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日蓮大聖人・池田大作

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「11.18」記念合同幹部会 「偉大な道」歩む人が偉大に

1989.11.12 スピーチ(1989.8〜)(池田大作全集第73巻)

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2  そこで本日は、九州総会の晴れの開催を祝し、また学会の根本精神を後世に伝え残していく意義からも、まず九州広布の歴史をとおして、少々お話をさせていただく。
 牧口初代会長が出席して、初の九州総会が開催されたのは、昭和十六年(一九四一年)の秋十一月。ちょうど、今ごろの季節であった。場所は福岡県二日市の武蔵旅館。もちろん、学会の会館などなかった時代である。
 その時の参加者は約四十人。太平洋戦争勃発(昭和十六年十二月八日)の直前であり、社会に暗雲がたれこめていたなかでの開催であった。時に牧口先生、七十歳。総会には、奥さまとお嬢さまとともに出席されている。
 最晩年にあたるこの時期に、牧口先生は毎年、九州に足を運ばれている。――昭和十三年夏、鹿児島へ。十四年春、福岡の八女へ。十五年十一月には、福岡、久留米、八女、長崎の雲仙、さらに島原から荒尾、熊本を経て大分の別府へ――。そして翌十六年十一月に、この九州総会への出席となるのである。
 東京から九州へ、今なら飛行機で一時間半ぐらいだが、当時は列車を乗り継いでの長旅であった。旅費もたいへんななかで工面されていた。
 行く先々で、三里(約十二キロ)、四里という交通の不便な田舎道を、折伏の先頭に立って歩かれた牧口先生。ご高齢にもかかわらず、その足どりの勢いたるや、同行の人たちも、なかなかついていけないほどであったという。
 このように、牧口先生の行動は「大聖人の仰せどおりに、必ず広宣流布をしてみせる」との″大感情″に貫かれていた。要領や策など微塵もなかった。愚直なまでに、どこまでも「一人」のために尽くされた。これが私ども学会の創立者である。そして、この初代会長が、まさに五体をぶつけるようにして切り開かれたのが、九州広布の誉れある天地なのである。(拍手)
 本日、九州総会にお集まりの方々をはじめ、九州各県の同志の福運に満ちあふれた姿を、牧口先生もどれほどお喜びくださっていることであろうか。どうか、このことを強く確信し、最大の誇りとしていっていただきたい。(拍手)
3  人生に偉大な目的をもつ人は強い。偉大な仕事、偉大な道に生きる人は、みずからをも偉大にしていける。いかなる困難も悠々と乗り越え、つねに大きく境涯を広げゆくことができる。
 牧口先生の時代も、戸田先生の時代も、苦難の連続であった。そのなかから何としても活路を開かんとの、初代、二代会長の死闘に次ぐ死闘によって、今日の学会の基礎は築かれたのである。
 その「大恩」が胸中深くきざまれているがゆえに、私は、どのような困難にも、またどのような試練にも負けなかった。師匠が偉大だったからこそ、私はひたすら学会に仕えてきた。この信念は、これからも絶対に変わることはない。さらにさらに勢いを増しながら、報恩の誠を尽くしていくのみである。(拍手)
 さて、牧口先生を迎えての九州総会――この総会それ自体が、いわば波瀾の劇でもあった。
 会場に着かれた牧口先生。総会の準備にあたっていた役員が顔色を変えて報告する。
 「大変なことになりました。特高刑事が三人もきています。総会ができるかどうか……」と。特高とは特別高等警察のこと。戦前の警察制度で、政治思想関係を担当し、人々に恐れられていた。このころ、すでに牧口先生、学会への弾圧の手がのびていたわけである。
 この報告に、牧口先生は「なに大丈夫だよ」と悠然と応じられる。
 役員や周囲の人は″いや、危ないです。行かれないほうがいいです″と、牧口先生をとめたい思いであったかもしれない。だが、牧口先生は、何の恐れるふうもなく、平然と会場へと入っていかれた。
4  その時である。会場にいた一人の男が、牧口先生に向かって、大声で怒鳴るように言った。「国がすすめている天照大神を悪く言うのは、けしからんではないか」。
 いつの時代にも、時流に流される人がいる。何が真実かもわからず、権威にこび、形勢のいいほうにつこうとする。こうした信念のない臆病な人ほど、哀れな人はいない。
 居丈高にまくしたてた男は、「どうだ、答えられないだろう」と得意気であった。しかし牧口先生は、気迫のこもった目で、その男を見つめ返された。男は気圧されたように、沈黙してしまった。
 牧口先生は、会員のほうに笑顔を向けながら、開口いちばん「天照大神とは、法華経の行者を昼夜にわたって守る諸天善神なのです」と。
 まことに、鮮やかな反撃であった。御書に照らし、本質を鋭く突いて、パッと切り返す。これが信心の戦いである。
 こうして総会は始まり、牧口先生は、諄々と宗教の真実の道について語られた。あの権威を借りた居丈高の男は、いたたまれなくなったのか、いつしか姿を消していた。
 七十歳の牧口先生みずからが、国家権力を後ろ盾にした妨害の徒との戦いの矢面に立たれ、厳然と会員を守りぬかれたのである。私には、その光景が、絵のように浮かんでくる。これが広布の「将」の姿であり、代々の会長の精神であった。(拍手)
 私は、青年部の諸君にこそ、この精神をしっかりと受け継いでもらいたい。いかなる権力、悪の勢力に対しても、厳然と、わが身を挺して立ち向かう学会精神、青年部の魂を忘れないでいただきたい。
 九州総会は、体験発表、質問会と進んだ。「時間だ」とストップをかける特高刑事。牧口先生は二時間、淡々と指導を続けられたのである。
 私も、現在、機会あるごとにスピーチをしている。これは、後世のために、悪を打ち破り、広布の大道を幾重にも開き、残しておきたいからである。私の命のある限り、続けていく決意でいる。(拍手)
5  九州広布の礎ここに
 ともかく、初の九州総会は、終始、牧口先生の勇気ある学会精神に貫かれたものであった。ここに、「創立者」の手づくりによる、信心の「原点」が、きざみ残されている。
 いかなる波瀾があっても、毅然と、また悠々と乗り越えていかれた牧口先生。この創価精神さえ忘れなければ、九州は、絶対に負けることはない。永遠なる発展を遂げていくことができる。否、牧口先生の戦いを思えば、九州は負けられない、負けてはいけない法戦の地であると、強く申し上げておきたい。(拍手)
 交通の便もよくない当時、牧口先生は、高齢をおして、遠く九州まで何度も足を運ばれた。東京から博多まで、途中の地を訪れながら四日目に到着されるということもあった。今のように飛行機もないし、新幹線もない。汽車の硬い座席に長時間揺られながらの旅である。高齢の先生にとって、決して楽なものではなかったはずである。
 しかし、なぜ九州に行くか――牧口先生は、その心情を一人の婦人に、こう言われている。
 「私は、あなたが本物になれば、こうしてはるばるきたかいがある」と。
 本物の信心の人を育てたい。そのためには、いかなる労苦もいとわない。これが初代牧口先生の切なる思いであった。
 いずこの地にあっても「本物の信心」の人が、一人いればよい。広宣流布の命脈は、その「一人」によって厳然と守られ、幾重にも広がっていくからである。
 私も戸田先生のもとで、その「一人」になることを決意して、立った。そして今は、皆さま方一人一人が、その「一人」になっていただきたいことを念願し、日々、広布の戦いに挺身している。(拍手)
6  ところで「本物の信心」とは何か。当然、さまざまな次元から論ずることができるが、ここでは、牧口先生がつねづね言われていた一点を述べておきたい。
 それは、大聖人の本物の門下であるかどうか。大聖人の御聖訓どおりの行動であるかどうかという点である。
 大聖人は「開目抄」で「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」と仰せである。牧口先生は、この御文を敷衍されて「愚人に憎まれたるは第一の光栄なり」と言われていた。
 つまり″愚人にほめられたい、名声を得たいと、世間的な名誉を求めているようでは、本物ではない。むしろ、仏法のことで愚人から憎まれ、非難を受けることは、最高の光栄なのである。その人こそ「本物の信心」の人である″と、教えられたのである。
 これを受けて戸田先生は、草創の青年部に与えられた「青年訓」で「愚人にほむらるるは、智者の恥辱なり。大聖にほむらるるは、一生の名誉なり」と、呼びかけられたわけである。
 世間の風評や、言われなき非難に負けてはならない。むしろ、信心ゆえの非難、中傷こそ、わが人生の栄誉との気概で、悠々と進みぬいていただきたい。そこに本物の信仰者としての生き方がある。(拍手)
 また、牧口先生は言われている。
 「仏法者たる者は物事の根本、価値観を判断するさい、あくまで仏法で説く厳しき因果関係を基準にしなければならない。ひとの毀誉褒貶に左右されては大善人とはなれない」と。
 仏法の厳しき因果律――いかなる事象も、この深き信心の眼で見ていけば、おのずから善悪の本質が見えてくるものである。
 戸田先生は、世の毀誉褒貶に決して左右されることなく、信心と広宣流布に生ききられた師の牧口先生を、最大の誇りとされていたし、本当に大事にされていた。
 自分の持てるすべての力をもって、牧口先生に尽くされた。また私も戸田先生をどこまでも守り、大切にしていった。
7  さて、戸田先生の最後の地方指導も九州であった。昭和三十二年(一九五七年)十月十三日、先生は、福岡での九州総支部結成大会に出席されている。
 講演の冒頭、先生は語られた。
 「晴天にめぐまれて、九州男児、九州婦人の健康なる姿と心を見てまことに嬉しく思いました」。そして「いつに民衆救済の大責務は、創価学会の肩にかかっていると私は信ずるのであります。ねがわくは、今日の意気と覇気とをもって、日本民衆を救うとともに、東洋の民衆を救ってもらいたいと思う」と。
 逝去の約半年前である。九州の先駆は、東洋広布、否、世界広布の先駆ともなっていく――戸田先生が訴えられた、この壮大なる気概で前進されんことを切に望み、期待したい。(拍手)
8  経文には次のような話が説かれている。
 ――釈尊は話された。たとえば、親に七人の子があって、そのなかに病に苦しむ子が一人あったとしよう。もちろん、父母の心が平等でないわけはない。しかし、病の深い子に対しては、ひときわ心が深くなるものである、と――。
 言うまでもなく、この「親」とは「仏」を表したものである。「仏」の慈愛は、むろん一切衆生に平等である。だが、苦しみの大きく、深い人にこそ、その大慈大悲は、いちだんと輝いていくのである。
 また「病の子」とは、正しき道がわからず苦しんでいる人のことである。
 それはそれとして、九州にも、広布の途上にさまざまな障害があった。予期せぬ事態も起こった。ある面からいえば、全国でももっとも険しい道を歩んできたといえるかもしれない。だからこそ福徳も増し、使命も大きい。
 困難が大きければ大きいほど、より深く、より偉大な人生を生きていくことができる。これが仏法の厳粛な法理である。
 この意味から、九州の皆さま方は、最高の幸福を勝ちとっていける資格を持っていると申し上げたい。(拍手)
9  民衆と民衆結ぶ「友情の道」
 話は変わるが、一昨日(十一月十じ、中国人民対外友好協会の黄世明副会長と会談した。
 かねてより訪中の要請も受けており、その席で明年五月下旬に訪問したいとの意向をお話しした。黄副会長も、心から歓迎したいと述べてくださり、第七次訪中が実現の運びとなった(拍手)。その折には、二百人を超す同志も文化交流団として、ともに訪中する予定である。(=一九九〇年五月二十七日から六日間訪問)
 ご存じのとおり、中国は、仏教伝来の恩人の国である。そのほかにも、わが国が文化的に受けた恩恵は計り知れない。だからこそ、日中友好のために、私は行動してきたし、現在も、いささかも変わるところはない。
 むろん、双方の社会にさまざまな変化があるのは当然である。歴史や伝統も違えば、社会構造も異なる。理解しがたいことや、多少の軋礫が起こるようなこともあるかもしれない。しかし、二千年にもわたり隣邦として実り多き交流を続けてきた両国である。「共存」と「友好」の大原則は絶対に崩してはならない。(拍手)
 国と国の「友好」といっても、所詮、人間と人間、民衆と民衆の結びつきこそ根幹である。そうした次元での友情や、相互理解なき「友好」は、あまりに脆く、はかない。ゆえに私は、これからも、日中の「金の橋」がさらに堅固に、輝きを増していくよう尽くし、働いていく所存である。
10  唐の詩人・杜甫に、次の詩(「貧交行」)がある。
  
  翻手作雲覆手雨      手をひるがえせば雲と作り 手をくつがえせば雨
  紛紛軽薄何須数      紛紛たる軽薄 何ぞかぞうるをもちいん
  君不見管鮑貧時交     君見ずや 管鮑貧時の交わりを
  此道今人棄如土      此の道今人棄つること土の如し
    (『漂白の詩人 杜甫』小野忍・小山正孝・佐藤保訳注、平凡社)
 ――手のひらを上に向ければ雲となり、下に向ければ雨となる。それほど世人の心、態度というものは変わりやすい。このように状況によって利なテるような、軽薄な人間のことなど、いちいち数えたてる必要はない。君は見ないか、いにしえの管仲と飽叔の、貧しき逆境にも変わらなかった″友情″を。今の世の人は、″この道″を土のかたまりのように捨て去ろうとしている――。
 管仲と飽叔は、中国・春秋時代の人で、たがいを信頼しきったその友情は「管飽の交わり」として、現代でも崇高なる友情のシンボルとなっている。
 「友情」に生きぬく人は尊い。それは「誠実」の証であり、高き人格の表れである。反対に、時の流れ、時代の変化とともに「友」を忘れ、「信義」を失っていく人ほど卑しい心もない。
 難副会長の今回の来日は、彬戸の中学校の剛密鈷への出席が、一つの目的であったとうかがっている。周恩来総理も、南開学校の恩師や同窓生をこよなく愛し、大切にされた。国を超え、民族を超えて「友情」と「信義」を重んずる――ここにこそ、万代の「友好」は花開いていくことを信じてやまない。(拍手)
 いわんや、私どもの世界、同志の絆は、「信心」で結ばれている。これほど高貴な「友情」はないし、強く、美しいつながりはないと確信する。(拍手)
11  わが生涯を″勝利の笑み″で飾れ
 ところで、本年の初夏、ヨーロッパ訪問のさいに、フランスのミッテラン大統領とお会いした。(六月七日)
 会見が行われたのは、折しも、国じゅうが「フランス革命二百年」にわき、注目の「アルシュ・サミット」が間近に迫っていた時である。大統領は前の日の深夜、アフリカから帰国したばかりであり、まさに激務をぬっての会見であった。
 ここでは、「青年に対する指導者の責任」などをめぐり有意義に語りあった。
 私は「青年に勧めたい本」についても尋ねた。ちなみに大統領は、今も就寝前に五十ページほどの読書を欠かさない読書家として知られる。大統領は「私が好きだからといつて、それを青年たちに勧めるというものでもありません」と、笑みをたたえて述べられた。
 そして、二冊の書名にふれられた。その一冊が、イタリアの『タタール人の砂漠』と題する小説である。
 作者は、デイーノ・ブッツァーティ(一九〇六年〜七二年)。″足かけ七年間、この執筆に没頭した″とされる入魂の一書であり、一九四〇年(昭和十五年)に出版されている。
 ミッテラン大統領の真心にお応えする意味からも、簡潔に内容を紹介させていただきたい。
12  これは、ある国境の砦、フォートレス(要塞)の守り手として、一生を過ごした男の物語である。その砦は「タタール人の砂漠」と呼ばれる荒涼たる砂漠に面していた。石ころと、ひからびた土ばかりの砂漠である。砦はタタール人に備えて築かれたという伝説があった。
 主人公の若き陸軍中尉ドローゴは、士官学校を卒業して、希望も高く、この砦に向かった。将校として、初めての赴任地である。
 しかし現実は、彼をあぜんとさせた。その砦たるや、ちっぽけで、古ぼけて、だれも見向きもしない無名の砦であった。
 また敵の現れる気配も、まったくない。何の刺激も、何の楽しみもない場所である。先輩の上官も、自分たちの砦を「二級の要塞」にすぎない、「用のない国境線」の「役に立たない砦」だと自嘲するような″職場″であった。多くの人が、もっと条件の良い、もっと注目を浴びる場所に、できるだけ早く移ることを考えていた。
 ドローゴ青年の希望は、失望に変わった。よりによって、こんな仕事場に来てしまうとは! 彼も先輩や同僚にならって、たびたび転勤しようとした。にせものの病気の診断書を書いてもらい、砦から離れるチャンスもあった。
 けれども結局、彼は砦に残り続けた。「現状打開に対する無気力」や、なれ親しんだ場所への愛着などが、彼を引きとどめたのである。冷酷に転勤を拒否されたこともあった。
 こうして彼は、死ぬまでの三十年以上もの年月を、この無名の砦の守り手として生きぬくことになる。その間、敵は現れず、華々しい戦いは一回もなかった。男らしく戦い、英雄として讃嘆されたいと願うドローゴにとって、これはまことに不本意なことであった。
 ある時、いよいよ敵が現れたとの報が入った。これこそ彼が待ち続けていたことである。彼の長年の悲願であった″男らしい戦闘″のチャンスが、やっと来たのだ。
 しかし、なんということだろうか、その時になって、もう彼の体は使いものにならなくなっていた。病気で倒れた彼を、人々は邪魔者として、砦がら追い出してしまった。年老いた先輩に対して、まことに無慈悲な扱いであった。
 悲運のドローゴは、見知らぬ国の、ある宿のベッドに一人、横たわっていた。無為と孤独のなかに費やされた一生を思い、涙があふれそうになった。
 「戦闘」を待ち続けた長き年月。彼には「戦闘」は恵まれないのだろうか――。しかし、じつは最後に「決定的闘い」が待っていた。「死」である。
 この「最後の敵」とは、たった一人で戦わなければならなかった。見ている者はいない。称讃してくれる人もいない。彼が、これまで望んできた華麗な戦闘とは違う。それ以上につらく、苦しい戦いである。
 彼は自分を励ました。「勇気をだせ、ドローゴ」と。
 「軍人らしく死に立ち向かい、きみの生涯は誤算つづきであったにしても、その最期を立派に飾ってくれ。運命に対し、最後の一分を報いてくれ。きみへの讃辞はだれも歌わぬであろう。きみを英雄であるとか、それに似たものでだれも呼ばぬであろう。しかし、それだから価値があるのだ。しっかりした足どりで、まっすぐに、観兵式に臨むときのように、闇のしきいをまたぐのだ」(奥野拓哉訳、『世界文学全集33』所収、集英社。以下、引用は同じ)
 「死」という「闇のしきい」に立ち向かおうとした時、彼のなかからは「いままで、当てにしたことのなかった力が湧き出てきた」。そして死を前に、これまでの「出世への苦悩、敵を待った長年月」などが、すべて「馬鹿げたことに思われてきた」。他人への嫉妬も消えた。晴ればれとしてきた。
 しかし、その確信も、またすぐに動揺する。期待は、またも裏切られるのではないか。彼はもう何も考えたくなかった。そして近づく死との戦いに備えて、「胸をまっすぐに立て、片手を服のカラーに当ててぐあいを見」、「暗闇の中で、だれ一人見ていなかったが、にっこり、ほほえんだ」。
 ――小説は、ここで終わっている。
 ある意味で、暗い小説である。しかし、人生の現実の一面を象徴的に描ききっている。また、これは信仰を失い、″ドラマ″と″人生の意義″を見失って、退屈と孤独に苦しむ現代人の姿かもしれない。
13  使命の道貫いた功労者こそ尊き「仏子」
 ともあれ、人生は、はじめから何もかも思いどおりになるものではない。さまざまな理由から、不本意な場所で、長く過ごさねばならない場合も多々ある。その時にどう生きるか。どう自分らしい「満足」と「勝利」の人生を開いていくか。ここに課題がある。
 自分の不運を嘆き、環境と他人を恨みながら、一生を終えてしまう。そういう人は世界中に無数にいる。また栄誉栄達と他人の称讃を願い、それのみを人生の目的とするかぎり、そうした不満とあせりは、何らかの形で、永遠に消えないかもしれない。
 欲望は限りないものであり、利己主義にとらわれているかぎり、すべての人が、完全に満たされることはありえない。会社でも全員が社長になるわけではない。
 もちろん、よりよい環境、よりよい境遇へと、変革の努力をしていくのは当然である。そのうえで、より大切なのは、現在自分がいる場所、自分の″砦″を厳然と守りゆくことである。現在の自分の使命に徹し、その位置で、自分なりの歴史をつくりゆくことである。(拍手)
14  この小説の主人公のように、何の華やかな舞台もなく、称讃も脚光も浴びない立場の人もいるかもしれない。しかし″心こそ大切″なのである。地位が人間の偉さを決めるのではない。環境が、幸福を決定するのでもない。わが生命、わが心には、広大な「宇宙」が厳として広がっている。その壮大な境涯を開きゆくための信心である。
 その「精神の王国」を開けば、いずこであれ、自身が王者である。汲めども尽きぬ、深き人生の妙味を味わって生きることができる。(拍手)
 いわゆる世間的に「偉くなりたい」と願う人は多い。しかし、人間として「偉大になろう」と心を定める人は少ない。
 人の称讃と注目を浴びたいと願う人は多い。しかし、「死」の瞬間にも色あせぬ「三世の幸」を、自分自身の生命に築こうとする人は少ない。
 「死」――それは人生の総決算の時である。名声も富も地位も学識も、それのみでは何の役にも立たない。虚飾をはぎとって裸になった「生命それ自体」の戦いである。厳粛にして、公正な勝負の時である。この戦いの勝者こそ、真の勝者なのである。
 御書には、妙法を持ちきった人の臨終について「千仏まで来迎し手を取り給はん事・歓喜の感涙押え難し」――千人の仏までが迎えに来て、手をとってくださることを思うと、歓
 喜の感涙を抑えられない――と。
 ドローゴが夢みた「観兵式」どころではない。荘厳にして、大歓喜に満ちた「三世の旅路」への新しき出発となる。(拍手)
15  学会においても役職等は、ある意味で仮の姿である。その人の偉さと幸福を決めるのは、当人の生命の「力」であり、広宣流布への「信心」である。
 何の栄誉も、脚光も求めず、黙々と″わが広布の砦″を守って生きぬいてきた人々が、全国、全世界に、たくさんいらっしゃる。有名でもない、大幹部でもない、華々しい活躍の姿もないかもしれない。ただ法のため、友のため、地域のために、光のあたらぬ場所で、くる日もくる日も、心をくだき、足を運び、″砦″の守り手として生きてきた。愚直なまでの私心なき信心の姿である。
 そういう人々の力で、今日の世界的な学会がある。大聖人の正法の興隆がある。このことを、だれ人も永遠に忘れてはならない。(拍手)
 指導部をはじめとする、こうした方々こそ、真の「功労者」なのである。私は、ある面では、会長、副会長以上に大切に思い、「仏の使い」として尊敬している。ましてや、社会的地位など私は眼中にない。私は仏法者である。仏法者は何より、その人の生命の実相を見る。(拍手)
16  ドローゴの場合は、長年つとめたあげく、いざ″栄光の時″を迎えたとたん、苦労知らずの連中に放り出されてしまった。
 わが創価の世界には、そうした不当な、無慈悲の振る舞いは、片鱗だにもあってはならない。私も絶対に許さない。陰の苦労もなく、若くしてトントン拍子で幹部になりながら、そうした真の仏子を下に見るような言動は、学会の精神に反する。道理にも反する。人間としても卑しい。
 むしろ「苦労してきた人ほど報われ、顕彰される」――わが学会は、そうしたうるわしい世界でなくてはならない。(拍手)
17  ともあれ、いかなる立場にあろうとも、その″使命の砦″を守りぬきながら、わが生命を鍛え、磨き、社会の勝利者に、そして三世にわたる「凱旋将軍」の自身となっていただきたい。とくに青年諸君に対する、これが私の念願である。(拍手)
18  「深き理想」には「深き人生」
 逆境における″たくましさ″という点では、若きレジスタンス(ナテスに対する抵抗運動)の闘士であったミッテラン大統領にも、数々のエピソードがある。
 たとえば、二十代でナチスの捕虜となった時、その収容所で持ち前のリーダーシップを発揮し、無秩序な捕虜の集団のなかで規律ある共同体をつくり上げた。そうして収容所内での生活を向上させつつ、みずからはギリシャ語の勉強にまで取り組んでいる。
 じつに人間は、いつ、いかなる環境にあっても、自身を向上させ、たくましく生きぬいていけることを物語る好例といえる。
 また同大統領は、どのような非難に対しても、少しも動じないことで知られている。言いわけや文句も言わない。ふてぶてしいまでの「信念の強さ」。これが氏の偉さである。
 会談の席上、ミッテラン大統領は、こう言われた。
 ――「一生かかっても届かないような理想や目標に対して努力していく。それは、実際には実現の見とおしはないかもしれない。だが、それに向かって努力するところに、自分自身を克服することができるのです」と。
 私には、この言葉が大統領自身の人生観の結晶として、まことに味わい深くうかがえた。
19  「深き理想」には「深き人生」が、「大きな目標」には「大きな自分」がともなっていく。理想、目標のない人生は、努力も苦労もないが、向上への喜びもない。そこにはむなしい自分しか残らない。
 私どもは「広宣流布」という人類未聞の理想に向かって、日々努力を重ねているのである。ゆえに、人に倍する忍耐も苦労も要るが、真実の「満足の自分」を築くことができるのは間違いない。(拍手)
 人がどう評価するか、それはどうでもよい。また、一時の姿がどうかということでもない。要するに、最後の最後に会心の笑みを満面に浮かべられる人生かどうかである。生涯を振り返り「自分は人生に勝った。楽しかった。悔いはない」と言える人が、勝利者である。(拍手)
 とくに青年部の諸君は、悪戦苦闘の境遇であるかもしれない。華やかな栄誉とも無縁であろう。それでよいのである。それぞれの使命の天地で、理想へと努力し続けていただきたい。そこにこそ、わが胸中に永遠に崩れぬ「勝利の砦」が築かれていく。(拍手)
20  最後に、本日は「文京の日」でもあり、懐かしい方々が多く参加されていることでもあり、かつて戸田先生が文京の友に述べられた指導を紹介したい。(拍手)
 昭和二十八年(一九二二年)十一月の第二回文京支部総会で、戸田先生は「牧口先生が倒れても、先生の後、私は広宣流布に身命を捨てている。感心せずについてこなければだめです。きみらがついてこようとこまいと、私はやっていく」(『戸田城聖全集 第四巻』)と、厳として言いきられた。
 牧口先生の遺志を継ぎ、″たった一人であっても、広宣流布はやり遂げる″との戸田先生の叫びであった。そして私も、この戸田先生の心を継いで立ち上がった。
 文京の友は、戸田先生に縁の深い誉れの同志である。また私も青年時代に広布の指揮をとった忘れ得ぬ地である。どうか文京の皆さまは、恩師の叫びを胸に、すばらしき前進の歴史を残しゆかれんことを念願するしだいである。(拍手)
 皆さま方の、ますますのご健康とご活躍、ご多幸をお祈りするとともに、交通事故等にくれぐれも気をつけて″無事故第一″で精進されることを願って、本日のスピーチを終わらせていただく。
 (創価文化会館)

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