Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「後継者の日」記念勤行会 君たちは広布の宝、二十一世紀の宝

1989.5.5 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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2  まず、明年の四月から六月にかけて、東京富士美術館で「コロンビア黄金展」が開催される予定となっている。ここでは、南米・コロンビア共和国の世界初公開の品や黄金の出土品約三百二十点、古代の土器・石器約百二十点などが公開される。また近代絵画をはじめとする美術品や、大航海時代をしのぶ物品、ラテン・アメリカの「解放の父」シモン・ボリバルにまつわる品々などが多数、展示されることになっている。
 これは、昨年八月、コロンビアのドゥケ駐日大使と私の会談から、実現の運びとなったもので、同国関係者の全面的な協力によって開催される展覧会である。私は、つねに、こうした文化交流を通して、コロンビアのみならず世界各国の人々との心のきずなを強めていきたいと願っている。
 さて、このコロンビアには、数百年にわたる長き苦難の歴史がある。
 かつてコロンビアは豊かな自然の黄金郷であった。だが、文字どおり「黄金郷(エルドラード)」を目指してやってきたコンキスタドール(征服者)たちとの戦いに敗れ、悲惨な境遇へと転落してしまう。十六世紀のことである。
 ヨーロッパでは、後の時代まで、南米にある黄金郷の子供たちが、エメラルドやルビーを石投げに使っていると描かれたほど(ボルテールの小説『カンディード』)、エルドラードへのあこがれが強かった。しかし、この憧れの大地に数しれぬ血と涙が流されることになる。
 コロンビアの国名は、コロンブスの名にちなんだものである。実際に「征服」にやってきたのは当時の大航海時代の覇者はしゃスペイン人たちであった。
 黄金の地への侵略は一四九九年から始まる。後にインディオと呼ばれることになった原住の人々は、いったんは非道な征服者たちを敗退させた。しかし三十九年後の一五三八年、彼らの国はついに倒されてしまう。
 以後、彼らは大切な神殿も王族の墓も、すべてあばかれ、豊かな財宝も略奪りゃくだつされていく。虐殺ぎゃくさつが続き、生き残った人々も、過酷な取引税や、人数によって課せられる人頭税をはじめ、ありとあらゆる圧政に苦しめられた。誇り高き彼らが一転、完全に奴隷どれい、またはそれ以下の状況に落とされてしまったのである。
 この血涙の歴史は、一八一九年、シモン・ボリバルによって、独立と勝利が達成されるまで続いた。その間、約三百年。長き悲劇の年月であった。
3  私は諸君に強く、また強く言っておきたい。何ごとも「絶対に負けてはならない。断じて勝て」と。負ければ悲惨である。勝てば笑顔である。
 一国の歴史もそうである。会社や、あらゆる団体も、個人の人生も同じである。
 負けてしまえば、ふだん、どんな立派なことを言っていても、またどんなたくみな弁解をしても、苦しみと悲しみが残るだけである。自分も不幸である。周囲の人々も苦しめてしまう。勝ってこそ、幸福もあり、栄光もある。胸を張って、悠々ゆうゆうと人生を濶歩かっぽしていける。
 人生は現実との戦いであり、現実は勝つか負けるかである。そして日蓮大聖人は「仏法と申すは勝負をさきとし」──仏法というのは勝負を第一とし──と仰せである。
 妙法は、あらゆる「勝利」への原動力である。ゆえに仏法の真髄をたもった諸君は断じて勝ち抜かねばならない。勝利してこそ、真の指導者であり、人々を安穏あんのんに守り、救っていくことができる。弱々しい敗将のもとには人もつかない。
 広宣流布の戦いにおいても、勝ってこそ正しさが証明される。仏法の清流を守り抜ける。皆を幸福にすることもできる。ゆえに、私は、何があっても負けるわけにはいかない。これまでも、今も、生命をかけて戦っている。後をぐ諸君であるゆえに、本日、私は、このことをあえて申し上げておきたい。
4  何を担うのか──そこに人生の価値
 それでは、何が究極の「勝利」なのか。何が永遠につらなる「勝利」となるのか。これこそ人生の最重要の課題であり、人類が等しく解決しなければならないテーマである。
 コロンビアには、多くの民話が伝えられている。どれも純朴じゅんぼくな人間味あふれる物語である。その中に「太陽とエーデルワイスと赤い実のなる潅木かんぼく」という母と子の悲しくも感動的な話がある。
 アラウカニ族(コロンビアの″インディオ″の一族)の首長の家に、たいそう美しい娘がいた。しかし部族同士の戦いに敗れてしまい、敵の首長のもとに泣く泣く嫁に出されてしまう。その娘リリンは、そこで男の子をむが、敵の娘ということで人々ににくまれ、子供と一緒に殺されそうになる。
 ついに母は、我が子を抱きしめ、そこを逃げ出した。しかし道中は雪が深く、追っ手の軍は間近に迫ってくる。死は眼前であった。それでも母は子供を助けようと、ひたすら山を登り、岩をよじのぼっていった。
 山の頂上に着く寸前、敵の矢は無残にも、母に命中する。腕から子供がすべり落ちていく。母は子を守ろうと、その上におおいかぶさり、悲痛な叫びをあげた。
 まさにその時である。太陽が黄金にきらめき、あたりは光に包まれた。次の瞬間、母と子の姿はなく、赤い実をつけた一本の潅木と、そのもとに白い花を咲かせたエーデルワイスがあるばかりだった。
 人々は、この赤い実の木は母親であり、白い花のエーデルワイスは子供であると伝えた。そして、のちのちまでも、この潅木とエーデルワイスは山頂から人々を見守りながら、平和と幸福を願う民衆の象徴とされて、長く語り継がれている。
 ささやかな物語といえば、その通りかもしれない。しかし私には、子供を守るために必死で走り抜いた母の心が痛いほど伝わってくる。どれほど「平和」が欲しかったであろうか。どれほど、安らぎと「幸福」が欲しかったであろうか。
 世界には今も無数の苦しみがあり、不幸がある。だれかが立ち上がらねばならない。あの母が子供を抱きしめて駆けたように、民衆の平和への悲願を抱きしめ、守り抜いて、だれかが懸命に走らねばならない。
 諸君は使命の人である。民衆の希望である。若くして、平和と幸福の大法を抱いた諸君こそ、人類の悲願を担い、背負って、立ち上がっていただきたい。
5  人生、何を目的に、何を背負って生きるかである。それによって人生の深さも価値も充実度も決定していく。
 私は十九歳の時から「広宣流布」を背負って生きてきた。戸田先生との不二の使命を背負って、平和のために戦ってきた。
 世の中には「金」を目的に富への夢を背負って生きている人もいる。名誉や有名、我が身の安楽等への利己的な欲望のみを背負って生きている人も多い。しかし、それらは決して永遠性のものではない。社会に不滅の光を送り続けるものでもない。真実の「勝利」とはいえない。むしろ幻影のごとき、はかなき人生とならざるをえない。
 だが、私どものように、人類のために、広布に生き抜く人生は、自身の永遠の勝利に直結しているのである。
 入信してまもなく、私は御書の次の一節を拝し、大変に感動した。
 「とにかくに死は一定なり、其の時のなげきは・たうじ当時のごとし、をなじくは・かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海にあつらへ・ちりを大地にうづむとをもへ
 ──ともかく死は必ずやってくる。その時の嘆きは現在の迫害による苦しみと同じである。同じことならば(どうせ一度は死ぬのだから)かりにも法華経のために命を捨てなさい。それは、あたかも露を大海に入れ、塵を大地に埋めるようなものであると思いなさい──と。
 妙法は大宇宙の根本の法である。この大法に生き、じゅんじていく時、自身の小さな境涯もまた宇宙大へと拡大していく。自他ともの永遠の幸福、不滅の栄光を勝ち取っていける。ここに、これ以上はないという「無上の人生」があり、「真実の勝利」がある。
 このコロンビアの母子は、民衆の平和と幸福を見守る象徴となった。諸君はそれ以上の、全人類の平和と幸福への波を起こす戦士となり、シンボルとなっていただきたい。
6  「知」は生命を照らす光
 先日(四月二十九日)、マレーシアの有名な出版社(ベネルビット・ファジャール・バクティ社)の総支配人、ソッカリンガム氏とお会いした。マレーシアには昨年、訪問している。
 会談では″知性の力″などが話題になったが、マレーシアには「知は生命を照らす光」という言葉がある。
 「知る」ことは、生命を輝かせ、自身の世界を広げる。他の人々を間違いない方向へとリードする力にもなる。
 これからの時代は「知の力」が大切である。勉学し抜いた人であってはじめて、多くの人たちに納得と信頼と安心を与えていくことができる。強靭きょうじんな「知力」は指導者の不可欠の要件である。そして知力はやはり、若い時代に徹底して鍛えておかねばならない。盤石な基本をつくっておいてこそ、将来大きく開花することができる。
 ゆえに、どんなに苦しくとも、学会っ子らしく、不屈の根性で、挑戦に挑戦を続け、自分らしい「向上」の軌跡をつづっていただきたい。そうした「自分に勝つ」ことが一切の勝利の根本なのである。
7  日興上人に師敵対した門下
 さて、いよいよ明年は、総本山大石寺開創七百年、そして学会創立六十周年を迎える。大石寺は、日蓮大聖人の御心をただお一人受け継がれた日興上人によって開創されたものである。それは、諸君も、幾度となく学んだことと思う。
 日興上人のもとには、数多くの門下がいた。その中で、「最初の弟子」とはだれか。
 それは日持にちじである。日持は、幼くして日興上人と出会い、その教化きょうけにより大聖人門下となった。日興上人はじめ門下が四十九院の寺内から追放された「四十九院法難」では、日興上人のもとでけなげに戦っている。
 大聖人御入滅の折には、三十三歳。六老僧の一人に加えられるほどの重要な存在となっていた。しかし、日興上人の「弟子分本尊目録」(略して「本尊分与帳」「弟子分帳」ともいう)には、次のように記されている。
 「松野の甲斐公日持は日興最初の弟子なりしかるに(中略)聖人御滅後に白蓮(=日興上人)に背き五人と一同に天台門徒なりとなの名乗れり」(『歴代法主全書』、表記については『富士日興上人詳伝』によった)
 つまり、大聖人御入滅後に退転し、他の老僧らと″我々は大聖人門下ではない。天台の門下である″と名乗り、師・日興上人のもとを去ってしまった。
 もともと、日興上人の教化で、六老僧にまでなった日持である。本来、だれよりも、大聖人御入滅後の日興上人をお守りし、正法正義しょうぼうしょうぎを宣揚し、令法久住、広宣流布のために戦うべき立場にあった。それを、自身のまんからか正師に随順ずいじゅんせず、憶病おくびょうにも、みずからの信念の道を捨て去った。
8  日興上人に師敵対した無慙むざん(罪を犯しながら恥じないこと)な門下は、日持一人にとどまらなかった。
 日亨にちこう上人の『富士日興上人詳伝』には、その様子が次々と列挙されている。
 「日伝、初め従いのちそむく」
 「日位、初め従いのちそむく」
 「日教、初め従いのちそむく」
 「日弁、初め従いのちそむく」
 「日法、初め従いのちそむく」
 「日永、初め従いのちそむく」
 「筑前房、初め従いのちそむく」
 いずれも当初は、門下として活躍していた者たちである。
9  たとえば、日法は、日蓮大聖人の御図顕ごずけんされた本門戒壇の大御本尊を、大聖人の御指南を受けて御謹刻した人物とされている。またそのさい、後世に残す意義から、初めて、日蓮大聖人の御影みえいを刻んだ。それを御覧になった大聖人は、笑みを浮かべ、「よく我が姿に似たり」と述べられたと伝えられる。
 これらの退転者は、日興上人の「弟子分帳」には、いずれも、「(大聖人御入滅後に)背きおわんぬ」と厳然と記されている。
 人間の心は恐ろしい。門下のリーダー格の人間でも相次ぎ信念をひるがえし、師の心を裏切っていった。
 近年、学会にも、幹部でありながら、エゴと野心で同志と組織を利用しようとし、結局、正しい信心の世界にいられず、去っていった者がいた。
 貪欲どんよく、保身、権威にび、権力を恐れる憶病──退転者の心理は、今も、変わらない。
 我が同志から裏切りがあったことは、情けないことであり、またかわいそうなことである。しかし、私には、ともに未来を語り、広布を託しゆく後継の諸君がいる。
 どうか、人間の心の″弱さ″や″みにくさ″をも鋭く見極め、一切を自身と広布へのかてとしゆく聡明そうめいな青年へと成長していただきたい。そうした願いを込めて、日興上人の時代の話をさせていただいた。あとは、諸君が自分で判断し、それぞれに何らかの示唆しさをくみとっていただければと思う。
10  ″師弟の道″貫かれた日目上人
 さて正慶元年(一三三二年)十一月十日、日興上人は、日目上人に「日興跡条条事あとじょうじょうのこと」という一通の譲状ゆずりじょうを授与されている。このとき日興上人は八十七歳、日目上人は七十三歳であられ、ともに御遷化せんげの前年であられた。
 この御状の中に、「日目は十五のとし日興にい法華を信じてより以来七十三歳の老体にいたえて違失いしつの義なし」──日目(上人)は、十五歳で日興(上人)に出会い、法華経を信じてより以来、七十三歳の老体になるまで、まったく違失がない──との一節がある。
 違失とは、単に間違い、過失ということではない。大聖人の御指南に寸分もたがうことなく実践され、師の心からまったく離れることがなかったとの仰せと拝する。
 日目上人は、十五歳の若き日よりじつに五十八年余の間、正しき師弟の道を一分の狂いもなく、完璧かんぺきにまっとうなされた。ちょうど諸君の年代のころからである。大聖人の正義から離れていった多くの弟子がいたなか、本物の我が弟子の存在を、日興上人は、どれほど誇りとされ、喜びとされていたことであろうか。この譲状の御文から、その日興上人のお気持ちが拝察されてならない。
11  恩をあだで返すような不知恩の弟子が何人出ようとも正法の道はとだえることはない。原点を見失い、堕落だらくした情けない人間がいても、一人の本物の弟子がいれば、一切が永遠に受け継がれていくのである。
 私も、戸田先生のもとで、広布の道を駆けて四十余年。それは苦闘に苦闘を重ねての旅路であった。
 しかし、先程も申し上げたように本日、全国の記念勤行会に集ったメンバーだけでも約二十万人である。これほど多くの若き諸君が後継の道を歩んでくださっている姿を思うとき、私は妙法に生き抜いた我が人生と、広宣流布の大勝利の万歳を叫びたい気持ちである。
 私は、すでに戸田先生の年齢を超えた。だが私の胸中から、一瞬たりとも恩師・戸田先生の心が失われたことはなかった。否、もう戸田先生の心そのものであるかもしれない。
 今、私は、戸田先生との師弟の大勝利を、絢爛けんらんと飾り、謳歌おうかしている思いである。そして、二十一世紀の開幕を前にして、私は、三世永遠にくずれない、素晴らしき師弟の道を、諸君とともに築きたいと念願してやまない。
12  正義の人ありて広布は永遠
 また、日興上人が大石寺を開創されるに当たって、その外護げごの任を果たしたのが南条時光であった。大聖人は、かつて熱原法難の渦中、青年らしく奮迅ふんじんの戦いを続けていた時光に、次のようなお手紙を送られている。
 「唐土もろこしに竜門と申すたきあり・たかき事十丈・水の下ることがつひやう強兵が・とすよりもはやし、このたきにををくのふなあつまりて・のぼらむと申す、ふなと申すいをのぼりぬれば・りうとなり候」──中国に竜門という滝がある。滝の高さは十丈(約三十メートル)、落ちる水の速さは、強い兵が矢を射落とすよりも速い。この滝のもとに、多くのふなが集まって登ろうとする。鮒という魚は、この滝を登れば竜になるからである──。
 この御書は、別名を「竜門御書」といわれるが、竜門の滝を登る魚は、竜となることができるとの中国の故事を引かれながら、信心を貫き成仏することがいかに難しいかを教えられているのである。
 つまり、この御文に続けて「百に一・千に一・万に一・十年・二十年に一も・のぼる事なし、或ははやにかへり・或ははしたかとびふくろうにくらわれ、或は十丁のたきの左右に漁人ども・つらなりゐて・或はあみをかけ・或はみとり・或はるものもあり、いをの・りうとなる事かくのごとし」と。
 ──(しかし)百に一つ、千に一つ、万に一つ、あるいは十年、二十年に一つも登ることができない。あるいは滝の落ちるのが、あまりにも速いので、川の瀬に押し返され、あるいは鷲や鷹やとびやふくろうなどに食べられてしまう。あるいは十丁もある滝の左右に、漁師たちが並んでいて、網をかけたり、すくいとったり、射て取ったりするからである。魚が竜となることはこのように難しいことなのである──。
 そして「仏になるみち・これにをとるべからず」──仏になる道も、これに劣らないほど難しいことである──と仰せになっている。
 偉大なる人間、幸福な人生を築いていくのが信心の道である。しかし、そこには竜門の滝の魚のように数々の苦難が横たわっている。その苦難に挑戦し、乗り越えてこそ、勝利の人生は開かれていく。
 信心は、人生の究極の勝利の道である。ゆえに、いかなる苦難があっても、諸君は、それをけたり、逃げてはならない。信心の世界での苦難への「挑戦王」こそ、世間のどのような名誉、地位、財産をもった人よりも、幾十倍、幾百倍もすぐれた、人生の「勝利王」なのである。
13  人類の新しき希望の太陽
 話は変わるが、スイスといえば、諸君には『アルプスの少女ハイジ』の舞台としてもおなじみのことと思う。ヨーロッパのほぼ中央にある、山と湖の美しい国・スイス。私も、メンバーとの約束もあり、また国連の人道表彰の授与式があり、近くスイスを訪れることになっている。
 諸君のなかでスイスに行ったことのある人は、今はまだ、ほんのわずかだと思う。しかし、将来は必ずお父さん、お母さんを連れていってあげられるぐらいの福運をつけ、立派に成長していただきたい。
 さて、ここで、スイスの著名な詩人マックス・プルファー(一八八九〜一九五二年)の作品を紹介してみたい。
 第一次世界大戦から第二次世界大戦へと激動の時代を生きたプルファー。「檄文げきぶん」と題する彼の詩には次のような言葉がつづられている。
14    時代はむ。我らは突如とつじょとして起る雷光らいこう
   火をもていやさんとする、遅き復讐者、
   家はすべてくされ、城も聖堂も腐れ果て、
   低劣な欲望にり固まって人心も腐れ、
   かくして腐敗の波は我らの谷に滔々とうとうと流れ、
   殺戮者さつりくしゃの手には人殺しの血がしたたる。
   なんじらの廃墟はいきょより新たな緑のでんことを。
   その時こそ、新たな人類が愛の盟約めいやくを創(つく)り、
   過去の瓦礫がれきの内より咲き出でるを許される。
   身は清らかに、心は信頼に満ちあふれて、
   我らが歓呼かんこしつつ石屑いしくずの間を進み行けば、
   弟妹らはひざをかがめて我らに敬意を表し、
   若き国、若き明るい家を築くであろう。
   (杉本正哉訳、スイス文学叢書4『スイス詩集』所収、早稲田大学出版部)
15  少々、難しいかもしれないが、この詩は、時代が病み、人々の心もにごり切った廃虚の中から、みずみずしい新緑の若葉のごとく萌え出て、希望あふれる活躍を開始する人々の姿を、高らかにうたいあげている。
 この詩を口ずさむ時、私には、雷光のような強さと激しさで、何としても″病んだ時代″を変革していこうという熱い息吹が感じられてならない。と同時に、文字どおり、戦後の焼け野原に一人立たれ、広布の戦いを開始された戸田先生、それに続いた我が学会の同志の凛々りりしき姿が、二重写しとなって私の胸に迫ってくる。
 時代と人々の心は加速度を増すかのように、ますます病み、荒廃の道を進んでいるようだ。諸君の周りにも、家族のこと、学校のこと、社会のこと等々、現実の生活での悩みや苦労が、これからさまざまにおそいかかってくるかもしれない。しかし、それらに負けて、″廃虚の瓦礫がれき″の下にうずもれてしまうようなことがあっては断じてならない。未来に生きゆく諸君こそ、病んだ時代の廃虚から″萌え出づる緑の若葉″であり、新しき人間賛歌の時代を築く一人一人である。
 諸君が希望と躍動に満ちあふれ、悠々ゆうゆうと進んでいくならば、弟や妹たちも、また周囲の人々も、諸君に信頼と敬意を寄せ、喝采かっさいを送るだろう。そして必ずや、和楽の家庭、平和で豊かな社会建設への道が大きく開かれていくにちがいないと、私は確信している。
16  東洋に「ヤシの葉で太陽はかくせない」ということわざがある。″真じつはどのように隠そうと思っても隠すことはできない″という意味である。
 私も多くのいわれなき誹謗ひぼう・中傷を受けた。しかし、どんなに卑劣ひれつ悪口あっこうを重ねようとも、真実の姿をおおい隠すことはできない。真じつはどこまでも真実であり、いつか必ず明らかになるものである。どうか諸君も、堂々たる太陽のように、何ものにも紛動ふんどうされることなく、自分らしく生き抜いていただきたい。
 最後に、私の大好きな「正義によって立て。なんじの力は二倍せん」との言葉を贈り、本日のスピーチとさせていただく。

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