Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第十五回本部幹部会 広布のロマンを世界の舞台に

1989.3.22 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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2  そこで、きょうはまず、本部幹部会の重要性について、少々論じておきたい。
 一九五八年(昭和三十三年)三月。ご存じの通り、この月は、法華本門大講堂落慶の総登山がひと月にわたって行われ、最高幹部は、総本山で運営に当たっていた。戸田先生も総本山にあり、一切の指揮をとられた。しかし、すでに先生の病状は思わしくなかった。
 そこで、当時の小泉隆理事長を中心とする執行部は「三月度の本部幹部会は中止しよう」と申し合わせた。ところが、これを聞いた戸田先生は烈火れっかのごとく叱責しっせきされた。
 「何を言うか。幹部会が最も大事な一カ月の総決算である。同志・会員も、それを目標に戦っているではないか。そして次の一カ月間の大きい出発ではないか。大事な節ではないか」と。
 執行部はえりを正し、三月度本部幹部会は、四月三日に開催する運びとなった。会場も豊島公会堂と決まる。そして四月二日の戸田先生の逝去せいきょ──。
 こうしてしくも、本部幹部会は「4・2」という「永遠の歴史の日」の翌日となり、期せずして、毅然きぜんたる広布の新出発の集いとなった。この不思議なる符合ふごうに、私は、妙法の不可思議なるリズムの一端を見る思いであった。
 ともあれ、毎月の本部幹部会は、戸田先生が魂魄こんぱくをとどめてくださった、学会前進のリズムである。この集いを毎月の節とし、個人も、支部・方面といった地域も、確かな向上の軌跡きせきを刻んできた。これからも、その方軌はまったく変わらないことを申し上げておきたい。
3  ところで本部幹部会の中止に、私は一人、反対した。戸田先生の思いを、私は、だれよりも知悉ちしつしていたつもりである。
 しかし、音楽隊の結成、また、体育祭、文化祭の開催といった、私の提案に当時の執行部は「信心には関係ない」と、みな反対した。戸田先生のみが「大作が言うならやってみなさい。将来、必ずや重要な意義を持つであろう。私が応援する」と言ってくださった。青年の思いを、だれより知っていてくださったのも、戸田先生であった。
 今ごろ、理事長であった小泉先生も、大宇宙の一角で、戸田先生と、お好きだったお酒でもみ交わしながら、懐かしい広布の思い出を笑顔で語り合っておられるかもしれない。
 戸田先生亡きあと、世間では″学会は空中分解する″等の悪意の風評が渦巻いていた。しかし、この四月三日の本部幹部会を起点とし、私どもは世評をことごとくくつがえす堂々たる大前進を成し遂げた。いわんや今日の大発展を、だれびとが予想できたであろうか。
 草創のある人が、ある時、しみじみと話していた。「学会員の顔には、根性が見られますね」と。
 いくら″純粋″″純真″といっても多少のことで動揺どうようしたり、たじろぐようでは本物の信心ではない。いざという時、悪に対しては、ふてぶてしいくらいの気迫と気概で敢然と進む──ここに学会の強さがある。
4  尊き同志の絆は″人生の宝″
 ところで、一九五一年(昭和二十六年)、厳しき冬の時代を戸田先生と私は乗り越え、先生の晴れやかな会長就任を前にした陽春のころであったと思う。ふとひもといた詩集の中に、思わず心ひかれ日記に書きとめた一詩があった。
 ホイットマンの詩である。
  英雄たちが名声を勝ちとり武勇すぐれた将軍たちが勝利をわが手に収める物語を読んでも、
  ぼくは将軍たちをうらやましいとは思わない。
  大統領の職にある大統領も、大邸宅に住む富豪も羨ましいとは少しも思わないが、
  しかし愛し合う男たちの固いちぎりのことを聞き、彼らの愛がどうであったか、
  彼らが生涯寄りそいあって、危難をくぐり非難を受けつつ、変わることなく、
  いつまでもいつまでも、若いあいだはむろんのこと壮年になり老年になってからも、
  どんなに彼らがくじけることなく、どんなに愛情豊かでどんなに忠実であったかを聞けば、
  そのとき初めてぼくの心は悲しくなり――この上なく苦しい羨望せんぼうあふれて、
  急ぎ足にぼくはその場から離れてしまう。
  (「勝ちとられた名声の物語を読むとき」、『草の葉』杉木・鍋島・酒本訳、岩波文庫)
5  ホイットマンが、ここで訴えているもの──それは真実の″人生の宝″とは何かということであろう。
 それは、大将軍の名声でもない。大統領の権勢でもなければ、大富豪の財産でもない。長き一生の旅路にあって、変わることなくつらぬかれた″人間と人間のきずな″こそが、まばゆいばかりに尊貴なものとして、詩人のたましい魅了みりょうしてやまなかったにちがいない。
 若き日より私は、この詩を美しき我が学会の同志の絆に重ね合わせてきた。
 互いを思いやる友愛の絆ほど人生にあってうるわしいものはない。いわんや「一閻浮提いちえんぶだい広宣流布」という大ロマンを共有する私どもの絆は、三世にわたり永遠である。妙法の友は生々世々、尊き同志として、広布の大使命に進んでいける。これが日蓮大聖人の仏法の世界であり、戸田先生の指導であった。
 私どもには、いかなる時も、心から励まし合える同志がいる。ある意味で、それは、親兄弟よりも強い絆でさえある場合がある。人間として、これ以上の幸せはないし、またこれ以上の安心もない。妙法に生きる同志の契りこそ、かけがえのない″人生の宝″であり″財宝″である。
 また仏子を守り励ましゆく妙法の同志は、三世十方の仏菩薩、諸天の働きにも通ずるといえるかもしれない。これほど尊く、有り難い存在と行動はないのである。
 戸田先生は「あとについてくるだけでは駄目だめだ。私を乗り越え、乗り越え進め。それが青年である」と、いつも言われていた。
 青年こそ最も大切な学会の宝である。青年たちのために、私は、世界の舞台を開きに開いてきた。青年たちがあとを継ぐためのありとあらゆる基盤を築いてきた。
 なかには、去っていった人間もいるのは、皆さまもご存じの通りである。しかし、去った人は最後は悔恨かいこんしか残らないことも、御聖訓に照らし、厳然たる事実である。
6  欧州の天地に駆けた山崎議長
 この旅路にあって私には、まさに″三世に変わらざる同志″として、若き日より、ともに走り抜いてきた何人もの方々がいる。その偉大なる同志の一人が、山崎鋭一欧州議長である。
 私が初めてヨーロッパへ旅立ったのは、一九六一年(昭和三十六年)秋の十月四日のことである。九カ国を歴訪する旅の最初の訪問地である北欧デンマークの首都・コペンハーゲンへ向けて飛び立った。
 その機上、北極付近の高度一万メートル天空から仰いだ月光の美しさ、またオーロラも、私の脳裏に今もってあざやかに刻まれている。その折、機中で私はんだ。
  北極に 光まばゆき 大月天
   はるか地球の 広布望めば
 このヨーロッパ訪問の際、私を出迎え、そして十八日間の日程の最後まで行動をともにしてくれたのが、ドクター・ヤマザキ、すなわち山崎議長である。
 医学博士の彼はちょうど、フランスが誇る超一流の研究・教育機関である「コレージュ・ド・フランス」に赴任ふにんしたばかりであった。その彼が苦心して休暇を取り、最初にせ参じてくださった──そのことを私は終生忘れない。
 そこで同じく思い起こすのは、私がやはり初めてアメリカへ渡った時のことである。シカゴの空港に着いて機内から降りると、デッキで元気な日本人の青年が「先生!」と手を振って迎えてくれた。それが当時、石油会社の技師としてアメリカに出張していた青木副会長であった。そのはつらつとした姿を、私は今もって忘れない。
 私が初めてヨーロッパを訪れたとき、全ヨーロッパで学会員として掌握しょうあくされていたのは八人のメンバーにすぎなかった。しかし、この時ヨーロッパは、この三十七歳の若きドクターを中心として、無限の希望をはらんだ″第一歩″を私とともに踏み出した。
 以来、二十八星霜──。今やヨーロッパには、るぎない″人材の城″が堂々と築き上げられた。
 この間、山崎議長は、ただ一筋にヨーロッパ広布の年輪を、一年、また一年と重ねてきた。彼は、今年で六十六歳を迎えるが、ヨーロッパ広布に尽くしてきたその功労を、私は心から賛嘆さんたんし、喝采かっさいを送り、また、ねぎらいたい。
7  彼は新潟大学を卒業後、アメリカのハーバード大学、さらに東京大学の研究員を経て、パリのコレージュ・ド・フランスで約三年間にわたり研究に従事。甲状腺こうじょうせんの世界的レベルの研究を手がけていた。日本で最初の甲状腺専門病院の副院長を務めたこともある。
 彼の研究成果は医学の専門書にも収められているという。またかつて共同研究をしていた同僚はノーベル賞を受賞している。彼自身も、そのまま研究に専念し続けていたならば、ノーベル賞級の業績を残したであろう。しかし、あえてその栄光の道には行かなかった。みずから地位も財産も名誉も、何もかもかなぐり捨てて、私とともに、すべてをヨーロッパ広布にけたのである。
 ひとたび約束した使命の道を、悩める人々のため、広宣流布のために──これが彼の変わらぬ信念であった。
8  山崎議長は、後に研究室を去り、SGF(フランス日蓮正宗)に勤務する。住いは、パリ会館の管理者室。私もよく知っているが、それは狭い、一部屋だけのものであった。
 しかも、朝早くから夜遅くまで、メンバーの出入りは絶えない。周囲は、一軒家に引っ越してはどうか、とすすめた。だが彼は、″この部屋で結構です。夫婦二人だけなんですから″と、がんとして聞きいれなかったという。
 彼は、メンバーの面倒をよくみた。尊い仏子を守り、小さいけれども大切な広布の城を守り抜いたのである。
 日本とは事情も違う。メンバーの気質も異なる。口には言えないさまざまな苦悩があったことだろう。だが、″必死の一人″の努力と行動は、広布の組織を立派に構築し、見事に回転させていったのである。
 かつて議長夫妻は、地方指導からの帰路、交通事故で九死に一生を得たことがある。
 車で欧州各国を駆け巡る日々であった。西ドイツへ、ベルギーへ、スイスへと──。過労と睡眠不足も重なっていたことだろう。
 一報を聞き、私はすぐさま駆け付けたい思いであった。しかし、事情がそれを許さない。折から来日中であり、パリ経由で帰国する海外の首脳メンバーにお願いし、私に代わってお見舞いに行っていただいた。夜半、街路樹の大木にぶつかっての大事故である。生命が危ぶまれた。だが、広布に戦う人に諸天の加護は厳然と現れてくる。
 この事故の際、議長夫妻は、フランス人から三十リットルもの輸血を受けた。
 そして彼は病床にあって、深く心に誓ったのである。──私はフランス人に助けられた。よし、フランス人の血が流れるこの五体を、終生フランスにささげよう、と。死にひんした体験の中に生まれた、崇高な決意であった。
 その後、私は「両親も待っている。妹もいる。日本に帰ってきたらどうか」と勧めたことがある。だが、彼は決意を変えることはなかった。
9  なお、彼を初めて私に紹介したのは、先に入信されていたご両親と、妹さんの秋山栄子SGI婦人部長であった。
 当時はまだ未入信であった彼と、私は幾度となく語り合った。
 何ごとによらず、人の心を開きゆくものは腹蔵ふくぞうのない対話である。友人として、人間として、率直にして誠実な語らいを続けるところに、信仰への契機もおのずと訪れるものだ。
 彼の専門である医学についてはもちろん、科学、経済、歴史等と、幅広く対話を積み重ねる中で、彼の心は仏法へ開かれていった。やがて彼は、入信を決意するに至ったのである。
 その後、研究のために渡欧したいとの相談に私は心から賛成し、彼は欧州へ旅立っていった。仏法者としての彼の出発は、こうして始まったのである。
10  一九六七年(昭和四十二年)五月、私は、日達上人をご案内し、ヨーロッパ、アメリカを訪問した。
 その折、日達上人が次のように仰せになったことが忘れられない。「れ末法一閻浮堤いちえんぶだい能為救護のういくごの本仏日蓮大聖人日本国に出生して法華本門寿量文底下種の大法を弘宣ぐせんし給いしより七百有余年 近時創価学会の出現して仏勅ぶっちょくかしこみ白法を東西に敷揚ふようし民衆救済の慈折をもっぱらにす その及ぶところ日本国内にとどまらず 遠く欧米諸国に達せり まことに仏記を虚妄こもうなからしむる浄業とうべし
 の欧州の地にあっては 一九六一年以来法華講総講頭池田大作自ら渡欧し教化指導を行うこと四度 此の間正法帰依の各国に漸増ぜんぞうす」(『日達上人全集 第一輯第一巻』)と。
 ここに明確に述べられているように、創価学会の出現と前進は、仏意仏勅によるのである。私は大聖人の御遺命を実現するために、世界の広宣流布へと駆けてきた。そしてヨーロッパをはじめ世界各国で、私と心を同じくする山崎議長ら妙法の同志が法戦に戦ってこられたのである。それは広布史に、永遠に残る浄業である。
 この「仏勅の浄業」にともに進んでこられた皆さま方の名誉と功徳はいかばかりか。それを深く確信していただきたい。
 この広布の聖業という「極善ごくぜんの道」をはずれて、大福運の人生は決してありえない。先ほどもラウン会長とお話ししたが、極善に賛同すれば「極善」となり、極善に反すれば「極悪」となるからである。
11  鋭き知性の目はわれらの運動に期待
 さてヨーロッパにも、私どもの平和への前進を注目し、深く見つめている人は多い。その一人に、フランス社会科学高等研究院教授のセルジュ・コルム氏がいる。氏は、仏教の可能性について、こう表現している。
 「仏教のみが人間を隷属化れいぞくかから解き放ち、自由を内容豊かなものとして救いあげることができる。仏教は解放の達成であり、この解放はバスティーユ牢獄を取り払うというよりは、むしろ獄舎を宮廷に変え得るものなのである。したがって仏教は、まさに現代世界が必要とする治療法である」(『幸福と自由』序文から。高橋寿美江訳、「東洋学術研究」第二十八巻一号所収)
 すなわち、権威や権力からの個人の″自由″は西欧において最優先されてきた価値である。しかし反面、近代の個人主義は人々に不安や孤独をもたらしてきた。その反動としてつねにファシズムの危険がある。
 不安定な自由か、それとも自由の放棄ほうきか。コルム氏は、現代のこの根本的課題に対して、「自己を乗り越える道」を教えた仏教こそが唯一ゆいいつの「治療法」であると結論する。
 「内容豊かな自由」という、個人の真の解放。それは、たとえていえば、フランス革命でバスチーユの牢獄を打倒したような外的な自由というよりは、むしろ牢獄をも宮廷に変えるような、深き自由の境涯から発する社会の変革である──と。
 氏の言葉は、ある意味で、煩悩即菩提ぼんのうそくぼだいの法義に通ずるともいえよう。ここに真実の自由も解放も安穏も変革もある。
12  このように深い仏教理解を示すコルム氏は、SGFに大きな期待を寄せている。
 すなわち「(仏教の実践には)やはり師弟関係ならびに同志関係が必要ではないでしょうか。人間を触発するのは人間だからです。また当然、組織がなければ仏教は社会に浸透していきません」と。
 「師弟」と「同志」による触発、そして「組織」の必要性。まことに仏法の実践と流布への″急所″を押さえた指摘である。一流の人の眼光は、見るべきところを見のがさない。
 氏はさらに「SGFが西洋において、ことにフランスにおいて、民衆に支持され、今後ますます発展すれば、本当にうれしく思います。SGFは現在でも仏教流布の大きな役割を担っていますが、私はもっと大きな役割、すなわちフランス社会の活性化へ向けて、もっと活躍できる団体であると信じています」とも語っている。
 このように、心ある″世界の目″″知性の目″は私どもの行動を確かに見ている。真剣に着目し、その発展を待望している。
 こうした事実からも、私どもの運動が日本一国のみを舞台にしたものではなく、つねに世界的スケールで進んでいることを、一段と深く確信していただきたい。
13  無辺の功徳積みゆく日々を
 私は本年、十二回目のヨーロッパ訪問に旅立つ予定である。さまざまな行事等を予定しているが、なにより五十年先、百年先、二百年先の大いなる結実を見すえて、道を開きに開いていく決心である。また明年からも、北南米へ、アフリカへと、いよいよ本格的な平和旅を始めていく。
 日本のことは秋谷会長を中心に、万事、皆さまの団結の力でお願いしたい。また、それだけの訓練は行ってきたし、私はもはや日本は盤石ばんじゃくであると信じ、安心している。
 戸田先生は、かつて、こう叫ばれた。
 「仏法は勝負である。国法は正邪である。世法は評判である。この三つがわからぬと、信心がわからなくなる。また戸田の哲学はわからい」と。
 世間は表面のみの″評判″で動いていく。そんな浮薄ふはくな現象につねに動かされていく自分であれば、まことの信心ではない。まことの仏法者ではない。
 また国法をおかせば、罰せられる。しかし、その法も時とともに変わり、法の解釈も場合によって違う。
 仏法は、これらに比べて根本的な次元の法である。永遠の大法を基準にして、現実の上に、人生と社会で勝利するかいなか、また成仏したかどうかを問題にする。いな絶対の法が基準であるゆえに、信心の一念が強く正しきかぎり、「勝利」できないはずがない。「勝利」こそ正しき実践の証明なのである。
 この三つの次元の違いを、皆さまは、心に深く刻んでいただきたい。
14  あらゆる意味で、妙法の世界につらなることが、どれほど素晴らしいことか。総じて、妙法のための労苦、広布のための悩みは、どんな小さなことであっても、限りない福運となって、我が生命を永遠に飾っていく。
 日蓮大聖人は「十方の諸天此れをしり給うべし」と仰せである。″信心の真心の行動は、全宇宙の諸天善神が、間違いなく照覧しょうらんされていますよ″と、御本仏は確かに保証してくださっている。
 そして、あたかも、小さなマッチの火が広大な草原に広がっていくように、妙法に連なる労苦は、宇宙大に広がりゆく大きな功徳に変わるのである。
 御本尊が、また諸天が全部、見ておられる。このことを確信すれば、凡知ぼんちの人間による毀誉褒貶きよほうへんなど、まったく問題ではない。
 さらに大聖人は「生生に失せじ世世にちざらむかし」と仰せである。
 生々世々に消えることなく、朽(く)ちることのない大福運を積んでいるのが、私どもの日々の仏道修行なのである。そのあかしは必ずや今世に現れてくるにちがいない。
 全宇宙に通じ、また永遠に通じていく福徳。あっという間に終わってしまう、この人生にあって、自他ともに、その「金剛のさち」を得ていく広布の活動以上に、尊く、価値ある行動は絶対にない。この大確信で、一日また一日、無辺の功徳を積みゆく人生であっていただきたい。
 ともあれ、いかなることにも揺るがぬ″平然たる信心″でなければならない。何ものをも恐れず、平然と生き、平然と戦い、平然と乗り越えていく勇者であっていただきたい。最後に、このことをお願いし、皆さまのご健勝を心よりお祈りしつつ、本日のスピーチとしたい。

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