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日蓮大聖人・池田大作

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第十二回全国青年部幹部会 汝の魂の真実に生きよ

1989.2.14 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

前後
2  ある新聞社の記者と懇談した際、彼は「創価学会が大発展した原因はさまざま考えられるが、難解なんかいな仏法をわかりやすく、あらゆる次元に展開し、どんな人をも納得なっとくさせよう、より広げていこうと努力してきたことが、最大の要因の一つであろう」と語っていた。心ある人は、なるほどよく見ている、まとた評価であると感心した覚えがある。
 これからの学会を担い、支えゆくリーダーの諸君は、この点を深く自覚し、わかりやすく、普遍ふへん性のある話を心掛けていくよう、私は強く念願したい。
3  ソクラテスへの迫害は嫉妬に由来
 先日、創価大学大学院の出身である兵頭信二君と、古代ギリシャの哲学者ソクラテスとプラトンについて少々、語り合った。きょうは、その折の語らいそのままに、哲人と大衆、また師弟のかかわり等についてスピーチさせていただきたい。
 ソクラテス(紀元前四六九年〜三九九年)とプラトン(紀元前四二八年〜三四七年)といえば、知らない人はいないほどの大哲学者である。ヨーロッパ文明の一源流は、この師弟に発するといっても過言ではない。今なお、ソクラテスは「人類の教師」としてたたえられている。
 しかしソクラテスは生前、絶えず人々の笑いものとされ、あらゆる迫害にさらされた。そして最後は、死刑の宣告を受け、世を去った。その時、師ソクラテス七十歳、弟子プラトン二十八歳。ソクラテスは、だれよりもアテネを愛し、アテネに尽くした真の愛国者であった。しかも、当代随一の「知恵」と「正義」の人であり、プラトンいわく「最も正しい人」であった。
 そのうえ、当時のアテネは、黄金の古代文明の栄えた中心地であり、輝かしい「理性」と「民主主義」の都であった。そのアテネで、どうして理不尽きわまる中傷の歴史が起こったのか。
 思えば御本仏・日蓮大聖人の御生涯も、苛烈かれつな迫害の連続であられた。学会の歴史もまたそうであった。ソクラテスをめぐるアテネの歴史には、現代にも通ずる重要な教訓がある。
4  約二千四百年前の紀元前三九九年、ソクラテスは告訴される。罪状は「国家の認める神々を認めず、青年に害毒を与える」というもの。
 訴えたのは、メレトスという男であった。彼の背後には、黒幕の政治家と詭弁家きべんか(ソフィスト)たちがいた。
 詭弁家とは、いわば当時流行の似非えせ学者である。彼らは、何でも論ずる。まるで知らないことなどないかのように。だが、彼らのねらいは、一つ――「相手を信じこませる」ことにあった。それが正しいのかどうか。重要であるのかいなか。そうした問題には、まったく関心がない。ただ、相手を打倒し優位に立つことが目的であった。真実らしく見えさえすれば、白を黒といいくるめてもよい――それが、彼らの一貫した考えであった。
 現代にも大なり小なりこうした姿があるのは、諸君もご存じの通りである。
 アテネの青年たちは、やすやすと流行に乗り、この言論術をきそって身につけようとしていた。
 しかし、ソクラテスから見れば、彼らこそ″大切なことは何も知らないのに、何でも知っていると思い込んでいる最も無知な人間″にほかならなかった。自身の無知を知らぬほど、おろかなことはないからである。
 ソクラテスは、詭弁家たちの本質を鋭く見抜き、喝破かっぱしていた。詭弁家たちは、みずからの無知をあばかれ、どす黒いうらみを抱いた。ソクラテス告発の背景には、こうした実力者や知識人のジェラシー、嫉妬しっとがあった。
5  そのころ、すでにアテネは、一種の「衆愚しゅうぐ政治」におちいっていた。市民は、すぐれた人物が現れると、その人を尊敬するどころか、嫉妬ゆえに、かえって悪口あっこうし、足を引っ張った。その好例が、有名な「陶片とうへん追放(オストラシズム)」の制度である。
 本来、僣主せんしゅ(不法な独裁者)の出現をふせぐための制度であり、秘密投票によって、危険人物を十年間、追放するというものであった。陶器の破片に名を書いて投票したところから「陶片追放」という。だが、次第に、人望、富、権勢など目立って優れている者は、単にそれだけの理由で独裁者になる可能性を疑われた。こうして、この制度は次第に、いわれなき中傷や謀略ぼうりゃくの手段となっていった。
 ギリシャの伝記作家プルタークは、著名な『英雄伝』の中で、こうなげいている。
 「(=陶片追放は)人をしのいで偉くなった人々を引き下げて喜び、不満のけ口をこういう名誉の剥奪はくだつに求める嫉妬心の軽減なのであった」「(=人々は)栄誉に対する嫉妬の事を独裁政に対する恐れという名で呼んだ」(河野与一訳、岩波文庫)
 要するに、アテネ市民は自分たちのいやしい″気休め″にすぎない中傷を、「民主主義を守る」という″体裁ていさいのよい″言葉で、カムフラージュした。プルタークの眼にアテネの風景は、恐るべき退廃と欺瞞ぎまんの社会、正邪が逆立ちした転倒社会の暗黒として、うつったにちがいない。
 一流の人物、第一人者の存在を認めない社会。それが、次第に低俗化し、二流、三流の人物によって動されていくことは、必然である。
 かつて、ある評論家は、テレビ時代における知性の衰弱を嘆いた。洪水こうずいのようにあふれる情報過多の社会にあって、何が真実であるかさえ見えなくなっている傾向があるのは確かである。ここに、現代の危機の一つの側面がある。
6  アテネでも、低劣な人物が社会にはびこった。その代表が民衆扇動家せんどうか(デマゴゴス)である。「デマゴゴス」とはデマの語源となった言葉であるが、文字どおり、彼らはデマを流しては、有能な人物の失脚を図った。立派な行為を見れば嘲笑ちょうしょうし、美しき友情と信頼があれば破壊する。彼らは、こうした悪意の行為に躍起やっきとなった。そして人心の乱れとスキに乗じて、自分たちの野心を実現しようとした。
 彼らが好んで使った悪辣あくらつな手段が、スキャンダル(醜聞しゅうぶん)の語源となった「スカンダロン」である。これは、本来、「わな」を意味した。
 民衆扇動家は、敵をおとしいれるために、その「罠」を用いた。しかし、結局それは、民主社会そのものをつまずかせる「罠」となった。
 スキャンダルに重要な力となるのは、イメージの力である。事実とは無関係に、低俗なイメージのみをつくりあげて、大衆の喜びそうなスキャンダルを捏造ねつぞうしていく。
 アテネの作家アリストファネスは、ソクラテスを登場させた喜劇『雲』を上演した。そこにえがかれたソクラテスは、実際とは似ても似つかぬ、うさん臭い「邪教徒」であり、若者をたぶらかす「詭弁家(ソフィスト)」の親分であった。
 寸分も事実を物語らぬ完全な「虚像」。大衆は、このいつわりの劇を喜び、歓声を送った。
 イメージの力は怖い。上演されたソクラテスのゆがんだイメージは、アテネ市民の頭脳にみ込んでしまった。
 ソクラテスへの告訴は、それから二十四年後。だが、その訴えの理由は、前にも述べたように、劇と同じ″国家の神々を認めず、青年をたぶらかす″であった。この劇上演の影響の大きさを、まざまざと見る思いがする。
 アテネ市民が、ソクラテスを攻撃せずにはいられなかった本当の原因とは何であったか。決して、「虚像」のみにおどらされたばかりではなかろう。
 むしろ、彼の巨大な「実像」を、無意識にせよ、知っていたところに、その真因があったのではないか。ねたみのほのおは、「ギリシャ第一の知者」という「実像」にこそ燃えさかったのである。
 「嫉む人は他人を中傷し、そうすることによって相手に優越しなければならぬと思い、自分では真実の徳を獲得するための努力をすれだけ少なく払い、同時に競争相手を不正に非難させることによって意気阻喪そそうさせる」(プラトン『法律』山本光雄訳、『プラトン全集9』所収、角川書店)――この言葉の通りであった。
7  ところで、私は昭和三十七年(一九六二年)二月、アテネを訪問した。イラン、イラク、トルコ、エジプト、パキスタンなど中近東を中心とした諸国の歴訪の折であった。これには、秋谷会長(当時、理事)らも同行した。
 アテネでは、パルテノン(神殿)の遺跡があるアクロポリスの丘を訪れ、正本堂の建設をはじめ、広布の未来構想など種々語り合った。そこから一望できる壮麗そうれいなアテネの景観は、今も忘れられない。できればもう一度行ってみたいとも思っている。
 現在のパルテノンは、ソクラテスが三十代半ばのころに完成したとされている。私はその前にたたずみ、往時に思いをはせた。ソクラテスとプラトンの師弟も、朝に夕に、ともに仰いだであろう。その光景をまぶたに描きながら、私は深い感慨かんがいにひたった。
 と同時に、これほどまでに栄えた文明都市が、なぜ滅びたのか――その宿命的ともいうべき文明衰退の原因に思索をめぐらせた。
 いかなる団体であれ、国家であれ、その繁栄と衰亡の因は、突きつめていけば、人々の中にある。またその「心」の中にある。
 いわゆる「嫉妬社会」の様相を強めてきた都市国家アテネは、次第に退廃と衰運の坂を転げ落ちていった。それを決定づけたのが、強国スパルタとの戦争(ペロポネソス戦争)での敗北であったことは、よく知られている。
 当時の″世界大戦″ともいうべきこの大戦争の全貌ぜんぼうは歴史家ツキディデスの『戦史』に記されている。
 その中で彼は、アテネの敗因は軍事力の差ではない。市民がいたずらに低次元の″足の引っ張り合い″に明け暮れたからだ、と指摘している。そして「(=アテネは)結局は市民間の内紛がこうじて内部崩壊を来たすまでは、降伏しなかった」(久保正彰訳、岩波文庫)と。
 こうした民心の荒廃もわざわいし、アテネは紀元前四〇四年、スパルタに無条件降伏する。
 アテネ衰亡の歴史は、決して他人事ではない、といった人がいる。確かに、現在の日本はまさに「嫉妬社会」そのものの様相をていしているといってよいし、日本の将来をあやぶみ、うれえる人は多い。
8  いわんや、広宣流布という最も崇高すうこうな目的に生きる私どもの世界は、どこまでも互いに守り合い、励まし合い、おぎない合っていくべきである。
 その温かく広々とした「心」があったからこそ、今日の学会の発展を築くことができたことを、諸君は絶対に忘れてはならない
 。同志をいたずらにライバル視してねたんだり、活躍を祈りたたえる心を失ってしまえば、それはもはや信心とはいえない。
 また先輩として、伸びていく人をおさえつけたり、いじめたり、自分のために利用するようであってはならないし、″ヤキモチ″″嫉妬″の生命に支配されたみにくい姿であってもならない。それは、これまでのほとんどの退転者に共通する姿でもあった。
 かつて戸田先生は、自著の小説『人間革命』の中で次のように記されている。
 「嫉妬は女ばかりと思ったら大間違いだ。男にも嫉妬がある。女の嫉妬はせいぜい家庭を壊すくらいだが、男の嫉妬は世の中をあやまらせることが多い。嫉妬という字に、男へんがあってもいいんだ」と。
 まことに戸田先生らしい、平易で含蓄がんちくのある表現であるが、シェークスピアが「緑の眼をした怪物」(『オセロ』)といい、イギリスの詩人ドライデンも「たましい黄疸おうだん」と呼んだように、嫉妬の心は本当に恐ろしい。また、″ヤキモチ″による言動や策謀さくぼうに乗せられることほど愚かなこともない。
 本来、偏狭へんきょうなライバル意識とは無縁なのが私どもの広宣流布の世界である。同輩や後輩が伸び伸びと明るく成長し、自分以上に大きく活躍していく――その姿を心から喜び、見守っていくことが、″将に将たる″真のリーダーの「心」である。
 そして「責任は自分にある。手柄はあなたにある」と、淡々たんたんとした心で進んでいく人こそ、″魂の幸福者″であり、真の″信心の勝利者″″人間の勝利者″となっていく。人間としての「栄冠」は、まさにその人の「心」にこそ輝くことを、諸君は深く銘記してほしい。
9  信念で貫く「対話」こそ人間の王道
 さて、ソクラテスに対する裁判は、アテネがスパルタに敗れてから五年後のこととなる。
 ソクラテスにとり不幸なことには、戦中戦後の期間、「危険人物」「民主主義の敵」と見られていた人たちの中に、ソクラテスと師弟関係にあると疑われた人間が二人いた。″門下生があんなに悪いのだから、師匠のソクラテスもろくな人間ではあるまい″とみなされ、人々の非難の目はソクラテスのほうに向けられていく――。
 しかし、事実はどうか。ソクラテスは、かつての取り巻きらが加担している悪政を批判し、彼らの命令にも従わなかったために、かえって殺害されかけているのである。彼らのために危うい目にあったソクラテスは、むしろ被害者であった。それが逆に加害者とされてしまった――。世の中の無知と偏見はまことに恐ろしい。
 しかし、この老哲学者は、そういった世間の評価には一切無とん着であった。
 高次元の戦いをなす者は、あらしがあっても厳然とそびえ立つ山のように不動である。雨が降ったり、風が吹くたびにれていては山とはいえない。同じ道理で、些事さじにとらわれて信念を曲げ、使命を忘れるようでは、本物の人格は磨かれない。また何の建設も成し得ない。
 批判の声が高まる中、ソクラテスはただ愛する祖国が衰退していく姿を嘆き、以前にも増して人々の中へ果敢に飛び込んで「魂の対話」を続けていった――。ここに彼の偉大さがある。
 順調であれば、だれでもできる。むしろ逆境の最中にあってこそ、その人の真価が決まる。厳しい環境で戦ってこそ本当の力が発揮できる。信心の醍醐味だいごみも、人生の妙味も味わうことができるのである。
10  ソクラテスは、法廷において、いつもと変わらぬ「信念」を堂々と主張した。
 彼は「君よ!君はずかしくないのか」と叫ぶ。
 「君、君は知恵と知力とにかけては最も優れていて、最も評判のよい国、アテナイの国民でありながら、金銭のことでは、できるだけたくさんそれが君の手に入ることに、また評判や地位のことを心掛けるのに、思慮や真実のことを、またたましいのことでは、それができるだけ優れたものになることを心掛けもせず、心配もしていないのが恥ずかしくないのか」(『ソクラテスの弁明』田中美知太郎訳、『プラトン全集1』所収、角川書店)
 彼の叫びは聴き入る人々の心の奥底を揺り動かした。それは「真実」の叫びであったからである。彼の主張の核心は″何よりも魂を大切にせよ。人間にとって魂こそが最も大切である″との一点にあった。
 大聖人は「ただ心こそ大切なれ」と仰せである。ソクラテスの言葉も仏法の精神の一分に通じるものとはいえまいか。
 そして「魂」「生命」という最も根本をおろそかにし、他のつまらないことばかりを大事にしている人々を、彼は「なんじ自身」を知らない「無知」の人間と呼んだ。
 みずからの「無知」をあからさまに指摘された人々は怒った。しかしソクラテスは、みずからの「信念」のままに生き、世間に迎合げいごうも屈伏もすることなく、「信念」によって死んでいくのである。
11  次元は異なるが、日蓮大聖人は「聖人は言をかざらずと申す」――聖人は言葉を飾ることはしないという――と述べられている。
 大聖人御自身もまた、ありのままの「真実」を語られたがゆえに、ありとあらゆる迫害を受けられた。そして″傲慢ごうまんではないか″との中傷もされた。
 それに対して「我が言は大慢に似たれども仏記をたすけ如来の実語を顕さんが為なり」――我が言葉は、大慢に似ているように聞こえるかもしれないが、それは仏の未来記をたすけ、如来の実語を顕すためなのである――と明快に喝破かっぱされている。
 「真実」を訴えることが、つねに好意と尊敬をもって歓迎されるとは限らない。いな、むしろ既成の権威との妥協とは無縁であるゆえに、敵意と迫害が待ち受けている場合が多いといえる。
 私も、万年の人類のために忍難弘通にんなんぐづうの御生涯を貫かれた大聖人の大慈大悲を拝しつつ、すべての苦難に耐えて広布の指揮をとってきたつもりである。
 そしてこれからは、後継の誉(ほま)れ高き青年部諸君こそが、大聖人の仏法の「正義」と、学会の「真実」を未来へ世界へと強く訴え切っていっていただきたい。
12  ともあれソクラテスの行動は、率直で誠実そのものの「対話」の連続であった。
 相手を信頼するゆえに″ありのまま″の心で話ができる。策ではなく「心からの言葉」で語り合う対話こそ、相手を最も尊敬した行為である。また最も謙虚な態度であるといえる。
 その意味でいえば日本人はともすると「真実」よりも「世間体せけんてい」を気にする傾向がある。真摯しんしな「対話」よりも安易な「付和雷同ふわらいどう」に流されていく場合が多いように思われる。
 また、海外の方々からも「日本人とは意義ある対話、冷静な討論ができない。すぐに感情論か、駆け引きになってしまう。これでは日本人は国際社会に通用しない」との嘆きが多く聞かれることも事実である。若き諸君の参考のために、こうした指摘も紹介しておきたい。
13  誇り高きソクラテスの弁明
 さて、ソクラテス裁判の模様は、弟子プラトンの書いた『ソクラテスの弁明』にくわしい。しかし、その「弁明」は、通常の自己弁護とは、まったくちがっていた。
 彼は、裁判権をもつ五百人(五百一人の説も)の陪審員ばいしんいんと聴衆を前に、堂々と所信を述べる。裁判を自分に有利に運ぼうとする気配は、いささかもなかった。
 まず投票の結果、わずかの差で「有罪」が決まる。当時の裁判では、次は刑の種類を決める番である。
 「ソクラテスよ、お前はどんな扱いが自分にふさわしいと思うか」――彼らは問うた。
 ここでソクラテスが、おとなしく有罪を認め、せめて死刑以外の刑にしてほしいと頼めば、それは十分可能であった。半数近くが無罪に投票していることからも、そのことは明らかである。
 ところがソクラテスは、有罪を認めるどころか、″自分にふさわしいのは「最高の国賓こくひん的待遇」である″と主張する。あまりにも誇りに満ちた態度であった。死刑にされることなど、微塵みじんも恐れていない。
 陪審員たちの心証は悪化した。″おとなしく身を屈すれば、手ごころを加えてやるものを……″――これが彼らの心だった。そしてソクラテスを「有罪」とした時よりも圧倒的多数で「死刑」が確定した。
 つまり、はじめは「無罪」に、次は一点「死刑」に投票した者が数多くいた計算になる。このように、明確な基準などない、あまりにも感情に左右された裁判であった。
 おとなしく妥協していれば、ソクラテスは無事であった。彼も、だれより、そのことは承知していた。しかし彼は信念を曲げない。使命の前に生命を投げ出している彼を″おとなしくさせる″ことなど、だれにもできなかった。
14  陪審員たちに向かってソクラテスは、言い放つ。
 ――諸君が私を死刑にすれば、損害をうけるのは私ではない。諸君のほうである。
 ――私が今、守ろうとするのは、私自身ではない。断じてそうではない。私が守ろうとするのは、むしろ諸君なのだ。
 何という誇り高い態度であろう。これが″被告人″の口から出た言葉だと、だれが信じられるだろうか。彼には自己の重大な使命と立場への崇高なまでの確信があった。
 アテネの市民は、彼等がソクラテスを裁いているつもりだった。しかし私は思う。裁かれていたのは、反対に彼らだったのだ――と。
 彼らがソクラテスを、どう扱うか。本人が言うように「国の宝」としてぐうするか、それとも「死刑」か。この哲学者への態度いかんが、アテネの運命を決定する。ためされていたのは、市民のほうであった。
 日蓮大聖人は、文永八年(一二七一年)九月十二日、平左衛門尉へいのさえもんのじょうらに襲撃しゅうげきされた時、こう大音声だいおんじょうをもって叫ばれている。
 「あらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら殿原但今日本国の柱をたをす」――何とおもしろいことか。平左衛門尉の狂ったさまを見よ。おのおの方は、今、日本の柱を倒しているのだぞ――と。
 あまりにも堂々たる大聖人のお姿に、らえにきた人間たちのほうが動揺するほどであった。この偉大なる御本仏の門下として、私どもも、学会の深き使命への大確信を忘れてはならない。
15  かつてマッカーサー将軍は、アメリカに帰国して後、ある意味から日本人を「十二歳の子供」にたとえた。
 その是非はともかく、ソクラテスから見たアテネ国民も「あめをほしがる子供」であった。彼等は、耳に痛い真実には腹を立て、甘いおべっかを喜んだ。
 ソクラテスは、いわば「魂の医者」であった。私どももまた、信心によって人を蘇生そせいさせる「生命の医者」としての使命がある。
 しかし、ソクラテスが与える良薬は、口ににがく、彼らは医者に向かって怒り、文句を言った。体をこわすことになっても、おいしいごちそうをくれる人のほうがよいというのである。この愚かさは人間の常であろうか。
 そもそも彼等は、自分たちの生命、魂がんでいるなどとは思ってもいなかった。ゆえに医師を迫害した。
 次元は異なるが、大聖人は当時の日本の人々は、じつは「頭破作七分ずはさしちぶん」「心破作七分しんはさしちぶん」の状態になっているのだが、悪業が深いために、自分が深く病んでいることに気づいていないと嘆かれている。
 「例せばいたる人の或は酒にゑい或はいりぬれば・をぼえざるが如し」――たとえば、傷をっ人が、酒にっぱらったり、あるいは熟睡じゅくすいしてしまえば、その傷の痛みを感じないようなものである――と。
 人々の根本の無知、汝自身を知らない「無明」をおしえられた御文である。
 そして大聖人は「「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時無明の酒めたり」――今、日ならびに門下が題目を唱え奉る時、はじめて無明の酒がさめるのである――と仰せである。
 いわば一国すべてが酔っている時に、大聖人お一人がさめておられた。本末転倒の社会である。無明に酔う人々に取り囲まれ、からまれるのは当然であった。
 総じていえば、ここに正義の人が迫害を受けざるを得ない必然の構図がある。
16  かつて戸田先生の質問会で、こう質問した人がいた。「こんなに正しい信仰なのに、社会の人々には、どうしてなかなかわからないのか」と。まことに率直な問いである。
 これに対し、戸田先生は「勉強したほうがいいとわかっているのに、どうして勉強しないのかというのと同じです」と。
 「あなたも、親孝行はいいということがわかっていてもやらない」。「そのようなもので、これは法が正しければ正しいほど敵が多いと大聖人はおっしゃっています」
 「酒なんか飲んではいけない、金もないのに酒など飲んではだめです、といっても飲んでしまうでしょう」「そんなこと簡単な道理ではないですか。正しいことというのは、やれないものなのです。ここが問題なのです」と明快に答えられていた。
 まさに「ここが問題」であった。すなわち、ソクラテスも、「正しき人」であるにもかかわらず迫害されたというよりも、むしろあまりにも「正しき人」であるゆえに、罪なくして有罪になった、というのが真相である。
17  判決後、ソクラテスの死刑の執行までに、約一カ月の余裕があった。
 その間、友人や弟子たちの手引きで、確実に亡命できる用意が整えられていた。しかしソクラテスは申し出を断り、牢にとどまる。
 そして嘆き悲しむ友人たちをなだめながら、身を清めた後、従容しょうようとして毒杯どくはいをあおぎ、死んでいった。いつもと変わらぬ平然たる様子であったという。
 このソクラテスの「死」については、論じるべきことが多くあるが、ともあれ彼は、いかなる理由にせよ、国法を犯すことをいさぎよしとしなかった。不正をしてみずからの魂をけがすよりも、不正を雄々しく受け切っていく道を選んだ。
 「不正を受ける者は、不正を働く者よりも幸福である」
 「き人には、生きているときも、死んでからも、しきことは一つもない」(前掲『ソクラテスの弁明』山本光雄訳)。これが彼の信念であった。
 いかに迫害を受けようとも、迫害する者よりは幸福である。なぜなら、生命を傷つけ汚しているのは彼らのほうだから。そして生命が強く、清らかでありさえすれば、生きている時も、死後も、くめどもつきぬ本当のさちを味わっていけるのだ――。これがソクラテスの考えであり、み切った心境であった。
 こうしてソクラテスは死んだ。「正義の人」は、社会の柱である。その柱を自ら倒したアテネは、滅亡への坂道を、さらに速度を速めつつ、転がり落ちていった。
 ソクラテス死後六十一年、プラトンの死後わずか九年にして、マケドニアに平定され、長き栄光の歴史を閉じている。
18  師の正義を後世に残したプラトン
 さてソクラテスは、死刑の判決後、陪審員たちに言った。
 「私を有罪と判決した諸君よ、諸君に私は予言をしたい」「諸君には私の死後直ちに、諸君が私を死刑にすることによって私に加えられた復讐ふくしゅうのようなものよりも、ゼウスに誓って言うが、もっとはるかにひどい復讐がやってくるだろう」(同前)
 彼が言うのは、「もっと若い人々」すなわち彼の弟子たちが、師ソクラテス以上の激しさで、彼らに向かって″真理のいくさ″をいどみ、彼らを追いつめていくであろう。私を倒しても、弟子たちの攻撃から逃げることはできない、という断言である。
 ソクラテスの言葉通り、彼の死後には、愛弟子まなでしプラトンがのこされていた。この時プラトンは二十八歳。法廷で予言するソクラテスの胸中には、信頼する若きプラトンの英姿が鮮やかに躍動していたにちがいないと私は思う。
 彼ならばやってくれるだろう。私の心を心として、断じて目的を果たしてくれる――。ソクラテスは、それを期待し、確信していた。
 信じきれる弟子をもった師は幸福である。牧口先生も戸田先生がおられるゆえに幸福であられた。戸田先生もまた私がいるゆえに、万事、安心しきっておられた。その先生の心を私は深く知っているつもりである。
19  プラトンにとって、ソクラテスは二十歳の時から、足かけ九年、仕えた師である。プラトンの二十代はソクラテスとともにあったといってよい。
 その死は、あまりにも大きな衝撃しょうげきであった。プラトンは、心労のあまり、一時は病気に倒れるほどであったという。しかし涙の中から、彼は男らしく立ち上がった。
 ″師を殺した社会の悪を、自分は永遠に許さない!″
 ″必ず師の正義を万人に示し、師の真実を証明しきって見せる!″と。
 以後、八十歳で死ぬまでの約五十年間、プラトンは、ただこの一念のままに戦い抜いた。
 もともとプラトンは政治家をこころざしていた。当時の有力者の子弟にとって、それが普通の人生コースであった。しかしソクラテス事件によって、政治と世間の正体を見たプラトンは、潔く、その志望を、ひとまず捨てる。そして真に正しき政治への追求を始めたのである。
 「最も正しき人」を抹殺まっさつした悪しき政治権力への絶望と怒り。これが彼の永遠の出発点となった。
 この怒りは一生涯、消えることがなかった。最後まで、このことに触れるたび、彼は激高げっこうした。身を打ちふるわせ、とても冷静ではいられなかった。
 五十年間、悪への怒りを燃やしつづけたプラトン。その徹底した執念は、彼の人生を偉大なる彫像ちょうぞうのごとく、見事に結晶させていった。
20  「政治的な生き方」と「哲学的生き方」は、その本質において、まっ向から対立する。
 政治は「弁論術」すなわち「うまい話」によって、「多数」の人を無知のまま、動かそうとする。
 哲学は「対話」によって、「一人」「一人」を、心から納得させようとする。
 政治は「人にどう見られるか」を気にやむ。
 哲学は「自分が実際にどうであるか」に心をくだく。
 政治は、青年を「操作」するために、真実から目をそらさせようとする。
 哲学は、青年を「育成」するために、真理に目覚めさせようと努力する。
 こうした対立が続くかぎり、哲学する「正義の人」は、悪しき政治の権力に、永遠に圧迫される運命にあろう。ソクラテスの死刑は、その象徴であった。
 では、この世に正義を実現することは不可能なのか――。プラトンは遍歴へんれきを繰り返しつつ、探究の末に、こう結論する。
 「正しく真実に哲学する者が政治的支配の地位につくか、現に権力を持っている人々が、真実に哲学するようになるか、いずれかが実現しないかぎりは、人類の不幸はやむことがないだろう」(『国家』より、趣意)
 有名な「哲人政治」の理想である。ある意味で「立正安国」の思想にも通ずる結論であった。
 「政治的権力と哲学的精神の一体化」――。プラトンにとって、この理想を説き、実現することが、″ソクラテスの予言″の実践となった。「権力に殺された哲学者」の弟子として、社会を改革し、「哲学が権力をリードする」国をつくろうとしたのである。
21  こうした希望を胸に、彼の努力は、主に三つの分野に表れている。
 一つは、「言論」の分野である。師の真実を万世にとどめるため、彼は死の直前まで書きに書いた。膨大ぼうだいな著作のすべては、師ソクラテスにささげられたものである。
 二つ目は「教育」である。以前にも語ったが、学園アカデメイアを創立して、人材育成に励んだ。
 三つ目は「政治」の分野である。現実社会の中で「哲人政治」の可能性を追求した。彼は行動の人でもあった。何度も生命の危険をおかしながら、ぎりぎりまで、その実現に挑戦していった。
 彼は、これらに生涯、渾身こんしんの精力を傾けた。活動の分野は広がれども、原点は、すべてソクラテスの死であった。
 この方程式は、ある意味で私も同じである。
 「言論」の分野では、″全集″が現在の時点で七十五巻を予定するまでに、書きつづり、書き残している。また聖教新聞を育て、大発展させてきた。
 「教育」の分野では、創価学園、創価大学を創立し、社会に貢献する人材を輩出してきた。
 「政治」の分野では、公明党を創立し、政界の地図を大きく変えた。
 これらはすべて戸田先生の思想、理念を根本に、その構想を実現せんとしたものであった。
 党からは、最近、少々おかしな連中も出てきたが、それはそれである。創始者として、党にかける本来の期待は、いささかも変わらない。どこまでも、民衆のために、民衆とともに、民衆の最大の力強い味方となって進んでもらいたい。
 そういう真の政治がなければ、民衆があまりにもかわいそうである。今後、必ずや、この願いの通りに、絶対に民衆を裏切らない、本物の政治家が出てくることを私は信じたい。また諸君たち青年が、日本のため、世界のために、この私の思いを実現していただきたい。
22  師への「信受」に弟子の道
 さて、ソクラテスとプラトンの関係を、一言で言えば『信受』にあったということができよう。
 もちろん、他の弟子もソクラテスを愛し、尊敬していた。しかし、彼らはどこまでも″自分の常識″の範囲内で、ソクラテスの偉大さを受け止めていた。ゆえに、ソクラテスの行動が自分の常識から″はみでる″場合には批判さえした。
 これに対し、プラトンは、ソクラテスその人を、そのまま信じ受け入れていた。ここに真実の師弟の関係があるといえよう。
 ゆえにソクラテスの「魂の種子」は、プラトンの生命の大地に深く根をおろし、やがて限りなく豊かな実を結んだ。この結じつは、プラトン自身のものであると同時に、プラトンという土壌を得て″新たによみがえったソクラテス″その人でもあった。
 この点、プラトン自身、こう書いている。
 「プラトンの著作というものはありませんし、これからもないでしょう。世間でプラトンのものと呼んでいるものは、『若く美しくなったソクラテス』のものです」(『第二書簡』。林竹二著『若く美しくなったソクラテス』から。以上、同書を参照)
 すなわち、ソクラテスの死から生まれた新しいソクラテス。それがプラトンであった。
23  このソクラテスとプラトンの関係は、戸田先生に対する同様の思いから、私にはまことによく理解できる。
 かつて私も、しみじみと実感していたし、語ったこともある。″私のものは何もない。すべて戸田先生という種子から生まれ、私という大地に実ったものだ″と。
 プラトンは、ソクラテスの不二ふにの分身であり、二人を分けることはできない。ソクラテスなくしてプラトンはなく、プラトンによってはじめてソクラテスは、永遠の人類の宝となった。
 「師弟の道」は死をも超える。「師弟の道」こそ、この変転する世界にあって「大いなる魂」の理想の光を連綿と受け継ぎ、永遠化させていく唯一の道である。
 それはまた、いつの時代にあっても、人類の文化的遺産ともいうべき人間の生き方なのである。
24  アメリカの思想家エマソンは「プラトンは哲学なり、哲学はプラトンなり」(『代表偉人論』)と称賛した。
 西洋の全思想史はプラトンをどう解釈したかの歴史に過ぎないという哲学者もいる。
 「プラトン」とは「大」とか「広」を意味しているといわれるが、まさに「プラトン」は、その名にふさわしい巨大さである。
 この大海のごときプラトンの大きさも、すべて「ソクラテスを信受した」という一点に源流があった。
 御書に「無作の三身をば一字を以て得たり所謂信の一字なり、つて経に云く「我等当信受仏語」と信受の二字に意を留む可きなり」――無作の三身という仏の境界を、ただ一字で得ることができたのである。それは、いわゆる「信」の一字である。それゆえ法華経には「我らまさに仏の言葉を信受せん」と説かれている。この「信受」の二字に心をとどめるべきである――と仰せである。
 大聖人の仏法にあっては「信受」が一切の根本であり、「信受」によってこそ、仏という最極さいごくの境地を得ることができるのである。
 どうか諸君は、この大仏法の偉大なる「信受」の力を確信しつつ、未来に生きゆく学会の若き″プラトン″として成長していただきたい。
25  さて、先日、少しお話ししたが、小説『スカラムーシュ』の主人公アンドレ・ルイは、親友の死を目の当たりにして、それまでの生き方と決別し、復讐ふくしゅうのために立ち上がる。そして苛烈かれつな革命のあらしへと身を投じていく。
 『スカラムーシュ』を読むようにすすめられていた戸田先生が、この親友の死の場面で語っておられた言葉が、今なお忘れられない。
 「ひとかどの人物は、かならず何かのきっかけをつかんで、決然と立ち上がるものだ。とくに人間の死というものに直面した時の決意は、最も強く大きいものがある」と。
 師ソクラテスの正義の証明のために生きたプラトンも、まさにそうであった。
 みずからの小さな「我」を捨てて正義のために、理想の実現のために決然と立ち上がる――ここに、人間として、なかんずく信仰者としての生き方があると私は思っている。そして、この信念に徹していくなかに、いかなる烈風にも揺るがぬ強き力が生まれてくる。
26  死して牢獄を出られた牧口先生。昭和二十一年十一月十七日、命日の一日前に、牧口先生の三回忌法要が、東京・神田の教育会館で、約五百人が参列していとなまれた。その時の模様は小説『人間革命』でもくわしく紹介しているが、戸田先生が述べられた追悼ついとうの言葉は、聴く者の胸を深く打つものであった。
 「昭和二十年一月八日、予審判事より、あなたが霊鷲山りょうじゅせんへお立ちになったことを聞いたときの悲しさ。杖を失い、ともしびを失った心の寂しさ。夜ごと夜ごと、あなたをしのんでは、わたくしは泣きぬれたのでございます。(中略)
 しかし、この不肖ふしょうの子、不肖の弟子も、二か年間の牢獄生活に、御仏みほとけを拝したてまつりては、この愚鈍の身も、広宣流布のために、一生涯を捨てるの決心をいたしました。
 ごらんくださいませ。不才愚鈍の身ではありますが、あなたの志を継いで、学会の使命をまっとうし、霊鷲山会りょうじゅせんえにてお目にかかるの日には、かならずやおほめにあずかる決心でございます」と。
 今は亡き師・牧口先生への、誓いの言葉でもあった。まさに師弟とはこういうものである。
 また、この中で戸田先生は「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました」と述べられている。この言葉は、これまでも何度か紹介させていただいたが、筆舌に尽くせぬ辛苦しんくのあった入獄に対して、愚痴ぐちをいい、苦言をいわれたのでもない。牧口先生の「慈悲」ととらえられている。ここに戸田先生の決定けつじょうした信心の深さ、境涯の大きさがあるし、牧口先生との深き師弟愛があった。
27  正法正義に生きぬいた牧口初代会長
 また、牧口先生の三回忌法要には、日亨にちこう上人、日淳にちじゅん上人(当時、堀米泰栄尊師)、日達にったつ上人(同、細井精道尊師)が御列席され、お言葉を述べられている。
 そのさい、日亨上人は次のように仰せになっている。
 「いま牧口会長は、信者の身でありながら、通俗の僧分にも超越して、国家社会のために大慈悲心をふるいおこして、釈迦仏の遺訓、章安大師の論釈、宗祖日蓮大聖人の御意みこころを体して、上下にはばかりなく、折伏大慈の手をゆるめず、ため有司ゆうし(=役人、官憲)に誤解せられ、ついには尊い大法に殉死なされたのであります。いつの時代にあっても、いつわりの心を捨て、真の愛情をもって世人に接すると、かえってにくまれ、うらまれるのであります」と。
 日亨上人は牧口先生を「通俗の僧分にも超越」とたたえてくださっている。何と鋭く偉大な慈愛のお言葉であろうか。
 そして、日亨上人は宗門の法難史に言及され、それらを『富士宗学全集』に要約記述されてきたことにふれられながら「私は、この法難史を追加収録する機会がありましたら、ぜひとも牧口会長のことと、戸田理事長等の数十人のことを明記しておいて、後世のかがみとしたいと思っています」と述べられている。
 この仰せの通り、十年後に再刊された『富士宗学要集』の法難編に、牧口先生と創価教育学会の法難を加えられている。
28  さらに日淳上人は「(=牧口)先生は価値論の完成を期し、信仰のうえに立脚され、自身の生活上に如実にあらわして、それを他に説いていった。その先生の労苦を、深く考えねばなりません。この労苦が解決されるならば、道は開けてくるのであります。
 牧口先生は、これを一人で解決されてかれたのです。牧口先生は、価値というものを研究されて、南無妙法蓮華経を体得された、希有けうのかたであります」と言われている。
 また、日達上人は「日本は、まさに邪見の宗教によって敗れ、しかもなお、邪見の学者によって堕落している今日、牧口先生の志を継いで、われわれ同志は、立宗の教義を深め、ますます広く流布し、正しいものは正しく認識するような研究が行われんことを、希望する次第であります」と。
 ここに日達上人は僧俗ともに「われわれ同志」と仰せくださっている。深い意義が込められた素晴らしいお言葉と拝される。
 これらのお言葉を後世に明確に残しゆくために、この席で改めて紹介させていただいた。最後に、若き後継の諸君の、素晴らしき健闘と勝利を心から祈って、私のスピーチを終わらせていただきたい。

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