Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第八回親善文化祭 この生涯を使命の道に

1989.10.1 スピーチ(1989.8〜)(池田大作全集第73巻)

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1  信心は″濁り″との絶えざる戦い
 伝統をきざむ第八回「親善文化祭」、本当におめでとう。きょうは、美しく晴れわたる秋空にも恵まれ、皆うれしそうで私もうれしい。
 皆さま方「創価家族」のささえがあってこそ、広布の本陣も盤石となる。世界への道も開ける。その大切な皆さま方が、こうして集いあい、楽しくも有意義なひとときをきざんでいる――このはじけるような歓喜の姿を、日蓮大聖人、日興上人が御覧になったとしたら、いかばかりお喜びくださるかと思った。(拍手)
 私は日々、皆さま方の健康と安穏、長寿と福徳を祈念させていただいている。
 数々の力こもる試合が繰り広げられた直後である。本来ならば話も早々に切り上げ、解散すべきところであろう。しかし、創価家族がこうして一堂に集う機会はまれであり、貴重である。また、この全体集会も予定よりだいぶ早く始まった。ここで少々″魂の訴え″ともいうべきスピーチをさせていただきたい。(拍手)
2  きょう申し上げたいことは、純一なる信仰の世界を守りぬくために″不純物との戦い″に、ともどもに挑んでいかねばならないということである。清純であればあるほど、わずかの″不純″でも大きな″乱れ″の因となり、やがては広布を破壊しゆく重大な要素となっていく。ゆえに、信心の世界の″濁り″に対しては、徹底して戦い、排除していかねばならない。
 最先端の科学の世界においても、完壁なる″純度″を達成する研究・技術から画期的な進歩がもたらされた歴史がある。
 二十世紀最大の発明ともいわれる「半導体」。コンピューター、電卓、時計、テレビ、ラジオ等々、身のまわりのあらゆる電子機器に応用されている重要な物質であり、私どもの今日の生活は、半導体ぬきには考えられない。では半導体とは、何か。
 物質には、電気をよく伝える「導体」と、電気をきわめて伝えにくい「絶縁体」がある。「半導体」は、その中間程度の性質をもっている。こうした特性から、電気の流れをコントロールするのに優れ、電子機器の高度化に不可欠なものとなっていった。
 その半導体が、トランジスタとして実用化されたのが、約四十年前。そのための絶対条件となったのが、素材の超高純度化であった。小型で丈夫なトランジスタ製造のためには、素材のゲルマニウムやシリコンから、混じっている異物を徹底して取り除き、九九・九九九九九九九%といった限りなく一〇〇%に近い純度が必要とされた。この要求により、九の数字が十も十一も並ぶ「テン・ナイン」「イレブン・ナイン」という超高純度を達成する技術が開発され、それが契機となって半導体の処理技術が急速に進歩し、今日の隆々たる電子産業の基となった。(『科学の辞典』岩波書店、参照)
3  素材から徹底して不純物を取り除くためには、素材を包む周りの環境の純度も同時に高め、バランスをとる必要があり、そうしたいくつもの工程を繰り返し行う、たゆまざる労作業の果てに、超高純度の半導体がつくられ、陰に隠れていた優れた特性が発揮されるようになったのである。
 また、金属が高純度ゆえに、その本来の能力を遺憾なく発揮する場合がある。たとえば、私どもになじみの深い鉄も、混じっている不純物を除き、純度を高めていくと、きわだって耐食性が強くなる。つまり、サビにくくなってくる。世界的に、特に東洋には、千年、千五百年という歳月を経ても、サビて朽ちることなく、美しい輝きを放ち続ける古代の鉄剣や鉄柱が残されている。この″長寿″の大きな要因として、現代の技術をもってしても届かない古代人の精錬技術の高さが指摘されており、われわれ現代人を驚嘆させずにおかない。
4  御書の有名な御文に「うるし千ばいに蟹の足一つ」――千ばいものたくさんの漆も、わずか蟹の足一つ混じっただけで性質が変わってしまう――と教えられている。
 個人においても、和合僧の組織にあっても、「信心」という一点では、いささかの″濁り″も許されない。わずかでも不純なものがまぎれ込めば、信仰の世界全体が侵され、変質し、やがて堕落してしまうからだ。
 不純なる悪と戦い、信心の純度を限りなく高めていく、そこに福徳が限りなく増幅され、さらに広布の勢力がますます拡大していく。
5  文永元年(一二六四年)、大聖人が南条時光の父・南条兵衛七郎に送られたお手紙に、次のような一節がある。
 「いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・めざれば得道ありがたし
 ――いかなる大善をつくり、法華経を千万部読み、書写し、一念三千の観心の道を得た人であっても、法華経の敵を責めなければ得道(成仏)はできない――と。
 これは、末法今時における天台仏法の修行を破折された御文であるが、私どもの信心のあり方をも示されている。
 日々、仏道修行に励み、多くの善根を積んでいるという人がいる。また、教学の研鑽に励み、仏法のことは深く知っているという人もいるかもしれない。しかし、いくら善根を積み、仏法を深く究めているといっても、正法正義を破壊しようとする敵と戦わなければ、すべて無意味なものとなる、成仏は絶対にできない、との厳しき仰せなのである。
 それは、あたかも「朝につかふる人の十年・二十年の奉公あれども・君の敵をりながら奏もせず私にもあだまずば奉公皆せて還つてとがに行はれんが如し」――朝廷に仕える人が、十年、二十年と奉公しても、主君の敵を知りながら奏上(報生じもせず、個人としてもその敵を憎み、責めなければ、長年の奉公の功績もみな消えてしまい、かえって罪に問われるようなものである――と。
 ゆえに、私は、信心の世界、妙法の世界を破壊しようとする敵と戦っている。そのために数々の迫害もあった。非難、中傷も受けている。しかし、それが御聖訓どおりの正しき信心の道と知っているがゆえに、私は行動している。(拍手)
 たとえ、信心の年数も長く、幹部になったとしても、仏法の敵を見ながら、知りながら、戦いもせず、責めようともしなければ、本当に仏法を知ったことにはならない、真実の信心の実践とはならないことを教えられた御書である。
 それでは「成仏」など思いもよらない。大聖人が教えられた正しき信心の道に連なってこそ「成仏」はあることを、よくよく銘記しなければならない。
6  師子身中の虫が仏法を破壊
 いずこの世界にあっても、悪人を放置しておけば、内側から破壊されてしまう。これほど怖いことはない。また、そうした悪がはびこるのを、黙って許しておくことも、重大な罪である。いわんや、仏法の世界は、より峻厳である。
 御書に「師子の中の虫・師子をくらう、仏教をば外道はやぶりがたし内道の内に事いできたりて仏道を失うべし仏の遺言なり」――師子の身中の虫が師子をむしばむ、と言うとおり、仏教を外道は破りがたい。仏教の内部に事が起こってきて、仏道は失われてしまうだろう。これは仏の遺言である――と説かれている。
 清らかな、うるわしい、この正法の世界に、悪が巣くうようなことは、断じて許してはならない。そうでないと「師子の中の虫・師子をくらう」とのごとく、内部から妙法の世界がむしばまれ、永遠なる広宣流布の道がふさがれてしまうからである。
 有名の人がいる。栄誉の人がいる。功績の人がいる。人は、おうおうにして、これらの″飾り″に幻惑されやすい。
 しかし、それらは信心とは何の関係もないことである。これまで学会にも、有名や栄誉、功績の仮面をかぶって、学会を利用しようとしたり、増上慢となり退転していった者が出た。これからも、そのような名聞名利の人物が出るかもしれない。しかし私どもは、絶対に、こうした「悪」の蠢動を許してはならない。(拍手)
 正法の「敵」を鋭く見抜いていくことだ。仮面の策略に翻弄されてはならない。そして信心の世界で「悪」の働きができないように、責めだしていかねばならない。
7  文永九年(一二七二年)十月、大聖人は御流罪の地・佐渡におられた。
 その大聖人のもとに、四条金吾夫妻から、子ども(経王御前)が誕生したとの報告が届く。大聖人はたいへんにお喜びになられ、四条金吾に送られたお手紙に、こう仰せである。
 「現世には跡をつぐべき孝子なり後生には又導かれて仏にならせ給うべし」――この経王御前は現世にはあなた方の後を継いでいく親孝行な子である。また後生には、この子に導かれて仏になられるでありましょう――と。
 本日、この会場には多くの子どもさんたちも集っておられるが、お父さん、お母さん方には、とくに銘記していただきたい御文である。
 正法で結ばれた絆は強い。まして親子にあってはなおさらである。子どもたちは、親の信心を受け継ぐだけではない。後生には親を守り、成仏の道へと導きゆく存在である。三世の生命観からみるとき、親子の永遠の幸福へと回転し、導いていく、すばらしい縁なのである。
 その意味からも、親子がこのように集い、唱題し、信心の思い出をつくることが、いかに大切なことか――。四条金吾親子を慈しまれた大聖人も、本日の集いをどれほどお喜びくださっていることかと、私は確信している。(拍手)
8  広宣の尊き歩みは永遠の誉れ
 さて大聖人は、この金吾へのお手紙を、次のように結んでおられる。
 「如何に唱うとも日蓮に怨をなせし人人は先ず必ず無間地獄に堕ちて無量劫の後に日蓮の弟子と成つて成仏す可し
 ――いかに南無妙法蓮華経と唱えても、日蓮に仇をなした人々は、最初に必ず無間地獄に堕ちる。そして無量劫という計り知れない期間を経て後に、日蓮の弟子となって成仏できるのである――と。
 まことに峻厳なる御本仏のお言葉である。たとえ、いかに妙法を唱え、信行の実践に励んでも、御本尊を誹謗し、大聖人の教えに敵対すれば、無間地獄に堕ちる。半永久的に、その苦しみをまぬかれることはできないのである。
 次元は異なるが、学会は大聖人の御精神のままに、広宣流布を進めている団体である。ゆえに、いかに信心の実践を重ね、学会活動に励んできたとしても、正法に仇をなし、師敵対し、和合僧の学会を誹謗すれば、これまた堕地獄は間違いないのである。これが仏法の厳しき因果であることを知らねばならない。
9  ここで、日達上人のお言葉を拝したい。
 「法華講々員一般」へあてて発せられた「訓諭」の中で、次のように述べられている。私が第三代会長の時である。
 「夫れ創価学会々員捨身弘法の熱誠たるや宗門の古今に全くその類ひを絶せる熾烈さにして(中略)会長統卒により一糸乱れず広布実現の過程に於て必要欠くべからざる多角的な諸活動を展開し顕著なる実績を累増しつつあり その行業は正しく大聖人の御嘉納遊ばさるるところにして 宗門緇素の等しく満腟の敬意を表さずんばあるべからざるところなり
 若し聊爾たりとも 此の清浄無比にして護惜建立の赤誠に燃ゆる一大和合僧団創価学会に対し実にもあれ不実にもあれ謬見を懐き謗言を恣にする者ありとせば 其籍 宗の内外に在るを問はず 全て是れ広布の浄業を阻礙する大僻見の人 罪を無間に開く者と謂ふべし」(『日達上人全集 第一輯第一巻』)と。
 すなわち――学会員による身を捨ててまでの弘法の情熱・誠意は、日蓮正宗七百年の歴史に、まったく類例がない。会長の統率によって一致団結し、広宣流布の実現のために必要な多角的活動を展開して、顕著な実績をしだいに増やしている。その学会の行動を、大聖人がお喜びになることは間違いなく、僧俗ともに、学会に対して最大の敬意を表すべきである、とのご指導である。(拍手)
 そして、もし、いささかであっても、この清らかさにおいて他にくらべるもののない一大和合僧の団体である学会に対し、誤った見方をもったり、悪口を言う者がいれば、それが宗門の内部であれ外部であれ、これらはすべて、広宣流布を妨げる″大いに誤った人″であり、無間地獄への罪を受ける者というべきである、と厳しく断言されている。
 ここにお話のように、広布実現のために不可欠な「多角的な活動」の主体者は、あらゆる分野で広布を推進させている皆さま方である。そのお一人お一人が、大聖人のお心にかなった、どれほどすばらしい方々であることか。また、その尊い行動は、どれほどの福徳を積み、確かなる成仏への道、幸福への道を開いていることか計り知れない。
 どうか、この絶対の誇りを忘れないで、あくまでも秋谷会長を中心に、たがいに励ましあい、一生成仏への信心の道を貫いていただきたい。
 そして、創立六十周年を迎える明年の秋には、さらに盛大に、また元気いっぱいに集いあいましょう、と申し上げ、本日のスピーチとさせていただく。
 (創価大学中央体育館)

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