Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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スウェーデン文化会館がオープン ″仏法カレッジ″の優等生に

1989.6.3 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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2  近隣・礼儀・友情を大切に
 きょうは、お祝いの日である。本来ならば、ゆっくりと楽しく過ごしていただきたいとも思う。しかし、スウェーデンは初訪問であり、何点か、基本的なことについて、所感を申し上げておきたい。第一に「近隣を大切に」ということである。人間は誰もが、一人で生きているのではない。互いに共同体の中の存在である。配慮し合わなければならない。それが当然のルールである。自分の権利や都合のみを主張するのでは、社会人として失格である。
 いわんや御書には「仏法と申すは道理なり」と仰せである。仏法をたもった私どもは、最も道理をわきまえた、最高に良識豊かな人でなければならない。
 自分の家の近隣はもちろん、大勢の人が集う会館の地域の方々にはとくに、こまやかな配慮と礼儀が絶対に必要である。出会った時の、さわやかなあいさつ。ご迷惑をかけたり不安を与えたりしない細心の心配り。それらをていねいに積み重ねてこそ、仏法への共感の思いも広げていくことができる。また真実の意味で、会館が″地域の幸の城″になることができる。
 どこまでも人間同士の信頼感が根本である。独善的であってはならない。「信仰している人たちは、さすがである」と、人々が安心し、称賛しゆくところに、事実の上で、地域の広布の流れもできあがっていくことを忘れないでいただきたい。
 反対に、お会いしても、会釈えしゃくの一つもせず、夜遅くまで大きな声をたてたり、早朝や深夜の電話の音、出入りの音、車やバイクの騒音などで、いやな思いを与えていたのでは、もはや社会規範に反するといわざるをえない。また路上でのおしゃべりや、タバコの吸いガラなども注意しなければならない。
 たとえ、どんな立派なことを言い、また価値ある運動をしたとしても、むしろ人々は、そうした身近な振る舞いのほうで判断するものである。これは日本においても、各国においても同様である。これまで、ずいぶんそうした面で、広布の前進が遅れた場合があった。
 仏法の「経」の字には、広くいえば、一切衆生の生命の表現、すなわち私どもの一切の言動という意義が含まれている。誰もが自分の「言葉づかい」「振る舞い」によって、それぞれの経を読んでいるのである。
 南無妙法蓮華経は最高の「経」である。ゆえに無上の経を持った私どもの言語・行動も最高のものへと洗練され、磨かれていかねばならない。
3  第二に「自国の文化・風習等を尊重しなければならない」ということである。
 日蓮大聖人の仏法は、宇宙大の仏法であり、全世界の人々を平等に照らしゆく大法である。″日本の宗教″ではなく″人類の宗教″なのである。ゆえに、妙法を受持した私どもも、日本一国の文化や考え方、言葉などにとらわれる必要は絶対にない。
 いうまでもなく「信心」という一点は厳格でなければならない。その上で、スウェーデンにはスウェーデンの文化があり、伝統がある。歴史の中でつちかわれてきた風俗・習慣がある。仏法の根幹と反しないかぎり、それらを尊重することは国民として当然のことである。
 まして、そうした面で、いたずらに争ったり、かたくなで偏狭な印象を与えてしまったのでは、仏法の広大な精神とは違ったいき方になる。
 仏法を根本として、その国の世法と国法を厳然と守り、誰からも信頼され、安心される″良き市民″″良き国民″であっていただきたい。
 現在のところ、広宣流布が現実には日本から始まったため、日本流の文化や形式が、前面に出ている場合がある。また日本人の幹部が、それらを押しつけていることを自覚していない場合もあるであろう。そうしたことに関しては、現地の皆さま方が、心から納得できるよう、最もよき方向性を相談し、改善していっていただきたい。
4  第三に「弘教を焦ってはならない」ということである。
 大聖人の仏法は「文底下種の仏法」である。自らが題目を唱えつつ、広く仏縁を結び、妙法に触れさせていくところに、修行の根本もある。したがって相手が信仰するかどうかは、また別の問題である。法を聞かせる「聞法下種もんぽうげしゅ」も、御本尊を受持させる「発心下種ほっしんげしゅ」も、ともに、まったく同じく、立派な弘教である。功徳にも何の変わりもない。
 まして「謗法の国」である日本以外は、みな「無智の国」である。人類の多くは、まだ、この大法の教義も、名称をも知らない。その人々の心に、「妙法の種子」すなわち幸福と平和への種子を植えていくのが、私どもの使命である。そのさい、私どもが友人と親しく交際し、誠実に心を通わせていくならば、それ自体が仏縁につながる場合がある。また、その人々の幸福を祈っていくことが大事であり、ある時には自然のうちに、わが下種仏法の話をすることもあろう。
 しかし、決して、信仰のことで論争したり、無理をして互いに感情的になったりしてはならない。どうしても信仰させてあげたいという真心は真心として、あせったり、窮屈きゅうくつに考えることは誤りである。一度結んだ仏縁は、時を得て必ず。芽を出し、花開いていくからである。
 スウェーデンについて言えば、人口も少ないし、むしろ私は、なるべく少ないほうがよいとさえ思っている。きょうも、こんなにたくさんの方が来られて、正直いって驚いた。これ以上、集まったら、せっかくできたばかりの会館に入りきれない。また新しく建てる予算もない。
 それはともかく、将来、大樹と育つためには、今はじっくりと、″良き人″と″良き人″の集いで固めていったほうがよいのではないかと提案しておきたい。
5  有意義にして遊楽の人生を
 先日、私はオックスフォード大学を訪問した際、サマービル・カレッジを訪れた。同カレッジはオックスフォード大学で最初の女子のカレッジであり、百十年の歴史をもつ。「十九世紀科学者の女王」とうたわれたメアリー・サマービルにちなんで名づけられ、女性の高等教育に先駆的な働きをしてきた。
 インドのインディラ・ガンジー前首相、イギリスのサッチャー首相も、ここの出身である。その他、多くの文化人等を社会に送り出している。女性のカレッジらしく、ゆったりとした、家庭的な環境であり、温かい友愛に満ちた雰囲気を大切にしている。
 この世界的なサマービル・カレッジも、じつは、創立当時の学生数は、わずか十三人であった。
 人数が問題なのではない。大切なのは「人」である。オックスフォード大学も、むしろ少人数しか入れないからこそ価値がある。かりに誰でも入れるなら、権威も格式も落ちる一方であったにちがいない。素晴らしき人材を選んで入学させ、さらに磨いて卒業させたからこそ、年とともに、世界の一流校として発展してきたといえる。
 わがスウェーデンの友も、いわば「スウェーデン仏法カレッジ」の学生といってよい。このカレッジを、入学するのは容易ではないという名門校にしたい。これが私の提案である。
 もちろん、不幸の人に広く手をさしのべるのが仏法の慈悲の精神ではある。それはそれとして、将来の大発展のために、今はじっくりと足元を固めながら、人々がうらやみ、あの「仏法カレッジ」に、何とか入りたいものだ″と自ら求め望んでくる時代をつくるぐらいの誇りと慎重さと格式をもっていきたいものである。
 ゆえに、皆さま方はまず、一人のこらず、幸福と成仏への「仏法カレッジ」の学生として、伸び伸びと、朗らかに、また仲良く、行学の前進をしていっていただきたい。
6  オックスフォード大学を訪問した際、私は光栄にも同大学のボードリアン図書館から「終身名誉館友」の証を受けた。
 オックスフォード大学といえば、同大学の卒業生で、日本を訪れ活躍した人も数多い。詩人ブランデン(一八九六年〜一九七四年)も、その一人である。ブランデンは、青年時代、東京大学で、英文学の教鞭きょうべんをとっている。それは大正十三年(一九二四年)から昭和二年(一九二七年)の三年間であった。この間、彼がいかに日本の学生たちを慈しみながら、真摯しんしに教え、導いたか。このことは、後に、数多くの教え子が、限りない敬愛と感謝の思いを込めてつづっている。
 ブランデンは日本を去ってイギリスに帰国するさい、次のような、惜別の一詩(大意)を教え子たちに贈っている。
 「私は、諸君が学業の重荷を負いながらも熱心なまなざしを輝かせて、想像の世界をしたい、驚嘆のほほえみを私に向けつつ、頼りにならない案内者(彼は赤心を傾けている諸君の声を海のかなたまで運んでいくのであるが)、その案内者について来てくれたことを思い出して、諸君の魂の健やかさのために、いつも祈るつもりでいる」(『斉藤勇著作集 第六巻』研究社出版)
 日本の教え子たちは、彼のことを繰り返し、繰り返し懐かしみ、語りついだ。それが、また日本の英文学研究の一つの触発ともなったといわれる。
 まことに教育のえにしは、国境を超え、民族を超えて、黄金の輝きを放ちゆくものだ。
 しかし、仏法の縁は、それ以上に深く、強い。三世永遠に薫りゆくのである。ゆえに、私は、とくに若き青年たちには、全力を尽くして、語り、指導していきたいと思っている。何よりも青年の成長は、スウェーデンの発展と繁栄の原動力となると信じているからだ。
7  御書に「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」と仰せである。
 御本尊に、南無妙法蓮華経の題目を唱えていくところに、最高の幸福境涯が開かれていくとの御文である。これ以上の楽しく、充実した生命、人生はない。
 人生模様は、苦楽の糸で織りなされている。豊かな財産があっても病気で苦しんでいる人もいる。健康に恵まれていても、家庭的に不幸な人もいる。人それぞれ、自分ではどうしようもない苦しみや宿命をもっている。
 また、人生には無常の風が吹く。楽しみが永遠に続くわけではない。たとえば行楽に遊んでも、帰路につけば疲れと空しさが広がることも多い。楽しかった結婚も、時とともにいさかいが芽ばえ、離婚という破局もある。一切は変化し、無常の風をさけることはできない。
 その変化と無常のなかに、力強くきいずる泉のごとく、常住の遊楽の境涯を開いていけるのが妙法である。
 また、「スウェーデン」という一語には、国王をはじめ全国民も、あらゆる建物も、一切の湖や町も、スウェーデンのすべてが含まれている。
 と同様に「南無妙法蓮華経」の題目は万法の体であり、一切の法則、学問、経教が包含されている。題目を唱えることによって、万般に通じゆく自在の境涯を「不求自得ふぐじとく」、求めずして自ら得ることができるのである。
 あとは強盛な信心を貫いていけばよい。必ず成仏という永遠に崩れない絶対的幸福を築いていくことができる。したがって、どのような苦しみや困難があっても、題目だけは、唱え続けていっていただきたい。
8  ところで、スウェーデンでは「六月六日」が一九一六年以来「国旗の日」として祝われており、一九八三年には正式に「ナショナルデー」(建国記念日)となっているとうかがった。
 この「六月六日」は、奇(く)しくも創価学会の初代会長である牧口先生の誕生日であり、本年で生誕百十八年を迎える。
 スウェーデンでは、一五二三年に建国の父といわれるグスタフ・バーサ王が王位についた日にあたる。私は明後日、グスタフ国王を表敬する予定であり、その折には国家にとり、また王家にとって最も大切なこの日を心から祝福申し上げ、礼を尽くしてまいりたい。
 最後に、きょうお集まりの方々全員が、この「成仏」と「人生の幸福」への″仏法カレッジ″の優等生となっていただきたい。また、スウェーデンの歴史の先駆者として名を残していただきたいと念願し、「タック(ありがとう)、タック、タック」と申し上げて、本日の″開講式″の講義と開館記念のスピーチを終わりたい。

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