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日蓮大聖人・池田大作

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第十七回本部幹部会 新しき創造には強き心を

1989.5.16 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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1  挑戦と応戦に人類発展の歴史
 皆さま方の異体同心の強く美しき団結によって、晴れがましい「五月三日」を堂々と迎えることができた。私は、ここにつつしんで皆さま方に感謝申し上げたい。
 イギリスのトインビー博士(一八八九〜一九七五年)のことは、何度かお話ししたが、やはり「今世紀最大の歴史学者」と呼ばれるにふさわしい、ひときわ傑出けっしゅつした、現代を代表する知性であった。
 博士と私との対談は、一九七二年(昭和四十七年)の五月五日から九日まで、そして翌年の五月十五日から十九日までと、二年越し十日間、四十時間以上にわたり行われた。
 その数年前から、「ぜひ、お会いしたい」との連絡を受けていた。博士は高齢のため来日は難しいとのことで、若い私のほうが、ロンドンを訪問した折に、博士の自宅でお会いすることになったわけである。
2  さて、トインビー博士の歴史学上の貢献は、きわめて大きい。未来にも、いよいよ光を放っていくであろう。では、その根本となる理論は何か。
 その一つが、有名な「挑戦と応戦(チャレンジ アンド レスポンス)」の概念である。
 人類史における文明の発生そして成長。これらは、「自然」からの、「他の人間社会」からの、そして「自己自身」からの、ありとあらゆる「挑戦」を受け、それに「応戦」しゆくところに実現したというのである。
 さまざまな「戦い」に次ぐ「戦い」。それが歴史であり、人類発展の根源の力である。ここに博士の洞察どうさつがあった。
 「挑戦と応戦」のリズムは、じつは生命それ自体の律動りつどうでもある。
 たとえば人体も、有害な細菌の侵入という「挑戦」に対して、抗体をつくるなどして「応戦」する。それによって、免疫めんえきができ、生命の適応力をより強める。
 反対に、応戦に失敗した場合は、病気そして死へと向かわざるをえない。これは個人においても、団体、国家、諸文明、人類そのものについても同様である。あらゆる生命体の基本的な法則といってよい。
 博士以前の西欧では、いわゆる「科学的」を標榜ひょうぼうする機械論的歴史観が優勢であった。しかし博士は、それらを用いず、意識的に遠ざけた。
 歴史とは人間自身がつくるものである。また、人間を通して、宇宙の大いなる生命が表現される舞台である。――博士の歴史観は、きわめて「生命的」であり、生きた歴史のとらえ方であった。
3  ところで、博士はこの「挑戦と応戦」という着想を、どこから得たのか。
 博士自身が書いているところによれば、それはゲーテの詩劇『ファウスト』からであった(『歴史の研究』第二部「文明の発生」および『試練に立つ文明』)。
 すなわち『ファウスト』の物語が始まる前、その前提として置かれた「天上の序曲」において、神と悪魔(メフィストフェレス)の対話が行われる。悪魔が神にいどんで、ひとあわ吹かせようとたくらむ場面である。
 ゲーテのいう神と悪魔とは、生命の究極の「善」と「悪」の象徴であろう。彼は超越的な人格神の概念には、むしろ否定的であった。その意味で仏法における仏と魔との戦いにも通ずる面をもっている。
 ともあれ、悪の「挑戦」と善の「応戦」、そこに博士は人類の全歴史を貫く基本の姿を見た。
 博士によれば、神(善)はあまりにも完全であり、あまりにも充足している。そのためじつは、悪魔からの挑戦を受けなければ、行き詰まっていたであろう。悪に応戦することによって神(善)は行き詰まりを脱し、新しい創造の歩みを可能にした。これが博士の『ファウスト』観であり、ここから博士は、文明の発生と成長を説明する法則を見いだした。
 すなわち何も起こらない、いわゆる″天国″そのもののような世界では、刺激もなく、創造的生命も発揮されない。さまざまな出来事があってはじめて、個人の成長も充実もある。また人類の発展と進歩もある。
 自然にも春秋があり、暑熱の時も、寒風の時もある。一日にも昼夜があり、すべて変化の連続である。その変化に応ずることによって、知恵もわき、楽しみも文化も生まれてくる。
 何の「挑戦」も受けない、平々凡々たる無風の世界では、みな惰性だせいとなり、退化していくほかはない。
 かつて読んだアメリカの小説に、何もかも満ち足りたら人間どうなるかという話があった。結論は、まるで″能面″のような無表情の、生けるしかばねのような動物になってしまうだろうと。印象深く、今も記憶に残っている。
4  戦いなくして偉大な歴史なし
 広布の世界においても同じである。何ごとも起こらず、のんびりと順風に次ぐ順風満帆まんぱんで進んだなら、何の成長もない。皆、日なたぼっこしているみたいに、ボーッとして、弱々しく、何の向上の喜びもないにちがいない。
 あらゆる挑戦に懸命に応戦していく。そして一歩前進し、より大きな挑戦を受け、また伸びていく。この繰り返しに広宣流布がある。
 挑戦と応戦の遭遇そうぐう戦――その激しい衝突しょうとつのなかから「創造の火花」がほとばしる。鉄が熱せられ、たたかれてきたえられるように、皆、賢明になり、力をつけ、人材も出てくる。
 厳しい試練をけ、指導・忠告をも避けて、安楽な方向へばかり向かったなら、もはや転落と滅亡への一途である。
 堂々たる戦いに次ぐ戦い、成長に次ぐ成長。これが日蓮大聖人の仏法の実践であり、真実の「幸福」もここにある。
5  トインビー博士はまた、挑戦に挑戦が重ねられ、一つの文明、民族が苦しむ時、その苦しみに鍛えられて、偉大なる「宗教」が生まれ、広がっていく。そこから新しく文明が再生していくと論じている。つまり、「悩みを通して知恵へ」。これが博士の歴史観の根本命題であった。
 それは、短期的な経済・政治・流行等の変化の次元とは異なる、より長き、人類史全体の基本の次元にかかわる理論である。本日は、その文明論的意義について論じるつもりはない。
 現在、学会が、さまざまな経験と試行錯誤しこうさくごを重ねながら、苦しみ悩みつつ、すべてに「応戦」し、勝利していく時、その繰り返しのなかに、世界宗教を流布しゆく団体としての現実の力量が一段と練られ、鍛えられていく。現在の経験が、すべて、長き将来への教訓となり、栄養となり、かけがえのない力になっていくのである。
 その意味からいえば、あらゆる出来事は、すべて発展への善知識である。悪知識をも善知識に変えるのが妙法の力であり、一切を″喜び″に変え、″追い風″に変えるのが信心の一念の力である。
 また、経験という点では、内外のさまざまな人と「会い」「対話」しゆくところに、自分も磨かれ、広布も進んでいく。何らかの異なる世界との″出会い″″打ち合い″がなくなれば、個人も団体も衰弱すいじゃくしていくだけである。
6  信心の大道に生きぬけ
 ここで御書を拝したい。かって何度となく拝し、語り合った御文である。
 建治三年(一二七七年)五月十五日、十九歳の南条時光に送られたお手紙に、大聖人は、こう仰せである。
 「ただをかせ給へ・梵天・帝釈等の御計として日本国・一時に信ずる事あるべし、爾時我も本より信じたり信じたりと申す人こそおほくをはせずらんめとおぼえ候
 すなわち「ただをかせ給へ」とは、さまざまなことがあっても、ともかく放っておきなさい、との御指導である。
 当時は、熱原法難の前兆の時である。内外にわたり、策略や転落の姿が、青年・時光の身辺にも激しくうず巻き始めていた。そうした動きに対して、大聖人は、一々、かまうことはない、達観していきなさいと仰せである。
 そして「梵天や帝釈天等のおはからいとして、日本国の人々が一時に信ずることが必ずある。その時になって、″私も、もともと信じていました″″私もそうです″と言い出す人が大勢でてくるであろう」と、予見なされている。
 状況が悪い時は一緒に悪口を言っていても、やがて時がくれば、自分もじつは信じていたんだと言ってきますよ、と。
 大聖人は、このようにして時光の胸に大いなる希望のにじをかけてくださったのである。
 小さなことで一喜一憂する必要はない、その場しのぎの弁解も無用である。強き一念で一切をはじき返し、凛々りんりんたる勇気を五体にわきたたせていきなさい。まっすぐに信心いちずに進んでいきなさいと。
 この激励をうけ、時光は青年らしく戦い切った。その姿をはんとしつつ、私は青年部諸君に「万事、よろしく」と強く申し上げておきたい。
7  大聖人はまた、父からの信仰圧迫に苦しむ池上兄弟に対して「兄弟抄」を送られた。その中で、徹底して強気で戦っていくよう教えられている。
 「今度うしくらして法華経の御利生心みさせ給へ、日蓮も又強盛に天に申し上げ候なり」――今度(この難を)耐え忍び抜いて、妙法のお力をためしてごらんなさい。日蓮もまた強く諸天善神に申し上げましょう――。
 「いよいよ・をづる心ねすがた・をはすべからず」――いよいよ恐れる心根や姿があってはならない――。
 「例せば日蓮が平左衛門の尉がもとにて・うちふるまい振舞・いゐしがごとく・すこしも・をづる心なかれ」──たとえば日蓮が平左衛門尉のところで、堂々と振る舞い、言ったように、少しも恐れる心があってはならない──と。
 親に責められ、師である大聖人の悪口をされ、兄弟もどんなにか苦しく、悔しい思いをしていたことか。その心をくみとられたうえで、大聖人は、いささかも、恐れぬ心で、大聖人の弟子らしく、大確信をもち、忍耐強く戦いなさい、応戦していきなさい、と仰せである。
 また、大聖人は「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」──日蓮の弟子等は、憶病であってはならない──とも御指南されている。
 グチも嘆きも恐れもない、晴れやかな、強気の信心、勇気の一念。そこにこそ、妙法の偉大な功力は涌現ゆげんする。
 強くなければ、真の功徳は味わえない。私も、あらゆる障害に一歩も退かず、正法を守り、学会を守った。ゆえに御本尊から、偉大なる功徳を頂戴した。ありがたきかぎりである。
8  人生は確信である。強き信念なき人は、人生の醍醐味だいごみを味わうことはできない。
 私は昨日(十五日)、国立モスクワ児童音楽劇場の総裁であるナターリヤ・サーツ女史の来訪を受け、旧交をあたためあった。女史は今年で八十六歳。今なお″現役″で、はつらつと世界的活躍をされている。
 女史もスターリン粛清しゅくせいの暗黒時代に五年間投獄され、十八年間の長きにわたって自由を束縛そくばくされるという試練を経ている。それでも、いささかたりともせつげない。芸術への夢と活動を捨てていない。
 日本にも、信条や立場の違いは別にして、このような偉い人はいる。それを思う時、私どもはまだまだ成長し、いよいよ強くならねばならないと思う。
9  大聖人は、また「身つよき人も心かひなければ多くの能も無用なり」──身体の壮健な人も、心が弱く、おろかであれば、多くの能力も役に立たない──と仰せである。
 体だけ頑健がんけんであればよいというものではない。個人にあっても、自分の持っている「能力」「力」を使い、生かしていくのは「心」である。「心」いかんでその人の能力も、よいほうに、有意義にと働いていく。その「心」の根本が″信心の心″である。
 これは広布の組織においても同様である。たとえ立派な組織があったとしても、それを動かす信心の「心」「たましい」がなければ、力は存分に発揮できない。その「心」とは、具体的には″指導者の一念″である。つまり″長の一念″で、その組織のすべては決まってしまうのである。
 この御文に続けて大聖人は、次のように述べられている。
 「日本国には・かしこき人人はあるらめども大将のはかり事つたなければ・かひなし」──日本の国には、賢い人(人材)はあるのだろうが、大将の指揮がつたないので、(それらの人々も)役に立たない──と。
 ゆえに、「能く能く心をきたはせ給うにや」──よくよく心を鍛えられたのであろうか──と仰せのごとく、各地のリーダーたる皆さま方は、何よりも信心の「心」を鍛えていただきたい。
 信心は「仏」と「魔」との戦いである。この「挑戦」と「応戦」のせめぎ合いの中で、信心の「心」は、磨かれ、鍛えられていく。その戦いの中に、限りなく勝利を開きゆく源泉がある。栄冠の自分史をつづりゆく原動力がある。
10  またイギリスのことわざに「本当の青には、しみがつくことはない」とある。
 「青」は、イギリスでは清潔、正義感を表すともいわれる。そのためか、国旗のユニオンジャックにも「青」が使われている。
 このことわざでは、青は″色あせることのない染料″と″こころざしを曲げない人″との意味を表している。つまり、自分の志を曲げず、信念のままに一途に生き切っている人は、いかなる誘惑や妨害があっても、決して悪の道に染まることはない、との意味になろう。
 信念に生きる人は強い。心にたるみがない。少々の苦難や誘惑などはじき飛ばす勢いがある。信念や志がない人生は、いつしか心の張りや勢いを失ってしまい、安逸あんいつに流され、悪の道へと取り込まれてしまう。とくに悪世末法の現代では、そうした人生の落とし穴におちいりやすいものだ。
 その意味で、信心の大道に生き、広布の大願に立った人生ほど、価値ある幸福な生き方はないと、私は申し上げておきたい。また、学会の指導・激励は、その確かな人生行路への羅針盤らしんばんともいえるし、学会の組織は、荒廃こうはいと不幸の波浪はろうから人々を守りゆく安全へきになるのである。
11  リーダーの魂は不抜の信念に
 さて話は変わるが、先日、SGI(創価学会インターナショナル)の公認通訳(英語)の方たちとイギリスのサッチャー首相について、いろいろ話し合う機会があった。その話の内容を、ここで少々、紹介したい。
 皆さま方もご存じのように、サッチャー首相は、本年五月四日で、就任十周年を迎えた。私も名誉会長に就任し、今年で満十年の節を刻んだが、サッチャー首相は英国初の女性首相であり、一七八〇年以来、十年以上の長期政権としては、歴代四人目となる。
 サッチャー首相の人生観、人間観には、父アルフレッド・ロバーツ氏の影響が大きいといわれている。
 氏は、中部イングランドのグランサムで、小さな食料品店を営んでいた。そして若くして市議会議員となり、後に市長にまでなっている。熱心なキリスト教の信者であった。彼は、いわばたたきあげの人で、慎重な倹約家であった。しかし「あれほど、本を読む人を見たことがない」と、後にサッチャー首相が語っているほどの読書家であった。
 父・ロバーツ氏は、サッチャー女史が首相になる丁度十年前に亡くなっているが、彼女が首相就任の際「私は、ほとんどすべてを父に負っています」と語っているほど、父親の恩への思いは深い。
 家でのしつけは厳格だった。とくに、物事を途中で投げ出そうとしたり、あきらめの弱い心を起こすことには厳しかった。また「義務の遂行を徹底してたたき込まれた」という。
 「父親に何を学んだのですか」とインタビューでたずねられたサッチャー首相は、次のように答えている。「それは高潔さです。父が教えてくれたのは、まず信じることを明確に整理し、次にそれを実行すること。そして、重要な点では妥協だきょうしないことでした」(Hugo Young, One of Us )と。
 流行に流されず、頑固がんこなまでに、自分の意見を持ちなさい。そして、いったん決意したら、だれが何と言おうとやり抜きなさい──これが父親から教えられたことであり、また、誇りともしていることであるという。
 サッチャー首相の政治姿勢にも、こうした不屈の信念と不退の魂を、随所に垣間かいまみることができる。それが彼女の強さであり、偉大さである。
12  ロバーツ氏は、自身が十三歳までしか学校に行かなかったためか、サッチャー女史には、良い教育を受けさせようと決意していたようだ。
 彼女には、小さいころからピアノを習わせ、図書館に通わせ、良い学校に入れることを考えた。そして、オックスフォード大学に入学が決まると、言葉のなまりを直させるために、発音矯正きょうせいの特訓まで受けさせている。イギリス社会では、言葉の発音がきちんとしているかどうかは、重要な意味をもっていたからである。
 父のもとで、サッチャー女史は、厳しい現実の訓練をうけた。そのためか、幼いころから勤勉な努力家として、彼女は育っている。こうした父親の訓育に対して、「父は、自分の大望を、私に託したのだと思う」と、彼女は、後に語っている。
13  また、サッチャー首相は、どのようにして、政治家への道を歩みはじめたのか。
 彼女は、市議会議員であった父親の影響を受け、高等科時代に、すでに選挙、法律、政治への興味をいだいていたという。また幼少時代の生活環境から、自然のうちに政治への道を志していたようである。
 学校では、ずば抜けて優秀というわけではなかったが、努力家で成績は良く、とくに、討論、弁論では際立っていた。
 オックスフォード・サマービル・カレッジ時代は、化学を専攻したが、在学中から、保守党の学生組織「保守協会」の活動に熱中。卒業後も保守党の活動を続け、結婚してから、独学で法廷弁護士の資格を得ている。
14  さて、サッチャー首相は「確信の政治家」を自称し、強固な意志、信念の持ち主であると同時に、現実的で実際的な政治家である。
 それは「私の政策は、経済理論に基づいているのではなく、私同様何百万人の人々が育てられてきたものによっているのです。正直に働いて報酬ほうしゅうをもらうこと、身分相応に暮らすこと、倹約をして、いざという時のために備えること、支払い期限を守ること、警察を支持すること……などです」(英誌『エコノミスト』四月二十九日号)との言葉からも十分に、うかがい知ることができる。
 政治観の基盤を民衆の良識に求める彼女は、国家の経済を家計のやりくりと同じ原理ととらえ、「政治を、家庭のレベルで考えてごらんなさい」とも主張する。そして、ともすれば国民生活から離れがちな政治をじつにわかりやすく、身近に感じさせてくれる。
 女史はまた、自立の精神と個人の責任を強調する。
 「(=個人が責任を担うことによって)人々は成長し、成熟するのです。また家族のきずなは強まり、寛容かんようで寛大な社会を築くことになります。そして寛大な社会は、才能をはぐくみ、その努力に対するみかえりを生み出すのです」(Andrew Thomson, Margaret Thatcher )と。
 豊かな社会の建設といっても、あくまで個人個人の人間的成長が根本となるとの洞察である。
 女史はよく植樹をするが、これには「木は、力、成長、安定、時代の継続性を意味している」との考えも込められているという。
 そして「政治とは、我々の子孫のために木を植える作業です」と語っている。この言葉には、女史が政治に託す願い、心情が象徴的に表れているといえよう。
15  「誠実」「率直」こそ信頼の基本
 サッチャー首相の政治家としての特質を物語るエピソードを、いくつか紹介したい。
 首相は官邸で、自ら料理をつくり、高官らをもてなしながら打ち合わせや討議を行うという。
 英語には「キッチン・キャビネット」という言葉があり、これは大統領などの政治顧問団を意味する。サッチャー首相の場合には、キッチンで″閣議″を行う、文字どおりの「キッチン(台所)・キャビネット(内閣)」になっているともいえよう。
 一分一秒でもしい。国民のためには寸暇すんかもむだにできない。料理をしながらでも、決めるべきは決め、すぐに実行していこう──政治家としての、そうした心情の表れであろうか。
 何事も、官僚主義、形式主義におちいってしまえば、進歩はないし、発展もない。本当の指導者は、いついかなるところでもそこが戦場である。たとえ歩きながらでも、そこが会議の場となり、必死に頭をめぐらせ、心を配り、手を打っていく。
16  さて、ソ連のゴルバチョフ書記長は、現在、中国を訪問中である。中ソ両国は三十年ぶりの関係正常化という、新たな歴史の舞台に立っている。
 平和と安定への、大きな転換のドラマを目にし、私には、深い感慨がある。
 かつて、私は中国を初めて訪問した数カ月後、ソ連も初訪問した。今日の握手など、とうてい考えられない厳しい状況のさなかであった。非難も受けた。妨害もあった。
 しかし、私は″世界の平和のためには、ソ連と中国は、絶対に手を結ぶべきである。そのために、たとえ微力でも力を尽くし、行動しなければならない″との思いであった。この信条は両国の指導者にも語ってきたし、我が国のある高官にも、強く申し上げたことがある。
 また、これまで私も、両国の友好と連帯を祈りながら、民衆レベルでの文化・教育交流を進め、広く、深く、平和の土壌をたがやすために働いてきたつもりである。そして今、その願いは現実となり、友好の薫りは世界にも広がろうとしている。私にとって、これ以上うれしいことはない。
17  サッチャー首相は、ゴルバチョフ書記長との強いきずなをもつことでも、知られている。
 一九八四年十二月、チェルネンコ政権時代、ゴルバチョフ書記長は代表団をひきい、ヨーロッパを訪問した。チェルネンコ書記長死去の三カ月前のことである。
 最高首脳が会見しない国もあったが、サッチャー首相は歓迎し、「一緒にビジネスが出来る人」とゴルバチョフ書記長を評価した。二人は、互いに「言ったことを実行する人」と認め合い、共感を深めていった。
 その後、サッチャー首相が、アメリカのレーガン大統領とゴルバチョフ書記長との歴史的対話の仲介役を務めたことは、有名な事実である。
 初の出会いから、確かな信頼が生まれ、二人の強い絆は、両国はもちろん、世界にも大きな影響を及ぼすものとなった。
 人間の出会い。それは、素晴らしい歴史をもたらしてくれる。ゆえに、一回一回の人との出会いを、どこまで大切にしていくか──。それとともに、誠実に付き合うべき人と、決して付き合うべきでない人とを峻別しゅんべつすることも大切であろう。その判断の誤りは、時に致命的な結果をもたらす。
 正しい選択には、経験も必要である。そして何より、自身の胸中に透徹とうてつした誠意と信念があれば、心の鏡におのずと相手の真実が映ってくるにちがいない。
 いわんや、御本尊に唱題し、″心の眼″を磨きに磨いている私どもは、良き人は残り、悪人は去っていくであろう。これは皆さま方が実感しているとうりである。
18  サッチャー首相は、その後、一九八七年に訪ソした。そのさい、ソ連では大々的に歓迎された。そのなかで首相はインタビューに答え、ゴルバチョフ書記長の政策や人柄にふれて、書記長はすばらしい指導者であり、心から応援したいとのエールを送った。同時に、ソ連のかかえる問題にも率直に言及した。
 また、自分のことについての質問に対しては、「朝食は、ブラック・コーヒーとビタミンCだけで、昼食も軽く済ませます。おなかが一杯だと頭が回らないでしょう」と答え、さらに「私は、確かにワーカホリック(=働き中毒)だと思います」と述べるなど、その率直さ、オープンさが、ソ連国民を魅了したという。(Peter Jenkins, Mrs Thacher's Revolution )
 ゴルバチョフ書記長も、だれにでも言いたいことは言い、率直に発言するサッチャー首相について″彼女は他のリーダーと違い、十分に心が通じあい、話ができる政治家である″との印象を、ますます強めたようだ。
 政治にかぎらず、誠実と率直こそ、相互理解と信頼関係を築く基本であり、原則である。いかに飾り、装っても、下心や野心は自然に相手に伝わっていくものだ。とくに庶民は賢明であり、鋭い眼をもっている。
19  さて、サッチャー首相は、「鉄の女」といわれる。だが反面、個人としては、豊かな感受性と深い思いやりを備えた女性である。
 たとえば自信のフィンチレー選挙区に訪ねてきた少女の花束を快く受けたり、一緒に記念写真に納まったりもする。またある少年が門前払いになったと聞けば、すぐに招き入れ、カメラに納まる。多忙のなかもまことに気さくに応じている。
 しかも、このような写真やエピソードは絶対に公表させない。首相という公人の立場にあって、プライベートな部分で点数を稼ぐようなことは、信念に反するのであろう。すぐに″いい格好″をして、良く見せることを考えるどこかの政治家とは、ちょっと違うようである。
 サッチャー首相は、花をたいへん愛しているという。そんなところにも、女性らしい繊細な感性がかんじられてならない。
 慈善についても、個々人にとっても欠かせぬ道義的責任と考えているようだ。
 彼女自身、慈善の寄付を行っている。また一九八四年に、北イングランドを訪問したときには、精神障害の若い女性と知り合い、依頼、現在にいたるまで文通している。
 障害者の施設を訪ねたさいも、プールで治療を受けている子らと話すため、ひざまずき、半身がずぶぬれになっても意に介さなかった。
 しかし彼女は、このような活動も、一切公表を許さず、とくに障害者との写真を撮ろうとすると、すごい剣幕で怒るという。寄付も、すべて匿名である。
 こんなエピソードもある。二十数年前の選挙で支持してくれた婦人が、体の具合が良くないことを耳にする。すぐに彼女は、「その女性をここ(官邸)に招きましょう」と。しかし、側近が次官のむだだと思い反対すると、「私の方から会いに行くと言うべきだわ」と述べ、いっこうに譲らない。とうとう周囲も折れて、その婦人を官邸に招かれる。サッチャー首相は、二十五分間も時間を割いて、子ども、孫たちのことを語りあった。支持に対する恩義を、彼女は忘れられなかったのである。
 誠実には誠実で応える政治家の姿。それは、頼もしく、すがすがしい。
 一九七九年議事堂の駐車場で爆弾テロがあり、保守党のニーブ議員が亡くなった。彼の女性秘書、ジョイ・ロビリヤードは、故郷に帰って行った。
 ところが総選挙が終わった二ヶ月後、彼女は首相官邸に招かれた。サッチャー首相は彼女に、ニーブ夫人を終身貴族に推挙し実現したことなどを語りつつ、官邸中を案内していく。カーテンや壁紙について意見を求めながら進むと、ある部屋のドアを開けて言った。
 「ジョイ、ここがあなたのオフィスよ。私の後援者担当の秘書になってくれればと思うの……」と。
 彼女は心から感動し、現在にいたるまで、首相秘書として活躍している。
 (以上、一連のエピソードは、前掲による)
20  首相は、旧友たちからのユーモアのセンスがないと言われているという。しかし彼女は、生来まじめな性格である。ジョークより理性的な議論を好んだ。それは現在も変わらないが、それは、強力な責任感に立って、仕事に全力をそそいでいるからともいえよう。現在六十三歳であるが、十年前と変わらぬ意志力とスタミナを持ち、周囲を驚かせている。
 また、詩を好み、よく詩を引用して話をする。他人のゴシップやうわさ話は一切しない。人前では、決して涙を見せない。初対面で、即座に、相手の本質を直観的に判断する。会議に際しては、前もって側近の報告を受け、完ぺきな知識・情報を備えて臨む。記憶力は驚くほど良い。議論では、必ず事実の裏付けを要求する……等々、その人柄を物語る興味深い話を聞いている。
 また最近、日本製のオートマチック・カメラを贈られてから、写真が趣味となったようである。
21  四月三十日付の『オブザーバー』紙には、「サッチャー首相の、どこが一番好きか」との問いに対する世論調査が載(の)っていた。それによると、「決断力」三二%、「勇気」一六%、「リーダーシップ」一四%、「強さ」一四%、「エネルギー」一二%、「断固とした態度」一一%、「状況をよく把握しコントロールしている」六%、「明敏さ」三%、「政策」二%、「思いやり」二%となっている。
 日本でも、サッチャー首相について書かれた書物がいくつか出ているが、最近、出版されたある本には、同首相の政治家としての行動や信念について、次のように紹介されている。
 「カメレオンのように身を変えることのうまい政治家たちの中で、これほど一貫して自らを変えなかった人物も珍(めずら)しい」「外相や蔵相の経験もないまま党首となり首相となったのも、彼女のこの一貫した姿勢があったからである。その一貫性ゆえに、逆に社会の方が彼女に近づいてきたのだ」
 「『確固たる信念』こそサッチャーのトレード・マークであり、長期政権をつくり出した原動力だった。サッチャーにとってリーダーの能力とは烏合うごうの衆にこびることではなく、一つの強い方向性を指し示し、そこに人々を引っぱっていく力であった。話し合いによる妥協という政治技術より、この国にとって最も必要な理念と政策を掲げ、そのもとに集合するよう人々に呼びかけ、しかも彼らを誘導することがリーダーの仕事だった」(黒岩徹著『闘うリーダーシップ マーガレット・サッチャー』)と。
 また一般に、イギリスの政治家は、人間的な幅を広げる意味で、趣味を持つ人が多いといわれているのに対し、「しかしサッチャーの場合、趣味は『仕事』といわれるほど非イギリス人的だったし、ユーモアのセンス不足という点でも名高かった。ただ政治へ、政治へと全力投球する、プロの政治家だった」と評価されている。
 こうした政治家としての徹底ぶりについての記述はさらに続く。「彼女があまりにせかせか歩くので、ちなみにその歩速を計ってみると、十メートルを四、五秒で歩いていた」「サッチャー首相は『あらゆる一分を、走るに値いする六十秒で埋めたい』と語り、いつも走る意欲を示していた」等々──。
 そして、女性であることが政治家として有利であったか不利であったか、との筆者の質問をうけて次のように答える。「私はまず政治家です。そして最後まで政治家です。たまたま女であったに過ぎないのです」と。
 指導者とはいかにあるべきか──。思わず、なるほどとうなってしまうような言葉と思う。
22  コーストン理事長″妙法の宮殿″に光る指揮
 さて次に、同じイギリスの地で、広布のリーダーとして活躍しているリチャード・コーストン理事長についてお話ししたい。
 前回、イギリスを訪問したのは、一九七五年五月、十四年前のことである。この間、イギリスの同志の中心者として指揮を執ってこられたコーストン理事長──長身でスマートな身のこなし、そして温和な表情は、まさに″ジェントルマン″と呼ぶにふさわしく、皆から慕われ、敬愛されている。
 コーストン家といえば、イギリスでも名門とされており、その家系は遠く十一世紀にさかのぼる。ノルマン王朝を開いた、かのウィリアム一世が、フランスからイギリスに渡った際、コーストン家の先祖も、王に随行して移住したとのことだ。
 第二次大戦の渦中、コーストン理事長は、少佐として戦場におもむく。そこで出あった悲惨で残酷ざんこくな数々の光景──深く刻まれたその時の体験は、「いつの日か、世界各国の人々と力を合わせ、平和のために尽くしたい」との強い願いとなり、やがて仏法に共鳴していく一因ともなった。
 その後、軍人生活を去り、世界を飛び回る貿易業に転向。そして日本に滞在中の一九七一年六月、すでに学会員だった夫人の光子さんと出会い、入信した。五十一歳の時である。
 日本でのコーストンさん夫妻の住まいは、信濃町の聖教新聞社のすぐそばにあった。私の家とも近く、通勤途中のコーストンさんと時々路上でお会いし、「グッド・モーニング」「グッド・ナイト」とあいさつを交わしたりした。また折々に、信仰のこと、仕事のこと、イギリスのことなど、さまざまに語り合ったこともある。
 そしてイギリスに帰国される際には、ご夫妻を夕食にお招きし、ささやかながら歓送のえんをもたせていただいた。その席でコーストンさんは、晴れやかな表情で、さらに信心を深め、イギリスの将来のために尽くしていきたい、と語っておられた。その時の固い決意のまま、今日まで広布に走り抜いてこられた姿に、私は最大の尊敬と称賛をこめて、喝采かっさいを送りたい気持ちである。
 コーストン理事長は、「ディック」の愛称で呼ばれ、壮年・婦人部、男女青年部を問わず、親しまれている。日本の幹部も、愛称で呼ばれるぐらい、親しみがなくては、と思う時もある。
 たとえば私も戸田先生から、よく「大!」「大はどこだ」と呼ばれていた。そのせいか、当時、小さかった長男も、それを真似まねして「大!」「大!」と。
 それはともかく、幹部は″どのようにでも呼んでください″というくらいの包容力と心の深さ、大きさが必要である。心の狭い人は不幸である。また、そういう人のもとにいる人はもっと不幸である。
23  さて、「ディックさん」の良さはどこにあるのか。最も大きな点の一つは、人の意見をよく聞くことである。とくに婦人部の意見は大切にし、一言一言に注意深く耳を傾け、真剣に対応している。また副婦人部長でもある光子夫人も、ご主人に、さまざまな状況を冷静かつ公平に伝え、適切な手を打っていくための大きな助けとなっているという。
 もう一つの点は、全力で青年の育成に取り組んでいることである。
 コーストン理事長自身、入信したのは五十代の時。もっと早くから信心していれば、との思いもあったにちがいない。ともかく、そうした思いを託すかのように、青年の育成に力を注ぎ、仏法に巡りあえた福運がいかに偉大かを伝えようとしている。
 現在、六十九歳。陣頭指揮を執り続ける若々しい生命は少しも衰えることなく、一段と輝きを増している。
 今も語り草となっているのは、六年前(一九八三年)、南仏・トレッツの欧州研修道場でのことだ。ここで、十八カ国五百人の代表が集い、ヨーロッパ広布二十周年を記念する夏季研修会が開かれていた。これには私も参加したが、コーストン理事長は、実行委員長として連日、不眠不休で準備にあたっていた。青年部が体を心配して、早く休んでくださいと勧めると、理事長は、「今、欧州は広布の草創期にある。自分の体をかばっている時ではない」と、厳として言ったという。
 ″あの人がいるからイギリスの同志は安心して活動できる″──そうした信頼のかなめとして、広布の基盤の構築に走り抜いてきたのがコーストン理事長なのである。
24  コーストン理事長は、青年たちにしばしば広布のリーダー像について語るが、彼の陸軍将校としての経験も、そこでは一つのリーダー学として生かされている。
 妙法に徹した人生を送るならば、さまざまな経験がすべて生かされ、人々に納得を与え、信頼を幾重にも広げる力となっていく。ここにすべてを生かしていく″かつの法門″としての妙法の素晴らしさがあるといってよい。
 彼は語る。──私がかつて輸送責任者の時、もし手を抜いていたならば、多くの兵士が死に直面したにちがいない。責任者はつねに、敵の立場、兵士の立場を考えて自己を見つめ、自己を律して行動すべきである。リーダーはそのように自分を訓練し、行動せねばならない。広布の戦いも同じである──と。
 また、″どんなに苦しくとも自己の責任と兵士の信頼を裏切ってはならない。責任感に立って考えれば、あぶないところやうまくいかないところ、手配されていないところが見えてくるものだ″とも述べている。
 自分自身に責任感がなければ、リーダーとして留意すべきところが見えてこない──みずからの体験に裏付けられたこの言葉は、指導者としての重要な要件を、鋭く突いている。
 さらに、第二次世界大戦においてイギリスのモンゴメリー将軍が、戦いを前にして全兵士を集め、なぜ戦うのか、現在どのような状況に置かれているかを演説したことを通して、こうも語っている。
 ──説明できないことは、やらせてはいけない。また、納得のないところに、団結も勝利もない──と。
 そして彼はモットーの一つとして、常々次のように述べている。
 ──一歩また一歩、着実に前進することが根本である。″のみ″で石を刻むように、こつこつと地道に、そして注意深く進める戦いが、最後は勝つ──。
 彼はこのモットーのまま、イギリス広布の草創期から戦い抜き、今や、盤石な基礎が定まっている。この堅牢けんろうなる妙法の宮殿を築き上げたコーストン理事長に、私は心から賛嘆の拍手を送りたい。
25  さて、私はまもなく、約一カ月にわたり、平和、文化、教育運動の道を開くために、また広宣流布の更なる展開のためにヨーロッパを訪問させていただく。留守中はどうか秋谷会長を中心に、堂々たる団結と見事なる戦いをお願いしたい。私もヨーロッパで、全力を尽くす決意であり、その模様は逐次ちくじ、日本の皆さま方にお伝えできると思っている。
 ともあれ、五月も六月も朗らかに、身も心も軽やかに、祈り、動き、素晴らしき人生の歴史をつづっていただきたい。私も日本の皆さまにお題目を送ります。現在のところ、帰国は六月下旬の予定であるが、帰国後はふたたび各地を駆け巡り、皆さま方とお会いできることを楽しみにしている。
 最後に、皆さま方のご健康とご活躍、朗らかな前進をお祈りして、本日のスピーチを終わらせていただく。

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