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日蓮大聖人・池田大作

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第二十三回本部幹部会 最高の「人間性」こそ指導者の要件

1989.11.18 スピーチ(1989.8〜)(池田大作全集第73巻)

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2  「師」の構想実現に「弟子の道」
 さて本日の「聖教新聞」でも紹介されているとおり、初代会長である牧口常三郎先生の主著『創価教育学体系』が英訳され、アメリカ・アイオワ州立大学出版局から発刊された(=英語版タイトルは『創造的人生への教育―牧口常三郎の思想と提案―』デイル・M・ベセル編訳)。先生の著作としては、初の海外出版である。牧口先生の思想がいよいよ世界的に注目され、評価されている証左であり、私どもにとってもこよなき喜びである(拍手)。出版に尽力してくださった関係者にも、心から謝意を表したい。
 そして、手もとに届いた最初の一冊を、私はだれよりも、牧口先生を世界に宣揚されんとした戸田先生にささげたい。その意義から、ここに出席されている子息の喬久さんに贈らせていただく。(同氏に手渡す。拍手)
3  昭和二十八年(一九五三年)十一月十三日、西神田の旧本部から、ここ信濃町の新本部への移転が完了した。そこで真っ先に行われたのは、牧口先生の十回忌法要である(十一月十七日)。また、この十回忌を記念し、戸田先生は恩師の著書『価値論』を出版された。これは『創価教育学体系』の第二巻にあたる。
 牧口先生の一切を後世に伝え、宣揚していく――これこそ戸田先生の悲願であり、ある意味では″すべて″であったと言っても過言ではない。戸田先生に対する私の思いも、まったく同じである。
 戸田先生は、その法要のさい、次のようにあいさつされた。
 「先生は、じつに純真な真面目そのものの方でありました。それほど立派な人が死なれた所は、牢獄の中である」(小説『人間革命 第七巻』)
 そして、社会学者の田辺寿利氏が、昭和五年(一九三〇年)発刊の『創価教育学体系』に寄せた序文を紹介された。
 「一小学校長たるファーブルは昆虫研究のために黙々としてその一生をささげた。学問の国フランスは、彼をフランスの誇りであるとし、親しく文部大臣をして駕をげしめ、フランスの名に於て懇篤なる感謝の意を表せしめた。一小学校長たる牧口常三郎氏は、あらゆる迫害あらゆる苦難と闘いつつ、その貴重なる全生涯を費して、終に画期的なる『創価教育学』を完成した。文化の国日本は、如何なる方法によつて、国の誇りなるこの偉大なる教育者を遇せんとするか」
 この言葉を受けて、戸田先生は激しい口調で叫ばれた。
 「日本の国家が、先生を遇したのは、じつに牢獄における死によってでありました。(中略)私は弟子として、この先生の遺された大哲学を、世界に認めさせなければならない。(中略)私の代にできなかったなら、諸君たちがやってください。頼みます」(同前)と。
 当時、私は二十五歳。戸田先生の言葉は、若き生命にしかときざまれ、清列な光を今も放っている。ゆえに私は″厳粛な師の叫びを絶対に虚妄にしてはならない″との思いで、今日まで行動し、走り、力を尽くしてきた。
 そして、奇しくも学会創立六十周年を前に、初の英語版『創価教育学体系』が出版された。戸田先生こそ、最大に喜んでくださっているにちがいない。(拍手)
4  牧口先生は、つねづね戸田先生に語っておられたという。
 「将来、私が研究している創価教育学の学校を必ずつくろう。私の代に創立できない時は、戸田君の代でつくるのだ。小学校から大学まで、私の構想する創価教育の学校ができるのだ」
 現在、その構想は現実のものとなり、年々歳々、幾多の人材を社会に輩出している。創価大学をはじめ各校には、多くの称讃が寄せられ、世界各国の賓客をも迎える時代となっている。今、牧口先生の夢は、壮麗に実現している。(拍手)
 私は、牧口先生の構想を、何回となく、戸田先生から聞かせていただいた。そのたびに″もしも戸田先生の代で実現しなければ、必ずや私の力で″と決意してきた。「師」の構想を、すべて引き継ぎ、実現していく――そこにこそ、真の「弟子の道」があると信じてきたからだ。(拍手)
5  牧口先生の十回忌法要の折、日淳上人(当時、尊能師)は、こうたたえてくださった。
 「立派な本部が出来て、また牧口先生の遺著『価値論』が出版されるこの意義ある会に臨み感激の至極である。戸田先生が師の道に従い、また師の道を実践しておられるのは法華の師弟相対の信仰そのものであり、皆さんも師弟の道をたてて修行されていることはご立派である。牧口先生は自解仏乗された方と私はしみじみ思う」
 「自解仏乗」とは、「自ら仏乗を解す」と読み、自分自身で仏の境地を悟ることである。もちろん、御本仏たる日蓮大聖人の御境界のことである。そのうえで、ここでは、日淳上人が、牧口先生の偉大なる信心の実践と境涯を称讃しておられるお言葉と拝したい。(拍手)
 また日淳上人は、牧口先生の八回忌法要の折にも、こう述べられた。
 「今晩は牧口先生の祥月命日に当たり、皆さまがお集まりになり、故牧口先生に、読経唱題なされますことは感銘にたえない次第であります。信仰の要諦は師弟相対していくことであります。これをはずせば、千万年をついやせる経綸も戯論となるのであります」
 いずれも、「師弟の道」がいかに深く、重要であるかを示しておられる。
 「師弟の道」こそ、正しい信仰、正しい人生を全うしゆく要諦である。
 「師弟の道」を見失い、自己の「原点」をなくした場合には、大切にしてきた大目的をも忘れ、小さな自身のエゴと虚飾におちいってしまうことがあまりに多い。確たる「原点」を失い、「原点」からの軌道をはずれれば、結局、無常に漂い、いかなる営々たる努力も、幸福と結びつかない人生となってしまう。
6  一切を転じゆく「一心の妙用」
 さて日蓮大聖人は、南条時光に対して、次のように仰せである。
 「いかなる事ありともなげかせ給うべからず、ふつとおもひきりてそりやう所領なんども・たがふ事あらば・いよいよ悦びとこそおもひて・うちうそぶ打嘯きて・これへわたらせ給へ
 ――どのようなことがあっても嘆かれてはなりません。きっぱりと思いきって、所領などについても、自分の思いと違うことが起こったならば、いよいよこれこそ悦ぶべきことであると思って、そらうそぶいて、ここ(大聖人のおられた身延)へおいでなさい――と。
 南条時光は、のちに大石寺の建立に尽力し、宗門草創の大功労者となったが、このお手紙をいただいたとされる建治元年(一二七五年)には、十六歳の青年武士であった。
 大聖人は三十七歳も年下の青年時光に対して「なげかせ給うべからず」と、敬語をつかっておられる。ここにも、大聖人が一人の門下をどれほど大事にされていたかが拝され、まことにありがたく思われる。
 当時、蒙古公このふたたびの来襲も予想され、世の中は騒然としていた。また時光自身にも領地の没収などの事態が起こる可能性があった。しかし、たとえどのようなことがあっても、決して嘆いてはならない。むしろ、苦難や迫害が起これば、これこそ喜ぶべきことと思って、″こんなこと、どうってことない″と平然と胸を張っていきなさい、と励まされているわけである。
 広宣流布の途上には、思いもかけないことが起こるものである。そして信心を妨げ、広布の歩みを阻止しようとする。だが、そうしたことが起こるたびに、宿業を消してくれている、功徳と福運を増してくれている、信心を深めてくれている、広宣流布の時を早めてくれている、と考えていけばよいのである。(拍手)
7  「一心の妙用」という。何が起こっても、それを信心の一念によって、よいほうへ、よいほうヘともっていくことができる。″煩悩即菩提″、″罰即利益″となつて、長い目でみれば、必ず「幸福」のほうへ「勝利」のほうへと現実を変えていけるのである。
 ゆえに、少々の障魔の嵐にひるんでもならない。恐れてもならない。「さあ、何でもこい」との強い心で、悠然と進んでいただきたい。(拍手)
 信心も人生も、臆病では開けない。勇気をもって怒濤を乗り越えてこそ、一生成仏という航海を成し遂げ、「幸福」の大地に到着することができる。(拍手)
8  今、世界を「民主」の風が嵐のごとく吹きめぐっている。先日も「ベルリンの壁」の崩壊という象徴的な出来事があった。民衆を抑圧する権威や権力を打ち破り、″われらの民主の時代を″との潮流が過巻き始めている。
 「民主」とは何か。それを考えさせる、こんなエピソードがある。
 アメリカの開拓時代のこと。ある蒸気船が出発しようとしていた。乗船のため多くの人が列をなして並んでいる。そのとき、一人の男が列を無視して船に飛び乗った。自分が先に乗るのが当然、という素振りである。それはある州の議員であった。
 ″なんてやつだ″と多くの乗客が怒った。
 男は威張った。「俺は、議員だ!『人民の代表』だぞ!」
 人々は言い返した。「何を! 俺たちは、『人民』だぞ!」(笑い、拍手)
 議員は言葉につまって、並びなおさざるをえなくなった――という話である。
9  ″人々に尽くす″のが真の指導者
 「民主」主義である以上、民衆のために指導者がいるのである。指導者のために、民衆がいるのではない。
 だが、この道理が、いつのまにか転倒してしまう。
 夏目漱石は『吾輩は猫である』の中で、猫に、こんなことを言わせている。
 「役人は人民の召使である。用事を弁じさせるために、ある権限を委託した代理人のようなものだ。ところが委任された権力を笠に着て毎日事務を処理していると、これは自分が所有している権力で、人民などはこれについてなんらのくちばしを容るる理由がないものだなどと狂ってくる」(岩波文庫)と。
 漱石は、こうした社会に充満する″狂った人″のことを、「泥棒根性」と呼んでいる。
 「公僕」の自覚をなくし、本来、自分のものでもない権力(立場)を、私用、つまり自分のために使うのだから「泥棒」と言ったのである。
10  戸田先生は、こうした転倒の指導者に厳しかった。昭和二十九年三月度の本部幹部会では、このように語られている。(『戸田城聖全集 第四巻』)
 「幹部は絶対にいばってはならない。押さえてはならない。支部長がどれほど偉いか。会長がどれほど偉いか。みな凡夫である」
 「私は偉くない。(中略)絶対の確信にたって、大臣がなにものぞ、天魔なにものぞという、天魔波旬も恐れない確信をもっているが、なにも偉くない。もし偉いというならば、それは力をもっているからである」
 そして、「会長は会員の小使であり、支部長は支部員の小使である」と。漱石の言う「役人は人民の召使」と同様の、″民主″の思想である。
 「小使」「召使」という言葉は、時代を反映した表現であるが、その本意は、人間は一切平等であるとの主張にあったことはいうまでもない。
 学会の幹部も、あくまでも、「会員のための幹部」である。会員に奉仕し献身する存在でなければならない。私も、徹底して、この精神でやってきた。これこそ、どんな立場になっても、絶対に忘れてはならない学会の根本精神であると強く言っておきたい。(拍手)
11  権威に弱い日本の精神風土
 さらに戸田先生は言われている。
 「どんなものでも、いまその位置を除けば、みんなデクの坊である。虎の威光を借りていばるのは、ひじょうに悪い」。幹部だからといっていばり、会員を利用したり、いじめたりすることは「頭の悪い、学問のない、人望のない、信心の薄いもののすることです」と。
 では、広布の指導者はどうあるべきか。
 先生は「(=長は)仲間にとけこんで、どうしようかと、手をつなぎ合っていくのがよいと思うが、どうか。学会は組織は強いが、いばらせない」と言われている。
 すなわち、謙虚に「手をつなぎ合って」皆の意見と力を信頼していく「協調」の人。それが、指導者のあるべき姿なのである。
 「リーダーは、民衆の小使である」との戸田先生の指導者論は、じつは日本において革命的なものであった。
 ″お上には逆らえない″″長い物には巻かれろ″″寄らば大樹のかげ″――。権威への崇拝と盲従、現状容認と独立心のなさが、長き伝統に培われた日本の精神風土だったからである。
 かつて、その卑屈な精神を撃ち、変革しようと苦心したのは、明治の啓蒙家たちであつた。いわゆる「官」(政府権力)と、「民」(民衆の権利)の争いである。
 福沢諭吉は言う。
 「官を慕ひ官を頼み、官を恐れ官に諂い、豪も(=いささかも)独立の丹心(=偽りのない心)を発露する者なくして」「日本には唯政府ありて未だ国民あらずと云ふも可なり(=言うこともできる)」(『学問のすゝめ』、『福沢諭吉全集 第三巻』所収、岩波書店)と。
 また歴史についても、「日本国の歴史はなくして日本政府の歴史あるのみ」(『文明論之概略』、同全集 第四巻所収)と断じている。明治日本を代表する啓蒙家・福沢諭吉。さすがに的を射た言葉と思う。
 また、大学を創立するさいなど、彼が「私立」の語にこめた思いは、「官」に対する「私」の独立――すなわち「独立した個人」の育成であった。それなくして″一人の時には弱く、集団になると強い″精神風土を引きずっていては、「徳川の世」、封建時代と同じではないか、と。
 「独立した個人」を育むことの弱かった日本。それは、世界へ向かう姿にも、色濃く反映していた。
 かつて述べたこともあるが、戦前は軍事が先に走り、その後を人間がついていった。戦後は経済の後を人間がついていった。いずれも、「集団」や「力」が先行しての進出であり、「個人」つまり「人間」は″二の次″にされていた。
 これにくらべてヨーロッパの人々などは、是非はともあれ、まず「個人」である。「個人」が世界に飛び込み、道を開く。みずからの信念に従い、「個人」としての責任をとり、行動する。こうした精神が大く骨格をなしている。
 まことに残念なことだが、日本にあっては、そうした意志、人格、独立精神が、深く根づくことはなかった。
12  哲学なき社会は悪しき権力を助長
 それではどうして、「独立した個人」が出てこないのか。指導者の星どに従順な人間が多くなってしまったか。
 ″東洋のルソー″と呼ばれた中江兆民は言う。
 「我日本古より今に至る迄哲学無し」「其浮躁(浮かれ騒ぎ)軽薄の大病根も、亦正に此に在り(=哲学がないところにある)」「一種小怜悧(=小利口)、小巧智(=小才子)にして、而して偉業を建立するにに不適当なる所以也」(『一年有半』、『中江兆民全集l0』所収、岩波書店)
 また「我邦人(=日本人)は利害に明にして理義(=道理)に暗らし、事に従ふことを好みて考ふることを好まず」(同前)と。
 「哲学」がなく、軽薄で目先のことのみ考え、「考えること」がきらいなため、愚かな指導者におとなしく従ってきたのだ、というのである。
 「哲学」なき人生は不幸である。「考えること」なき人は、みじめである。私が現在、さまざまな角度から長時間のスピーチを行っているのも、一つには皆さま方に、この「考えること」の尊さを知っていただきたいからである。
 ともあれ、こうした文化人の努力も、それなりの意義はあった。しかし、抜本的に日本の精神風土を変えるにはいたらなかった。――その一例が、軍部権力の前に次々に″転向″していった、″大東亜戦争″での、文化人と言われる人々の姿であり、権力に迎合したマスコミであった。
 そして今なお、「地位」「人気」留置にとらわれ、「利害に明るく、道理に暗し」という無原則な生き方をしている人があまりに多い。″あの人には地位がある、お金がある、名声がある″。だから″心を魅かれる″。だから″ついていこう″等――と。
 しかし地位や富があることと、人間的偉さとは、まったく別である。この点を、一人一人が心の目を開いて、よくよく見きわめていかねばならない。そうでなければ、日本自体が国際社会でも決して尊敬されないであろう。
13  さて兆民は「日本に哲学なし」と嘆いたが、今や、ある意味で、世界的にも指導的哲学がなくなった時代といえよう。
 華やかに脚光を浴び、多くの人が信奉した幾多の、古今の″大哲学″が、すべて色あせ、魅力を失ってしまった。民衆を真に幸福にする力のないことが、証明されてしまったからである。いわば、それらは、すでに実験済みの哲学である。
 これに対し、日蓮大聖人の仏法は、末法万年への「大法」である。私は、ここにこそ人類を永遠にリードする大宗教、大哲学があると確信している。(拍手)
 哲学なく、基準なく、確信なき社会。そうした″魂の漂流″の世相にあって、深遠なる東洋の精神遺産の真髄を、生活のなかに行じ、民衆のなかに広げ、伝え、根づかせている。この一点のみでも、わが創価学会の行動が、どれほど深き意義をもっているか、計り知れない。(拍手)
14  「民主」こそ仏法の精神
 さて、それでは日蓮大聖人の指導者観は、どうであったか。それは、徹底して「民主」の思想に貫かれたものであった。
 その意味で、きわめて「反日本的」ともいえる。また当時としては、あまりにも先駆的すぎた。こうした面から見れば、迫害や弾圧も、むしろ必然であったともいえよう。これは、大聖人の御聖訓のままに行動する学会も同様である。(拍手)
 たとえば、権力の中枢にあった平左衛門尉に対しては、こう述べられている。
 「貴殿は一天の屋梁為り万民の手足為り」――あなたは天下をささえる屋根の梁であり、万民の手足である――と。
 当時の彼の権力たるや、現代の多くの政治家とは比較にならない。時代的にも、きわめて独裁的な強大さであった。その大権力者に対し、大聖人は、民衆のために働くべき、万民の″手″であり、″足″ではないかと言い放たれた。
 お手紙全体も、激烈である。彼が怒るのも無理もない(笑い)と思う方さえおられるかもしれない。
 大聖人は、この時、あえて難を呼び起こそうとされていたとも拝される。そのことは同時期の他の御書からも、うかがえる。
 ともあれ、リーダーは民衆の幸福のために働く「手足」である――これが大聖人の基本的なお考えであった。(拍手)
15  また大聖人は「王は民を親とし」――王は民衆を親のように本とし――と仰せである。指導者は″民衆から生まれ″″民衆に仕え″″民衆を基準に″すべきであるとのお言葉と拝される。
 私が公明党を創立した時、その根本精神として、「大衆とともに語り、大衆のために戦い、大衆のなかに死んでいく」ことを願ったのも、こうした原点があったからである(拍手)。これが真の政治家の心意気である、と私は信ずる。(拍手)
 大聖人の″民衆こそ指導者の親″とのお考えは、ある意味で「逆転の思想」ともいえよう。通常の考え方をくつがえす、こうした発想は、御書のいたるところに述べられている。日本の多くの知識人らには、その深い意義が見えてこなかっただけである。
 仏と凡夫との関係についても、こう示されている。
 「我等は妙覚の父母なり仏は我等が所生の子なり」――われら凡夫は妙覚の位の仏の父母である。仏はわれら凡夫から生まれた子である――。
 すなわち仏といっても、たとえて言えば、″平凡な父母″から生まれた″賢い子ども″のようなものである、と。どこまでも凡夫が″親″なのである。凡夫が「本」であり、仏が「述」である。
 「諸法実相抄」等には、この考えがいちだんと明確に説かれている。そこでの凡夫とは言うまでもなく、別しては日蓮大聖人ご自身のことである。
 ここには、さらに論ずべき重要な法義が拝されるが、本日は時間の関係上、略させていただく。
16  社会の根底に「正しき道理」を
 ところで大聖人は、指導者が「親」として敬うべきものとして、「民」とともに、あるものをあげられている。それは「道理」である。
 「国主は理を親とし非を敵とすべき人にて・をはすべきか」――国主は「正しき道理」を親として従い、「誤れる考え」を敵として排する人であるべきではないか――と仰せになっている。
 指導者は、人数の多さとか、時の勢いとか、ましてや自分の利害などを″親″として従ってはならない。それが正しい道理にかなっているかどうか、それを根本として、現実を見きわめ、判断していくべきである。だれが何と言おうとも、非は非とし、「敵」として排除すべきである。絶対に従ってはならない、との指導者論である。
 ここには重大な意味がある。すなわち「民を親とする」民主主義の原則も、たんなる″数の暴力″や、″権利の乱用″″自由の乱用″におちいっては、衆愚の社会となり、崩壊していく。社会の根底に、「正しき道理に従う」という大原則がなければ、″民主″を貫くことすらできなくなる。
 たとえば「言論の自由」にしても、その権利を、正しき道理に基づいて使っていくのでなければ、人権を無視した「言論の暴力」がまかり通ることになりかねない。
 結局、心ある人々の信用を失って、先人の尊き血と努力の結晶である「自由」をおとしめ、民衆の「権利」をも狭める口実を権力にあたえてしまう。
 自分で自分の首を絞めているようなものである。また親の築いた財産(権利)を守るどころか、それを浪費し、食いつぶしている子どもにもたとえられるのではないだろうか。あるいは、自分が努力して、つかみとった「権利」ではなく、いわば″与えられた自由″であるゆえに、大切にしないのであろうか――。
17  ちなみに「権利」とは、本来「正しさ」という意味に基づく。
 英語では「ライト(right)」、ドイツ語では「レヒト(Recht)」、フランス語では「ドロワ(droit)」が、もとの言葉であるが、すべて「正しい」ことを意味する。
 「権利」とは、正当性、すなわち人間としての「正しき道理」にのっとった資格であるという考えが、こうした背景にあるといえるかもしれない。
 ゆえに、日本でも、初めは、これらの語を「権理」と訳した。このほうが、もとの意味に近い。
 いつしか「権利」としてしまったところに、「正しさ」を無視して、私利をのみ主張する風潮が、象徴されているようにも思われてならない。
 ともあれ大聖人の仏法は、こうした「道理に基づいた民主社会」の基礎をあたえるものである。それは民衆を蔑視する「権力の魔性」とまつこうから対立する。ゆえに、つねに弾圧されるのである。
 「権力の魔性」については、生命論のうえから「他化自在天」「元品の無明」との関係など、いつか論じたいと思うが、本日はただ、「人間をバカにし、仏子をバカにする心、利用しようとする心、それは権威と権力の魔性に魅入られた心である」とのみ言っておきたい。
18  時代へと″地涌の民衆″の運動
 日本の卑屈な精神風±。その″根″は何か。どうして、そうなってしまったのか。
 さまざまな歴史的要因、また議論があろうが、端的に言えば、それは、民衆を自立させるべき「宗教」が、「権力」に取り込まれ、骨抜きにされてきた結果である。
 この一点を、とくに青年部諸君は、厳しく見つめていただきたい。日本において、宗教はつねに権力の僕として、飼いならされてしまったのである。
 広宣流布の運動は、この、忌まわしき″根″を断ち切り、民衆が厚き大地の殻を打ち破って、続々と立ち上がっていく革命運動である。ある意味で、法華経に説く「地涌」の姿どおりの実践である。(拍手)
 ここに初めて、兆民の言う「哲学なき社会」を変革する現実の方途もある。一国の精神風土をも変えていく哲学とは、現実には、民衆に根ざした宗教による以外にないからである。(拍手)
19  この「地涌」の革新運動には、「指導者観の革命」をともなう。″リーダーは、民衆に奉仕するとする思想の徹底である。
 この、指導者観の「文化革命」「思想革命」を広げ、定着させねばならない。民衆が賢明になって決然と立ち上がり、指導者を厳しく監視し、変革させていく波また波を起こしていくべきである。
 それでこそ、日本も世界も、初めて「民衆の時代」へと、扉を開けていくことができる。また広布の世界も、大聖人のお心にかなった、うるわしき「民主」の世界を広げていけるのである。(拍手)
 戸田先生の「指導者は民衆の小使」との指導は、こうした意味で、文化史的、社会史的にも、重大な意義を持っていた。先の先まで見とおした、本当に鋭き、偉大な先生であられた。この先生の遺言を、今、私も声を限りに叫びきっている。(拍手)
20  私どもでいえば、いわゆる「権威の指導者」であるのか、それとも「信心の指導者」であるのか。また、組織の力に安住した「組織悪の指導者」なのか、それとも仏法の力を身に体した「仏法の指導者」なのか――自分に絶えず問いかけ、謙虚に自身を磨き、成長していかねばならない。また、他の世界の指導者も同様である。
 もはや「権威」で人を引っ張ることはできない。そうした時代は終わった。また終わらせねばならない。世界の大きな民主化のうねりも、独裁に対する、傲慢な権威に対する反撃であったと、多くの識者は見ている。
21  それでは何をもって人々を正しい方向にリードしていくのか。それは「人間性」しかない。指導者論も、要するに、その人の「人格」に帰着する。
 それでは「人間性」とは何か。
 仏法の世界においては、その根本は仏子への「深き祈り」である。
 友に「本当に幸せになってもらいたい」「安穏であっていただきたい」「健康であり、長寿であっていただきたい」と、真心から祈りに祈っていく。そして行動していく。その「信心」が、最高の「人間性」であり、指導者の要件となる(拍手)。また、その「信心の深さ」が、自身の「福徳の大きさ」になっていくのである。(拍手)
22  慈愛の人に無限の「知恵」
 友に尽くして死んだリーダーの逸話は、西洋にも数多い。
 たとえば、エリザベス女王に仕えたイギリスのフィリップ・シドニー(一五五四年〜八六年)。彼は、詩人としても第一級であり、外交官でもあり、また軍人でもあり、いわば文武両道の人であった。
 オランダを助けてスペインと戦った時、シドニーは重傷を負った。それは彼が、友人の騎士に自分の甲冑を貸し与え、自分は生身を敵の剣にさらして戦ったからであつた。
 血が止まらない。傷は深い。喉が猛烈に乾いた。そこで、まわりの兵士が四方をたずね、やっと一杯の水を得た。この時、一人の老兵がシドニーのそばに倒れていた。彼も、じっと水のコップを見ている。
 シドニーは将軍、老人は無名の兵士である。しかしシドニーは言った。
 「この水は、あの老兵に与えよ。彼は私よりも、もっと水を必要としていよう」
 こう言って、そのまま息を引き取った――。
 イギリスに長く伝えられた、有名な話である。
 また、ロシアの名将スコベレフ(一八四三年〜八二年)は、つねに白い服を着て戦場に臨んだ。夏だけでなく、春も秋も、厳冬も――。つねに馬上には″白衣の将軍″の姿があった。当然、敵からもよく見える。ある人が不思議に思い、その理由を問うたところ、将軍は微笑んで言った。
 「私は、つねに兵の先頭に立って進むことにしている。白い服であれば、部下にはいつでも私の姿が見えるから、その後を追って突進できるだろう」と。
 みずからの身を危険にさらしながら、なお味方の士気を鼓舞する。彼は軍人であり、その歴史的評価はさまざまかもしれないが、まさに戦場における勇猛の将であった。
 自分がどうなろうとも、同志のため、後輩のため、そして悩める人のために尽くしぬく。また戦いに臨んでは、つねにみずから先頭をきって行動し、活路を開き、同志に「勇気」と「希望」をあたえていく――。ここに、人間としての真の偉さがある。人格の輝きがある。
 学会でいえば、日々地道に広布の第一線で活躍されるリーダーの方々こそ、その尊き実践の姿であると実感する。(拍手)
23  学会は、真に人間を錬磨し、変革しゆく大地である。そのリーダーである皆さま方は、決して「組織悪の指導者」であってはならない。どこまでも「仏法と信心の指導者」として、みずからを鍛えぬいていただきたい。
 組織上の役職でも、社会的な地位でもない。一人の人間として、どれほど偉大であるか。どれほど豊かな「慈愛の心」の指導者であるか。これこそが肝要であると申し上げたい。(拍手)
 「無慈悲」の人には「知恵」は出ない。「慈悲」の人には、限りない「知恵」がわく。友の幸福と、社会の平和・安穏のための「知恵」が、生命の奥底から濠々とあふれ出てくるものだ。今、求められているのは、そうした慈愛と知恵のリーダーである。(拍手)
 最後に、これからの人生も、人類のため、社会のため、ともどもに広宣流布ヘと進んでいただきたい。大御本尊根本に、そして牧口先生のお心、戸田先生のお心を継ぎながら、すばらしく、朗らかな、壮大なる前進をお願いして、本日の記念のスピーチを終わりたい。
 (創価文化会館)

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