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日蓮大聖人・池田大作

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第十六回本部幹部会 広布への「行動の人」こそ仏子

1989.4.19 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

前後
2  史書によれば、元来、周の人々は、先祖伝来の「ひん」という地域で、長年、暮らしていた。その住み慣れた土地をあえて捨て去り、彼らは「岐山」に移り住んだ。それは、文王の祖父の時代のことである。その祖父も、「大王」と尊ばれる名君であったが、なぜ、「大王」が「岐山」への移住を決めたのか。ここに、今も中国の人々にうたい継がれる、美しき歴史のドラマがある。
 唐の大詩人・韓愈かんゆは、うたった。
   ……   ……
   今狄之人  いまてきの人
   将土我疆  まさに我がさかいらんとす
   民為我戦  民我が為に戦わんとす
   誰使死傷  誰か死傷せしめん
   彼岐有岨  有り
   我往独処  我れきて独りらん
   爾莫余追  なんじれを追うことかれ
   無思我悲  我れを思うて悲しむことかれ
3  ──いま狄(てき)の人たちが、わたしの領土を占領しようとしている。人民はわたしのために戦おうとするが、その人たちを死なせたり傷つけたりできるものか。あの岐山には要害の地がある、わたしはそこへ行ってひとり住むことにしよう。君たちわたしのあとからついて来てはならぬ、わたしのことを思って悲しんではならぬ──。(『中国詩人選集11 韓愈』清水茂注、岩波書店)
4  つまり、周の「大王」は″大切な民衆を戦乱に巻き込み、苦しめては絶対にならない。民の苦悩を回避かいひできるのであれば、自分は王位も何も、すべてをなげうとう″との心情であった。
 だが、その思いを受け、民衆の「大王」への敬慕けいぼは、断ち切られるどころか、かえってつのるばかりであった。人々は″私たちも行こう。どんなに苦しくとも、あの指導者とともに生き抜こう″と「大王」のあとに続き、「岐山」に移っていった。そこで「大王」は、民の期待にこたえ、新たな国をおこしていく──。
 どこまでも民を愛し、民の安穏あんのんのために行動し抜く王。その慈愛によくし、高潔なる王を心から慕い続ける民衆。まさに、すがすがしい歴史の一大ロマンである。
 とりわけ、地位を捨て去って、民の幸福と平和を守ろうとした「大王」の決断は、まことに感銘深い。その無私にして無償の行いは、仏の境界の一分にも通ずる、真実なる慈愛の発露といってよい。
5  大王であるかいなか。それは、決して、家柄や権勢の大きさで決まるものではない。心から民を愛し、徹して民のために働く指導者こそ、真の大王であり、名君である。現代の日本に、その意味での″大王″や″名君″に当たる政治家等がいるかどうか。皆さま方も身にしみてご存じの通りである。
 ともあれ、広布の世界にあっても、指導者とは、仏子である会員を、厳然と守り大切にしていける人である。どうか皆さま方は、″広布の名リーダー″そして″庶民の味方の指導者″として、生涯、生き抜いていただきたい。
6  さて「岐山」に居を移した「大王」から数えて三代目となるのが、文王である。周は、この文王の時代に、「岐山」を舞台に、るぎない繁栄の基盤を構築していく。
 その点について、大聖人は、「日女御前御返事」に、次のように仰せである。
 「周の文王は老たる者をやしなひていくさに勝ち、其の末・三十七代・八百年の間すゑずゑ末末は・ひが事ありしかども根本の功によりてさかへさせ給ふ
 ──周の文王は、老いた者を大切に養って戦いに勝ち、その子孫は三十七代八百年の間、末裔まつえいには、心得違いの悪政の時代もあったが、根本である文王の功によって長く栄えることができたのである──。
 国であれ、団体であれ、長きにわたる繁栄を決定づけるものは、草創期における基盤づくりである。
 文王は、国と民の行く末を思い、″八百年″の土台を築いた。いわんや広宣流布は末法万年への法戦である。私も、今日まで、未来への完璧かんぺきな広布の土台づくりを期し、死力を尽くしてきたつもりである。
7  先の御書に「老たる者をやしなひて」と仰せのように、文王は、高齢の先駆者を大切に養った。王の徳政は、こうした老人をはじめ目立たぬ立場の人々にも及び、民は喜び、国は栄えた。どこまでも陰の人を大切にし、心をくだいた文王の姿に、指導者の重大な要件が示されている。
 とともに、指導者は、民衆に″敗北″の苦しみとみじめさを味わわせてはならない。民衆とともに、民衆のために、堂々と試練にいどみ、一切に勝利しゆく「勝利王」こそ、すぐれたリーダーたるあかしである。
 そのためには、勝ちゆくための知恵と力が不可欠である。聡明そうめいさと強さがなければ、戦いには勝てない。
 どうか朗々たる唱題で、こんこんと豊かな知恵と生命力をわかせながら、賢明なリーダーとして見事なる「勝利」の歴史を重ねていただきたい。
 ちなみに、岐阜の「岐」には、知恵がついていく、生き育っていくとの字義がある。「阜」にも、大きくする、豊かにする、盛んにするとの意味がある。
 まさに、「岐阜」の皆さま方こそ、全員が知恵豊かな「勝利王」であることを、私は確信してやまない。
8  民衆守る万年の根本軌道を
 長き法戦の途上には、さまざまな行き詰まりや失敗もあるかもしれない。正法の道を踏み外すおろかな徒輩とはいが現れることもある。
 しかし御書に「前車のくつがへすは後車のいましめぞかし」──前車が覆ったのは、後車のいましめなのである──とあるごとく、どんな困苦や一時的な後退も、すべてをたくましく、新たな前進へのかてとし、未来への財産としていけるのが妙法である。ゆえに失敗や挫折ざせつを恐れる必要はない。
 要するに、″根本軌道″さえ厳として固めていけば、多少の試行錯誤さくごはあっても、決して勝利への前進がやむことはないのである。
 私どもの法戦にあってその根本軌道とは何か。それは、大法を受持し、大法をひろめ、広布を進める仏子である同志を守りに守り、うるわしい異体同心の世界を築いていくことである。
9  ところで司馬遷しばせんの『史記』によれば、周の文王は、一時、いん紂王ちゅうおうによって幽閉ゆうへいされた。その背景には、男の恐ろしき嫉妬しっとや、陰湿いんしつ画策かくさくがあった。しかし文王は、少しもあわてることなく、甘んじて幽閉され、時の到来を待った。
 この文王の心を我が心とし、決起したのが、子・武王である。武王は、横暴なる紂王を打ち破り、殷王朝の最後の幕を引く。ここに父の宿願を果たし、新時代を開くのである。
 文王、武王の父子について、大聖人は次のように仰せである。
 「周の武王は父の形を木像に造つて車にのせて戦の大将と定めて天感を蒙り殷の紂王をうつ
 ──周の武王は、亡くなった父・文王の形を木像に刻んで、車にのせ、戦の大将と定め、天の感応(加護)を受けて殷の紂王を討(う)つことができた──と。
 まことに重要な御聖訓である。武王は、父の像を大将と定め戦った。いわば、父とともに戦い、そのこころざしたましいを、我が最高の指標として指揮をとった。
 この麗しき「父子一体」の姿があったればこそ、天の感応を呼び、大国・殷を倒すことができたとのお言葉である。
 要するに、若き武王には″父の遺志を絶対に実現してみせる、そのためには、この戦に負けるわけにはいかない。必ずや勝利し、父の正義を満天下に示すのだ″との、強く、透徹した一念があった。この「不二ふに」にして「一体」の生命と魂の戦いがあったがゆえに歴史的偉業を成就し、八百年もの繁栄を開くことができたのである。
10  新時代へ各県が融合・連結
 また岐阜は、その周囲が七県と接している。これは八県と接している長野に次いで多い。その意味でもこの地は、岐山の別名「天柱山」──″天の柱″のごとく、周囲を雄々しくリードする使命があるといってよい。
 さて、岐阜と接する滋賀県を代表するものといえば、琵琶湖びわこである。滋賀研修道場も琵琶湖畔にある。『万葉集』には、一説にこの滋賀研修道場の近くでまれたとされる一首があり、歌碑かひにも刻まれている。
  磯の崎 こぎたみ行けば近江おうみの海 八十やその港に たづさはに鳴く
 ──磯の崎を舟でぎめぐって行くと、近江の海(琵琶湖)のあちらこちらの港に、鶴がたくさん鳴いている──。
 美しき、青き湖のほとりで、白い鶴が優雅ゆうがに群れ舞いゆく──そんな情景が目に浮かぶようである。
 かつて画家の戸田三顕氏は、この研修道場のために「朝日鶴」と題し、金色の光を浴びて華麗に飛翔ひしょうする白鶴の大きな絵を描いてくださった。絵は現在、関西戸田記念講堂に飾られているが、じつは『万葉集』のこの一首にちなんでいるのである。
 なお戸田氏は、本年の二月九日、七十八歳で死去されている。私も先日、ご遺族と会い、氏をしのぶひとときを持たせていただいた。
11  ところで牧口先生は『人生地理学』の中で、琵琶湖は富士山とともに「わがくに双美そうび」であり、美しき湖の存在が日本人の「美の心」をこよなく深めてきたことを指摘されている。とともに湖が与える影響は、青少年にこそ大きな意味を持つと論じておられる。すなわち″湖は青少年の心に、いつの日か世界に雄飛せんとする気概を涵養かんようしてくれる″と述べられている。
 さらに、戸田先生は、この牧口先生の心をしのばれながら、″琵琶湖のほとりに研修の場をつくりたいものだ。牧口先生はどれほど喜ばれることか。また、青年たちにとってもどれほど意義あることか″と私に語られていた。私はこの恩師の思いを、いつか必ず実現させていきたいと深く心に期していた。琵琶湖を望む地に研修道場を建設したゆえんも、ここにある。
 また、道場内に「世界の友 顕彰の碑」も建立されている。これも、この研修道場から多くの人材が世界へと雄飛し、また世界の友もこの地に集ってくる。あたかも広布の天地に乱舞する鶴のようにとの思いからであった。
12  互いに境を接する岐阜と滋賀──私はその将来の発展のために、二県によるサミットを提案したい。
 両県には風光明美な自然がある。海こそないが、岐阜には長良川、滋賀には琵琶湖と、豊かな水に恵まれている。また、双方とも古くから交通の要所として栄え、戦国時代には群雄による天下取りの舞台であった。今も岐阜城が、そして彦根城が現存している。
 地理的にみて、岐阜は中部の中心である名古屋から距離的に若干、距離がある。滋賀も、関西の中心・大阪から離れている。そのためか、これまで広布の舞台にあっても、やや目立たない存在であったようだ。また関西では、福井も同様といえよう。その意味で、福井を加えて三県サミットを考えてもよいと思う。
 時代は大きく変化している。中部は中部、関西は関西と固定化するだけでは、時代の動きに対応できない。それぞれの領域を越えて、異なった地域が交流のブリッジをけ、融合、協力しあっていけば、その力は「し算」ではなく「掛け算」となって、何倍にも増していくにちがいない。どうか、各県が聡明にまた上手に二重三重と「連結」しながら、楽しく有意義な、新しい広布の舞台を開いていただきたい。
13  明快、確信の「一言」こそ大切
 次に、「一言」の持つ影響力について歴史の上から少々申し上げておきたい。確信ある指導、確信ある言々句々がどれほど大事であるか。また、このことを踏まえなければ、真の指導者とはいえないからである。
 一五九六年(文禄五年)十月、スペイン船サン・フェリペ号が土佐に漂着。同船の水先案内人(航海長、他の乗組員説も)が、豊臣秀吉の臣下に失言した。それは「スペインは、今や世界に広大な領土をもっている。それらの国々を占領するに当たっては、まず宣教師を送って住民の心をとらえ、その後、彼らの協力を得て軍隊を送るのだ」という内容であった。
 ──言葉は大事である。他に与える影響を考えずに、ふともらした一言が人間の感情をまったく変えてしまう場合があるものだ。
 この発言を耳にした秀吉は驚き、激怒げきど。キリスト教の宣教関係者に信者十七人を加えた二十六人を、長崎ではりつけにしたという。いわゆる「二十六聖人事件」である。秀吉はこの九年前に、禁教令を出してはいるが、具体的な弾圧はこの「一言」がきっかけであったといわれる。
 この不用意な「一言」は、秀吉のキリスト教弾圧を招いただけでなく、その後も多くの人々に計り知れない政治的・宗教的影響を与えた。そして一度形成された偏見は根強く残ったのである。
14  教義はともあれ、江戸時代を通じて徹底的に民衆に教育された″キリシタンの恐ろしさ″は、明治になっても長く社会に流布していた。知識人の間で「キリスト教」が流行しても、それは「キリシタン」とは別のものであった。「キリシタン」には相変わらず、あやしげな印象ばかりがあったのである。
 そうした先入観念は、容易に人々の脳裏を去らなかった。その印象を一変させたのは、明治四十二年に出版され、熱狂的に迎えられた北原白秋の詩集『邪宗門』である。この詩集の成功で、キリシタンの島々・天草は、エキゾチックな詩情に包まれた、魅惑みわく的な島々となった。
 偉大な詩人は、一国の国民の感受性まで一度に変えてしまった。悪条件のもとにあっても、確信ある発言に状況は必ず変わる一つの姿であろう。きにつけしきにつけ、言葉に動かされてしまうのが、人間の心といえる。
 いわんや広布の世界にあっては、リーダーの力強い、確信ある指導がどれほど力となるか。もしもリーダーが言うべきことを明快に言い切っていく勇気がなければ、会員を守ることはできない。また会員も安心し、納得して信心に励むことはできない。
 皆さま方は強靭きょうじんなる「勇気」と、偉大なる「人間性」と「愛情」の指導者として、信仰の正義を堂々と主張し抜く一人一人であっていただきたい。
15  悪と戦う″賢さ″と″強さ″を
 さて昭和五十二年(一九七七年)ごろから、ここ垂井たるいの地でも正信会の悪侶あくりょらによる邪悪な策動によって、大切な会員が卑劣ひれつな手段でいじめ抜かれた。
 その迫害のなか、最も苦しみ、耐え抜いてこられたのが当時、壮年・婦人部の垂井本部長であった夫妻である。お二人は、学会への理不尽な中傷にくやし涙を流しながら、一軒また一軒と同志を守り励まして懸命に戦い抜かれた。こういう方々がいてくださったからこそ、今日の学会の大発展があることを、絶対に忘れてはならない。
 その意味でお二人の労苦をたたえて勝巳さんに岐阜県の名誉県長の称号とSGI文化賞を、また信子さんに名誉県婦人部長と富士美術賞を、それぞれ私から贈らせていただきたい。
 きょうは最大の功労者であるお二人にお会いできて心からうれしく思い、垂井の方々に次の三首をみ、贈らせていただきたい。
  垂井にて 悔しき涙の あの日をば
     いかに忘れじ 我等の心は
  血の涙 出ずる思いの 君たちを
     いじめし輩は 地獄の使いか
  正信の 仮面の僧の 弾圧に
     君らは勝ちたり 諸仏も讃えて
 当時は少々の退転者も出たが、杉山さんら多くの方々のけなげな奮闘により、現在では隆々たる発展を遂げていることを、私はよく知っている。「皆さまは勝った」と、私は垂井の同志を最大に称賛したい。
 私どもは大御本尊を信じたてまつり、大聖人の仰せのままに正法を行じているのである。その尊い仏子を大聖人が最大にお守りくださり、賛嘆してくださることは間違いない。その最も大切な信仰の世界を正信会のような悪侶に蹂躙じゅうりんされ、踏みにじられることは絶対にあってはならない。
16  話は変わるが、一九二三年(大正十二年)九月一日に首都圏を襲った関東大震災は、さまざまな教訓を残した。とくに、そのさい発生した「朝鮮人虐殺ぎゃくさつ」の事件の話が、私の胸に突き刺さって離れない。この事件は、群集心理の恐ろしさ、誤ったうわさの怖さを如実に示している。
 すなわち、突然の大地震、そして大火災により、首都・東京は大混乱におちいった。その渦中で、「朝鮮人が暴動・革命を画策している」との根拠なきが広まり、日本人の集団による、まさに問答無用の暴行と虐殺が行われた。
 その様子を若き日に垣間かいま見たある人は、思春期の鋭敏な眼で次のようにとらえ、描いている。
 ──「群衆の肩ごしにのぞきこむと、人だかりの中心に二人の人間がいて」「警察の方へ押しこくられているのだ。別に抵抗はしないのだが、とりまいている人間の方が、ひどく興奮して、そのためにかえって足が進まないのだ」「突然トビ口を持った男が、トビ口を高く振りあげるや否や、力まかせに、つかまった二人のうち、一歩おくれていた方の男の頭めがけて振りおろしかけた」「ズブリと刃先が突きささったようで、わたくしはその音を聞くと思わず声をあげて、目をつぶってしまった」「大ぜいの人間がますます狂乱状態になって、ぐったりしてしまった男をなぐる、ける」(中島健蔵『昭和時代』岩波新書)──。
 この光景を思うと胸が痛む。同じ人間同士ではないか。どんな理由があっても絶対に人を殺してはならない。残虐であり、決して許せない行為である。
 この暴動の噂は恣意的しいてきにねつ造された″デマ″であったとの説もある。ともあれ根も葉もない噂が″既定の事実″として信じこまれ、多くの人々を狂気の行動へと駆りたて、翻弄ほんろうしていく恐ろしさを、人間社会はもっている。
17  世の中、いったい何が「善」で、何が「悪」なのか──。事象の奥にある本質をとらえ、悪と戦う″賢さ″と″強さ″をもたなけれは、本当の正義を守り抜くことはできない。
 学会に対しても、これまでありとあらゆる中傷、デマが流され、陰険いんけんな画策があった。それを見破っていたがゆえに私は、一歩も退かずに戦い抜いてきた。
 今度は後継の青年部諸君が、自己をきたえ、確固たる信念と史観をつちかい、戦ってもらいたい。それを可能にするものが仏法であり、信仰の力なのである。とくに青年は良い意味での楽観主義をもって、生き抜いていくことが大切である。
 戸田先生は「現在は死ぬと思うような大事件でも、あとになると大したことではなくなる。人生とはそういうものだ。終戦の時も、皆どうなるかと思ったが、数年もするとその時の心配など忘れてしまった」とよく言われ、だから今どんなに苦しんでも頑張るのだ、と私たちを励ましてくださっていた。
 長い人生である。社会的な事件に巻き込まれたり、家庭や仕事の悩みを抱え、一時的に苦境に立たされる場合もあろう。しかし、耐えて生き抜くことである。時とともに、戸田先生の言われた深い意味もわかってくるにちがいない。
18  また話は変わるが、戸田先生は、時代に即応した布教の在り方に心をくだかれた。そしてしばしば、次のように言われていた。
 「そもそも法華経にいわく、とか、御書に曰く、とか、まるで教育勅語でも読むような形式主義、権威主義的な論調の講演や指導だけでは、現代の人びとを心から納得させ、仏法を理解させることはけっしてできない」
 そして先生は、信心指導や折伏はもちろん、難解な教学の講義においても、いつも日常の生活や体験、身近な事象の例に約して、だれにでもわかりやすく語ってくださった。学会の指導が時代錯誤にならないよう、先生自身からはんを示されたのである。
 日達上人は、こうした学会の指導や教学の展開について、大変に素晴らしいことであるとたたえてくださった。しかし、正信会のなかには、御書を生活に約して展開することは、大聖人の深意を浅くするものだ、等の批判があった。
 短絡的たんらくてきな批判のための″理屈″と、慈悲の″論理″とは違う。いわゆる揚げ足取りの、短絡的な批判などはだれにでもできる。小利口な人間ほど口がうまく、学者ぶって立派そうなことを言うものである。我々は、そのような批判のための理屈にまどわされてはならない。誠実な人々を批判する者は、その人自身が無慈悲で冷酷は場合が多いものである。自分だけが偉く、自分だけが聡明であると思い上がり、他の人々の論理はみな間違っていると錯覚して、けなし、批判をしていくことは、″仮面の学者″のやり方であり、和合僧を破るものであり、恐ろしいものである。
 広宣流布を目指して人を導く立場にある人ならば、仏法をひろめようと努力する人を守り、ほめたたえていくのが本当の在り方であることを、強く申し上げておきたい。
19  広布の″行動″の人を御本尊は照覧
 大聖人は、激しい法戦の渦中にあった門下の「弥三郎」(船守弥三郎とは別人といわれる)へ与えられたお手紙の中で、次のように仰せである。
 「経文歴歴と候いしかば信じ進らせて候、此の事は各各設い我等が如くなる云うにかひなき者共を責めおどし或は所を追わせ給い候とも・よも終には只は候はじ
 ──私(弥三郎)は、この法門が経文に歴然としるされているから信ずるのである。このことは、あなた方がたとえ自分たちのような、いうにかいない者どもを責めおどし、また追放したとしても、よもやついにはただではすまないであろう──。
 そして「此の御房の御心をば設い天照太神・正八幡もよも随へさせ給ひ候はじ、まして凡夫をや、されば度度の大事にもおくする心なくいよいよ強盛に御坐すと承り候と加様のすぢに申し給うべし」と。
 ──この御房(大聖人)のお心はたとえ天照太神、正八幡大菩薩でも、決して随わせることはできないであろう。まして凡夫ができるわけがない。だから(大聖人)はたびたびの大難にもおくする心なく、弘教の実践がいよいよ強盛であられると承っていると、このような話の運び方で言いなさい──。
 正法の敵と戦っている弥三郎に対して、細かく心を配られながら、信心の確信をもって堂々と言い切っていきなさいと励まされているのである。まことに力強く、勇気づけられる御文である。
 「声仏事をす」(章安大師「法華玄義私記縁起」、御書708㌻)ともいう。妙法を信受している人の語言音声ごごんおんじょうは、仏事つまり仏のなす働きとなってゆく。そのまま広宣流布の道を開く音声となる。
 A私どもの信心は、御書に照らし、経文に照らして、絶対に間違いなき正法の大道を進んでいる。ゆえに何があっても決して臆してはならない。堂々と信心の大確信を言い切っていけばよい。信心は「勇気」である。勇気ある信心にこそ″幸福の王者″の栄冠は輝くのである。
20  また建治元年(一二七五年)の五月のことである。夫に先立たれ、幼い子供を抱えながらも、懸命に信心を貫き通していた妙一尼御前に対して、大聖人はお手紙を送られている。その中で大聖人は、次のように仰せくださっている。
 「力あらばひまひらせんと・をもうところに衣を一つ給ぶでう存外の次第なり
 ──できることならば、こちら(大聖人)のほうから、あなた(妙一尼)をお訪ねしようと思っていたところへ、かえって衣を一つ届けていただいたことは、まったく思いがけない次第です──。
 「法華経はいみじき御経にてをはすれば・もし今生にきある身ともなり候いなば尼ごぜん御前の生きてをわしませ、しは草のかげにても御らんあれ、をさなききんだち公達等をばかへり見たてまつるべし
 ──法華経はありがたいお経ですから、もし私(大聖人)が今生の間、勢いのある身ともなったら、あなた(尼御前)が生きておられるにせよ、もしくは草葉の陰からご覧になっているにせよ、あなたの幼いお子さんたちのことは私(大聖人)が見守り、育てましょう──。
 そして「さど佐渡の国と申しこれと申し下人一人つけられて候は・いつの世にかわすれ候べき、此の恩は・かへりて・つかへたてまつり候べし」と。
 ──佐渡の国といい、この身延の地といい、あなたがわざわざ下人を一人つけられたことは、いつの世に忘れることがありましょうか。この恩には、また生まれてきてむくいます──。
 一家の生計を支えていた所領も、信心のゆえに取り上げられてしまった。そのうえ、夫も先立ち、あとには病気の子供や女の子が残されている。また、妙一尼自身の体も、そんなには強くない。そうしたなかで健気に信心に励んでいる妙一尼に対して″できるならばこちらのほうから駆けつけてあげたい″──これが、人生の苦悩と戦っている仏子への、御本仏のお言葉である。
 そして、大難にも心変わることなく、一途に貫き通した信心の真心に対して、大聖人は、永遠に応え、 守ってくださるとの仰せである。まことにありがたい御本仏の大慈大悲であられる。私どもも、この深くも温かきお心を拝していきたい。
21  最高に朗らかな生命の旅路
 さて、中部の天地にも、待望の墓園が、いよいよ完成の運びとなった。完成のあかつきには盛大に祝賀の集いも行われることになると思う。私どもは、御本仏・日蓮大聖人の永遠にわたる大慈大悲を深く拝しつつ、最高に朗らかな生命の旅路を、ともどもに楽しみながら進んでいきたい。
 さて大聖人は、賢明なる行動の大切さについて、四条金吾へのお手紙の中で、次のように、懇切こんせつに指導されている。
 「返す返す御心の上なれども末代のありさまを仏の説かせ給いて候には濁世には聖人も居しがたし大火の中の石の如し、且くは・こらふるやうなれども終には・くだけて灰となる、賢人も五常は口に説きて身には振舞いがたしと見へて候ぞ
 ──かえすがえすも、(このようなことは)あなたも心得ておられることではあるが、末代の世の有り様を仏は次のように説かれている。「濁悪の世には、聖人であっても世にあることは難しい。大火の中の石のようなもので、しばらくは耐えているようだが、ついには焼け砕けて、灰となってしまう」と。また「賢人も五常(儒教で教える五つの道)を口には説くが、それを我が身に実行することは難しい」と言われている──。
 「かうの座をば去れと申すぞかし、そこばく若干の人の殿を造り落さんとしつるにをとされずして・はやちぬる身が穏便ならずして造り落されなば世間に申すひでの船こぼれ又食の後に湯の無きが如し
 ──さらに(世のことわざにも)「高い地位についたら長居ながいをするな」と言うではないか。多くの人々があなたをおとしいれようとしたのに、陥れられず、もはや勝利を収めた身である。それなのに、ここで短気を起こして、おだやかでない行動をし、陥れられるようなことがあったならば、世間でよく言うように、「(せっかく一生懸命)ぎにこいできた船が、もう少しのところで浸水し、岸に着けなくなってしまう」ようなものである。また食事の後に湯がないようなものであり、最後が残念なことになってしまう──。
 大聖人は、このように、どこまでもわかりやすく、多くの例を引かれながら、門下の身を案じて、ていねいに教えを示されている。″正しき者が生きづらい悪世である。あなたはすでに勝っているのだから、ここは最後まで忍耐強く、決して短気を起こして軽率けいそつな振る舞いに出てはならない″と。
 何ごとも、最後の仕上げが大切である。最後の最後を、いかに勝利で飾るか。これこそ人生の根本命題である。その解決の究極の力が信仰である。
 その意味において、信仰者である私どもは、すべての現実の変化を信心の眼で冷静に直視しながら、また冷静に対処しながら、賢明に行動していかねばならない。そして、我が人生を勝ち抜いていくために、広宣流布の勝利を勝ち得ていくために、信心を根本に、限りなき知恵また知恵を発揮していきたい。
22  皆が使命アル尊き仏子
 最後に日達上人は、大聖人の仏法の本義から見た私どもの立場について、次のように述べておられる。
 「実の信心をもち、大聖人様の弟子檀那となった我々の居住する所、即ち常寂光土じょうじゃっこうどであります。常寂光土とは西方に求めるものではありません。また東方に求めるものでもありません。過去の十方の諸仏の所在が常寂光土ではありません。我々の現在この所、いまあなたが立っておる所、即ち常寂光土の仏国土であります。
 この仏国土を日本全国に弘め、世界に弘めてこそ真実の広宣流布が実現するのであります。故に大聖人様は御義口伝に『今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり』と仰せになっております。寿量品を説かれた釈尊が本主ではありません。真実の信心を持ち、南無妙法蓮華経の当体となった我々こそ寿量品の本主であります。寿量品の仏であります。この寿量品の文底の南無妙法蓮華経を行ずるが故に、本門寿量の当体蓮華仏とは我々のことであると、深く信心をもって確信していかなければならないのであります」と。
 広布に生きる人の存在が、仏法上、どれほど尊いか。どれほど高い地位にあるか。また、その人をさげすみ、いじめ、迫害する者の罪が、どれほど大きいか、明々白々である。
 寿量品は一切経の要中の要である。その寿量品の本主は、別しては御本仏・日蓮大聖人であられる。そして大聖人は、もったいなくも、総じて私ども門下をも「寿量品の本主」に含めてくださっている。
 日達上人は、このことを「深く信心を以て確信していかなければならないのであります」と述べられておられる。
 このお言葉の通り、私どもは厳然たる確信で進んでまいりたい。そして互いに尊敬し合い、「常寂光土」を世界に弘めゆく広布の聖業に、いよいよ邁進していきたい。
 また、かつて学会員が貧しさや病苦の我が身をもかえりみず、悪口や非難にも、嘲笑ちょうしょうにも耐えて、広布を願い、不幸な友を救おうと、懸命に歩んでいる姿に感動したと述べられ、「立派な衆生救済の仏である」とたたえてくださっている。学会活動は、まさに尊き仏・菩薩の働きをしているのである。
23  さらに、「末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」の御金言を拝して、このように語っておられる。
 「末法の今日、大聖人様のお題目を唱える我々は皆菩薩であります。その菩薩の唱える題目に自行は少しもない。ただ化他のためであります。それは我々の唱える題目は広宣流布の題目であるが故であります。広宣流布というものは、あるゆる人が共にこのお題目に生きて、この国土を常寂光土の都にならしめんとするのであります。そのためのお題目であるが故に、我々の唱えるお題目は化他の題目であるということをよく知ることができると思うのであります」
 すなわち、「自行化他」といっても、どこまでも、菩薩行として人々を救っていく「化他」が表である。化他の題目のうちに「自行」は含まれていく。それが大聖人の教えられた唱題行の本義であるとの御断言である。
 広布を目指して、全生命で「行動」していく人の題目こそ、御本仏のお心にかなった題目なのである。世界へと現実に妙法を弘めている私どもの大いなる「化他」の行動をこそ、御本仏が深く称賛してくださっていることを確信していただきたい。
 ともあれ、皆さま方は限りなく尊き御本仏の仏子であられる。だれびとであれ、その仏子を最大に大切にしていくのが、大聖人の仏法を信ずる者の道である。
 また、そこに広宣流布の流れが、断絶することなく、万年へと、いよいよ広がっていく要件がある。広布という民衆の″最極さいごくの希望″の世界に、人々が喜々として、続々と集いくる大道が開けてゆく。
24  戸田先生は、広布のために純粋な信心、実践に励む仏子である会員を、つねに、こよなく大切にされた。
 ある時は「世間の地位とか、入信の前後とかを問わず、折伏に精進しょうじんする者は、学会の重鎮じゅうちんであり、大黒柱である。会長たりとも、各部長たりとも、折伏行に精進する者に出会わば、大聖人より『善哉よきかな、善哉』とおほめにあずかっているみ仏として、立って、これをお迎えしなくてはならない」と厳しく指導されていた。
 私もまったく同じ心情である。ここに仏法の精神があり、永遠の学会精神がある。地位や役職があるから偉いのではない。信心がある人が尊いのである。
 大切な会員を見くだしたり、そまつにして、悲しい思いをさせたり、信心を失わせるようなことがあれば、幹部として失格であるばかりか、人間としても失格であると、厳しく申し上げておきたい。
 また、あるいは、現在は信心も弱く、皆さま方に苦労をかける会員もいるかもしれない。しかし、皆、使命ある仏子である。御本尊に、その方の成長を祈り、親身になって尽くし、信心を励まして、立派な人材へと育成しゆく慈愛のリーダーであっていただきたい。
 戸田先生は、新入信の友の指導について、昭和三十二年(一九五七年)八月の本部幹部会の指導をこう結んでおられる。
 「どうか御本尊様をたもたせて、御本尊をそまつにしたために一生涯そんをする、そういうかわいそうな人たちをこしらえないように、今晩お集まりの皆さんは、できるだけ会員の人たちの世話を懇切にしてあげて、『信心してよかった』と、そういう信心の喜びを味わわせていただきたいと思います」と。
 私も、そのことを心からお願いしたい。
 皆さま方が「健康」で、また勇気と団結をもって、どこまでも朗らかに、この一生を送っていただきたいことをお願いし、本日のスピーチとさせていただく。

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