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日蓮大聖人・池田大作

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練馬、豊島区代表者会議 全員が創立者、全員が開拓者

1989.12.28 スピーチ(1989.8〜)(池田大作全集第73巻)

前後
1  明年も明るく堂々の前進を
 年の瀬の忙しいなか、たいへんにご苦労さまです。まさに本年の悼尾を飾る練馬・豊島のはつらつとした集いを祝福申し上げたい。また、皆さま方の、この一年間のご活躍と労苦に対して、心から感謝したい。
 私自身のことになるが、この一年間に記した揮毫を、振り返り数えてみると、短冊は六百八十二枚、支部証は六百四十七枚にのぼった。御書や写真集『あの日あの時』等の書籍に、友への激励の言葉や歌を書き、贈らせていただいたものを合計すると、三千数百冊。このほかにも数多くの揮豪を記し、差し上げてきた。
 また本年の各種の会合でのスピーチは、本日で六十四回目となる。さらに各界の要人、識者との会見は九十三回。うち海外の方とは七十八回、国内の方とは十五回となっている。
 ともあれ、私はこの一年を悔いなく存分に戦いきることができた。明年もまた、一年を十年分にとの思いで、広宣流布のため、大切な会員の皆さまを守るために働きぬく決心である。(拍手)
2  青年部諸君の栄光の未来のために、本日も少々スピーチをさせていただきたい。(拍手)
 きょうは、創価大学ならびに創価女子短期大学、創価学園の卒業生の方々なども参加されている。また友舞会の友も出席されている。そこで、まず創価大学を立派に育てていきたい、また皆さんに育てていってほしいとの願いをこめて、お話ししたい。
 創価大学の発展ぶりはめざましい。先日もご紹介したとおり、タイ王国のチュラポーン王女が訪問(十二月十五日)されるなど、世界の多くの人が創大に厚い信頼と期待を寄せている。その他にも、ぜひ創大を訪れたいとの希望が、各国から次々に寄せられている。
 創大は、創立以来、わずか二十年足らずの歴史である。それだけの短期間に、人材輩出をはじめ、あらゆる面で、社会の人々が目を見はるような興隆を遂げた。多くの関係者に、心から御礼申し上げたい。(拍手)
 しかし、何事も決してかんたんにできあがるものではない。一つの大学、一つの組織が信用を得、栄えていくには、陰に並大抵でない労苦がある。この点、創大も、学会も、あまりにも隆々と発展しているゆえに、いつしか安易に考える傾向が出てくることを、私は心配する。
3  ″寄らば大樹″でなく、みずから″大樹″に
 中央大学といえば、恩師戸田先生が学ばれた大学である。
 私大として、東京大学に伍し、「法曹界の雄」である。その隆盛の陰で、中大をささえた一人に佐藤正之氏がおられる。
 氏のことは、戸田先生が創大の設立構想を話された時に聞いたことがある。
 佐藤氏のことは、フランス文学界の長老であった辰野隆氏も、随筆(『忘れ得ぬ人々』、『辰野隆随想全集1』所収、福武書店。以下、引用は同じ)で紹介しておられる。
 佐藤氏は中大を卒業後、同大の職員となり、やがて、要職である大学幹事として活躍した。明治三十六年(一九〇四年)から、ちょうど中大の創立二十周年の前後である(中大は明治十八年、英吉利イギリス私法律学校として、弁護士〈代言人〉ら十八人で創立)。
 ――母校は当時、財政難。佐藤幹事は並々ならぬ苦労をした。大学を立派にするには、三流の法律の先生たちを呼んでこなければ」と苦労して資金を工面。大学にお金がないとなると、自家の伝来の土地を売り始めた。生活の苦しい職員や、手伝いの若者をも、いたわって生活を助けた。その父母等が亡くなると、「葬式の金があるか」と心配して出してあげる。
 こうした面倒みのよい幹事にささえられて、中大は、法曹界に陸続と立派な卒業生を輩出、しだいに評価も安定し、栄えてきた。
 言うまでもなく、大学の評価は、卒業生によって決まる。先日も、ある経済界の方が、創大出身者が立派に活躍し信頼されている様子を語ってくださった。創立者として、卒業生の伸びゆく姿ほど、うれしいものはない。
 さて中央大学が優秀な人材を送り出す基盤ができた時、そのころには、佐藤氏は何もかも売り尽くして、一文なしになっていた。しかも氏は、自腹を切って、やりくりしていることを、最後まで一言も語らなかった。後になって少しずつ人々がわかってきたころには、亡くなっていた。
4  辰野氏は、氏をたたえて、よく中央大学生に語ったという。
 「きみたちの先輩には、こういう人が幹事として、大学の運勢に生涯を捧げた」「こういういい先輩は、官立大学、東大のような学校には、出ようとしても出ないんだ。立身出世も結構だけれども、こういう大先輩のいるということは、中央大学の無上の誇りだぞ」
 佐藤氏にとって、中央大学の栄光こそ「目的」であった。すべてを、そのためにささげた。
 苦労は自分に、手柄は人に――。本当に偉大だと思う。その反対の人ばかり多い社会である。このような信念の人こそ、学会にも多くほしいと私は願う。
 先人の、このような尊い苦労でできあがった大学の名声、信用である。それを利用し、自分だけ偉くなろうと思ったら、後輩として、人間として恥ずかしいではないか――。中大生への辰野氏の言も、こういう心であろう。
 「寄らば大樹」の人生なのか。みずから「大樹」を育てる人生なのか。
 他人の労苦の″結実″をあてにして生きる安逸の人生か。それとも、新たに大地を耕し、種をまき、育てゆく創造的人生か。
 もちろん、すべて個人の自由であるが、両者の誇りの高さ、充実の深さは比較にならない。
5  率先して第一線に立つ
 私は創価大学の出発にあたり、学生も含めて、「全員が創立者の心で」と期待した。
 いかなる団体にせよ、志を同じくする同志の集いは強い。この「同志の心」がみなぎっているかぎり、それが隆盛への熱きエネルギーとなる。
 反対に、無責任な″やとわれ根性″や、またできあがった結果に安住する、保身的な″権威主義″がはびこり始めれば、もはや滅びの坂である。そこでは、全体の発展が「目的」ではなく、自分の栄達、名利が「目的」となり、団体を「手段」にしているからである。それでは、獅子の身中に入り、その肉を食らって生きる虫の存在にほかならない。
 獅子である学会にも、断じて、こうした悪を許してはならない。戦わねばならない。悪と戦わない人は、自分自身が悪の病原菌に負けてしまう。信心が毒され、生命の″病″になってしまう。
6  古代の大帝国ローマ。その衰亡の原因については、古来、さまざまな議論がある。その一つに、「ローマは傭兵をもって滅ぶ」という指摘がある。
 「ローマの平和」(パックス・ロマーナ)が続くなかで、ローマの指導者層、貴族たちは、勇猛な戦士であった先祖の気迫を失い、飽食のうちに「太平の夢」を貪った。戦いはしだいに、異民族グルマン人らの傭兵、すなわち″やとわれ兵″にまかされた。軍隊は彼らのものになった。
 本来、ローマの精神とは、″自分たちの世界は、自分たちで守り、築く″「市民」は法の前に平等であり、各人がローマ全体の運命を自分の問題として考える″――こうした「自立」と、それを守る「勇気」を根本にしたものであった。
 しかし、帝国の末期、ローマ軍の本質は、もはや市民軍ではなく、それぞれの傭兵隊長の私兵となった。要するに、給料をもらうから働くという者の集まりである。文字どおり、″やとわれ根性″であった。
7  人間も外に打って出る気概がなくなり、動かなくなっては成長はない。第一、体に悪い。太るばかりである。(笑い)
 いかなる世界も、永遠の戦いである。人生も、社会も、そして宇宙も――。″仏法は勝負″との御本仏のお言葉は、いくら強調してもしすぎることはない。
 組織においても、「戦い」の気概こそが、活性化し、成長を続けていけるエネルギーなのである。
 その意味で、リーダーが自分で戦わず、軍隊に″やとわれ根性″が蔓延したローマは、そこから社会が弱体化し、内から崩れていくのは、むしろ必然だったといえよう。
8  率先して第一線に立つ――この精神をなくしたリーダーは、じつは、その姿自体が、無責任な″やとわれ根性″であった。
 「だれかがするだろう」「彼らが、うまくやるだろう」「たぶん、なんとかなるだろう」――人を使っているつもりで、じつは自分のほうが、だらけた、悪しき″サラリーマン根性″におちいっていた。責任感もなければ、独立心もない。
 楽なようでいて、その実、″貴族″とは名ばかり。状況に支配された″環境の奴隷″″欲望の奴隷″であった。
 栄光のローマは、やがて民族大移動という歴史の大波のなか、グルマン諸部族の侵入によって滅亡する(四七六年、西ローマ帝国滅亡)。しかし、外敵に破られる以前、ローマはすでに内から崩れ、破られていたのである。
9  創業の心の持続こそ発展の因
 「創業と守成といずれが難きか」(『十八史略』)――新たに事業をおこすことと、事業を維持、発展さ
 せることとはいずれがむずかしいか――。これは、唐(六一八年〜九〇七年)の大宗(李世民)が臣下に発した問いである。
 臣下の一人が「創業」と答え、他の一人が「守成」と応じたのに対し、太宗は「創業の難きは往きぬ。守成の難きはまさに諸公と之を慎まん」(同前)と。
 「大唐帝国」創業の基盤ができたあと、新たな建設の時代を前に、太宗は人心をひきじめたのである。
 もとより「創業」も「守成」も、どちらも容易なはずはない。「創業」も難事業だが、「守成」、発展し続けることのむずかしさは、いつしか「創業」の心を後継者が忘れていくところにある。
 唐が興隆から衰亡へ向かう分かれ目は、玄宗皇帝時代に始まった反乱劇「安史の乱」(安禄山と史思明の乱、七五五年〜七六三年)である。
 大小の乱はつねにあるものだが、興隆の時にはむしろ、それらさえ国を強くする方向に働く。これに対し、九年におよぶ「安史の乱」により、貴族社会の旧文化は崩壊への決定的な影響を受ける。その背景には、経済・社会的な矛盾もさることながら、唐の政治が草創の息吹を失っていた事実があった。すなわち、実力主義ではなく情実主義、明確な賞罰主義ではなく無責任体制におちいっていた。
 これは他の中国王朝にも見られる習いである。はじめ改革者であった玄宗も、やがて従来の因習にとらわれた政治に立ちもどってしまっていた。
 情実主義は甘えの温床となり、成長への厳しい姿勢を腐敗させてしまう。無責任にいたっては、指導者として何をか言わんやである。学会でも、「慈愛」の包容に甘え、自分を律することを忘れて、堕落していった幹部もいた。
10  要領よく立ちまわった官僚らだけが、いい思いをする。これでは、だれも一生懸命、働く気力はなくなる。皆、国の繁栄に尽くすよりも、国から何を得るかばかり考えていた。
 「全員が創立者」「全員が創業者」の精神とは、正反対の姿であった。
 栄枯盛衰は世の常である。その原因として経済的側面をはじめ、さまざまに議論できる。しかし、やはり、その根本は、人間の「精神」であり、「一念」なのである。
 仏法は「一念三千」と説く。その「一念」は「三千世間(如是)」という宇宙の全体と一体である。まして社会を栄えさせるのも、衰えさせるのも「人間自身」の問題に帰着する。その「人間自身」をダイナミックに成長させ続ける偉大な生命力を、仏法はあたえるのである。
11  東欧での変革も、その利己的な官僚主義体質の弊害が根底にある。
 そう見れば、いずこの国、いずこの団体でも、そこから教訓を得ることができよう。何を見ても、自分だけは関係ないと、鈍感に構え、他を批判しているだけでは、その人自身がすでに″権威の虜″となって自分を見つめることができなくなっている証左である。
 官僚主義――組織が大きく、中央集権的になった結果、血液の循環が悪い不健康な体のようになる。第一線の生活者の声は、何を叫べども敏感な「反応」が得られない。さらに、その「声」すら抑えるにいたっては、民心が離れないほうが不思議である。
 本来、民衆のための指導者であり、民衆のための社会主義であったものが、権力の魔性によって、独配し、民衆を搬膨するものになってしまった。
 抑えたものは、いつか爆発する。当然のことである。まして人間は機械ではない。やむにやまれず、東欧では、いよいよ民衆が立ち上がった。
 学会は真の「民衆勢力」である。「民主」の先駆を切って進んでいる。私どもの力で「民衆の時代」を実現せねばならない。(拍手)
12  一個の人間としての力を
 これらの例から、永遠に心せねばならないことは、「全員が第一線に」「全員が開拓者に」という実践である。
 そのためには、肩書主義を排さねばならない。すなわち「虎の威を借る狐」ではなく、一頭の「虎」にならねばならない。自分自身が「獅子」であらねばならない。
 「名刺で仕事するな」という言葉がある。
 名刺を見て、人が自分を丁重に扱ってくれるのは、自分個人の力ではない。その名刺に書かれた肩書と会社の信用である。会社の信用と実力を尊重し、頭を下げているのであって、自分に下げているわけではない。
 その違いが、いつしかわからなくなると、狂ってくる。悪徳政治家等にも、そうした実例はことかかない。
 「名刺で仕事するな」とは、肩書で勝負をするな、裸の自分の実力で勝負せよ、そのために自分を磨け、ということであろう。社会で堂々と勝利しながら、同時に、自分という一個の人間を完成させゆく修行、それが諸君の課題である。
 ダンテは『神曲』で描いた死後の世界において、人の″肩書″については、「かつて○○だった者」と過去形で書き、人の″名前″については「○○という者」と現在形で書いている。
 両者を明確に使い分けたダンテにとって、肩書などは、厳粛な「死」の前に、力なく消えゆく幻にすぎなかった。彼は、その人の「生命」自体の実相を見つめていたのである。
13  学会の幹部でいえば、役職も何も捨てた、裸一貫の信仰者として、どれだけ「人格」と「力」が光っているか。「信力」「行力」、「教学力」「指導力」、社会常識、信心即生活の現実の姿。そして何より、どれだけ真剣に広布に尽くし、法に尽くし、仏子に尽くしているのか。
 人と会うときも、役職等をかなぐり捨てた、一個の自分として大誠実で接すべきである。その時に、真の迫力、説得力、明快さが必要となり、鍛えられてくる。自分の本当の力が磨かれる。
 ゆえに、役職等が安易に通用しない外交戦を重ねることが不可欠の修行となる。地道な弘教、家庭指導をしていない人は、どんなに組織の表面で華やかに目立っていようとも、やがて人々の信頼を失っていくであろう。何より自分自身の人生が行き詰まっていくにちがいない。
14  イソップの寓話に「神像を運ぶロバ」の話がある。
 ある人が、神像をロバの背中に載せ、町へ行った。通行人が皆、ひれ伏して拝む。いつしかロバは、自分が尊敬されていると思い上がり、前に進まなくなってしまった。
 ロバの愚かな考えを見抜いた馬方は、「ばかもほどほどにしろ。だれが、お前なんかを拝むものか!」と、棒で叩いた、という物語である。
 人間がおちいりがちな錯覚を、わかりやすく説いている。
 戸田先生は、かつて、こう指導された。
 『長』たるものが、人に尊敬される資格はない。あるとすれば、大御本尊様の功徳であり、もったいないことである。この気持ちが、支部長、地区部長、班長、組長に通じたならば、そのまま御本尊様に通ずるものである」(昭和二十八年六月度幹部会)と。
 自分のようなものが仏の使いとして働くことができ、人を救っていける。もったいなく、ありがたいことだという気持ちで、人々に尽くしていけば、その信心が御本尊に感応し、功徳が限りなくわいてくる。
 また「(=仏法で説く和合僧ともいうべき広布の)組織を尊重せよ。組織はどこまでも尊んでもらいたい。各自が、自分の地位の荘厳なることを知ってもらいたい」(昭型二十八年四月度幹部会)と。
 学会の組織は仏法上、まことに深甚の意義がある。不可思議ともいうべき存在である。それは、広宣流布のためにできあがった組織だからである。
 そして、正しき信心の組織にあってこそ、各人の仏道修行も進む。異体同心の団結も生まれる。広宣流布が進んでいく。
 それほど大切な組織で活躍できる誉れを、戸田先生は強調されたのである。
 そのうえで「(=しかし幹部が)おのれの力でその地位を得たのだと思ったなら、もってのほかです」と。さらに「(=仏の仰せにも)もし仏を信ずるものがあるなら、仏のようにして立って迎えよ、とある」(同前)と教えられた。
 仏法の世界のあらゆる指導者が、心せねばならぬ言葉と思う。
15  学会は獅子の集い
 リーダーが、肩書ではなく、謙虚に本物の「力」を磨かねば、組織悪になってしまう。大きく発展するほど、その弊認も大きくなる。これは、どこの団体でも同様である。
 よい意味での「能力主義」、また厳しい「結果主義」が基本になってこそ、活性化がある。学歴、学閥、閨閥、情実主義、年功序列主義などに侵されれば、動脈硬化の恐竜のようなものである。
 ゆえに戸田先生は、こうも言われた。
 「学会のしんがりも、他の会ではやれないような、しんがりぶりをやってもらいたい。学会で一番弱いものでも、外へいったら一番強いものであるというようになりたいと思う」
 「ある学校で、ビリが六十点だったとする。それが、学力の低い学校へ転校すれば、優等生になれる。学会は人材の集まりです」(昭和二十八八年十一月度幹部会)と。
 戸田先生の言われるとおり、学会は「全員が人材」である。
 「全員が開拓者(パイオニア)であり、「全員が獅子」に育たねばならない。学会で磨かれれば、世界中、どこへ行っても、優秀な人材として通用する――そうした厳しい鍛えこそが草創以来の伝統である。
 学会での訓練、薫陶を生かして、自分の分野で、抜きん出た活躍をしている友は数かぎりない。
 諸君は「獅子」であり、「虎」でなければならない。断じて「狐」になってはならない。
 会社でも、仕事をしないエリートよりも、労働に汗する一人の社員のほうが人材である。動物でも親は食物をとってきて、子どもを養う。だれかに食物をとってもらう子どものような存在ではなく、みずからが獲物をとる力ある存在でなくてはならない。まして仏法の世界は厳しい。わが生命の「因果の法」はごまかせない。
 号令をかけてばかりいる幹部より、事実のうえで広布のため法のために戦っている無名の友のほうが、どれほど尊いか。どれほど三世十方の仏・菩薩が称讃されていることか。
16  「獅子」は全身が武器である。ライオンの鋼のような筋肉。太い足。とがった爪。大きな口。上下三本ずつの鋭い牙。顔の筋肉すら、かむために筋力が強い。たてがみも、効率よく、体を大きく見せて、相手をのむ役目がある、無駄がない。まさに、ひきしまった″百獣の王″の誇り高き姿である。
 余談だが、ライオンの群れで、実際に獲物を取ってくるのは主にメスであり、オスはそのメスや子の群れを守るのが仕事、という草原での観察記録がある。
 女性のほうが、よく働くという点では、「うちも同じだ」と共感をおぼえる方もいらっしゃるかもしれない(笑い)。広布の世界にあっても、男性は、自分たち以上に活躍する女性を(笑い)、最大に守り、尊重していただきたいと思う。
 ともあれ「学会のビリも、外では一番」と、戸田先生が言われたように、学会は「獅子の集い」である。「さあ! 何でも来い!」との堂々たる気迫と確信で、使命の一生の劇を雄々しくつづっていきたい。
 口も手も足も頭も、全身を広宣流布の武器にして、王者のごとく、走り、戦い、勝利をもぎ取ってくる者こそ、獅子なのである。(拍手)
17  仏法は官僚・権威主義と無縁
 学会の組織は、いわゆるピラミッドではない。全員が「妙法」の前に平等である。そのうえで、あえてたとえれば、かねてより申し上げているとおり、中心者を囲む″同心円″といえよう。
 宇宙もまた、中心をめぐる無限の回転である。衛星は惑星の周りを、惑星は恒星の周りをまわる。そして多くの太陽系が集まり、回転して銀河をつくり、銀河はさらに多くの銀河団をつくっていく。
 「宇宙の法」にのっとりつつ、それぞれが、それぞれの立場と使命をもって、着実な運動を続けている。何ひとつ止まっているものはない。いわば学会は、大宇宙と同じく躍動する組織なのである。
 太陽系においても、太陽に近い惑星だからといって、自転も公転も止められるはずがない。むしろ近いほど公転速度は速い。組織においても幹部となればなるほど、人一倍の自己研鑽と行動が不可欠となる。
 飛行機も飛んでいるからこそ安定している。止まってしまえば、墜落するのは、人間も同じである。
 要するに、「全員が離簾裸」であるためには、「全員が自己開拓、自己変鞍の人」でなければならない。
 つねに、みずからの惰性と戦う。つねに何か、現在の自分の能力を超えた、手にあまる仕事に挑戦する。みずから″山″をつくり、一つまた一つ乗り越えていく。″河″を″海″を渡っていく。
 弾む生命で、その冒険に喜びを感じていく。そのように、リーダーが率先して動き、走り続けてこそ、自分も、また組織も勝利していく。
18  官僚体質、権威主義の弊割は大きい。
 日本人の「独創性のなさ」は、つとに指摘されることだが、むしろ独創性をつぶす体質こそ、問題にすべきであろう。
 世界のいずこであれ、人間の創造性に、生まれつき、それほどの違いがあるはずはない。問題は、独創の″芽″をつむ社会か、伸ばす社会かである。それは、一国においても、あるいは地域、団体においても同じことがいえる。
 日本の「一肩書社会」「事大主義」の病根は深い。
 つまり、自分が食べるもの、着るものすら、自分の本当の好み以上に、ブランド(銘柄)で決める。学歴のない実力者をしめ出す。何かを学ボにも、「原典」ではなく「虎の巻」に頼る傾向もある。自身の″目″を信じるよりも、″権威者″の解説のほうを信じるわけである。安易であるばかりか、自分の頭脳で考え、探究し、判断する力が弱い。
 このように、「虎(権威)の威光」を借りる狐ばかりとなっては、真に″新しいもの″や″創造的なもの″は、伸びる余地がない。いまだ権威はないが、本当の実力ある者――その人を見抜き、育ててこそ、ものまねではない、真の創造的「文化」も花開いていく。
19  生涯、権威と戦った北里柴二郎博士
 日本の生んだ世界的細菌学者である北里柴二郎(一八五二年〜―九三一年)も、生涯、「狐」と戦い続けた「虎」「獅子」であった。
 彼のことは、戸田先生も話してくださったが、皆さん方も広布の「虎」、「獅子」として生きぬいていただきたいがゆえに、ここで話をしておきたい。(宮島幹之助編『北里柴三郎伝』北里研究所を参照)
 北里柴三郎が相手にして戦った「狐」とは、政府権力の威光をカサにきた官僚と官立大学である。
 彼がドイツで成し遂げた業績は、赫々たるものがあった。
 なかでも(1)破傷風菌の純粋培養の成功(2)破傷風抗毒素の発見(3)その血清療法の基礎づくりによって、彼の名は一躍世界に知られることとなった。彼は当時、ノーベル賞候補となっていたことが、先年、紹介されている。
 文明開化したばかりの日本の学者の世界的研究である。イギリスのケンブリッジ大学からは、細菌研究所をつくるから初代の所長になってほしいと雛隊ざれた。アメリカのペンシルベニア大学、また多くの病院からも招聘を受けており、ドイツ(当時プロシア)からは、外国人初のプロフェッサー(教授)の称号が授与されている。
 しかし彼は、祖国に尽くしたいからと、すべてを断り、帰国した。時に明治二十五年(一八九二年)、三十九歳であった。
 ところが、この世界的学者を、日本はまったく冷たく迎えた。本物の人物を遇していこうとする心の薄いのが日本である。こまかい経緯は省くが、多くの学者たちが、とてもかなわない相手の出現を嫉み、さまざまに政策した。
 「公衆衛生」に貢献したい、伝染病で苦しむ人を救いたい――これが北里柴三郎の念願であった。
 しかし、伝染病の予防という重大事を彼が訴えても、政府はこの世界的学者に、研究所どころか、研究の部屋ひとつあたえない。
 そのなかで北里は福沢諭吉に相談した。一面識もなかった逆境の北里に私財を提供した福沢の尽力で、小さな伝染病研究所が発足する。のちに北里は、福沢への報恩のため、慶応大学医学部(東京・信濃町)の創設に身を挺して応援した。そして初代医学部長となり、陣頭指揮で今日の基礎をつくった。
 日本初の伝染病研究所は「官立」でなく「私立」だったのである。研究所としては小さなものであったが、日本の伝染病研究の基礎を築き、大きな業績を残していった。
 物事は、小さなものから始まるし、また始めればよい。そして、それをしだいに発展させていけばよいのである。決して背のびをする必要もないし、あせる必要もない。
20  研究所が発展するにつれ、そのうち国庫の補助も出た。内務省の管轄に、との話があったとき、北里はさっそく福沢に相談した。
 福沢は「研究所を挙げて一切足下の(=あなたの)指揮に任せ、足下を信頼すること今と毫も(=少しも)変らぬならば官営も宜しかろう」(前掲『北里砦二郎伝』。以下、引用は同じ)と話し、さらに万一の備えも強調した。「政府も人である。今日の方針が永久に踏襲さるるものと思ってはならぬ」と、ひとり立ちできる準備を怠らないよう助言した。
 福沢の心配は、約二十年後に的中した。それは大正三年(一九一四年)、北里が六十一歳の時であった。
 世界三大研究所と呼ばれるまで発展した北里の研究所を、政府は突然、文部省、東京帝大の管轄にしてしまったのである。創立者であり、営々と二十年間にわたって築き上げてきた彼には、一言の相談もなかった。これにはある教授らの暗躍があったとの説もある。
 権威、権力の人の思惑は、いつの時代もこのようなものである。学会にも陰に陽に、自分たちの手段にしようとの働きかけがあった。私はその醜い策略を見破り、学会を、同志の皆さん方を守るために、断固戦ってきた。
 しかし――研究をすぐに行政に生かすためには、大学に所属するわけにはいかない。内務省(今の厚生省を兼ねる)のほうがよい。しかも、これまで、さんざん妨害ばかりしてきた連中である。彼らの陰謀で、奴隷にされるわけにはいかない――北里は辞任を決意した。
 ところが、前途ある研究所の所員たちを巻き込むわけにはいかない。「進退の事は宜しく慎重に考慮し、一路研学以て邦家(=日本)の為、又学問の為、愈々奮励せられん事を」との北里の要望にもかかわらず、全員やめると言う。″官″のあまりの横暴に、皆、怒っていた。結局、試験管洗いの手伝いの女性まで、一人残らず研究所をやめてしまった。
 「悪」に対するこの毅然とした態度。ここに人間としての偉さがある、と私は思う。
 全員がやめてしまったのでは、東大の研究所になっても、まったく振るわないのは当然である。
 彼らは一からほそぼそと始めねばならなかった。人々は、北里はよき弟子をたくさん持ったとたたえたという。
 北里らは、新たに「北里研究所」を設立、今日まで隆々たる発展の歴史をきざんでいる。
21  このように北里の戦いは、生涯、権威をカサにきた「狐」との闘争であった。
 ドイツ留学以前にも、こんなことがあった。大学卒業後すぐのことである。
 内務省役人の視察のお付きで、東北、北海道へ行った。ところが視察は名目で、二人の役人は威張り放題の大名旅行である。北里は一切の雑用係をした。
 一行は秋田に入った。そのときである。「衛生局の高官が来られたのだ。ぜひ講演を」との依頼があった。高官二人は困った。まったく知識がないのである。断れば大恥をかく。二人は北里にやらせようとした。しかし、北里はなかなか承知をしない。当然であろう。困惑の極に達した高官に、ついに北里は「命令ではなく、懇願なさるのですな」と念を押して引き受ける。ただし交換条件が一つあった。
 講演会は大成功。慰労会で北里は上座に座り、末席の高官二人を眺めて愉快であった。彼の交換条件とは「自分を上座に座らせること」だったのである。もとより、席の上下など彼には問題外であった。実力もなく、役人風を吹かせる「狐」のような先輩に、我慢がならなかったのである。
22  時代が求める「創」のエネルギー
 学会も絶対に官僚主義になってはならない。永遠に、ただ「広宣流布」を目的とする同志と同志の、団結の姿でなければならない。そこに、学会の永遠なる発展がある。
 皆で円陣を組むようにすれば、あらゆる角度を向き、しかもあらゆる人が第一線である。
 「軍」という字は、本来、「車」の円形をさらに囲んだ姿を表す。「円陣」は、あらゆる陣形の基本をなし、もっとも強い形とも言われている。また、最高の経は「円教」とも呼ばれ、「円」は完全無欠を表す。
 ともあれ、今後の社会のキーワードは何か。それは「創の一字だ」というのが、多くの人の意見である。先日(十二月二十三日)、お会いしたマカオ東亜大学の薛学長も、「創価」にはまことに深い意義があると言われていた。これまでと同じような考え、発想では、道は開けない。どう一歩、新たなものを創り出すか、新たな発想をするかである。創造、独創、創出、創意、創見……。この「創」のエネルギーを高めたところが、二十一世紀の勝利者となっていく、というのである。
 その「創」のエネルギーを抑圧するものこそ、権威主義であり、官僚主義である。肩書社会である。その変鞍の機戦を、学会が示し続けなければならない。
 新しき時代を開くものは、権威でもない。肩書でもない。特別な立場の人でもない。みずみずしい精神と豊かな独創性をもった民衆の行進なのである。いわんや正しき信心は、無限の「創出」の源泉である。私どもの使命は重い。
23  大事な皆さん方である。どうかお体を大切にしていただきたい。人生は長い。決してあせる必要はない。人生には、必ず行き詰まりがあるだろう。そのときは唱題である。そうすれば雲が晴れていくように、必ず無限の境涯がいつしか広がっていくものである。
 行き詰まりとは、いわば、より以上、広々と自分の境涯と福運を開いていける山の頂上を前にしたようなものだ。それを乗り越えれば、あたかも白馬にまたがって人生の広野を楽しく走りゆくかのようになる。そしてまた、新たな″行き詰まり″という山に出あう。そこを唱題によってふたたび乗り越えれば、さらに大境涯が広がっていく。信心とはこの繰り返しである。
 そして最後には、永遠にして広大無辺、自由自在の成仏の境涯に入っていくことができるのである。ゆえに、あせらず、自分らしく伸び伸びと、信心第一で進んでいっていただきたい。(拍手)
 皆さん方の、ますますのご活躍とご健勝を、お祈りしたい。また、創価の若き諸君には「お父さん、お母さんに、くれぐれもよろしく」と申し上げて、私のスピーチを終わりたい。
 (聖教新聞社)

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