人生は″さすらいの旅″のようなものである。それは、ただ漂うだけの無価値な生涯となるであろう。
 しかし、たとえ原点を持っていたとしても、その次元はいろいろである。人間、どこに汝自身の原点を置くか。それで、一生の価値が決まるといってよい。ある人は「学者である」ことが原点である。ある人は「議員である」ことを原点とする。
 下野国(=現在の栃木県)・足尾の鉱毒事件で政府と戦った義人・田中正造。公害問題に身を挺して戦った先駆者として、近年、新たに注目を集めている。
 彼は国会議員であったにもかかわらず、つねづね話していた。
 「予(=私)は下野の百姓なり」と。
 ここに、彼の魂の置きどころがあった。この原点にハラを据えていたからこそ、あの壮絶な奮闘を貫き、いかなる弾圧にも誘惑にも、彼は負けなかった。
 私の人生の原点は「戸田先生の弟子である」という一点にある。これが私の一切の出発点であり、帰着点である。この揺るがぬ原点を持つからこそ、私は何も恐れないし、動ずることもない。迷いもなければ傲りもない。
 どうか諸君も、汝自身の魂の原点を確固たるものにしていただきたい。そこに、人生の高山を堂々と登りゆく要諦があるからだ。(拍手)
14  山に登ることは″高みへの情熱″の表れ
 山は、太古以来、つねに在った。しかし、「山を登ろう」という人間は、長い間、現れなかった。西洋において、山は恐怖の対象であり、だれもあえて挑もうとは考えなかったのである。
 その慣習を破って、ルネサンス期、アルプスの一峰に初めて登った男がいる。詩人ペトラルカである。一三三六年四月二十六日、彼は南フランスのヴァントゥー山に登った。
 本格的な登山が始まるのは十八世紀になるが、ペトラルカは今も″山の先駆者″として記録されている。
 詩人が初めて山に登った――ここに深い意味がある。
 詩人とは、つねに「もっと高く!」と、生命の高揚を求めてやまぬ人間のことである。山を登ることは、詩人の、いわば″高みへの情熱″の表れである。登山は″自分を登る″ことであり、″自身を引き上げる″ことであった。
 ちなみに、登山の発展は、近代の発展と歩みを同じくしている。
15  たんに″生きている″だけなら、わざわざ苦しい山登りなどする必要はない。登山は、あえて「困難に挑もう」とする文明人の行為であり、「不可能を征服すること」(フランスの登山家ヤニック・セニュール)である。いわゆる原始人は、「狩り」はしても「登山」はしない。言い換えるなら、登山は、自己の可能性を探る冒険といってもよい。
 宗教もまた、たんに″生存している″だけなら必要ないかもしれない。しかし「よりよく生きよう!」「より高い境涯に登ろう!」とした時、正しい宗教が必要となる。登山が文明人の行為であるごとく、宗教も文化人、文明人の証なのである。(拍手)
 アルプスの、ある名ガイドは書いている。
 「まず何よりも、私たちは生命が、真の生命が好きなのだ。そして、四〇〇〇メートルの空気には、特別の味わいがある」「真の人間は、自分に対して、きびしい者でなければならない。彼の心をしずめ、その運命に満足させるには、テレビジョンでは事足りない。意志があれば、道は通じる。彼は生存しているだけでは満足できない。彼は、自ら生きたいのだ。彼には、肉体と魂があるのだ。高嶺は、彼に、行動と瞑想を与えてくれるだろう」(ガストン・レビュフア『万年雪の王国』近藤等訳、平凡社)
 つまり、彼は言うのだ――真の生命を戦い取るために山に登る。私は、テレビを眺めるだけの″受動的な生″″生きながらの死″を拒否する。労苦の道を進んだほうが自身のためになる――と。
 この「困難への愛」に「真の人間」の証明がある。
 祀配に吹かれながら、ナイフのような鋭き山稜を進む。絶壁に足がかりをきざみ、一歩、一歩、さらに次の一歩と踏み出す――。山との格闘は、そのまま自分との格闘である。
16  ″不可能の征服″に青春の喜び
 「なぜ山に登るのか」と問われ、「そこに山があるから」と答えたとされるのは、イギリスの名登山家ジョージ・マロリーである。むろん、この言葉の意味はさまざまに解釈できよう。
 それはそれとして、この時、話題となっていた「山」とは、エベレスト(チョモランマ)であった。このことは、その言葉ほどには知られていない。その世界の最高峰に、彼は三度目の挑戦をするところであった。一九二四年のことである。それに先立ち、一九二一年、二二年と、彼は登頂に挑んでいた。
 つまり、本来、この問答は、「なぜ何度もエベレストをめざすのか」「そこに未踏の最高峰があるからだ」というやりとりに発するのである。
 彼が最高峰をめざしたのは、ある意味で当然である。最高峰を征する者こそ、登山家としての最高峰を意味するからだ。大山に登れば大山に、高峰に挑めばみずからも高峰になっていく。
 マロリーは、エベレストを初めて見た感激を、こうつづっている。
 「世界の巨峰の中の最高峰であるこの山は、未だ曾て人類の挑戦を受けず、唯我独尊のうちに厳然として、全ての山々を領有する支配者として、ただ単に壮厳な態度を示していれば良いと言うかのように見えた」(ロナルド・W・クラーク『大登山家の歴像』杉田博訳、現代旅行研究所)
 まさに、エベレストは、王者の風格であった――。
 マロリーは、この三回目の遠征で不帰の人となる。しかし、山の王者に挑みぬいた生涯に悔いはなかったにちがいない。
 何事であれ、深き決意なくして、後世に薫る偉業は達成できない。安直な心では、何事も最後まで成し遂げることはできないものだ。それは、古今東西に共通の真理である。広布と一生成仏への道も、また同じである。
17  エベレストは、北極、南極に次ぐ未踏地として「第二の極地」と呼ばれた。
 標高八八四八メートル(登頂当時は八八四〇メートルとされていた)。その頂点を極めることは、長い間、不可能と思われていた。人間がその高度で生きていられるかどうかについても、多くの学者は否定的であった。
 初の挑戦が実現したのは一九二一年。エベレストの″発見″から約七十年もたっていた。
 ――″発見″は一八五二年である。その時、インド測量庁長官の部屋に、インド人の測量技師が叫びながら飛び込んできた。
 「長官殿、私は今、世界で一番高い山を発見しました!」(同前)
 まことに劇的な光景である。もちろん当時、インドはイギリスの統治下にあった。
 長官は、この山の現地名を調べたが、わからない。そこで彼の尊敬する先輩であり、初代長官であったジョージ・エベレスト卿の功績をしのんで、その名をつけた(前掲書、参照)。自分の名でなかったところに、ゆかしさが感じられる。
 その後、チベット名を「チョモランマ」(中国ではヨモ・ルンマ、珠穆朗瑪峰と表記)ということがわかった。「大地の女神」等の意味とされる。またネパールでは、サガルマーター(「世界の頂上」等の意味)と呼んでいる。本来、現地名が原則であるが、すでにエベレストの名があまりに有名になっていたので、両方の名が今も使われている。本日は、便宜上、エベレストとして話を進めたい。
18  エベレスト初登頂をささえた庶民のドラマ
 エベレスト登頂の成功は一九五三年(昭和二十八年)。″発見″から約百年、最初のアタック(攻略)から三十二年の後である。
 成功したイギリス隊は、なんと九度目の遠征であった。成し遂げるまでは断じて負けない不屈の英国魂であろう。
 さて世界中の登山家の″夢″であったエベレスト。だれが初めて、その山頂に立ったのか? それは、イギリス隊のヒラリー(ニュージーランド人)と、現地人のシェルパであるテンジンであつた。
 人々は驚いた。「ヒラリーはともかく、荷かつぎ風情のテンジンが、この栄光を分かつとは!」――当時、シェルバヘの認識は低かった。
 高地民族であるシェルパ族は、ヨーロッパ人がヒマラヤ登山に訪れるようになると、山の案内や登山の手伝いに活躍するようになった。シェルバとは本来、彼らの部族名である。しかし彼らは、つねに冷遇された。彼らがいないと、現実には登山できないにもかかわらず――。
 実際に苦労している人、労働している人、その人をこそ大切にし、尊敬しなければならない。しかし社会の現実は、その反対であることがあまりにも多い。これまでの歴史もそうであった。
 その逆転のために、私は戦っている。また、そこに諸君の使命もある。(拍手)
 重い荷物は全部、シェルパたちが持つ。危険も同じである。むしろ彼らのほうが多かったかもしれない。にもかかわらず、登山家とは食事も衣服、寝所等も別。立派な装備も与えられなかった。
 しかも成功すれば、栄光はすべてヨーロッパ等の登山家のものになる。ある意味で、消耗品のような扱いであった。
 もちろん、友情の芽ばえもあったが、″利用するだけ利用する″という態度には、しだいに不満を持つ者も増えていった。
 このままではヒマラヤ登山も「民衆を犠牲にしたエリートのスポーツ」と言われてもしかたなかったと、厳しく見る人もいる。
 こうしたなかでも、多くのシェルパたちは勇敢に働いた。けなげであった。時にはみずからの命を捨ててまで、登山家を救った。彼らは絶大の信頼を得たが、その待遇は変わらなかった。
19  一九四七年、テンジンの前に、デンマンという、イギリス育ちの登山家が現れた。
 デンマンは言った。
 「君とエベレストに登りたい。ただし主人とポーター(荷運び)としてではなく、友人として」
 対等の″山の仲間″として一緒に登ろうというのである。テンジンは感動した。
 「行きましょう―」
 この時のチャレンジ(挑戦)は失敗に終わったが、テンジンは、デンマンの友情を生涯忘れなかった。
 六年後、彼がエベレストに登頂した時、かぶっていた帽子(毛糸製の防寒ヘルメット)はデンマンがくれたものであった。あるいは彼は、「友人」と一緒に登り、その喜びを二人で分かち合いたかったのかもしれない。
 「同志」の心が大切である。そのうるわしい心の交流から限りない力がわいてくる。異体同心が一切の勝利のカギなのである。
 広布の遠征にあっても、われらはみな平等である。志を同じくする友である。″山友″であり″岳友″である。
 口に異体同心を唱えながら、もっとも大切な仏子を下に見、そのけなげさ、真剣さをよいことに、利用するだけ利用し、社会的地位を得たり、自分は楽をしようというのでは、そこにはもはや信心のかけらもない。権力の魔性に敗れた姿である。
 私どもは永遠に、「異体同心」という広布と信心の要諦を忘れてはならない。また、仏子を利用しようとする悪を見破り、打ち破っていかねばならない。(拍手)
 しだいにテンジンは「エベレストにもっともくわしい男」になっていった。彼なしで登頂は不可能と言われた。彼は実力でこの評価を勝ちとったのである。
 一九五三年。イギリス隊、九度目の遠征である。この時は、背水の陣であった。
 これに失敗すれば、まず間違いなく他国に先んじられる。北極・南極点到達も他国に越されており、必死であった。エベレストは発見以来、縁の深い山でもある。またエリザベス女王の戴冠式に、「最高峰登頂」を贈り物にしたかった。
 イギリス隊は、再三再四、テンジンの参加を依頼した。テンジンは迷った。何より体力に自信がもてない。彼はもう三十九歳になっていた。大病から回復したばかりでもあった。
 しかし、熱心な懇願と期待に、彼はついに決めた。
 「エベレストで死のう。エベレストなしに自分の人生はないのだ」と。
 エベレスト登頂への夢――これが、いつしか、抜き去りがたい、彼の″原点″になっていたのである。魂の″原点″のままに生き、死んでいく。ある意味で、これほど幸福な人生もない。
 この第九次遠征隊でも、シェルパたちの待遇は悪かった。そのためにいざこざもあった。怒って引き返した者さえいた。しかし、今さら目標は変えられない。テンジンは彼らをなだめた。そして不満を抑えきれないと見るや″秘密″を打ち明けた。
 ――じつは山頂には、イギリス人だけが登るのではない。自分も登る。隊長は、登攀隊の一人に自分も入れているんだ。われわれの旗も頂上に立てられるのだ。
 シェルパたちは喜んだ。そして生き生きと働き始めた。彼らが不満を持ったままでは、成功はありえなかったかもしれない。その意味で、テンジンの登頂は、もはや不可欠の要件であった。
20  そして一九五三年五月二十九日、午前十一時半。ついに二人の男が「世界の頂点」に立った。その一人は、言うまでもなく″民衆の代表″テンジンであった。
 あえて言えば、エリートと庶民のそれぞれの代表が、あらゆる違いを乗り越え、手をたずさえて頂点を極めたのである。名画のような情景であった。
 「エベレスト、世紀の登頂!」――ニュースは全世界を駆けめぐった。
 この報がロンドンに届いたのは、エリザベス女王の戴冠式の直前であった。これ以上の祝福もなかったであろう。
 欧州の報道では、その多くがヒラリーのみを主役とし、テンジンは完全に傍役わきやくであった。眼中になかったのかもしれない。
 しかし実際は、テンジンの力なくして成功はありえなかった。そしてテンジンの存在こそが「世界最高峰」を極めるという″人類の快挙″を、真に意義づけた画竜点睛であった、と私は思う。それは″民衆の実力″を絶対に無視することのできない″新しい時代の夜明け″を象徴していたからである。
 広宣流布のエベレストもまた、その登頂の栄光をいだくのは、真に苦労した民衆自身でなければならない。また世界のすべての分野においても、同様である。この「民衆の時代」登頂のために諸君がいる。(拍手)
21  ″険しき山″が友情を育む
 ヒラリーとテンジンは、世間の思惑等とは関係なく、たがいに深い尊敬と友情で結ばれていた。極限の苦労をともにした″岳友″に、隔てはなかった。
 一九六四年に来日した際、テンジンは語った。「山には友情がある。山ほど人間と人間を結びつけるものはない」(安川茂雄『世界の屋根にいどんだ人々』さ・え・ら書房)と。
 下界のわずらわしさは、″世界の高み″では塵のようなものである。何より″境涯の高み″に心を据えれば、小さな利害や感情など、ものの数ではない。
 だから――とテンジンは提案する。
 「難問題は山で解決すればよろしい。(=ソ連の)フルシチョフも、(=アメリカの)ジョンソンも、そして(=インドの)ネールも、(=中国の)毛沢東も……」(同前)
 文字どおり、サミット(山頂)会議の提唱である。(笑い)
 実際に山に行くかどうかは別にして、指導者が小さな利害や立場を乗り越え、″心の高山″″境涯のエベレスト″に登って、広々とした気持ちで率直に対話することこそ、人類の悲願であるにちがいない。(拍手)
 私が、米ソ首脳会談をはじめ、人類の課題については、トップとトップが腹蔵なく語りあっていくことが先決であると主張してきた理由の一つも、ここにある。
 ともあれ、社会の変化のスピードは速い。問題は、その変化が、人間にどのような″生き方の変化″を要求しているのか。それを自覚することなく、百万言を費やして時代を語ろうとも、所詮は流転の波間に溺れゆく以外にない。
 日本も、また個人も、団体も、そうであってはならない。ゆえに今こそ、人間としての見識を高め、境涯を高めゆく時なのである。(拍手)
22  「人間主義」「生命主義」の時代。その主役は、若くして最高の哲学を持った諸君である。諸君以外にありえないことを確信していただきたい。
 そして「正法流布」こそ、万年永遠の山であり、民衆勝利への遠征である。
 「平和」と「文化」という、その高峰を極めゆくために、「諸君よ、『わが人生のエベレスト』『わが青春の最高峰』に勇んで挑戦せよ」と、私は念願しておきたい。(拍手)
 一日一日の山、一つ一つの課題を着実に越えながら――。
 最後に、若き諸君が、つねに日蓮大聖人の御書を深く深く拝読されることを望みたい。そして最高に有意義なこの一年を、全員が勝利で飾り、また創価学会の先駆となり、大原動力となって走りぬいていただきたい。
 この一年、職場を大切に、体を大切に、お父さん、お母さんを大切に、友人を大切にしながら、汝自身の尊き歴史に、いちだんとすばらしき光彩を添えていかれんことを祈って、新春のスピーチを終わりたい。
23  エベレスト登頂については主に以下の本を参照。
 『ヒマラヤの男――テンジンの生きてきた道』(N・テンジン述、J・R・アルマン記、井上勇訳、紀伊國屋書店)
 『テンジンによるエヴェレスト征服』(イヴ・マラルチック著、近藤等訳、新潮社)
 『世界の屋根にいどんだ人々〈さ・え・ら伝記ライブラリー5〉』(安川茂雄著、さ・え・ら書房)
 『わがエヴェレスト』(E・ヒラリー著、松方三郎・島田巽訳、『世界ノンフィクション全集 3』所収、筑摩書房)
 『エベレスト登頂』(ジョン・ハント著、朝日新聞社訳、『世界山岳全集 6』所収、朋文堂)
 『エヴェレストヘの長い道』(E・シプトン著、深田久弥訳、『世界教養全集 22』所収、平凡社)
 (創価文化会館)

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