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日蓮大聖人・池田大作

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第十四回本部幹部会 悠久なる″民衆平和の長城″を

1989.2.20 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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1  中日友好を万代へと
 寒い二月、広宣流布のために、日夜、活躍してくださっている皆さま方に、私はただただこうべをたれ、合掌がっしょうして、心からの敬意を表したい。
 本日の本部幹部会は、本来、東京の港・渋谷・荒川区の代表の方々を迎えて行う予定であったが、さまざまな意味から、秋谷会長らとも相談の上、ここ神奈川で開催することになったことを、ご了承願いたい。
 神奈川を今回、訪問させていただいた理由の一つは、先日、ここ神奈川文化会館で、「中日友好協会」訪日代表団の歓送会を行わせていただいた。その御礼を申し上げたかったからである。
 神奈川の皆さまの誠実な、それでいてスマートな温かいおもてなしを、孫平化そんへいか会長はじめ一行の方々も、心から笑顔で喜んでおられた。この席をお借りして、あらためて感謝申し上げたい。
 歓送会での孫会長のあいさつは「聖教新聞」にも掲載されたが(一月二十四日付)、その中で「創価学会の青年たちこそ、二十一世紀の中日友好の主人公である」と語っておられた。
 孫会長は、めったに″おせじ″を言わない方である。私どもの行動に、どれほど深い信頼と期待を寄せてくださっているか。その心にこたえる意味でも、私どもは、いよいよ、民衆の大地に根ざした、このとうとい″心の交流の世界″を、万代へと広げてまいりたい。
 所詮、民衆ほど強いものはない。民衆ほど賢明なものもない。かつてある著名な政治家は「大衆をなめてはいかん」と言ったが、学会の強みは、この大いなる民衆の大地に深く根をおろしている点にある。
 ここから出発して、中国をはじめ世界の民衆の間に、いわば″平和と友好の「万里の長城」″を建設していくのが、私どもの使命でもある。
 そこで、きょうは、この「万里の長城」を通して、少々、所感を語っておきたい。私にとって一日一日が、広布の永遠の旅路にあって、かけがえのない日であるし、語るべきことはすべて、後世にきちんと語り残しておきたいからだ。
2  じつは、かねてより「第七次訪中」のご招待を頂戴しており、できれば今秋にでも訪問させていただきたいと念願している。
 なお、その折、これまで海外に一度も行かれたことのない壮年・婦人の幹部の皆さまの中から、代表の方々とご一緒に訪中したいと考えている。そして「万里の長城」で、晴れ晴れと学会の三色旗を掲げ、「日中友好万歳ばんざい!」と叫びながら、ともに記念の写真に納まるような、ひとときを持てればと願っている。
 そこで日本の″中国″のうた「地涌の讃歌」を高らかに歌ってもよいと思う。とはいえ、行ける人数は限られているし、また行く人が、お子さん方に問われて困(こま)らないためにも、一足先に、「万里の長城」のお話をさせていただく次第である。
3  「万里の長城」に長き建造の歴史
 十五年前、最初の訪中の際である。「万里の長城」の一角である八達嶺はったつれい居庸関きょようかんを、私は訪れた。
 初夏の日差しがこころよい、美しい六月のことである。少年の日より胸に思いえがいてきたあこがれの長城は、峨々ががたる山並みに、事実、どこまでも果てしなく続いていた。この六月五日は、私にとって忘れ得ぬ歴史の日となった。
 長城に立って、私は戸田先生をしのんだ。東洋の平和を祈り、東洋の民衆の幸を熱願しておられた先生。その胸中を思いつつ、戸田先生に代わって今、私は訪れているのだ――と。
 世界のどの地にあっても、私は「永遠の平和」への確かな足跡そくせきをしるす思いで立った。パリの凱旋門がいせんもん、ニューヨークのマンハッタン、モスクワの赤の広場……。全世界に、今世の使命の歴史を刻印こくいんしきっておく決意で私はけてきた。
 長城の雄大な景観は、まさに「長城 地勢けんにして 萬里ばんり 雲とひとし」(長城は地勢がけわしく、万里のかなたまで連なり、雲間に届くほどに見える)と、うたわれている通りであった。
 ちなみに、これは有名な詩文集『文選もんぜん』に収められた一詩にある。いうまでもなく、『文選』は、周朝以来、約千年間のすぐれた詩や文など約八百編を、えりすぐって集めた書である。
 ――文章も時の流れに吟味ぎんみされ、淘汰とうたされていく。千年の歳月をも越えてかおりゆく名文を味わうことは人生の大きな楽しみである。
4  ところで、かつて私は、フランスの″行動する文化人″アンドレ・マルロー氏と対談した。彼は、かつて訪れた思い出の「万里の長城」を二十年後に再訪した感慨を、こう書いている。
 「竜蛇りゅうだ宛転えんてんとして丘また丘をこえ、どこまでも突き伸びていく姿は、昔日せきじつをさながらである」(『反回想録』竹本忠雄訳、新潮社)。
 彼の言う通り、長城は広大な中国大陸に横たわる一頭の大竜にたとえられる。
 その頭は、東の渤海湾ぼっかいわんにのぞむ「山海関さんかいかん」。
 その尾は、西の万年雪の祁連きれん山脈を仰ぐ「嘉峪関かよくかん」。
 全長は約六千キロとなる。中国では約一万二千里(長里)であり、文字どおり「万里」の長城である。これは日本でいえば、北海道の稚内わっかないから九州の鹿児島までを往復しても、なお達しない距離である。
 その姿は、宇宙からもよく見えると、宇宙飛行士が証言している。まさしく東洋の、そして人類の壮大なる遺産である。
5  さて、″長城″建設の歴史は、春秋時代(紀元前七七〇年〜同四〇三年)までさかのぼるとされている。
 「長城」という名が文献に現れるのは、続く戦国時代(紀元前四〇三年〜同二二一年)である。有名な司馬遷しばせんの『史記』に、紀元前三六九年のこととして「中山、長城を築く」(中山という小国が長城を築いた)とあるのが最初という(青木富太郎著『万里の長城』、近藤出版社)。
 では、なぜ長城が築かれたのか。
 それは、総じていえば、遊牧民である北方の騎馬隊によって、華北の豊かな農耕地帯が荒らされるのを防ぐためである。つまり、馬に乗って猛然と攻めてくる外敵の侵入を押しとどめるため、堅固な″城壁″が各地に造られ始めた。これが「長城」の出発点となった。
 自分たちの地域は自分たちで守る。負ければ一切を失うゆえに、ありとあらゆる知恵と力をふりしぼって、我がとりでを守り、侵略者と戦っていく――。長城は、この必死の闘争の象徴でもあった。
6  人生もまた、すべて闘争である。個人も団体も国家も、勝ってこそ栄え、敗れれば滅びていくほかない。非情のようだがこれが不変の鉄則である。
 大聖人は「一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する是を名字即と為す」――(世間の)一切法は、すべて仏法であるとさとり、会得えとくする位を(成仏の本因の位である)名字即とする――と仰せである。
 世間の実相が闘争があるならば、仏法もそれを離れたところにはありえない。仏法は、断じて安閑あんかんたる感傷かんしょうの世界ではない。一生成仏と広宣流布への峻厳しゅんげんなる戦いの連続なのである。そして、人生の上でも、一切に勝ち、だれよりもたくましく、賢明に勝利しきっていく。そのための無限の源泉が「信心」である。
7  民を守る″広布の長城″
 ところで、「城」という漢字には「民をれる」という義があるとされる。中国では都市を城壁で囲み、その中に民衆も住んでいた。
 また「城」の″つくり″の「成」は、「ほこ」と「てい(打ち固める)」からなり「たたいて固め、まとめ上げる」意味、あるいは「(小刀の一種)」と「丁」もしくは「|(しゅう)」(幾度も重ねる)からなり、小刀で何度も削って「つくり上げる、完成させる」意味などとされている。
 また兵器である「」を完成させる儀式に由来するとの説もある。
 ともあれ、「城」は、民衆がそこで安全に暮らせるために、土をもって堅固に築いた外壁である。「民を守る」ところに、その重要な本義があるといってよい。
8  戸田先生のお名前は「城聖」。また、それ以前には「城外」と名乗っておられた時期もあった。その名のごとく、あらゆる魔の軍勢から正法を守り、仏子を守り抜かれた崇高なる「城」の存在であられた。
 また、戸田先生は、広宣流布という大法戦の比類ひるいなき「大将軍」であられた。とともに、比類なき「大参謀だいさんぼう」でもあった。
 しかし、その先生が、かわいい我が学会員、我が弟子がいじめられ、苦しむ姿をひとたび目にするや、すべてをかなぐり捨てて、″一兵卒いっぺいそつ″となって、我らの中に飛び込み、戦われた。
 かつて、ある支部長が、西神田の旧学会本部での法華経講義を受けて帰る途中、男にからまれケンカになってしまった。それを聞かれた戸田先生はすぐさま飛び出して行かれ、「私の可愛い弟子を、なぜいじめる」といって、相手に立ち向かっていかれた。
 先生はお体も弱く、強度の近眼のために足元もおぼつかない状態だった。その先生が猛々たけだけしい男を相手に、身の危険もかえりみずいどまれていった。そうまでして、その支部長を守ろうとされたのである。
 門下のためには、我が身はどうなってもよい――戸田先生の深き慈愛の姿を、私は幾度となく見てきた。皆さまも、尊き仏子を守り抜くためには決して憶病であってはならない。つねに最前線に飛び込み、″一兵卒″となって毅然きぜんとして戦う″勇将″であっていただきたい。
9  昭和三十三年三月二十九日、戸田先生が亡くなられる四日前のことである。総本山大石寺は大講堂落慶記念総登山が挙行されていた。この日は、寒い一日であった。
 その一カ月ほど前、総本山で最後の指揮をられるにあたって、先生は「組織を乱しゆく者、信心利用の者は、厳しく見抜き、闘ってゆけ」と厳たる叫びを放たれた――。そのお心を体し、この日も青年部は、学会をつねに軽蔑けいべつし、いじめてきたある人物と、戦わざるをえなくなった。
 すでにお体が衰弱され、寝ておられた先生は、毅然と「一歩も退いてはならない。追撃の手をゆるめるな」と言われた。
 これが、青年部に対する最後のご指示であった。先生と私の二人だけの場で残された「遺言」の一つとなった。この先生のお言葉を今、私も同じく後継の青年部の諸君に、明確に訴え、残しておきたい。
 戸田先生が逝去せいきょされて一カ月後の第十八回総会の折、世日達上人(当時、総監)は次のように私どもを励ましてくださった。
 「皆さんの歌う歌には″広宣流布の一筋はこれ学会の大精神″と歌っております。あの戸田会長の心をつぎ、宗祖日蓮大聖人の正法を広宣流布せんと精進し、毎日悪魔、魔民の謗法と闘っておる皆さんのその心に、すでに(=戸田会長は)生れ帰っておるのであります。
 皆さん、なにものにも決して恐れることなかれ(中略)皆さんが戸田会長の死を皆さんの心に生れ帰らせて、大聖人の正法を弘通する時、諸天善神は必ず皆さんを守護せられるのであります」(『日達上人全集 第一輯第三巻』)と――。このお言葉のままに、私どもは、戸田先生の遺訓を胸に堂々と進んでいきたい。
10  ところで、はじめは各地にバラバラに点在していた城壁――先ほどふれたように、かつて中国では、ほとんどの都市がそれぞれ城壁で囲まれていた。村落や個人の住居でさえ、防御ぼうぎょのために壁をめぐらしていたといわれる。
 その城壁を都市のみではなく、辺境の地にも防御の長い城として築いていった。それは防衛のためという同じ目的ではあったが、形の上では、四方を囲むものではなく、囲みを開き一本の線をなす城とした。そこに発想の拡大、転換があったと私は見たい。
 統一国家ができるまでは、分立した国が辺境の地に、断片的ともいえる城を築いていた。それらをつなぎ合わせて一つの″長城″とし、大きく外に目を開くように敵に対処していったのがしんの始皇帝の時代である。
 次元は異なるが、こうした外に目を開いて長城を築いていったことを、私どもの活動にも敷衍して考えることができる。
 つまり、目先のことばかりにとらわれたり、自分のせまい考えにのみ汲々きゅうきゅうとしていては、新しい前進はない。「広宣流布のため」「学会のため」「会員のため」「後輩のため」に、心を一歩開いていったときに、自身の境涯も晴れ晴れと広がっていくのである。
 ″発想の転換″が、大きく自分を開いていく――このことは人事の交流においても、また広布の活動全般にわたって通じていくことである。
11  さて、その後も、さまざまな時代と勢力図の変遷へんせんにより、長城は新たに築かれたり、修築されたりした。ほぼ現在の規模の長城となったのはみんの時代の十六世紀末である(以下、長城についてはジャック・ジェルネ他著『万里の長城』日比野丈夫監訳、田島淳訳、河出書房新社を参照)。その間、およそ二千年。まことに中国ならではの、悠久ゆうきゅうなるスケールである。
 この長遠のスケールに比べれば、五十年、百年の活動など短いものである。戸田先生は二百年単位で広布の未来をみておられたが、大聖人の御遺命ごゆいめいは末法万年にわたる広宣流布の法戦である。しかも、宇宙大の仏法を日本、いな全世界へと流布しゆく戦いである。
 一生のような短いスケールではない。何度も生まれては次第次第に成し遂げられていく、広布の大長征である。その永遠性、規模の大きさからいっても、″万里の長城″の構築とは比較できない、私どもの″広布の長城″の建設なのである。
 中国の長城は、見張り台、のろし台、とりでなどの配置、長城自体の高さ、幅などの大きさ等、じつに緻密ちみつに計算された構造をしており、無駄むだな部分、孤立した部分はないといわれる。そして、時代に応じて、軍事的な防衛の役割だけでなく、積極的な交易を支え、はるかなるシルクロードの安全を守るという重要な役割をも担ってきた。
 いわんや不幸と悲惨ひさんから人類を守るための″広布の長城″を築いている私どもは、一人一人が力を合わせ、強調しあい、連帯のきずなを世界に広げながら、一歩一歩、着実に広布の聖業を成し遂げていかねばならない。
12  長城建設のかげに多大な民衆の犠牲
 ところで、万里の長城の建設には、多くの庶民の犠牲ぎせいがあった。兵士、農民、囚人しゅうじん等が、この大事業にかり出された。
 とくに農民は、秦の始皇帝時代に五十万人、北魏ほくぎ王朝の四四六年には三十万人、北斉ほくせいの五五五年には百八十万人、ずいの六〇七年には百万人、というように、大変な人数が、強制的に徴用ちょうようされたといわれる。
 秦の時代、始皇帝の命によって、万里の長城建設の指揮官として活躍したのが、武将・蒙恬もうてんであった。彼は、始皇帝を支え強大な秦を築いた重臣じゅうしんの一人であったが、始皇帝の死後、権力争いの陰謀いんぼうにかかり、死をせんせられる。
 この蒙恬について、司馬遷は『史記』に次のような趣旨のことを書き残している。
 ――長城の建設は、まったく人々の労苦を顧みない事業であった。天下統一の戦いが終わった直後は、人心はなお安定せず、負傷者の傷もまだ治ってはいなかった。こういう時こそ、始皇帝を強くいさめ、人々の困窮こんきゅうを救い、和合を図っていくべきであった。しかし、主君におもねて、工事をおこした。これでは蒙恬が罪をえたのも当然である、と。
 さすが司馬遷の指摘は鋭い。蒙恬にしても、長城の建設は始皇帝の命であるし、それを拒否することは難しい。だが、苦役くえきを受ける人々は疲れている。今は人々を休ませ、急を救っていくべきだ。皇帝にそのことを強く進言すべきであった。それを行わず工事を興した蒙恬の罪は重い、と断罪しているのである。
13  為政者いせいしゃにとって、民衆こそ根本である。民衆を大事にするのは指導者としての当然のあるべき姿である。それなくして、いかなる国も、いかなる組織も発展はない。
 私がつねづね″仏子である会員を大事にしなければいけない。疲れさせてはいけない″と訴えているのも、この心からである。
 私は、入信以来四十年間、学会員の方々の幸福と安穏を祈りに祈ってきた。あらゆる苦難の矢面やおもてに一人立って、血のにじむような思いで、会員を守りに守ってきた。それは、すべて御本尊が御照覧のことと確信している。
 長城建設の犠牲者である庶民の悲劇は、伝説や民謡として語り継がれている。
 近代になって、文豪・魯迅ろじんも、万里の長城が、いかに無意味に労働者を苦しめたかを、書き残している。また、長城建設にたずさわった人々の名前を刻んだ石碑も、残っているにはいる。しかし、それはごく一部の人に限られており、ほとんどの人たちの名も功績も残されてはいない。
 いつの時代にあっても、最も労苦の作業を為し遂げているのは庶民である。だが、それを指示した人の名は顕彰けんしょうされても、実際に労作業に汗水流した人々の名を顕彰することは少なかった。
 その意味からも私は、広宣流布のために戦ってこられた方々の尊きお名前をあらゆる機会、方法を通して、後世に残し、たたえていきたいと念願している。神奈川の広宣流布の銘板もそうである。また日本中の各地にも刻まれているし、世界でも行われている。
14  万里の長城の建設。そこにみられる「民を守る長城」という理想と、「民を苦しめる長城」という現実――この深刻な落差に、民衆の悲劇があった。
 次元は異なるが、私どもは一生成仏のために仏道修行をしている。また、世界の人々の幸福のためにも、広宣流布を進めている。仏道修行にも、広布の戦いにも、数々の苦難はある。幸福という理想と、仏道修行という労苦の現実という″落差″に悩む人もいるかもしれない。
 しかし、仏道修行、広宣流布のための労苦は、幸福を築くための労苦である。それは理想と現実の″落差″ではなく、幸福のための″直道″なのである。
 このように仏道修行や広布のための苦労はある。だが、信心以外のことで利用され苦しむ必要は何もない。
 これまでも純粋で真面目な学会員を利用して、自分たちのよこしまな目的を為し遂げようとする黒い動きがあった。今後も、そうした動きが必ず起きてくるだろうが、もはや絶対に許してはならない。
 それらを許せば、結局、学会員が苦しむことになり、信心の世界をにごらせてしまうからである。
 戸田先生は「闘おうではないか! 青年諸氏よ」と言われた。学会利用の邪悪な動きと、どこまでも戦い抜いていくのが青年部の伝統精神である。
 また大聖人は、「法華折伏・破権門理」と。これが大聖人の仏法の精神である。この精神のままに私どもは、どこまでも誤れる邪な勢力とは、戦い抜いていきたい。
15  ところで、長城には数多くのかん(関所)がある。それらには、建設や守備、戦いをめぐってのさまざまなドラマが秘められている。その中の一つに「娘子関じょうしかん」がある。かつて、ずい王朝の支配に反対する唐の高祖こうそ李淵りえんが戦いを起こしたさいのことである。その娘、平陽公主へいようこうしゅは、すでにとついでいた身にもかかわらず、けなげにも父のもとにせ参じようと、夫ともども立ち上がる。そして、家財をも売り払い、七万人の女性を集めてこの地に駐屯ちゅうとんしたことなどから、「娘子関」と呼ばれるようになったという。
 本来ならば、彼女には戦いに身を投じる必然性はなかったかもしれない。しかも隋は強大である。が、唐のため、そして唐のために立った父のため、あえて彼女は立ち上がったのである。
 大いなる目的のため自身の弱さを超えて敢然かんぜんと戦った勇気と信念――。これは中国に伝えられてきた名高いエピソードであり、長城の歴史に刻まれた、まさに一つのドラマであるといえよう。
16  胸中に崩れざる″精神の長城″を
 さて、長城のもつ歴史的意義について、七十年前に西洋のある政治学者が次のように語っている。
 「それ(=万里の長城)は中国文明をつくり、はぐくんできた力のひとつである。長城は十分に任務を果たした。それはいずれぼろぼろにくだけ去るかもしれない。しかし、かくも長いあいだ長城に守られてきた民族は、一歩一歩と無形の内面的防衛線を築きあげ、それを長城の花崗岩かこうがんよりも堅固な形に、伝統と生活の中で結晶させてきた。遠い将来にわたって、いかなる外部からの侵入も、それを崩壊ほうかいさせることはできないだろう」(前掲、J・ジェルネ他著『万里の長城』)と。
 ――長城という、有形の建造物よりも堅固なもの。それは人々の胸中に築かれてきた、精神の長城であるといえよう。
 私が「万里の長城」を訪れた折には、当時中日友好協会理事の金蘇城きんそじょう氏が案内してくださった。
 私たちは、長城の上を歩きながら語り合った。そのさいに金氏が「池田先生、心の長城が一番強い。精神の長城は無敵です」と語っていたことが今も忘れられない。
17  法華経の「薬王品第二十三」には次のように説かれている。「なんじすでもろもろ魔賊まぞくを破し、生死しょうじいくさし、諸余の怨敵おんてきことごと摧滅さいめつせり」(開結六〇五㌻)
 ――あなたはすでによく諸の悪魔の賊を破り、生死の軍勢を破し、その他の諸の怨敵も、皆ことごとく滅ぼすことができた――と。
 妙法信受の強き一念にこそ、広布をはばむ魔賊にも、生死の迷いと苦しみという人生の根本の戦いにも勝ち、乗り越えていく、最も確かなる力がある。どうか皆さま方は、この信心の一念で、いかなる状況にも微動だにしない、金剛こんごうにして不壊ふえなる″生命の長城″を築いていっていただきたい。
18  さて、中国の北宋ほくそう時代(九六〇〜一一二七年)の第八代皇帝・徽宗きそうは「万里の長城」を越えて攻め入った異民族にらえられ、北方の地へ連れ去られた。
 日蓮大聖人は、その故事にふれられつつ、南条時光に不惜の信心について述べられている。
 「徽宗皇帝は漢土の主じ・蒙古国に・からめとられさせ給いぬ、隠岐の法王は日本国のあるじ・右京の権大夫殿に・せめられさせ給いて・島にてはてさせ給いぬ、法華経のゆへにてだにも・あるならば即身に仏にもならせ給いなん
 ――徽宗皇帝は中国の君主であったが、蒙古国に捕らえられてしまった。それがもしも、法華経のゆえでさえあったならば、即身に成仏されたであろう――。
 「わづかの事には身をやぶり命をすつれども、法華経の御ゆへに・あやしのとがに・あたらんとおもふ人は候はぬぞ、身にて心みさせ給い候いぬらん、たうとし・たうとし
 ――このように、些細ささいなことには身を破り、命を捨てるけれども、法華経のゆえに不当な罪科ざいかにあおうと思う人はいないものだ。あなたは、それを身でこころみられたのであろう。尊いことである。尊いことである――と。
 時光は、熱原の苛烈かれつな法難にあっても、また、弟の死にあたっても、決してひるむことなく、つねに前へ前へと、法のため、仏子のために戦い抜いた。凛々りりしき青年の活躍を、大聖人は、いかばかりか頼もしく、またうれしく思われたことであろう。この御文は、その時光の活躍と成長の姿をたたえつつ、法華経に生命をして行動し抜くことの功徳の無量を述べられたものと拝せる。
19  宗皇帝は、中国一の権力者であった。が、その最期は悲惨であった。この世の栄耀栄華えいようえいがは所詮、ひとときの、はかない夢にすぎない。「諸行無常」の言葉のごとく、万物は移ろい、定まることを知らない。森羅万象は絶えず変化し、生々流転を繰り返していく。
 妙法は、常住不滅の大法である。その大法をたもった私どもは、胸中に堅固な「生命の長城」を築き、無量の福徳を積むことができる。三世にわたり、生死生死と、常楽我浄の光彩を増しながら、確たる黄金の軌道を進んでいける。ゆえに、この使命の道だけは、最後の最後まで、まっとうし抜いていかねばならない。
 大聖人は、同じ南条時光に与えられた御抄の中で、次のようにも仰せである。
 「とにかくに死は一定なり、其の時のなげきは・たうじ当時のごとし、をなじくは・かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海にあつらへ・ちりを大地にうづむとをもへ
 ――ともかく、死は一定である。死ぬときの嘆きは、現在の苦しみと同じである。同じことなら、かりにも法華経のために命を捨てなさい。それこそ、あたかも露を大海に入れ、塵を大地に埋めるようなものであると思いなさい――。
 まことに有名な御聖訓である。
 「つゆを大海にあつらへ・ちりを大地にうづむとをもへ」――つまり、一人一人の生命は、露や塵のように小さな存在かもしれない。が、法華経に命を尽くしていくならば、大宇宙を貫く法則に合致し、永遠なる幸福境界を得ることができる。
 大聖人は引き続きこう述べられ、本抄を結ばれている。
 「法華経の第三に云く「願くは此の功徳を以て普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」云云」。
 この法華経化城喩品第七の一節を本抄の末尾に大聖人が引かれたところに、私は、甚深じんじんの意義を感じてならない。
 この経文は、梵天ぼんてん大通智勝仏だいつうちしょうぶつに願を起こし、仏に供養する功徳があまねく一切に及んで、自身と衆生が「共に」成仏しうるように願った偈文げもんである。つまり自他ともの成仏の重要さが明かされている。
 総じて、妙法のために生命を賭して行動した「一人」の功徳は、一族、先祖、同志など、縁ある人々のすべての成仏への力となっていく。
 さらに、「一人」の決然たる一念と行動は、限りなく信心の波動を与え、広がっていくことにも通ずるといえよう。
 かつて、正本堂の広場の題目供養塔に、日達上人は、この「皆共成仏道かいぐじょうぶつどう」の経文をきざまれた。その開眼式の折、日達上人は私に、「あなたと共に皆が成仏していけるという意義なんです」と語ってくださった。深く、広大なご慈愛のお言葉として、私の胸中深く残っている。
 ともあれ、私どもは、どこまでも「共に」、仲よく、万年にわたる「人材の万里の長城」を築いてまいりたい。
20  世界への貢献は恩師の遺訓
 ご存じの通り、戸田先生は、一度も海外に出られることはなかった。しかし、世界広布、なかんずく、東洋広布への構想と重要性については、幾度も幾度も教えてくださった。
 恩師が、最後の指揮を執られた昭和三十三年三月、先生は、私に「メキシコに行った夢を見た」と話され、「世界は、頼むよ」と、世界広布を私に託された。
 私は、そうした恩師の心を受け、会長就任の年、昭和三十五年の十月には、東へ、アメリカ、カナダ、ブラジルを回った。翌年の一月には西へ、日達上人をご案内し、香港、インド、ビルマ、タイ、スリランカ、カンボジアを訪問した。
 日達上人は、私に対し、次のようにおっしゃってくださった。
 「わが池田先生は、今日のこの世の中において、遠くは本仏日蓮大聖人の仏法を、近くは先代戸田城聖先生の教えを、よく身をもってこれを得、身をもってこれを実践している人である。仏法は、ただ理論の考究によって盛んになるものではない。仏法は信によって体験し、身をもって折伏弘経しなければならないのである。
 その折伏弘経の師をうることは、いつの世においても、はなはだむずかしいのである。しかるにいま、大聖人の弟子檀那のなかから、ひとりの池田大作と名づくる折伏弘経の師を得たことは、われわれにとって無上のさいわいというべきである。そのゆえは、この師なくして、この世界に妙法を広宣流布せしめる者は、他にないからである」(『日達上人全集 第一輯第五巻』)
 まことに有り難き過分のお言葉である。
 今日の壮大なる世界広布の伸展を、日達上人も、また戸田先生も、いかばかり喜んでおられることか。
 これからも世界を走りに走り、これまでに倍する貢献を果たしていきたいと思っている。どうか皆さま方も、ともどもに、よろしくお願いしたい。
21  広布の苦難は成仏の直道
 ともあれ大聖人は、御生涯を通じて大難の連続であられた。しかし、大聖人の仏法を信受した弟子や信徒に対し″不便ふびん(かわいそう)である″とは言われても、″難があって申し訳ない″との仰せは一つも見当たらない。
 むしろ「難即慈悲」「難即成仏」であり、「難即安楽」であると教えられ、難にあうことが喜びであるとさえ御断言されている。
 法華経の経文に照らし、また大聖人の御聖訓に照らして、「成仏」という絶対的幸福の境界に至るためには、「難」という″段階″があることを、どうかご理解いただきたい。
 たとえば、一流の水泳選手になるためには人の何倍もの困難がある。野球の選手も同じであるし、学問の道でも同じである。このことは世間の万般に通ずる″道理″であるといってよい。
 いわんや「成仏」という最高の幸福境界を得んとする仏法の道において、さまざまな苦難や迫害があるのは当然のことなのである。
 大聖人の正法を信じ広布に進みゆく私どもに対しても、さまざまな無認識の非難がある。そのために皆さまがいやな思いをされることは、私にとってもつらいことである。
 しかし「申し訳ない」と言っても、どうしようもない。真実であるならともかく、″ためにする″誹謗ひぼうを加えているのは、している側の責任だからである。
 すべて仏法の方程式通りであり、難を受けきり、信心を貫き通してはじめて、金剛不壊こんごうふえの成仏の境界を開いていけることを銘記めいきしなければならない。
22  大聖人は「一昨日御書」に、次のように仰せである。
 「謀を帷帳の中に回らし勝つことを千里の外に決せし者なり」──陣営のとばりの中で計画をめぐらせ、勝利を千里のかなたで決した者である──と。
 どうか、時代・社会への鋭い洞察どうさつの眼をもって、将来にわたる広布と人生の勝利への道を賢明に開き、つくりながら、日々いなく進みゆくお一人お一人であっていただきたい。
 「南無妙法蓮華経」は、師子奮迅ししふんじんの力である。妙法は最高の生命のエネルギーである。唱題に励みながら、最高の生命力を涌現し、最高の歓喜と充実感をもって、最高にして無限の幸福の人生を生き抜いていただきたい。それができるのが妙法の世界であり、学会の世界である。
 御書にも「前三後一」のたとえがある。このところ、少々、「後一」の部分があったかもしれないが、もう一度「前三」の前進を、朗らかに、楽しく開始していきたい。ともかく、何事においても″勝つ″ということは気持ちがいいし、楽しいものだ。それぞれの舞台で「勝負」に徹し、見事に勝ち抜いていただきたいことを念願し、私のスピーチを終わりたい。

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