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日蓮大聖人・池田大作

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第十八回全国青年部幹部会 みずからの″不朽の日記″をつづれ

1989.12.9 スピーチ(1989.8〜)(池田大作全集第73巻)

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2  人生に最高の価値を求めよ
 今の世の中には、価値判断の基準がなくなってきている。人々は、何を、どう判断すればよいのかわからない。「哲学不在」の時代といわれるゆえんである。
 人間と動物の大きな違いは何か。それは「哲学」をもつか否かである。人間だけが哲学を探究し、人生のより高き価値を築くことができる。
 ゆえに諸君も、確固たる人生のために徹して学び、真実の「価値」を探究しぬいていっていただきたい。″安易さ″を求め、″要領″だけでその場をしのいでいくような浅薄な生き方では、結局、自分が損をするからである。
 そこで本日は、未来ある諸君の何らかの糧になればとの思いから、先日もボローニャ大学一行との会談の折(=十二月三日、ボッキ教育学部長らと会見)に話題となったダンテについて、昔の記憶を思い起こしながら、話を進めさせていただきたい。(拍手)
3  今月五日から東京富士美術館で「ボローニャ大学特別重宝展」が開幕し、反響を呼んでいる。
 創立九百年の歴史と伝統を誇るイタリアのボローニャ大学等が所蔵する貴重な資料の数々が公開された今回の出品のなかに、イタリア最大の詩人ダンテ(一二六五年〜一三二一年)の代表作である『神曲』がある。これは『神曲』が発表された十四世紀ごろの手書きの写本で、ボローニャ学派風の書体で書かれている。
 ダンテ自身も、二十一、二歳ごろの若き日に、ボローニャ大学で学んだ一人であった――。
 ダンテといえば、私もちょうど二十歳から二十二歳の時分に、何十回となく繰り返し読んだ。難解であったが、「どうしてもわかりたい」との一心で、それこそ毎晩のように読み返したものである。
 私の青春時代は、恩師戸田先生のもとであらゆることを学び、徹底して訓練していただいた。御書も「立正安国論」をはじめとして、重要な御文はすべて暗記して学んだものである。そうした青春の鍛えがあってこそ現在の自分があると、感謝の思いは尽きない。
 また、私が入信する前になるが、戦後間もないころ、青年同士の読書サークルで『神曲』を取り上げ、イタリア・ルネサンスの精神をめぐって、若き友人たちと真剣に語りあったことも懐かしい。
 そして八年前の一九八一年六月には、フィレンツェにあるダンテの「記念の館」を訪問し、彼の偉大な生涯を偲んだ思い出がある。
 今後は青年部の諸君にも、世界の歴史と文化を学び、大きな視野と国際性を培う意味からも、インド、中国やアメリカ、南米などへ派遣する機会をつくってはどうかというのが、私の願いである。(拍手)
4  かつて、トインビー博士と対談したさいにも、ダンテのことが話題となった。
 博士もたいへんにダンテを敬愛されていた。その理由について博士は、ダンテが「偉大な芸術を生みだすことによって、自己の私的な不幸を世界の多くの人々にとっての僥倖(=思いもかけない幸運)へと転換したことである」と言われた――。
 たしかに、ダンテは悲運の人生を生きたといえる。両親や愛する人との死別。最愛の故郷フィレンツェからの永久追放――ダンテは三十六歳の時、市民を巻き込んだ政治的紛争により、不当な理由で故郷を追われた。そして五十六歳で生涯を終えるまで、その後二十年間にわたる人生を、イタリア中の見知らぬ街から街へと放浪せざるをえなかった。
 そのゆえであろうか、今に残るダンテの晩年の肖像は、どれも深刻な表情をたたえている。
 のちにルネサンス期の天才芸術家ミケランジェロは、ダンテの追放劇をこううたった。
 「このことは示している
 最高の完成者こそ最大の侮蔑をもって遇されることを」(土岐恒二訳)と。
 偉大な人生への迫害は、ある意味で歴史の常であるともいえよう。しかし、それに打ち勝ってこそ、偉大な人格と事業の完成があるともいえる。
 わが学会も、あらゆる迫害の嵐を乗り越えてきたがゆえに、今日の大発展がある。私も、広宣流布という崇高なる目的があるゆえに、いかなる障害にも屈せず、信仰者としてすべてに勝ち、越えてきたつもりである。(拍手)
 学会員には「不幸」に動じない、たくましさがある。まさにトインビー博士の言う「自身の私的な不幸を乗り越え、世界の人々の喜びのための活動へと転換しゆく」力強さがある。
 初めから恵まれた環境では、それ以上の進歩も成長もない。むしろ、悲運や試練を乗り越えて進む生き方のなかにこそ、真実の人生を謳歌する喜びがあると申し上げたい。
5  運命の挑戦への創造的応戦
 トインビー博士は、大著『歴史の研究』の中でも、ダンテに多く言及されている。博士の叔父さんも、有名なダンテ学の権威であった。
 博士は書いている。
 「フイレンツェに於ける生得権を失うことによってダンテは世界の市民権を獲得した」「(=追放は)詩人を時代と空間の束縛から不朽の傑作の著述に解放した」(『歴史の研究 第六巻』、「歴史の研究」刊行会)
 すなわち、追放によって初めて、ダンテは狭い「フィレンツェの市民」から「世界市民」となった。また、時間・空間に縛られた現世の枠から解き放たれて、「永遠」を祖国とする人間になっていった――と。
 それは運命の「挑戦」に対する、最高の「創造的応戦」であった。ここに、″偉人″と呼ばれる人に共通する、人生の軌道がある。
 存在が大きければ、当然、圧迫も大きい。しかし、圧迫が大きければ、より大いなる知恵と力をふりしぼって活路を開いていく。迫害の風をも、上昇への気流へと変えていく。この執念、この創造的精神をもって、一生を戦いぬいた人こそ偉人である。
6  書くこと、語ること、うたうこと――ダンテにとつて、それは全生命を賭けた戦いであった。
 中国最大の歴史家・司馬遷は、権力による理不尽な迫害に耐えに耐えて、大作『史記』を完成した。彼は言った。
 「この書成りたれば、この身は八つ裂きにされるとも悔いじ」(趣意)と。
 ベートーヴェンの「第九交響曲」が多く聴かれる年末となったが、彼がこの「歓喜の歌」を作った時、彼の生活には何ひとつ歓喜といえるものなどなかった。苦しみの底にあって、彼は「歓喜の歌」をみずからの″胸中から取り出し″、人類に示したのである。
 ダンテも、国外追放の悲哀のなかで、死の直前に、執念の書『神曲』を完成した。
 トインビー博士は、こうした″人類文化の法則″を知りぬいておられた。
 私に対しても、一貫して、″一時の非難など当然である。歯牙にもかけず、歴史における重大な使命を果たしてほしい″との態度で応じられた。
 私は今、四年前の病気への″挑戦″を機に、本格的にスピーチに取り組み、″創造的応戦″を続けている。それもすべて、後世の歴史家と人類に向かっての叫びである。
7  ダンテの不朽の文学『神曲』
 さて、ダンテが『神曲』で意図したものは何であったか。彼は、ある手紙の中で、その目的をこう書いている。
 「この世に生きている人々を、みじめな状態から幸福な状態に導こうとするのであります」(『神曲』山川丙三郎訳、岩波文庫)と。
 仏法でいえば、菩薩的精神ともいえょう。
 『神曲』には「なぜ人間は、苦しく、みじめな状態に堕ちてしまうのか」「いかに生きれば、幸福へと上昇できるのか」という、大いなる問いかけが、はらまれている。
 『神曲』の「地獄篇」には、大きく九つの地獄が描かれている。それぞれ「欲望にとらわれた者」「暴力者」「反逆者」などが、地獄に堕ちて苦しむ姿を、きわめてリアルに表現している。
 ちなみにダンテによれば、「反逆」の罪を犯した者の地獄が、もっとも下部の地獄である。なかでも、恩人(主人)に反逆した人間は、地獄の最低の場所で、氷の中に永遠に閉じこめられている。また魔王に食べられ続けている。
 彼が、どれほど「一晏切り」の罪を重く見ていたことか。
 もとより、主としてキリスト教的な世界観の範疇ではあるが、ダンテは彼なりに、厳しき「生命の因果律」を、垣間見ていたといえよう。
 イギリスのある詩人は、『神曲』について、「永遠の正義の法則」を表現しているとし、それは東洋の言葉でいえば「業(カルマ)の法則」であると論じている。
 なお、『神曲』のもともとの原題は、「喜劇」(喜曲)である。「神聖な」という語は、後世に加えられた。
 なぜ「喜びの劇」なのか――。それは、はじめと途中は苦悩の劇であっても、最後の幸福な結末(至高天への上昇)を迎えるからである。ここに″苦しみから喜びへ″という「宿命ヘの挑戦」の心を読みとれるかもしれない。
8  ダンテの生涯は、日蓮大聖人のご在世と重なっている。
 大聖人は西暦一二二二年から一二八二年のご生涯。ダンテは一二六五年(文永二年)から一三二一年まで生きた。
 大聖人は、地獄と仏界について、こう教えられている。
 「そもそも地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば・或は地の下と申す経文もあり・或は西方等と申す経も候、しかれども委細にたづね候へば我等が五尺の身の内に候とみへて候」――そもそも地獄と仏とは、いずこの場所にあるのだろうかと探究したとき、あるいは地獄は地の下にあるという経文もあり、あるいは仏は西方等におられるという経もあります。しかしながら、詳細に探究してみると、じつは、私たちのこの五尺の身の内に地獄も仏も存在すると説かれております――。
 はるかな天上の世界等に幸福を求めるのではなく、わが現実の生命のなかに、仏界という無上の宮殿を開いていくのが、真実の仏法の実践である。
 また仏法では「現当二世」「本因妙」と説く。
 過去の罪に重苦しく縛られるのではない。つねに今が出発である。妙法を持った瞬間から、わが一念の豁然たる大転換によって、現在より未来へと、永遠に幸福の軌道を上昇していけるのである。
 この軌道をはずれないために、自行化他の修行が必要であり、また正しき指導が不可欠となる。
 飛行機でも地上の管制塔とつねに連携をとり、その指示に従って初めて、誤りない軌道を進むことができる。そうした基本を無視すれば、迷走飛行となってしまう。
9  ところで、『神曲』はある一面からみると、「師弟の旅」の物語といえる。
 この物語のうち、地獄と浄罪界(煉獄)は、ローマの大詩人ヴェルギリウス(前七〇年〜前一九年)が案内者となってダンテを導いていく。
 この師弟の旅は、まことに美しい。師は、時には叱咤し、時には励ます。またある時は教え、ある時は弟子を背負って岩陰に下ろし、ある時はともに語り、つねに弟子を守っている。
 弟子ダンテは師に随順し、信頼し、時には「私を信じないのか」と叱られるが、恭順の姿勢で師に心をゆだねている。
 師弟のうるわしい「心」と「心」の歩み。これが『神曲』の世界なのである。
 「師」なくして、正しき「人生の旅」は不可能である。「師」なき「生命の旅」は停滞か、奈落に落ちるしかない。
 この師が弟子のダンテに言う言葉で、もっとも多いのは「恐れるな」である。
 全編を通じて、ダンテは師に「恐れるな」「勇気を持て」と、繰り返し叱られている。
 恐れずに現実を見よ。現実と戦え――。師の慈愛の励ましによって、ダンテの歩みはしだいに力強くなっていく。
 作者のダンテ自身、巨大な権力を誇っていたローマ教皇に対して、フィレンツェの独立を妨げるとして敢然と戦った。正しき道理のため、自身の信念のため、そして民衆のために、権勢をものともせずに戦いぬいた人である。
 青年は、何ものをも恐れずに正義を守りぬく「信念」と「力」を持たなくてはならない。権威に対して臆病であってはならない。民衆のために、勇気を奮い起こして悪と戦いぬく。ここに仏法者としての根本精神があるからである。
10  人類の″知の宝庫″ボローニャ大学重宝展
 ″世界最古の総合大学″といわれるボローニャ大学は、創価大学と交流を結んでいる。すでにボローニャ大学から創大に二人、創大からボローニャ大学に二人の学生が交換留学に訪れており、創大の創立者として、私は喜びにたえない。
 ところで、「ボローニャ大学特別重宝展」は、″知の宝庫″にふさわしい展示となっている。
 たとえば、ヨーロッパの″知の源流″ともいうべきアリストテレスの『ニコマコス倫理学』。アリストテレス(前三八四年〜前三二二年)はプラトンの高弟で、他にも『形而上学』などの著作がある。
 また″ユークリッド幾何学″で知られる数学者ユークリッド(前三〇〇年ごろ)の『原論』を踏まえた解説書や、天動説を主張したプトレマイオス(二世紀中ごろ)の『天文学集成』、さらにヴェルギリウスの『アエネイス』の写本も公開されている。先に述べたように、このヴェルギリウスは、『神曲』にダンテの師として登場する。
 また数多くの法律書も、ヨーロッパ中世のスコラ学の成果として展示されている。
 さらに、科学の分野では、地動説を主張したガリレオ・ガリレイ(一五六四年〜一六四二年)の著作集が展覧されている。
11  このほか、「インドの雀」の絵を収めた十六世紀の図鑑も出品されている。
 この絵が描かれた当時、ヨーロッパは大航海時代(十五〜十七世紀前半)を迎えており、人々の関心は世界へ、海外へと広がっていった。
 そのなかで東洋へも深い関心が寄せられていったが、その先駆けとして極東の事情を初めて西洋に紹介したのは、イタリア人のマルコ・ポーロ(一二五四年〜一三二四年)である。
 彼の著した『東方見聞録』には、日本がジパングとして登場する。大航海時代の約一世紀前に世に出たこの一書が、東洋への関心を高め、新たな交流への導入線となっていったわけである。
 その意味で、この「インドの雀」の絵は、大航海時代の東西交流の歴史的証言の一つとして興味深い。
12  「特別重宝展」は、西ドイツのフランクフルトで第一回を開催し、たいへんな反響を呼び、三十四カ国から開催の申し込みがあったという。
 これまでフランクフルトに続き、ボローニャ、バルセロナ(スペイじ、レニングラード(=当時、ソ連の現、ロシアのサンクトヘテルブルグ)で行われてきたが、展示品の保存のため、今回の東京での開催が最後になるかもしれないともうかがっている。それほど貴重な「世界の知の宝」の数々を、創価大学ならびに東京富士美術館への深い信頼を背景に、特別に出品してくださったのである。(拍手)
 日本で初めての公開となる今回の展示が、日本とイタリアの新しい文化交流への一つの″柱″となればと念願し、少々、内容を紹介させていただいた。
13  深き「哲学」と「行動」こそ青年の魂
 さて、「ボローニャ大学特別重宝展」の展示の中に、ペトラルカ(一三〇四年〜七四年)の『叙情詩集(カンツォニエーレ』がある。
 ペトラルカは十四世紀、イタリアのルネサンスの先駆を切った大詩人である。「重宝展」には、このペトラルカの『叙情詩集』が出品されていることを知り、はるばると見に行って深く感動した日本の詩人がいたと聞いた。
 ペトラルカは、十六歳から二十一歳までの青年期に、ボローニャ大学で法学を学んでいる。ところで、彼は、生涯、古典をはじめ書物に深い愛着をもち、イタリア国内、さらにヨーロッパ中で、古典の収集を行っている。
 彼にとって収集した書物は、たんなる「部屋の飾り」、いわゆる″積読″(笑い)ではなく、「精神の砦」であった。
 ペトラルカは、若き日の読書を回想し「愛読書」をいかに読んだかを、次のようにつづっている。
 「一度ならず千度までも読みました」「それは、親しく私のなかにはいりこみ、たんに記憶にばかりか、骨の髄にまでこびりついたのです、私の天性と一つに融けあったのです」(近藤恒一『ペトラルカ研究』創文社)と。
 彼にとって読書は、たんに知識を得るためではなかった。精神を鍛え、人格を磨いていくための糧であった。
 ペトラルカは、古典をとおして古の人々と「心の対話」を重ねていた。
  
 彼は、その心境を次のようにうたっている。
 「あらゆる時代が世界中からかれらを送りとどけてくれる。……
 そのだれかれに私は語りかけ、かれらは惜しみなく答えてくれる。
 多くのことを歌い、多くのことを語ってくれる。
 あるいは自然の秘密を明かし、あるいは生と死について深慮を披歴し」
  
 「あるいはまた教えてくれる。――すべてに耐え、
 何ものをも求めず、自己自身を知ることを」(前掲書)と。
 ペトラルカは、自身の心の世界を豊かに広げながら、古の先人たちと、学問を語りあい、詩を語りあい、人間を語りあっていった。それは、自分自身を、さらに深く見つめていくことでもあった。
 青年時代に、読書に励んでいただきたい。書物をどれだけ広く、深く読んだか。それは自分自身をどれだけ広げ、深めたかでもある。
 「行動」と「読書」――これが、青春時代に人間を鍛え、磨いていく原動力となることを忘れないでいただきたい。
14  「民衆の道」を君ら開け
 さて、ダンテは『神曲』を、学問語である「ラテン語」では書かなかった。当時の俗語である「イタリア語」(もとトスカナの方言)で書いた。気どらない、わかりやすい庶民の言葉で、この大作をつづったのである。
 トインビー博士も、私との対談のなかで、次のように語っておられた。
 「ダンテがラテン語でなく、イタリア語で『神曲』を書いたことは、その後のすべての西洋文学にとって、計り知れない重要性をもつことになりました。『神曲』以後は、他の国の人々も、ラテン語で書くことをやめ、それぞれの地で実際に使われている言葉で書くようになりました」
 これは、ある意味で、まさにダンテによる″言葉の革命″であった。文学や学問を、伝統や権威にしばられた象牙の塔に開じ込めておくのではなく、庶民の世界に広々とわかりやすく開いていく――その大きな一歩となったわけである。
 日蓮大聖人も、庶民の門下には、漢字ではなく、当時の知識人や上流社会で軽蔑されていた″かな文字″をまじえてお手紙を送られていることを、今、ありがたく思い起こす。
15  一般の庶民に、どうわかりやすく「精神の糧」を贈るか。人々が″十分に満足した″″とても滋養になった″と喜ばれるものをあたえることができるか。ここに指導者としてのキーポイントがある。
 人々の心の目覚めのために励ましの指導をし、精神の糧を贈ることは、地味なようにみえるが、民衆の「精神の自立」「魂の自由」のために、大いなる革命となっているのである。
 東欧を中心に、「精神の自立」「魂の自由」を求めた新しい「民主」の風が音をたてて吹いている。新たな時代変革の波が渦巻いている。
 わが学会にあっても、青年部諸君が、清新な息吹で立ち上がり、永遠に崩れない「民衆の道」を開いていっていただきたい。(拍手)
16  自身がつづる生命の″日記″
 ペトラルカは、先人の書から「自己自身を知れ」という呼びかけを聞きとった。
 時代や社会は、さまざまに変化する。だが、幸福も不幸も、結局は「自分自身」に帰着する。
 御書に「八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」と。つまり、「八万四千」とも形容される膨大な経典も、すべてことごとく「一人」の生命について記した「日記」の文書である、と仰せになっているわけである。
 自分を取り巻く現実の世界で日々、刻々と起こり、展開されていく出来事は、すべて自分自身の生命がつづっている「日記」ととらえることもできる。
 宇宙より広大なわが内なる「心の世界」に、どのような″日記″を記していくか。三世永遠に続いていく、このわが生命を、どのような人生の″文字″でつづっていくか。喜びあるいは悲しみの色の文字となるか。幸福あるいは不幸のページとなるか。それは時代や社会がどうかで決まるものではない。すべて「自分自身」に帰着するのである。
 青年部の諸君は、今は悩み多き時かもしれない。試練の人生の季節かもしれない。しかし、その苦闘の時代に、自分自身の偉大なる広布の日記をつづっていただきたい。永遠にして不朽の生命の日記を記していただきたいと強く念願する。(拍手)
17  ダンテが、文学と言語の関係について論じた書物が『俗語論』である。これが、後世にあたえた影響は計り知れない。約五百年後のイタリア語の統一にさいしても、言語学者たちに限りない啓示と励ましをあたえている。
 こうした言語の側面だけでなく、イタリア統一に対するダンテの思想的な影響力は絶大なものであった。国家統一に生涯をささげた十九世紀の革命家マッツィーニは言う。
 「イタリアが自由と統一とを得た時には、イタリアの各都市は彼(=ダンテ)のために彫像を建つべきである」――。さらに「ダンテが蒔いた種子は実った」(『人間義務論』大類伸訳、岩波文庫)とも。
 ひとたび蒔かれた高貴なる精神の種子は、たとえすぐに芽吹かなくとも、五百年、千年という歳月のなかで必ずや大きく実る時が来る。あたかも古代の蓮の種子が、数千年の眠りから覚め、みずみずしく花を咲かせるように。
 私どもの日々の活動、広布への″精神の戦い″も、その一つ一つは、一糠の小さな″種″であるかもしれない。しかし、やがてそれらが、茎を伸ばし、枝を広げ、豊かな実を結び、堂々たる大木となる時が必ず来る。短期間に大きな実りを期待したり、功をあせる必要はない。年月をかけて少しずつ成長し、立派になっていくのが自然の道理である。
 今、私は「戸田先生の蒔かれた種は実った」と叫びたい思いである。
 さらにわれわれは、百年、千年の未来を悠々と望みながら、広々とした心で自身の道を進んでまいりたい。(拍手)
18  「ボローニャ大学特別重宝展」に出品されている、ペトラルカの『叙情詩集』も、ラテン語ではなく、イタリアの俗語でつづった、彼の傑作である。
 その一節に、彼はうたう。(「ソネット7」池田廉訳、『世界名詩集大成14』所収、平凡社)
 「『哲学よ、どうして君は憐れな裸で歩くのか』
 利得に夢中の俗衆からも 呟きがもれてくる」
 すなわち、哲学を持ち、高き精神に生きる人に対して、利害に汲々とする俗衆からは侮蔑の目が送られるであろう――と。
 しかし、ペトラルカは力強く呼びかける。
 「友よ 孤高の魂よ およそ利得と縁のない
 君の行く道には語る友とて乏しかろう
 だがそれ故に勇気をだして君の仕事を果すのだ」
 先駆の道に立ち上がった「一人」の勇者。ともに歩む友はなくとも、みずからの使命の道に徹する強靭な精神。その崇高な魂がら、新たな歴史は開かれる。事実、ルネサンスの壮大なる開花も、ペトラルカの先駆の魂によるところが大きい。
 戸田先生も、ペトラルカの詩をこよなく愛しておられた。そのお心は痛いように伝わってくる。
19  「人間」と「法」に建国の基盤
 さて、先日(十二月七日)、南米コロンビアのバルコ大統領と会見した。奇しくも、コロンビアの国旗は「黄」「青」「赤」の三色で、わが学会の旗と同じであり、たいへんに親しみを感じた。
 会見の席で、大統領が印象深いお話をされていた。これまでは、どちらかというと政治・社会の表舞台にいたのは、年配の男性が多い。しかし、これからは、女性と青年を前面に押し出し、大いに活躍の場をあたえていくべきである、と。
 私も、まったく同感である。また現実に、そうしてきたつもりである。
 ちなみに、バルコ大統領の閣僚は、十三大臣のうち、公共事業、労働、鉱山エネルギーの三大臣が女性である。
 南米各国のなかでも、コロンビアは、学術文化の水準が高く、教育に力をそそいでいる。たとえば、公費留学生の数がもっとも多く、また、流麗なスペイン語を話す国として知られてきた。
 そして、特筆すべきは、民主を尊ぶ伝統が強いことである。大統領自身、朧為ぽ語りかけるさいに、必ず「コンパトリオータ(わが同国民よ)!」と呼びかける。これも″国民はだれもが平等である″との人間観の表れであるといわれる。
 こうした民主の気風は、南米解放の父シモン・ボリバルの思想を重んずる伝統によるものであろう。
20  ボリバルは、一八一九年、「大コロンビア」(=現在のコロンビア、ベネズエラ、エクアドル、パナマにあたる。一八三〇年以降に四カ国に独立)を建国し、初代の大統領となった。国づくりにさいし、彼が理想としたのは、「人間」と「法」を根本とした政治であった。
 彼は、法のもと、すべてを率直な話しあいと協議で決めていくようにした。独裁を許さず、他人の意見をよく聞き、自己の誤りも謙虚に正した。そうした姿勢を、彼は政治家の一つの理想とした。(ホセ・ルイス・サルセド=バスタルド『シモン・ボリーバル』水野一監訳、春秋社、参照)
 また彼の言葉に「政府を形成するのは原則ではなく人間である」「私にとって、栄光とはいかによく奉仕するかということであり、命令することにあるのではない」(同前)とあるが、これらは彼の政治姿勢を象徴的に表していると思う。
 こうした伝統を今に伝える国コロンビア。そのさらなる繁栄と栄光を、心から祈りたい。
21  明年は、いよいよ、学会創立六十周年。「青年世紀の年」も第三年を迎える。一年が価値ある五年、十年にも匹敵するような、諸君のご活躍を私は期待したい。
 健康第一に、いっさい無事故であっていただきたい。また、法のため、人のために全力で尽くしゆく広布の活動のなかにこそ、自身の成長と充実と健康が築かれていくものだ。
 小さいことでくよくよする必要はない。楽しい人生、青春を堂々と前進していけばよい。
 いかに幹部であっても、動かない人は、いつしか生命がよどみ、歓喜を失う。同志の信頼も失い、周囲に不快な存在となってしまう。
 どうか諸君は、軽快に、たくましく、動き、戦って、明年も朗らかな勝利の歴史をつづっていただきたい。最後に「よいお正月を」と申し上げ、本日のスピーチとさせていただく。
 (創価文化会館)

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