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日蓮大聖人・池田大作

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第一回東京総会 信念に生き夢に生きよ

1989.8.24 スピーチ(1989.8〜)(池田大作全集第73巻)

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1  全国の中心会館へ衛星中継を開始
 本日は「壮年部の日」、まことにおめでとう。そして、この記念の日に、第一回の東京総会が開催され、心から祝福申し上げたい。(拍手)
 先ほど話があったように、この総会の模様は、初めて衛星通信システムにより、全国の中心会館に伝えられている。これからは、日本全国はもとより、全世界へと広げられていくことになっている。まさに学会は、時代の最先端を歩んでおり、広布の活動のスピードも、ますます速くなってい"信念に生き夢に生きよくにちがいない。(拍手)
 また、本日は私の入信記念日でもある。私は今朝も、皆さま方の日夜のご苦労に対し、衷心より敬意を表するとともに、全会員の皆さまが日々、幸福で安穏で、長寿であられるよう、深く祈念させていただいた。(拍手)
 とくに、ここには、三十二カ国・地域の青年研修のメンバーと七カ国の代表も参加されている。
 この若き世界の、未来の大指導者たちの集いを、本当にうれしく思う。皆さま方の姿を拝見するとき、世界の広宣流布の前途はますます明るく、広がっていることを実感する。これほどの喜びはない。(拍手)
 さちに、「東大会」第七期のメンバーの参加、未来部の「女子新世紀塾」第二期の結成を、心から祝したい。(拍手)
2  人生″さあ、これからだ″の気概で
 さて、初代会長牧口先生の入信は、何歳であったか。ご存じの方もいると思うが、意外と知らない人が多い。きょうは私の入信記念日なので、それに関連して牧口先生の入信の話をさせていただきたい。
 ここで、まず申し上げておきたいことは、これまで私は数々のスピーチをしてきた。また、多くの学会の指導がある。各地の広布の指導者である幹部は、まずみずからが率先して指導を読み、咀嚼し、自分のものとしていただきたい。そうでないと、どんなに多くの指導がなされても、結局は空転となってしまう。
 指導を聞いては、ただそれを伝える。自分自身で考え、咀曙しようとはしない。それで事足りると考えているとしたら、大きな間違いである。そうした形式的な、″官僚的″ともいえる存在に、幹部は絶対になってはならない。そこには、みずみずしい信心の流れも、あたたかな魂の脈動も伝わらないからである。
3  牧口先生の入信は五十七歳の時であった。それは昭和三年(一九二八年)の春。ちょうど私が生まれた年でもある。五十七歳といえば、決して若くはない。昭和初期の平均寿命からみれば老年といってもよい。いわば人生の総仕上げの年代に入って入信され、あれだけの不滅の広布の歴史をつくられたのである。
 そして最後は、軍部権力と一歩も退くことなく戦われ、獄中で尊い殉教の生涯を終えられている。
 五十七歳といえば、この年に私も病におそわれた。しかし″よし、これから大事な人生の総仕上げをしよう。広宣流布をどう切り開き、残していくか。さあ、これからだ!″と決意したことを思い起こす。以来、今日まで、この決意のままに、走りに走ってきた。(拍手)
 壮年部の皆さまは、まだまだ若い。なかには年配の方もおられるが、今は平均寿命も大きく伸びており、入信時の牧口先生の年齢からみれば、いよいよこれからである。
 どうか、意気盛んに、″さあ! これからだ″と、はつらつと広宣流布に前進していただきたい。そして″信心とはかくあるものだ″″これが信仰者の生き方だ″というものを証明し、見事な人生の総仕上げをしていただきたい。
 このことを、本日の「壮年部の日」の意義をこめて、私は強く申し上げておきたい。(拍手)
4  「随喜の心」は深き信心に湧く
 牧口先生は、入信当時のご心境を、次のようにつづっておられる。
 「一大決心を以て念々信仰に入つて見ると、『天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか』――天が晴れるならば、地はおのずから明らかとなる。法華経を識る者は、世法もおのずから明らかに識ることができる――との、日蓮大聖人の仰が、私の生活中になる程とうなずかれること、なり、言語に絶する歓喜を以て殆ど六十年の生活法を一新するに至つた」(『牧口常三郎全集 第八巻』第三文明社)と。
 ここで牧口先生は「言語に絶する歓喜」と言われている。
 信心という根本の生活法によって、これまでの生活法は一新され、生き生きと、自在に社会に乱舞していくことができる。それを知りえた喜びは、何ものにもかえがたいとの、あふれんばかりの牧口先生の思いが、私どもの胸に響いてくる。
 とりもなおさず、これが信心の功徳であり、この歓喜の生活を、水が休みなく流れゆくように、日々、持続していくことこそ大切である。深く、強盛な信心によってこそ、「随喜の心」「歓喜の心」を、高め、広げていくことができるのである。
 ゆえに、何があっても、この「随喜の心」を破られてはならない。「歓喜の心」「歓喜の生活」の源泉である信心だけは、何ものにも崩されてはいけない、と牧口先生は教えてくださっている。(拍手)
 さらに牧口先生は、次のようにも述べられている。
 「(=信仰に入ってみると)暗中模索の不安が一掃され、生来の引込思案がなくなり、生活目的が愈々遠大となり、畏れることが少なくなり」(同前)と。
 ともかく信心の世界には、引っ込み思案や遠慮は無用である。組織上の権限や役職があるとかないとかではなく、それぞれの立場で明快に悪は悪、善は善と、言いきっていかねばならない。それが学会を、ひいては自分自身を守ることになる。
 そして、生命ある限り、迷いなく、また恐れなく、遠大な目的に生きぬいていこう、と。これが学会の創立者である牧口先生のお心であった。
 利害のからんだ目先のことに、愚痴を言うのでもない。いつまでも小さなことにとらわれた愚かな生き方でもない。生活や人生に疲れた情けない心でもない。遠大な目的に向かって、みずからの使命のままに、潔く生きる。この「創立者の心」を、とくに壮年部の方は、よくよく胸にきざんでいただきたい。(拍手)
5  坂本竜馬の青年の心意気
 先日、日本を代表する映画監督の方と、坂本竜馬について懇談する機会があった。
 ご存じのとおり、坂本竜馬は、つねに陰の立場にあって、幕末維新のうねりを起こしていった人物である。薩摩(鹿児島県)と長州(山口県)の間に同盟を結ばせ、さらに土佐藩主・山内容堂を動かして、大政奉還への流れをつくっている。
 しかし、そうした大きな功績がありながら、新政府の人事を決める会議のさい、竜馬は自分の名をあげなかった。これは有名な話である。
 西郷隆盛は驚いて「これから何をするのか」と問う。竜馬はたんたんと答える。「世界の海援隊でもやりましょうか」と。当時、長崎で竜馬のもとにさまざまな階層の人々が集まり、活発に海運業などを行っていた。これが海援隊であった。つまり、世界に出て、貿易でもやりたいというのである。
 懇談した監督とも、こんなふうに語りあった。
 ″竜馬は自分が天下をとって何かしようと考えていたわけではなかった。ただみずからの理想に向かってまっしぐらに進んでいた。人間としてそこが偉いし、尊い。彼は夢を信じ、自分を変えながら、世界をも変えようとしていた″と。
 一流の人物にとって、利害や名誉、名声などは、ほんの目先のことにすぎない。眼中にない。これはまた、青年の特質でもある。
 これに対して、小利口な人間は権威にうまく取り入る。自己を正当化させながら、自分の利益のためには手段を選ばない。
 権威に屈せず、自身の夢に生ききっていった人こそ坂本竜馬であった。ここに竜馬の自負があり、時代を超えて人々の心をとらえる″魂の輝き″がある。
 もし竜馬が、いそいそと大臣になったり、庶民の犠牲のうえに立つ政治家などになっていたとしたら、後世の人は明らかに軽蔑のまなざしを向けていたにちがいない。
 今の時代も乱世である。今ほど竜馬のような人物が、指導者として必要とされる時はない。しかし、真の指導者はどこにいるのか。だれにも答えることができない――これが、監督との語らいの結論であった。
6  ところで、竜馬が暗殺されたのは、三十三歳の時であった。彼は、その九日前、海援隊の一員であった二十四歳の弟子・陸奥宗光(のちの明治政府の外相)に、次のように書き送っている。
 「世界のはなしも相成申す可きか(中略)此頃おもしろき御咄しも おかしき御咄しも 実に実に山ゝニて候」(『坂本龍馬全集』平尾道雄監修、宮地佐一郎編集・解説、光風社出版)――世界の話でもしようではありませんか(中略)最近は、おもしろい話も、興味深い話も、じつにじつに山のようにたくさんあります――と。
 この便りが書かれたのは、大政奉還の約一カ月後である。大きな時代が終わった直後であり、国内は次の政体をめぐって揺れ動いていた。いかに世間が騒然としようとも、遠大な未来に思いを馳せ、広く世界へと目を向けていく。そこに、維新の幕を開いた竜馬の青年らしい心意気が感じられる。
 混沌と不安の深まりゆく現代に、私どもは生きている。多くの人々が目先のことにとらわれ、自分のことだけに追われている時に、広宣流布という最高の理想に生きられることは、どれほど有意義で幸せな人生であろうか。(拍手)
 明治維新は日本、広宣流布は世界が舞台である。また妙法の広がりは「三世永遠」であり、宇宙大である。ゆえに私どもは、世間の喧騒を悠々と見おろしながら、″さあ、広宣流布を語ろう。世界へと舞台を開こう″という気概で、誇らかにたくましく前進していきたい。(拍手)
7  信念に生きぬいたトマス・モア
 信念――それが「人格」と「人間」をつくる。歴史を動かす。そして、この信念という言葉は、本来、仏教で使われてきたものである。″信じ″″念ずる″。その精神の不抜の力なくして、いかなる開拓もありえない。
 信念――その究極は「信仰」である。
 先日、あるイギリスの方とお会いした。談はずみ、トマス・モアの話になった。言うまでもなく、イギリス史上、「信念」を貫いた英雄の一人として名高い。
 彼は当時、イギリスのみならず、ヨーロッパを代表する大学者であった。人格もきわめて高潔。人望もあった。社会的地位も高い。しかし、その彼の最期は、王による「死刑」であった。
 彼が自分の生命よりも大切にしたものは何か。それは彼の「信念」であり、「信仰」であった。
 モアは、一四七七年(七八年説も)、ロンドンに法律家の息子として生まれた。
 若いころから、抜きんでた才能を示した。しかも公平で清廉な人柄。ウイット(機知)に富み、雄弁でもあつた。
 雄弁――広布の世界にも、真の雄弁の人が必要である。あらゆる場、あらゆる相手、あらゆる問題に、明快に正義を主張し、だれをも納得させていく力量がなければ、時代に後れをとる。
 真の雄弁は、口先ではない。知性のみでもない。胸と腹と頭と、全身全霊をかけた正義への戦いである。ゆえに雄弁は組織の力に寄りかかった甘えからは生まれない。一対一の抜きさしならない百戦錬磨から生まれる。
 モアは、このように法律家として十分な器量をそなえていた。やがて弁護士になり、議員(参議会)、財務次官などを経て、国家の「法」を司る大法官となる。時は国王ヘンリー八世の時代(在位一五〇九年―四七年)。臣下としては最高の地位であった。
 彼の時代は、古典文学(ギリシャ・ラテン文学)研究の「ルネサンス」の波が、発祥地イタリアからようやくヨーロッパ全土に広がってきていた。
 モア自身、著名なヒューマニスト(人文主義者)であり、ルネサンスによる芸術・文化の最盛期を生きた。イタリアのミケランジェロやラファエロも、彼の同時代人である。
 また当時は、先日(八月十七日、第二十回本部幹部会)も大航海時代のお話をしたように、新しき「発見」の時代であった。モアがオックスフオード大学に入学した年は一四九二年ころ、コロンブスのアメリカ大陸″発見″の当時である。「人物」が出る″時″というものがあるのかもしれない。
 モアはオラングの高名な学者エラスムスとも親交があった。一流の人は一流の人と交際する。卑しき心の人のまわりには卑しき心の人が集まる。
 このように、モアの半生は、あらゆる栄光に包まれた歩みであった。いわゆる出世街道でもトップに立っていた。その彼が一五三四年、悪名高い「ロンドン塔」に幽閉される。やがて処刑(一五三五年)。罪状は「反逆罪」である。何が彼に起こったのか。
8  罪が大きい″権力をもった人間の悪″
 当時、ヘンリー八世は、自分の離婚問題で、ローマ教皇と対立していた。カトリックでは離婚を認めなかったからである。そうしたことから王はカトリックから離れて、新たにイギリス国教会を樹立し、自分をその首長にしようとした(首長令)。王は、これに従わない者は徹底して弾圧した。大法官モアも、その一人であった。
 ロンドン塔は私も訪れたが、まことに忌まわしい、権力悪の象徴である。どれだけ多くの正義の士が犠牲になったか。
 モアは、ここに十五カ月間、幽閉される。その間、妻や娘に、考えを変えるよう説得された。モア夫人は言った。賢明の誉れ高いあなたが、こんな牢に閉じ込められて、なんと愚かなことか、と。しかしモアは、家族らの無理解を悲しみながらも決意を変えようとはしなかった。
 戦時中の学会弾圧の折も、夫人らの説得で退転した幹部がいた。その夫人は、退転するよう掌に書いて、夫に見せたという。のちに長く夫婦とも苦しんだ。戸田先生も、それは厳しく叱っておられた。
 三障四魔のなかには、妻子等の姿をとって障害が現れる「業障」がある。
 愛する家族の嘆きに心痛まぬ者はいない。しかし、一家のうち「一人」が断固として信仰を貫くとき、最後には他の家族をも救うことができる。これが仏法の偉大なる法理である。(拍手)
9  モアと同様、王の横暴に反対した者たちが、次々と処刑されていった。一人ずつ、生きたまま切りきざまれ、はらわたを抜き出すという残虐無比の刑である。
 それらをモアは、どんな気持ちで見、聞いていたことか――。
 裁判が始まった。モアをおとしいれようとして、偽証が行われた。″ウソつき″はいつの時代にもいる。卑劣なウソにだまされることほど愚かなことはない。そして、ウソつきに集中攻撃されることほど名誉なこともない。真実の人である証明だからである。(拍手)
 裁判で偽りの証言をしたのは、王の事務弁護士のリッチである。彼は誘導尋間で、モアの″反逆罪″の証拠をつかもうとするが、英知の人モアはたくみにその奸計をかわす。そこでリッチは、言ってもいない「モアの発言」をでっちあげ、有罪に追い込んでいった。
 人の心は恐ろしい。社会は残酷である。権力と立場を持った人間の悪は、とくに罪が大きい。
 しかし、正義は絶対に負けてはならない。悪の社会であればあるほど、強くまた強く、賢明にさらに賢明に戦い勝たねばならない。″仏法は勝負″である。悪に負ける弱き善は、悪をはびこらせ、増長させる。結局は悪にさえ通じてしまう。(拍手)
10  「人間」と「人格」完成のための「信仰」
 有罪となったモアは、ロンドン塔外のタワー・ヒルで打ち首と決まった。
 長い牢獄生活と、苦痛にみちた審間のために、モアはすっかりやせ衰えていた。しかし、その瞳には「理知」と「意志」の光が強くたたえられていた。
 死刑に臨んでも、彼は悠然としていた。断頭台でもユーモアを忘れないゆとりさえあった。「私の首はとても短いから」(ウイリアム・ローパー「トマス・モア伝」松川昇太郎訳、『トマス・モアとその時代』所収、研究社)と、うまくやるように首切り人を″激励″した話は有名である。まったく、話が反対である。(笑い)
 いよいよ最期の時、頭を台にのせてからも、伸びたヒゲを台の外に出して彼は言った。「これ(=ヒゲ)は罪がないのだから切らないでくれ」(同前)(笑い)。こう最後のユーモアを飛ばしながら、堂々と処刑に臨んだ。
 信念に徹した人は強い。信仰に生きぬいた人は美しい。妙法を知らないモアでさえ、この傑出した人格をつくった。まして大聖人の仏法には、人間としての生き方の真髄が説かれている。
 思えば草創の友は強かった。迷いもエゴも愚痴も臆病もなかった。ただ「信心」があった。「ただ広宣流布」の思いで戦った。美しかった。立派であった。そういう無名の勇者が、今日の学会をつくったことを忘れてはならない。(拍手)
 信心の目的は、日先の利益などにあるのではない。何ものにも動じない、屹立した金剛のごとき「人格」「人間」を築き、完成しゆくことにある。
 死に直面したモアは語った。自分は「王の良き下僕」として、また何よりもまず「神の下僕」として死んでいく、と。自分にとって、信仰の世界が第一であると言いきったのである。
 権力に媚びず、名誉も地位も家族も捨て、そして「死」をも恐れず、「信仰」の世界を守りとおした。その意味で、人間としての「勝利」の姿であった。(拍手)
11  さて、信仰ゆえに主君から弾圧を受けた四条金吾。つねに、権力による弾圧の構図は共通している。
 金吾は読言によって領地替えの内命をくだされる。そこで大聖人は、その対処のしかた、主君ヘの態度について、こまごまとお手紙で教えられている。
 大聖人のご指導は、決して抽象的ではない。具体的で、確信にあふれたご指南である。それでこそ、門下も納得でき、安心することができたといえよう。
 このことはまた、学会の幹部がよくよく心しなくてはならない点である。会員がかかえる問題は、つねに具体的で現実的な答えを必要としている。いくら抽象的な指導をしても、それでは問題の解決とはならない。その意味で、どうか友の苦しみをわが苦しみとし、ともに行動するなかで、心から納得できる指導をお願いしたい。
12  大聖人は、金吾にこうご教示されている。
 「是より外は・いかに仰せ蒙るとも・をそれまいらせ候べからず、是よりも大事なる事は日蓮の御房の御事と過去に候父母の事なりと・ののしらせ給へ、すてられまいらせ候とも命はまいらせ候べし・後世は日蓮の御房にまかせまいらせ候と高声にうちなのり居させ給へ
 ――「これ以外にどのような仰せをこうむっても、少しも恐れはいたしません。これよりも大事なことは、日蓮の御房の御事と、亡くなった父母のことです」とはっきり言いなさい。また「お見捨てになっても、私の命は差し上げます。後世は日蓮の御房にまかせてあります」と、声高らかに申し上げなさい――と。
 鎌倉武士として、当然、主君に忠誠を尽くす。だが、信仰は断じてやめません、とはっきり言いなさい――主君との最悪の事態におかれていた金吾に対して、大聖人はこう仰せである。
 これは、金吾にとって、権力と信仰との戦いであった。
 勝つか負けるか、いわば生命を賭けての戦いにあって、″意気地なし″や″引っ込み思案″″臆病″であっては勝つことはできない。それでは真実の「師弟」の絆ではない。どこまでも師の教えに従い、信念の道を貫いてこそ、「妙法の勝利」「信心の勝利」を得ることができるのである。
 金吾は、師の大聖人のご指導どおりに戦った。そしてついに勝った。主君の絶大な権力も信心を破ることはできなかったわけである。
 すなわち、のちにかえって領地を加増されるという功徳を受けたことは、皆さま方もご存じのとおりである。これが信心に生ききったときの強さである。
13  「心」は権力の鎖でもつなげない
 話はモアにもどる。処刑された彼の首は、ロンドン橋に置かれた。″さらし首″である。
 そればかりではない。モアが忠誠を尽くした王は、彼の家族までも迫害する。息子のジョンも、ロンドン塔に監禁された。傲れる権威というものは、どこまでも残酷である。
 むしろ外国の人々が事態を冷静に見ていた。モアの死を聞いた、スペイン王カルロス一世(神聖ローマ皇帝カール五世)は、「もし彼が私の臣下であったなら、そういう立派な参議員を失うよりは、むしろ領土内の最もよい都市を失くした方がましであろう」(前掲「トマス・モア伝」と、その死を惜しんだという。
14  ところで特筆すべきことがある。獄中においてもモアの筆は、自由であったということである。栄誉をきわめた時期の作品が厳格であったのにくらべて、獄中での作品は自由で楽しく、幸せな雰囲気がただよっていると評する人もいる。
 「身体」は獄につながれている。しかし「心」を鎖でつなぐことは絶対にできない。(拍手)
 私は思う。モアの心は、投獄という試練を経て、それまで以上に解き放たれていったのであろう。胸中には、自由の青空が、ぐんぐん広がっていったのだ――と。
 魂は、激しき試練を謄てはじめて、「自由」の難びぼ懲する。自由は、わがままとは違う。放埒とも異なる。それは闊達なる「精神の飛翔」であり、だれ人もとどめえぬ「人間性の奔流」である。(拍手)
 その「魂の自由」は、安閑としたなかに得られるものではない。自由は「戦い取る」ものである。
 泥にまみれ、雨に打たれ、汗を流し、たたかれ、圧迫され、それでもなお「信念」を貫いたとき、精神はみずからの小さな殻を打ち破って、大いなる自由の空を翔けはじめる。
 ここに私どもの「信仰」の精髄もある。「苦悩」即「幸福」へと転じてゆく生命の法則と力がある。
15  軍国主義と戦いぬいた牧口先生
 牢獄にあって、軍国主義と徹底して戦われた牧口先生、そして戸田先生。その壮絶な戦いは、まさに王者の姿であった。
 検事の取り調べを受ける牧口先生の姿は、むしろ反対に、検事を折伏するかのような、毅然たる態度であった。当時はだれも言えなかった言葉を、決然として言い放っておられた。つまり牧口先生は、公正な論理、人間の生きる道理のうえから、正面きって堂々と主張された。過酷な審間の合間をぬって看守を折伏し、検事に「価値論」を説き、絶えず御書を拝読される日々であった。
 なんという高潔なお姿であろうか。強靭なる信仰であろうか。
 こうした偉大なる創立者を持つことは、創価学会の大いなる誇りであり、誉れである。また、いかなる権威、権力にも妥協せず、ひたすら大法流布のために行動された牧口先生の精神は、確固たる伝統精神として、今も学会に脈々と受け継がれていることを、私は確信してやまない。(拍手)
16  獄中にあっても、悠々たる境涯であられた牧口先生。そのご心境について、先生は、次のように記されている。(以下、書簡は『牧口常三郎全集 第十巻』第三文明社から引用)
 「信仰を一心にするのが、この頃の仕事です。それさへして居れば、何の不安もない。心一つのおき所で、地獄に居ても安全です」(昭和十九年一月十七日、家族あての手紙。ただし、「地獄」の二字は検閲で削られている)
 先生の獄舎は、独一房。むろん暖房器具など一切なく、三畳の板の間に、一枚の硬い畳が敷いてあるだけである。冬は身を切るような極寒の環境であった。
 しかも、高齢であったにもかかわらず、先生は「何の不安もない」と記されている。
 何ものにも負けない、また何ものにも崩されない「信仰の勇者」「信仰の王者」の姿が、ここにあった。
 牧口先生の絶筆となった家族あての書簡には、次のようにつづられている。
 「カントの哲学を精読して居る。百年前、及び其後の学者共が、望んで、手を着けない『価値論』を私が著はし、而かも上は法華経の信仰に結びつけ、下、数千人に実証したのを見て、自分ながら驚いて居る。これ故、三障四魔が紛起するのは当然で、経文通りです」(昭和十九年十月十三日。原文のかなは片仮名)
 現在では、当時の数千倍、数万倍の規模で、広布は進み、隆々たる発展を遂げている。障魔が競い起こるのは、御書に照らし、経文に照らして必然であり、多少のことで愚痴を言ったり、信心を動揺させるのであれば、あまりにも情けない。
 ともあれ、牧口先生の透徹した信心、不動の決意、そしてあふれんばかりの正義感と情熱を、永遠の学会精神として後世に継承していくことこそ、私どもの使命である。(拍手)
17  師の証明こそ弟子の道
 同じ獄中にあって、一F田先生は、ただただ、ご高齢の師を心配される日々であった。
 「三日会わなければ、一年も会わないような気持ちでお仕えした」と、のちに述懐されているが、二十一歳から四十五歳まで、戸田先生は、牧口先生に仕え、ささえきられた。その師の逝去を知らされたときの落胆、怒り、悲しみ――。その、筆舌に尽くしがたい絶望のなかから、戸田先生は、ただお一人、真実の弟子として雄々しく立ち上がられた。
 その心境について、戸田先生はこう語られた。
 「よし、いまにみよ! 先生が正しいか、正しくないか、証明してやる。もし自分が別名を使ったなら、巌窟王の名を使って、なにか大仕事をして、先生にお返ししよう」(『戸田城聖全集 第四巻』)
 昭和二十九年十一月の牧口先生の法要の折にも、このことにふれられた。
 「いまはまだ先生のためになすべきことはなされていないが、かならずや一生を通して、先生の行動が正しいか正しくないか、その証明をする覚悟です」(同前)――と。
 烈々たる師弟の誓いの言葉である。戸田先生は、この宣言のとおり、牧口先生の「正義の証」を立てるために、戦いに戦いぬかれた。そして見事に、師の正義の証明を果たされた。この真摯な精神と実践にこそ、崇高な師弟の真実があると私は信ずる。ゆえに私も、戸田先生の命をわが命として、今日まで、走りに走りぬいてきたつもりである。(拍手)
18  戸田先生は、同じ法要の席で述べられた。
 「牧口先生と私とは、親子であると信じています。親子という意味は、先生の精神的財産を、私が受け継いだことであります」「私は、精神的財産を受け継いできましたが、またここに、大きな使命を残されました。それは、『価値論を世に出さなければならぬ』ということです。先生の精神的財産を継いだおかげで、また大きな仕事をもらったのです」(同前)
 まさに、このとおりの恩師の生涯であった。さらに戸田先生は、仏法を基調とした「平和」「文化」「教育」の運動への第一歩の理論体系についても、よく話されていた。
 ともあれ、牧口先生が生命を賭して築き、残された「創価」という広宣の精神の城、その尊き遺産を、絶対に崩されてはならない。侵されてはならない。さらに強固に、さらに盤石に構築していかねばならない。(拍手)
19  絶対、無事故の日々を
 最後に、御書を拝し、広布のリーダーのあり方について論じておきたい。
 建治元年(一二七五年)秋、身延から、駿河(静岡)の門下・西山殿に送られた御抄の冒頭に、日蓮大聖人は次のように述べられた。
 「鎌倉より事故なく御下りの由承り候いてうれしさ申す計りなし」――鎌倉より事故なくご帰国とうかがい、そのうれしさは申し上げようもない――と。
 鎌倉での仕事を終え、所領の駿河にもどった西山殿は、即座に大聖人に使いを立て、″無事帰国″の報告を申し上げる。それに対し、大聖人もまた、手紙を受け取られるや、ただちにご返事をしたためられた。まことに″打てば響く″心の交流であり、うるわしき心と心の通いあいといえよう。
 蒙古の再来におびえ、人心も荒れた不穏な世相である。大聖人は、門下の些細な移動や、安全の点にも深く心を配られていた。そのお心に応え、西山殿もすばやく″無事帰国″を伝えれば、大聖人も心から安心され、喜ばれた――師と門下の美しき″心の絵画″を見る思いがする。
20  皆さま方は、会員一人一人の安全を気づかい、また、人生万般での無事故、安穏を祈り、そのために聡明に行動していくリーダーであらねばならない。
 私も、会長就任以来、会員の安全、無事故に対しては、絶えず心をくだき、あらゆる手を打ってきた。とくに総本山への登山会については、大量の人員輸送でもあり、何回も打ち合わせを重ね、状況の変化にも幾重にも対策を講じ、神経を磨り減らすように絶対無事故を期してきた。
 登山会には、列車での輸送がある。バスや船での輸送もある。深夜、床に就いてからも、それぞれの移動状況を思い浮かべ、安全を祈り唱題したこともしばしばであった。その思いは、今も変わることがない。全幹部も同じ心であっていただきたい。
 もとより次元は異なるが、一人の門下の「無事故」の報告を、大聖人は「うれしさ申す計りなし」と喜んでくださっている。この御本仏のお心を拝するにつけても、事故は絶対に起こしてはならないと、あらためて強調しておきたい。無事故、そして健康第一で、すばらしい一日一日の前進をおたがいに誓い合って、本日のスピーチを終わらせていただく。
 (創価文化会館)

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