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日蓮大聖人・池田大作

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創立六十周年開幕記念支部長会 「新鮮」「明快」「柔軟」な人に

1989.7.27 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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1  時代は「新鮮さ」の魅力を欲求
 暑い中の、皆さま方の日夜の活躍に対し、心から″ご苦労さま″と申し上げたい。
 時代の波は急速に動いている。その中で、きたる二十一世紀にだれが勝つのか、だれが新世紀を手中にするのか。今、生き残り(サバイバル)をかけた熾烈しれつな戦いが本格化している。経済界しかり、政界しかり、文化の世界も同様である。また、国も、団体も、個人においてもそうである。
 この時に、何が必要か。最も重要なものは「新鮮さ」の魅力である。「新鮮」であるかどうか、「フレッシュ」かどうか──ここに勝敗の決め手がある。
 ともかく時代のテンポは速い。情報量も巨大である。人々は何でもすぐに「きて」しまう。すべてはすぐ″古く″なる。そして、どんどん捨てられてしまう。
 言い換えれば、現代は「新鮮さ」そのものが「力」を持つ時代だといってよい。ゆえに、つねに時流を先取りしつつ、他のどこにもない、「新しい価値」を生み出していかねばならない。
 まず新しい人材の輩出──。先日もイギリスのサッチャー首相は、若返り人事を断行したが、若い、新鮮な人材をどんどん抜擢ばってきしていかないと、組織そのものが老い、よどんでしまう。
 私は、毎日、若い学生部や青年部の人と会っている。それは、未来のフレッシュな人材の育成のためである。とともに、若々しい生命と触れ合うことで私自身もリフレッシュされている。
 また、新しい企画、ビジョン、新しい表現、言葉を持たなければならない。新しいネットワーク、組み合わせ、たとえば壮年部と青年部の組み合わせとか、新しい地域と地域の連帯、融合といったことが大事である。
 さらに新しい情報、新しい夢(希望)をどう与え、持たせていけるか。そして新しい生命力をどう発揮していくかである。
 これらを、どう提供し、開発していくか──それが、あらゆる分野の″戦力″のポイントとなる。
 ただし、「新鮮さ」と「をてらう」こととは違う。あくまでも現実に即した「新鮮味」でなくてはならない。これが、時代の先取りであり、現代を勝ち抜く原動力である。
2  さらに「イキがいい」こと。魚や貝類でも「イキのよさ」が最高の美味である。また「もぎたて」のフレッシュさ。トウモロコシでも、もぎたての香ばしさ、おいしさは何ともいえない。
 「イキのよさ」や「もぎたてのフレッシュさ」を失ったものは、価値が大きく落ちる。人間の心も組織も、トロンとした目の魚や、くさりかけたカボチャのようになってはどうしようもない。
 「素人しろうと」の感覚も大事である。変に玄人くろうと(プロ)のまねをしないことである。
 とともに「明快さ」を失ってはならない。何を言っているのかわからないような話し方では相手の胸に届かない。「明快さ」は心をスッキリさせ、さわやかさを与えてくれる。
 また、背伸びしない「素直すなおさ」と「柔軟性」を持つことだ。背伸びをして″自分は何でも知っている。何でもできる″などと虚勢を張って見せても、長続きはしない。結局、自分が苦しむだけである。同じ人間である。決して特別な人間がいるわけではない。自分に「素直に」生きればよい。
 そして、あらゆる人の意見を″聞く″耳を持つことである。多くの人たちの意見を聞き、分析し、次の進むべき道をさぐる。競争に生き残り、発展している組織は、これを絶対に欠かしていない。言い換えれば、つねに勉強し続ける「謙虚さ」を失わないということである。これらを持続できた人や団体こそ、″時代の勝者″となっていけることを忘れてはならない。
 すなわち「自分自身への挑戦」をつねに行うことによって、みずからの生命を「リフレッシュ」する。つまり、「自己革新」を連続して行える生命力、それを持つことこそ真の革新なのである。
 私どもにとって、生命の革新の源泉は信心である。
 法華経(提婆達多品)に「こころに妙法をそんせるがゆえに 身心しんじん懈倦むけげんかりき」(並開結四二三㌻)とある。心に妙法を信じたもっているがゆえに、身も心も、み疲れて、いやになることがない。つねにすがすがしい、というのである。
 つまり、生命をつねに若々しくし、新鮮な躍動のリズムをかなでさせてくれる根本こそ信心であり、日々の広布の活動なのである。
 その意味でしっかり唱題に励んでいただきたい。睡眠を十分にとり、思索をし、広布の法戦への意欲を失わないことである。生命の「若々しさ」「みずみずしさ」をいつしか失い、「老い」と「にごり」の生命となってはならない。
 どうか、日々、信心を深めながら、新たな知恵と力と、はつらつたる行動で、幸福の人生と、広布の新舞台を開きゆく皆さま方であっていただきたい。
3  日尊の謗法wおただした一信徒
 さて話題を変えて、東北の話をしたい。さる五月には東北最高会議が開催され、″楽しい東北、楽しい同志″のスクラムで、二〇〇一年を目指して九百支部建設への堂々たる前進が始まった。
 東北にゆかりの深い「一閻浮提いちえんぶだいの御座主」たる第三祖日目上人も、このような東北の妙法興隆の姿をいかばかりかお喜びくださっているか、と思われてならない。
 ご存じのように日目上人は、その若き日より「みちのく」に何度も足を運ばれ、妙法広布の新しい天地を開かれたのである。日目上人が、この「みちのく」の庶民の仏子をどれほどいつくしまれ、大切にされたか。その仏子の清らかにしてうるわしい世界を守り抜くために、どれほど心をくだいておられたか。本日はその一端を、一つのエピソードを通して拝しておきたい。
 日興上人の講義中に、庭のなしの木の葉が落ちるのを、よそ見していて叱責しっせきを受け、その後十二年間にわたって勘当かんどうされた日尊にちぞんのことは、これまでも何回かお話しした。
 その日尊が、奥州で布教中に、神社への参詣さんけいを認める発言をしたことが伝えられている。もちろん、神社参詣が謗法ほうぼうであることは、大聖人の教義に照らして明白である。日尊が僧として指導的立場にあるだけに、その言動の狂いはじつに大きな影響をもたらしてしまう危険があった。
 大聖人は、根本の教義に関して絶対に妥協されなかった。謗法に対しては断固として弾劾だんがい呵責かしゃくされている。
 日尊の発言は、生命に染まった我見と謗法の表れであり、世間の風潮に言葉たくみに迎合したものでもあったろう。いつの時代にも、どこの世界にも、自分のために権威を利用しつつ″柔軟じゅうなんさ″や″幅広さ″を装い、人々を根本の軌道から逸脱いつだつさせていく人間がいるものである。
 だが、このとき奥州の又六またろくという信徒が、″それは自分たちが日目上人から学んできた大聖人の正法正義しょうぼうしょうぎに反する″と声を上げたのである。
 「立正安国論」に説かれた「神天上かみてんじょう(世の人々が正法に背くとき、諸天善神は守護の国土を捨てて天に上がってしまうこと)の法門」を、又六は知っていた。奥州の門下に対する日目上人の行学の薫陶くんとうは、それほどまでに隅々に行き届いていたのである。
 教学をしっかり研さんしていなければ、仏法の正邪を見極めることができない。私は東北最高会議の折、教学部員十二万人の提案をさせていただいたが、こうした歴史を踏まえてのことである。
 とともに、次元は異なるが、私どもの広布の世界にあっても、言うべきことは言っていくべきである。疑問や悩み等を抱えたままでは皆が思う存分に力を発揮できない。とくに活動の第一線で一番苦労されているのが婦人部の方々であり、幹部は、婦人部の意見を十分にくみ取っていっていただくよう、強くお願いしたい。
4  なお、「神天上の法門」に関連して、日昇上人は、昭和二十九年(一九五四年)十一月十八日、牧口先生の法要の折、次のように述べられている。
 「創価学会の皆様と共に題目を唱えることが出来た事をうれしく思います。私は牧口先生とは常泉寺で初めておいしました。もう一度は本山におい神札かみふだ問題が起こった折に先代牧口先生と戸田先生にお逢いしました」
 「爾来じらい(=その後)、創価学会の活動も隆盛に向かい『神天上の法門』が官憲のむ所となりついに、(=牧口先生は)東条政府の弾圧に逢い大法弘通のために牢死されました。その宗門のために尽くされた御功績は熱原あつはら法難の神四郎じんしろうにも比すべきものであります。その後を継いで現戸田会長がたたれ創価学会も益々ますます隆盛になり、さぞ先師(=牧口先生)も御満足の事と思います。この精神をどこまでも続け、大法弘通に邁進まいしんされんことを切にお願い致し御挨拶と致します」(「聖教新聞」昭和二十九年十一月二十八日付)
 初代牧口先生、第二代戸田先生の先駆の功績をたたえられ、学会への期待を込められたお言葉である。
 私どもは、何があってもこの学会のほまれを忘れてはならない。少々の難や圧迫など歯牙にもかけず、「大地を的とするなるべし」との広宣流布への大聖人の御確信のままに、誇り高く進んでいけばよいのである。私は、牧口先生の遺志を継がれた戸田先生の弟子として、覚悟の信心に徹してきたつもりである。
5  さて、又六にみずからの誤りをただされた日尊であったが、彼は正論に耳を傾けようとしない。門下の庶民をバカにし、見くびっていた。
 日尊は当時、四十代半ば。″自分は僧として、天台教学までも修めている。また数多くの寺を開いた功績もある″といったおごりが、その心を濁らせていた。
 「法」のもとにすべての人は平等である。信心の世界ではいわゆる″偉い人″″特別な人″は存在しない。また必要もない。仏法をたもち、真剣に「法」を行ずる人、「広宣流布」のために行動している人こそが、最も尊い存在なのである。
 この時、又六は一歩も退かなかった。そこで、又六の兄・五郎が弟に代わって日目上人にお手紙を出し、御指導を受けたのである。
 日目上人は又六の主張を正しいとされ、日尊に対して厳重に訓戒された。日目上人は、懸命に正法を信じ行ずる庶民の声を、このように大事にくみ取っておられたのである。
 日目上人のあるお手紙によれば、日尊は師匠である日目上人のこうした御注意に対し、あからさまに不満の色を示したようである。傲った生命の狂いは恐ろしい。日目上人は、そのような日尊の性格を手にとるように見抜かれていた。
 今日、残された書状には前半部分が欠けており、全体の文意は断定できないが、日目上人は次のように明言されている。
 「腹立つかまつり候て、状なんどもたばず不賜候あいだ、これよりへつらいがたく存候」(『歴代法主全書』)
 ──日尊は(日目上人に注意されたことに)腹を立てて、手紙などもよこさないという状態なので、こちら(日目上人)からご機(きげん)をとるようなことはできません──と。
 まんの生命に対しては、あくまでも毅然きぜんと、また厳然と処していかねばならない。そうでなければ、ますます増長させてしまうからだ。
 この御文を拝するがゆえに、私もこれまで、正法正義に照らして言うべきことは毅然として言い切ってきた。生命の奥にひそむ慢の心を打ち破るためには厳しい指導もしてきた。それは何よりも、清浄なる信心の世界を守り通すためである。
6  戸田先生は、昭和三十一年五月の『大白華』に掲載された座談会の中で、最後にこう言われた。
 この座談会には私も出席していたが、戸田先生は「信心が透徹とうてつすれば世法は何でもなくなる。根本は信心です。仏法に透徹すれば世法のことは簡単なものです。仏法に透徹する以外に、世法の細かい技術などというものはないと信ずる。あっても、そんなことはどうでもよいことではないですか。私は世法では負けません。世法で僕を攻撃してくる。これでは僕は負けない。断じて負けない」と話されていた。
 ここにこそ、揺るぎない信仰者の確信があるといってよい。
7  大聖人は、あるお手紙に「慈悲なければ天も此の国をまほらず」──人々に慈悲がないから、諸天善神もこの国を守らない──と仰せである。
 時代は″慈悲″の心を失い、だんだんと″冷酷れいこくさ″を増しているように思える。経済的な繁栄の水面下で、さまざまな問題が深刻化している。また世界的にみても、人類と文明に忍び寄る危機を痛感するのは、私一人ではない。
 こうした中にあって、「慈悲の行動」に徹し、最高の妙法を人々に教えゆく私どもの存在と使命が、どれほど大切であり、偉大であるか──。御書に仰せのごとく、慈悲の行動によって、国や社会を守護しゆく諸天善神の働きに力を与えていくことができるからである。その意味で皆さま方こそ、国土・社会の永続的な繁栄を決定づけていく方々なのである。そして何よりも、皆さま方の一念と行動は、すべて御本仏・日蓮大聖人が御照覧あそばされているにちがいないと、私は深く確信してやまない。
8  一人をどこまでも大切にされた大聖人
 さて弘安元年(一二七八年)九月、日蓮大聖人は身延の地から、門下の婦人の一人妙法比丘尼みょうほうびくに、ならびにその兄嫁に長文のお手紙を送られた。『御書全集』でなんと十三ページにも及ぶ御抄(「妙法比丘尼御返事」)である。いかなる門下に対しても全魂を込め激励される御本仏の大慈大悲が拝されてならない。
 本抄は、妙法比丘尼が兄嫁から託された帷子かたびら(裏地を付けないひとえの衣類)を一着お届けしたことへのお礼のお手紙である。またあわせて、比丘尼からは、尾張の次郎兵衛が亡くなったとの報告もあった。
 次郎兵衛は愛知の人で、妙法比丘尼の兄ではないかとも推測される。次郎兵衛の夫人は信心していたが、彼自身はかなり理解は示していたものの、入信には至らなかった。
 今でも、よくあるケースかもしれない、一般的に男性は、良く言えば客観的、しかし頭で理解していても、なかなか実践には移せない。その点、女性のほうが、はるかにいさぎよいし、行動的である。
 だが、次郎兵衛は、大聖人と直接お会いしたことがあった。大聖人は、本抄で、その出会いの印象について、「人がらにくげ憎気なるふりなく・よろづの人に・なさけあらんと思いし人」──人柄は、いばるところがなく、だれにでも情の深い人と思いました──としのばれ、残された夫人をなぐさめておられる。
 相手が信心している、していないを問わず、大聖人が一つ一つの出会いを大切にされていた御様子が、こうした何気ない一言からもうかがわれる。また最愛の夫を亡くし悲しみに暮れる妻を思いやられ、温かな配慮をされてのお言葉である。こまやかにして美しき心づかいに、真実の仏法は脈動している。
 かりに家族は入信していなくとも、妙法をたもち実践する「一人」さえいれば、自然のうちに家族の生命にも仏種は植えられ、仏縁を結んでいく。それを、不用意な言動で、周囲の人々に反感をいだかせたり、正法から遠ざけるようなことがあってはならない。
 一人一人とのえにし、そして出会いを、どこまでも大切にしながら、また心と心のきずなを強め、構築しながら、日本、いな全世界、一閻浮提いちえんぶだいへと広宣流布の舞台を、私どもは広げていきたい。
9  この御抄をしたためられた弘安元年、大聖人は御年五十七歳であられた。この年、大聖人は、ひどく体調をくずされ、「はらのけ(下痢)」に苦しまれた。
 その大聖人を取り囲む自然環境は、あまりにも過酷かこくであった。また食料、衣料も不足していた。しかも、大聖人は、さまざまな圧迫から、社会的にも自由のない状況にあられた。たとえ行きたくとも、郷里にも帰れず、御父母の墓参でさえ、大変に困難であられた。
 そうした厳しい自然や生活の御様子についても大聖人は、このお手紙の中で、率直そっちょくにつづられている。たとえば、古里を訪ねられないことについて「父母のはかと・れし人人のいかが・なるらんと・おぼつかなしとも申す計りなし」――父母の墓と、親しくした人々は、どのようであろうかとまことに気がかりでなりません――と仰せになっている。
 もったいなくも、御本仏自ら、敵対者の理不尽な迫害にさらされ、不自由のさなかにあられた。ありとあらゆる苦難を堂々と受けられ、それを忍ばれて正法をひろめられた。
 ましてや、私どもは凡夫である。信心しているからといって、何もかも思うように進むわけがない。前進をさまたげる予期せぬ事件や問題も当然ある。むしろ、諸難に耐え、乗り越えてこそ、大聖人に連なりゆく門下の誇りがあり、人間としての永遠の凱歌がいかがある。
10  大聖人は、次のように仰せである。
 「但うれしき事は武士の習ひ君の御為に宇治勢多を渡し前を・かけなんどして・ありし人は、たとひ身は死すれども名を後代に挙げ候ぞかし
 ――ただうれしいことは、武士の習いで、主君の御ために、宇治・勢多(=琵琶湖から流れる瀬田・宇治川のこと)の渡しに先陣を駆けた人々は、たとえ身は死んでも名を後代に上げました――。
 「日蓮は法華経のゆへに度度所をおはれ戦をし身に手をひ弟子等を殺され両度まで遠流せられ既に頸に及べり、是れひとえに法華経の御為なり
 ――日蓮は、法華経のゆえに、たびたび所を追われ、戦をして傷つけられ、弟子等を殺され、二度までも遠流になり、そのうえ、すでに頸まで切られそうになった。これは、ひとえに法華経の御ためです――。
 「法華経の中に仏説かせ給はく我が滅度の後・後の五百歳・二千二百余年すぎて此の経閻浮提えんぶだいに流布せん時、天魔の人の身に入りかはりて此の経を弘めさせじとて、たまたま信ずる者をば或はのり打ち所をうつし或はころしなんどすべし、其の時先さきをしてあらん者は三世十方の仏を供養する功徳を得べし、我れ又因位の難行・苦行の功徳を譲るべしと説かせ給う
 ――法華経の中で、仏が説かれるには「我が滅度の後、後の五百歳、二千二百余年を過ぎて、この経を閻浮提(全世界)に流布しようとする時、天魔が人の身に入り代わって、この経を弘めさせまいとして、たまたま信ずる者を、あるいは罵詈めりしたり、あるいは打擲ちょうちゃくし、あるいは所を追ったり、あるいは殺したりするであろう。その時、第一に先駆さきがけした人は、三世十方の仏を供養するのと同じ功徳を得るであろう。また我が(釈尊の)因位の難行・苦行の功徳を譲るであろう」といわれています――と。
 少々、長い引用となったが、この御文は、むろん大聖人御自身について述べられたものである。しかし、総じては、大聖人門下として弘教に邁進まいしんする私どもの身にも、当てはめて拝していくことができよう。
 熾烈しれつな法戦にあって、先陣を切り、先頭に立って戦う「一人」の存在が、いかに尊く、重要であるか。そしてその福徳がいかに甚大じんだいであるか。大聖人は、そのことを示してくださっていると拝される。
 先駆の勇者として、法華経のために身を尽くし、戦っていく功徳は無量であり、釈尊も″三世十方の仏を供養し、また、釈尊の成仏への難行・苦行を果たしたのと同じである″と説かれている、と。
11  順調な流れの中では、だれでも戦える。しかし、険難の道で相次ぐ苦境に直面したとき、前進への突破口を開くのはだれか。あえて苦難に挑み、建設の坂を登攀とうはんしていくのはだれか。ここに、人生と信心の試練があり、ロマンがある。
 広布の第一線で活動しておられる皆さま、とくに支部長、支部婦人部長の皆さま方は、各地域にあって、つねに「先陣の誉れ」を飾っておられる方々である。だれが見ていなくとも、その功徳は絶大であり、御本仏の御照覧は絶対に間違いない。
 思えば、新支部の発足は、昭和五十三年。あの創立五十周年を前に、内外に激烈なあらしが吹きすさぶ中での誕生であった。支部長、支部婦人部長の皆さま方は、そうした中を、けなげに会員を励まし、勇気づけ、学会を奮迅ふんじんの戦いで支えてくださった。その姿を、私は決して忘れることはできない。
 そして、いよいよ、絢爛けんらんたる創立六十周年――。その開幕を、今ふたたび、こうして皆さま方と飾れることに、不思議な時のリズムを感じてならない。
12  人材は″永遠への橋″
 さて今、最も大切なことは何か。それは「人材」である。大聖人が四条金吾に宛られた御抄に、次のような一節がある。
 「日蓮はわかきより今生のいのりなし只仏にならんとをもふ計りなり、されども殿の御事をば・ひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり其の故は法華経の命を継ぐ人なればと思うなり
 ――日には、若き日より、今世のみの祈りはない。ただ仏になろうと思ってきただけである。けれども、あなたのことは、いつも法華経、釈尊、日天にお願いしています。そのわけは、あなたが法華経の命脈を継ぐ人であると思うからです――。
 さまざまな苦悩の中にあった金吾を思いやられる、限りない御慈愛のお言葉である。とともに、「法華経の命を継ぐ人」に対する、大聖人の絶大にして、燃え上るような熱い御期待、御信頼が私には拝されてならない。
 むろん次元は異なるが、今の私も″何も欲しくはない。ただ「人材」が欲しい″との心境である。
 「人間をつくる」ことが、一切の基盤である。また、広布の前進を不滅たらしめる″永遠への橋″となる。無限の価値の源泉となる。人材は広布の「命」を継ぎゆく″宝″となる。ゆえに私は、「人材」の鍛錬に、すべての焦点を当てている。つねに、人材を探しに探し、青年を訓練し、きたえている。
 また、「教育」に最大の力を注いでいる。社会、世界のために貢献しゆく人材の輩出。これこそ、現在の私の最も切実な課題だと思っている。
13  鍛錬、育成といっても、大切なのは、一個の偉大な人格をつくることである。
 戸田先生は、よく、「組織は偉大な人物をつくるか、さもなくば、幼稚な愚者をつくる」といわれた。
 組織があまりに偉大であり、会員が純真であるために、かえって、それに甘えて厳しい自己建設をおこたる者も出てくる。そうなれば、いかなる理想的な組織も、組織悪の温床となってしまう。
 学会は、真の「人間」をはぐくみ、社会に輩出しゆく人材育成の大地である。しかし、そこに峻厳しゅんげんな自己革新、切磋琢磨せっさたくまの息吹がなくなれば、その大地はみるみるせ、不毛の地となってしまうことを知らねばならない。
14  ″新しき自分自身″に生きよ
 『菜根譚さいこんたん』といえば、中国・みんの時代の有名な箴言しんげん集である。かつては私どもも、よく読んだ。その中に、こうある。
 「我たっとくして人これを奉ずるは、峩冠大帯がかんだいたいを奉ずるなり。
 我いやしくして人これをあなどるは、此の布衣草履ふいそうりを侮るなり。
 しからばすなわちもと我を奉ずるにあらず、我なんぞ喜びをなさん。もと我を侮るにあらず、我なんぞ怒りを為さん」(今井宇三郎著、明徳出版社)
 すなわち「私の役職が高く、人々が尊敬するのは、私の身につけた高いかんむりや、大きな帯などの服装を尊敬しているのである。
 私の地位が低くて、人々が軽く見るのは、私の身につけた粗末な服とワラの靴を軽侮けいぶするのである。
 そうだとしたら、人々はもともと私自身を尊敬するのではないのだから、どうして喜んでいられようか。いい気になることはできない。また、もともと私自身を軽侮するのではないのだから、どうして怒ることがあろうか。腹を立てる必要はない」との意味である。
15  多くの人々は、まずその人の「立場」を見る。その役職や制服、バッジ等に向かって頭を下げる。また、何の立場もない人に対しては、その外見のみで軽く見がちである。
 そうした世間の評価は、「人間」そのものへの正しい評価とは違う。「立場」と、はだかの「人間自身」の偉さとは、必ずしも一致しない。別問題である。
 にもかかわらず、何か立場を得ると、それだけで自分が偉くなったような錯覚を持つ。人々が大事にしてくれるのを、自分の力のように思い慢心する。それでは、あまりに、情けない――。しかも、そうした人間が多すぎるのが現実である。
 反対に、自分は地位等がないからといって、卑屈ひくつになったり、世間の変転する″目″に一喜一憂するのもおろかである。
 いずれにせよ、自己の「立場」と「自分自身」を混同する人間。その人には、もはや真の成長はない。のみならず、「人間」に焦点を定めきれない弱さは、他人の評価をも誤る。
 やがて″無冠にして偉大な人物″をも、軽蔑けいべつするに至る。無名の庶民を下に見る。そうなれば、その人自身が″無軌道の人生″に堕している。
 大聖人は一国の権力者に対しても「わづかの小島のぬしら主等」、「但嶋の長」と仰せであられた。
 私どもも、いかなる″権威の服″にも、頭を下げる必要はない。「人間」が基準である。「信心」が基準である。立場におごる人々を、いたずらに増長させては、互いに不幸となる。どこまでも私どもは、大聖人の門下らしく、堂々たる「心の王者」、信心の「無冠の王者」のほこりで進んでまいりたい。
16  西洋中世の話である。ある勇者が敵につかまってしまった。敵は彼を取り巻き、勝ち誇って言った。
 「なんじの城は、いずこにありや」――″すべて失ったではないか″と、あざ笑ったのである。
 勇者は答えた。その胸に手を押し当て、「我が城は、ここにあり!」と。
 その毅然きぜんたる姿に、敵すらも、あっぱれと感嘆するほどであった。
 ――我が城は、我が胸中にあり。極限の状況でも、そう言い切れるかどうか。
 何ものも頼らぬ。一歩もひかぬ。すべてを失っても、裸一貫、この我一人あれば、と。この究極の勇気、強さを持つ人が「人間としての勝者」であろう。
 そうした屹立きつりつした、確固たる人格。それをつくるのが「信仰」である。
 欧米には、欧米なりに、そうした強靭きょうじんな人格をつくってきた伝統がある。この面では、日本は大きくおくれを取ってしまった。私どもこそ、今、そうした人格形成の豊かな土壌をつくっているのである。
17  「才能」は、静穏せいおんの中で養われる面が多い。黙々と努力して、つちかわねばならない。
 しかし「人格」は、激流の中でこそ、つくられる。みずからの力で、時代の激流の中へ、人間群の奔流ほんりゅうの中へ飛び込み、抜き手を切って、立派に泳ぎ切っていく。その激しき「行動」の中で「人格」はられる。
 剣豪も、他流試合、武者修行で鍛えた。内にこもっていては、人物は打ち上がらない。「自分をつくる」のは、結局「自分」である。その「自分」とは、せんじ詰めれば「一念」である。「一念」とは、具体的には「祈り」に集約される。
 地涌の勇士としての「誓願の祈り」こそ、自己を限りなく向上させ、活躍させ、完成させていく原動力である。
 誓願――。尊き使命の我が人生、何を誓い、何を願って生きるか。その奥底の一念どおりに、一生は展開する。他のだれのせいでもない。だれの責任にする必要もない。
 大聖人は「自体顕照じたいけんしょう」と仰せである。妙法の光は、我が本然ほんねんの姿を照らし、あらわしてくれる。輝かせてくれる。この「我が生命に生き切る」人生ほど、幸福な人生はないと私は信ずる。
18  われらの城は富士の如く
 さて、もうすぐ吉川英治氏の生誕百年(一九九二年)。そのことも記念して、私も吉川文学をめぐる対談集(対談者=土井健司創価大学教授)を今秋、上梓じょうしする予定でいる。
 氏の『宮本武蔵』は、小学生の時、担任の桧山ひやま先生が毎日、読んでくれた懐かしい思い出がある。忘れ得ぬ言葉も多い。その一つが「あれになろう、これになろうと焦心あせるより、富士のように、黙って、自分を動かないものに作りあげろ」(『吉川英治全集17』講談社)との一節である。
 この言葉は有名だが、それでは、「富士のように」という、その「富士」は、どのように自分を造り上げたのか。すなわち富士山は、どのようにしてできたのか。このことに少々、触れておきたい。
 なるべくわかりやすくするため、ここでは簡潔かんけつに概略のみお話しさせていただく。また、話したいポイントはあくまで「人間」にあり「生命」にある。その点、ご了承願いたい。
19  傑出けっしゅつしてそびえる秀峰・富士(標高三七七六メートル)。まず、富士はなぜ、あれほど高いのか?
 じつは、富士の雄大な姿の基礎には、古い二つの火山がある。その二つの火山の上に、そびえているゆえに、富士のあの高さがある。いわば現在の富士は″第三代″なのである。
 すなわち、約七十万年前、小御岳こみたけ火山が噴出する。これが″初代の富士″である。今も、五合目あたりに、その頂上が突出している。
 次に約八万年前、″初代富士″南斜面で、古富士こふじの活動が始まり、約一万年前まで続く。初代の上にできた、この古富士が″第二代″の富士である。
 さらに、現在の″新富士″の活動が、約五千〜八千年前に始まる。ほぼ現在の形になったのは約三千〜五千年前とされる。これが″第三代″の富士(狭義の富士火山)である。
 つまり、繩文じょうもん時代(ほぼ紀元前八千年から前二百年ごろまで)、人々は富士山が、少しずつできあがっていくのを目撃していたわけである。ロマンを誘う話である。
20  ローマは一日にして成らず、あの高峰も一挙にできたのではなかった。少なくとも七十万年前からの基礎があり、しかも、その上に「活動し続けた」からこそ、次第に高く完成されていった。
 何ごとも「土台」「基盤」が必要である。ピラミッドも、上から造ったわけではない。偉大な建設には時間がかかる。幾つもの段階がある。一段一段、積み重ねていく以外にない。個人も、家庭も、企業等あらゆる組織も、国家も、この方程式は同じである。
 広宣流布も、末法万年の、また尽未来際じんみらいさい(未来永遠)への壮大な構築作業である。今は、その一切の基礎を固めている時である。ある意味で、最も大切な、最も激しい、開拓と建設の時代である。
 そう自覚しているゆえに、私の心は何が起ころうと微動だにしない。ただひたすらに、大切な学会員の皆さまの幸福のために尽くしていくだけである。
21  富士の中央火口――。ご承知の通り、「八葉の華」にたとえられる八つの峰が取り囲んでいる。
 この富士のいただきまで、地下のマグマ(高温で溶融ようゆうしている造岩物質)が押し上げられていく力は、まことに巨大である。″三つの富士″を造った「根っこ」であり、「原点」であるエネルギー源は、地球内部のマグマだまりにある。
 そこへの道、つまり「火道かどう」が、火口と地下深くを結んでいる。富士がどんなに高くなろうと、この「原点への道」は、いよいよ太く、通じていた。だからこそ富士は、各時代の活動の一切を積み上げて、成長し続けることができた。火道がそれたり、詰まったりしたのでは、あの立派な完成の姿は、ありえなかった。
 人間も、団体も、その″原点″″根っこ″に通じる道をなくしたら、もうエネルギーは出ない。どんなに立派そうな格好を見せたとしても、もはや未来はない。死んだ火山のごとく、形骸化けいがいかし、風化していく。行き詰まったり、堕落してしまった団体のほとんどは、この一点が要因である。
 断じて、烏合うごうの衆になってはならない。「形」ではない。「力」である。つねに赤々と燃える灼熱しゃくねつのエネルギーに満ちていなければならない。そのためには、″原点への道″″原点からの道″――永遠にそれを閉ざしてはならないと、強く申し上げておきたい。
 大聖人の仏法は「本因妙ほんにんみょう」の仏法である。つねに本源の出発点に立ち戻り、そこから新たに前進を開始する。この、繰り返しの中に、妙法の正しきリズムにかなう道が限りなく広がっていくにちがいない。
22  信心の勝利が人間としての勝利
 さて、富士の姿は、まことに秀麗しゅうれいである。それでは、なぜ、富士はあれほど美しいのか?
 それは富士が、世界でもまれな、あの見事な円錐形えんすいけいをつくったのは、″一度の爆発″によってではなく、″活動の繰り返し″によって、徐々じょじょに形を整えたからである。
 お化粧けしょうでも、あわてて、「ともかく一挙にやってしまおう」としたのでは、なかなかうまくいかないのではないだろうか。
 それはともあれ、富士の「美」は、長い着実な活動の結果である。人間も修行と試行錯誤しこうさくごの繰り返しで、次第に完成されていく。一度に自己完成はできない。地道に、着実に活動した人が、最後には勝つ。美しく輝く。
 富士の美しさの、もう一つの理由は、現在の富士が、火山としては、極めて若い(三千〜五千歳)からである。若いゆえに、「大沢おおさわ崩れ」は別にして、浸食作用や風化による崩壊が進んでいない。
 人間も若々しく活動している時が、最も美しいと私は思う。
 「動き」にこそ「生」の本質があり、「人間性」の躍動もあり、「美」の光もある。停滞は「死」と「しゅう」への道である。
 このようにしてできた富士の形は、最も″安定″した形である。だれでも気がつくように、石垣いしがきを組んだ日本の城も、同様の形である。
 地震等の災害や年月にも耐え抜いて立ち続ける城――。その形は、自然から学んだ先人の知恵なのかもしれない。あるいは、共通の法則に合致した結果でもあろうか。
 学会は「人材の城」「人材の山脈」をつくっていかねばならない。その道程では、富士のごとく、さまざまな出来事があり、段階がある。それらすべての経験が積み重なって、最も安定した形になっていく。永遠性を持った建設が完成されていくのである。
23  その意味で、長い目でみなければ、物事の真じつはわからない。そして、長い目で見れば必ず深い意味がわかってくるものだ。とくに信心の世界はそうである。
 たとえば「二箇相承にかそうじょう」(日蓮大聖人から日興上人への唯授ゆいじゅ一人の付嘱ふぞく状で、「日蓮一期弘法付嘱書」と「身延山付嘱書」の二箇の付嘱書)の正本(御真筆)が武田家の手で紛失した。これは大痛恨事だいつうこんじであった。しかし、これによって、正義を証明するための「教学」が大いに進んだ。
 また五老僧らの師敵対も、末法万年の大きな教訓となっている。あれだけの五人の高弟が反逆した。何が起ころうとも、もう動じはしないという、これもまた信心の大きな防波堤となっている。
 学会においても、軍国主義と戦われた牧口・戸田先生の入獄は、当時、大変なショックであった。人々には、その尊い本質などわからない。″国法″を犯した、ただの犯罪者にしか見えなかったかもしれない。しかし、今では広宣流布への学会の不滅の原点ともなっている。
24  また人生には当然、勝ち負けがある。ときには悲しみ、苦しむ場合もあるかもしれない。
 しかし、仏法は「煩悩即菩提ぼんのうそくぼだい」「生死即涅槃しょうじそくねはん」である。悩みや苦しみが大きければ大きいほど、信心によって、大きな喜び、幸福へと転じていくことができる。
 また、信心はだれのためのものでもない。すべて自分自身に生き切っていくための信仰であり、行動である。自身の福徳を増し、幸福の道を開いていくための信心なのである。ゆえに、少々のことで一喜一憂したり、心を動かされるのでは信仰者とはいえない。
 ともあれ妙法の世界では、何があったとしても、必ず時とともに「変毒為薬へんどくいやく」していけるのである。それがわからず、一時の姿や、また一時の状態をみて、退転したり、反逆していく人が出たとしたら、これほど愚かなことはない。
 「薬」と「毒」の関係をいえば、じつは両者の間には、ある意味で、明確な境界線はない。その配合や、服用する人の生命力との関係で、「毒」として働く場合もあれば、「薬」として働く場合もある。この事実を一言で「薬とは生命を救う毒」と表現した学者もいる。
 人生の勝敗においても、また同じである。最後に勝てば、一切が「薬」になったことになる。逆に、最後に負ければ、それまでいかに「薬」として働いていたものでも、結局は一切が「毒」となってしまったということができよう。
 では、最後の勝利とは何か。それは「信心の勝利」である。これこそ「人間としての勝利」であり、「三世永遠の勝利」につながる。
 いな、学会において「信心の勝敗」以外に、本質的な勝敗はない。他のあらゆる勝敗は、すべて「化城けじょう」であり、「方便ほうべん」なのである。
 結論していえば、誠実で、一生懸命に、広布の組織活動をしている人こそ、真の「勝利者」である。信心の活動をしない人は、本物の信仰者ではないし、諸天の絶大なる加護はない。人生の勝利者とはなれない。こう申し上げて、皆さまのこれまでのご苦労に対する感謝と敬意を表してのスピーチとしたい。

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