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日蓮大聖人・池田大作

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文京、台東、北、板橋区代表者会議 ″知の時代″へ学びに学ベ

1989.12.24 スピーチ(1989.8〜)(池田大作全集第73巻)

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2  マカオとマカオ東亜大学の歴史
 さて、きょうも少々スピーチをさせていただき、大切な集いの意義をきざんでおきたい。
 諸君は若い。今、頭脳にきざみ、覚えたことは、生涯の血肉となり、生きた知識となる。しかも時代は「知の戦国時代」の様相をますます深めつつある。知力なき人に勝利はない。満足もない。
 その意味からも、私は論じておきたい。ありとあらゆる歴史や思想を――。そして諸君に呼びかけたい。頭脳を鍛え、知性を磨きぬけ、と――。
 そうした訴えが、必ずや、後世への確かな光明となり、くさびとなることを、私は確信する。(拍手)
 昨日、マカオ東亜大学(現、マカオ大学)の薛寿生せつじゅせい学長と有意義に会談した。
 同学長とは、十年前にも香港でお会いしている。また、かつて創価大学に、香港中文大学の交換教授(当時、同大学の連合書院院長)としてこられた方でもある。私にとって縁の深い方と思っている。
 一つの出会いから、次の出会いが生まれる。新たな道が開かれる。出会いというものの価値は、容易には計り知れないものである。ましてや仏法に偶然はない。すべてに意味があり、一切が深き因果の理法の表れである。
 ゆえに私は、出会いを大切にする。どなたと会っても、決していいかげんな気持ちでお話ししたことはない。つねに最大の誠意と真心で対話してきたし、これからも変わることはない。それが深き人生のあり方と信じているからである。
 さて、マカオは″西洋と東洋の出あいの街″といわれる。ここにポルトガル人が住み始めたのは、香港にイギリス人が来るよりはるかに早い。すでに一五五七年には、ポルトガル人の居住権が中国・明王朝から認められている。以来、貿易、また文化・学問を伝える中継地として、アジアとヨーロッパを結ぶ重要な拠点となった。
 当時、日本は、室町時代末期。織田信長や豊臣秀吉が活躍を始める時代である。そのころ、わが国にとっても、マカオは、世界への大切な中継地であり″窓″でもあった。
 マカオ東亜大学は、マカオ初の最高学府として一九八一年に創立された。創価大学より十歳若い大学である。
 以来、発展はいちじるしく、設立時に百五十七人であった学生は、今や千人を超え、通信教育等を含めると、約八千人の学生が学んでいる。卒業生も二千人を数え、社会のあらゆる分野で活躍している。
 せつ学長は、ぜひとも創価大学と交流したいと率直に話してくださった。私も大賛成である。明春にも両大学の間で正式の交流協定が結ばれる運びである(=一九九〇年一月に締結)。将来、両大学の強き絆は、アジア、そして世界にとって、きわめて重要なものとなるにちがいない。
3  「青年は民衆の大船」
 同大学では、マカオの将来を展望し、青年の育成に全力をあげておられる。
 青年――まさに未来は青年にかかっている。現在、世界で起こっているさまざまな変革にしても、青年が民衆の先頭に立って、大きな役割を果たしている。青年こそ、民衆の未来を決しゆく希望の存在といってよい。
 戸田先生はよく「青年は民衆の大船」と言われていた。その「大船」である青年を、どう育成していくのか。教育の担う使命の大きさは、どれほど重視しても重視しすぎることはない。創価大学が人間教育の理想をかかげ、青年の育成に全力で取り組んでいるのも、この使命感からにほかならない。
 さらに、それほど大事な教育の任にあたる人もまた、幸せである。
 御書には、「花は根にかへり真味は土にとどまる」――咲いた花は根に還り、そのものの本来の性分は土にとどまり、大地に還る――と教示されている。
 この「報恩抄」の一節は、大聖人が御自身の功徳が旧師の道善房に帰していくことをお示しになったものである。そのうえで「教育」活動に敷衍して考えれば、青年を育み、成長させていく労苦は、そのまま″大地″である教育者自身の″滋養″となって還ってくる、ともいえよう。
 いかなる分野であれ、骨身を惜しまず後輩の育成に尽力した人には、その労苦が輝かしき心の財産としてきざまれ、必ずその人自身の生命を豊かにしていく――。
 いわんや私どもは仏法者である。人々に大仏法を教え、広布の人材を育てている。その労苦が、自身の福徳をどれほど増しゆくことか。どうか、このことを深く確信していただきたい。(拍手)
4  さて、この会場(東京上野池田講堂)から上野の地は近い。その上野で、一八六八年(慶応四年)五月十五日、「彰義隊」の戦いが行われた。
 約三千人の幕府側武士が、新政府に対抗した戦いである。彼らは官軍の一斉攻撃で、一日にして壊滅してしまう。この日、町中は戦乱から逃れようと右往左往する人々で大混乱していた。
 だが砲声がとどろくなか、慶應義塾では、福沢諭吉が朝十時からウェーランドの経済学を講義していたことは、あまりにも有名である。
 体制が大きく変わろうとし、世が騒然としているなか、福沢諭吉はさらにもう一歩、先を見ていた。いわば時流に超然とし、″精神の変革″を志向していたのである。ゆえに彼は″青年よ、今は学べ″と、争乱に少しも動じることなく、学問を講じていたわけである。
 慶応義塾の一人の卒業生は、のちに、次のように述懐している。
 ″福沢先生の言葉を使うならば、つまり日本人の脳髄を「でんぐり返してしまう」ことが、われわれのこれからの仕事だ″と。
 「政治」や「経済」の動向ではない。もちろん、それらも大事なことであるが、より根本の、「精神」の動向をどう決めていくか。これこそが、新しき時代建設の鍵となるものである。そのために福沢諭吉は若き青年たちに、″今は学びに学べ″と呼びかけた。
 人生には、なすべきことをなさねばならない時期がある。学ぶべき時期に学ばなければ、それは人生の嵯跌となり、取り返しがつかなくなってしまう。かけがえのない青春時代に、自分は果たして何をなすべきなのか。時流の動向に曇らされず、なすべきことを正しく見きわめ、行動していく青年部諸君であっていただきたい。(拍手)
5  圧迫にも教育の信念貫いた牧口先生
 この台東の地を訪れると、私は、「創価教育」の原点・牧口先生と戸田先生の深き縁を思い起こす。
 牧口先生は、その四十代に、台東区内の東盛小学校、大正小学校、西町小学校の校長を務められた。
 このうち西町小学校で、大正九年(一九二〇年)、牧口先生と戸田先生の宿命的出会いがあった。時に牧口先生は四十九歳、戸田先生は二十歳の青年であった。今からもう七十年前のことになる。
 ところで牧口先生は、この西町小学校を、わずか半年で追われてしまう。これは、当時、この西町に住んでいた「政友会」の代議士で、影の東京市長とまで言われた有力者の策謀によるものであった。彼は権勢をほしいままにし、「西町御殿」と呼ばれる豪邸に住んでいた。
 彼は、みずからの息のかかった人間を校長に登用するなど、教育にも介入してきた。西町小学校の校長になると、どの校長も、まずはじめに「西町御殿」を訪ね、彼のご機嫌をとるのが常であった。
 しかし、牧口先生は「権力が教育に口出ししてはならない」との信念のもと、断じて頭を下げになど行かれなかった。教育を利用し、ひいては青少年を利用しようとする権力の動きを、絶対に許そうとはされなかったのである。
 こうした毅然たる姿勢が、権力者にはおもしろくない。代議士の彼は、市の教育課長や区長を動かして、牧口先生の追い出しにかかったのである。
 牧口先生を敬愛する十数人の教職員は、先生を守ろうと、不眠不休で行動した。そのなかに戸田先生もおられた。
 戸田先生は、当時のことをこう回想されている。
 「自分も末席の教員でありながら、この運動の参加を許され、牧口先生の必死の擁護運動をしたのであった。雨のドシャ降りの中、この運動のために、(=牧口)先生のお宅を訪ねて、ビショぬれになったこともある」と。
 二十歳の戸田先生が、正義感をたぎらせて「何としても牧口先生をお守りしたい」と、懸命に奔走される――その師弟不二の美しい姿が、一幅の絵のように、私には思い起こされる。
 だが、こうした抗議の行動もむなしく、牧口先生は西町小学校から左遷される。このとき、自分の辞任とひきかえに、子どもたちが伸び伸びと遊べるように、学校の運動場の整備を実現させておられる。
6  牧口先生が、次に赴任されたのは墨田の三笠小学校であった。ここでは、貧しい子どもたちのために、自分の給料をさいて給食を実施している。これがわが国の給食制度の先駆けであった。
 さらにその後、赴任された港区の白金小学校も、東京屈指の名門校に仕上げられている。
 なお、牧口先生を追放したかの有力代議士は、その後、東京市の大疑獄事件が明るみに出て、その首謀者として懲役二年の実刑判決をうけている。
 ともあれ、威張る者、傲慢な人間には、徹底して強く、また弱い立場の人、青少年に対しては、このうえなく優しい牧口先生であった。これがまた、仏法者の精神でもある。
 のちに戸田先生は、こう記されている。
 「牧口先生の不思議な宿命を思わざるを得ない。絶えず官憲と闘争し、権力に屈しない先生の生活と宿命――。『松に雪降ってなお青し』の感がある」と。
 権力の迫害が強まれば強まるほど、ますますみずみずしい人間愛の精神をもって戦いぬかれた牧口先生のご生涯であった。
7  牧口先生の『創価教育学体系』は、昭和五年(一九三〇年)十一月十八日付で発刊された。しかし、この発刊の″前夜″にも、陰湿な策謀があった。白金小学校の校長であった牧口先生を追放しようとする動きである。
 だが、そのなかで、若き戸田先生は、牧口先生にこう呼びかけられている。
 「牧口先生、書物として発刊いたしましょう。先生のような大学説は、世の中からは直ちに歓迎されるとは思われませんが、三十年後、五十年後には必ず世の中に出ることでしょう」と。
 弟子の戸田先生が、師の牧口先生の偉業を、世に宣揚せんとされている。そして、苦境にある師を励まされている。戸田先生のこの熱い思いを、牧口先生はどれほどお喜びになられたことであろうか。
 先日も、海外初となる『創価教育学体系』の英語版が、アメリカのアイオワ州立大学から出版されたことは、皆さま方もご存じのことと思う。戸田先生のお言葉どおり、時とともに牧口先生の教育学説は世界に輝きを増しているのである。(拍手)
8  「善人」を妬む「悪鬼」の働き
 次に、少々、むずかしいかもしれないが、「法華経を持った人にも、どうして、さまざまな苦しみや、つまずきがあるのか」――このことにふれておきたい。
 信心したとしても、つねに、いろいろな事件、出来事がある。どうしてなのか。
 その根本的理由の一つは、妙法を持った人は「善人」である。だからこそ「善人」をきらい妬む「悪鬼」が、その人を懸命にねらってくるからである。御書には、そう明快に説かれている。
 「悪鬼」とは、生命論的にいえば、人間の福徳や生命力を″奪う″、宇宙の悪しき働きのことといえよう。これに対し、「諸天善神」とは、宇宙の根本法である妙法を持った人を″守る″働きをさしている。「善」に生きているからこそ「悪」が攻撃するのである。
 大聖人が御書にわかりやすく仰せのように、美人は妬まれる。また、金持ちはねらわれる。まして妙法は「永遠なる幸福」の法である。ゆえに妬まれ、騒がれるのである。
9  建治三年(一二七七年)から弘安元年(一二七八年)にかけて、日本に疫病(伝染病)が広がった。その時、日蓮大聖人の門下にも、病み死する者が出た。
 世間の人々は、ここぞとばかり攻撃したようだ。
 ――何だ。おかしいではないか。信心していない者が病気になるならわかる。しかし、どうして、いつも言っている「諸天善神」が、お前たちを守らないのか、等々。
 大聖人は、この疫病について、「法華経の行者」に敵対する日本を諸天善神が罰した結果である、と説かれていた。それに対して、それならばどうして、大聖人門下まで病気になったり、死んだりするのかとの反論が出てくる。あるいは、門下のなかにも、このような疑問をいだく者がいたのかもしれない。
 大聖人は答えられた。なるほど一見、もっともな疑問である。しかし、ことの本質の片面しか見ていない偏見である、と。
 「汝が不審最も其のいわれ有るか但し一方を知りて一方を知らざるか
 すなわち、この宇宙には「善神」があれば、必ず「悪鬼」もある。片方だけということは永遠にない。
 そして「善神は悪人をあだむ悪鬼は善人をあだむ、末法に入りぬれば自然に悪鬼は国中に充満せり」と。
 ――善神は妙法に反する悪人に怨をなす(害する、罰する)。悪鬼は妙法を持つ善人に怨をなす(害する、精気を奪う)。時代が末法に入れば、自然に、悪鬼は国中に充満している――。
 だから、大聖人は、悪鬼が充満する日本にあって、疫病はむしろ他宗の人々のほうよりも、大聖人門下のほうに多く出るのが道理ではないか、と論じられる。
 「日蓮が方にこそ多くやみ死ぬべきにて候か」――日蓮の門下のほうこそ、多く病み、多く死ぬのが当然ではないか――と。
 門下に何も起こらなかったら、かえって、そのほうが不思議だとの仰せである。
 「聖人御難事」の有名な一節、「からんは不思議わるからんは一定とをも」――善いことがあるのは不思議、悪いことがあって当たり前と思え――の御精神にも通じよう。
 悪に満ちた世界にあって、善を貫こうとすれば、反動が大きいのは決まりきっているではないかと、大聖人はつねに教えておられる。
10  しかも、実際には他宗のほうに、病み死する人が多かった。
 「いかにとして候やらん彼等よりもすくなくやみ・すくなく死に候は不思議にをぼへ候」――ところが、どういうわけだろうか、彼ら(念仏・真言・禅・律等を信奉する人々)よりも、病む者も少なく、死ぬ者も少ない。不思議に思われる――と。
 多くいて当然なのに、現実には少ない。これは現代でも、学会員の事故や病気等について、きちんと科学的に統計をとってみれば明らかなことである。針小棒大の、ためにする議論や、たんなる印象、感情的判断では真相はつかめない。むしろ、ゆがめられてしまう。これはいかなる世界でも同じである。
 一人や二人に何かあっただけですぐに大騒ぎし、全体に問題があるかのように短絡的に論じる。ことの本質を見ないばかりか、それ以前にそもそも実態を調べようともしない。こうした「実地に認識せずして評価する」悪習は、日本において、とくにいちじるしいかもしれない。
 海外の一流の人は、何事も、うわさや人の意見だけで判断することは決してない。必ず自分が足を運び、自分の日で確認し、あらゆる角度から自分で探究して、正確に認識しようと努力する。
 さまざまな分野で、海外での評価と、日本での評価が大きく異なることがある。それも、こうした伝統の違いが一因にあるといえよう。
 ともあれ、大聖人御在世の当時も、門下に少し病気の人が出ただけで、あろうことか、大聖人の法門そのものに誤りがあるかのごとく言いはやす風潮があったのかもしれない。
 門下の病気が「悪鬼の働き」であるということを、人々は知らない。そのうえじつは、大聖人門下は、大聖人御自身が「不思議である」と述べられるほど、多く守られていたのである。
 なぜ門下に病み死する人が少ないのか。大聖人は、その理由として、「人のすくなき故か又御信心の強盛なるか」――門下の数が少ないせいであろうか。また御信心が強盛だからだろうか――と、二点をあげておられる。
 この御文を拝して明らかなことは、一つには、広布が進み、人数が多くなれば、当然、悪鬼にねらい打ちされる人も多くなるということである。もちろん、割合から見れば、他の世界よりもはるかに数が少ない。
 第二に、信心が強盛でなければ、国中に充満する悪鬼から、身を守れないということである。信心強盛に広布に生きる人は、厳然と守られていく。
11  さて、大聖人は、この「治病大小権実違目」(略して「治病抄」、御執筆は弘安元年説による)を書かれた前日、弘安元年六月二十五日には、同じ問題を取り上げられ、日女御前へのお手紙に、こうしたためておられる。
 「鬼神に二あり・一には善鬼・二には悪鬼なり、善鬼は法華経の怨を食す・悪鬼は法華経の行者を食す」――鬼神に二種類ある。一つは善鬼、二つには悪鬼である。善鬼は法華経の敵の生命力を食する。悪鬼は法華経の行者の生命力を食する――と。
 ゆえに、同じ病気とか、事故のように見えても、原因はまったく違う。
 このことは、なかなか理解しがたい。そのためであろうか、大聖人は、わかりやすくたとえを使って教えておられる。
 「善鬼が法華経の怨を食ふことは官兵の朝敵を罰するがごとし、悪鬼が法華経の行者を食ふは強盗夜討等が官兵を殺すがごとし」と。
 ――善鬼が法華経の敵の生命力を食すのは、たとえば朝廷の兵士が、朝廷の敵を罰するようなものである。悪鬼が法華経の行者の生命力を食すのは、強盗や夜盗が、朝廷の兵士を殺すようなものである――。
 つまり、同じく疫病に倒れたとしても、その生命の実相を見れば、正反対である。
 「悪人」であるゆえに、正義の兵士に倒された場合。反対に、「正義の兵士」であるゆえに、悪にねらわれ、倒された場合。この違いは、決定的である。また三世にわたる。
 生命は永遠であり、妙法の「正義」に生きぬいた人は、いかなることがあっても、否、あればあるほど、未来永劫に、確かなる″成仏の軌道″″幸福の軌道″を進んでいけるからである。
12  絶えざる「前進」の中に「安穏」
 「悪鬼」は、その名のとおり、餓鬼界の生命である。餓鬼界は「貪り」の命である。何を貪るのか。
 それは妙法を持つものの「生命力」であり、これは「奪命者」の働きである。また「奪功徳者」として、妙法による「功徳」を奪おうと動く。
 さらに、「立正安国論」等に示されたごとく、人々から正常な思考を奪って、社会を乱していく。また仏道修行への「信心」を食い破ろうと邪魔をする。
 末法の世が進んだ現代は、こうした悪鬼がいよいよ充満し、飢えた餓鬼のごとく、妙法を持つ人と広布の世界に押し寄せ、むらがってくる。
 ゆえに、そのことを意識し、自覚して、「悪鬼」と「魔」を寄せつけない戦いが必要である。それらをすべて打ち破っていく、強き一念と祈りが不可欠である。
 その用心と日々の祈り、また団結と知恵がなければ、虎狼の群れに、一人、無防備で入っていくように危険きわまりない。それが末法なのである。
 その悪の世界にあって、清浄なる妙法の信仰と仏子を、どう守り、正法の世界を広げていくか。指導者の苦心孤忠もここにある。夢にもかんたんなものに思ってはならない。
13  善と悪との壮絶なせめぎ合い。これが、この世の永遠の劇である。宇宙はつねに、善と悪との闘争の舞台なのである。
 広宣流布が進んでいけば、組織が大きくなれば、戦いは楽になってくるだろう。そう錯覚したとしたら、それ自体が、すでに悪に敗れつつある姿である。
 また、自分はこれだけ信心したから、もう心配はないだろう。だれにも、そんなことは言えない。
 仏法、信心は、永遠に前進であり、永遠に闘争である。その「前進」が即「安穏」なのである。朗らかに、堂々と戦い続ける姿が、そのまま「勝利」の生命なのである。
 飛行機も、飛びたった以上、懸命に飛んでいる時こそ、もっとも安定している。エンジンの回転をゆるめれば、失速し、やがて墜落する以外ない。
 そして大切なのは、仏と魔との戦いに、中間はないということである。その本質が「仏の軍勢」なのか、「魔王の軍勢」なのか、どちらかである。`
 一人の人間が、三割だけ仏の側で、七割は魔の陣営だとか(笑い)、魔だけれども、言っていることを聞けば、ちょっとだけ仏の味方だとか(笑い)、それらは仏法の眼から見れば、生命の実相を知らない、こっけいな考え方といわざるをえない。
 徹頭徹尾、″仏法は勝負″なのである。この基本が、皆なかなか、わからない。私はつねに、だれも気づかないうちに、「魔」という本質を見抜く。悪に対しては厳しく戦い、打ち破る勇者でなければ、大切な仏子を守りゆく使命は果たせないからである。
14  大聖人は、一つの結論として、こう仰せである。
 「されば身をすてて信ぜん人人は・やまぬへんもあるべし・又やむともたすかるへんもあるべし、又大悪鬼に値いなば命を奪はるる人もあるべし
 ――したがって、わが身を捨てる覚悟で妙法を信じる人々は、悪鬼に負けず疫病にかからないこともあるであろう。また、病んだとしても、助かる場合もあろう。また、大悪鬼にあえば、命を奪われる人もあろう――。
 ゆえに、くれぐれも用心しなさいとの、お心と拝する。
 私の四十年以上の信仰の経験から見ても、広布の組織でまじめに学会活動をしきった人は、いざという時に必ず守られている。かりに病気になっても、軽くすみ、また命が助かっている。寿命を延ばしている。亡くなる場合でも、いったんよくなり、宿命転換の姿を示してから、安らかなすばらしい臨終を迎えておられる。また苦痛がない。
 法華経に説く「更賜寿命(更に寿命を賜う)」という法理の一つの表れであろうか。
 そうした「死」は、福徳に満ちた、幸福な来世への荘厳なる出発である。また、あとの一家、一族も守られていく。仏法の活動には、こうした厳たる大功徳が備わる。(拍手)
 その意味で、今、健康な時、また若いうちに、真剣に仏道修行に励みきっておくことだ。人生と仏法を甘く考え、要領よく手を抜いて、将来、悔いるようなことがあっては、あまりにも不幸である。ゆえに、あえて厳しく言っておきたい。(拍手)
15  指導者は慈悲、権力は魔性
 話は変わるが、「指導者」と、いわゆる「権力者」とは違う。似ているようでまったく異なった存在である。そのことについて、日本史上、多くのドラマの舞台となってきた九州の事例をとおして少々、語っておきたい。
 九州地方は古来、大陸と間近いことから、つねに外国の脅威をまともに受けてきた。反面、外国文化の流入もいちばん早く、いわばプラスとマイナスの両面をもっていた宿命的ともいえる風土である。
 このほど新会館が誕生した壱岐、また対馬、そして九州北部は、とくに長い間″国防の最前線″であった。
 東歌で有名な防人の制度も、″九州を守る″大切さの表れである。また鎌倉時代、蒙古の来襲の折も、九州は日本の防衛最前線として戦った。
 そうした苦労多き人々に対し、権力者たちは、どう振る舞ったか――。
 たとえば、平安時代の九州では、庶民が第一線で戦っているにもかかわらず、中央(京都)からやって来た貴族たちの多くは、赴任中にどう甘い汁を吸うかしか考えていなかった。
 藤原時代(平安時代中期)の社会相を描いた日記『小右記』(藤原実資)には、九州からもどったある貴族のことを「九州二島ノ物ハ底ヲ掃ヒテ奪ヒ取り」(九州にあるものは底をはらって〈チリも残さず〉奪い取り)、「随身珍宝ハソノ数フ知ラズ」(身には無数の珍宝をつけてもどってきた)と書いている。さらに「已ニ恥ヲ忘レシニ似タリ、近代ハ富人ヲ以テ賢者卜為スカ」(すっかり恥というものを忘れたようだ。このごろの世は、金持ちをもって″賢者″とするのか)と。
 どんな恥知らずであれ、富んでさえいれば、″賢い人だ″と尊敬する世なのか――と皮肉り、嘆いているのである。現代社会そのものへの風刺とさえ思われる痛烈さである。
 要するに、九州に行った貴族たちは″顔″を京都(中央)に向けながら、″足″は民衆を踏みつけ、″手″は財宝を握ろうとして忙しかったというのである。
 このように民衆を利用し、自分の利得や栄誉栄達の踏み台にしようとする悪しき権力者は、いつの世にもいるものだ。
 学会においても、近年の退転者らは、まさに、こうした卑しき心根であった。
 幹部として九州に入り、顔は「中央」に向けながら、信心を利用し、学会を利用して、九州の会員をいじめ、苦しめぬいた――。
 九州の友は、あまりにも人柄が良い。そこにつけ込んで、足げにする輩が出て、九州の友を虐げてきたのである。まことに気の毒であった。その意味で、私は九州の同志の皆さまを、これからも、何としても守ってさしあげたい。(拍手)
16  要するに、悪しき権力者は必ずや魔性となる。現実に、私どもはいやというほどそれを見た。自分を守るため、また自分の権威を守るために、われわれを″手段″とした。
 真の指導者は、自分自身を捨てて、民衆を″目的″とし、民衆を守る戦いをする。魔性の権力者は、「姿」は似たように見えても、根本的に「心」が違っている。
 現在の東欧の急速な変革も、独裁の「権力者」の敗北であり、また「官僚主義」の敗北といえよう。「民衆の心」「人間の心」を忘れ、硬直化した権力機構に対して、人々が立ち上がったのである。
 民衆の心もわからず、権威で人々を従わせようとする人は、いかに立派そうなことを言い、行動しても、もはや「指導者」ではない。
 仏法の世界には、「指導者」は必要であるが、「権力者」は必要ない。皆さま方は、この一点をよくよく見きわめていかねばならない。(拍手)
17  人々のために勇気と知性を
 日蓮大聖人は「富木尼御前御返事」で、蒙古との戦いに備えて、九州へ向かう鎌倉の人々の胸中を思いやられ、次のように述べておられる。
 「当時つくし筑紫かへばとどまるめこ妻子をとこはなるるときはかわぐがごとくかをと・かをとをとりあわ取合せ目と目とをあわせてなげきしが、次第にはなれてゆい由比のはま・いなぶら稲村こしごえ腰越さかわ酒勾はこねさか箱根坂一日二日すぐるほどに、あゆみあゆみとをざかるあゆみ歩行かわも山もへだて雲もへだつればうちうものはなみだなりともなうものはなげきなり、いかにかなしかるらむ
 ――鎌倉の人々が九州へ向かっていくにあたって、とどまる妻子、行く夫、愛しあう家族が離れる時は、皮をはがれるように苦しく、顔と顔をすり合わせ、日と目を交わして嘆き、しだいに離れて由比の浜、稲村、腰越、酒勾(匂)、箱根坂と一日、二日と過ぎるほどに歩むごとに遠くなって、その歩みを川も山も隔て、雲も隔ててしまうので、身に添うものはただ涙、ともなうものはただ嘆きばかりで、その心中の悲しみはいかばかりであろう――。
 まるで大聖人御自身が直接、体験されているかのように、こまやかに語られている。旅人の歩みとともに、大聖人の思いも歩み、寄り添っておられるかのようである。庶民の苦悩の心情にそそがれた、御本仏の大慈大悲が仰がれてならない。
 戦争も動乱も、あってはならない。いつも苦しむのは民衆である。その民衆の心を、大聖人は知悉されている。驚くばかりである。
 仏法の根本は「慈悲」である。「慈悲」があれば、戦争は起こらない。
 民衆一人一人へのあたたかい「共感」と「同苦」の力、庶民の心を包みこむ豊かな「慈愛」の力――。これこそ、あらゆる指導者にとっても、目標とすべき点であり、謙虚に身につけていくべき要件であろう。
 他人の痛みに思いを馳せる心、すなわちあたたかい「思いやり」ほど、現代に衰えているものもない。むしろ一部のマスコミのように、他人の不幸を糧にし、なければ勝手に作り上げてまで利益を得ようとするのが、世間の多くの現実なのである。
 こうした社会にあって、妙法を持つ皆さま方は、豊かな「知性」と「勇気」「慈愛」で庶民を守りゆくリーダーであっていただきたい。民衆を苦しめるあらゆる権威・権力と戦いぬく、決然とした実践をお願いしたい。(拍手)
18  ともあれ私は、皆さま方が立派に力強く成長されんことを、ひたすらに願い、祈っている。私自身は広宣流布のため、また大切な同志のために、身命は惜しまない。何も恐れるものはない。時代・社会がどのように変軽しようと、信念の大道を堂々と進んでいく決意でいる。
 ただ願ってやまないことは、永久不変の「妙法」だけは世界に弘めておきたい。そして「学会精神」だけは、なんとしても後世に残しておきたい、ということである。それが人類を幸福と平和に導く″正義の中の正義″の道だからである。これが、現在の私の率直な心情である。(拍手)
 最後に、皆さま方が晴れやかに、よき新年を迎えられるよう念願し、また「本日お目にかかれなかった方々に、くれぐれもよろしくお伝えください」と申し上げ、私のスピーチを終わりたい。
 (東京上野池田講堂)

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