Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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広島県記念勤行会 人類から「悲惨」の二字なくせ

1989.10.15 スピーチ(1989.8〜)(池田大作全集第73巻)

前後
2  昨日の夕刻、広島駅に到着するや、平和記念会館のすぐ上に、大きな大きな月天子が、皓々と輝いていた。そして、この大月天子が″ようこそ、待ってましたよ″と、中国や広島の皆さまの心を映すかのように、ほほえんでいた。ともに、まんまるのお月さまが″広島の友を、中国の同志を守っていきますよ″と語りかけているようで、私には生涯、忘れることのできない名月であり、うれしい広島訪問となった。(拍手)
 さて、昨日到着して、代表幹部の方たちとこの会場で勤行した。そこには「模範の中国」「理想の中国」とのスローガンがかかげてあった。
 それはそれでよいとは思うが、「模範」といっても、何をもって模範とするのかが(笑い)明確ではない。また「理想」も、どのような「理想」なのかが(笑い)はっきりしない。言葉としてはきれいだが、どうしてもあいまいさが残る。人の胸にピシッと入っていく具体的なものがなくてはならない。それを飛躍台として″さあ、頑張ろう″と心をかきたててくれるものが必要なのである。
 その意味で私は、中国そして広島の皆さまには「強くあれ」と、申し上げておきたい。そこで、この「強さ」をふまえて、当勇気」と「希望」と「団結」の中国たれ、広島たれ″と、私は訴えたい。(全員賛同の拍手)
3  人間としての「強さ」、それは「勇気」を持つことである。
 百獣の王ライオンは、何ものをも恐れない、負けない。と同じく、悪と戦う勇気、仏子を守りゆく勇気、人生の苦難に負けない勇気を失ってはならない。「勇気」なくして、広布の大道を開くことはできないし、幸福の人生を勝ちとることもできない。
 またつねに「希望」を持ち続けることである。いくら「強くあれ」と言っても、ただ力だけの野蛮な(笑い)、暴力的な強さではならない。人間性や愛情にあふれた平和的、創造的な力を持つものでなくてはならない。それらすべてを含んでの「希望」である。
 わが地域、わが職場は希望にあふれている。わが人生、わが家庭は希望に燃えている。そして、つねに生き生きと希望の笑顔に輝いているという皆さま方であっていただきたい。(拍手)
 次に「団結」である。異体同心のところは強い。団結もなく″烏合の衆″のような組織では、敗北となる。一人一人が力を十分に発揮し、それらの力が凝縮し、連鎖反応を起こしていけば強大な力となる。とくに中国は何倍もの力を発揮できると思う。
 それが、″あんな人はきらいである″″あの人と一緒ではいやだ″と言うようでは、力は出ない。″広布という目的のためには、私たちは大きい心で助け合っていくべきである″という広島であり、中国であっていただきたい。
 中国は、日本の広宣流布にとって重要な地である。明治維新もこの地が電源地であった。私も、若き日に中国の広布開拓に、人一倍思いを馳せ、力をそそいできた。だからこそ、見事なる広布と人生の総仕上げをしていただきたい。そして、一人一人が「幸福の王者」「使命の王者」としての道を、堂々と歩みぬかれんことを心から念願している。(拍手)
4  「原水爆禁止宣言」の先駆性
 広島池田平和記念会館が落成して一周年――。この″平和原点の地″の新牙城を、私は今回、初めて訪問させていただいた。その意義をこめ、また後世に語り残しておく意味からも、ここで私どもの平和運動の″原点″について、少々お話ししたい。(拍手)
 恩師戸田先生は、今から三十二年前の昭和三十二年(一九五七年)九月、五万人の青年を前に「原水爆禁止宣言」を発表された。この宣言は、言うまでもなくSGI(創価学会インタナショナル)の平和運動にとって、不朽の原点となっている。
 先生の「宣言」の中には、次のようにある。
 「核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今、世界に起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う。それは、もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります。なぜかならば、われわれ世界の民衆は、生存の権利を持っております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」(『戸田城聖全集 第四巻』)――。
 この宣言では、イデオロギーのいかんにかかわらず、原水爆を使用する者を″魔″の存在であると看破している。すなわち戸田先生は、核兵器が従来の兵器とはまったく異なり、人類の存在自体をおびやかすものであることを見抜かれていた。
5  先日(十月十三日)、IPPNW(核戦争防止国際医師の会)のソ連のクジン会長らと大阪の地でお会いし、種々、語り合った。
 そのさい、クジン会長は、″核戦争が起きれば、患者一人一人の生命を守るために汗を流している医師の努力など無意味になってしまう。ゆえにこの地球上から核兵器をなくさなければならない″と、核兵器の廃絶のために立ち上がったIPPNWの運動を語っておられた。
 今や、核兵器の廃絶は、世界の平和運動の最大の目標の一つとなっている。それは現在では当然のことかもしれない。それだけに世界が核兵器拡大競争に入るや、その本質を鋭くとらえて「禁止宣言」をされたことが、どれほど先駆性、卓越性をそなえたものであったことか。
 だれ人にも生きる権利があり、幸福をつかむ権利がある。その「生存の権利」は絶対に侵されてはならない。人間の「魂の自由」も、何者にも奪われてはならない。
 民衆が弱く、権力の前に卑屈である限り、ますます″魔″は増長し、民衆を利用しようとする。ゆえに、こうした権力悪、″魔″の働きに対しては、民衆自身が強い怒りをもって立ち上がり、戦っていく以外に、真の「平和」も「幸福」もない。恩師の叫びは、この見えざる魔性への挑戦と叱咤の声であった。
 私どもの信仰は、まさに民衆自身が、いかなる権力の悪にも屈することなく、堂々とわが信念を貫き、幸の大道を歩んでいくためのものである。「人間の尊厳」を守り、崩れざる「平和」と民衆の「魂の自由」を勝ちとるための信仰なのである。
 私どもは、卓越した「人格」と「見識」と「信念」に裏づけられた恩師の遺訓を胸に、平和と民衆の大河を、世界へ世紀へと大きく広げていきたい。(拍手)
6  生命変革こそ根本の処方箋
 では、「戦争」をはじめとするさまざまな人類の脅威は、何から引き起こされるのか。その因はどこにあるのか。
 御書には次のように仰せである。
 「瞋恚しんに増劇ぞうぎゃくにして刀兵起り貪欲とんよく増劇ぞうぎゃくにして飢餓起り愚癡ぐち増劇ぞうぎゃくにして疾疫起り三災起るが故に煩悩倍隆んに諸見うたさかんなり
 ――瞋りが激しくなれば、その国土に戦争が起き、貪りが盛んになると飢饉が起き、愚かが多い時は、伝染病が起きる。このように三災が起こってくると、人々の煩悩はますます盛んになり、諸々の邪悪な思想や宗教がはびこることになるのである――と。
 ここでは、戦争・飢饉・疫病という社会の混乱は、根本的には人間生命の濁り――貪・瞋・癡の三毒から起こることを指摘されている。
 この意味から言えば、日本も世界も、将来どのような災いに遭わないともかぎらない。
 私は第二代会長に就任してから、「地震の起きないこと」「お米の収穫が良いこと」の二つを、真剣に祈り続けた。尊い仏子である学会員を守るための懸命な祈りであった(拍手)。今もその思いは変わらない。
7  一切を鋭き仏法の眼で
 政治や経済のみの次元では、永続的な平和を築くことはできない。生命の病ともいうべき三毒の濁りを取り除いていく。つまり生命それ自体を浄化し、変革していくことこそ、確かなる恒久平和への道なのである――。これが仏法の法理であり、私どもの実践である。
 ここに、人類・社会の病を根本的に治癒しゆく確実な″処方箋″があると確信してやまない。
8  話は変わるが、「立正安国論」には、厳しき「因果の理法」について述べた仁王経の経文が引かれている。
 すなわち「響の如く影の如く人の夜書くに火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復是くの如し
 ――音には必ず響きが伴い、身には必ず影がそう。また夜に字を書いて、明かりが消えても、字は目に見えないけれどもきちんと残っている。そのように、三界の果報も、必ず時とともに、いつか、自分のつくった因の報いとして、表にあらわれてくる――と。
 この「因果の理法」は、凡夫の「肉眼」では見えない。より鋭き「天眼」でも、二乗の「慧眼」でも、なかなかわからない。その一分を知るのみである。
 世の中には、一見すると″なぜ、こんなことが起きるのか″と感じるような、不可解な出来事があまりにも多い。それは、世間的、皮相的なものの見方では、人生の幸・不幸を決定する深き「因果の理法」を見据えることができないからである。いわば、すべて″幻覚″を見ているようなものなのである。
 結局、「法眼」(菩薩の眼)、「仏眼」(仏の眼)によって初めて、真実の実相、あらゆる事象の意味がわかってくるのである。
 この「法眼」「仏眼」は、「信心」の二字に含まれる。
 「五眼をば法華経を持つ者は自然に相具し候」――肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼の五眼を、御本尊を信受する者は自然のうちに具えることができる――と、大聖人は断言しておられる。
 この仰せのとおり、御本尊を受持し、信行学の実践を地道に貫きとおした人は、信心が深まるにつれて、自然のうちに「因果の理法」が見えてくるものだ。「この問題の本質は、こうだな」「これは偽りの姿だな」等々、人生や社会のあらゆる問題の本質、実像を、見透かすように正しく把握できるようになる。
 たとえば、滋養を得た木が自然に大木に育っていくのと同じように、正しい「法」にのっとっていけば、その人の振る舞いは、みずからが意識せずとも、知らずしらずのうちに「法眼」「仏眼」の見方にかなったものになる。いわば「信心の眼」こそが、凡夫における「仏眼」となるのである。
 ゆえに、何があっても「信心」で一切を受けとめていくという姿勢が大切である。この一点から自身の人生、生活を築いていかなければ勝利はありえない。(拍手)
9  次に「信伏随従」の文について述べておきたい。
 この経文は法華経の「常不軽菩薩品第二十」にある。不軽菩薩を迫害した慢心の僧尼男女らが、やがて心を改め、不軽菩薩に「信伏随従」した。すなわち「信じ伏し随い従った」ことをさしている。
 この経文について「御義口伝」には、こう説かれている。
 「信とは無疑曰信なり伏とは法華に帰伏するなり随とは心を法華経に移すなり従とは身を此の経に移すなり、所詮しょせん今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は末法の不軽菩薩なり
 ――「信」とは「疑い無きを信という」とあるとおり、法華経に対して疑いがないということである。「伏」とは法華経に帰依し、伏することである。「随」とは心を法華経に移すことである。「従」とは体をこの経に移すことである。詮ずるところ、今、日蓮大聖人とその門下の南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は、末法の不軽菩薩である――。
 すなわち、末法における法華経とは、三大秘法の御本尊である。「信伏随従」とは、御本尊を信じ、御本尊に帰命し、御本尊に心も身体もささげきっていく。心でも信じきり、体でも自行化他の広布の実践に生ききっていくことである。
 御本尊に広布の誓願を立てて唱題し、何があろうと不退転の行動を貫いていく。妙法に信伏随従しきっていく。そこに「成仏」への根本の因がある。(拍手)
10  生命に深き「信心」染めぬけ
 さて大聖人は、ただ形ばかりの信伏随従ではならないと、強く戒めておられる。
 不軽菩薩を迫害した者は、のちに信伏随従したものの、法華経の行者を誹謗した罪を消しきれず、税栃の長い間、陸巽が機にけちて苦しんだ。
 そのことをふまえられて、大聖人は「顕立正意抄」に、こう断じられている。
 「今日蓮が弟子等も亦是くの如し或は信じ或は伏し或は随い或は従う但だ名のみ之を仮りて心中に染まざる信心薄き者は設い千劫をば経ずとも或は一無間或は二無間乃至十百無間疑無からん者か
 ――今日蓮の弟子等も、この不軽菩薩を迫害した者と同様である。形のうえではあるいは「信じ」、あるいは「伏し」、あるいは「随い」、あるいは「従う」。ただし、それが名前ばかりで、心の中まで染まりきっていない信心薄き者は、たとえ″千劫″まではいかずとも、あるいは一劫の間、あるいは二劫ないし十劫、百劫の間、無間地獄で苦しむことは間違いない――。
 まことに厳しいご指導である。「名のみ之を仮りて心中に染まざる信心薄き者」であっては、絶対に成仏することはできない。むしろ堕地獄である、と。
 信心は形ではない。役職のみでもない。年数でもない。「心中」に、生命の全体に「信心」を染めきるかどうかである。
 信心の強さ、深さ、正しさというものは、外見ではわからない場合が多々ある。いわんや表面的な″組織の論理″のみでは、見えない場合があまりにも多い。
 あくまでも信心は自分自身の課題である。自分自身の内実がどうであるか、その生命の因果の問題である。
 いかなる幹部であっても、それが名前だけであり、無責任であれば、むしろ罪をつくってしまう。いわんや信心を利用し、広布の組織を利用して、自身の名利を得ようとするなど、その「心」自体がすでに地獄界の心である。
 広宣流布への責任をもって、あるときは苦しみ、悩みながら、労を惜しまず、わが色心を燃やし、用いていく。それはたしかにたいへんであるけれども、責任が大きい分だけ、生命の中に仏種が大きく育ち、豊かに爛熟していくのである。三世永遠にわたる不壊の幸福の当体になっていく。
 ゆえに中途半端であってはならない。不惜身命が信心の骨髄である。その真の「信伏随従」によって、わが生命を妙法に染めきっていってこそ、成仏という無限の大功徳がある。
 学会は「広宣流布」への仏意の団体である。妙法の光に照らされた、この広布の世界で、真剣に信行学の活動をしていく。その信心強盛の人こそ、現代における「信伏随従」の人である。(拍手)
 弟子が師に、身口意の三業をもって仕え、信伏随従していく。この姿を「常随給仕」(常に師に随って給仕していくこと)と言い、令法久住(正法を久しく後世に住せしめること)のための重要な仏道修行である。
 大聖人は、多くの弟子のなかで、常随給仕第一の日興上人に法を付嘱された。
 日興上人の信伏随従のお姿を、「百六箇抄」には、こう記されている。
 「弘長配流の日も文永流罪の時も其の外諸処の大難の折節も先陣をかけ日蓮に影の形に随うが如くせしなり誰か之を疑わんや
 ――弘長元年からの伊豆への配流の時も、文永八年からの佐渡流罪の時も、そのほかの諸所の大難の折にも、先陣を駆けて、影の形にしたがうように、日蓮に随従してきた。だれが、この事実を疑うであろうか――。
 難があればあるほど、先陣を駆けて、師のために走り、仕えきっていかれた日興上人。その「信伏随従」の戦いを、大聖人はどれほど喜ばれたであろうか。
 その他の五老僧は、真の信伏随従ではなかった。ゆえに大聖人御入滅後に、その本性を現し、堕ちていった。ここに重大な歴史の教訓がある。
11  ロンドン塔に権力悪の歴史
 さて、五月にョーロッパを訪れた折、イギリスのロンドン塔に立ち寄った。
 このロンドン塔の歴史は九百年あまりである。ゆえに、すべてを語り尽くすことはできないが、いくつかのエピソードを紹介しながら、感じるところを述べておきたい。
 そもそもロンドン塔は、一〇六六年にイングランド王に即位した、ウィリアム一世(征服王ともいう。在位一〇六六年〜八七年)により建てられた。ロンドンの街とテムズ川の双方を見渡せる位置として、この地が選ばれたらしい。
 当初から、要塞を兼ねた王宮として使われたが、代々の王によって拡張され、ヘンリー八世の治世(一五〇九年〜四七年)の前半まで、王の居城であった。ジェームズ一世(在位一六〇二〜二五年)の崩御まで王が住んでいたとの説もある。また、兵器庫、宝物殿、造幣所としても使われた。
 中世に、ロンドン塔は囚人を収容する牢獄にもなった。宮中の対立、王家間の紛争、宗教的弾圧。そうしたドラマのなかで、多くの国事犯が投獄され、処刑されている。
 私たちがロンドン塔を訪れた日。それは、太陽が明るく輝き、″霧のロンドン″どころか″五月晴れのロンドン″であった(笑い)。滞欧中は総じて天候に恵まれたが、これも多くの友が私たちの各国訪問の成功を祈り、唱題してくださったおかげと、心から感謝している。
 その日、車を降りると、右手に小さな広場があった。それが、かの「タワー・ヒル」――死刑囚の処刑場である。身分の低い刑事犯、反逆者は、絞首刑、水刑、四つ裂きなどいろいろなかたちで刑に処された。それに対し、貴族や身分の高い人は、打ち首となった。これは名誉ある刑であり、一説によれば百二十五人が打ち首とされる。処刑された身分の低い人たちの数は、はるかに多かったという。ちなみに、ここで処刑があると、多くの市民が見物に押しかけたという。人間の恐ろしい一面である。
 戸田先生は「いかなる理由があるにせよ、絶対に人を殺してはならない」と、よく言われた。また「『悲惨』の二字を、この地球上からなくすことが仏法者の責務である」と言われていた。
12  牢獄は、ある意味で、「権力」の象徴である。政権に不都合な人物、権力の批判者を隔離し、葬りさる忌むべき場所といってよい。
 ロンドン塔も例外ではない。数々の権力の横暴、良心の悲劇の歴史がきざまれている。耳を澄ませば、権力の荒波に翻弄された人々の苦悶が聞こえてくる――。
 たとえば、メアリー一世の時代(在位一五五三年〜五八年)にはプロテスタントが多く拷問され、次のエリザベス一世の時代にもカトリック教徒が捕らえられた。当時、捕らえられた人はテムズ川を船で運ばれ、「トレイターズ・ゲート(反逆者の門)」から塔に送られた。木製のその間は、深い緑の川面に、まるでのこぎりの歯が立つように映っていた。この間をくぐると、生きて帰ることはむずかしい。
 夏目漱石は『倫敦塔』の中で、この門を「逆賊門」とし、その感慨を次のように記している。
 「テームスは彼等にとっての三途の川で此門は冥府よみに通ずる入口であった」(『夏目漱石全集 第一巻』所収、筑摩書房)
 それとともに、ロンドン塔には、運命に抗って脱走を試みた囚人もいた。
 ロンドン塔の最初の囚人フランバート司教。彼は、一一〇〇年ごろに幽閉されたが、のちにロープで窓から脱出した。十八世紀のニスデル伯も有名である。処刑前夜、ひそかに妻が持ち込んだ服で女装し、化粧して、脱走に成功した(笑い)。投獄の事情はさまざまであろう。だが、知恵を絞り勇気を奮い起こして、脱走に挑んだ姿には、一種の爽快感すらある。
 いかなる策謀、いかなる弾圧にも、絶対に屈しない。必ず反撃する。自分の自由、信条を侵すものは決して許さない。一切をはじき返す。そうした″強き個人″″強き人間″であっていただきたい。つまり、不当な圧迫や、言われなき中傷をされて、弱々しくなってしまうような人間では、偉大な幸福者にはなれない。いかなる嵐の圧迫にも悠然と立ち向かい、切り返し、はね返し、笑顔で前に進む人には、幸福という勝利の旗がひるがえる。(拍手)
 ともあれ仏法は勝負である。信仰の勇者として、正義と信念の戦いには、絶対に負けてはならない。
 ロンドン塔の中には、こんな変わった人生もあった。
 ウォルター・ローリー卿。私はこの人のことを思うと、ついほほえみたくなる。著名な詩人であり、探検家であるが、彼はここへ三回投獄された。
 けれども、決して悶々としたわけではない。幽閉中に化学の実験をしたり、書物の執筆に没頭。ヘンリー皇太子の教育のために書いた『世界の歴史』は、当時の大ベストセラーとなり、売れゆきは、同時期に出版されたシェークスピアの戯曲を凌駕したという。
 その間、卒中で倒れたにもかかわらず、冒険の夢を追い続け、三度目の釈放の後には、「運命号」という名の船で南米ギアナに出航。だが、めざす金鉱は見つからず、強大なスペイン軍とも衝突し、やむなく帰国、その後三度目の投獄の後、ウェストミンスターで処刑されている。
 ″ヤマ師″はいただけないが(笑い)、牢獄にあっても、勉強や研究、執筆にと取り組んだ姿は尊い。いかなる場所、いかなる時であっても、向上への努力、実践は可能である。
13  弾圧と流血を繰り返した宗教的対立
 権力の弾圧により、おびただしい血が流された歴史は枚挙にいとまがない。とくにヨーロッパで顕著なのは、宗教的対立による抗争である。
 「聖バーソロミューの虐殺」。一五七二年八月二十三日から二十四日にかけて、パリで、数多くのユグノー(フランスのカルヴアン派)らが、カトリック教徒(旧教徒)に殺害された。以後二カ月間、全国的に狂気が波及し、軍隊はもちろん一般市民にも、魔女狩りのような熱狂が支配した。殺された新教徒は、パリだけで三千人とも五千人ともされ、全国では一万人を超えた。この大量虐殺の知らせを聞いて、なんとローマ法王は祝砲を打って喜んだという。
 以前にも申し上げたことがあるが、古代、キリスト教は徹底して弾圧された。一世紀のネロ帝をはじめローマ帝国の王は、代々、異教として嫌い、キリスト教徒を容赦なく迫害した。四世紀にコンスタンテイヌス帝がはじめて公認し、信教の自由を定め、テオドシウス帝がキリスト教を国教とするまで、弾圧は続いた。
 キリスト教が″正統″となった後も、流血の歴史は続く。数々の″異端″との抗争である。たとえば、十二世紀、フランスに生まれたワルド派は、一大民衆運動となったが、ローマ教会から大迫害を受けた。
 十六世紀の宗教改革以後、旧教と新教の間に苛烈な宗教戦争が起きたことは、ご存じのとおりである。今お話しした聖バーソロミューの虐殺も、一例にすぎない。なかには、もともとプロテスタントの一派であっても、旧教はもちろんルター派など新教徒からも迫害された再洗礼派(アナバプティスト)などの例もある。
 ともあれ、こうした幾多の抗争、弾圧のぼ犠牲者は、まさに数知れない。
 たとえ、かつて迫害を受けた側であっても、ひとたび正統となるや、無情の弾圧者となっていった宗教の権力。歴史は、権力の本質を如実に物語る。
 悲惨な流血は、近年の例では、ナテスによるユダヤ人虐殺がある。その数は、なんと五年間で約六百万人。かのアウシュビッツだけでも、約百五十万人が殺されたといわれる。
 またワルシャワの場合、ユダヤ人地区(ゲットー)には五十万人が収容され、このうち十二万人が栄養不良で死に、三十二万人がガス室のある収容所に送られた、との記録がある。
14  民衆の力で宿命を転換
 いずれにせよ、キバをむき出した「権力」ほど残酷なものはない。この「権力」の魔性に、罪もなき民衆が、どれほど泣き、苦しめられ、命さえ奪われてきたことか――。恐るべきは権威・権力の魔性である。
 いくたびとなく繰り返されてきた民衆抑圧の歴史――その悲しき宿命を転換しゆくのも、民衆の力である。
 まず広島、中国の皆さま方こそ、「勇気」「希望」「団結」の前進で、「民衆の時代」の先駆を切っていただきたい(拍手)。その意味からも、社会で、地域で、職場で、全員が勝利者となっていただきたい。それが大聖人のお心にも適い、戸田先生の念願でもあると申し上げ、本日のスピーチを終わらせていただく。
 (広島池田平和記念会館)

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