Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第十三回本部幹部会 決然の「一人」から革命の波

1989.1.21 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

前後
2  ところで、スウェーデンが近代国家として独立したのは、一五二三年のことである。この独立を指揮したのが初代の王グスタフ一世(一四九六〜一五六〇年)であった。
 独立前のスウェーデンは、北欧三国のカルマル同盟の一員として、デンマーク王を共通の王としていた。とくにクリスチャン二世はスウェーデン支配の強化に乗り出し、それに対抗する国内勢力との緊張が高まっていた。
 のちのグスタフ一世、グスタフ・バーサは名門貴族の子として生まれた。父は、デンマークからの分離・独立を説く独立派に属し、子のグスタフ・バーサも、祖国の独立を夢見ていた。
 一五一八年、若き彼は人質としてデンマークに送られ、幽閉ゆうへい生活を送る。しかしからくも脱出に成功し、故国に帰る。が、一五二〇年、クリスチャン二世はスウェーデンに進軍し、独立派を徹底的に弾圧。その指導者をあざむき、虐殺ぎゃくさつする。約百人が殺されたこの事件を「ストックホルムの血浴けつよく」というが、このなかに、グスタフ青年の父や義理の兄弟、そして一族の多くが含まれていた。
 これ以上、悲しみを繰り返したくない。この悲劇に幕を引くためにも、祖国の独立を実現せねばならない――若きグスタフは、我が生命に解放への情熱をたぎらせ、凛々りりしく立ち上がる。
 いつの世にあっても、時代のを開き、新たな鐘を鳴らすのは、″一人立つ″青年である。一人の勇者の透徹した信念と行動が、万波の波動を呼び起こし、偉大なる変革を成していく。
 自己の保身に執着する権力者が恐れるのは、この「一人」である。また、新時代を待望する民衆が求めてやまないのも、この「一人」である。広布のリーダーである皆さま方は、その時代革新の先駆を走る誉れの「一人」であることを忘れてはならない。
 独立達成のためにふたたび行動を始めたものの、グスタフの歩みは順調ではなかった。同志の多くは殺され、所有地は没収、首には懸賞金がかけられた。彼は、農民に身をやつして、伝統的に革命機運の高い地であるダーラナ地方に向かう。
 かろうじてダーラナ地方に着いたものの、住民は長い戦乱にみ、疲れていた。グスタフの必死の呼び掛けにも、応じてくるものはなかった。グスタフの悲嘆はあまりにも大きかった。しかし、彼は独立の望みをあきらめはしなかった。自分「一人」でも、独立の理想の灯を持ち続ければ、いつの日か必ず、民衆が彼のもとに集い、ともに立ち上がることを確信していたのである。彼は時を待つべく、国外脱出を試み、ノルウェー国境へと向かった。
 ところが、ほどなく、クリスチャン王の暴政を知らされた住民は、決起を決意。急いでグスタフを追い掛け、呼び戻す。そして、グスタフを中心に独立の戦いを展開。またたくまに全土の支持を集め、クリスチャン王の軍隊を破る。一五二三年六月六日、グスタフは国王に選出され、ここに独立は達成された。
3  生涯平和を求めた女性作家ラーゲルレーブ
 さて、北欧といえば、児童文学の宝庫でもある。デンマークのアンデルセンをはじめ、フィンランドのトペリウス、ノルウェーのビョルンソン、アイスランドのスウェンソン、スウェーデンのリンドグレーンなどの作家が、少年少女のために数多くの傑作を残している。
 そのなかの一人、セルマ・ラーゲルレーブ(一八五八〜一九四〇年)は、女性初のノーベル文学賞受賞者として著名である。スウェーデンが生んだ世界有数の女性作家である彼女の代表作『ニルスのふしぎな旅』は、多くの外国語にも翻訳ほんやくされ、スウェーデンの近代文学の高さを世界に知らせたといってよい。日本でも七十年前に紹介され、その時は『飛行一寸法師』というタイトルであった。
 彼女は、由緒ある家柄の出身で、父親は文学愛好者であった。が、彼女は小さいころから、足が不自由であった。三歳半に完全に歩行不可能となる。そこで、学校には通わず、周囲から伝説やおとぎ話を聞いて育った。おのずと書物にも親しみ、文学的な情操をはぐくんでいった。文学を一生の仕事としたい――これが、少女の生涯の夢となった。若き日を、やはり病弱で過ごした私には、その気持ちがよくわかる。
 ラーゲルレーブは、身体のハンディキャップにもかかわらず、まず教師を目指す。しかし、家の経済状態は悪化しており、教員養成所の入学金は借金でまかなった。
 教師のかたわら、彼女は文学の創作にいそしむ。父親の死や経済的な苦境にも負けず、精いっぱい、青春の情熱を文学に注いだ。そして三十二歳の時、懸賞小説の一等を獲得し、その作品『イェスタ・ベルリング物語』は、翌年出版された。この成功が、青春の夢の実現への出発となるのである。
4  ラーゲルレーブがノーベル賞を受けたのは、一九〇九年、五十一歳の時である。
 彼女は、受賞演説で、自分のことよりも亡き父親と故郷のことを語り、多くの人々に感謝の言葉を捧げた。彼女の話には、深い「愛情」と恩ある人々への深い思いが込められていた。聞く人の心を打たずにはおかなかった。
 「心」を打つものは、やはり「心」である。たとえ雄弁でなくとも、語る人の「誠意」と「真心」、そして「感動」の込められた言葉は、おのずと相手の心を動かすものである。
 反対に、口先でいかにつくろっても、「心」のこもっていない言葉は決して相手の心に入っていかない。自分の心の底から発した「真実」の言葉であるかどうか。ここに、「納得」と「共感」の語らいを生む源泉がある。
 ともあれノーベル賞は、彼女の美しき心と、豊かな人間性の大地に咲いた花であった。また青春の夢を結実させんとした、たゆまぬ努力の勝利の桂冠けいかんであった。
 北欧の花は美しい。春の訪れとともに、色とりどりの花が、いっせいに野や丘を飾る。スズラン、アネモネ、リンゴなどが、そよ風に揺れる姿は、日の光を浴びてほほえんでいるように見える。北の国の花々が、とりわけ美しく見えるのは、厳しい冬を耐えて咲くからであろう。
 「芸術」も、また「人生」も同じである。苦しみや絶望の谷間を乗り越えて初めて、真の開花がある。まして「信仰」の世界は、もっと峻厳しゅんげんである。何の苦労もせず、出来上がった組織の上で、ただ立場が上がっても、本当に自分を鍛え、磨くことがなければ、「一流」や「本物」の人材に育つことなど絶対にできない。
5  日蓮大聖人は、病状が思わしくない富木尼御前にお手紙をしたためられ、次のように仰せになっている。
 「尼ごぜん又法華経の行者なり御信心月のまさるがごとく・しをのみつがごとし、いかでか病も失せ寿ものびざるべきと強盛にをぼしめし身を持し心に物をなげかざれ」――尼御前もまた法華経の行者であり、御信心は月が満ち潮が満ちてくるように強盛である。どうして病がえず寿命が延びないことがあろうか(延びないはずがない)と、強く心に念じられ、御身を大切にし、心の中であれこれ嘆かないことである――と。
 病気に悩む富木尼に、″業病すら治す法華経である。あなたは、その偉大な功力を持つ法華経の行者ではないか。嘆いてはいけない″と、大聖人は力強く励ましてくださっている。
 長い長い人生である。時には、病に倒れたり、事故にあうこともあろう。まただれびとも、死はけえない。″生老病死″は人の常であり、大なり小なり生死の苦悩があるのは、むしろ当然といってよい。
 大切なのは、それらに直面したとき、どう信心で乗り越えていくかである。信心さえしっかり貫いていくならば、妙法の絶対の力用りきゆうによって、必ず自身を最もよい方向へと向けていける。
 また、「我れ等は仏に疑いなしとをぼせば・なになげきか有るべき」――我らは間違いなく仏になると思えば、なんの嘆きがあろう――と仰せになっている。
 広宣流布という偉大な目標のために戦い、走り抜いた素晴らしい人生の歩みであれば、病であっても何も嘆く必要はない。三世永遠にわたる幸福を厳然と築いていける――。大聖人は富木尼を、深き信心の確信に立つよう温かく励まされているのである。
6  さて、セルマ・ラーゲルレーブは、第一次世界大戦、第二次世界大戦の両度の戦争に、真っ向から反対の意志を表明している。そのため、ドイツでは、彼女の本が発売禁止となったこともあったが、彼女は決して屈しなかった。
 彼女は、亡くなる少し前の一九四〇年の三月、ソ連軍のフィンランド侵入に対して非常に心を痛め、貴重なノーベル賞の純金のメダルをフィンランドに贈っている。戦火に追われ、苦しみと戦うフィンランドの人々に、せめてもの励ましを、との心情からであったにちがいない。
 臨終を迎えた彼女の最後の言葉は、医師に「先生、平和は、くるのでしょうか」とたずねた一言であったという。彼女は生涯、平和を心から愛し、求め、真の″平和文学者″としての人生の在り方を、信念をもって示した。
 みずからの信念に生き、美しくも強い心をもって人々に「希望」と「勇気」を与え続けた彼女の生涯が、私には妙法広布に生きゆく学会婦人部の皆さまの姿と、二重写しにされてならない。
 いざという時に、女性は不屈の「強さ」を発揮するものである。一切をなげうって、愛するもののために戦い抜く底力をもっている。その点、男性はいざという時になると真っ先に自分をかばい、保身に走って、ずるく立ちまわってしまう傾向がある、とある人が言っていた。
 ともあれ、この気高くもいさぎよいラーゲルレーブの生き方が、広布という人生の最高の目的に生き抜き、進まれんとする皆さま方の一つのかてともなればと思い、紹介させていただいた。
7  若き日に良書を徹して学べ
 私は十九歳で戸田先生についた。とくに先生のおそばにお供するようになった二十一、二歳の青年時代のことである。
 先生はよく、「広宣流布のために勇敢に走り、戦え」と言われ、同時に「良い本を読め」と言われていた。そして私に、世界の文学書をすすめてくださった。
 良書を読めば、時代を見極め、リードしゆく視点をつちかえる。また仏法の視点をもてば読書を通して、十界の諸相をはらむ人生と社会の姿が明確に浮き彫りにされてくる。さらに良書からは、御書に説かれる妙法の法理の一分を随所ずいしょにくみとることができる。
 私は若き日より、仏法を根幹に、現実の社会と生活の上で懸命に戦い、勝ってきたつもりである。その激闘の中で、本を読む力も戸田先生によって培われ、現実への洞察どうさつの″眼″も養わせていただいた。本当にありがたいと思っている。私が折あるごとに数々の名作を紹介させていただくのも、そうした意味からである。
 そこで本日は、私が青年時代に親しんだ文学書の中から、ジョン・ミルトン(一六〇八〜七四年)の『失楽園』を通して少々、話をさせていただきたい。先日、婦人部の代表と懇談した折に約束したことでもあり、ご了承いただきたい。
8  『失楽園』は、イギリスの詩人ジョン・ミルトンの代表作であり、イギリス文学の最高傑作の一つとたたえられる。
 詩の原題は『Paradise Lost』(パラダイス・ロスト)。ミルトンはこの作品を、過労による失明、迫害と投獄、持病の通風等々の逆境のさなかにあって完成させた。全十二巻(初版は十巻)、一万行を超える大作である。
 私も若き日に、気に入った個所は暗記するほど徹して読んだものだった。座談会の帰り道、きらめく夜空を見上げながら、その一節一節を吟じつつ歩いたことが懐かしく思い起こされる。
 なお、この作品は『旧訳聖書』のアダムとイブの楽園追放を題材とした一大叙事詩であり、神への人間の最初の反逆、すなわち原罪がテーマとなっている。
9  詩人ミルトンの不屈の闘い
 イギリス文学史上に燦然さんぜんと輝く業績を残したミルトン。この、シェークスピアと並び称される世界的文豪は一六〇八年、ロンドンに生まれた。
 彼の生きたイギリスは、王政、清教徒革命から共和政へ、そして王政の復古と、多難と混乱を極めた激動の時代にあった。そして詩人の彼は、また敬虔けいけんな清教徒であり、信仰のために戦う闘士でもあった。
 ミルトンの父は、権威主義の色濃いカトリック教に反対し、そのため祖父から追放されて住み慣れた土地を離れざるをえなかったといわれる。そしてロンドンに出て、公証人として金融業なども手がけて成功したようである。
 そのためミルトンは、教育環境にも恵まれた少年時代、青年時代を送ることができた。彼は少年のころから猛烈な勉強家、読書家であり、夜半前に寝ることはなかったと自ら述懐している。偉業を成す人は、皆、若き日に苦労して勉強に励んでいる。
 彼は、一流の詩人を目指して研さんを重ねていった。本物の人生を求め抜いていった。ケンブリッジ大学に学んでいた十九歳の夏には、当時流行していた″駄じゃれ″や″軽薄な飾り″の文学を批判し、″より厳粛な主題″を扱った叙事詩への意欲をつづっている。
10  そして彼が勉学の締めくくりとしてヨーロッパ大陸への旅行に出たのは、二十九歳の時であった。フランス、イタリアで学者、文化人と出会い、見識を深めつつ新たな創作意欲を燃えあがらせていった。
 なかでもイタリアでは、幽閉中のガリレオに出会っている。当時ガリレオは地動説を唱えたことにより宗教裁判にかけられ、とらわれの身であった。偉大な先人が行動の自由、言論の自由を取り上げられている姿に、青年ミルトンの正義の心は炎と燃えあがった。彼の胸中には、権威をカサにきた理不尽な仕打ち、真理への弾圧に対するいきどおりが強く刻まれたにちがいない。
 この旅行の途中、イタリアのナポリを訪れた時に、ミルトンはイギリスの内乱の報に接する。彼は祖国で市民が自由のために戦っていることを知り、自身も戦列に加わるため、旅行を中止して急きょ帰国するのである。
 「いざという時にいかなる心で、いかに行動するか」――ここに人間の真価が問われる。広布の世界においても、最も困難な時に、「法」のため、「同志」のために決然と立ち上がる人が真実の勇者なのである。
11  この内乱は、一六二八年にイギリス議会が国王チャールズ一世に「権利請願」を提出したことに端を発する。その後も国王は国教主義を強化して清教徒を圧迫。さらに議会を無視して重税を課していったため、国王と議会の対立が激化し、ついに「清教徒(ピューリタン)革命」の勃発ぼっぱつとなるのである。
 一六四二年にクロムウェルが清教徒を中心として兵を起こし、この議会軍が王党軍を破って、一六四九年に共和政を樹立するが、まだ政権の基盤は不安定であった。
 この間、帰国したミルトンも″ペンの剣″を持って立ち上がった。その後二十年間、彼は詩作活動ではなく、議会側の論客として散文をもってあらゆる″自由″のための言論運動に身を投じていった。
 彼は、高位聖職者が支配する主教制度の廃止を主張し、イギリス国教会を批判して「宗教の自由」を訴えたあと、「言論・出版の自由」を訴える論文を発表した。また共和政の発足に際しては″権力はつねに人民の側にある″と論陣を張っている。
 やがて、共和政府の外国語秘書官となり、ラテン語を駆使して活躍していたミルトンにも、運命の暗雲が訪れる。
 一六五二年、彼が四十三歳の時に両眼を失明するのである。長年の過労によるものだった。そしてこの年、二度目の妻と、長男を相次いで亡くしている。
 さらに、チャールズ一世の処刑後は国王派の反撃によってミルトン自身も名指しで攻撃されたが、彼は筆を折らなかった。両眼から光を奪われても、彼の心がやみおおわれることはなかった。
 失明後、彼が友人にあてたソネット(十四行詩)に彼は、自分が勇気も希望も失わずにまっすぐ進んできた理由を次のようにつづっている。
  「それは、
   自由擁護ようごのための、過労ゆえに、失明したという
   自覚なのだ。全欧の津津浦浦つつうらうらで話している高潔な業績だ」
   (『ミルトン英詩全訳集』宮西光雄訳、金星堂)と。
 自分は最後まで「自由のため」「人民のため」との信念に生きて、失明したのだ――逆境のどん底で彼を支えたのは、このいさぎよい「自覚」と「誇り」であり、どこまでも気高い「使命感」であった。これこそ崇高すうこうなる″革命児の気概″といってよい。
12  苦難のあらしは、さらにミルトンを襲い続ける。
 一六五八年、再婚して一年余のキャサリンが死亡。同じ年、清教徒革命の指導者クロムウェルが世を去り、共和政は危機に陥る。ミルトンは多くの論文(「市民権条約」「自由共和国への近道」等)を書いて、共和政を弁護したが、一六六〇年、チャールズ二世が王位に復し、革命派は敗北した。
 社会は一転、王政復古の時代である。ミルトンは窮地に追いこまれる。
 逮捕状が出され、著書を焼き捨てる命令も出た。そして投獄――。しかし彼は屈しなかった。周囲はてのひらを返したような「王礼賛」である。その中でも彼は信念をひるがえすことはなかった。
 ミルトンは死刑はまぬかれたものの、財産を没収される。盲目の身に経済的困窮が加わり、さらに痛風にも悩んだ。娘との不和にも苦しめられた。何より半生をかけた革命の挫折ざせつは、深刻な打撃であった。
 しかし詩人の心は、彼を取り巻く逆境のカベに、絶対に屈服することはなかった。現実が悲嘆と幻滅に満ちていようとも、その不屈の魂は、以前にもまして「人間の使命とは何か」「永遠の真理とは何か」を探究していった。
 世間の人々から見れば、敗北して当然のように思えた彼の人生だったかもしれない。しかし逆風が強ければ強いほど、ミルトンの理想と行動の炎は大きく燃え上がった。彼は真の「勇者」であった。
13  ミルトンはペンの戦士であった。盲目の身でありながら、『失楽園』に続いて、『復楽園』を、さらに自分と同じ盲目の戦士を主人公にした『闘士サムソン』をと、三つの大作をうたいあげていく。
 しかも、筆舌に尽くせぬ苦労の末、完成した『失楽園』も、ロンドンのペスト流行などのため、出版のめどがなかなか立たなかった。ようやく刊行されたのは一六六七年。原稿完成から二年ほど後のことである。
 ちなみに今や世界に冠たるこの大叙事詩も、出版当時、彼が受け取った収入は、刷り増し分を含めて、わずか十ポンドであったと伝えられている。
 こうした中、彼は通風で死の床につくまで、詩人としての自己の使命に生ききった。我が人生の課題と真っ向から対決し続けた見事な一生であったといってよい。
14  苦闘を越えて希望の明日へ
 さて私がこのミルトンの『失楽園』を手にしたのは昭和二十六年の初頭であった。『若き日の日記』には、「帰宅、十時。読書、ミルトン『失楽園』」と記している。
 当時は、まさに熾烈しれつな苦闘の時期であった。前年の十一月、戸田先生が学会の理事長を辞されていた。私は体の不調と戦いながら、先生の事業の打開に渾身こんしんの力をふりしぼっていた。
 同日の日記には、こう書いている。
  「苦しむがよい。
     若葉が、大地の香りを打ち破って、
     伸びゆくために。
   泣くがよい。
     梅雨の、彼方の、太陽を仰ぎ見る日まで、
     むを得まい。
   悩むがよい。
     暗き、深夜を過ぎずして、
     尊厳なる、あけぼのを見ることが出来ぬ故に」
 かつて日本経済新聞に連載した『私の履歴書』(日本経済新聞社)では、このころの心境を「私の若き精神の空間は、この時、北向きの狭い四畳半の一室を越えて、未来十年、二十年の希望のあしたを呼吸していたのである」と書いた。
 現実の困難は、眼前に立ちはだかっていたが、私の青春のひとみは、戸田先生を、戸田先生の構想実現という一点を凝視ぎょうししていた。
 戦後の荒野に一人立たれた戸田先生は「折伏の行者、学会の会長として、宗教革命にいどんでおります」(昭和二十八年、第二回鶴見支部総会)との言葉通りに、未聞みもんの革命であり、無血の革命である「広宣流布」に、生命をして戦っていかれた。
 私は、その弟子として、先生の後を、まっすぐに進んだ。それは今も、またこれからも、変わらない。悔いはこの人生に、いな永遠に残したくないからだ。
15  『失楽園』――人間を堕落させる魔の本性
 ここで『失楽園』の概要に、少々、触れておきたい。もとよりキリスト教の教義に基づいた作品である。しかし、仏法は一切法を包含しゆく広さを持っているし、ここでは人間心理を洞察どうさつした文学作品として、ごく要点のみを語らせていただきたい。
 『失楽園』は文字どおり″楽園喪失そうしつ″の物語である。聖書で「人類の祖」とされるアダムとイブの男女が、サタン(悪魔、魔王)の誘惑によって神の教えにそむき、楽園のエデンを追放されるいきさつを描いている。
 このサタンはじつは、本来、神のもとにあって、とくに高い地位を占めていた天使であった。ところが彼は、神に反逆し、他の多くの天使とともに神と一戦をまじえる。そして天国を追放され、地獄にとされてしまった。
 しかしサタンは、天国を支配する野望をふたたび掲げ、手下の堕天使たちを呼び起こして宮殿「万魔殿」を建設する。そして神が新しく作った、人間たちの「新世界」を探るために、サタンは単身、出発した。人間を堕落させて、神の計画を破壊するという陰謀をくわだてたのである。
 おもしろいことに、サタンは、その新世界に近づき、いざ策謀を実行するとなると、さまざまな迷いを生じる。反逆への疑問と恐怖、そして絶望。彼は自問自答を繰り返す。
 ミルトンは、この時のサタンの胸の内を、次のように書いている。
 「ああ、わたしのこのみじめさは何としたことか! どこへ逃げたらこの無限の怒り、この無限の絶望から脱することができるのか? どこへ逃げようが、そこに地獄がある! いや、わたし自身が地獄だ! 深いふちの中にあり、しかも さらに深い淵が、大きな口を開けてわたしをみ込もうとしている」(『失楽園』平井正穂訳、岩波文庫)
 「わたし自身が地獄だ!」とのサタンの絶望の嘆きは悲痛である。
 ミルトンは、後に楽園でイブを誘惑する時のサタンについても「彼の胸の奥には天国の真只中まっただなかにいてさえ、絶えず地獄の火が燃えていた」と描いている。
 苦悩の地獄とは、何より、その生命の内側にある。「内なる地獄」に苦しむ者にとっては、どんな素晴らしい環境も、同じく苦悩の場所でしかない。
 御書には「夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う」――そもそも浄土といい、地獄といっても(生命の)外にあるのではない。ただ我等衆生の胸中にある。このことを悟るのを仏という。このことに迷うのを凡夫という――と仰せである。
16  それでは、サタンは、どうして「内なる地獄」に、さいなまれる身となったのか。なぜ幸福な神の世界から、地獄への道をたどってしまったのか。ここに重大な問題がある。ミルトンはサタンに、こう語らせている。「余りにも高い地位にげられたために、わたしは服従を嫌悪けんおするにいたり、ほんのもう一歩高く昇れば、我こそは最高の者となれる(中略)と思った」
 「(=神に)感謝を捧げることも全く当然なことであった! しかるに、神のすべての善がわたしには悪となり、悪意のみを生ぜしめた」(前掲書)と。
 すなわち、天使の中でも、とりわけ高い地位と栄誉に浴していながら、感謝の思いを忘れ、何もかも自分の思い通りにできる地位を得ようとの野望に心を奪われてしまった。慢心しきった彼には、正義に従うことも、自分の上に他のだれかがいることも我慢できなくなったのである。そこで神に反逆し、他の多くの天使たちも悪に引きずり込んでいった。
 「もう一歩高く昇れば、我こそは最高の者となれる」――この彼自身の野心と慢の心こそ、サタンを地獄へとおもむかせた″因″であった。
 その「心理」という面から見れば、広布の世界における近年の反逆・退転の徒も、同様であった。高い地位にありながら、慢心から、わがままになり、清純な信仰の世界を自己の支配下に置こうとして、自らちていった――。
 いな仏法においては、「法」が根本であり、広布をさまたげ、「法」にそむいた罪は、あまりにも重く、深い。
 大聖人は、こう戒めておられる。「法華の心に背きぬれば十方の仏の命を失ふ罪なり、此のをきてに背くを謗法の者とは申すなり、地獄おそるべし炎を以て家とす」――法華経の心に背けば、十方の仏を殺す罪である。この定めに背くのを謗法の者という。地獄は恐れるべきである。(身をこがす)炎を住処すみかとしている――と。
 謙虚に、また地道に自己を磨き、境涯を高めていくのが″一生成仏への道″である。
 反対に、最高の法を持ちながら、人を押しのけ、人をおとしいれるような、策を根本とした生き方は、″永遠の苦悩への道″である。
 さてサタンは、陰謀の実行を前に、迷いながら、ついに決心する。もはや、引き返すことはできないと。彼が決意したのは、自分が引き込んだ手下の堕天使たちに軽蔑けいべつされることを恐れたからである。
 彼らの手前、今さら改心することなど、できない――。このままでは、いよいよ深い苦悩に身を焼かれることはわかっている。かといって、もはや、幸福な元の世界に戻ることもできない。ミルトンは、反逆者特有の″心の揺れ″と苦悩を、鋭く描き出している。
17  やがて楽園に着いたサタンは、そこで幸福に満ちたアダムとイブを見る。
 サタンは、彼らを堕落させようとする。それは天国を追放されたサタンの復讐ふくしゅうであった。全能者と称されるものが、六日六晩もかかってつくったという楽園であり、アダムとイブである。それらを一日で破滅させれば地獄の仲間たちに、自分の偉大さを示すことができると考えた。
 楽園の様子をさぐっていたサタンは、そこに「知識の」があり、アダムとイブが、その樹の実を食べれば死という罰が科せられることを知る。そこで彼らを誘惑して、その禁を犯させ、自分の目的を達しようともくろんだ。
 まず初めにサタンは、カエルにけてイブに近づき、誘惑しようとするが、警固の天使に見つけられ失敗、逃げ去る。
 ふたたび楽園に戻ったサタンは、今度はヘビの体内に入り込む。「悪鬼入其身あっきにゅうごしん(悪鬼がその身に入る)」ならぬ、悪鬼入蛇身である。そして一人花園で働いているイブに近づき、ほめ言葉で巧みに誘惑する。
 思わず心を許したイブはサタンがヘビに化けているとも知らず、ヘビが人の言葉を話し、すぐれた理解力をもっていることに驚き、その理由をたずねる。ある一本の樹の実を食べたからだというヘビに案内されてみると、それは、あの禁断の「知識の樹」であった。
 その樹を前に言葉巧みに悪知恵をろうしてのサタンの誘惑に、ついにイブは負け、「禁断の実」を食べてしまう。それを知ったアダムはがく然とするが、イブに対する愛情のゆえに、彼女と運命を共にすることを覚悟し、自らもその果実を食べる。
 サタンは、悪魔特有のやり方でイブをたぶらかした。正面からやってくるのではなく、忍び足でやってくる影のように、またいつの間にか立ち込める霧のように、イブの心に、イブの心のすきに、巧みに入り込んだのであった。
 こうしたサタンの誘惑を見るとき、大聖人の御書の次の一節を思い起こす。
 「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」――月々日々に、信心を強めていきなさい。少しでもたゆむ心があれば、魔がそのスキに乗じて訪れてくるであろう――と。
 魔は、じつに巧みに、心の一瞬のスキをついて入り込んでくるものだ。それに気がつけば魔の働きを破ることができる。しかし、知らないうちに「悪鬼入其身」ともなれば、いいように利用されて、我が身を破壊されてしまう。ゆえに大聖人は、魔が入り込めないように、日々、信心を強めていきなさいと仰せなのである。
 「信心」こそ、幸福の人生の原動力であり、幸福の楽園の堅固な防波堤なのである。
18  内なる永遠の楽園を求めて
 さて、アダムとイブの誘惑に成功し、意気揚々いきようようと地獄に帰還したサタン。仲間たちから喝采かっさいを受けるはずであったが、逆に叱声しっせいをあびせられる。それは、楽園の定めによってサタン自身はもとより、その仲間たち全員がヘビの姿に変えられてしまったからだ。
 一方、罪を犯したアダムとイブは「楽園」を追放される。
 しかし、ここで作者ミルトンは、「楽園」を去りゆくアダムに、こう語らせている。
 「真理のためには苦難にえることこそ最高の勝利にいたる勇気そのものであり、信仰をもっている者にとっては、死も永遠の生命にいたる門にすぎない、ということをしっかり学んでゆきたいと思います」(前掲書)と。
 そしてアダムとイブは「自分の内なる楽園を、はるかに幸多き楽園を」(前掲書)求めて、旅立っていくのである。
 ここには、苦難をつき抜けて、自身の信念のままに生きたミルトンの宗教観、人生観が投影されているように思う。そして、「人間とは何か」「神とは何か」「善とは何か」「悪とは何か」というミルトンの深い洞察と思索のあとを感ぜずにはおられない。
19  ともあれ、苦難に耐えてこそ最高の勝利者となることができる。苦難を避けて逃げた人は、傷つかないかもしれない。しかし、それは既に敗北者である。
 ましてや妙法を持った私どもである。そういう勇気のない、卑怯ひきょうな人間には絶対になってはならない。たとえ法戦ゆえに、苦難にさいなまれることがあっても、勇気をもって信心を貫き、広布に生き抜くところに、必ず永遠の生命の門は開かれ、最極の幸の宮殿に入っていくことができるのである。
 「内なる楽園」、つまり自身の胸中に開かれた「絶対的幸福」という崩れざる「楽園」――これこそミルトンの描くアダムとイブが求めてやまなかった究極の世界であると、私は申し上げたい。
 しかし、それは「妙法」という絶対の大法を根本とせずしては建設することのできないものである。
 大聖人は「最蓮房御返事」に次のように仰せである。
 「我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見・本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す計り無し申す計り無し
 ――我(日蓮大聖人)等の弟子檀那となる人は、一歩と歩まないうちに天竺(インド)の霊鷲山りょうじゅせんを見、本有の寂光土へ昼夜のうちに往復されていることは言いようがないほどうれしいことである――と。
 「天竺の霊山を見」とは、仏界の境地にいることである。また「本有の寂光土へ昼夜に往復し」とはつねに仏国土に住していることを意味している。
 つまり、妙法を受持していることが即、仏界という、永遠なる″最極の宮殿″にいるのであり、″一歩も行かずして″自身の胸中に崩れざる″幸の宮殿″をつくっているのである。
 ある日本の著名な人が、秋谷会長に「創価学会はどんな嵐があっても、希望を失わず明るく前進している。驚くべきことである」と、語っていたという。
 つねに、学会は、この言葉通りであった。学会には、私どもの世界には「不幸」の二字はない。「敗北」の二字はない。「悲観」の二字もなければ「屈服」の二字もない。あるのは、「明朗」と「正義」と「勝利」と「栄光」である。
 ともあれ、重要な、意義ある本年である。秋谷会長を中心に、連続勝利の見事なる一年を飾っていかれんことを希望し、私のスピーチとしたい。

1
2