Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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学生部夏季講習会 青年よ波瀾の人生に舞え

1989.8.2 スピーチ(1989.8〜)(池田大作全集第73巻)

前後
2  「青年は人類の希望」との言葉は、じつは巴金氏が「師」と呼ぶ人の言葉である。静岡研修道場でお会いした前日、氏は「わたしの文学五十年」と題して、東京・有楽町の朝日講堂で講演をされている。
 そこでも紹介されたが、氏は二十三歳の時、上海からパリヘと向かう。それは、祖国の混乱に苦しみ、″世を救い、人を救い、自分を救う道をさがし求めて″の旅であった。
 パリでは、無実の罪でアメリカの監獄につながれた社会運動家(イタリア人労働者のサッコとヴァンゼッティ)の救援活動が行われていた。無政府主義者であった彼らが、殺人の疑いで捕らえられ、証拠不十分のまま処刑されるという冤罪事件だった。
 巴金氏は、獄中のヴァンゼッテイに手紙を書いた。その返事の中にあったのが「青年は人類の希望だ」との言葉であった。氏は、この言葉をささえに、人生の活路を開いた。文学に生きる自信が生まれた。巴金氏にとってヴァンゼッティは、いまだ見ぬ人であったが、一人の「師」となった。
 ヴアンゼッティが処刑されたのは、その数力月後である。無実が証明されたのは、じつに五十年後であった。
3  世に誹謗、中傷、冤罪は多いものである。かつて日達上人も言われていた。
 「創価学会はいろいろ悪口を言われますね。池田先生も、最も正しく、偉大な仕事をされているのに、いつも批判をされている。『賢聖は罵詈して試みるなるべし』(御童自九五八パじで、非難や迫害によって、試されているのですね。本当の人物というのは、中傷や苦難をうけて、初めてわかるし、決まるものです」と。
 もとより私どもは聖人や賢人ではないが、誹謗や迫害によって、その人の真価が明らかになることを思えば、これほどうれしいことはないし、喜びはない。(拍手)
 死を前にして、異国の青年・巴金氏に「希望」を託したヴァンゼッテイ。そして五十年後、日本の青年に同じ言葉を語りかける巴金氏。平凡な一句に万釣の重みがある。「信念」のために辛酸をなめつくした人間は、もはや「青年」しか信じられなくなるのかもしれない。その万感の思いが、国境を超え、世代を超えて″魂の黄金の連鎖″をつくっていく。それがまた「師弟」の絆となる。
 戸田先生も、最後は青年に期待され、一切を託された。私も同じである。
4  「邪悪」と戦ってこそ「正義」
 巴金氏の人生には、多くの苦難があった。なかでも、もっともつらかったのは、あの文化大革命時代の十年であったと語っておられた。
 「文壇のボス」「黒い一味の黒幕」とされ、精神的拷問と卑劣な人身攻撃が続いた。叩かれ、また叩かれ、ののしられ、侮辱され、デマを流された。市民としての権利もなくなった。″いのち″である作品を発表する自由も奪われた。
 まったくの暗黒である。いったい、この世の「正義」は、どこにあるのか――。
 やがて四人組が倒れる時がきた。氏は誓った。
 「私は、この魂の借りを決して、そのままにしておくことはできない」
 ――受難の十年を総括しよう。悪人(四人組)にだまされてしまった歴史の収支決算をしよう。さもなくば、また悲劇を繰り返してしまうかもしれない。そうならないために、命ある限り、体験した「真実」を私は書き残そう。私は決してベンを捨てない、と。
 氏の心情が、私には痛いほど伝わってくる。
5  良きにつけ、悪しきにつけ、受けた「魂の借り」は、断じて返す――。忘れない。ごまかさない。決算をする。ここに人間としての真の面目もある。(拍手)
 私は、「創価学会」に大恩がある。私の魂に無上の恩恵を受けた。ゆえに私は、他のだれのためでもない、まじめで純真な学会員を守るために、ただそのために生きる。いかなる地位の人、権威の人よりも尊き、仏法の正道を行く方々である。たとえわが身は傷つこうとも、その方々を苦しめる者とは、私は断固、戦う。一歩も退かない。一畳脇ψその方々の盾となって生きぬき、死んでいく決心である。(拍手)
 巴金氏は、悪人によってきざまれた「魂の借り」は生涯忘れぬ、ペンで返す、と。
 この叫び、この執念、この根性、この闘争心――。悪への怒りを忘れるような、表面のみの″寛大な人格者″は偽善の徒である。悪と戦う勇気なき者に、正義を語る資格はない。もはや「青年」でもなければ、「人類の希望」でもない。
 悪との徹底闘争――そこに仏法の精神もあり、牧口先生、戸田先生が身をもって示された学会精神もある。(拍手)
6  謗法の悪との日蓮大聖人の戦い。それは、言語に絶する激烈さであった。
 御書には、南岳大師の次の言葉が引かれている。
 「若し菩薩有りて悪人を将護して治罰すること能わず、其れをして悪を長ぜじめ善人を悩乱し正法を敗壊せば此の人は実に菩薩に非ず、外には詐侮を現じ常に是の言を作さん、我は忍辱を行ずと、其の人命終して諸の悪人と倶に地獄に堕なん」(御書1374)
 ――菩薩が、もしも悪人を助け守ってしまい、罰し、正すことができないで、悪を助長させ、善人の心を悩ませ乱し、正法を破壊してしまったなら、この人は真の菩薩ではない。こういう人間は、外面では″詐り″と″侮り″から、つねにこう言うであろう。「私は忍辱の修行(侮辱や迫害等に耐えて瞋りの心を起こさない修行)をしているのだ」と。この人は、死後、もろもろの悪人とともに地獄に堕ちるであろう――。
 この御文のごとく、「私は我慢しているのだ」などと言って、悪と戦わず、悪を増長させる者は、もはや「菩薩」ではない。広布の指導者ではない。かえって罪をつくってしまう。正義を貫くためには、意気地なしであってはならない。遠慮してもならない。(拍手)
7  大聖人は「眠れる師子に手を付けざれば瞋らず流にさをを立てざれば浪立たず謗法ほうぼうを呵嘖せざれば留難なし
 ――眠れるライオンに、手をふれなければ怒らない。流れに悼を立てなければ波は立たない。同様に謗法を叱り、責めなければ迫害は起こらない――と仰せである。
 悪と戦えば、戦った人が返り血を浴びる。それを恐れて沈黙すれば、何も起こらない。ゆえに、悪からの迫害を受けている人こそ本物である。真に「戦っている人」であり、実の「菩薩」であり、その人を正義の基準と見ていけば間違いない。
 学会においても、何人かの悪人が出た。彼らが陰で、どれほど学会を利用してきたか。正法の和合僧を壊そうとしてきたか。彼らが私を攻撃するのは、私が彼らの悪を見破り、呵責したからである。(拍手)
 いかなる犠牲をともなっても、悪人は外に出さねばならない。そうでなければ広宣流布の清流を濁してしまう。このことは、わが師より厳しく教えられたことである。
8  本物の決意が本物の行動に
 一昨年の学生部夏季講習会の折、ここ常来坊でナポレオンの話をした(本全集第68巻に収録)。きょうは青年時代、ナポレオンと鮮烈なコントラスト(対照)をなして、私の心にきざまれた人物についてお話ししたい。それはスイスの教育者ペスタロッチである。
 ナポレオンの生没は一七六九〜一八二一年、ペスタロッチのそれは一七四六〜一八二七年。フランス革命に象徴される大転換期にあって、ほぼ同時代を生きた。また、二人の舞台はフランスとスイス、隣り合わせであった。片や「権力」と「政治」、片や「民衆」と「教育」と、活躍する世界は違ったが、ともに波瀾万丈の人生劇を繰り広げている。
 波瀾万丈こそ男の生きがいである。何の刺激も波瀾もなく、平凡に生きたとしても、そこには深き人生の醍醐味はない。思えば私の人生もまさに波瀾万丈であった。わが人生にまったく悔いはない。(拍手)
9  ペスタロッチに関しては、懐かしい思い出がある。私が「山本伸一郎」のベンネームで、初めて発表した一文が、ペスタロッチの伝記であった。
 それは昭和二十四年。今から四十年前になる。私は、戸田先生の経営される出版社・日本正学館で、少年雑誌の若き編集長として働いていた。当時二十一歳。諸君と同じような年代であった。
 ″可愛い少年たちに「偉大なる夢」を贈りたい″――私は、一号一号に情熱をこめ、新しい工夫を凝らした。また、戸田先生が厳しい眼をそそがれていた。
 編集の仕事は、時間との戦いである。とくに困るのは、予定していた作家の原稿がもらえなかった時である。締め切りに間に合わなければ、誌面は真っ白である(笑い)。そうしたさいは、編集長である私自身がベンを執り、ページを埋めた。
 そのように、校了の時間に追われながら書いた原稿の一つが、ペスタロッチの伝記である。彼の八十一年間にわたる苦闘の生涯を簡潔にスケッチし、少年読者にわかりやすく紹介したものであった。
 当時は、大手の雑誌が次々に復刊され、競争は熾烈であった。また、小さな出版社では広告も思うように出せない。私の雑誌も、ほとんど無名の存在であった。しかし、戸田先生から託された仕事である。私は″日本一の少年雑誌をつくろう″と懸命に働いた。私には、理屈や文句などなかった。戸田先生のもとで、どんな仕事もさせていただこう――この決意のままに、戦いぬいた。
 戦いに臨んでは、最初の一念がすべてを決していく。そして本物の決意は、必ず本物の行動を生む。
10  さて、かつてドイツの哲人フィヒテは、ペスタロッチを「人道の大恩人」とたたえた。
 戦乱と貧困と圧政の時代にあって、ペスタロッチは目の前の一人一人の孤児を慈しみ、一人一人の庶民の心に語りかけていった。彼は、そのたゆみない行動の繰り返しによって社会全体に、そして未来へと、変革の新たな流れを起こそうとしたのである。
 また彼は、現実との悪戦苦闘のなかで、みずからの思想を深め、練り上げている。それは、酒飲みの職人リーンハルトと、その良き妻ゲルトルートらの物語をとおして彼の教育理念を明かした大著『リーンハルトとグルトルート』をはじめ、『隠者の夕暮』『シュタンツだより』『探究』『白鳥の歌』など幾多の著作として結実した。
 ちなみに、彼の教育小説『リーンハルトとゲルトルート』は、広くヨーロッパ各地で絶讃を博した。が、執筆当時、若きペスタロッチは貧民教育の事業に失敗した直後であり、原稿用の紙を買うお金もなく、古い帳簿の余白に書き込んでいった、という。
 戸田先生は「恵まれた環境だからといって、いいものができるのではない。苦難、苦労のなかでこそ、偉大なもの、本物は生まれる」とよく言っておられた。
 ペスタロッチは「私が人民の苦悩とその原因とを学んだのは、私自身の不幸によってである」(ドゥ・ガン『ペスタロッチ伝』新堀通也訳、学芸図書)と語る。彼は、うち続く苦難の一切を、民衆の指導者として、成長していくための滋養に転じていった。
 ともあれ、苦しんでいる不幸な人を知らなければ、本当の人生の勉強はできない。辛苦のなかで彼が残した教育の原理と方法は、不朽の命をたたえている。
 牧口先生も『創価教育学体系』の中で、「教師の理想としてのペスタロッチ」という一節をもうけ、論じておられる。
11  権力と権威を恐れるな
 さて、ペスタロッチとナポレオンは、直接会ったことがあるかどうか――これは、たいへんに興味深いところである。
 当時、政府の首席執政官として、皇帝への道を旭日の勢いでまっしぐらに上りつめようとしていたナポレオン。彼は一八〇二年、パリで、ある会議を招集する。そしてじつは、この会議にペスタロッチも出席していた。しかし彼は、その会議がみずからの提唱する教育改革に少しも役立たないと見きわめるや、パッと引きあげてしまう。
 ペスタロッチの学園で働く若き教員たちは、彼の帰りを待ちかまえて質問する。
 『ボナパルトに会いましたか』『いや』とペスタロッチーは答えた。『ボナパルトも私には会えなかった』」(長田新編「ペスタロッチーの生涯と思想」、長田新編『ペスタロッチー全集1』所収、平凡社)
 つまり、ナポレオンのほうこそ、ペスタロッチに会えなかった、と言うのだ。
 時にナポレオン、三十三歳。ペスタロッチ、五十六歳。言うまでもなくナポレオンは、当時、比類ない英雄として威勢を誇っていた。一方、ペスタロッチは、何の権力もない。貧しい一介の教育者である。風朱はさっぱりあがらない。外見だけ見れば、しわだらけの一人の老人にすぎなかった。
 しかし、ペスタロッチの胸中には″ナポレオン、何ものぞ″との気概がみなぎっていた。″民衆の幸福のために自分は戦っている″という自負があり、プライドがあった。
 また彼は、「王国は滅亡し、国家は消滅しますが、人間性は不滅であり、その法則は永劫です」(「わが時代およびわが祖国の純真者に訴う」大槻正一訳、長田新編『ペスタロッチー全集11』所収)と達観していた。
 そして、そのもっとも重要な人間性の陶冶をはかる「教育」こそが、ペスタロッチの仕事だったのである。
 ――私はナポレオンに会うために会議に行ったのではない。ナポレオンのほうこそ、私に会えなかったのだ。権力者が何だ。民衆を支配し、利用せんとする権力者などに、わざわざ頭を下げる必要はない。それより一人でも多く、未来性に富んだ青年たちと会い、希望と確信を贈るほうがはるかにすばらしい。私は″人間をつくる″教育者だ――。ペスタロッチの心は、そう叫んでやまなかったにちがいない。
 諸君もまた、″私は妙法の信仰者だ″″広宣流布の先駆者だ″″どんな権力者もおよばない、はるかに崇高な仕事を遂行しているのがわれわれである″と、いつも強い決意と大いなる誇りをもって生きぬいていただきたい。(拍手)
 あらゆる権威や名声に対して、″何ものぞ″という気概を失ったならば、もはやそれは青年ではない。信仰者とは言えない。
12  民主主義は庶民が主役
 大聖人は文永十二年(一二七五年)二月、身延の地で、次のようなお手紙をしたためられている。
 「佐渡の国の行者数多此の所まで下向ゆへに今の法門説き聞かせ候えば未来までの仏種になる事是れ皆釈尊の法恩ありがたし」――佐渡の国の行者がたくさん、この所(身延)まで訪ねてこられたので、いま日蓮が弘通する法門をその人々に説き聞かせました。これが、未来までの仏種となることでしょう。みな、釈尊の法恩であり、ありがたいことです――と。
 文永十二年といえば、佐渡からもどられた大聖人が、幕府の最高実力者・平左衛門尉頼綱と対面して諫暁され、身延に入られた、その翌年である。
 遠く佐渡の地より、はるばる訪ねてきた門下の人々。そうしたけなげな一人一人を心からねぎらわれ、慈しまれる大聖人のお振る舞いが、お手紙の行間からも拝される。
 大聖人は、その尊き求道の人々を「行者」と呼ばれている。そして、一回の出会いをとおして、未来永劫への″妙法の種″を一人一人の心田に、手ずから蒔いていかれた。
 どこまでもどこまでも、無名の民衆である一人また一人の「成仏」と「幸福」を願われ、最大に激励をされる大聖人のお心を深く拝していかねばならない。
13  ところで、ペスタロッチはナポレオンとは会わなかったが、ただかたくなに、権力者を拒んでいたのではない。教育のため、また信念の実現のためならば、王であれ、皇帝であれ、彼はみずから進んで会っている。
 六十八歳の時である。彼は、重病の身をおして、プロシャ王を訪問した。弟子は、衰弱した体を気づかい、訪問を中止するように勧めた。それに対しペスタロッチは「いや、黙れ」と、断固、初志を貫く。「私は王様に会わねばならない。たとえそのために死んでも。王様にお会いすることによってプロシャの子供が僅か一人だけ前よりよい教授を受けるようになっても、私は十分に報いられるのだ」(ドゥ・ガン、前掲書)と。
 まさにペスタロッチの、教育者としての実像が躍如としている言葉といってよい。こうした指導者が、日本に、世界に、どれだけいるのか。
 たった一人の幸せのためにも、わが身を顧みず走り、行動していく。これこそ、真実の指導者の心である。
14  ペスタロッチは、北欧デンマークから訪れたある教育者に、次の言葉を贈っている。
 「思慮深く軽蔑することを練習せよ。傲慢な者を力強く軽蔑し、そして弱い者を崇高に高めよ」(前掲『ペスタロッチー全集1』)
 この言葉には、一般社会の傲慢な人間に対する鋭い示唆がある。とともに、信仰の世界も、また同じと言えるかもしれない。
 傲りの指導者ほど、迷惑で、厄介な存在はない。従う民衆は、勝手な言動に左右され、動揺し、不安となり、結局は不幸の道をたどる以外にない。
 要するに、民衆が、高慢な指導者の言いなりになっていては、幸せな社会は永久にできない。庶民が黙っていれば、指導者はますます増長し、民を侮り、堕落していく。ゆえに民衆は、傲りの人間に対しては、かえって手玉に取るくらいの賢明さと勇敢さをもって戦っていくべきである。ここに、庶民が主役となって、真実の民主社会を開き、建設しゆく道があるからだ。(拍手)
 また、弱者には、どこまでもあたたかく、包み、励ましていく――これが本来のリーダーであり、信仰者の姿でもある。
 草創以来の学会の伝統精神も、ここにあった。この方程式は、これからも永久に変わることはないし、変わってはならない。悩める庶民の救済こそ、仏法者の最大の使命であり、根本精神であるからだ。(拍手)
 ペスタロッチは、訴える――崇高な精神によって立つ人が、畏縮した弱者の立場に甘んじている限り、社会の悲惨を転換することはできない。だから、未来の人類のために打って出よ――と。このペスタロッチの魂の叫びを、私もまた、叫びたい気持ちでいっぱいである。(拍手)
15  仏法の精神貫く学会の誇り
 民衆の成仏のために尽くされる仏について、御書に次のように仰せである。
 「仏出世せさせ給いてありしかば、九十五種の外道・十六大国の王臣諸民をかたらひて或はのり或はうち或は弟子或はだんな檀那等・無量無辺ころせしかども仏たゆむ心なし、我此の法門を諸人にをどされていゐやむほどならば一切衆生地獄に堕つべしと・つよくなげかせ給いしゆへに・退する心なし
 ――仏が世に出られると、九十五種の外道は十六大国の王臣や万民を味方にして、あるいは罵り、あるいは打ち、あるいは弟子・檀那等の無量無辺の人を殺した。けれども仏には怯む心はなかった。もしも自分が、この法門を諸人におどされて、説くのをやめるならば、一切衆生は地獄に堕ちるであろうと強く嘆かれたゆえに、退する心はなかった――。
 この御文は、一往は釈尊について述べられているが、そのまま大聖人の御精神であるといってよい。生命をも惜しまず、大難の連続のなかに生涯を歩まれた御本仏――そのお心は、ただただ、弱き民衆、不幸な人間を思いやる、限りなき大慈大悲であった。
 次元は異なるが、わが学会も、大聖人門下として、大聖人の御精神につらなり、徹して民衆のために、庶民のために歩んできた。その一点で、「弛む心」「退する心」をうち捨て、信心を奮い起こしてきた。牧口先生もそうであり、戸田先生もまた、そのとおりの姿であった。
 そして第二代の私も、つねに、その真剣の心で、自己を叱咤し、鼓舞して、今日まで進んできたつもりである。ここに、学会が、ありとあらゆる難を乗り越え、勝ち越えてきた理由の一つがあると、私は確信する。(拍手)
16  ともあれ、最高の正義の道、尊き道を歩んでいる私どもである。人類の幸せのために、さらに勇気をもち、堂々と前進していきたい(拍手)。諸君は、どうか、それぞれの社会と使命の庭で立派に成長し、すばらしき一生を飾っていただきたい。
 朝な夕な、私は、諸君とご一家のご多幸を、さらに一人も残らず「勝利」と「成功」の人生を歩みゆかれんことをご祈念させていただいていると申し上げ、本日のスピーチとさせていただく。
 (総本山大石寺・常来坊)

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