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日蓮大聖人・池田大作

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第十一回関西総会 広宣流布の錦州城たれ

1989.19.12 スピーチ(1989.8〜)(池田大作全集第73巻)

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1  草創の功労者を永遠に顕彰
 伝統をきざむ第十一回の「花の関西総会」、本当におめでとう。(拍手)
 先ほどは、「荒城の月」の見事な演奏があった。関西でこの曲を聴くと、やはり私は「錦州城」を思う。言うまでもなく関西は、永遠なる「広布の錦州城」である。その常勝の歴史を、まず私は心からたたえたい。(拍手)
 どうか関西は、全国に模範の仲の良い前進をお願いしたい。大阪を訪れると、数多くの草創の同志のことが思い起こされる。なかでも、今は亡き大井満利さん、玉置正一さん、婦人部では川坂久子さん。いずれも苦難の草創期にあって、懸命に戦い、黄金の足跡を残された方々である。
 私はそうした方々の労苦、功績を絶対に忘れない。日夜、真剣に追善している。明年、関西の記念墓苑が完成した折には、そうした方々の植樹もぜひ行いたいと考えている(拍手)。功労の皆さま方の栄光を永遠に顕彰させていただきたい。(=一九九〇年六月にオープン)
2  無冠の人間として強くあれ
 まことの勇者とは――。真実の信仰者とは――。御書を拝し、その点について少々、論じておきたい。
 「裸形の猛者の進んで大陣を破ると甲冑を帯せる猛者の退いて一陣をも破らざるとは何れが勝るるや
 ――身に何一つ着けていないのに勇敢に前に進んで敵の大陣を破る猛者と、甲冑(よろいやかぶと)で身を固めていながら敵を前に臆し退いて、一陣さえ破れない者とは、どちらが勝っているであろうか――。
 この御文は、真言の教えを破折し、「法華第一」を示されたものである。
 つまり、真言を擁護する論理として――法華経には、印契や真言といった形式がなく、裸形の猛者のようなものである。それにくらべ、大日経(真言の依経)は甲冑を身に着けた猛者である。だから大日経のほうが優れている――との論難があった。
 それに対し大聖人は、いくら立派そうに甲冑を自慢しても、実際に敵を前にしたときに尻込みしてしまう意気地なしでは意味がない。すなわち、現実に人々を幸せにしていく力がなければ、どんなに外面を飾り、偉そうに見せても、所詮、虚しいとの道理を示されている。
 総じて宗教には″権威の甲冑″が付き物である。教義が浅く、形式のみの宗教ほど、その傾向は強い。きらびやかな僧衣で飾る宗派も多い。(笑い)
 言うまでもなく、権威や形式は、宗教の内実、教義の高低とは関係がない。大切なのは、その宗教が本当に人々を幸せに導けるのか。強く、正しく生きぬくための源泉となりうるかどうかである。
 わが創価学会には、必要以上の飾りも形式主義もない。赤裸々な庶民と庶民の団体である。私どもは、ひたすら大聖人の教えのままに前進し、現実に数限りない人々を救った。広布を阻む幾多の″大陣″を打ち破った。権威でも形式でもない。ただ、「信心の力」によって広布の新天地を構築してきた。ここに、私どもの誇りがあり、誉れがある。
 地位や一肩書といった″甲冑″に、とかく人間はだまされやすい。とくに日本人は権威に弱いといわれる。しかし、政治家であるとか、名門の出身である、財力があるなどということは、人間の偉さ、尊さとは無関係である。
 ありのままの人間であってよい。ただ、いかに偉大な法をたもつか。深い哲学を持ち、胸中に高い境涯を築くか。ここにこそ人間としての真の価値と充実がある。
 いわんや、皆さま方は、さまざまな苦難と戦いながら、折伏を行じ、人々を幸福へとリードされている。その皆さま方こそもっとも偉大であり、「強い人」であることを、声高く申し上げておきたい。(拍手)
 その大切な仏子を調謝し、見くだすような言動に対しては、断固として戦い、反撃していかねばならない。みすみす看過し、悪を容認するようでは、法を下げることにもなりかねない。
 日蓮大聖人は、先ほども拝したように、他宗派の中傷の論理に対して、それを逆手にとられ、まことに見事に切り返されている。
 もとより次元は異なるが、正法を謗じ、仏子を貶める言に対しては、透徹した論理で反論し、戦う力を持たなくてはならない。そうした強さ、明晰さを持たなければ、仏子は守れない。また広く社会の納得と共感を得ることはできない。
 草創期の学会は、その意味で、まことに明快であった。強靭であった(拍千)。いかなる論戦にあっても、徹底して戦い、言論戦で相手を論破してきた。
 それが、時とともに広布の基盤がととのい、大きくなるにつれて、徐々に切り返す知恵と力を失い、いわば臆病になることを、私は深く危惧する。悪に対して言われるがまま、なされるがままに黙っているような、弱々しい″烏合の衆″となっては絶対にならない。それでは、正法をたもった信仰の勇者とは言えないからだ。
3  さて、このほど、皆さまのお力で、関西国際友好会館が完成した(拍手)。昨日も、パグウォッシュ会議のロートブラット会長と、そこで有意義に会談させていただいた。
 このパグウォッシュ会議の精神の柱とは何か。それは、一九五五年(昭和三十年)に発表された「ラッセル・アインシュタイン宣言」である。そのなかに、次の有名な一節がある。
 「われわれは、人間として人間に訴える――諸君の人間性を記憶せよ、そして、他のことを忘れよ、と」(ラッセル『人類に未来はあるか』日高一輝訳、理想社)
 バートランド・ラッセル、アインシュタインといえば、二十世紀の知性の最高峰といってよい。その人たちが、人類史の転換のカギとしたのは、科学でも、政治でもない、「人間性」の一点であった。ここに、徹して「生命」と「人間」に光をあてた仏法との確かな響き合いがある。
 私どもは、深遠な哲理を体した民衆と民衆の連帯で、「人間性」と「平和」を世界に開花させゆく運動を繰り広げている。その存在が、心ある人々にとって、どれほど希望であり、指標であることか。その大いなる自覚と責任感を持って前進していきたい。(拍手)
4  権威の悪に屈せぬ″魂の自由″を
 牧口先生は、よく言われていた。
 「物事に間違っていなければ頭を下げてはいけない。悪に対して負けてはいけない」と。
 たとえ相手がどんなに社会的地位が高く、力のある人であっても、自分が間違っていなければ、絶対にへつらったり、バカにされたりしてはならない――この毅然たる強さを学会精神の骨髄とせよ、との牧口先生の遺志であると受けとめたい。
 かつては、日本中が軍国主義という「悪」に負け、国家神道に頭を下げていた。国家権力の言いなりにならなければ、たいへんな目に遭うという時代であった。
 しかし、牧口先生、戸田先生の師弟は、何と言われようとも絶対に屈しなかった。神札を受けることにも応じなかった。信教の自由を踏みにじる暴挙に対して敢然と抵抗し、謗法厳誠を貫かれた。これが「学会精神」である。
5  また「持妙法華問答抄」に「上根に望めても卑下すべからず下根を捨てざるは本懐なり、下根に望めても憍慢きょうまんならざれ上根も・るる事あり」――上根の人に対しても自分を卑下してはならない。下根を見捨てないのが仏の本懐である。下根の人に対しても驕慢であってはならない。上根の人でも得道の道から漏れることがある――と、お示しである。
 牧口先生はこの御文を拝されて、「名門の人や高位・高官だからといって、へつらうのも法を下げる。威張って、信用をなくすのも法を下げることになる」と言われた。
 上根とは、仏法を信解し仏果を成じていくための素地、機根がととのっている人である。下根とは、そうした生命の素地が弱く、なかなか仏法を信解できない人のことをさしている。
 この御文では、たとえ自分が下根だと思っても、卑下してはならない。仏が見捨てることはないからである。逆に上根であっても、驕慢な心になってしまっては、成仏が叶わないこともある、と戒められている。
 この意義を拝されたうえで、牧口先生は、一肩書や社会的地位など表面的な世法の次元にとらわれて、へつらったり、反対に威張ったりしては、法を下げることになる、と厳しく指摘されたのである。
 ゆえに、学会のなかにおいても、幹部だから、社会的地位があるから、有名人だからといって、その人に対して変に従順になり、何も意見が言えなくなるようではいけない。特別扱いの人を絶対につくってはならない。
 「法」のために行動し、広布のために働く人がもっとも偉いのである。その人にこそ三世十方の仏・菩薩、諸天善神の讃嘆がある。この、学会の永遠の変わらざる精神を、断じて忘れないでいただきたい。(拍手)
6  きょう十月十二日は、一閻浮提総与の大御本尊の御建立の日である。その意義にちなんで、日昇上人が昭和三十年(一九五五年)十二月十三日、関西本部の落成入仏式で「日蓮がたましひすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ」云々の御文を拝し、述べられたあいさつを紹介したい。
 「関西に大御本尊を御安置申し上げて、皆さまがこれより折伏に邁進されん事を思いまして感激にたえない次第でございます。(=私は)七十七歳の老僧でございますが、光栄あるこの御本尊を終生忘れることができません。
 先年(昭型二十六年)は、本部の御本尊(=「大法弘通慈折広宣流布大願成就」とお認めの創価学会の常住御本尊)といい、ここにまた関西本部の御本尊をお認めすることは、私は実に何たる幸福で、人生の幸福、大満足に感謝にたえません。涙をもって三宝にお礼を申し上げるとともに、皆さまにも感激の涙をもってお礼申し上げる」と。
 日昇上人がこのように話されたのが、今、私どもが拝している「大法興隆所願成就」とお認めの関西常住の御本尊であられる。
 こうしたお心を、正信会の僧らはまったく知らない、わかっていなかった。そして、学会員を見くだし、いじめぬいた。折伏を行ずる人々を見くだすような者たちが、断じて大聖人のお心を体した僧侶であるはずがない。(拍手)
 それはともかく、関西の皆さま方は、御本尊にお認めの「大法興隆所願成就」のとおり、すばらしい発展と栄光の歴史を築いてこられた。今日のこの「大関西」の姿を、日昇上人もさぞやお喜びくださっていることと思う。心から祝福申し上げたい。(拍手)
7  小説『人間革命』(第十巻)にも少々記したが、この落成入仏式の折、願主である戸田先生は、「無上宝聚 不求自得(無上の宝聚 求めざるに自ら得たりととの法華経信解品の文を引いて、こう言われた。
 「大阪の人々は、この大御本尊を拝んで功徳をじゅうぶんにもらいなさい。(中略)信心をまっとうして、りっぱな幸福者になってください。それが私に対するりっぱなお礼なのです」(『戸田城聖全集 第四巻』)と。
 ――戸田先生が言われたとおり、関西では、今やこれほどの人々が福徳に包まれ、幸福の大道を歩んでいる。
 また、戸田先生はこうも言われた。
 「私は、金持ちにもへつらいません。どんな位の高い人にも頭を下げません。仏法のことに関する以外の者には、けっして頭を下げないのです」(回り
 世間のいかなる権威にも追従しない、へつらわない。ただ折伏行に励み広布に邁進する人だけを尊敬する。これが、関西の本格的な広布の出発にあたって、戸田先生がクサビとして打ち込まれた学会精神である。どうか、関西の皆さまはこの正しき、厳たる学会精神のままに進んでいただきたい。(拍手)
 ともあれ、あらゆる権威を弾き返し、″魂の自由″を勝ちとっていく――ここに本当の信仰の力がある。このことを、本日、私は強く申し上げておきたい。(拍手)
8  ″錦州城″とは難攻不落の異名
 さて関西といえば、広布の「錦州城」といわれてきた。
 先ほど、ある壮年の方に「錦州城とは、どこですか」とたずねたところ、「大阪城のことです」との答えであった。「ホンマですか」と言うと、「ホンマです」。(爆笑)
 たしかに大阪城は、古来「錦城」「金城」と称されていた。しかし「錦州城」とはいわれていない。(笑い)
 「錦州城」は、中国の遼寧省西部の都市・錦州市にある。城といっても日本でのイメージとは違う。中国の城は、町全体を囲む都城であり、錦州城も、周囲が約五千六百メートルの城壁で囲われた都城となっている。船形をしていたことから″船行城″とも呼ばれた。
 錦州の地は、もともと中国北方の遊牧民が駆け巡った地域である。漢代より、それら北方民族の華北侵入に対する砦が設けられるなど、古くから軍事と交通の要地であった。この地に築かれた「錦州城」は、北方民族との戦いの要となっており、その堅固な城は、幾多の戦役に耐えぬいて、難攻不落を誇っていたという。
 また、日露戦争中、乃木将軍らのエピソードで知られる旅順攻略――。旅順を陥落させるために不可欠だった拠点の一つに、呼び方も同じ「金州城」があった。防御が固く、容易に敵を寄せつけない″堅城″であった。
 ともあれ、戸田先生が関西に名づけられた「錦州城」。そこには、これは″難攻不落″の堅城の誉れが薫っている。(拍手)
 「錦州城」の名にこめられた、″関西よ、頼む″、″関西さえ堅固であれば、広宣流布は盤石である″との戸田先生の思いを、どうか深く知っていただきたい。そして栄えある「常勝」の伝統をどこまでも受け継ぎ、発展させつつ、この関西の地にいちだんと見事なる広布の「錦州城」を、築きあげていただきたい。(拍手)
9  革命の炎と生きた吉田松陰
 さて本日は、青年部の参加者も多い。そこで吉田松陰とその門下について少々、ふれておきたい(拍手)。ご承知のように、吉田松陰は満二十九歳で死刑に散った。まことに若い。青年である。この一人の青年が近代日本の幕を大きく開け、古き時代は倒れた。驚くべき歴史である。
 その影響力の根源は、どこにあったか。松陰という人物の本質をどう見るか。当然、多くの論者がおり、さまざまな見方がある。また諸君にも将来、考えていただきたい。本日は、彼の言葉から一点のみ、お話ししたい。
10  松陰はある時、門下に対し、こう言った。
 「僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り」(安政六年正月十一日、某宛書簡。山口県教育会編『吉田松陰全集 第八巻』大和書一房。以下、手紙の引用は同じ。すべて安政六年)と。
 ″自分は、成否はともあれ、忠義の赤誠を貫くつもりである。それなのに諸君は手柄をたてるつもりなのだ。意見が違い、生き方が違う″と厳しく指弾したのである。
 すなわち、これは松陰が、門下の久坂玄瑞、高杉晋作らを名ざしで批判し、絶交した時の言である。
 ――諸君には、私の心がわからない。
 ――ああ、真の同志は、まことに少ない。
 松陰は嘆いた。この師弟に何があったのか。
 時に、松陰にとって最後の年、安政六年(一八五九年)一月のことであった。この年の十月に彼は刑死する。(安政の大獄)
 松陰は、この時、萩の「野山獄」にいた。獄中でも彼は革命への動きを止めようとしなかった。
 彼はいつでも計画し、どこでも実行に移そうとしていた。
 真の革命家は皆、そうである。牢獄も彼の心を縛ることはできない。
 松陰はこの以前から、次々と門下に策をさずけた。
 長州(山口県)の藩主・毛利慶親(後に敬親と改名)を、参勤交代の途中、カゴを止め、京都で「討幕へ」と説得しようという計画もその一つである。″もう時代は変わった″と、大名を行動させようというのである。
 また、水野土佐守宅や、老中・間部詮勝の襲撃なども考えた。
 思いは次々と浮かび、めぐる。頭脳は激しく回転する。松陰の思いは激しかった。
 つねに生き急ぎ、死に急いでいたかのごとき松陰。生きることにも心急き、死にゆくことにも急であった。
 その心は私にも痛いほど、よくわかる。青春の日、私は思い定めていた。「戸田先生のご存命中に死のう」と。
 私には妻も子もあった。しかし、後世に戸田門下生の範を示しておきたかった。こういう地涌の闘士がいたのか、末法広宣流布に殉じた若武者がいたのか――と。
 しかし、その心を戸田先生に見破られてしまった。
 「大作、お前は死に急いでいる。それは困る。お前が死んだら、俺のあとはどうなるのだ!」
 それで私は生きた。生きぬく以外になくなった。生死を超えた師弟であった。厳粛にして美しき、一体の師弟の絆であった。何ものも、その間に介在することはできなかった。
11  獄中にあって、松陰はジリジリした。思いは逸れども、動くに動けない。だれか、わが心を心として走ってくれる者はいないか。
 ところが――。門下は、彼の計画に、ことごとく反対した。
 藩主のカゴを止める計画も、実行しようという者は入江兄弟(入江杉蔵、野村和作)のみ。しかし、兄弟は若く、足軽の身分でもあり、たいして仕事はできなかった。
 一般にも、ある程度、力のある人間は傲慢になり、ずるくなって、身を粉にしない。保身を図る。一方、純真な人間には、力がないことが多い。こういう傾向性があるようだ。力もあり、人間的にも、労を惜しまぬ誠実さがある、そのような人物が多く出てこそ、大事は成る。
 激しいといえば、まことに激しい松陰の情熱である。弟子たちには理解できない。それどころか、師を諫めさえした。
 高杉晋作、久坂玄瑞、中谷正亮、その他の弟子も、みな松陰に背を向けた。江戸にいる彼らから手紙が届いた。
 ――先生のお気持ちはよくわかりますが、時期尚早であり、老中襲撃など成功の見込みは少なく、長州藩そのものを危機に追い込むことになりかねません。ここは我慢をして、時を待つべきです、との内容であった。
 門下の双璧と言われた久坂、高杉ですら、こうである。他の計画も、実行に走ろうとした門下を他の門下生が説得して、やめさせるしまつであった。藩に計画を密告した門下すらいた。一裏切りである。
12  松陰は嘆いた。私の心を知る弟子は、どこにもいないのか――。松陰は孤立し悩んだ。
 久坂、高杉らの手紙が届いたとき、松陰はある人にあてて書いた。
 「吾が輩皆に先驅さきがけて死んで見せたら觀感かんかんして起るものもあらん。夫れがなき程では何方時を待ちたりとて時はこぬなり」(同書簡)
 ――僕が、皆に先駆けて死んで見せたら、意気に感じて立ち上がる者も出るかもしれない。そうする者がいないようでは、いくら時を待ったところで時はこない――と。
 ″時を待つ″のではない。言ってわからなければ、一命を捨てて″時をつくる″。その死は、決して門下生らが言うような「犬死に」ではない、と。
 結果的には、やがて松陰の死が門下を立ち上がらせ、この時の彼の手紙のとおりになった。
13  永遠の″広宣の火種″を諸君に
 さらに、松陰は言う。
 革命の炎を燃え立たせたのは自分ではないか。その正義の炎に対抗する「逆焔」も自分が煽ったのだ。その僕の動きを止めようとは、なんという心得違いか。
 「且つ今の逆焔は誰れが是れを激したるぞ、吾が輩に非ずや。吾が輩なければ此の逆焔千年立つてもなし。吾が輩あれば此の逆焔はいつでもある。忠義と申すものは鬼の留守の間に茶にして呑むやうなものではなし。吾が輩屏息へいそくすれば逆焔も屏息せようが、吾が輩再び勃興すれば逆焔も再び勃興する、幾度も同様なり」(同書簡)
 ――そのうえ、今、革命に対する炎は、いったいだれが燃え立たせたのか。この僕ではないか。僕がいなければ、この炎は千年たってもなかろう。僕さえいれば、この炎はいつでもある。
 忠義というのは″鬼のいない間に、一息入れて茶を飲む″ようなものではない。
 僕が息をひそめれば、炎も息をひそめる(小さくなる)だろう。僕がふたたび立てば、炎もふたたび大きく燃え上がる。これは何度やっても同じことだ――。
 「忠義と申すものは鬼の留守の間に茶にして呑むやうなものではなし」――なんと痛烈な言葉であろうか。
 何やかやと理由をつけて、動こうとせず、その実、危険を避けて、わが身をかばおうとしている。そうした門下の、政治家的な要領のよい生き方と弱さを叱咤しているのである。
 何より、「革命の火種」としての松陰の自負は大きかった。自分が立てば、反動も大きい。そのとおりだろう。当然ではないか。われこそ″革命の主体者″なのだ。その僕を抑えて、時を待つなどと言ったところで、何年たっても何ひとつ変わらないぞ、と。
 炎を広げるには、「火種」を第一に守りぬいていく。これが当然すぎるほど当然の道理である。その道理が見えないのかと、松陰はあえて言わざるをえなかった。
 広宣流布も、「火種」を守りぬけば、いつでも燃え広がる。また永遠に続いていく。「火種」を消せば、広布の炎も消える。この重大な一点を忘れてはならない。
 今、私は戸田先生から受け継いだ、正法広宣流布への確かな火種を世界に広げながら、さらに次の時代のため、万年のために、真正の「革命の火種」を青年諸君の魂に伝えようとしている。(拍手)
14  この後に、冒頭にあげた有名な言葉が出てくる。
 「江戸居の諸友久坂・中谷・高杉なども皆僕と所見違ふなり。其の分れる所は僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り」(同書簡)と。
 ――江戸にいる諸友、久坂、中谷、高杉なども皆、僕と考えが違う。そのわかれるところは、僕は忠義をするつもりであり、諸友は功業(手柄)をなすつもりなのだ――と。
 松陰の言う「忠義」と「功業」とは言葉は古いが、現代的にはこうも言えよう。報酬を求めぬ「私心なき赤誠」と、功名心にとらわれた「政治的方便」と。別のところで松陰は、同じことを「真心」とも表現している。
 師弟の違い。それは、大義に死する革命詩人と、功名に生きる政治的人間との違いであった。
 ――たとえわが身がどうなろうと、身を賭して正義を明らかにすべきではないか。それでこそ″時″をつくり、時代を開ける。今やらねば、いつやるのだ。このまま、おめおめと生き、火種を消してしまうのか。
 ――上手に生きよう生きようと立ちまわるのは、「功業の人」である。国家のためにと言いながら、生きて功名を立て、革命の甘い汁を吸おうというのか。
 「皆々ぬれ手で栗をつかむ積りか」(一月十六日、岡部富太郎宛書簡)
 ――高杉、久坂、中谷らは皆、「ぬれ手で栗をつかむ」つもりなのか――。
 松陰の言葉は、いよいよ激しい。高杉よ、久坂よ、「時を待て」とは何たる言い草だ。皆、苦労もせず「ぬれ手で粟」で、功名のみを得ようというのか、と。
15  師はだれよりも弟子を知る
 客観的には、あるいは弟子たちの状況判断にも無理からぬ面があったかもしれない。実際、そう論じる人もいる。また「手柄」を立てることが悪いというのでもない。何の手柄も立てられないのでは、しかたないともいえるかもしれない。
 しかし松陰が言いたいのは、そんなことではなかった。自分と弟子たちの″奥底の一念の差″を嘆いたのである。
 「革命のための人生」なのか。それとも「人生のための革命利用」なのか。
 私どもで言えば、広宣流布のために自分をささげるのか。自分のために広布を利用し、信心と学会を利用するのか。この「一念の差」は微妙である。ある意味でタッチの差である。
 しかし、その結果は大きく異なる。広布のため、正法のために――との信心の一念は、諸天を大きく動かし、友の道を限りなく開いていく。自身の生命にも、三世永遠の福徳の軌道、確たる″レール″が築かれていく。
 反対に、口には広布を唱え、裏では、心堕ち、銭に執着し、身が堕ちてしまった人間もいる。立場や名利、金銭に執着し、その心を本として、たくみに泳ぎつつ生きていく。これまでの退転者らがそうであった。
 また、人に認められよう、ほめられようとの一念で行動する人もいる。しかも自分では、けっこう頑張っているつもりでいる。自分で自分のエゴがわからない。
 松陰がここで言うのも、弟子たちが自覚していない、心の底の「臆病」と「野心」を撃っているのである。
 弟子を知る者、師にしかず――。師匠には弟子が自分で気づかぬ心までわかっている。反対に、師の心を知る弟子はあまりに少ない。
16  吉田兼好の『徒然草』に、「師の眼力」を書いた一文(第九十二段)がある。
 「或人、弓射る事を習ふに、もろ矢をたばさみて的に向ふ。師の言はく、『初心の人、ふたつの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、はじめの矢に等閑なほざりの心あり。毎度ただ得失なく、この一矢に定むべしと思へ』と言ふ。わづかに二つの矢、師の前にてひとつをおろかにせんと思はんや。解怠けだいの心、みづから知らずといへども、師これを知る。この戒め、万事にわたるべし」(『日本古典文学全集27』神田秀夫・永積安明・安良岡康作 校注訳、小学館)と。
 ――ある人が弓を習っていた。手に二本の矢をはさみ的に向かった。弓の師匠が言った。「初心の人は、二本の矢を持つな。あとの矢を頼んで、まだ一本あると思い、初めの矢をなおざりにする心が出るからである。毎回、矢を射るたびに、成功、失敗を気にせず、ただ『この一矢で終わりにしよう』と思え」と。
 二本の矢のみである。師の前で、一本をおろそかにしようと思うだろうか。しかし、怠けの心は、自分では気づかずとも、師匠は知っているのである。この戒めは、万事に通じるものである――。
 さらに兼好は言う。
 「道を学する人、夕には朝あらん事を思ひ、朝には夕あらんことを思ひて、かさねてねんごろに修せんことを期す。況んや一刹那のうちにおいて、解怠の心ある事を知らんや。なんぞ、ただ今の一念において、直ちにする事の甚だ難き」(同前)
 ――道を学ぶ人も、夕方には、明日の朝があることを思い、朝には夕方があることを思って、そのときには、ふたたび真剣に修行しようと決意する。それほどであるのだから、いわんや一瞬の間に、怠けの心があることを知りえようか。「ただ今の一念」において、ただちに、なすべきことを実行することのなんとむずかしいことか――。
 師匠は、弟子の心がよくわかるものである。だからこそ、自分の怠け心に気づかず、真剣に道を求めようとしない弟子のために、教え、励まして成長させようとする。
 師がいてこそ、求める道も正しく進み、究めていくことができる。自身の成長も、人生の向上もある。
 ともあれ、人生も、青春も長いようで短い。「この一矢」「ただ今の一念」をきちんと定めて、充実した、価値ある一日一日を生きていかねばならない。そのためには、どうしても師が必要である。このことを教えた『徒然草』の文である。
17  さて、松陰の門下は師から遠ざかった。「先生、おとなしくしていてください。今は、行動しないで、静かにしていてください」――彼らの心根を一言で言えば、こうであった。
 そこには師を危ない目に遭わせたくない、という心情もあったつもりかもしれない。しかし、その本質は、師の心を知らず、自分たちのさかしらな考えにとらわれていた。臆病の心もあった。
 「先生のおもりに困っているんだ」とさえ、愚痴を言った門下もいる。これは手紙が残されている。
 松陰は嘆いた。「勤王のきの字を吐きし初めより、小弟しょうていもとより一死をはめての事なり」(一月十三日、兄杉梅太郎宛書簡)と。
 「勤王」の「き」の字を口にして、革命を志したときから、すでに一死を覚悟している。何を恐れることがあろうか。なのに″情勢が厳しい″″今はその時ではない″などと門下たちは言う。今さら何の「臆病論」(同書簡)なのだ。
 大義に死す者がいないとは、太平の世に柔弱になりきったのか。「日本もよくもよくも衰えたこと」(一月二十三日以後、入江杉蔵宛書簡)だ。情けないかぎりだ。「哀し哀し」(二月十五日以前、某宛書簡)と、松陰は血涙をしぼった。
 このときの松陰の思いは、「星落秋風五丈原」の歌の一節「成否を誰れかあげつらふ一死尽くしゝ身の誠」に通じるものがあろう。
 戸田先生は、かつて、「五丈原」の歌を青年部に歌わされたが、この歌詞のところにくると涙されるのが常であった。″無責任な傍観者が何を言おうと、広宣流布は断じてなさねばならない。いったい、だれがそれを成すのか″との思いが、歌詞と二重写しになって胸に迫られたにちがいない。
 しかし、戸田先生のもとにはつねに私がいた。私は「広宣流布」の「こ」の字を口にしたときから心は決めていた。死も覚悟のうえだった。そして戸田先生の誓願実現のために、走りに走った。
 戸田先生も「大作がいるからな」と喜んでくださっていたし、私に一切を託された。一切を託せる弟子を持つことほど、師にとっての喜びはないし、幸せはない。(拍手)
 広宣流布も、また大闘争であり、当然、戦術、戦略というべきものもある。また、冷徹な情勢分析も絶対に必要である。しかし、より根本的なものは「師弟の道」である。その道を外れては、どんな作戦も価値を生まないことを知らねばならない。(拍手)
18  ″民衆の決起″こそ革命の原動力
 さて、松陰は、明治以後になると、いわゆる「勤王の志士」とたたえられ、軍国主義などに利用されてきた歴史がある。しかし、彼が、苦しみの果てにいたった結論は、じつは「民衆による革命」であった。「草漭崛起そうもうくっき」(民草、民衆の決起)――これが松陰の、最後の考えであった。
 他人は信ずるに足らず、幕府も諸大名も頼むに足りない。では、どうするのか。――民衆である。革命は、民衆に拠るしかない――と。松陰だけではない。歴史上、まがりなりにも革命を成し遂げた人物は、やはり民衆に焦点をあてていた。
 「草漭崛起、豈に他人の力を假らんや。恐れながら、天朝も幕府・我が藩も入らぬ、只だ六尺の微躯が入用」(四月頃、野村和作宛童日簡)――名もない民衆の決起、もはやそれしかない。どうして他人の力など借りようか。恐れながら朝廷もいらぬ、幕府もいらぬ、わが藩もいらぬ、ただこの六尺の身があればよい――。
 もうだれも頼らない。わが一身が炎と燃えれば、人は民草に燃え広がろう。権力者などあてにするのは、一切やめだ――と。
 民衆は弱いようで強い。いざとなれば権力など、ものともしない。怖じない。無名の民衆の力こそ、革命の真の原動力である。広布という未聞の大業もまた、無名の庶民によって、たくましく切り開かれてきた。(拍手)
19  松陰が、この「民衆決起」の考えにいたった発端は、どこにあったか。それは、日蓮大聖人の戦いであった。彼は書いている。
 「余が策の鼻を云ふが、日蓮鎌倉の盛時に當りて能く其の道天下に弘む。北条時頼、彼のこん(=髪をそられた罪人のこと。ここでは日蓮大聖人を指す)を制すること能はず。實行刻苦尊信すべし、爰ぢや爰ぢや」(同書簡)
 ――この戦略を思いついた発端は、日蓮(大聖人)は鎌倉幕府の勢いの盛んな時に、よくその教えを天下に広めた。権力者である執権の北条時頼でさえ彼を制することができなかった。この事実から考えついたのだ。「実行」と「刻苦」と。苦しみつつ実践に生きることは尊ぶべきであり信ずべきである。肝心なのはここだ、ここだ――と。
 この「民衆決起論」は、やがて弟子たちに受け継がれ、近代日本の扉をこじ開けるテコになる。いわば、日蓮大聖人の、権力をものともしない「民が子」としての戦いが、時代を超えて松陰に飛び火し、明治維新の淵源をもつくっていったのである。(拍手)
20  こうした手紙を書いた約半年後、松陰は江戸で処刑される。
 門下の衝撃は大きかった。「仇を報わでは」と、皆、泣いた。そして、師の手紙や遺文を集めた。それぞれが、ばらばらに持っていたものを結集し、皆で学んだのである。
 そこで、初めて弟子たちは松陰の真意を知った。「これが、わが師の心であったのか」――。その思想の深さ、慈愛の大きさ。あらためて自分たちが師を知ることのあまりに少なかったことを悔いた。
 松陰は遺言に言う。
 「諸友蓋し吾が志を知らん、爲めに我れを哀しむなかれ。我れを哀しむは我れを知るに如かず。我れを知るは吾が志を張りて之れを大にするに如かざるなり」(十月二十日頃、諸友宛、「諸友に語ぐる書」)
 ――諸君は僕の心を知っているであろう。死にゆく僕のことを悲しんではならない。僕の死を悲しむよりは、僕の心を知ってくれるほうがよい。僕の心を知るということは、僕の志を受け継ぎ、さらに大きく実現してくれることにほかならない――。
 師の心を知った弟子たちは、炎と燃えて立ち上がった。もはや彼らには迷いはない。革命の本格的な狼煙は、ここから広がり始めたのである。
 やがて「民衆決起論」は高杉晋作の奇兵隊(農民まで含めた新軍隊)を実現させた。
 そればかりではない。松陰の「幕府もいらぬ、藩もいらぬ」との到達点紙は、久坂玄瑞を通じて坂本竜馬に、そして全国の志士たちにと伝えられ、革命の爆発の発火点となっていった。孤独のなかの松陰の魂の叫びが、やがてこだまにこだまを重ね、新しい時代を開いていったのである。(拍手)
21  やがて、久坂も高杉も、師の心を抱きしめながら、大義のために死んでいった。
 生き残り、革命の甘い汁を吸ったのは、伊藤博文や山県有朋ら、一ランクもニランクも下の人物であった。革命に殉じた人々の功績と労苦を、生き残った者がみずからの保身や功名のために利用する。広宣流布の歩みにあっては、こうしたことは絶対にあってはならない。
 妙法広布に生き、殉じた功労者が最大にたたえられ、報われ、また末永く顕彰されていくうるわしい世界。これこそ学会のあるべき姿であると、私は念願してやまない。(拍手)
 ともあれ、時の権力者とまっこうから戦うなかで、名もなき庶民をこのうえなく愛され、大切にされた日蓮大聖人。その大聖人に、みずからの革命思想の偉大な模範を見いだしたのが吉田松陰であった。
 そして、″民衆″への限りない御慈愛をそそがれて戦われた大聖人のお心のままに、広宣流布ヘの民衆の大河を、広く深く築いているのが、私ども創価学会であると、重ねて申し上げておきたい。(拍手)
22  強き情熱と使命感いだき
 話は変わるが、先日(九月二十六日)、私はパキスタンの駐日大使と会見した。席上、同国の若き首相、ベナジル・ブット女史についても種々、お話をした。
 ブット首相は昨年、就任して以来、同国の民主化に取り組んでいる。父親のアリ・ブット首相は、軍事クーデターによって死刑になった。彼女が今日あるのは、この父への誓いによるものといえる。
 「父は政治は情熱だと言いました。しかし、私にとって政治は使命感です」と首相は言う。
 処刑を前にした父は、彼女に言った。「私はいなくなる。しかし、お前はどんな時にも、決してやけを起こしてはいけない」と。ブット首相は、この父の言葉をささえとして、苦しみのなかでも自分を抑え、自分を乗り越えてきたという。
 彼女は、選挙戦では父親の社会主義的政策を否定し、徹底した現実路線をとった。首相なりに考えぬいた結論であったろう。
 ちなみに、この選挙戦の最中、首相は男児を出産する。出産の三日後には選挙運動に復帰。過労で腎臓を痛めたが、連日二十時間の仕事をしたと聞いた。
 こうして、現実的な民主化政策をかかげたブット首相は、国民の信任を獲得した。まさに、女性の強さとともに、「女性の時代」の到来を感じさせる話である。パキスタンはこの十月一日、新首相のもと、十九年ぶりで英連邦に復帰した。
 父親のアリ・ブット元首相が処刑されたのは、一九七九年であった。父の死に臨むことさえ許されなかった彼女は、後日、母とともに父の墓を訪れている。
 父の墓を前にして、″父のめざすものが、自分のめざすところとなった″ことを実感する。そして彼女は誓った。「パキスタンに民主主義が復活する日まで休むまい」と――。その誓いのとおり、数々の投獄や軟禁にも屈せず、戦い続けたのである。
 パキスタンの指導者であるブット首相の人となりの一面を、紹介させていただいた。
 いずれにせよ、世界的なリーダーと目される人たちは、多くの苦難と戦い、そのなかから深き使命感をいだいて立ち上がっているものである。
 皆さま方も、どうか強き「情熱」と「使命感」を持って、広布のあらゆる山を乗り越えゆく″勇者″であっていただきたい。(拍手)
 明年、一九九〇年五月三日には、学会創立六十周年の、すばらしき佳節を迎える。その時は、この関西の地で盛大に、記念の祝賀の集いが開催されることになっている。そのさい、ふたたび皆さま方にお会いできることを楽しみに、本日のスピーチを終わらせていただきたい。
 (関西文化会館)

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