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日蓮大聖人・池田大作

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記念関西支部長会 偉大なる「精神」が「精神」を触発

1989.2.2 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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1  学会は民衆の校舎なき総合大学
 二十一世紀を目指しての堂々の「記念関西支部長会」、まことにおめでとう。晴れやかな開催を心から祝福したい。
 きょうは小説『スカラムーシュ』(ラファエル・サバチニ作)を通して、お話ししたいと思ったが、昨日、懇談会で周囲の人に聞いてみても、あまり読んだ人はいない。小説の名前だとわからない人さえいる。そこで急遽、予定を変更することにした。
 簡単にいえば、この小説はフランス革命の激動の時代を舞台に、一人、正義の証明のため、悪の打倒に立ち上がった青年の物語である。
 次元は別にして、日蓮大聖人の御入滅後、日興上人は、一人厳然と正法正義を守られた。また学会では、戸田先生が、師・牧口先生を獄死させた権力の魔性への復讐(ふくしゅう)を誓われた。
 師の心を心として、悪と戦い、断固、一切を勝利へと導いていく。その強き一心一念が、どれほど自身の巨大な力を引き出すことか。
 ともあれ「仏法と申すは勝負をさきとし」と大聖人は仰せである。勝負すると自分で決めた時は、絶対に勝たねばならない。悪に勝つことは善であり、悪に負けることは悪を助長させることになるからだ。
2  『スカラムーシュ』をはじめ、戸田先生は私ども青年に水滸会すいこかい、華陽会等で、古今東西の英知に通じる話をしてくださった。現在、学会は、そうした伝統を大きく広げながら、仏法を根底にした平和・文化・教育の運動を世界に展開している。
 「教育」といえば、当然、私の生命ともいうべき創価大学、創価学園がある。それはそれとして、学会全体が、いわば「校舎なき総合大学」といってよい。人間を育て、人間の指導者を育成する、民衆の中の壮大な「人間教育の場」である。その意味から、私はさまざまな角度からスピーチもさせていただいている。
 これからのリーダーは、信心を根本に、知性豊かであっていただきたい。そうでなければ、多くの人を納得させることはできないし、かえって法を下げてしまう場合もある。
 一切法は仏法に通じ、仏法は一切法に開かれていく。ゆえに社会の万般の事象にわたって論じられる力をつけていく努力も必要である。そして明快に、人の心の奥の奥まで、指導の光を届かせる力量を養っていかねばならない。そうした指導者が増えれば増えるほど、社会の人々に妙法の偉大さを堂々と示し切っていける時代に入っている。
3  先日、創価大学卒のある優秀な青年から、手紙がきた。その中にラルフ・W・エマソン(一八〇三〜八二年)の教育論の話があった。そこで少し、このことにふれておきたい。″若きアメリカ″を代表する、たくましき、そして誠実な知性の思想家・エマソン。彼は私が青年時代に熟読した一人である。戸田先生からも読むようにと言われた。
 彼の『人間教育論』に、こういう一節がある。
 「自然の教師を囲んで、おのずと作り上げた『自然の大学』というべきものは幸の場である。ソクラテスを囲むアテネの青年達にとってもそうであったように、プロティノスを囲むアレクサンドリアの青年達にとっても、またアベラールのまわりのパリの青年達、フィヒテやニーブールやゲーテのまわりに集まったドイツの青年達にとっても、幸せの場であった。すなわち、これは先端を行くあらゆる思想と精神におのずと具わった姿なのである」(Selected Prose and Poetry, Rinehart Editions, 1958)
 エマソンの言う「自然の教師」「自然の大学」とは、一言でいうならば、形式でも強制でもない。権威でも、また義務でもない。青年が、その魂の本然から自発的に求めてやまない、本物の「師匠」のことであり、魂の触れ合う「学びの場」のことである。
 その意味から、私は創価学会こそ、民衆のための、人生と信仰の「自然の大学」であると申し上げておきたい。
4  師弟の絆こそ時代を開く原動力
 ちなみにエマソンが、歴史上の″師匠″の例として挙げた人物のうち、ソクラテスとゲーテについては、これまでも論じてきたし、あらためて申し上げる必要はないと思う。そこで、その他の人について、簡潔に紹介しておきたい。
 プロティノス(二〇四年〜二七〇年)は、三世紀のギリシャの哲学者で、「新プラトン学派」の代表者である。
 彼が学んだアレクサンドリアは、エジプトの北部、地中海に臨む港湾都市であり、このアレクサンドロス大王が最初に造営させた。大王については高校生向けの小説『アレクサンドロスの決断』でも書いておいた。
 プロティノスのもとには、すぐれた青年が数多く集まり、その思想を継承・発展させていった。そして中世を経て、ルネサンス期に至る西欧の精神史に、きわめて大きな影響を与えている。
 「思想の流れ」「精神の系譜」の持つ力は絶大である。私どももまた、万年にわたる壮大な精神文明の流れをつくっている。この流れは、時とともに、大河へ、そして大海へと広がっていくことは間違いない。
 その遠大な展望に立つ時、一時の表面的なさざ波に左右されることはあまりにもおろかであるといわざるをえない。大いなる目的にふさわしい、大いなる境涯であり、大いなる人生であっていただきたい。
5  フィヒテ(一七六二年〜一八一四年)は、十八世紀後半から十九世紀初めにかけてのドイツの哲学者である。
 彼はナポレオン軍に占領されるという祖国の危機に際して、「ドイツ国民に告ぐ」と題する、十四回の連続講演を行った。その情熱に鼓舞こぶされ、青年たちをはじめとして、人々は陸続と再建へと立ち上がっていった。
 真の哲学者は、決して理論のみの人ではない。その哲学が、全人格に血潮となって脈動しているならば、哲学者とは同時に「実践の人」でもあるはずである。自身の哲学と信念の実現のために、何ものも恐れぬ勇気をもって行動してこそ、偉大なる価値が生まれる。
 ニーブール(一七七六年〜一八三一年)は、フィヒテとほぼ同時代の歴史家である。
 新設されたばかりのベルリン大学で「ローマ史」を講義した。厳格な史料批判に道を開き、新しく「社会史」的観点を開拓するなど、その業績はゲーテをはじめ、多くの人々を感嘆させた。後の歴史学を担う青年たちに、大きな影響を与えた先覚者の一人である。
6  いずれにしても、歴史上、また世界のいたるところで、青年の魂は、ひたすらに師を求め、師と出会った。そこには、偉大なる「精神の触発」が生まれ、彼らの生涯の原点になっていった。それのみならず、その「魂の出会い」を″核″として、歴史の新しい舞台を開きゆく、巨大な力が、怒涛どとうのごとく広がっていったのである。
 求める弟子と、応(こた)える師と――。この「師弟のきずな」にこそ、エマソンの言う「自然の大学」の内実があり、縮図があった。
 学会もまた、仏法を根本にした、人生の″師弟の大学″″自然の大学″として、青年が、戸田先生を囲み、すべてを学びつつ、建設してきた。その基軸は、どこまでも「師弟」という永遠の魂である。その精神が厳として躍動している限り、学会は時代へ、社会へと、みずみずしい価値創造の無限の波動を広げていくことができる。
 とくに青年部の諸君はこの究極の一点に肉薄にくはくし、そこから出発しつつ、勉強に勉強を重ね、自らをきたえに鍛えて、「次はすべて引き受けた」という縦横じゅうおうの活躍をしていっていただきたい。
7  正義貫いた日目上人の母・蓮阿尼
 先日(平成元年一月二十九日。第三回中部総会)、中部で第三祖日目上人のお話をさせていただいた。各地で婦人部総会も行われている折でもあり、本日は、その日目上人の母君について少々、ご紹介させていただきたい。
 というのも第二祖日興上人の跡を継がれ、第三祖として、万年にわたる正法の「令法久住りょうぼうくじゅう」を決定づけられた日目上人――その陰に、目立たないけれども、まことに素晴らしい″母の信心″があったからである。思えば広宣流布の遠大なる流れを永遠たらしめていく隠れた主役は″母の信心″であるといってよい。
 学会も、万年への基礎を固めゆく上で、いよいよ″広布の母″ともいうべき婦人部に一段と光をあてていくべき段階に入ったと思う。
 婦人の意見を尊重し、壮年部と婦人部が協調しあって活躍の舞台を広げていくことは、時代・社会の趨勢すうせいでもある。そうした時代の流れを見すえながら、皆が心から納得し、安心して信心の実践に励んでいけるよう、中心者は真剣に心をくだいていかなくてはならない。
8  さて、日目上人の母君は蓮阿尼れんあにと呼ばれ、じつは南条時光の姉にあたる方であった。
 南条家の系譜けいふをたどってみると、時光は五男四女の九人兄弟であったようだ。時光は次男にあたり、長男は事故のために亡くなったとされている。蓮阿尼は、その長女であった。彼女は、伊豆国仁田郡にいたごおり畠郷はたけごうの領主である新田五郎重綱にいだごろうしげつなのもとに嫁いだ。
 伊豆の畠の地は、現在の静岡県田方たがた函南かんなみ畑毛はたけである。その名の通り、清流にうるおい緑なす田園地帯である。陽光は明るく温暖で、北には雄大な富士の姿を仰ぐことができる。現在、この地には学会の田方会館があり、地域の信心錬磨の拠点となっている。
 ちなみに日亨にちこう上人は、この畑毛の新田家ゆかりの地に「雪山荘せっせんそう」を構えられ、そこで晩年を過ごされている。
 『御書全集』の発刊のため、戸田先生と私たち青年部で、この畑毛の日亨上人のもとを幾度となくお訪ねしたことも、忘れ得ぬ思い出となっている。
 この日亨上人が、しみじみと戸田先生に「あなたがいなかったら、日蓮正宗はつぶれてましたよ」と言われていたことが私たちの心に深く焼きついている。
 また日達上人も、「今日、我が正宗が、誠にその命脈もあぶなくなってきた時に、学会の出現があって、今日の隆盛をみた。しかも広宣流布が、眼前にせまるという様な隆盛となっております」(『日達上人全集 第一輯第二巻)と語っておられた。
 このお心のわからない悪侶あくりょたちが近年出たが、学会の出現の意義と活躍は、お二方の上人のお言葉通りであることを、私は後世のために伝え、残しておきたい。
9  南条家から嫁いだ阿尼は、夫・重綱との間に六人の男子をもうけた。その五男が虎王丸とらおうまる(後の日目上人)であった。
 しかし、家族がそろって過ごした幸福な時間はあまりにも短かった――文永元年(一二六四年)、夫の重綱が他界する。この時、虎王丸はまだ五歳。阿尼はじめ新田家の人々が日興上人の教化により大聖人の仏法に巡りあう以前のことである。
 最愛の夫を失った妻の衝撃しょうげきと悲しみはいかばかりであったか――。
 たとえば大聖人は、同じように夫に先立たれた信徒の妙心尼に対して、その悲哀ひあいの心をいたまれ、次のように仰せである。
 「いにしへより・いまにいたるまでをやこ親子のわかれ主従のわかれ・いづれかつらからざる、されども・おとこをんな男女のわかれほど・たとげなかりけるはなし
 ――昔から今に至るまで、親子の別れ、主従の別れ、いずれもつらくないものはない。しかし男と女(夫婦)の別れほど心打たれるものはない――と。
 大聖人はこのお手紙の中で、四つの故事を引かれて夫婦離別の悲しさを述べられ、悲嘆ひたんに暮れる妙心尼の心をなぐさめられているが、幼子おさなごを抱えた阿尼もその悲運に直面するのである。
 しかもこのころ、夫の死に前後して夫の父母すなわち新田太郎重房とその妻・妙法尼、そして実父の南条兵衛七郎が相次ぎ亡くなっている。悪い時には不幸が重なるもので、蓮阿尼は二、三年のうちに夫、しゅうとしゅうとめ、実父と、頼みとする存在を次々に失ってしまう。なお南条家の地頭職を継ぐ実弟の時光は、このころまだ六、七歳の少年であった。
 しかし阿尼は、相次ぐ不幸の中から悲しみを乗り越え、毅然きぜんとして女手ひとつで幼い我が子たちを立派に育て上げていった。
 悲しみが深いだけ、そこから立ち上がった人には深い人生の味わいがある。ただ順風の人生では本当の苦労も知らず、確固たる人間のしんもできない。いざという時に頼りにならない場合が多い。ともあれ、この蓮阿尼の健気けなげな姿を見るにつけ、「やはり女性は強い」と痛感する次第である。
 どうかご主人方は、奥さまを大事にしていただきたいし、広布の活動にあっては、くれぐれも婦人部を大切に、とお願いしたい。
10  少年・虎王丸(日目上人)も、そうした母の懸命な姿を胸に刻みながら、勉学に励んでいった。
 母の笑顔を大きな支えとして、若き心は、あまりにも早い父の死の悲しみをも、人生の求道の力へと転じていく――。すなわち虎王丸は、肉親の死という体験をも一因としながら、生死しょうじの苦悩の根本的解決を説き切った大聖人の仏法を懸命に求め抜いていった、と推察される。
 人生の妙味は、ある意味で非常に些細ささいなところにある。悲しみをも、次の飛躍と成長へのかてとするか、あるいは、その正反対の方向へと向けてしまうか――その違いの根本は「一念」をどのように定めるかにある。
 微妙な一念の差は初めは見えない。しかし、時とともに必ず大きくあらわれていく。
 信心においては「ただ心こそ大切なれ」と大聖人は仰せである。学歴や地位が大切であるとも、財力や外見が大切であるとも仰せではない。目に見えない信心の「心」「一念」が一切を決める。この事実を深く銘記しなければならない。
 また、人生の途上におそいかかるさまざまな出来事も、信心を貫いていけば一切が生かされていく。すぐにはわからない場合もあるが、振り返って「信心の眼」で見ればすべて意味のあることがわかってくる。
 昨日も懇談の折に、ある方から若くしてお父さんを亡くし、お母さんと戦後の混乱期を生きてきた体験をうかがったが、幹部として現在活躍されている方々の中にもこうした体験を持っている人は多い。
 結局、そうした悩みや苦労がすべて将来の大成の因となり、さらには、成仏という永遠の幸福のためへの因となっていく。これが大聖人の仏法の偉大な力なのである。
11  逆境のなかに真の鍛え
 新田家の入信は文永十一年(一二七四年)のこととされる。この年、大聖人は流罪の佐渡より赦免しゃめんとなられ、身延へ入山なされた。
 その大聖人の御もと、当時、二十九歳の日興上人は、大聖人の正法正義しょうぼうしょうぎを満天下に証明せんとされるがごとく、最も足元にあたる甲斐かい(山梨)・駿河するが(静岡)での大法戦を敢然かんぜんと開始された。その目もさめるような弘教の波動の中で、南条家(南条時光ら)の人々も雄々しく立ち上がり、新田家も妙法と巡りあえたのである。日興上人と、当時十五歳であられた日目上人との初めての出会いも、この年のことであった。
 その後、大聖人のお心を受けた直弟子・日興上人の駿河方面での法戦によって、「四十九院法難」そして「熱原法難」が、相次ぎきそい起こる。難が競い起こること自体が、日興上人の正法正義の法戦がいかに正しかったかの証明であった。
 勢いを増して進めば進むほど抵抗が大きくなるのは、当然である。とともに、逆境のあらしの吹きすさぶ中でこそ、信心はきたえられる。その道理を、戸田先生はよく「玄界灘げんかいなだの荒海で育ったたいは、身が引きまっていておいしい」と、身近な例を引いて教えてくださった。
 と同様に、当時、法難の嵐が次第に激しくなっていく中で、日興上人の折伏によって入信した妙法の友の信心は、いやおうなく鍛えられていったにちがいない。
 また、逆境の中で伸びていく人こそ本物である。
 抵抗が大きければ大きいほど、前進への情熱を高め、迫害が強ければ強いほど、信心のほのおを燃やしていく――これが大聖人の仏法の精神である。
12  昭和三十一年(一九五六年)、戸田先生の心を体して関西の戦いに臨んだ私は、二十八歳であった。この時、私は、若き日の日興上人の大法戦を拝し、胸に思い浮かべながら指揮をとった。
 また戸田先生が発願なされた関西本部常住の「大法興隆所願成就」の御本尊に祈りに祈って戦った。そして、懐かしい草創の同志の皆さまとともに、同年五月に、大阪支部一万一千百十一世帯の弘教を成し遂げることができた。この未曽有みぞうの金字塔は、私の最大の誇りとなっている。
 当時は学会を取り巻く社会の環境においても、最悪の条件下での戦いであった。″最悪の時に、最大の力を発揮する″――この関西魂のあかしを、私は先頭に立って戦い、刻み残したつもりである。
 当時、ともに戦ってくださった、お一人お一人のことを、私は絶対に忘れられない。折あるごとにその方々のご多幸とご健勝を祈っている。
13  ともあれ、何ものにもおくさない、それが丈夫ますらおの心である。臆病おくびょうな心には、希望の太陽も昇らないし、新しき舞台の幕も開かない。
 いかなる時も、道を開きゆくものは、一人の勇気ある力である。その勇気さえあれば、あの人がどう、この人がこうだからとか、逆風だから順風だからということも大きな問題ではない。要は一人の「勇気」の力であり、「祈り」の一念である。
 「行動」の一念である。獅子王のごとき果敢なる行動にこそ、素晴らしき自分自身の歴史はつくられ、人生の金のドラマが生まれる。そして、洋々たる広布の新天地が開かれていくのである。
14  母の気高き信仰は後継の心に
 さて、蓮阿尼はじめ新田家の人々にとって、信心の大きな試練があった。それは、亡くなった妙法尼(阿尼の夫の母、つまり日目上人の祖母)の法事を行うことになった時である。蓮阿尼母子が、正法で行おうとしたところ、念仏宗の親戚一同から、こぞって反対、妨害が巻き起こったのである。
 本来、蓮阿尼の子・頼綱が本家筋であり、法事の願主であるから、文句を言われる筋合いはなかった。だが、とくに妙法尼の子息である道意どういらが念仏宗による法事を強要し、″先祖伝来の念仏を否定するような不孝の者には、領地をゆずるわけにはいかない″などと猛然と圧迫を加えてきた。
 おそらく、夫に先立たれ、強力な後ろだてのない蓮阿尼は、それまでも何かにつけて、そのように軽んじられたり、侮辱ぶじょくされたりしてきたことだろう。しかも、この法事で反対が起こったのは、大聖人が御入滅なされて間もないころであったと推測される。
 世間の逆風もいやまして吹き荒れていた。そうした中で、内部の五老僧たちも堕落だらくし、くずれ始めていた。
 だが蓮阿尼母子は、日興上人との師弟の道を一歩たりとも踏みはずさない。すべて日興上人にご報告しながら、その御指導のままに行動していった。日興上人もまた、最大にこまやかに心をくばられながら、この一家を守りに守っておられる。
 日興上人は、日目上人にあてた御返事の中で、大聖人の「下山御消息」の御精神のままに、堂々と仏法の正義を言い切っていくよう励ましておられる。「どのように脅迫きょうはくされようと何も恐れることはない。言うべきことは言っていきなさい」と。
 そして、次のように仰せである。
 「この御仏事の次に法華経動執生疑どうしゅうしょうぎそうらわんずる事よろこび入り候」(『歴代法主全書』)――反対の渦巻く今回の法事が法華経で行われれば、一族の人々に動執生疑を起こし、正法への信仰の縁が結ばれていくことでしょう。まことに喜ばしいことです――。
 正法正義への圧迫が大きければ大きいほど、それに屈しない信念と確信の行動は、人々の心の奥深くを、逆に大きく揺り動かさずにはおかない。そして、そこにまた、仏縁が大きく結ばれていく。
 悪意や敵意で非難されることが多ければ多いほど、仏縁を結んだ人が多くなり、その繰り返しによって広宣のネットワークが広がっていくのである。御聖訓の通りの私どもの法戦によって、一年一年、広宣流布ができあがっていく姿に、大聖人、日興上人はいかばかりお喜びのことかと思う。
15  蓮阿尼は、日興上人の仰せのままに、たくましき「母の信心」を貫き通した。どんな悪意や妨害にあっても、毅然きぜんと正法正義の道を歩み続けた――。その蓮阿尼の姿に私は、苦しい時も、つらい時も″負たらあかん″と自身に言い聞かせ、健気に前進されてきた関西の母たちが二重写しに思えてならない。関西だけではない。全国、いな全世界の広布の母たちの気高き姿が思われてならないのである。
 婦人部の活動には、がいして派手さはない。その活動は、あくまで生活に根差し、地味である。が、それだけ自分の足元を見つめている。現実的であり、着実である。そこに婦人部の最大の強みがあるといってよい。
 それに対し男性は、どちらかといえばロマンチストで、理想を追い求める傾向が強い。ともすると″ええ格好″はするが″実行は、まるで婦人部に任せっぱなし″という人もいると聞いた。もちろん関西には、そうした困った男性は一人もいないと、私は確信したい。
 蓮阿尼の法戦――それも、まことに地味な戦いであったにちがいない。歴史の表舞台に躍(おど)り出るような人生とは、まったく無縁であったろう。しかし、その生涯は、まぎれもなく実り多く、崇高すうこうであった。子供たちの見事な成長は、その最大のあかしといってよい。
 子息の中から、「一閻浮提いちえんぶだいの御座主」と尊称される第三祖日目上人をはぐくまれたことはもとより、他の子供たちも、広宣流布の舞台で活躍し、それぞれに確かな軌跡きせきを残していった。
 たとえば、新田家の惣領そうりょうにあたる次郎頼綱じろうよりつなは、奥州おうしゅう(東北地方)で弘教の先駆の存在となった。第四世日道上人は、この頼綱の子息であり、蓮阿尼からすれば孫にあたる。
 また、蓮阿尼の四男で、日目上人のすぐ上の兄となる四郎信綱しろうのぶつなは、伊豆の地にあって、日興上人のもと、不惜の実践に走り抜いた。さまざまな誹謗ひぼうや迫害にも屈せず、その献身けんしんの姿は、大聖人から一つの模範として、おほめいただいている。
 さらに、南条時光とともに、大石寺開創の外護げごの任も果たした。日興上人は「本尊分与帳」に、「新田四郎信綱は日興第一の弟子なり」と記され、その功労を厳然と留めおかれている。
 そのほかの子供も、御本尊を御下付され、信心に邁進まいしんしたほか、蓮阿尼の子孫には、広布史に残る功労の人々が少なくない。一人の「母」の存在は、まことに偉大である。
16  永遠の「幸福の門」開きゆけ
 妙法の福徳薫る一族に囲まれながら、正和二年(一三一三年)、蓮阿尼は、天寿をまっとうして、安祥あんじょうとしていた。じつに、夫との別離から五十年後のことである。見事な人生の総仕上げであった。
 こうした蓮阿尼の生涯については、これまで語られることが少なかったように思う。その意味からも私は、「女子おなごは門をひら」の御聖訓の通りに、素晴らしき後継の人材を育て上げ、万年へと広がりゆく広布の「門」を見事に開いた凱歌がいかの婦人の姿を、お話しさせていただいた。
 とともに、混濁こんだくの現代にあって、一家の「幸福の門」を開き、地域・社会の「安穏の門」を開いていらっしゃる広布の母たちの功績も、まことに尊い。
 きょうは、関西の高齢者の集いである「錦宝会きんぽう」の代表の方々も出席されている。皆さま方の功労に対して、私は心から敬意をささげ、最大にたたえたい。今後も、我が学会の永遠なる「常勝の門」を、限りなくともどもに開いてまいりたい。
17  弘安六年(一二八三年)、大聖人御入滅の翌年のことである。大聖人の第百日忌法要を終えると、日目上人は、師・日興上人に、自ら奥州へ弘教に出ることを願い出た。時に、日目上人は二十四歳――。
 ご存じのように、大聖人の御入滅後、各方面の責任者である五老僧は、いずれも大聖人の御遺命ごゆいめいそむき、段々と勝手な振る舞いを始める。彼らは、正しき「師弟相対」という根本の軌道を踏み外し、エゴと保身と野心のままに迷走していった。
 仏子が、言い尽くせぬ苦労を重ねて築き上げた″法城″が、外ではなく、まさに内部から崩されようとしていた。
 そうした渦中、日目上人は、すべての逆境をはじき返すような大情熱を、胸にふつふつと燃えたぎらせておられたにちがいない。
 奥州は、兄・新田次郎頼綱らが住むゆかりの地であり、一族も数多くいた。が、妙法の勢力はいまだないに等しく、他宗が深く根を下ろしていた。そこへ、あえて日目上人は旅立たれた。師弟の道に徹する青年僧の、炎のごとき気概が拝されてならない。
 当時は、奥州までの道のりは約三週間。むろん、徒歩である。今なら、電車に乗って、のんびり本でも読んだり、景色をながめながら旅ができるが、昔はそうはいかない。
 険難を越え、大河を越えての、まさに苦行くぎょうの旅である。それをいとわず、日目上人は、幾度となく奥州に足を運ばれ、弘教の波を起こされていった。
 日目上人によって妙法に目覚めた奥州の門下に対して、日興上人は、大石寺開創以降、毎年のように御本尊を授与され、それは現在でも約三十ぷく以上が残っているといわれる。妙法の種子は、深く、確かに、みちのくの大地に植えられていた。
18  「常勝・関西」の歴史を限りなく
 広布はつねに、だれに頼まれるのでもない。自発の一念によって開かれる。
 私も青年時代、戸田先生に「関西が大事です。交通費なども全部自分で工面しますので、ぜひ行かせてください」とお願いし、何回もこの地に来させていただいたことを、懐かしく思い出す。
 ともあれ、いかなることがあっても、委縮いしゅくしてはならない。つねに獅子のごとく、赫々かっかくたる生命で前進していく――ここに、広宣の魂があり、信仰の精髄がある。
 私どもは、どのような策や誹謗があったとしても、我が信仰の大道を、大胆だいたんに、また堂々と進んでいけばよいのである。清き信心の世界を、悪意に蹂躙じゅうりんさせては絶対にならない。
 皆さまは、末法万年の広布の揺るがぬ土台を作り、人類待望の新しい理想の舞台を開こうとされている。それは、あまりにも尊く、素晴らしき使命であり、人生である。この道を歩み抜くならば、限りなく、我が生命の境涯を広げ、福徳を薫らせていけることは間違いない。
 この一点を深く確信し、みずみずしい歓喜をたたえながら、「常勝・関西」の歴史をさらにつづりゆけと申し上げ、本日のスピーチとさせていただく。

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