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日蓮大聖人・池田大作

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第二十四回本部幹部会 永遠に轟く生命の凱歌を

1989.12.20 スピーチ(1989.8〜)(池田大作全集第73巻)

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1  「人生も、信心も強気で」
 この一年間、本当にありがとうございました。ご苦労さまでした(拍手)。波瀾万丈ともいうべきこの一年を、皆さま方は懸命に動き、戦い、すべてを「勝利」で飾ってくださった。(拍手)
 妙法は、一切の難も、一切の労苦も、一切の歴史も、すべて限りなき法楽へと転じゆく法則である。成仏という永遠の幸福軌道に入る「因」となり「力」となる。ここに、世俗的な法則とは根本的に異なる妙法の極理があり、日蓮大聖人の仏法の真髄がある。
 この一年も、私は病の人に対しては、懸命に平癒の祈念をさせていただいた。亡くなった方に対しては、真剣に追善の唱題をしてきた。
 また、全会員、さらには世界中のSGI(創価学会インタナショナル)メンバーの健康と福徳と長寿、そして無事故を、祈りに祈りぬいてきた。これからも、変わることなく、題目を真剣に送らせていただく決意である。
 どうか明年は、いちだんと福運に満ちた、偉大なる自身の歴史をきざみ、すばらしき幸福の大境涯を開いていかれるよう念願してやまない。そして、百獣の王たる獅子のごとく、何ものも恐れず、堂々と進み、生ききっていただきたい。(拍手)
2  私どもの前途には、権力の迫害もあれば、さまざまな妨害もある。しかし、決して驚くことではないし、恐れる必要もない。信仰ゆえの難であれば、それはむしろ信仰者の誉れであり、大いなる喜びである。少なくとも、私は戸田先生の弟子として、そうした思いで、今日まで生きてきたつもりである。
 戸田先生は晩年、「人生は強気でいけ。信心も強気でいけ」と指導された。いかなる事態にも、いささかも動ぜぬ強さ、大きさがなければ、広宣の荒海を乗りきっていくことはできない。弱々しい自分では、魔も破れない。敵も倒せない。結局、人生の戦いに敗れ、不満の人生で終わる。
 ゆえに私どもは、この戸田先生の指導をあらためて心にきざみ、明年へ「強き心」で前進していきたい。(拍手)
3  ところで、火山活動を起こすマグマの成り立ちについて、定説はないけれども、一つの可能性として考えられていることにふれておきたい。マグマとは、地下深くで生まれる溶融状態の物質のことをいう。高熱、大量のマグマが一体となって上昇し、地上に噴き上げる現象が噴火である。そうしたマグマは、どのように発生するか。
 何らかの原因で、地中に温度上昇や圧力低下が起こる。すると鉱物粒子の一角が溶ける。それがマグマの最初の一滴である。しかし、それはきわめて微小な″一滴″にすぎない。
 それがマグマの流れとなり、大河となるのは、マグマの一滴が自身も着実に拡大しつつ、他の一滴一滴と網目状に結合し、いわば″液のネットワーク″を構成するからである。ここから確かな流れが生まれ、さらなる温度の高まりとともに、マグマは周囲の鉱物粒子をも巻き込み、一団となって上昇を開始する――。
 最初は、微小で影響力も小さかったマグマ。それが、確かな″ネットワーク″を作り、限りなく広がっていくとき、信じられないような爆発力を発揮する。
 人間社会においても、同じ道理があるといってよい。一人一人の「個人」は、小さな存在かもしれない。しかし、それぞれが成長しながら、連帯と信頼の輪を結んでいくとき、個々の力は絶大なパワーとなり、信じられないような爆発力となっていく。
 ゆえに、団結が大切である。とともに、それ以上に″最初の一滴″が大切なのである。″最初の一滴″がなければ、連帯も、拡大も、決して生まれえないからだ。
 ガンジスの大河も、源の一滴に始まる。広大な広布の流れも、日蓮大聖人お一人から始まった。戦後の学会が戸田先生お一人からスタートしたことは、ご承知のとおりである。
 「一人」こそ「万人」の基であり、一切の根本である。
 ともあれ自分という「一人」には、それだけの使命と、力と、責任があることを知らねばならない。
4  タイ民衆に尽くされる国王
 さて先日(一二月十五日)、タイ王国のチュラポーン王女が、創価大学で記念講演をされた。テーマは「南タイの洪水多発地帯における復興と総合開発」である。
 創大は、すでにタイのチュラロンコン大学、タマサート大学と交流協定を結び、活発な学生の交換を続けている。今回の王女のご来訪は、若き世代にいちだんと日タイの友好と相互理解を進める有意義な機会となったと確信している。(拍手)
 王女のご訪問は三度目である。前回は本年四月。桜の咲きにおう季節であった。父君プーミボン国王ご撮影の特別写真展のオープニングに出席してくださった。(=四月六日から五月七日まで、東京富士美術館で一般公開)
 その折、王女は、展示を鑑賞されながら、私に、一枚一枚、解説してくださった。ご家族の写真の前では、懐かしそうに、満面に笑みをたたえられた。
 また、山林を走ってきたジープが川を渡る写真の前では、「父は、こうしてタイの国土を走ることが好きなのです」と話されていた。
 実際、国王は、いかなる地であれ、みずから足を運び、視察されることで有名である。道なき高地にはヘリコプターを使って行かれる。その視察のお姿も、きわめて行動的である。肩にはカメラ、ベルトには無線機を掛け、手には地図と赤鉛筆。靴はジャングル・ブーツである。
 気軽に村人に声をかけられ、草の上に座って懇談される。病気の人はいないか。教育は普及しているか。こまかに声を聞き、民の心を吸い上げていかれる。病人に対しては、すぐさま随行の医師団が診察する。
 また、ダムをどこに造るか。道をどこに開くか。どの作物がもっとも収益を上げるか。国民と徹底して協議し、話しあわれる。こうして国王は、現場の声に応じて、次々と開発プロジェクトを起こされ、その数は一千にもおよんでいる。
5  徹底して現場の声に耳をかたむけ、一人一人のために真摯に行動しぬく――ここに真実の指導者の姿がある。
 私は、戸田先生の戦いに、そのことを学んだ。先生はよく質問会を持ち、悩みの人の声を、ていねいに聞いてくださった。当時、本部の会長室にまで、多くの会員が指導を受けに来ていたものである。
 一人一人の苦悩や課題に対し、先生は、つねに明快であられた。即座にわかりやすい言葉で回答され、あたたかく包容された。真心の励ましで、希望と勇気をあたえられ、会員は、それまでの苦悩がウソのように晴ればれと、強い確信に満ちて帰路についていった。悩める庶民に対して、どこまでも真剣であり、誠実であられた。ここに、創価学会の誉れの伝統精神がある。
 ゆえに、会員に対し、いいかげんな態度で接したり、傲慢に振る舞うような幹部は、この尊い伝統を破壊する″悪しき人″にほかならない。どうか、皆さま方は、苦しむ同志に対して、ある意味でその人以上に悩み、考えぬく「同苦」の心で、誠実に激励していただきたい。(拍手)
6  タイのために、国民のために、国王は働いておられる。そんな国王の若き日に、次のようなエピソードが伝えられている。兄君である前国王が亡くなられた年のことである。
 国王はタイからスイスに向けて出発されようとしていた。群衆のなかを通過した国王の車は、スピードをあげはじめた。そのときである。だれかが、大声で叫んだ。
 「あなたの国民を見捨てないでください」と。
 一人の民衆の心からの叫びであった。
 その言葉を聞かれたとき、国王は、あらためて″自分の肩に、タイの民衆を幸福にする責任がかかっている″と、自覚されたそうである。それは国王の十八歳の時であった。
 今日のタイ王国の発展、繁栄を築かれたのも、国王がこうした思いを持ち続けてこられたがゆえであるにちがいない。
 あるとき、国王は、国家をピラミッドにたとえて次のように語られていた。ピラミッドといえば、国王が頂点で、その下に民衆の広がりがある形となる。
 「しかし、この国では、ピラミッドは逆さまである。だから私は、時々、ここらへんが痛いんだよ」と、笑いながら首や肩を指さしておられたという。
 国民のために――との、国王の思いが、よく伝わってくる話である。
 指導者は人々のためにこそある。
 私も、皆さま方の屋根となり、防波堤となって戦ってきた。わが身を大法弘通のために、ささげきってきたつもりである。その信念は生涯、いささかたりとも変わることはないだろう。それが、御本仏に対する、もっとも正しき報恩の念であり、皆さま方に対する誠であると思うからである。
 上手に策を使って人々をだましていく指導者は、私は大きらいである。また、われわれは、それらをすべて見抜いていかねばならない。
7  国王には、一人の王子と二人の王女がおられるが、父である国王の、こうした姿を目の当たりにしながら、王子、王女たちは成長されていった。それは、二番目の王女であるシリントン王女の詩に、如実に示されている。
 シリントン王女とは、秋谷会長が会見しているが、たいへんに聡明な王女であられる。王女は、父でもあり、師でもある国王から学んだことを、次のようにつづっている。
  
 苦悩に向かっては
 粘り強く 賢くあれ
 そして
 理想をもつ幸せを知れ
 我が子よ ユ訓進だ―
 もし、おまえが父の道を
 歩きたいと思うなら
  
 国王の思いを胸に、王女もまた、人々のために行動し、尽くされている。
 シリントン王女が、日本を訪問されたときのこと。マスコミから、ご自身の結婚について質問を受けられたことがある。
 王女は、こう答えた。一度も考えたことはありません。一人でいるほうが、いつでも、どこにでも行くことができるからです、と。
 タイのために、タイの民衆のために働こう――との強い思いを、さわやかに示された言葉であった。
8  妙法で自在の幸福境涯
 日蓮大聖人は、御書に「我等が一念の妄心の外に仏心無し九界の生死が真如なれば即ち自在なり所謂南無妙法蓮華経と唱え奉る即ち自在なり」と仰せである。
 つまり、われわれの生命の中にある迷いの生命を離れて、仏界の生命もない。悩み、苦しみの九界の生命を離れて、どこか他に幸福に満ちた仏界の生命があるわけではない。迷いの凡夫の生命がそのまま妙法の当体なので、その活動は自在となるのである。すなわち、迷いの苦悩の生命は、御本尊の妙光に照らされて、苦悩に束縛されない自在の生命へと輝いていくのである。
 現実の人生は、悩みと苦しみの多いものかもしれない。しかし、苦しみは苦しみの人生のまま、悲しみは悲しみの人生のまま、題目を唱えぬき、妙法に照らされていけば、福徳に満ちた自由自在の境涯を開いていける。仏の生命の軌道へと入っていけるのである。
 完全無欠の人間だけが幸福になれるというのではない。また、悩みも迷いもない完全な人間がいるわけでもない。悩みは悩みのままに、苦しみは苦しみのままに、自在の幸福の境涯を築いていけるのが、大聖人の仏法であり、私どもの信心である。
9  宗教こそ人生の根本事
 さて先日(十二月七日)、私は南米・コロンビアのバルコ大統領とお会いした。またそのさい、大統領から「コロンビア共和国功労大十字勲章」をお受けした。(拍手)
 コロンビアの首都は、ボゴタ(=現在はサンタフェデボゴタ)――私はかつてベル―からの帰途に、給油のための二時間ほどではあったが、ボゴタの空港に降り立ったことがある。夜中の二時ごろであった。あのとき仰ぎ見た満天の星々の輝きを、今なお鮮明に思い出す。
 そのボゴタは、標高約二六〇〇メートル。赤道の近くに位置するが、一年中、春のような気候であり、「常春の都」と呼ばれている。また、三千種といわれるランの花が咲き香る都でもある。
 またコロンビアと日本との交流の歴史も、久しい。「十一月十八日」といえば「創価学会創立記念日」であるが、本年のこの日は、日本人のコロンビア移住六十周年にもあたっていた。
 日本政府がコロンビアヘの邦人移住を認めたのは、一九二六年。『知られざるコロンビア』(藤本芳男、サイマル出版会)によると、移住の背景には、あるロマンがあつたことが伝えられている。
 ――一九二〇年代、スペイン語文学界の名作に、コロンビアを舞台とした小説『マリア』(ホルヘ・イサック著)があった。これを読んで、まったくの未知の国のコロンビアに魅せられた青年四人が、一九二三年(大正十二年)に農業実習生としてまず渡航。この地が移住地として将来性に富んでいることを確かめ、移住を決意した、というのである。
 こうして最初の移住が行われたのが、一九二九年(昭和四年)十一月十八日。当時、日本郵船の「楽洋丸」で到着したのは、五家族二十五人であった。その後、一九三五年までに計二十家族、百六十人余が移住した。移住者のなかには、機械化農業経営などで成功した方も多く、日系人は現在、一世から四世まで、千七百人にのぼるという。
10  逆に、コロンビア人で最初に来日した人は、ニヨフス・タンコ・アルメーロという旅行家であった。彼は一八七四年(明治七年)に、サンフランシスコから蒸気船で横浜に着き、一カ月あまり滞在。京都、神戸、大阪とまわるなかで、日本の歴史、経済、風物等についてこまかく記録し、のちに旅行記を出版している。
 彼は、古代の日本人が使っていた石器と、コロンビアのインデイオの道具を比較するなど、日本に旺盛な観察眼を向けている。なかでも、宗教についての日本人観は厳しい。
 京都で神社、仏閣を見て歩いた彼の感想は、「日本人という人種はいまだ道徳的に遅れており、一定の宗教に対する確固とした信仰心を持っていない」「日本人は基本的に懐疑的で、(宗教に)無関心で、不信心で、その知性の程度からして大きな宗教的問題や真の人間の運命についての洞察にまでいたっているとは思えない」(前掲『知られざるコロンビア』)というのである。
 彼自身は、厳格なカトリック信者であった。一神教の伝統に育てられた眼には、多種多様な神仏がまつられる日本の宗教的風土が、異様に映ったことだろう。また、当時と現代とでは、宗教事情も異なる。しかし、それはそれとして、彼の言葉は、はからずも日本人の宗教意識の特質を言い当てているとはいえまいか。
 信仰の対象があいまいで、宗教に対する確信がない――日本人の一般的な宗教意識は、今も変わりはない。そして、そうした宗教意識が、日本人の自我の弱さ、付和雷同性と深くかかわっていることは、多くの指摘がなされているとおりである。
 宗教への確信なくして、人生への確信はない。確固たる信仰心なくして、深き人間観は生まれない。いかなる宗教を持つかは、まさに人生にとっての根本事であろう。
 日本に根ざしたあやふやな宗教意識を打ち破り、人々の心に確固たる信仰の台座を築いていく――私どもが進める仏法運動の大きな意義が、ここにもある。
11  「生命尊重」の不軽菩薩の実践
 先日(十二月十三日)、世界的な平和学者である、ハワイ大学のベイジ教授と会談した。
 「非暴力社会」「非殺人社会」への道をめぐって語りあうなか、私は法華経に説かれる「常不軽菩薩」の行動を紹介した。
 ご存じのように不軽菩薩は、″どんな人間にも、もっとも尊い仏性がある″として、「生命」と「人間」を最大に尊重する行動を展開した。自分自身は人々から軽んじられ、さまざまな暴力を加えられたが、だれ人も軽んぜず、「非暴力」を貫いた。そこには、生命の絶対的尊厳への深い示唆がある。
 さらに不軽菩薩については、大聖人ご自身が「不軽の跡を紹継する」と仰せである。すなわち、不軽菩薩の実践は大聖人の御精神であり、そのお心を紹継(正しく受け継ぐこと)すべき私どもにとっても、行動の重要な範なのである。
 大聖人は不軽菩薩の修行について「松野殿御返事」に、わかりやすく、こう教えられている。
 「過去の不軽菩薩は一切衆生に仏性あり法華経を持たば必ず成仏すべし、彼れを軽んじては仏を軽んずるになるべしとて礼拝の行をば立てさせ給いしなり
 ――過去の不軽菩薩は「一切の衆生には、みな仏性がある。法華経を持つならば必ず成仏する。その一切衆生を軽蔑することは、仏を軽蔑することになる」と言って、一切衆生に向かって礼拝の行を立てられたのである――と。
 ″人間を軽んずることは、仏を軽んずることである″――不軽菩薩の人間尊重の行動は、法華経の深遠な生命観に裏づけられている。
12  ちなみに、この「常不軽」とは、サンスクリツト語の「サダーパリブータ」の漢訳の一つである。そして、この言葉をどう訳すかは、訳者によって違いがみられる。
 たとえば、現在に伝えられている三種類の漢訳法華経のうち、もっとも古いとされる「正法華経」(竺法護訳)では、「常被軽慢」となっている。つまり、他の人々から「常に軽んじられていた」ということで、サンスクリットの原文を直訳した意味あいになるようだ。
 これに対し鳩摩羅什は、「妙法蓮華経」の中で、同じ言葉を「常不軽」と訳した。これは、他の人を「常に軽んじない」という意味である。
 「軽んじられていた菩薩」と「軽んじない菩薩」。いずれも同じ菩薩の二つの側面を示したものだが、修行者の本質としてどちらに力点を置くかに、訳者の解釈の違いが表れている。
 これは羅什が、受動から能動へ、受け身から自律へというとらえ方の転回によって、修行者のより積極的な性格を示そうとしたものとも考えられる。羅什の「妙法蓮華経」が、経典の本質をとらえた名訳とたたえられる所以は、こうした面にも表れている。
 さて、大聖人は「御義口伝」の中で、次のように仰せられている。
 「不軽とは一切衆生の内証所具の三因仏性を指すなり」――「不軽」とは一切衆生に本然的に具わっている三因仏性をさすのである――と。
 三因仏性とは仏になるべき三種の性分のことで、(1)「正因仏性」(一切衆生が本然的に具えている仏性)(2)「了因仏性」(仏性を覚知していく智慧)(3)「縁因仏性」(仏性を開発していく助縁)のことをいう。
 つまり、不軽菩薩は、いかなる衆生にも三因仏性が具わっているとして、ひたすら礼拝の行を続けたわけであるが、大聖人は、「不軽」そのものが「三因仏性」という「尊い仏の生命」を意味していることを教えられている。
 いずれにしても「常不軽」という言葉それ自体、″一個の生命は地球よりも重い″という絶対的な生命の尊厳を示唆しているともいえよう。
13  仏法は最大に人間を尊重
 ところで、不軽菩薩が出現したのは「威音王仏の像法時代」とされる。それは、どんな時代であったか。法華経の「常不軽菩薩品第二十」には「是の仏の滅後 法尽きなんと欲する時」(開結五七三㌻)――この威音王仏という仏が入滅して、正しい法が尽きてしまおうとする時――と説かれている。また「増上慢の比丘、大勢力有り」(開結五六七㌻)――増上慢の僧が大勢力をもっていた――とある。
 現代的に言えば、正しき「哲理」が見失われてしまった時代である。権威にうぬばれ、おごりたかぶった勢力が、わがもの顔で「人間」を軽んじ、見くだしていた時代でもあった。
 そのいわば「哲学不在」「宗教不在」「人間蔑視」の時代にあって、不軽菩薩はただ一人、「正法」を声高らかに主張した。そして「人間」を最大に尊重する行動を勇敢に繰り広げていったわけである。
 できあがったものは、何一つない。頼るべき人もだれ一人いない。まったくのゼロからの出発であった。不軽菩薩は、すべてを自分一人の猛然たる行動で創り始めたのである。
 学会の歩んできた道も同じである。戸田先生は、ただお一人で学会の再建のために立たれた。その心を知る人はだれもいなかった。私は戸田先生の弟子として、この「常不軽」の精神で、これまで広布発展の基盤を築いてきたつもりである。
 何もないところに、ただ一人踏み込み、猛然たる行動で広布の沃野を切り開いていく。これこそ、学会精神であり、とくに学会青年部の心意気であると申し上げたい。(拍手)
14  不軽菩薩の行動は果敢であった。日々、まさに戦闘であった。ともかく人がいればそこへ行き、だれもが仏になれることを説いて歩いた。
 法華経には「遠く四衆を見ても、亦復ことさらに往いて」(同㌻)――遠くに在家・出家の男女を見かけると、そのつど、わざわざ近寄って――とある。
 ″自分が動いたぶんだけ広布の舞台が広がる″″自分が語ったぶんだけ、友らに仏法との縁を結ばせることができる″――こうしたわが同志の日々の息吹と行動は、不軽菩薩につながっているといえよう。
 しかし、不軽菩薩に対して、人々は容赦なく悪口罵詈した。さらには、杖で打ったり、石を投げたりという暴力まで加えた。そんな時に不軽はパッとその場から離れ、今度は遠くから大声で「我敢えて汝等を軽しめず」(開結五六九㌻)――私はあえて、あなた方を軽んじません――と叫んだ。しぶといと言えばまことにしぶとい行動の連続であった。
 「不軽の跡を紹継する」と言われた大聖人の御生涯は、そのお言葉どおり、大難の連続であられた。そして、末法万年にわたって一切衆生を救済しゆく妙法の大道を開かれたのである。その崇高なる御精神を拝し、御遺命のままに広布に進む学会に、言われなき非難や迫害があるのは当然である。
 ゆえに、どのような理不尽な攻撃を受けようとも、私たちは何とも思わない。経文に照らしてみるならば、これほどの名誉と誇りはないからだ。むしろ攻撃されればされるほど、広布発展の道が大きく開かれていくことを確信し、勇んで前進していただきたい。(拍手)
15  話は変わるが、和泉副会長(現、最高指導会議議長)がまだ二十代のころに、牧口先生と一緒に折伏に行った時の思い出をうかがったことがある。
 当時、牧口先生は七十歳前後であった。和泉青年が約束をとり、ある憲兵隊の将校のところに折伏に出かけた。ところが、せっかく牧口先生に足を運んでもらったにもかかわらず、その将校がいない。約束を破って外出してしまったようだった。
 和泉青年は″牧口先生に申しわけない″と恐縮した。また″約束のしかたが悪いからだ″と怒られても当然だと思った。しかし、牧口先生は何の文句も言われず、ひとこと「向こうは逃げたのだから、こちらは勝ったのだ。それでいいのだ」と励まされたという。
 牧口先生のお人柄と、指導者としてのお心の深さがしのばれる話だと思う。
 一生懸命に戦っている人に、何か不都合なことがあったとしても、決して叱ってはいけない。皆が楽しく張り合いをもてるようにしていくのが、リーダーの役目である。大きな気持ちで励ましてあげることが大事である。とくに幹部の方々は、後輩・同志が「自分は勝った」と言いきれる法戦の歴史をきざんでいけるよう、朗らかに、また毅然と指揮をとっていただきたい。
16  釈尊を手本としたガンジーの「非暴力」
 さて、「非暴力」の精神を現代に展開した人に、インドのガンジーがいる。彼は歴史上の「非暴力」の手本の一人として、釈尊をあげている。
 すなわち、「敵に指一本ふれなかった」が、精神の力で、堂々と、提婆達多ら傲慢な反逆の徒を屈服せしめた。ガンジーは、そこに注目するのである。
 ガンジーはまた、こんなことを言っている。
 「私は手におえない楽観主義者である。私の楽観主義は、人間ひとりひとりに非暴力を展開させる無限の可能性が備わっているという信念によるものである。非暴力は、自分の人生において展開させればさせるほど、伝染性は強まり、ついには、周囲を圧倒し、次第次第に世界を支配することになろう」(K・クリパラーニー編『抵抗するな・屈服するな――《ガンジー語録》』古賀勝郎訳、朝日新聞社)
 「非暴力」は、必ずや人類に″伝染″し続け、世界に広まっていくにちがいないとの、ガンジーの大確信である。
17  かつて私は戸田先生に「どういう人が偉いのでしょうか」と質問したことがある。
 すると先生は、にっこり笑って即答された。
 「確信のある人だよ。人生は、また、すべては確信だよ」と。
 学問、知恵、その他、人間にとって価値あるものは、たくさんある。しかし、そのなかで、戸田先生がただちに「確信」をあげられたことに、深い意味が感じられてならない。
 もちろん正法への確信ということが大前提であるが、さきほど「強気で」と申し上げたとおり、確信なき弱き一念では、勝利の人生を切り開いていくことはできない。境涯も開けないし、祈りもなかなか実現しない。
 強く深き「確信」こそ、生きゆく根本の力である。確信の人には、グチがない。弱音もない。希望がある。いつも朗らかである。また人にも希望をあたえていくことができる。人生が広々と開かれていく。(拍手)
 ガンジーといえば、昨年、私はガンジーの高弟であるラマチャンドラン博士から、意義ある「ラマチャンドラン賞」を贈られた(一九八八年一月)。また、同じくインドの国際平和非暴力研究所から、「国際平和賞」を頂戴した(同年一二月)。
 不軽菩薩の「非暴力」の精神を現代に実践している私どもへの、大いなる評価と期待と受けとめたい。(拍手)
18  不軽菩薩は、生涯、迫害の連続であった。もっとも偉大でありながら、生涯、つねに″軽んじられ″続けた。しかし、生命の因果は厳然としている。
 まさに臨終という時、不軽は自身の生命を荘厳するさまざまな功徳(法師功徳品に説かれる六根清浄の功徳)を得る。そして寿命を二百万億那由佗歳も延ばして、広く人々のために法華経を説いたとされている。
 一方、不軽を、さんざん嘲笑し続けてきた増上慢の人々も、不軽がこのように、自在の弁論の力(舌根清浄)などを得た事実を見、その威徳にふれて、ついに信伏随従する。
 そして不軽は生々世々、数かぎりない仏と巡り会い、いずこにあっても、何も恐れるものがない大境涯で、法華経を弘め続けた。そして無量ともいうべき、計り知れない福を得ていく。この不軽が釈尊の過去世の修行の姿である。
 反対に、増上慢の人々は、後悔したものの、不軽を軽んじた罪を消しきることができず、二百億劫もの長い間、仏にも会えず、仏法を聞くこともできず、千劫の間、阿鼻地獄で大苦悩を得る。
 その後に、ようやく不軽とふたたび巡り会うことができ、教えを受けたと説かれている。
 まことに壮大なる、また厳粛なる生命のドラマである。
 私どもも大聖人の門下として、「不軽」の道を歩むゆえに、だれよりも正しいことをなしながら、つねに理不尽に軽んじられる。時には、悔しい思いをすることがあるかもしれない。しかし、経文に照らして、だからこそ真実の仏法の功徳がわくのである。無量の福徳で荘厳された自身となっていく。
 ゆえに何があっても、「不軽の勝利」でこの人生を飾り、また永遠に続くわが生命のうえに証明していっていただきたい。(拍手)
19  「常不軽の精神」で生きぬけ
 大聖人はこう仰せである。
 「過去の不軽菩薩は法華経を弘通し給いしに、比丘・比丘尼等の智慧かしこく二百五十戒を持てる大僧ども集まりて優婆塞・優婆夷をかたらひて不軽菩薩をり打ちせしかども、退転の心なく弘めさせ給いしかば終には仏となり給う
 ――過去の不軽菩薩が法華経を弘通された時、僧や尼で、知恵があり、二百五十戒を持つとする権威ある高位の僧たちが集まり、在家の男女をかたらって不軽菩薩を罵詈し、暴力を加えた。しかし不軽菩薩は退転の心なく法華経を弘められたので、ついには仏となられたのである――。
 不軽に浴びせられた「悪口罵詈」「杖木瓦石」の集中攻撃。大聖人は、その背景に、権威や邪智の者の″連合″による陰湿な策謀があったことを示されている。
 大なり小なり、いつの時代にも、こうした現実は変わらないのかもしれない。
 ともあれ不軽は、断じて退かなかった。負けなかった。″進まざるを退転″――この、前へ前ヘと勇んで進み続けた不軽の姿にこそ、不滅の学会精神がある。
 そして、最後に不軽は、永遠に轟きわたる生命の凱歌をあげた。それは厳然たる″仏法は勝負″の証であった。
 「御義口伝」に、こう明言されている。
 「所詮しょせん今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は末法の不軽菩薩なり」――詮ずるところ、今、日蓮大聖人およびその門下として、南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は、末法の不軽菩薩である――。
 当然、「総別の二義」があることは、言うまでもない。ただ、いずれにしても、私どもが大聖人の御精神に連なり、さまざまな圧迫に負けず、妙法を唱え、猛然と思想戦・言論戦、広宣流布の戦いを進めていく。そこに無上にして永遠の「生命の栄冠」が、自身に輝いていくことは、絶対に間違いない。(拍手)
20  また大聖人は、不軽の姿をとおしながら、教えられている。
 「法華経を持たざる者をさへ若し持ちやせんずらん仏性ありとてか
 ――不軽菩薩は法華経を持っていない者でさえも「もしかしたら持つかもしれない。本来、仏性があるからである」として、このように敬い礼拝された。まして、法華経を現に持っている在家、出家の者を、敬わないでよいことがあろうか――。
 この御文を拝すれば、同信のわれらをさげすみ、下に見るような行為が、どれほど大聖人のお心に反しているかは明白である。
 大聖人の仰せどおり、在家も出家も、ともに尊敬していくことが正しい。そこに法華経の精神もある。
 明年は、いよいよ大石寺の開創七百年。また学会創立六十周年の佳き年を迎える。私は、全世界の友が、一人ももれなく、健康で朗らかに、楽しく、最高にすばらしきお正月をお迎えくださることを、祈りに祈って、スピーチを終わりたい。
 (創価文化会館)

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