Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第二十回本部幹部会 信心の大海原に″妙法の新航路″を

1989.98.17 スピーチ(1989.8〜)(池田大作全集第73巻)

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2  「知力」鍛え時代の変化を先取り
 さて現代は、まさにめまぐるしい「変化、変化」の時代である。思想であれ、技術であれ、流行であれ、数年前の「新」は、たちまち「旧」となり、精彩を失う。この傾向は二十一世紀に向かってますます強くなっていこう。
 物の見方や価値観も多様化し、旧来の世界観で現実を理解することはむずかしくなった。たとえば、十年前には想像もつかなかった、「人間」「物」「情報」の世界的な交流である。これにより、地球の一体化と相互依存は飛躍的に高まり、従来の国家中心の考え方は大きく揺らいだ。柔軟にしてグローバル(地球的)な視点なくして、何も語りえぬ時代である。
 とともに、こうした時代の波浪と変転に流されぬ「個人」「人格」の確立が、いちだんと重要となっている。確かな人生の哲学、そして人間としての強靭な個性。これがなければ、人はいつしか、絶え間ない変化の波に押し流され、社会の激流に翻弄されてしまうであろう。
3  また、個人だけにとどまらず、いかなる団体にせよ、時代の急速なテンポについていけないものは、みるみる淘汰され、消えていく時代である。古き思想、古き表現もまた同様である。その意味で、二十一世紀は、あらゆる団体が生き残りをかけた″新たな戦国時代″ともなるにちがいない。
 それは、もはや軍事力の戦いではない。経済力のみの競争でもない。人々の精神性の宇宙をどう開き、心を充実させ、人間としての尊厳を実現していけるのか。だれがそれを成せるのか。その一点に焦点を定めた戦いである。その意味で、知恵と精神の力の限りを尽くした、まさに″精神の戦国時代″が到来するであろう。
 それは同時に、知力の勝負ともいえる″知の戦国時代″でもある。一面、たいへん厳しい時代でもある。しかし反面、いくらでも伸び、拡大していくチャンスが広がっているともいえる。むしろ痛快にしておもしろい時代ではないだろうか。(拍手)
4  現実の激しい変動とともに、人々の意識、世界観が揺れ、生まれ変わる。そうした歴史の転換期は、これまでも人類史に何度か訪れた。
 その一つが、約五百年前、十五世紀に始まる「大航海時代」である。アメリカ大陸到達(一四九二年)、インド航路発見(一四九八年)、世界一周の達成(一五一三年)、そしてヨーロッパ人の世界進出――それはまた、貴金属や象牙、香料等の交易による莫大な富、奴隷売買、植民地経営による一獲千金を求めて、競って世界へ乗り出した時代でもあった。人々の世界観が年ごとに変わり、「新世界」が次々と開け、猛烈な勢いで世界の勢力地図が塗り替わっていった。
 大航海時代。それは、新鮮な「冒険」と「探険の時代である。ヨーロッパ人が欲望や名誉に突き動かされて、東へ東へ、西へ西へと新天地を求めた面があったとはいえ、新しい「物」が、新しい「情報」が、また新しい「技術」、新しい「チャンス」が、さらに新しい「課題」、新しい「思想」が現れたのも事実である。何より新しい「人間」「個性」が誕生し、続々と押し寄せてきた。すさまじいスピードの変化のなかで、無数のドラマが生まれた――。
 二十一世紀もまた、新たな「大航海時代」となるにちがいない。いわば「精神の大航海時代」「生命の大航海時代」である。絶えざる変化、変動。世界観の転換。個性の創造。限りない盛衰と新生のドラマ。心躍る「冒険」と「発見」の時代が、日前に迫っている。
 その激動期を、どのように乗り越え、勝ち進んでいくか。それは、歴史に学ぶ以外にない。歴史を知る者は、未来をも知る――これが戸田先生の教えであり、一貫した信念でもあった。
 その意味から未来への歴史の教訓を得るためにも、五百年前の大変革期をとおして少々論じておきたい。(拍手)
5  大航海時代以前、じつはヨーロッパは、世界のなかでも文化的・経済的に閉鎖的な地域であった。それに対し、アラブ世界をはじめアジアのほうが、よほど学問も進み、文化も安定し、開放的であった。
 当時、東洋は、ヨーロッパ人にとって、マルコ・ポーロの『東方見聞録』に代表されるように、いわば憧れの地であった。その豊饒な大地との交流は、東西を細々と結ぶシルクロードによって、かろうじて保たれていた。が、十四世紀には、テムール帝国の興隆によって、シルクロードは閉ざされ、交通は遮断された。
 東洋との交渉の停止。それは、ヨーロッパ世界の行き詰まりをも意味した。
 このとき、発想を転換し、新たな東洋への道を開こうとした国があった。――″陸″がダメなら″海″がある。東洋への″海の道″を開拓すればよい。必ずやその新たな道を開いてみせる――と。
 こうして新時代の突破口を開いたのは、ポルトガルであった。
 これも一つの「知恵」の力である。「発想」の勝利といってもよい。歴史の「挑戦」への立派な「応戦」であった。
 豊かな「知恵」と「発想」。いつの時代も、これを持つ者が次々と苦境を開き、勝ち越えていく。まして妙法は、限りない「知恵」と「発想」の源泉である。ゆえに、私どもに打開できない苦境はないし、どこまでいっても行き詰まりがないことを確信されたい。(拍手)
6  大航海時代を開いたエンリケ王子
 それにしても、ヨーロッパの最西端のイベリア半島、そのまた西端の、資源も乏しい小国ポルトガルである。当時、人口は約二百万といわれる。この国が、なぜ、世界中に領土を持つ大帝国に成長したのか。また、ポルトガルを″海の勝者″″時代の勝者″へと押し上げたものは何であったか。
 その先頭に立ったのは、たった一人の青年であった。ヨ人」の決意と努力、実践が、一国を導き、歴史的な新時代を開いた。その「一人」とは、有名なエンリケ(ヘンリー)航海王子(一三九四年〜一四六〇年)である。
 人数さえ多ければ、物事は成就できる――それは明らかに誤りである。屹立した「一人」があってこそ、歴史の転換は成され、新たな舞台が開かれる。この原理は、今までも何度かお話ししてきたとおりである。
 「一人立て」と、人に言うことはあまりにもたやすい。しかし、現実にみずから″一人立つ″のでなければ、何の意味もないし、価値もない。むしろ口で言う必要はないのである。みずから一人立ち、行動していけば、必ずや二人、三人と後に続き、やがて澎湃たるうねりとなっていくからだ。
 エンリケ航海王子は、ポルトガルの国王ジョアン一世の三男である。若くして(二十一歳)、北アフリカのイスラム世界にふれ、世界の広大さ、そして新時代の足音を、たしかに感じ、つかみとっていた。宗教的使命感にも立ち、″よし、東方への大いなる道を開き、大ボルトガルをつくろう″と決意していく。
 見知らぬ世界に心を開き、人の言葉に耳をかたむける人は強い。その人はつねに若々しく成長と進歩の道を歩んでいける。反対に″自分は、人の意見を聞く必要はない″″今の自分で十分である″と、偉ぶるようになれば、もう人間としての向上はないし、輝きもない。
7  大ポルトガル建設の大志をいだいた王子は、まず華やかな宮廷生活を捨てた。
 彼には、王子の立場に安住し、栄華と安逸の日々を過ごすことも可能であったかもしれない。しかし彼は、決然と宮廷を離れ、目的の達成に向かった。いかなる快楽や栄華も、所詮むなしい幻にすぎないことを、青年の眼は鋭く見ぬいていた。
 イベリア半島の西南端、サグレス岬。大西洋の荒波以外には何も見えぬ荒涼たる地である。この岬に、王子は移り住み、世界初の探険航海を押しすすめる事業に全力を傾注した。
 ″まず土台づくりだ。あわてずに、じっくりと、確実にやるんだ″――王子は、こう考えていたにちがいない。その心は、私にもよくわかる気がする。
 王子は、その本拠地として必要なあらゆる分野の情報、書物、海図を収集し、さらに学者、技師、船乗り等を呼び集めた。最もすすんだ航海術はもちろん、地理学、地図の製作、船舶建造などの新たな開拓、実験にも着手した。人種は間わなかった。ユダヤ人、アラビア人、そしてルネサンスの先進国イタリアからも人が集まり、準備に没頭した。
 この当時、最先端の知識と技術を持っていたのは、じつはイスラム教徒とユダヤ人である。
 それにしても、ュダヤ人は、あらゆる時代に、つねに最高峰の知識人を輩出してきた。
 ちなみに、現代にもっとも大きな影響をあたえた三人の思想家も、みなユダヤ人である。宇宙の法則に迫ったアインシュタイン、社会・経済発展の法則を扱ったマルクス、そして心理、無意識の世界の法則に着目したフロイト――。
 くわしい論議は、ここでは避けたい。しかし、苦しみのなかにこそ、民族の偉大な精華は発現し、陸続と人材は輩出した。「苦難」と「栄光」との間の、一つの法則性を感ずるのは、私一人ではあるまい。(拍手)
8  さて、エンリケ王子は、この岬で約四十年もの間、″大航海″事業の基礎をつくり続けた。結婚もせず、「海と結婚した王子」と呼ばれた。
 実験航海が失敗すれば、王子はその損害を補償したため、借金だらけであった。
 本来ならば、自由気ままに一生を送ることもできた身分であった。しかし、彼は祖国のために一人黙々と働き続けた。そして、この王子のひたぶるな無私の情熱が、国をあげて「海へ!」と向かわせる原動力となった。
 世界を変えた″大航海時代″も、まず、エンリケ王子という一人の若者の「心の中」に生まれたのである。
 一人の人間の「一念」が、どれほど偉大な力を持つか。また、その限りない可能性を深く確信した者が勝利者となる。(拍手)
 王子の偉大さは、夢の実現のために周到な準備をしたことである。「現実」を決して甘く見なかった。
 何事も現実を甘く見ることは敗北につながる。いわんや仏法は、どこまでも厳しく現実と戦い、現実を向上させゆくところにこそ、根本の精神がある。
 では、エンリケ王子はその「現実」に勝利するために、どのような手を打ったのか。
 まず彼は、最新の「情報」「学問」「知識」そして「人材」を、集めに集めた。
 第二に、それらを目的のために使いきる「組織」を確立した。
 個々人がばらばらであれば、大いなる事業も成し遂げられない。一人一人の力や才能を結集し、知識を集め、それぞれの持ち味を存分に生かしていく。そのときに″足し算″ではなく″掛け算″の力が発揮できる。ここに組織の力と必要性がある。
 それまでは、どちらかというと、個人の経験のみに頼る航海であった。いわば、あらゆる人材の団結が時代を変えたのである。
 学会の発展も、妙法の力用は当然として、戸田先生の鋭き先見性と指導力によって築かれてきた「組織」があったがゆえである。(拍手)
9  ところで、大航海を可能にした理由の一つは「新しい船」、すなわち改良を重ねたカラヴェラ船の建造であった。要約し、わかりやすく言うと、王子らの工夫もあって、「風に向かって走る船」が開発されたのである。
 それまでの航海は″風向きしだい″であった。追い風の季節風を待っての旅であった。それをさまざまな技術改良によって、順風の時のみならず、逆風の場合にも、帆だけ使って船が前進できるようにしたのである。
 この発明は、自然を克服した大きな一歩だった。まさに″必要は発明の母″である。
 人間もまた、風向きに流されるのではなく、目的地をめざして″風に向かって走る″力があって初めて、人生の大航海ができる。その力の源泉となるのが「信心」であり、信心によって培った「信念」である。そして、人間としての偉大な使命の「自覚」なのである。
 いわゆる順風満帆の人生、山登りでいえば、麓のほうを苦もなく歩いてまわるような人生は、何の味わいもなく、また大きな価値を生まないものである。むしろ険難な山の尾根に敢然と挑み、山頂をめざす生き方こそ、大いなる価値と歴史を残すものだ。
 いわんや私どもの広布と人生の歩みは、あらゆる向かい風にも力強く挑戦し、新しい価値と歴史をつくりながら、人類史に永遠の光彩を放ちゆく、誉れの航海であると申し上げたい。(拍手)
10  エンリケ王子が開いた大洋への航海の道。ところで「航海」と「漂流」の違いは、どこにあるか。
 一つには、明確な「航路」があることである。行方もわからず、海に漂うだけでは、航海とはいえない。私どもにも明確な人生の「航路」があり、羅針盤がある。
 もう一つは、「出発点に帰ってくる」ことである。
 おそらく、アメリカ大陸にもインドにも、偶然、流されて漂着した船乗りは大勢いたことであろう。しかし彼らは、それを故郷に知らせることができなかった。″行きっぱなし″では、「漂流」と変わらない。
 原点である祖国と世界を往復し、どちらをも豊かにしてこそ「航海」である。
 信心を根本に、時代・社会の大海原へと進みゆく皆さま方の「航海」も、方程式は同じかもしれない。
 信心と学会という″祖国″と、社会という現実世界との往復作業を忘れては、いつしか人生と社会の漂流者となってしまう。そのようなことがあってはならない。とくに社会的地位や立場が重要になればなるほど、このことを絶対に忘れてはならないと、私は強く申し上げておきたい。
11  胸中の″臆病の岬″を越えよ!
 さて、大航海時代は、実質的にいつ始まったのか。このことにふれたい。
 一四三四年、一人のポルトガル人が、アフリカ西海岸を南下していた。彼はエンリケ王子のもとで学んだ、いわば″門下生″である。
 王子はアフリカ西海岸を懸命に探索していた。そこはまだ″未知の世界″だった。しかし、夢はなかなか実現しない。なぜか。船乗りたちが、ある地点以上に進もうとしないのである。
 その場所は、ボジャドール岬。この岬から向こうは、「暗黒の海」と信じられていた。怪物たちが住み、海は煮えたぎり、滝となって落下していると、中世以来、伝えられていた。
 「岬を越えて南進せよ!」。いくら王子が言ってもムダだった。船乗りたちは十五年間、王子の命に背き続けた。ある者は、王子をだまし続けて他の針路をとった。
 面従腹背――それでも王子は耐えた。十五年目に、とうとう彼は言う。
 「おまえたちみんなが、ありもしないことに妄想をいだいているのが、まったく不思議でならない。もしかりに、世界でいわれているような噂が、すこしでも根拠のあるものならば、わたしもおまえたちをこれほどまでに責めはしない。しかしおまえたちの話を聞いていると、ごくわずかの航海者たちの意見に過ぎないではないか。しかもその連中というのは、たかだかフランドル地方だとか、そのほかかれらがいつも航海する目的地の港に通じる航路からはずれてしまえば、羅針盤も航海用の海図も使い方がわからない連中ばかりなのだ」(ダンカン・カースルレイ『図説 探検の世界史1』生田滋訳、集英社)
 風評にだまされるな! 何も知らない者たちの噂にだまされるな!――王子の叱咤に、ついに一人の門下が腹を決めた。
 「行こう! 岬を越えよう!」
 そして彼は越えた。王子の確信どおり、″向こうの海″は何でもなかった。
 「想像していたのと、実際は正反対だった!」
 彼はみやげにバラの花などを採集して帰った。穏やかそのものである。それも当然、この岬が位置するのはカナリア諸島の約二百四十キロ南。アフリカ全体の大きさから見れば、サグレス岬からでさえ、どれほども離れていなかった。
 ゆえに地理上の発見としては、ほとんど価値もないように見えた。しかし、それまでの「恐怖の岬」という″心の境界線″″臆病の壁″を越えた。そこに決定的意義があった。(ボジャドール岬に関するエピソードについては前掲書を参照)
 遠洋航海に従事する「波濤会」の方からも、かつて同様の話をうかがったことがある。
12  一人の勇者が壁を越えれば、あとは次々と続く。ついにアフリカ西海岸をしだいに南下。やがてアフリカ南端「喜望峰」に到達(一四八六年)、インドヘの新航路発見(一四九八年)と続く。
 つまり「大航海時代」とは、あの無名の船乗りが、かの小さな岬を思いきって越えた、その瞬間に本格的な幕を開けたのである。
 ともあれ、新しい時代を開くのは、つねに青年の勇気である。だれを頼るのでもない。若き勇者が一人立つならば、いかなる困難な道も、切り開いていけるものだ。
 このあと、マゼランの一行が世界一周に成功したのは、一五三二年。王子の死から六十二年後であった。
 思えば、学会も創立六十周年にすぎない。戦後の再建からみれば、実質四十年である。今、私は、創立百年、三百年の確かな未来をめざしている。そのための人材をいかに育てるか。広布という壮大な航海における課題もここにある。
13  歴史上のかつての″大航海″は、征服した植民地からの収奪をめざしたものであり、むしろ多くの悲惨と争いをもたらした。悲しい、残酷な歴史であったといってよい。だが、私どもの旅は、反対に「平和」と「文化」を運びゆく大航海である。しかも、今や世界的視野に立って行動すべき段階に入った。
 そこで必要となるのは若々しき「冒険」の魂である。「冒険」とは″自己挑戦″であり、″自己実現″であり、″自己表現″である。
 みずからの力がフルに強ぽされるのも、もはや引き返す術なき「冒険」での鍛えによる。そこには「独創性」がわき、「人格」が確立される。「感動」が広がる。「団結」も生まれる――。
 これに対し、現代日本は、″アンチ冒険″の官僚的発想、体質が染みわたっているといわれる。
 しかし、それでは人生の深き価値が生まれない。
 また「科学」も、この冒険の心から生まれた。否、新しい世界はどこでも、若々しき未知への挑戦から突破口が開かれてきた。
 その意味で、″平和の新世界″″広宣流布の新大陸″へと、青年諸君にこそ、私は勇気ある「新航海」の先駆をお願いしたいのである。(拍手)
 日蓮大聖人は「椎地四郎殿御書」にこう仰せである。
 「生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず」――迷い苦しみに満ちた人生の大海を渡るには、″妙法″の船でなければ不可能である――と。
 私たちこそ、″妙法″の船に乗り、進む勇者である。その確信も深く、広布の航海者としての誉れある人生を、堂々と生ききっていきたい。(拍手)
14  さて話はもどるが、ポルトガルは、こうして「海の覇者」「時代の勝者」となった。南米(ブラジル)からアジアまで広がる大帝国をつくりあげた。日本にも、いわゆる南蛮文化をもたらしている。
 しかし、その繁栄も長くは続かなかった。それは何が原因であったか。本日、私が申し上げたい焦点もここにある。その要因の一つを要約して言えば、みずからの国力を超えて、はるかに膨張し、拡大に走りすぎたためだといわれる。
 大航海を拡大すればするほど船員が必要となる。船員の確保のために農民がどんどん転用され、航海用の食糧をつくる人手が足りなくなる。そのため外国から食糧を買い入れなければならない。だが、足元をみられたりして、高い値をつけられる。そうした結果、貿易による利益よりも、費用のほうが高くつくようになる。
 こうして、航海に出れば出るほど赤字はふくらむという悪循環におちいってしまった。植民地の結げのために本国が疲弊するという事態をもまねいた。
 このことはスペインも同様であった。ボルトガルとともに世界の海を三分していたスペインも、せっかく手に入れた「富」を蓄積して、自国の資本を育てるだけの基礎体力がなかった。そのため後進のオラングに、またイギリスに「海上の覇権」は移り、「富」は奪われていった。所詮、「富」も「権力」もはかないものである。
 ボルトガルもスペインも、繁栄を持続し、拡大する基礎体力を持っていなかった。そのため世界への行動範囲が広がれば広がるほど、発展への対応をむずかしくした。それが、みずからの存立基盤を危うくし、繁栄への歯車を逆回転させることになった。
 このことは、いかなる国、団体、組織にあっても、十分留意しなければならないことである。
 学会も、これまでは発展に次ぐ発展であった。組織的にも伸びに伸びてきた。そこで私は、次ヘの大いなる前進のために、今はもう一度、足元を固め、基礎体力を強くしておかねばならないと思
 う。組織を十分に整備し、人材の育成、鍛錬に全力をあげていかねばならないと深く決意している。
 そうでないと、大聖人の御遺命である広宣流布を、どこまでも進め、拡大していく創価学会の使命が果たせなくなってしまうからである。したがって、今は組織の発展を急ぐ必要はない。あせってもならない。「人材」を、ともかく「人材」をつくることである。
15  二十一世紀は精神の大航海時代
 ところで十五、六世紀の大航海時代に、なぜヨーロッパが歴史の主役となりえたのか。
 アラブや中国は、当時、ヨーロッパより、文化的にも栄えていた。ずっと優れた航海技術を持っていた。それなのになぜ、これらの文明先進国は、後進国のヨーロッパに後れをとったのか。
 いろいろな理由があげられるが、アラブ世界も、中国(当時は明国)も、物質的にも文化的にも、いわば自己満足していた面があることは否定できない。
 そこに「飢えたヨーロッパ」が襲いかかった。侵略、略奪である。善悪をいえば、もちろんヨーロッパが「悪」である。野心と技術力をもった、飢えたる外敵の侵入の前にはまったくの無力であり、以後、アジア、アフリカ、南米の民衆は、ヨーロッパの列強のために、長く苦悩の歳月を送ることになっていく。
 何事も「自己満足」におちいり、「もう、これでいいだろう」と思った時から、後退が始まる。その刹那から、かつての中国・明の一面のように進取の気性を失い、保守化し、自分のカラに閉じこもってしまう。そこには新しい世界へと打って出る″勢い″がなくなる。ゆえに凶暴な力の前に餌食となり、蹂躙される結果となる。
 その意味で、絶えざる″冒険″″挑戦″の一念の姿勢が、鋭く敵を見抜き、敵を破るのである。その気概を失ってしまえば、もはや厳しい現実社会で生き残ることはできない。
16  そのことで思い起こすのは、戸田先生がよく言われていたことである。
 ″学会ほど純粋で、人のよいところはない。これほどの価値のある、すばらしい団体はない。反面、悪い人間にとって、これほど利用できるところもないだろう。いわば獲物をねらう獣の前に置かれた新鮮な肉のようなものだ。必ずこの学会を利用し、食いものにする者が出るだろう″と。
 この言葉どおり、これまでも学会を利用し、餌食にしようとする働きはいくどとなくあった。それはまた、皆さま方がよくご存じのとおりである。(笑い)
 大聖人は「かたきをしらねば・かたきにたぼらかされ候ぞ」――敵を知らないと、敵にだまされてしまう――と仰せである。
 敵を見抜く鋭い目を持たねばならない。そして「悪」という敵とは、どこまでも戦いぬく心を失ってはならない。それがなくなると、知らずしらず、「魔」に蹂躙され、「悪」に食い破られてしまう。
17  社会的権威や権力に、媚び諂ったり、従順であることだけが、決して正しい信仰者の生き方ではない。それらと妥協せず、真実の人間の生き方を求めて戦っていくのが信仰の精神である。
 きたるべき二十一世紀の「精神の大航海時代」。私は学会こそ、その新世紀の王者であると確信している。(拍手)
 その希望の出発にあたり、軌道を誤らぬため、大切な一点を本日は確認しておきたい。
 それは「法」を根本に生きるか、自己中心に生きるかということである。そして何があっても、「法」を根本に生きる人こそ、真の勇者であるということである。
18  ″慢″の生命を見きわめよ
 よく「傲慢であってはならない」という。だれもがそう思い、そう強調する。しかし、それでは実際には、どう″慢″を見きわめるか。
 表面が謙譲そのものであっても、シェークスピアが言うように、その謙虚さが「若い野心が、その足場にする梯子」(ジュリアス・シーザー』中野好夫訳、岩波文庫)である場合もある。すなわち、黒い野心を達成する足がかりとして、「謙虚な人物」との信用を得るための演技である、と。
 ――その場その場で、状況にうまく諂う生き方。それが本当の「謙虚さ」なのかどうか。反対に、昂然と胸を張って、自己を貫く生き方。それは「高慢」と非難されるべきなのかどうか。ここに重要な課題がある。
 大聖人は「撰時抄」に、こう述べられている。「大慢のものは敵に随う」と。大慢心の者は、いざという時には、敵にしたがってしまうとのご指南である。
 状況が変化すると、それとともに心が揺れる。心が転ずる。それが不安定な「慢」の生命である。いつも、どちらにつこうか、どう動いたほうが得か、そんなことばかり考えている。要するに「保身」の一念である。
 自分を大事にし、よくしてくれるから、こっちについておこう。形勢が変わったから、今度はあっちへ行こう。そのように、落ち着きなく、つねに自分の利害を中心に″機″をうかがっている。「法」が根本ではなく、自分の「エゴ」が根本である。ここに慢心の本質がある。
 これまでの退転者らも、みな「大慢のもの」であった。ゆえに、純粋な信心の世界にいられなくなると、「敵に随う」姿を見せた。すべて大聖人の教えどおりの実相である。(拍手)
19  謙虚に「法」を中心とする者の勇気、そして、傲慢に「自分」を中心にする者の臆病――。ある人は言う。「佐渡御書」のあまりにも有名な次の一節も、これら二つの正反対の生き方を対比されている、とも拝せるのではないかと。そうとも言えるかもしれない。
 「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべしおごれる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり」と。
 御文の大意を、わかりやすく言えば、「悪王」すなわち″悪しき権力者″が、正法を破壊しようとする時、「邪法の僧」すなわち、よこしまな″宗教的権威″が味方し、連合軍をつくって、智者をなきものにしようとする。智者とは正法を正しく弘め教えている者、すなわち日蓮大聖人であられる。その時に、師子王のような心を持って悪と戦う者は、必ず仏になる。たとえば大聖人がそうである、と。
 そして「これは傲りから戦ったのではない。『正法を惜しむ心』が強く盛んなためである。傲っている者は、強い敵にあえば、必ず恐れる心が出てくる」と仰せである。
 この御文にお示しのごとく、権力と権威が連合軍を成して行う「迫害の構図」は、永遠に不変である。
 その時に、正法を惜しみ、広宣流布を第一義とするゆえに、敢然と「師子王」のような心で戦えるか否か。戦いぬけば必ず成仏できる。
 しかし「法」を大切に思わない傲慢の人は、臆病な「恐れる心」が出てきて、逃げてしまうであろうと指摘されている。ふだん、威張っているような人間ほど、大事な時に一歩退いてしまうものである。
 端的に結論すれば、こうも言えるかもしれない。すなわち「傲慢」は「臆病」とセットになっている。そして「謙虚さ」は「勇気」と表裏一体である。
 たとえだれに傲慢と思われようと、「法」を中心に生き、「広宣流布」を根本として生きる人は、つねに変わらない。いざという時に、いよいよ力が出る。
 反対に「自分」を中心にして、うまく泳いでいるだけの人は、正法の勢力が強く、自分に利用できる時には、そちらにつき、形勢が変わると敵方にさえついてしまう。
 こうした大聖人の教えを拝するとき、もっとも偉い人とはだれか。それは何の地位も権威もなくとも、「正法」のため「広宣流布」のために、現実に日夜行動している無名の地涌の友である。学会の同志である。私は深く強く、そう確信する。(拍手)
 「法」にのっとり「法」に従うことをいやがる、わがままな修行者は、いつの世にもいた。釈尊の時代も同じであった。
 釈尊が入滅した時である。スバッタという修行者は、その死を聞いて喜び、他の嘆き悲しむ弟子たちに、こう言ったという。
 「やめなさい、友よ。悲しむな。嘆くな。われらはかの偉大な修行者からうまく解放された。〈このことはしてもよい。このことはしてはならない〉といって、われわれは悩まされていたが、今これからは、われわれは何でもやりたいことをしよう。またやりたくないことをしないようにしよう」(『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経』中村元訳、岩波文庫)
 まことに人の心は恐ろしい。この時、彼のあまりの暴言は人々を不快にし、経典に記録された。そして現代にまで伝えられ、当時の人間模様を生々しく証言している。
 「正法」が永遠であれば、正法に敵対した″悪の言″も永久に伝えられる。そして時が経てばたつほど、その醜い心根を後世の人々に晒し、正義の人が、正義ゆえに耐えねばならなかった苦難の大きさを物語る確たる証拠となっていくのである。(拍手)
20  スパッタにとって、師の慈愛の導きも、ただの束縛にしか感じなかった。要するに、わがままに、好きなことがしたかった。すでに心の根は腐り、堕ちていた。
 堕落した彼には、師が教える「正法」への従順など、じつは面倒このうえないことであった。厳しく正義を説く師の存在も、心の奥ではうとましい限りに思っていた。
 そこで釈尊を″独裁者″のように批判した。すなわち「法」の支配がいやなあまり、それを「人」の支配であるかのようにすり替え、中傷したのである。
 それほどいやならば、やめればよいものを、釈尊が健在の間は、言いだせない。ここに臆病の本心がある。
 そして釈尊が死ねば、もう怖いものはない。″さあ、やっと自由になれた!″。彼はいやしく喜んだが、その自由は、成仏への厳しき軌道から完全に脱線した″無軌道の自由″であった。否、″地獄への軌道″を、まっしぐらに下降していた。そのことに気づかないほど、慢心という生命の毒は、人を狂わせる。
 ともあれ、釈尊のいる時といない時とで、態度を変えていく。状況に左右される。それが「法」を中心としていない「慢」の生命なのである。
 釈尊の時代でさえ、人の心はかくも恐ろしい。末法の今、少々の悪人が出ることも、ある意味で当然かもしれない。私どもは、その本性を見破り、将来にわたって、絶対に悪の思うままにさせない力を持たねばならない。
21  熱き喝采を勇者の君ヘ
 変転する慢の心は醜い。それに対し、心定まれる信念の人の生死は美しい。
 ある人が、ギリシャ映画の忘れがたい一シーンを語ってくれた。題名は「旅芸人の記録」。ギリシャ現代史を象徴的に描いた作品である。
 灰色の雲の下、乾いた土を掘って、一人の青年の遺骸が埋められようとしていた。
 青年は第二次大戦中、祖国ギリシャを占領したナテス・ドイツと戦い、勝利した勇敢なゲリラの一人である。ところが、この英雄は戦後、反共的な新政府に追いまわされることになる。つかまれば拷問。転向のサインをしなければ、死ぬまでいたぶりが続く。
 ナチスとの戦いから数えて十年。ついに彼は捕らえられる。転向を拒否。祖国を救った勇者は、なんと、その祖国の政府の手で処刑されてしまうのである。これ以上の悲劇もない。いったい、だれのための、何のための戦いであったのか――。
 何事も、勝たねば悲惨である。強くまた強くあらねばならない。(拍手)
 彼の遺体は、ボロ切れのようになって、家族に引き渡される。友人たちが埋葬に立ちあった。
 荒涼たる原っぱ。暗い空。たった六人のさびしい葬儀――。遺体が埋められようとした、その時である。思わず一人が″拍手″を送った。一人から二人へ、二人から三人、四人、五人へ……。皆の無言の拍手が、勇者の上に、いつまでもいつまでも降りそそいだ。
 ″友よ、君の「死」に、君の「生」に、僕たちは熱き拍手を送る。それは、どんな名優のドラマよりも荘厳な、立派な劇であった″
 彼らの思いを、かりに言葉にすれば、このようでもあろうか。
 何の栄誉もない、さびしき埋葬であった。しかし、真実の同志の称讃の″拍手″に包まれた死は、いかなる華美、盛大な権勢家の葬儀よりも美しい。そこには真実の″人間としての勝利″があった。(拍手)
22  広宣流布に生きぬいた人の「生死」は、無上道の「生死」である。
 私は四十年以上、世界中、数限りない人々の「死」の実相を見てきた。また、くわしく報告も受けてきた。その結論として、見事なる「生」は、見事なる「死」をもたらしているといえる。「死」に臨んで、ごまかしは一切きかない。厳しき総決算として現れてくる。
 皆さま方もご承知のとおり、多くの先輩は、最後の最後まで、立派に信心根本に生き、模範の臨終の姿を示してくださっている(拍手)。皆さま方も″よき人生″を、そして永遠の幸福へとつらなる″すばらしき生死″をと、私は念願してやまない。(拍手)
23  青年よ、正義の人とともに
 かつて「ドレフュス事件」の話をした。一八九四年、ユダヤ人であったフランスのドレフュス大尉が、軍部によってスパイ容疑を捏造され、流刑となる。当局は、反ユダヤ人感情を利用し、ドレフュスを窮地に追い込んだ。
 そのとき、敢然と一人立ち上がったのが、文豪エミール・ゾラである。彼の作品『居酒屋』や『ナナ』は、日本でもよく知られている。ゾラとドレフュス事件とのかかわりは、きょうは略させていただく。
 あるとき、ゾラはこう呼びかけた。「青年よ、青年よ……」と。
 ――青年よ。青年よ。君は恥ずかしくはないか。正義の人が何の助けもなく、孤立無援で、卑劣な攻撃と戦っているとき、それを黙って見ていて、青年よ、君は恥ずかしくないのか、と。
 血涙を流しながらの叫びとも私には思える。
 ともあれ「謙虚なる勇者」の正義を、身をもって助けようとしない「臆病な傲慢者」であってはならない。それは断じて仏法者の生き方ではないからである。
 大聖人は「弥三郎殿御返事」の中で、御自身が二十余年の間、生命におよぶ大難を受けてきたのは、ひとえに日本国の一切の人々を救おうと思ってのことであると述べられ、次のように記されている。
 「されば心あらん人人は我等が為にと思食すべし、若し恩を知り心有る人人は二当らん杖には一は替わるべき事ぞかし、さこそ無からめ還つて怨をなしなんど・せらるる事は心得ず候
 ――ゆえに、心ある人々は大聖人が一身に攻撃を受けていることは「私たちのためである」と思うべきである。もし「恩」を知り、心ある人々であるならば、大聖人が二回、杖で打たれるなら、そのうち一回は、かわって受けるべきではないか。そうしないどころか、かえって迫害を加えるなどというのは、まことに納得できないことである――。
24  大聖人の御生涯は「少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」――少々の難は数えきれない。大難は四度である――と仰せのとおりの歩みであられた。
 「数数見濱出」(たびたび追放されること。伊豆、佐渡への御流罪がこれにあたる)の経文をはじめ、法華経の予言そのままの、法難また法難の連続であった。
 それもすべて、日本の人々のためではないかと大聖人は断言されている。これほどの大慈悲で、これほど正法を弘め、これほど国にも民衆にも尽くした。にもかかわらず、これほどの大難である。人々は、恩に報いるどころか、かえって迫害を加えてくる。もしも少しでも心ある人であれば、大聖人の難の、せめて半分はわが身に受けようとして当然ではないか、と。
 大聖人は、決して難を嘆いておられたのではない。大聖人を守ろうとしない″心なき人々″が、度をすぎて謗法におちいることを悲しまれてのお言葉であると拝される。
 また門下として、この大聖人の御聖訓を拝するとき、大聖人お一人に難をすべて押しつけて、のまま、おめおめと生き、死んでいかれるのか。それで恥ずかしくはないか、成仏できるのか、の叱咤のお心が、胸にとどろいてくるように感じられてならない。
25  ″善をなさないのは悪″
 師弟は一体である。日興上人も伊豆へ、佐渡へと師と苦難をともにされた。
 また次元は異なるが、戸田先生も牧口先生におともして牢獄にまでも行かれた。しかも、そのことを感謝さえされていた。弟子として、師の苦難をかわって受けたいとの強き強き一念と祈りが、そこにはあったにちがいない。私もまた同じ心であった。
 この方程式、この師弟を貫く信心の心は、現在もまた不変でなければならない。(拍手)
 最後に、伝教大師の言葉を紹介しておきたい。
 「能く言いて行うこと能わざるは、国の師なり。能く行いて言うこと能わざるは、国の用なり。能く行い、能く言うは、国の宝なり。(中略)言うこと能わず、行うこと能わざるを、国の賊と為す」(「山家学生式」)
 すなわち――「智」ありて「行」なきは「国の師」、「智」なく「行」あるは「国の用」、「智」と「行」ともにあるは「国の宝」、「智」なく「行」なきは「国の賊」、と。
 この意味で大聖人は、「国宝」中の無上の「国宝」の方であられた。また門下として、法のため、社会のために、叫び、行動している私どもも、総じては「国宝」の誇りを持ってよいと信ずる。(拍手)
 そして、″「智」も「行」もないのは国賊″と。何も言わず、何も行動しないのはゼロではない。マイナスの存在なのである。
26  善をなさないのは悪である。成長しないのは惰性である。前進しないのは後退である。そして″「杖」の一つにもかわろう″と祈らない臆病は、「正法」とそれを弘める「人」への軽視と傲慢の証拠なのではあるまいか。(拍手)
 最後に、真実なる、また勇敢なるわが創価学会員の皆さまの「永遠なる幸福」と「永遠なる勝利」「永遠なる栄光」を心よりお祈りし、本日の記念のスピーチを終わらせていただく。長時間、本当にご苦労さま。
 (長野研修道場)

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