Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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イギリス広布28周年代表者会議 「蘇生」と「歓喜」と「希望」の前進を

1989.5.24 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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2  かつて貴国の青春詩人キーツはうたった。
   英国は幸せだ! この国ほど豊かなみどりは
  どこにも 心ゆくまでは見られないと思う。
  崇高なロマンのかおる 大きな森の
  木立に吹くほどのそよ風も 他国には感じられないと思う。
  (『キーツ全詩集1』出口保夫訳、白鳳社)
 キーツは、祖国の豊かさ、美しさを率直に、愛情を込めてうたいあげている。
 イギリスは、豊かな自然に恵まれた風光明美の天地である。とくに、この五月のイギリスは、生きとし生けるものすべてが躍動している。緑とそよ風が、ひときわ心地よい。私は、この季節を、世界で最も美しいと感じている一人である。これまでの訪問の多くは五月であったが、まことに幸運であったと思う。
3  今は、花も美しい。ここタプロー・コートには、婦人部の皆さま方が丹精込めて育ててくださった花々が一斉に咲き乱れ馥郁ふくいくと香っている。今まさに、わがイギリスの同志も、季節にたとえれば、歓喜と若さと向上と希望みなぎる五月のごとき、時を迎えたと、私は申し上げたい。皆さまには、偉大なる発展の未来が開けている。
 イギリスでは″三月の風と四月の雨が、五月の花を連れてくる″というとうかがった。まことに妙なる天然の調べである。
 法華経には「人華にんげ」という美しい言葉がある。法華経「薬草喩品」に「仏の所説の法はたとえば大雲の一味の雨をって人華にんげうるおしておのおのることを得せしむるがごとし」(開結二九二㌻)と。
 ――仏が説く法は、たとえば大きな雲が、同じ味の雨によって、平等に人華(人間の花)を潤し、それぞれに実を結ばせていくようなものである――。
 人生には、さまざまな花がある。「富」の花や、「名声」の花にいしれる人も多い。「権勢」の花や、「安逸」の花におぼれる人も少なくない。しかし、それらの花は、無常の移ろいをまぬかれることはできない。また、自己満足の閉ざされた喜びで消えさってしまう場合も多い。いくら華やかであっても、虚飾にいろどられたものは、決して長続きはしない。人生の深き価値の結実もありえない。
 だが、たとえ地味であっても、正しき信仰に徹していく中で咲かせた、我が生命の「花」は、何ものにも侵されることはない。永遠にして尊極なる成仏の境界へと、必ず実を結んでいく。三世永遠なる幸福の実をつけることができる。そして、それは、自分のみにとどまることなく、民衆の大地に、「蘇生」と「歓喜」と「希望」の種子を、限りなくき、広げていくことができるのである。
4  仏法流布の国土で楽しく使命の人生を
 日蓮大聖人は、次のように説かれている。
 「春の時来りて風雨の縁に値いぬれば無心の草木も皆ことごとく萠え出生して華敷はなさき栄えて世に値う気色なり
 すなわち、春という″時″がきて、風や雨の″縁″にあえば、無心の草木も、皆ことごとく萌えいでて、花も咲き栄え、時を得るのである。
 「秋の時に至りて月光の縁に値いぬれば草木皆ことごとく実成熟して一切の有情を養育し寿命を続き長養し終に成仏の徳用を顕す之を疑い之を信ぜざる人有る可しや
 ――秋の″時″に至り、月光の″縁″にあえば、草木は皆ことごとく実がれて、一切の有情(動物等)を養育し、その寿命をばして長く養い、ついに成仏の徳用をあらわしていく。こうした事実を信じない人があろうか――。
 「無心の草木すら猶以て是くの如し何にいわんや人倫に於てをや、我等は迷の凡夫なりと雖も一分の心も有り解も有り善悪も分別し折節を思知る
 ――無心の草木ですら、なおこの通りである。いわんや人間においては、なおさらである。我らは迷いの凡夫であるとはいっても、一分の心もある。理解力もある。善悪をも分別し、時節を考え知ることもできる――。
 つまり、草や木でさえ時のリズムにしたがい、縁に触れて、花を咲かせ、実をつける。さまざまな生きものをも養っていく。このように、生命が″華と開き、″実″を結び、慈悲の働きをしていくのが、自然と宇宙の本然の姿である。人間もまた、″生命の華″″生命の結実″を、実現しなければならない。
 大聖人はさらに続けて、こう仰せである。
 「しかるに宿縁に催されて生を仏法流布の国土に受けたり善知識の縁に値いなば因果を分別して成仏す可き身を以て善知識に値うと雖も猶草木にも劣つて身中の三因仏性を顕さずして黙止もだせる謂れ有る可きや
 ――しかも、宿縁がもよおすところ、生を仏法流布の国土に受けたのである。(正法に人を近づける)善知識という″縁″にあえば、因果をわきまえて、成仏できる身である。それなのに善知識にあっても、草木にも劣って、我が身の(正因・了因・縁因の)仏性を顕すことなく、そのままにしてしまう理由があるのであろうか(ないはずである)。
 すなわち、生命の法にしたがって、すみやかに成仏しなさい、それができるチャンスを見のがすのでは、あまりにかわいそうである、との大慈悲のお言葉と拝される。
 私には、この御文は、大聖人がイギリスの「仏子」であられる皆さま方に、直接語りかけてくださっているようにも感じられてならない。
 我がイギリスの天地は、まぎれもなく「仏法流布の国土」である。この「広宣の城」タプロー・コートは、その何よりの証明といってよい。
5  「よき友」はみな善知識
 なお大聖人は、ここで「善知識がいかに大切であるか」について、示しておられる。
 妙法が根本であることは当然である。その上で、正法に導く善知識がなければ、成仏は難しい。現実的には不可能である。
 私どもの「励まし合いの同志」、そして正しき信仰の軌道にのるための「広宣流布の組織」は、この大切な善知識の存在なのである。
 誠実な我が「同信の友」は全員が互いに善知識である。機構上の役職の違いや先輩・後輩の関係はあっても、御本尊の前には、まったく平等である。だれが上とか下とかということは絶対にない。
 それぞれの立場で、互いに成長を祈り、仲良く励まし合っていく。固く手を取り合って「永遠の幸福への道」に人々をいざない、ともに無量の功徳を受けていく。善知識とは本来、「よき友」を意味するが、私どもは互いに、そうした真実の「よき友」でありたい。
6  また、その上で、リーダーには、やはり大きな責任がある。皆が楽しく、伸び伸びと信仰し、活躍できるように、心をくだき、尽くしていかねばならない。
 いずこの世界にあっても、リーダーには、ともすれば皆を上から規律でしばろうとする傾向性がある。しかし、仏法の世界は、そうであってはならないと思う。
 とくに、このイギリスは「レディーとジェントルマン」の国で、何ごともきちっとしている。その伝統は素晴らしい。しかし、たとえば、どんなに暑くても窓も開けないで、汗を流しながら我慢しているというのでは価値的ではない。何ごとも、より快適にし、皆が喜びと安心をもって活動できるようにしていくことが価値創造に通じる。形式ではなく、その場、その時に応じて自在に知恵を使っていけばよいのである。
 また、リーダーが、そのように皆のために真剣に心を配っていく時、リーダー自身の生命におおいなる成長の広がりがもたらされていく。
7  大切な信心の「心」
 大切なのは「心」である。勤行・唱題も子供が親を慕うような、ありのままの自然な心、まっすぐな祈りと願いが、そのまま御本尊に通じ、感応していく。
 例えていえば、家庭であれば、一言「グッド・モーニング」「グッド・イブニング」等と、あいさつを交わすだけで、心が通じる。
 そのように、たとえ一遍の題目であっても、そこに込められた「仏子」である私どもの信心の「心」は、御本尊に必ず通じていく。まして真剣に唱題を重ね、勤行していく時、その功徳は無量である。
 ゆえに、必要以上に形式にとらわれて、窮屈きゅうくつな信仰生活になることは賢明ではない。
 疲れていて早く休んだほうがよい場合や、どうしても時間がない場合もある。その時は方便品・自我偈じがげのみの勤行でも、また唱題だけであっても、決して、「罰を与えられないか」等と心配する必要はない。
 もちろん、仏道修行であるゆえに、″さぼってもよい″と言っているわけではない。要は、少しでも多く、また深く、御本尊を拝し、唱題していこうという「信心」があればよいのである。その「心」は必ず、形となって現れ、真剣な実践の姿となっていく。
 ともあれ、イギリスの皆さま方は、正しき信心の王者の道を、おおらかに、朗らかに、悠々ゆうゆうと前進していっていただきたい。
8  さて、恩師・戸田先生は、あるとき、このように言われていた。
 ″大木になる木も、一日や一月ではたいして伸びることはない。しかし、長い目で見ると、いつとはなしに堂々たる大樹に育っている。これと同様に、大聖人が仰せのごとく末法の功徳は冥益みょうやくである。信心も、一つの節として七年くらいは続けてみなければわからない。本当によくなってくるのは十五年あたりからである″――と。
 子供も、最初から大きいわけではない。乳幼児から次第に成長し、十五歳くらいになると大人と変わらないくらいに大きくなる。妙法の功徳も、また同様である。
 着実に福運を積み、自然のうちに生活も向上し、幸福に満ちた人生が築かれていく――これが冥益である。
 また、一生成仏のための信心である。ゆえに、絶対にあせる必要はない。着実に、たゆみなく、持続していくことが大事なのである。長い目で見ていけば、たとえ途中で、苦難の山やあらしがあったとしても必ず幸福の軌道に入っていくことは間違いない。それを確信して、自分らしく堅実な前進をお願いしたい。
 十五年といえば、コーストン理事長が、広宣流布の使命を胸に秘めてイギリスに帰国して今年で十五年。これも不思議な一つの節目といってよい。コーストン理事長は、この十五年間、イギリスをみずからの広布の舞台として、見事な信仰の実証を示された。まことに立派な″模範のリーダー″である。
 どうか皆さま方も、それぞれの使命の舞台にあって、三世にえある幸福の人生を築き、正法正義の輝く証明者としての道を歩んでいただきたい。
 ともあれ、ここ「タプロー・コート」を中心として、二十一世紀のイギリス広布の土台を、皆さま方の力で築き上げていただきたい。そして、楽しく、永遠の思い出を刻み、永遠の福徳を積みながら、この「哲学の城」に世界一の常楽の″人華にんげの園″を爛漫らんまんと飾りゆかれんことを念願する。皆さま方の、ますますのご多幸とご長寿、ご活躍を心から祈って、私のスピーチを終えたい。

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