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日蓮大聖人・池田大作

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第三回中部総会 自身の決めた道を堂々と歩め

1989.1.21 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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2  日目上人の死身弘法の道
 中部といえば、私どもにとって永久に忘れられない歴史がある。いうまでもなく第三祖日目上人の有縁うえんの天地であることである。
 元弘三年(一三三三年)、厳寒の十一月(現在の十二月中旬)、日目上人は京都への諫暁かんぎょうのため、この中部の大地をあゆまれていた。東海道を三河の豊川(河)、岡崎へ、さらに尾張の熱田、一宮へと。
 この年の五月には鎌倉幕府が滅亡し、六月に、いわゆる「建武の新政」が始まっている。まさに時代が大きく移り変わるカオス(混沌)の渦中であった。そこにはすでに、その後六十年近くにもわたって続く「南北朝内乱」の火ダネがはらまれていた。
 民衆の安穏と幸福は、あまりにも遠く、人々を救う真実の正義がどこにあるのか、やみはあまりにも深かった。その真っただ中を、日目上人は、大聖人そして日興上人の御心のままに、「立正安国」への壮絶なる戦いに、一人立ち上がられたのである。
 どこまでも「師弟」の精神に生きる崇高すうこうなお姿であられた。時に日目上人は七十四歳。付き従うおともは、わずか二人であった。
 しかも、すでにお体はかなり衰弱されていた。御出発前の、あるお手紙にも「これも左つぶふしを十余日やみて、右のそばはら側腹わずらい候也」(『歴代法主全書』)――左足のくるぶしを十余日ほど病み、右のわき腹をわずらいました――と記されている。
 足の痛み。それは、幾たびにもわたる奥州(東北)弘法をはじめとする転教の旅、また四十二回にも及ぶといわれる京・鎌倉への諫暁など、奔走ほんそうにつぐ奔走の結果であった。その痛み、疲れ、こごえる高齢のお体にもかかわらず、日目上人は決然と旅だたれた。そして前へ、また前へと歩みを続けられた。
 そのことを思うとき、私どもは、まだまだ若い。そして″進まざるは退転″であり、生涯、最後の一歩まで、ともどもに広布への今世の旅を歩み抜いてまいりたい。
 私も、創価学会の″第三代″として、いよいよ、これからが本格的な戦いであると自負し、また決意している。
3  日目上人は、ここ中部の美濃の国(岐阜)・垂井たるいの地で、ついに御遷化ごせんげなされた。十一月十五日のことである。
 戸田先生は論文「創価学会の歴史と確信」の中で、次のように述べられている。
 「学会員は、ご老齢の身をひっさげて大折伏の途上、お倒れあそばした日目上人のご命を命として、宗開両祖(=大聖人・日興上人)にむくいたてまつらんとしなければ、成仏はかないがたしと知らなければならない」(『戸田城聖全集』第三巻)と。
 ここに学会精神の骨髄がある。戸田先生の、そして日目上人と同じ、数えの七十四歳で殉教じゅんきょうなされた牧口先生の「大確信」がある。また「大闘争心」がある。
 まさに日目上人の死身弘法の「道」に、学会は真っすぐに連なっている。そして今も続いている。ここに学会のほまれがあり、限りなき前進のたましいと命がある。
 この「道」をともに行くゆえに、確実に成仏の方向へ、常楽我浄の金剛の境涯へと進んでいくことができる。またこれだけの発展を遂げることができた。この「道」をはずれ、退していったならば、それは永遠の苦悩と悔恨かいこんの自身となろう。
 ともあれ、この″我等の決めた道″を、何があろうとも堂々と、胸を張り、立派に歩み切ってまいりたい。その人こそが大聖人、日興上人、日目上人から最大に称賛される人であるにちがいない。
 そして、どこよりも、日目上人有縁の中部の友こそ、この″信念の旅路たびじ″の模範の勝利者であっていただきたい。
4  さて「佐渡御書」といえば、戸田先生が、私ども青年に繰り返し教えられ、心の奥底まで刻み込もうと指導された御書である。
 「佐渡御書を拝して」と題する論文の冒頭では、こう書かれている。
 「この御抄を拝して、深く胸打たれるものは、大聖人御自身のお命もあやうく、かつはご生活も逼迫ひっぱくしているときにもかかわらず、弟子らをわが子のごとくいつくしむ愛情が、ひしひしとあらわれていることである。春の海に毅然きぜんたる大岩が海中にそびえ立ち、そのいわおのもとに、陽光をおびた小波があまえている風景にもているような感がある」と。
 この大聖人の御心を深く拝して、戸田先生もまた、仏子である会員を思う心は、あまりにも深かった。会員を守り、その幸福のために生命をけずり、投げ出された生涯であった。
 いつ、いかなる時にも、厳然とすべての矢面やおもてに立ち、一身に非難と迫害の荒波をびながら、不動の岩のごとく、たてとなって会員を守りに守っておられた。
 その姿は、その心は、私の胸に永遠に焼きついて離れない。ゆえに私も不二の精神で、大聖人の純真な仏子を、いささかでも利用し、また、いじめようとする者とは、だれびとであれ、徹底して戦い抜いていく。ただただ皆さまの幸せを祈り、行動しているつもりである。それは必ずや御本尊が照覧しょうらんしてくださっていると確信する。また戸田先生がだれよりもご存じであろう。
 ともあれ、広布の指導者は絶対に、仏子を守るという、この強き強き一念を忘れてはならない。そして、いかなる悪の策謀さくぼうにも左右されない賢明さと力を身につけていっていただきたい。
5  妙法の「祈り」に功力は厳然と
 文永九年(一二七二年)、「佐渡御書」に前後して大聖人は、流罪の地・佐渡で「祈祷抄」をあらわされる。最蓮房に与えられた御文であるが、大聖人は御年五十一歳、大難のさなかにあられた。
 この御抄の中で大聖人は、次のように仰せである。
 「大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひ満干ぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず
 ――たとえ大地を指さしてはずれることがあっても、大空をつないで結ぶ者があっても、またしおの満ちたりいたりすることがなくなっても、太陽が西から出るようなことがあったとしても法華経の行者の祈りがかなわないことは絶対にない――と。
 つまり、妙法の「祈り」は、絶対に叶うとの御断言である。妙法の功徳には、祈りがただちに利益となってあらわれる「顕益けんやく」と、最初ははっきりと目には見えないが次第に福運を積み、大利益となってあらわれる「冥益みょうやく」がある。たとえ祈りが直ちに叶わないように思える場合があっても、必ず、「冥益」によって、願いは叶っていくのである。
 大聖人はこの「祈祷抄」において、″なぜ法華経の行者の祈りが絶対に叶うのか″についてくわしく論じられている。
 正しき信心の「一念」の祈りは、全宇宙の十界三千と壮大に連関しながら必ず成就じょうじゅしていくのである。
 この内なる「一念」と外なる「宇宙」との連関性については、私はこれまでも『「仏法と宇宙」を語る』などで、種々言及したが、今後もさらに本格的に論じたいと思っている。
 本日は、″なぜ仏が法華経の行者を守護するのか″についての仰せを拝したい。
 「仏此の法華経をさとりて仏に成りしかも人に説き聞かせ給はずば仏種をたたせ給ふ失あり、此の故に釈迦如来は此の娑婆世界に出でて説かんとせさせ給いしを、元品の無明と申す第六天の魔王が一切衆生の身に入つて、仏をあだみて説かせまいらせじとせしなり
 ――仏は、この法華経をさとって仏になったのである。だから、人々に法華経を説き聞かせなかったならば、仏種をとがとなってしまう。このため釈如来は、娑婆世界に出現して、この法華経を説こうとされた。しかし、「元品の無明」という第六天の魔王が一切衆生の身に入って、仏を怨嫉おんしつして説かせまいとした――。
 仏がみずからの成仏の因である法華経を説法しないならば、仏自らが仏種を断つことになってしまう――と。
 このことを、私どもの立場に敷衍して拝するならば、指導者の責任という意味にも通じよう。ちょうど、豆腐とうふ屋さんが豆腐を売らないならば豆腐屋でなくなってしまうように、指導者が批判を恐れて正しい、言うべきことを言わなければ、もはや指導者とはいえない。ただ、うまく立ち回り、「悪」を放置したままにするならば、それは「偽善者ぎぜんしゃ」であり、「悪」をなすことと同じになってしまうからである。
6  正法流布の法軌示す釈尊の難
 さて法華経を説こうとする釈尊に対し、第六天の魔王の働きは「九横くおうの大難」をはじめとする幾多の難となって立ちはだかる。
 すなわち先の文に続けて「所謂波瑠璃王の五百人の釈子を殺し、鴦崛摩羅が仏を追、提婆が大石を放・旃遮婆羅門女が鉢を腹にふせて仏の御子と云いし、婆羅門城には仏を入れ奉る者は五百両の金をひきき、されば道にはうばら荊棘をたて・井には糞を入れ門にはさかむき逆木をひけり・食には毒を入れし、皆是れ仏をにくむ故に」と。
 波瑠璃王が五百人の釈迦族を殺し、鴦崛摩羅が仏を追いかけて指を切ろうとした。提婆達多が大石を落として仏を傷つけ、旃遮婆羅門女が鉢を腹にふせて仏の御子を身ごもったと言いふらした。婆羅門城の王が城内に仏を入れた者は五百両の罰金を取るといったので、人々は道に荊棘いばらを立て井戸には糞を入れて水を飲めないようにし、門には逆茂木さかもぎを引き、食物には毒を入れた。これらはすべて、正法を説こうとする釈尊への怨嫉のあらわれであった。
 そればかりではない。難は釈尊のみにとどまらず、「華色比丘尼を殺し、目連は竹杖外道に殺され、迦留陀夷は馬糞に埋れし・皆仏をあだみし故なり」と仰せのように、その弟子たちにも及んだのである。
 だが、釈尊はこうした難に屈しなかった。
 「而れども仏さまざまの難をまぬかれて御年七十二歳、仏法を説き始められて四十二年と申せしに・中天竺・王舎城の丑寅・耆闍崛山と申す山にして、法華経を説き始められて八年まで説かせ給いて、東天竺倶尸那城・跋提河の辺にして御年八十と申せし、二月十五日の夜半に御涅槃に入らせ給いき
 ――しかしながら、仏はさまざまの難をまぬかれて、御年七十二歳の御時、すなわち仏法を説き始められてから四十二年という時に、中天竺の王舎城の丑寅の方角にあたる耆闍崛山という山において、法華経を説き始められ、八年の間説かれて、東天竺の倶尸城の跋提河の辺において、御年八十歳の二月十五日の夜半に御涅槃に入られたのである――。
 さらに大聖人は次のように仰せである。
 「而りといへども御悟りをば法華経と説きをかせ給へば・此の経の文字は即釈迦如来の御魂なり、一一の文字は仏の御魂なれば此の経を行ぜん人をば釈迦如来我が御眼の如くまほり給うべし、人の身に影のそへるが・ごとく・そはせ給うらん、いかでか祈とならせ給はざるべき
 ――しかしながら、御悟りは法華経と説きおかれたので、この法華経の文字は即釈如来の御魂である。一々の文字は仏の御魂であるから、この経を修行する人を釈迦如来は、我が御眼のように守られるであろうし、人の身に影が添うように付き添われているであろう。どうして祈りの叶わないことがあろうか――と。
 つまり、釈尊は御自身ならびに門下に次から次へとおそいかかってくる難を、すべて乗り越えて、出世の本懐である「法華経」を説き残した。ゆえに、その「法華経」を信じ行ずる人を「我が御眼の如く」守られるとの御断言である。また、必ず祈りも叶うとの仰せなのである。
7  それにしても、釈尊の在世においても、壮絶な難の連続であった。
 一切衆生の成仏の法である法華経を説き残そうとされた釈尊。そうはさせまいとして第六天の魔王によるあらゆる妨害が紛然と競い起こってきたのである。
 その一つ一つの事件は、どこか遠くの世界の机上の物語ではない。他ならぬ生身なまみの人間が繰り広げるこの現実社会でのみにくい出来事である。その構図は、大なり小なり現代にも通じるものであり、正法流布への迫害の方程式は、いつの時代も同じである。
 たとえば″釈尊の子供を身ごもった″――こうしたデッチあげのウソを言いふらして、釈尊をおとしいれようとした旃遮婆羅門女せんじゃばらもんにょ。ある仏典によれば、夢の中でも休みなしに、他人の悪口を言っており、夢からめて心喜ぶというような悪意の人物である。最近も、これと似たような人がいたことは、皆さまもご存じの通りである。
 こうした毒気深入というか、悪業が生命の奥深くまで染み込んだ「不信」の人間に対しては、仏法の世界にあっても、その悪事をやめさせることはできない、と説かれている。まことに仏典の通りの現実であり、哀れでかわいそうな人がいつの世にもいる。
 深く染みたサビを落とそうと思えば、強い力で何度も何度も磨かなければならない。と同様に、そのような深い悪の傾向性は、信心に心から目覚め、生命を削るような実践なくして、根本的な転換はなしえない。
8  さて、なぜ釈尊のような仏が、こうした生命の濁った悪しき女人から、いわれなき誹謗を受けなければならなかったのか。
 この点について、釈尊は、仏典の中で「それはすべて、未来の仏道修行者のためである」と、明かしている。すなわち、仏道修行を行っていると、いろいろな人から謗られたり、迫害を受けたりする。それでイヤになって、信心をやめようとする人も出てくるだろう。そうしたとき″仏でさえ、あのような、いわれない誹謗を受けているではないか″と思い起こして、自らを励まし、ふたたび前進していくことができるように、あえて方便として、今、このような難を引き起こしている、というのである。
 信心に励んでいる人が、未来永劫にわたって退転しないように、その歯止めとなるように、仏自らが難を受けていく――これが仏の慈悲である。
 もとより次元は異なるが、私どもの現在のさまざまな難や労苦も、一面からいえば、すべて末法万年にわたる広宣流布のためにあるといってよい。長い長い未来のために、一つの「原点」となるものを示し、広布の「図式」と「模範」を残しゆくためである。
 そして″なるほど、あのときはこうだった。これがいつの時代も変わらない難の構図なのだ。だから負けてはいけない。すべて、信心で乗り越えていける。だから戦おう″というように、後世の友が、そこから、限りない勇気と希望と励ましをくみ取っていく源泉ともなるにちがいない。
 その意味で、私どもの信心の上での数々の苦難との戦いは、この短い一生という劇場で、壮大なる広布と人生の永遠の勝利にも通じゆくためのドラマと一大叙事詩を、演じ詠っているといえるかもしれない。
 また広げていえば、幹部であっても当然、病気になったり、家族に不幸があったりする場合がある。しかし、それは病気で苦しんでいる人や、家族に事故があって悩んでいる人にとっては、″私も負けないで頑張ろう″との大いなる励ましともなるにちがいない。
 ともあれ、御聖訓に照らし、難と戦い、妙法広宣に懸命に進む勇者には、仏の加護は厳然とある。広布に励む仏子を、必ず守っていく――これが釈尊の御心であり、そして大聖人の大慈大悲であられる。
 その強盛な祈りは、全宇宙の仏界の力用を揺り動かし、さらに一切の菩薩、二乗、諸天の働きとも共鳴しあいながら、所願満足の大勝利の人生を開いていくことを、皆さま方は確信していただきたい。
9  教育は民衆の幸福のために
 さきほど、創価同窓の懐かしき方々とお会いし、ともに記念のカメラに納まった。見事に成長した姿を拝見し、創立者として、これ以上うれしいことはない。
 創価大学、創価学園を卒業された皆さまは、私の最も信頼する方々である。今や、卒業生は、社会のあらゆる分野に進出し、活躍されている。創大、学園出身者が各界のリーダーへと成長し、広く注目を集める時代が、いよいよ到来しつつある。それを思うと、大いなる希望と喜びが、私の胸中には高鳴る。
 ますます国際化の時代であり、社会自体も一段と高度に、複雑になってきている。こうした趨勢をみても、これからの若い人、とくに男子は、できるならば大学に進学し、最高学府で学問の研さんにいそしんでいただきたい。国際的な競争社会の中で、自分らしく生き、勝利していくためには、幅広い教養が不可欠となる。また一般的に、学問の探究は、深き人格を養っていくものだ。
 当然、それぞれの事情があり、いちがいにはいえないが、どうか、未来部の友が立派に成長できるよう、本人が努力することはもちろん、周囲の方々も温かな激励、ご協力をお願いしたい。
 こういうと、お母さん方は子供の顔を見るたびに「勉強!勉強!」となる。しかし、それでは子供は納得しないだろう。そういう自分だって、子供のころは、大して勉強しなかったにちがいない。
 言葉でいうのは、たやすい。だが、言葉のみで、思いは伝わらない。親はまず、御本尊に深く祈ることである。そして広く、豊かな心で、子供を励まし、包んであげてほしい。「お母さんが、しっかり祈ってますよ。だから安心して勉強してね」というような、心優しい具体的な一言が大切である。安易な強制は、反発こそあれ、まったく無意味である。
10  なぜ私が、創価大学、創価学園を創立したか。
 それは牧口先生、戸田先生の悲願であり、遺言でもあった。また、人間を育て、はぐくむ教育こそ、人類、社会にとって最重要の課題であるとも思ってきた。
 だが、それだけではない。何より、徹底して民衆の側に立つリーダー、民衆のために戦い、行動しぬく指導者を、私は育てたかった。ここに、創大、学園創立の、一つの眼目があった。
 きょうは、イギリスのロンドン大学の歴史に触れながら、この点について、少々、論じておきたい。
 過日(一月二十四日)、私は、ロンドン大学クイーン・メアリー・カレッジのバターワース学長と会談した。同カレッジは、ロンドン大学の中でも大きなカレッジの一つにあたるが、ロンドン大学総体では、カレッジ・研究所は約四十にも及ぶという。学生数も、約五万人を超え、現在では、文字どおり、イギリス最大の大学である。ちなみに、オックスフォード、ケンブリッジ大学の学生は、いずれも一万三千人前後である。
 ロンドン大学の最大の特徴は、一八三六年、イングランド初の″市民大学″として設立されたことである。
 十九世紀の前半にあっても、オックスフォードやケンブリッジといった伝統校は、あくまで貴族など上流階級の子弟をおもな対象とし、いわゆる庶民の入学は、ほぼ不可能であった。しかも当時は、宗教的にも厳しく限定され、国教徒以外は、一切入学を許されなかった。
 こうした現状に対し、閉鎖的な教育を嘆き、大学の革新を説く人々が現れる。H・P・ブルーム(政治家)やジェームズ・ミル(思想家)、J・ベンサム(法学・哲学者)といった自由主義者たちである。彼等は″庶民のための新しい大学を建てよう″″宗教的制約から解放された自由な大学をつくろう″と立ち上がった。
 かつて、ピューリタン(清教徒)はイギリス国教会に異を唱え、大西洋の彼方に新天地を求めた。国教会の強制をい、あくまで信仰の自由を希求する伝統は、この時代にも、確かに生きていた。こうして一八二八年に誕生したのが、ロンドン大学の前身に当たる「ユニバーシティ・カレッジ」である。
 ここでは、カリキュラムに、それまでの「古典語」「数学」など旧来の科目だけでなく、「自然科学」「経済学」なども取り入れられ、時代の流れに即応する教育が目指された。そして、あらゆる階層の人々が学べるように、学費も、従来の十分の一程度ですむように工夫されたのである。まさに、民衆の時代を先取りする画期的な改革であった。
11  しかし、こうした変革も、すべて順風であったわけではない。いつの世も、新たな運動、改革には、中傷や妨害がつきものである。
 保守勢力や国教派からは「神のない大学(godless college)は大学の名に値(あたい)しない」「ロンドンのような首都で教育するということは、学生の健康によくないし、彼らの道徳性を破壊する」といった非難が寄せられた。また、大学への協力は「掃除人夫にラテン語とギリシャ語でしゃべらせ、いかけ屋(=ナベやカマの修理人)を主教様よりもの知りにするだろう」という揶揄やゆの詩をせた印刷物もあった。(梅根悟監修『世界教育史大系 第七巻』講談社から)
 さらには、国王の設立認可に対しても、さまざまな妨害・干渉があった。しかし、大学設立者たちは負けなかった。彼らには、民衆の幸せを願う熱い真情があった。そして民衆の幸福は、知性、教養、人格など、教育による精神的な向上によって、もたらされることを、彼らは確信していた。
 設立に尽力した一人ジェームズ・ミルは、ある教育論の中で「大衆が教育されるべきか否かという問題は、大衆が幸福になるべきか悲惨になるべきかという問題と同一である」と述べている。(三好信浩著『イギリス公教育の歴史的構造』亜紀書房から)
 ここに、彼らの鋭い洞察どうさつがあり、絶対に譲れない創立の心があったといってよい。
 傲慢ごうまんにも、民衆をあざむき、権力をほしいままにする存在は、確かに悪である。しかし、そうした存在を許す大衆の側にも、大きな課題がある。民衆の弱さ、愚昧ぐまいさのゆえに、権力者が横行し、我が世の春を謳歌おうかするような時代が、いつまでも続いてはならない。
 民衆が団結して、学びに学び、聡明そうめいな一人一人になっていかねばならない。そこにこそ、真に民衆の時代を開くカギがある。
12  つねに民衆とともにあって、民衆とともに歩む――ロンドン大学の創立に込められたこの精神は、今日まで脈々と伝えられ、輝かしい歴史を刻んでいる。
 むろん、クイーン・メアリー・カレッジも例外ではない。バターワース学長も、一貫して民衆の啓蒙、民衆の薫陶くんとうに取り組んできた同カレッジの伝統を誇りとされ、今も第三世界を含む海外約八十大学の留学生を受け入れていると私に話してくださった。その数は、全学生の二割以上を占めるという。だが、日本の大学との正式な交流は、まだ開かれていない。
 過日の会談でも話題となったが、同カレッジは、日本では初めて、我が創価大学との学術・教育交流を行う運びとなった。現在、正式な調印へ向け、準備を進めている。
 ロンドン大学のみならず、創立九百年を迎えたイタリアのボローニャ大学とも、学術交流が内定している。このように幾多の大学と交流を結べることは、私どもにとって最大の光栄であり、喜びである。
13  本年四月は、皆さまもよくご存じのイギリスの歴史家・故トインビー博士の生誕百年にあたっている。博士もじつは、一九一九年から一九五五年にかけて、すなわち三十歳から六十六歳で退官されるまで、ロンドン大学の教授として教鞭きょうべんられていた。この間、大著『歴史の研究』の主要部分をはじめ、『試練に立つ文明』『世界と西欧』等々、数多くの著作を残されている。
 博士は、退官と同時にロンドン大学の名誉教授にされているが、八十六歳で亡くなるまで、″庶民の大学″″民衆の大学″の気風の中で活躍されていた。
 博士の生涯最後の著作ともいえる『二十一世紀への対話』(文藝春秋)の対談の際、家族のような雰囲気のなか、何日もかけて親しく語り合ったことは、私にとって今も懐かしい思い出である。
 そのなかで博士は、″教育″と″社会″の在り方について、次のように話しておられた。
 ――知識人と大衆が二分され、互いに疎外そがい関係にあるという社会は不健康である。そこでは、知識人は人生の普遍的な現実問題との接触を失いやすい。一方、大衆は、能力に応じて最大限に享受きょうじゅすべき知的教養を失うことが多い――と。
 そして、民衆に開かれた教育の場と生涯にわたる教育の大切さについて、博士と私は意見の一致をみた。
 思うに、こうしたトインビー博士の思想は、″民衆のための大学″ロンドン大学で教鞭を執られていたこととの連関性からとらえ直すと、一層、鮮明に浮かび上がってくるといえよう。
 創価大学も、この″民衆とともに″の精神をもって、日本の教育界に新風を送らんとの趣旨しゅしで創立されたのである。トインビー博士も当時、創立間もない創価大学に大きな関心と期待を寄せてくださっていた。
14  一人一人の向上こそ時代の要請
 学会は、いわば人生の″総合大学″である。私がこうして何度も、長時間のスピーチをし、仏法の話はもとより、広く世界の思想や歴史、人物等について話をさせていただいているのも、その意義からである。
 学会は、広宣流布という最も崇高(すうこう)な目的に向かって進む仏子の集まりである。人間的にはもちろんのこと、知性や教養も深めていくべきである。どうか、そのためにも皆さま方は、この学会の世界で、信心を根本に、つねに勉強していく姿勢を忘れないでいただきたい。学会員一人一人の、向上への着実な一歩一歩こそ、広宣流布の確かな発展をもたらしていくからである。
 またとくに幹部の方は、いつも同じような内容の話ではなく、つねに新鮮な心からの納得と決意を呼び起こすような話を心掛けていくべきである。そのための真剣な研さん、思索の姿は、後輩へのよい刺激となり、励みとなるはずである。私も、今後さらに先駆を切り、その確かなる流れをつくり残していきたい。
 最後に、鉄の団結で全国の模範中の模範の地域を築いていただきたい。そして、″中部を見よ″″中部を見習え″″中部に続け″といわれる「大中部」であっていただきたいことを心から祈って、本日のスピーチとさせていただく。

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