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日蓮大聖人・池田大作

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婦人部、中等部、新宿区合同記念幹部会 心清く栄冠の女性史つづれ

1989.1.15 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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2  婦人部結成五十周年、二〇〇一年を目標に
 さて、一九五一年(昭和二十六年)六月十日、戸田先生のもとに婦人の代表五十二人が集い、第一回の本部婦人部委員会が行われた。これが婦人部の結成となったもので、広宣流布の″世界一の婦人集団″への出発の日でもあった。
 この日から二十五周年に当たる一九七六年(昭和五十一年)に、私が提案して六月十日を「婦人部の日」とすることになり、それが今日まで続いている。この提案も″戸田先生が打たれた布石をムダにしてはいけない。すべて生かしていこう″との思いからであった。
 かつて戸田先生は「婦人部は家庭をほうり出してガムシャラに前へ進むばかりではいけない。たまには歴史を振り返って、どういう点を反省すべきか、どうすれば将来、大勢の婦人の方々が納得していけるか、ということも考えなくてはならないだろう」と話されていたが、その戸田先生の思いを込めての「婦人部の日」の設定であった。
 戸田先生が、第二代会長に就任して最初につくられたのが婦人部であった。それは青年部の結成より一カ月早い。ましてや壮年部の結成は、婦人部に遅れること十五年。
 多くの幹部からは何気なく見過ごされてきた点かもしれないが、戸田先生は広宣流布の正しい前進のリズムにのっとって一つ一つの手を打たれたのである。故に私も、つねに婦人部を大切にし、中心の柱ともしながら指揮を執ってきた。
3  三十八年前の婦人部結成のおり、戸田先生が「白ゆりの香りも高き集いかな 心の清き友どちなれば」とまれたことは皆さまもよくご存じの通りである。以来、この歌は婦人部の永遠の指針となった。
 また席上、戸田先生は「妙法受持の女性は、もっとも尊貴な女性であることを自覚してもらいたい」とも述べられている。
 「心の清き友どち」「もっとも尊貴な女性」の集いがわが婦人部であるとの、戸田先生の深い心であった。心の清き人こそ最も美しい女性である。また広宣流布という人々の幸福のために戦っていく人こそ、最も尊貴な女性である。
 そして婦人部が誕生してちょうど五十周年、半世紀を迎えるのが、「二〇〇一年六月十日」である。この日を次の大きな目標として、お一人お一人が、すばらしい″福運の開花″と見事な人生の総仕上げという″生命の大勲章″を輝かせるために、ともどもに進んでいっていただきたい。
4  幼き日の誓いを果たした日中友好
 話は変わるが、皆さまもすでにご存じの通り、現在、孫平化会長をはじめとする「中日友好協会」の代表団一行を学会として初めて正式に日本にお招きしている。
 「日中平和友好条約」の締結十周年の意義を込めて、はるばる来日された一行――先日の歓迎の席で、孫会長は私どもに「風雨同舟ふううどうしゅう(苦楽をともにしたの意)の友」と呼びかけられた。私も同じ思いで、この長年の大切な友人の方々を心から歓迎させていただいた――。
 私が初めて中国を訪問したのは、一九七四年(昭和四十九年)五月。当時はまだ直行の航空便も通じておらず、香港から陸路、列車で中国との国境へと向かった。国境を流れる川に架けられた鉄橋を歩いて渡り、「中国」への第一歩を踏みしめたことも、懐かしい思い出である。
 そのとき香港側で見送ってくださった方々も、そして中国側で出迎えてくださった友人たちのことも、私は一生忘れない。
 その第一次訪中から今年で十五年。本日参加されている中等部の皆さんは、ちょうどその当時に前後して生まれた方たちである。″時の重み″に強い感慨を抱くとともに、諸君が純粋な心に刻んだ″誓い″が、やがて未来へ、世界へと羽ばたく、偉大な″使命″の開花をもたらしゆくことを、私はみずからの体験からも固く信じている。
 なぜなら、私も幼き日に日中の平和と友好への深い決意を胸に刻み、その少年時代の″願い″を果たさんとしての訪中の実現であったからである。
 戦争中、私の長兄は中国大陸へ出征した。帰国し、日本軍の残虐ざんぎゃくな行為の様相を、当時小学校五年生だった私に語ってくれた。そして「中国の人があまりにもかわいそうだ。日本はいい気になっている」との、憤懣ふんまんやるかたなく、涙ながらの言葉が私の心に焼き付き、今も脳裏から消えない。長兄はその後、終戦の年にビルマ(現ミャンマー)で戦死したが、私の胸には、いつの日か中国との「友好」と「平和」を取り戻し、日本の犯した過ちをつぐなわねばならないとの″誓い″が芽ばえていた。
 私の一九六八年(昭和四十三年)の国交回復提言以来の日中関係打開への行動は、この幼き日の″誓い″が淵源えんげんとなっている。また、恩師・戸田先生も「日本と中国との友好は最も大事である」と、私によく語られていた。その心を体して、私はまっしぐらに駆け進んできた。そして今や、友好の「金の橋」「金の道」は広々と堅固に、また美しく立派に築き上げられた。
 この尊い両国友好の舞台を、新しき世紀に躍り出る若き世代の諸君のために開き、残すことができたことを何よりも誇りに思うし、これ以上の喜びはない。
5  鄧穎超女史の革命の人生
 今回の訪日代表団に託して故・周恩来総理夫人の鄧穎超とうえいちょう女史が、真心のメッセージとともに、わざわざご自身の名前をしたためた、すばらしい中国画を贈ってくださった。あらためて申し上げるまでもないが、鄧穎超女史は、中国の人民から最大に敬愛され慕われている婦人指導者である。そこで、人間学の上から、婦人部の方々にとって、何らかの生き方の参考にもなればと思い、少々、紹介させていただきたい。
 「一切の法は皆れ仏法なり」である。ましてや中国人、アメリカ人、日本人といっても同じ人間であり、それぞれの生き方は主義主張を超えて、相通じるものがあるからだ。
 鄧女史は、今年で八十五歳になられるという。文字どおり、二十世紀の激動の中国を舞台に、周恩来総理とともに、崇高なる「革命」の人生を生き抜いてこられた。現在は、多くの公職からも退かれた形で、人民対外友好協会名誉会長の立場にあるが、今なお、かくしゃくとして中国人民のために活躍しておられる。
 かつて、戸田先生は、わが学会の婦人部を、気高き「白百合の花」にたとえられた。鄧女史の存在は、清楚せいそにして、確固と、また深く広く、中国の大地に根づき、人々から愛されている「白楊樹はくようじゅ(ポプラ)」にも、なぞらえて語られている。
6  私たち夫婦も、これまで中国で、また日本で、何度となくお会いし、親しくさせていただいている。また、創価学会婦人部の訪中団も、心から歓迎してくださり、本当によくしていただいてきた。
 五年前の第六次訪中のさい、北京でお会いしたとき、女史は「私は、池田先生がなされる仕事のこと、創価学会や創価大学のことを、いつも思い浮かべているのですよ」と、語っておられた。今回の訪日団に託しての、お心づかいからも、私は深く温かい女史の「心」が感じられてならない。
 「心」というものはまことに不思議である。どんなに遠くに離れていても、また、活躍の舞台や立場は異なっていても、「信頼」と「友誼ゆうぎ」の心と心は、まっすぐに通い合う。なかんずく、信念に命をけて戦っている人間と人間との間には、あらゆる夾雑物きょうざつぶつを超えて、無言のうちに「魂」の共鳴が響き合うものだ。
 私には内外を問わず、世界の各地に、そうした深き「人間のきずな」、「魂と魂の絆」を結んだ友が多くいる。それは私にとって、かけがえのない人生の宝となっている。
 次元は異なるが天台大師は「感応妙」と述べている。これは衆生が仏を感じ、仏がその衆生の機に応じることを意味する。一次元からいえば、仏と衆生とのたえなる「心」の交流ともいえよう。また大聖人は″心こそ大切なれ″と仰せである。清浄しょうじょう無垢むくなる信心の心によってこそ、御本尊へと通じ、妙法の世界に包まれた楽しくも充実した人生を満喫できる。
 いずれにしても、人間どのような「心」をもつかである。邪心、悪心、ねたみの心、利用の心は、多くの人々との魂の共鳴もない。じつに、わびしく、寂しい人生となってしまう。いわんや、そうした心では御本尊に通じない。結局は、何事もすべて自分自身の「心」の反映なのである。
7  「人民のために一歩も退くな」
 十年前の一九七九年(昭和五十四年)陽春の四月十二日、来日された鄧女史と、元赤坂の迎賓館で再会した。その折、周総理が桜が好きだったこともあり、私ども夫婦の真心として、八重桜をお贈りした。女史は、時間が許せば私の家を訪問したかった、といわれながら、こぼれるような笑顔で喜ばれていた。
 じつは、この再会は、私の会長勇退の十日ほど前のことであった。別れ際に、私がその意向を伝えると、女史は「まだまだ若すぎます。そして何よりもあなたは人民から多くの支持を得ています。人民の支持のある限り、決して退いてはいけません」と、真剣な面持でいわれた。
 人生の大先輩からの、心からの励ましに対して、私は「ありがとうございます」と答えた。自分の進退は自分で決めることであるが、大変ありがたい言葉だった。
 鄧女史は人民を見下し、君臨しようとする勢力と、絶対に妥協しなかった。
 かつて、いわゆる「四人組」の一人である江青(毛沢東夫人)は、自分の側で働く服務員を奴隷どれいのように扱った。「江青は、自分の目より高い場所から話すことを認めず、このため、服務員は、腰をかがめるか、ひざまずくか、しなければならなかった」(松野谷夫『遙かなる周恩来』朝日新聞社)という。
 このような横暴な振る舞いを女史は断じて許さなかった。″一歩も退いてはなりません″との、私への温かな直言も、そうしたご自身の戦いを踏まえての言葉であった、と思われてならない。
 近年、私どもの信仰の世界にも、自分の野心のために学会員を利用し、踏みにじろうとした者が出た。正信会と称する悪侶や、学会に多大な迷惑をかけて退転した連中は、自分の欲望のとりことなって、純真な会員を踏み台とし、利用し抜いた者たちといってよい。ちょうど、中国の四人組と、その方程式は同じとみる人たちがいる。
8  鄧女史は、あるとき私ども夫婦に、しみじみと語られたことがある。
 「私は若い日、恩来同志(周総理のことを、女史はこう呼んでいた)と二人で約束したことがあるのです。それは人民のために奉仕するということです」と。
 そして「このことは、死んでも変わりません」といわれ、周総理の遺骨を中国の大地にいたことも、その精神にのっとった上での、二人の秘められた約束であったと明かされていた。
 まさしく「人民とともに」「人民のために」――これが鄧女史と周総理の心を結び、貫いていた根本の一点であった。
 私ども学会の幹部も、妙法の同志のために、学会員のために、との一点を、どんなことがあっても忘れてはならない。
 学会員は広宣流布のために戦っておられる尊い仏子である。その方々を絶対に守り抜かなくてはいけない。また、その方々に尽くし切るために私どもがある。
 会員の方々こそ幸せになってほしい、すばらしい人生であっていただきたい、と願い、行動するのが、幹部である。会員をないがしろにしたり、軽くみたりすることなどもってのほかである。それを何かあると、自分の保身のために右顧左眄うこさべんして目的を見失うような卑怯な人間になってはならない。それでは民衆の指導者でもないし、学会の幹部として失格である。
9  ちなみに鄧女史の「穎超」というお名前には、″群を抜いて、すぐれる″との字義がある。「名は体をあらわす」好例といってよい。
 アメリカのジャーナリストであるエドガー・スノー氏(一九〇五〜七二)は、中国の革命運動のさなか、激動の解放区に飛び込み、中国共産党の戦いを、いち早く世界に伝えた行動で有名である。歴史の潮流と人物の真実を洞察どうさつし、正しく知らせる筋金入りのジャーナリストであった。こうした人物が今はあまりにも少ない。
 そのスノー氏が鄧女史のことを「私の出会った中国の女性の中で、最も鋭い政治的頭脳の持主の一人であった」(『アジアの戦争』、森谷巌訳、筑摩書房)と絶賛したことは、よく知られている。
 それでいて、女史が人民の輪の中に飛び込んでいく振る舞いには、人を圧するような気位もなければ、澄ました気どりも微塵もない。少女のころから変わらないような、おかっぱ頭。小柄な体を、飾り気のない中山服ちゅうざんふくに包み、ざっくばらんで、いつも穏やかな微笑を浮かべておられる。
 私は、人民とともに生きる本当の「革命家」の風貌ふうぼうを、そこに感じる。
 学会の強さもまた、かけらほどの気位や気どりもなく、ありのままの庶民性と人間性を貫いてきたところにある。この一点が続く限り、学会は永久に発展していくことができる。
 反対に、指導者が自分をよく見せようと気どったり、自分は特別なのだというような驕慢きょうまんにとらわれたりしたのでは、そこには真の学会精神は、まったくない。リーダーが庶民と、いささかでも遊離したとたんに、広宣流布の前進は失速していく。
 中国の人々は、鄧女史のことを、限りない信頼と親近感、そして敬愛をこめて、私たちの「鄧大姐トンターチェ」と呼ぶ。「大姐ターチェ」とは、頼れるおねえさんといった意味である。また青年たちは「鄧媽媽トンマーマ」(鄧おかあさん)、子供たちは「鄧奶奶(トンナイナイ)」(鄧あばあちゃん)と呼んで、女史のことを慕っている。
 傑出した「革命のヒロイン」である女史をたたえる証言は数多い。その上で私は、女史の人間性と人民への奉仕の精神に対する、人々のこうした敬慕の声こそ、女史にとって最高の栄冠であると信ずる。
 それは、いかなる社会的栄誉の褒章ほうしょうも光を失う″胸中の勲章″であり、民衆とともに歩みぬいた人のみが持つことのできる″不滅の宝冠″であろう。生命に輝く、このほまれは、だれびとも、また、いかなる策謀をもってしても奪うことはできない。
10  若き日の誓い、青春の熱き正義に生きる
 東京でお会いした一年後の一九八〇年(昭和五十五年)四月、第五次訪中の折には、鄧女史は私ども夫婦を、わざわざ北京・中南海のご自宅に招いてくださった。
 春の陽光を浴びた中庭には、海棠かいどうの花がうす紅色のつぼみをふくらませ、淡い紫のライラックが芳香を漂わせていた。
 周総理と三十年余にわたって住まわれたお宅で、女史は、ふだんはあまり口にされない若き日の思い出も話してくださった。まるで息子夫婦に、また革命の後輩夫婦に語り伝えておくかのように――。その温かい心情が胸にしみた。
 懇談の中で女史が「私たち夫婦には、いわゆる仲人はいません。しいていえば『五・四運動』が仲人です」と、もらされていたのが印象的であった。
 いうまでもなく「五・四運動」とは、一九一九年(大正八年)五月四日、祖国を愛する青年たちが、日本の侵略に抗して立ち上がり、民衆の核となって、新中国建設への大いなる一歩を踏み出した運動である。この時、鄧女史は天津てんしん女子師範学校の女学生であり、まだ十五歳という若さであった。ちょうど、中等部の皆さんの年代である。
 「正義」を求めてやまない純粋な乙女。そのひとみに映った当時の社会は、どうであったか。外からは帝国主義の侵略、内には軍閥ぐんばつ政府の売国的行為。そうしたただなかで人民は、日々、圧迫と飢餓きがと病気に苦しみ、あえいでいた。とくに女性は、商品のように売買されていた――。
 この苦悩から、何としても人民を解放したい! 熱くほとばしる心で、乙女は革命の道に身を投じた。青春のいのちを人民のために捧げ尽くそうと。そして、その波乱の劇の中で、若き革命児・周恩来との出会いがあり、後に二人は結ばれることになる。
 この年、周総理が提唱して結成された革命組織「覚悟社」(社会の覚醒のための団体)では、鄧女史も大いに活躍していく。
11  新しき時代の新しき。それを開けるのはつねに、燃えさかる青春の情熱である。妥協なく、理想に生きる青年の行動である。しいたげられた民衆への愛情、金剛のごとき正義感、不当な権力への怒り、うむことをしらぬ不屈のパッション(熱情)……。
 周夫妻をはじめとする青年たちの奮起は、やがて広範な大衆を巻き込んで、かつてない社会変革の潮流を生み出していく。それは中国はもちろん世界の命運をも変えていくほどの巨大な歴史のうしおであった。
 まして妙法を持った青年部の諸君は、だれよりも不幸な民衆の味方となり、民衆勢力を迫害する存在とは生命をして戦う革命の闘士であってほしい。
 私も戦った。「革命は死なり」の覚悟で――。自己一身の功徳とか幸福とか、もとより眼中になかった。ただ「広宣流布」を目指した。人類の嘆きの宿命を転換する、この壮大な革命運動に敢然と生き、戦い、死んでいくことのみが私の願いであり、祈りであった。
 そして恩師・戸田先生の意志を継いで、どう尊き仏子を守り、どう広布の使命を果たしていくか。今日に至るまで、ただ、それのみを時々刻々に念じ、思いめぐらしてきた。私の心には他の何ものもない。
12  戸田先生は、私ども夫婦の結婚式の席で、厳として、こう言われた。
 「私の願うことはただ一つ、これからの長い人生を広宣流布のために、二人で力を合わせて戦い切ってもらいたいということであります」と。
 これが、はなむけの言葉であった。峻厳しゅんげんな一言であった。「お幸せに」等といった、通りいっぺんの祝辞ではなかった。″広布のために命を捨てよ″――恩師の厳愛の心は、私どもの胸に焼きついた。
 また結婚式を挙げた歓喜寮の住職は、後の日淳にちじゅん上人、堀米尊能師であった。
 私の手を固く握られて、小声で、こう激励してくださったことが忘れられない。
 「あなたがいる限り、学会は盤石ですね。必ず発展するでしょう。戸田先生は本当にお喜びですね」と。
 私はまだ二十四歳の青年であった。しかし死をも決意した信心の青年が一人いれば、広宣流布は絶対にできることを、日淳上人も戸田先生も深い御心で信じ、期待してくださっていたと思う。
 「覚悟の青年」が革命の成否を決する。この方程式は、現在も、また未来も不変である。
 ともあれ、乙女の日の初陣ういじんより、今年で七十年。女史は、いつも死と隣り合わせの苦難の道を歩んでこられた。
 あの長征の折には、女史は重い肺病にかかり、担架たんかで運ばれながらの行軍の時もあった。また日本軍占領下の北京から脱出するために、先ほど触れたジャーナリスト、E・スノー氏の阿媽あま(家政婦)に変装して、危機を切り抜けたこともあるという。
 さらに、あまり知られていないことだが、これより先、痛ましいことに、動乱の中、無理がたたり、愛児を亡くされてもいる。
 しかし女史は、試練のたびに、不屈の意志で、すべてを乗り越えてこられた。女史の言葉をお借りすれば「革命的楽観主義」の精神で、いやまして朗らかに、いやまして同志と励まし合いながら、未来を見つめ続けてこられた。
13  なお女史は、ある回想録の中で、革命のために殺された同志のことを振り返り、″敵″へのこみあげる怒りの心情を吐露されている。この革命列士の血であがなわれた道を、残された自分たちは、どこまでも前進し、必ずや革命を達成しなければならない――と。
 自分の最も大切なものを、いじめ、踏みにじった敵。その悪に対する正義の怒りほど強いものはない。この一念一心こそ、自身の力を何十倍、何百倍にも開いてくれるカギなのである。
 かつて戸田先生は、デュマの『モンテ・クリスト伯』(巌窟王がんくつおうの物語)や『スカラムーシュ』(ラファエル・サバチニ作)などの復讐ふくしゅうのドラマを、私ども青年に何度となく読ませられた。そして師・牧口先生を軍国主義権力によって獄死させられた悲憤の心情を烈々と語られるのが常であった。
 たとえ、ひとたびは、どんなにくやしい思いをしても、情けないような目にあっても、断じて悪を討つ、断じて正義を証明する、この一念があれば、一切を勝利へ、また勝利へと転じていける。これこそ前へ、また前へと道を開きゆく広布の無限のエンジンなのである。
 戸田先生は、勝利へのこの不撓ふとうの革命精神を私に厳しく教えてくださった。私が青年部の諸君に伝えるべき重要な学会の「魂」がここにある。
14  なお本日は、記念すべき「平成」元年(一九八九年)の「成人の日」である。それにちなんで、女史の二十歳ごろの一詩を紹介させていただきたい。それは「勝利」という題の詩である。
  ――一粒一粒の種を荒れ果てた広野に
  やがて、いくつかの青々とした芽がでる
  それは、どれほどうれしいことだろう
  さらに努力しようではないか――
 いつの時代にも、青年の前途には荒涼たる未開の大地が広がっている。苦しみながら、悩みながら、ともかく、まず一粒の種を撒いていくことだ。そして、また一粒と――。そのみずからの汗によって、緑と花の園へと飾りゆく労作業のなかにこそ、かけがえのない喜びがあり、希望がある。そして青春の勝利がある。
15  私心なき労苦に指導者の道
 さて、来日中の中日友好協会代表団の中に、三十三年間にわたって周総理と鄧女史の秘書を務め、現在も活躍中である趙煒ちょうい女史(政治協商会議全国委員会副秘書長)、周総理の通訳を長年担当した王效賢おうこうけん女史(中日友好協会副会長兼秘書長)がおられる。
 このほどお二人が次のような鄧女史のエピソードを語っておられたという。鄧女史の人柄を知る上で、ここで紹介させていただきたい。
 一九七六年(昭和五十一年)一月、周総理の死去に際して、多くの人々が涙した。が、一番悲しいはずの女史は、決して涙を見せなかった。そして、このように語ったという。
 ″泣きたいなら思いきり泣きなさい。しかし、われわれは、このような時にはどうすればよいのかを忘れてはならない。死んだ人が泣いて戻ってくるのなら、泣いてください。亡くなった人が一番喜ぶことは、悲しみを力に変え、亡くなった人の志を継いでいくことです″と。
 総理の死後、女史の姿が何度かテレビで放映されたが、涙する姿は一度もなかったという。が、お二人によれば、女史はこのようにみずからの感情をしっかりとおさえられる強靭きょうじんな精神の持ち主であるとともに、女性らしい心づかいにあふれている、とのことである。
 たとえば、中国の風習によれば、冬は亡くなった人に紙製の花を供えるのがふつうだが、女史は総理の追悼大会までの一週間、毎日、生花を祭壇に供えた。決して大きくはないその花には、「小超哀献」――私(小超)は悲しみながらこの花を献じます――とそえられていた。女史の心情がこめられたこの花を見て、皆、涙を抑えられなかった、という。
16  また、趙さん自身が感動したという言葉が挙げられていた。
 その一つは、一九七六年の十月、いわゆる「四人組」が倒されたあとの中華全国婦女連合会でのこと。「文化大革命」の約十年間、迫害を受けていたために会えなかった人たちに対して呼びかけた、「人老、心紅、志更堅」(年をとっても党に忠実で、志をさらに強く、堅くもとう)との言葉である。
 もう一つは、同年四月の全国人民代表大会の副委員長として語った、「生命不息、戦闘不止」(生命の続く限り、戦いを続けよう)、との呼びかけである。
 さらに女史は、つねに自らに厳しく、総理の夫人であるという立場を利用しようとはしなかった。
 行動にあたっては、自分の立場を考え、その会合に自分が必要であれば直接行く。そして、″男性ができることで、女性ができないことはない。ただし、そのためには、男性以上の努力をすることだ″とつねに婦人を教育している、とのことである。
 世間では、社会的に高い地位にある夫をもつと、夫人がそれを自慢したり、利用したりする例も多い。その意味でも、女史のこうした姿勢は、まことに示唆しさに富んでいる。
 また、鄧女史の仕事の姿勢は、周総理によく似ているという。たとえば女史が人と会見する際、相手の心に感動を与える話し方が、総理と同じである。
 そこで、かつて王さんが女史に″どうして、そのように周総理に似ているのですか″と聞いたことがあった。
 すると鄧女史は、「目的は一つ。人民に奉仕することにあるから……」と語ったという。つまり、人生の目的が同じであり、人生観が共通しているからこそ、仕事の姿勢もおのずと似てこざるをえないというのである。
17  また、女史が民衆から尊敬されている理由として、趙さんは、「私心がないこと」、つねに「人民、党、国家」が考え方の核になっていることを挙げていたという。
 具体的には、(1)指導者としての責任に忠実である(2)仕事を一生懸命行う(3)親しみがある(4)苦労をしており、質素である(5)幹部を大事にし、人々への配慮がある(6)平等である(7)いばらない(8)謙虚である、の諸点である。
 ――私の大好きな中国の言葉に、「大人たいじんおのれなし」(『荘子』)とあるが、本物の指導者には決して「私心」がないものである。
 いかなる立場にあろうと、自分に「私心」があれば、人々の心はたちまち離れてしまう。いわんや正法流布という、尊い大業にあっては、つねに指導者はこの一点を深く心に刻んでいかねばならない。
 亡くなる少し前、周総理は鄧女史に、死後は(1)火葬にする(2)遺骨は大地にまく(3)追悼式(告別式)は行わないように、との遺言をしたという。
 当時は、「四人組」の時代であった。そのため、当時の小平・李先念両副首相は、(1)と(2)には賛成したが、追悼式をしなければ周総理の功績を抹殺しようとしていた「四人組」の思惑通りになってしまう。また、民衆が納得しないだろうと具申ぐしんし、追悼式は行われた。
 ともあれ、私心を排し、民衆のための奉仕の信条に貫かれたその姿勢こそ、真の指導者の姿である、と思われてならない。
18  一念の深さ、強さに信心の真
 最後に御書を拝し、信心の基本姿勢について確認しておきたい。
 日蓮大聖人の婦人の門下の一人に領家りょうけの尼がいる。大聖人の聖誕地である安房国あわのくに・東条の領家の夫人であり、大尼御前おおあまごぜんとも呼ばれた。一説によれば、執権・北条義時の次男に当たる北条名越遠江守とおとうみのかみ朝時の妻ともされている。ともあれ、尼は名家の人であったといえる。
 また、大聖人とゆかりも深く、ご両親に加え、大聖人ご自身も恩義を受けたといわれる。そうしたゆえであろう、地頭・東条景信と争った折には、大聖人は領家を徹底して守り、その解決にも尽力されている。
 大聖人にとって、領家の尼は、つねに心にかけ、大切にされていた門下の一人であった。
 「佐渡御勘気抄」の末尾に、領家の尼への深い御心づかいが記されている。
 「領家の尼御前へも御ふみと存じ候へども先かかる身のふみなれば・なつかしやと・おぼさざるらんと申しぬると便宜あらば各各・御物語り申させ給い候へ
 同抄は、竜の口の法難のあと、相模国依智えちにあられた大聖人が流刑るけい地の佐渡へたたれる直前にしたためられたものであり、まさに大難のさなかの御手紙である。そこで、門下一同に決して法難を嘆いてはならないと強く望まれた直後の御言葉が、この一節である。
 ――領家の尼御前にも御手紙をと思ったけれども、まずこのような身の上での手紙であれば、(尼は)懐かしいとお思いにならないであろうと(大聖人が)申していた、と機会あれば、伝えておいていただきたい――。
 相手の立場や心情などを幾重にも考えられた大聖人の深き御慈愛と、こまやかな思いやりがしみじみと拝される。
19  しかし、領家の尼は、竜の口の法難を境に退転してしまう。身延御入山のあとも、大聖人を訪ねることはなかったという。
 名門の家の人であれ、社会的な地位や富にも恵まれ、大聖人からも大事にされていた領家の尼。しかし、そうした人が、世間の非難や攻撃に耐えられず信仰を退していった。
 大聖人は「清澄寺せいちょうじ大衆中だいしゅちゅう」の御抄で、次のように仰せである。
 「領家の尼ごぜんは女人なり愚癡なれば人人のいひをどせば・さこそとましまし候らめ、されども恩をしらぬ人となりて後生に悪道に堕ちさせ給はん事こそ不便に候へども又一つには日蓮が父母等に恩をかほらせたる人なればいかにしても後生をたすけたてまつらんと・こそいのり候へ
 ――領家の尼御前は女性であり、愚かなので、人々がいろいろいっておどすと、そうかと思ってしまわれるのであろう。しかし、恩を知らない人となって後生に悪道に堕ちられることがあっては、かわいそうであるし、また一つには、日蓮の父母に恩を施された人でもあるので、何としても、後生を助けて差し上げようと祈っています――。
 たとえ、ひとたびは御自身を裏切った者でさえ、その後生を心配され、永遠の成仏を祈念される御本仏の大慈大悲――。その海のごとく広大にして深遠な御心を拝することができる。
 それにしても、世間の評判や中傷に心を動かし、信心を失った女人の愚かさ、小ざかしさ。仏法は、あまりにも峻厳しゅんげんであり、その因果は厳然であった。
20  信心の心が定まらず、世間の風に流されていた大尼(領家の尼)に対し、孫嫁とされる新尼にいあまは、大聖人と門下がいかなる苦境にあっても、純真な信仰を貫き通し、大聖人への御供養など真心の外護げごを続けていた。
 大聖人が身延に入られた翌年のことである。この新尼を通して、大尼は大聖人に御本尊の御下付を願い出た。それに対し大聖人は、大尼には下付を許さず、新尼のみにお下げ渡しになる。「新尼御前御返事」には、このさいの大聖人の御心情が縷々るるつづられている。
 「領家は・いつわりをろかにて或時は・信じ或時はやぶる不定なりしが日蓮御勘気を蒙りし時すでに法華経をすて給いき、日蓮先よりけさんのついでごとに難信難解と申せしはこれなり
 ――領家の大尼御前は、いつわり愚かで、ある時は正法を信じ、ある時は信心を破るというように定まらなかったが、日蓮が勘気(竜の口の法難、佐渡流罪)を蒙った時にすでに法華経を捨ててしまわれた。日蓮が前から、お会いするたびに「法華経は信じ難くし難し」と話してきたのはこのことである――。
 「日蓮が重恩の人なれば扶けたてまつらんために此の御本尊をわたし奉るならば十羅刹定めて偏頗の法師と・をぼしめされなん、又経文のごとく不信の人に・わたしまいらせずば日蓮・偏頗は・なけれども尼御前我が身のとがをば・しらせ給はずして・うらみさせ給はんずらん
 ――大尼御前は、日蓮にとって重恩の人であるから、お助けするために、この御本尊をしたためて差し上げるならば、十羅刹はきっと日を偏頗な法師と思われるであろう。また経文に説かれている通りに、不信の人に御本尊を差し上げないならば、日蓮は偏頗はないけれども、大尼御前は自身のとがを知られず、日蓮をうらまれることであろう――。
 あくまで仏法は厳格であり、信心の厚薄こそ肝心である。仏法の眼目たる御本尊を、信なき人に授与することなど論外であった。
 それとは反対に、新尼に対しては、御本尊をお下げ渡しになる。それについて大聖人は次のように仰せである。
 「御事にをいては御一味なるやうなれども御信心は色あらわれて候、さど佐渡の国と申し此の国と申し度度の御志ありてたゆむ・けしきは・みへさせ給はねば御本尊は・わたしまいらせて候なり
 ――新尼御前も、大尼御前と同じように見えるが、法華経への信心については、明らかにまさっておられる。佐渡の国でも、またこの国でも、あなた(新尼御前)は、たびたび厚い志を尽くされ、信心がたゆむ様子が見えないので、御本尊をしたためて差し上げたのである――。
 信心は、年数のみでもなければ、位階でもない。あくまで一念の深さ、清らかさの問題であり、生涯貫くことこそ肝要である。大聖人が、大尼でなく、新尼に御本尊をくださったところに、こうした仏法の透徹した精神を見る思いがする。
 だが、大聖人は続いて、こう仰せである。
 「それも終には・いかんがと・をそれ思う事薄冰をふみ太刀に向うがごとし」――しかし、この先を思うと、薄氷を踏み、太刀に向かうようである――。
 たとえ御本尊は受けたとしても、信心を貫き通すことは、まことに至難であることを示されている。大聖人は、新尼の行く末まで、深く心にかけられ不退の信仰の大切さを教えられている。
 ともあれ、信心の王道を見失うことほど愚かなことはない。どうか皆さまは、このことを強く強奥に刻み、朗らかに前進していただきたいと念願し、本日のスピーチとさせていただく。どうか、今年一年もよろしくお願いします。長時間、本当にご苦労さまでした。

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