Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第十三回本部幹部会 決然の「一人」から革命の波

1989.1.21 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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19  ともあれ、苦難に耐えてこそ最高の勝利者となることができる。苦難を避けて逃げた人は、傷つかないかもしれない。しかし、それは既に敗北者である。
 ましてや妙法を持った私どもである。そういう勇気のない、卑怯ひきょうな人間には絶対になってはならない。たとえ法戦ゆえに、苦難にさいなまれることがあっても、勇気をもって信心を貫き、広布に生き抜くところに、必ず永遠の生命の門は開かれ、最極の幸の宮殿に入っていくことができるのである。
 「内なる楽園」、つまり自身の胸中に開かれた「絶対的幸福」という崩れざる「楽園」――これこそミルトンの描くアダムとイブが求めてやまなかった究極の世界であると、私は申し上げたい。
 しかし、それは「妙法」という絶対の大法を根本とせずしては建設することのできないものである。
 大聖人は「最蓮房御返事」に次のように仰せである。
 「我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見・本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す計り無し申す計り無し
 ――我(日蓮大聖人)等の弟子檀那となる人は、一歩と歩まないうちに天竺(インド)の霊鷲山りょうじゅせんを見、本有の寂光土へ昼夜のうちに往復されていることは言いようがないほどうれしいことである――と。
 「天竺の霊山を見」とは、仏界の境地にいることである。また「本有の寂光土へ昼夜に往復し」とはつねに仏国土に住していることを意味している。
 つまり、妙法を受持していることが即、仏界という、永遠なる″最極の宮殿″にいるのであり、″一歩も行かずして″自身の胸中に崩れざる″幸の宮殿″をつくっているのである。
 ある日本の著名な人が、秋谷会長に「創価学会はどんな嵐があっても、希望を失わず明るく前進している。驚くべきことである」と、語っていたという。
 つねに、学会は、この言葉通りであった。学会には、私どもの世界には「不幸」の二字はない。「敗北」の二字はない。「悲観」の二字もなければ「屈服」の二字もない。あるのは、「明朗」と「正義」と「勝利」と「栄光」である。
 ともあれ、重要な、意義ある本年である。秋谷会長を中心に、連続勝利の見事なる一年を飾っていかれんことを希望し、私のスピーチとしたい。

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