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日蓮大聖人・池田大作

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諏訪圏記念幹部会 発展の原点「創立の心」忘るな

1989.8.20 スピーチ(1989.8〜)(池田大作全集第73巻)

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1  トインビー博士の学園時代に″三つの宝″
 青春時代から、私にとってこの諏訪はまことに縁の深い地であった(拍手)。文京支部時代からの友人も多い。その諏訪の地に、このほど長野青年研修道場が完成し、ことのほかうれしい(拍手)。開所にあたって、長野の同志の皆さまがどれほど献身的に整備にあたってくださったかを、私はよく存じ上げているつもりである。本当にありがとうございました。(拍手)
 また本日の幹部会には、女子大学会、富士合唱団の代表の方々、北海道、東北、関西、九州の代表、さらに学生部、女子部学生局、長野文京会の方々なども参加されている。一同を代表し、地元・諏訪圏の皆さまに衷心より御礼申し上げたい。これからもいろいろとお世話になることと思います。よろしくお願いします。(拍手)
 先日も″できうることなら、この研修道場を創価女子短期大学、また創価学園の高山植物の研究のために使用させてほしい″との強い要請があった。これからもよく話しあい、検討していただきたい(拍手)。さらに、けさ、「本部創友会」(元女子職員の集い)の″碑″をぜひこの地に、という要望があり、会長を中心に検討している(=一九九〇年八月に除幕式)。この点も、あらためて地元の皆さまにご了承をお願いしたいと考えている。(拍手)
2  去る十日、未来部総会でスピーチを行った。その後、私のもとには会合の感想や成長への決意をしたためた手紙が、数多く寄せられてきている。私はそうした手紙の一通一通を大切にさせていただいている。
 未来部員からの手紙の中には、総会で言及したアーノルド・J・トインビー博士の話にふれながら、″博士のことについてもう少し話してください″という要望の手紙もあった。また、ここには、「トインビー・グループ」のメンバーも参加されており、まず、トインビー博士の学園時代の回想をとおして、少々お話ししたい。
 トインビー博士は回想録に、学園生活をとおして、三つの「人生の宝」をつかむことができた、とつづられている。
 これまでも紹介したように、博士が寄宿学校で学んでいた当時は、つらいことや、いやなことも多かった。しかし卒業したあとには、かけがえのない生涯の宝物が残った、と言うのである。
3  では、その″三つの宝″とは何か――。
 博士は、まず最初に「創立者との絆」をあげている。
 トインビー博士が学んだ学園の創立者は、五百年も前の人である。しかし博士は、自分たちに「教育」を贈ってくれた一切の原点である「創立者」に、感謝を忘れなかった。そして、はるか五百年の歳月を越えて、創立者と″父と子″のごとき精神の絆を結べたことを、博士は大きな喜びとし、誇りとしていたのである。
 世界に冠たるイギリスの教育の伝統と格式――。オックスフォード大学やロンドン大学を訪れてみても、そのすばらしい教育の伝統には感嘆を禁じえない。その源泉には、トインビー博士の場合のように、どこまでも″創立精神″を重んずる厳粛な姿勢がある。
 いずこの団体であれ、「創立者」の存在を大切にしている世界には、深く強い精神の脈動が通い続けていく。「創立者の心」という明快なる基準があるかぎり、混乱がない。濁りもない。
 反対に、創立者を軽んじ、その心を忘れた人々や団体は、みずみずしい理想と活力を失い、腐敗し堕落していく。創立の心こそ、その団体、運動の原点でもあるからだ。
 私どもは、牧口、戸田両先生の広布への精神を厳然と受け継ぎ、世界へ法戦の歩みを進めてきた。当時では想像もできなかった、世界に冠たる学会の発展は、創立者の心を大切にしてきた私どもの行動が、いかに正しいものであったか、その確かなる証であると確信する。(拍手)
 将来にわたる広布前進への一つの指針として、私はこの一点を、本日お集まりの皆さまに強く訴えておきたい。(拍手)
 また博士は、当時、寄宿学校の寮監であった一人の先生との出会いを、″第二の宝″としておられる。博士は、この恩師への尊敬を終生、大切に持ち続けた。
 人にはそれぞれ、恩師や恩人という存在がある。学校時代の恩師、寮の管理者の方、先輩等……。また学会においては、何もわからない自分に信心を教え、成長に導いてくれた先輩、同志も″恩人″である。
 「一流の人物は、恩を絶対に裏切らない。私も、そうしてきました」と、トインビー博士は私に述懐しておられた。これが博士の人生の一つの結論であった。私自身もまた、人生をかけて″報恩″に徹してきたつもりである。(拍手)
 そして博士の″第三の宝″は、学園時代に多くの友と苦楽をともにしながら結んだ、すばらしい″友情″であった。
 たとえ、どんなに優秀な人間であっても、人を見くだしたり、嫉妬や利用の心でのみ付き合う人はわびしい。真実の友情を育めないからだ。
 私は、博士がこの三つの「魂の絆」を″生涯の宝″としてあげられたことに心を打たれる。″よき人間の絆″を結びゆくことは、人生のかけがえのない宝であり、一生の財産となっていくのである。(拍手)
4  ″よき人間の絆″から旭日の人生が
 ″よき人間の絆″で結ばれた友は、善友であり、仏法の世界における「善知識」も、その原理は「善き友」の意味である。
 仏典には、人生の「正しき道」へと進みゆくときには、善友とのよき絆を結びゆくという前兆があるとし、そのことを、朝日の昇りゆく姿でたとえている。(阿含部・相応部経典)
 「比丘たちよ、なんじらは、朝、太陽のいずるさまをよく知っているであろう。太陽の出るにあたっては、まず東の空が明るくなってくる。やがて、光炎がさっと輝きわたって、太陽がのぼってくる。すなわち、東の空の明るくなるのは、太陽ののぼる先駆であり、前兆である。比丘たちよ、それとおなじように、なんじらが聖なる八支の道(八正道)を起こすにあたっても、その先駆があり、その前兆がある。それは善き友をもつことである。
 比丘たちよ、されば、善き友をもてる比丘においては、彼がやがて聖なる八支の道を習い修め、その功をかさねるにいたるであろうことを、期して倹つことができるのである」(「仏教概論」、『増谷文雄著作集7』所収、角川書店)
 ――夜明け、深い闇を破って東の空がしだいに明るくなってくる。そして、あかね空に光の炎が鮮やかに燃え出ると、いよいよ朝日が悠然と昇り始める。すなわち、赫々たる太陽が昇りゆくには、東天が輝くという前兆があるといえる。それと同じように、仏道を修め、深く正しい人生ヘと、旭日の上昇のように確実に進みゆく前兆は、″よき人間の絆″を結ぶことであるというのである。
 ″すばらしき出会い″は、輝く朝を迎える夜明けのように″すばらしき未来″を示している。きょうの皆さまの集いも、新しい世紀の新しい夜明けを告げゆく出発であり、お一人お一人がその尊い″地涌″の使命をもった方々なのである。(拍手)
5  何よりも、草創の方々が汗と涙で築きあげてくださったわが学会の世界こそ、正しき″妙法″にのっとった、美しく尊い″人間の絆″の世界である。(拍手)
 今朝も、私が文京支部長代理であった当時の、長野の文京支部の方々の名簿を拝見した。私は、お一人お一人の顔を思い起こしながら、草創期のことを懐かしく語りあった。
 当時は、皆、お金もなかった。そのなかを懸命にやりくりして会合に参加した。弘教に走った。夜中、おなかをペコペコにすかせて、やっと家にたどり着く。どんなに疲れていても翌朝は仕事である。そうしたなかを、皆、休みなく無我夢中で走りぬいてきたのである。
 地位もいらない。名誉も何の報酬も欲しない。そういう方々こそが本当の「信心」を貫き、今日の学会を築いてこられたのである(拍手)。いかなる虚名の人よりも、真実の″功労の人々″である。
 ゆえに、この草創の方々を私どもは絶対に忘れてはならない。とくに若い青年部の諸君には、ご両親への親孝行は当然として、こうした学会草創の功労の先輩方に対しても″親孝行″する思いで、最大に大切にしていっていただきたい。(拍手)
6  壮大なる宝塔はわが生命に
 人生の幸福は、権威や名聞名利で飾られることにあるのではない。社会的地位や、財産によるものでもない。それらはすべて枝葉末節であり、所詮、無常の冠にすぎない。
 あらゆるものを包みこんだ宇宙大の境地――この永遠にして常楽の境涯を、どうわが胸中に開いていくか。そこにこそ真実の幸福があり、また信心の目的がある。
 日蓮大聖人は、日女御前に対して、次のように述べられている。
 「宝塔品の御時は多宝如来・釈迦如来・十方の諸仏・一切の菩薩あつまらせ給いぬ、此の宝塔品はいづれのところにか・只今ましますらんと・かんがへ候へば、日女御前の御胸の間・八葉の心蓮華の内におはしますと日蓮は見まいらせて候
 ――宝塔品の儀式には多宝如来、釈迦如来、十方の諸仏、一切の菩薩が集まられたのです。この宝塔品が今、どこにおられるかと考えてみますと、それは日女御前の胸中の八葉の心蓮華の中にこそおられると、日蓮は見るのです――と。
 法華経で説かれた宝塔品の会座。ここでは、大地から涌出した七宝の塔が虚空に出現する。宝塔には、釈尊と多宝如来の二仏が並んで座し、十方の諸仏や一切の菩薩、あらゆる衆生が集まっている。そして、荘厳なる虚空会の儀式が行われるのである。
 宝塔のもとに三世十方の仏・菩薩をはじめ十界三千の衆生が参集して、壮大なる世界で繰り広げられた虚空会の儀式は、何を意味していたか。それは、大宇宙の生命そのものを象徴するものであった。日蓮大聖人は、この儀式を大御本尊として御図顕された。つまり、宇宙根源の大生命の実相を明らかにされたわけである。
 空中に出現した宝塔、そして荘厳なる虚空会の儀式。今、それは、あなたの胸中にありますよと、大聖人は日女御前にお示しになっている。人間の胸には二つの肺臓に包まれて心臓があるが、その形が八葉の蓮華によく似ている。この胸中の八葉の心蓮華の中に宝塔品はあると教えられている。
 そして「虚空に鳥の飛跡あり人此をみず・大海に魚の道あり人これをみず(中略)りといへども天眼は此をみる。日女御前の御身の内心に宝塔品まします凡夫は見ずといへども釈迦・多宝・十方の諸仏は御らんあり、日蓮又此をすいす・あらたうとし・たうとし、」と。
 ――虚空には鳥の飛ぶ跡がありますが、人はこれを見ることはできません。また、大海には魚の通る道がありますが、人はこれを見ることはできません。(中略)しかし、天眼はこれらのものを見ることができます。同じように、今、日女御前の御身の内心に厳然と宝塔品はあられます。それは凡夫には見えなくても、釈尊、多宝、十方の諸仏は御覧になっているのです。日蓮も、またそのことを推察いたします。まことに尊いことです――。
 宝塔品で説かれた、壮大にして荘厳なる大宇宙の世界は、どこか遠くにあるものではない。現実に今、妙法を受持し、信心を貫いている一人一人の胸中にこそ、晴ればれと広がっている。それを三世十方の諸仏も御覧になっており、大聖人も間違いないと仰せくださっているわけである。
 言葉を換えて言えば、「法」のため、「広宣流布」のために、労苦をいとわず戦っている人こそ、わが胸中に″尊極の宝塔″を開いている人であり、悠々たる宇宙大の境涯を開いていける。そして、金剛にして不壊なる幸福境涯を築くことができるのである。(拍手)
7  現実の地域から広布は始まる
 話は変わるが、ご存じのとおり、新宿(東京)は、弘教において、三年連続全国一という大いなる歴史をつくった。
 わが一家も新宿の一員である。新宿の発展のために、私ども夫婦も一文部員の自覚で尽力させていただいているが、すばらしい広布の歴史を築かれ、これほどうれしいことはない。
 以前は、学会本部のある広布本陣の地にありながら、思うような発展が見られなかった。しかし、ここ数年間の前進は、じつにめざましい。これも新宿区の皆さま方の、異体同心の信心があったがゆえと思えてならない。
 新宿は新都心として発展の一途にある。しかし、主に地価高騰のため、区内の人口(成人数)は、ここ三年間で約九千人も減少している。そうしたなかで、昨年(昭和六十三年)の弘教は、一昨年の、じつに三倍となっている。これはたいへんなことである。
 厳しい環境条件にありながら、学会本陣の地として、年ごとに発展し、着実に前進をしている。
 本当にありがたいことであるし、新宿区の皆さまの活躍を、私は心からたたえたい。(拍手)
8  困難な条件があればあるほど、いよいよ喜んでいく。いよいよ力を出し、勢いを出す。それが信仰者の生き方である。
 大聖人は、数え年十九歳の若き南条時光へのお手紙の中で、次のように仰せである。
 「にいた新田殿の事まことにてや候らん、をきつ沖津の事きこへて候、殿もびんぎ便宜候はば其の義にて候べし、かまへておほきならん人申しいだしたるらんは・あはれ法華経のよきかたきよ、優曇華か盲亀の浮木かと・おぼしめして・したたかに御返事あるべし
 ――新田殿(新田四郎信綱)のことは本当であろうか、沖津(駿河にあった地名・興津)のことは聞いている。殿(時光)も機会があれば、同じようにしていきなさい(戦いなさい)。大身(身分の高い)の人が、何か言いはじめてきたならば、心して「ああ法華経のよい敵よ、優曇華(三千年に一度咲く花)の咲くのにあい、日の見えない亀が大海の中で浮木にあうかのような、めったにないよい機会である」と思って、毅然として返事をなさりなさい――。
 新田四郎信綱という人は、第三祖日目上人のお兄さんにあたる。また時光は信綱の夫人の弟である。
 信綱は伊豆の地にあって、大聖人、日興上人、日目上人の三代にわたり、強盛に外護の信心を貫かれている。大聖人からのお手紙は、短文のものが一編だけ残されている。
 有名な、日立った存在の人のみが偉いのではない。陰で「法」のために真剣に尽くしている人、その人が尊い。偉大である。大聖人はつねに、そういう方々を最大に大切にし、また称讃しておられる。
 お手紙にある「新田殿のこと」「沖津のこと」について、詳細は不明であるが、日亨上人が記されているように、日興上人の富士方面への転教の折、信綱や沖津に住む門下が、公私にわたる迫害に一歩も退かず戦いぬいた事実に関することと推測される。
 大聖人が、広宣流布に懸命に働いている門下のことを心にかけ、その状況を聞い合わせておられる一節でもある。
9  権勢をもった「おほきならん人」が何か言ってきはじめたら、そのときこそ「ああ法華経のよき敵よ!」と喜んでいきなさい、とのご指南である。なんと堂々たる大聖人のご確信であろうか。(拍手)
 圧迫があるたびに、いよいよ成長する人がいる。反対に、臆し、保身に走る人もいる。二つの生き方のどちらをとるか。どちらが正しいか。賢明な皆さま方は、その答えを、すでに胸中深くきざんでおられると確信したい。(拍手)
 ちなみに新田四郎信綱は、後年、時光とともに大石寺の建立・外護に尽力し、日興上人から「日興第一の弟子也」とたたえられている。
 このように、大聖人時代の門下の方々も、それぞれの地域で活躍された。″わが地域″がもっとも大切である。
 日興上人は大聖人の伊豆流罪、佐渡流罪の折も、影の身に添うごとく、つねにお仕えされている。その間、伊豆、佐渡の、いわば″足元の地域″で弘法の戦いをされ、その地域を一歩一歩と固めていかれた。
 また、大聖人が身延に入山されると、有縁の地である甲州(山梨県)、駿河(静岡県中央部)に転教され、のちの大石寺建立の基盤を築かれていった。
 自分が今いる現実の場所。そこが、いわば本有常住の使命の地である。そこを離れて、どこか別の遠い所に憧れていくような人生は、空虚である。確かな価値を残すこともできない。
 人生は現実である。広宣流布も現実である。足元の現実の地域から広布は始まる。もっとも身近なところこそ、ある意味でもっともたいへんな地域ともいえる。そこから正法流布の着実な波を起こし続けていく人が「勇者」なのである。
 ともあれ、会館のある地域も含めて、近隣にもこまやかに配慮しながら、世界に誇る″われらが地域″を一歩また一歩、拓いていっていただきたい。(拍手)
10  「人物」を育てる山国・信州の伝統
 さて島崎藤村は、言うまでもなく、信州が生んだ代表的な詩人・作家である。
 彼は幼くして上京し、東京での生活が長かった。しかし青年時代、「もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることはないか」(『千曲川のスケッチ』岩波文庫)と悩んで、都会を脱け出し、ふたたび山国・信州にもどってくる。今で言う「Uターン」である。(笑い)
 二十七歳から三十三歳にいたる足かけ七年間、小諸義塾で教師をしながら、信州の人々からさまざまなことを学んだと、藤村は述懐している。その折の暮らしぶりを記した作品が、『千曲川のスケッチ』である。
 そのなかで藤村は、都会育ちの青年に、こう語りかける。
 「山の上の星は君に見せたいと思うものの一つだ」(同前)
 長野青年研修道場がある、ここ霧ケ峰高原から見る空も、まことに美しい。風もさわやかに、雲も、花も、星も、人も、みな清らかである。ぜひ、日本中、また世界の人々に″見せてあげたい″と願うのは、私一人ではないと思う(拍手)。これからも、多くの人が研修に訪れるにちがいない。
 何かとお世話になると思うが、重ねてよろしくと、お願い申し上げたい。
 また、「九州研修道場」がある霧島も、たいへんよい所である。同じ″霧″同士だからと言うわけではないが(笑い)、「霧ケ峰」のある諏訪の皆さんと、「霧島」の地域の皆さんと、″姉妹交流″をしてはどうかと提案しておきたい。(拍手)
11  長野青年研修道場は、海抜約一四五〇メートル。いわば″天にいちばん近い研修道場″である。
 牧口先生は『人生地理学』の中で、山は「天師」のごとく、「人情を和らげ、人心を啓発する」力を持つと論じられている。なるほど信州の方々もまことに人柄がすばらしい。(拍手)
 牧口先生は、とくに、美しい山と湖の天地が多くの大教育者を生んでいることに注目されている。
 先日(八月二2日、学生部夏季講習会)、お話ししたペスタロッチも、山と湖のスイスの人である。牧口先生は、そのことにもふれつつ、「日本のスイスはそれ信濃か」と述べられ、ここ信濃(長野)が、吉田松陰を教えた佐久間象山らをはじめ、その後も教育界に名士を輩出し、教育事業のもっとも進んだ地域とされている。
 また牧口先生は、秀麗な山並みを青き水面に鏡のごとく映しだした諏訪湖の美しさを描写されている。(拍手)
 いずれにしても「山は人物の育成処(所)なり」――これが牧口先生の着眼点であった。ここ″天に近い″霧ケ峰の研修道場からも、世界の広宣流布の人材が陸続と育ちゆくことを確信し、また念願したい。
 最後に皆さまが、何らかの意味で、世界の模範となる大いなる歴史をつくっていただきたいとお願いし、本国の記念のスピーチとさせていただく。
 (長野青年研修道場)

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