Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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江東・墨田・荒川区青年各部合同の集い 雄大な人生、壮大な未来を

1988.12.25 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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1  アフリカにも先駆の貢献の友
 本日は寒いなか、このようにご参集され″ご苦労さま″と申し上げたい。とくに私の創立した創価大学、女子短大、創価学園の各校で学ぶ諸君、また卒業生の皆さまにお会いでき、本当にうれしい。私こそ感謝申し上げたい。
 さらに、十二月の末になると江東を訪問することが、ここ数年のリズムになっている。これも、学会や私が最も大変なとき、江東区の皆さま方がともに戦い、守ってくださった真心にお応えしたいためである。この思いは、首都圏では、立川、神奈川の同志に対しても同様であり、皆さま方のご恩を、私は、生涯忘れない。
 きょうは、新年を迎える準備で繁多な折でもあり、少しでも早く帰宅していただきたいと思っていた。しかし、若き諸君にとっても、また私にとっても、一日一日が大事な人生の時である。決して無駄に過ごしたくはない。
 これまでも、日中国交正常化への提言を胸に刻み、みずからの使命として日中友好の道を進んでいる諸君の先輩も数多くいる。また、″語学を身につけて世界へ″との話に、その道の第一人者を目指して世界へ雄飛している友も多い。
 その意味で、若き諸君にとって、人生の何らかの示唆しさともなり、前進の力ともなればとの思いで、少々、お話をさせていただきたい。
2  昨二十四日、ある女子部の方から手紙をいただいた。このたび、青年海外協力隊のメンバーに合格し、明年五月末から、アフリカのニジェール共和国に派遣されることになった、とのことであった。
 彼女は、六年前に入信して以来、できれば世界の舞台で活躍したいとの願いをもっていた。今回、その願いが叶い、ニジェールの人々に貢献できることになった喜びがつづられていた。三年後には、アフリカを訪れたいとの私の希望も知っておられ、その前にアフリカに派遣されるみずからの使命として、アフリカの平和と繁栄のために尽くしたいとの決意がしたためられていた。
 ニジェール共和国は、西アフリカの内陸国で、国土の大半はサハラ砂漠が占める。国名の由来は、同国を流れるニジェール川により、「ニジェール川の国」という意味である。
 この川は、アフリカで三番目の長さをもつが、「ニジェール」の語源は、ツアレグという遊牧民が、この川を「ニエジーレン」「エジーレン」(ともに「川」という意味)と呼んだところからきているという(牧英夫編著『世界地名の語源』自由国民社)。
 北はアルジェリア、リビア等と、南はナイジェリア等と接する。世界で最も暑い地域の一つであり、人口は約六百四十万人とされる。
3  青年部のなかには、青年海外協力隊の一員としてアフリカに渡った経験をもつ方々がいる。
 創大十二期生で、現在、ケニア・ナイロビ大学の非常勤講師として活躍している女性もその一人である。現在はケニア人のご主人と結婚されているが、彼女は、幼少より信心強盛な祖母をはじめ、学会員に温かく見守られるなか育ってきたことから、長くしいたげられてきた歴史をもつアフリカの人々に、この仏法の偉大さを伝えたい──との希望を早くからいだいたという。
 その後、創大の「パン・アフリカン研究会」の一員として活動していたとき、私の激励もあって、アフリカへの貢献を本格的に決意。昭和六十一年三月に創大を卒業後、同年九月にナイロビ大学の修士課程に入学し、現在にいたっている。
4  青年よ無間の希望を世界に
 青年には無限の力がある。青年には無限の希望と未来がある。諸君は、殺伐さつばつたる社会のなかで、目先の小さな目的のみにとらわれるのではなく、世界へと大きく目を開き、雄大なる希望、壮大なる人生のために、悠然ゆうぜんと生きていただきたい。また、この年の瀬のひとときがその一つの契機ともなればと思っている。
 妙法の友が活躍する地は今や世界百十五カ国・地域に広がった。その発展のかげにはつねに、はじけるような青春の情熱があった。創大、学園出身者も一年ごとに、世界への行動の舞台を広げている。
5  ニジェール共和国とともに、ニジェール川を共有する国の一つに、ナイジェリア連邦共和国がある。この地にも大切な我が同志が活躍されており、ぜひ来訪をとのお便りを、たびたびいただいている。
 アフリカ最大の人口(推定約一億)をようするナイジェリアは、その国名もニジェール共和国と同じく「ニジェール(ナイジャー)川の国」との意味である。国章(国の紋章)にも、このニジェール川と、ベヌエ川とが国内で合流する様子が描かれている。
 ニジェール川は全長約四千二百キロ。歴史上、その流域に多くの国々を栄えさせてきた。隅田川も素晴らしいかもしれないけれども、ニジェール川はナイジェリアの生命ともいうべき川である。
 ギニア湾に注ぐ河口付近のデルタ地帯は豊かな農地であり、また沖合を含めて、ナイジェリア経済を支える油田地域でもある。
 同国は農業生産高ではアフリカ諸国中でも高い位置を占め、しかもさらに大きな可能性を秘めた豊かな農業資源をもっている。輸出額のほとんどは原油によっているが、カカオ豆の生産地としても知られている。
 カカオ豆は、ご存じのように、常緑樹であるカカオの種子を発酵・乾燥させたものである。原産は南アメリカとされており、紀元前から栽培されている。マヤ文明圏、アステカ文明圏でも飲料用として使われていた。
 身近なもののなかにも、悠遠ゆうえんの歴史の時が流れている。また遠い距離を超えた、はるかな旅が背後にある。何ごとにも、その時間と空間の広がりを感じられれば、その分だけ、自分の人生も豊かになると私は思う。
6  さてナイジェリアの独立は一九六〇年(昭和三十五年)十月一日である。
 ナイジェリアを含むアフリカの十七カ国が独立した、この一九六〇年は、画期的な「アフリカの年」として、歴史にくっきりと刻まれている。
 この年は、私が第三代会長に就任し、学会が世界の平和へと新しい出発をした年である。″時″であろうか、地球の各地で、若々しい民衆のエネルギーが激しく噴出し始めていた。以来、私は幾度となく、青年たちに「二十一世紀はアフリカの世紀」と宣言し、訴えながら、その発展を願い、行動してきた。
 ナイジェリアの発展にあって、注目すべきは「教育」への力の入れようである。小学校の就学率の増加は、目覚ましく(一九六五年ごろに二五%、七九年に八六%)、大学もイバダン大学のほか、続々と創設されてきた。アフリカでも最先端の教育国の一つである。
 青年こそ力である。その力を養い、引き出すのが教育である。青年こそ未来そのものであり、教育に全力を注ぐ以外に未来の創造はない。創大、学園にかける私の思いも、そこにある。ぜひとも世界への貢献の大いなる流れをつくりたい。
 ナイジェリアにおいても、こうして成長した青年たちが、祖国の繁栄のために活躍しているわけである。
7  ″魂の文化″は民衆の大地から
 次に、アフリカの文化について、少々、触れておきたい。
 とくにサハラ砂漠以南のブラック・アフリカ(黒アフリカ)においては、その文化の核に″生命力″への深き尊敬があるといわれる。音楽にせよ、彫刻、工芸、絵画にせよ、あらゆる芸術的いとなみが、その躍動する生命力の発露である。また生命の根源への探究であるといってよい。
 アフリカは、その全体が「口承こうしょう文学の宝庫」とされる。たとえばナイジェリアには多彩な民話がある。その一例として二十世紀初頭に、西アフリカのハウサ人の民話が『ハウサ語の昔話の本』として出版された。以来、諸国の民話が収集、翻訳されていった。
 そのなかには現地の人々から見れば不本意な伝わり方をしたものもあった。しかし、アフリカの豊かな心の世界を西欧諸国に教えた意義は大きい。
 ハウサの社会には、″ヒーラー″と呼ばれる日常のおしゃべりの場がある。農村でも、町でも、夕食が終わると、人々は連れ立って、寄り集まり、座談の輪を広げる。そこでは話のうまい人物が中心になって、地域の出来事から政治の風刺ふうし、さらに代々語り継がれてきた昔話など、よもやまの話に花を咲かせる(フランク・エドガー編・松下周二訳、アフリカ昔話叢書『ハウサの昔話』同朋舎刊出版)。
 こうした″ヒーラー″は、まさに「庶民の生命交流の場」であり、学会における生命触発の「座談会」にも通じよう。
 テレビやラジオのような一方通行でもない。文字のような静的なものでもない。声と声、人間と人間、生命と生命が、触れ合い、通い合い、そのなかにしん強き民衆文化が脈打っていく。
 ″魂なき情報″が、いわば洪水のごとく流されているのが現代社会である。そうであればあるほど、肉声による″生きた言葉″の交流が、どれほど社会を健全に支えていくか。私どもの「座談会」の意義の一つもそこにある。
 またアフリカの「口承文学」「語り」が注目される文明論的な必然も、そうしたところにあろう。アフリカにおいても、この口承文学の価値に光が当てられ、一九八四年にはケニア共和国に「ケニア口承文学協会(KOLA)」が結成された。
 一昨年、同協会から私は「第一回ケニア口承文学賞」をいただいたが、文学における″言葉の生命力″の回復は世界的な課題である。そのためには、民衆の大地から生まれた言葉、そして民衆から民衆へと語り継がれ、伝え継がれる言葉への信頼がカギを握っていると私は思う。
8  ナイジェリアを含む西アフリカの各地には、放浪しながら、語りや歌を披露する「グリオ」(吟遊ぎんゆう詩人、大道芸人)と呼ばれる語りの専門家がいる。
 グリオの発祥はっしょうは古く、文字ができる以前は、年代記や神話、伝説の伝承者として活躍した。また祭りや儀式をつかさどったり、トラブルの調停役という一面ももっていた。
 グリオの語りには、歌や踊り、楽器の伴奏がつき、繰り返しの部分では聴き手も唱和する。民衆の活力満つ、にぎやかな、明るい、文化の広場であった。素朴ながら、そこでは民衆のエネルギーが芸術的表現へと昇華されている。世界で繰り広げられてきた私どもの「文化祭」もまた、同様の方向性のうえに開花したものである。この″民衆の生命力″を、どう多彩な文化の創造へとつなげていくか、そこに二十一世紀の重大な課題がある。
9  昨年九月、神戸で行われた兵庫青年平和文化祭で、私はナイジェリアのショインカ博士とお会いした。いうまでもなく、博士は一昨年、アフリカの文学者として初めてノーベル文学賞を受けた詩人・劇作家である。
 博士自身が、受賞は「アフリカの文学的伝統全体に対するものであって、私はただこの伝統の一部をなすにすぎない」と謙虚に語っておられるように、口承文学を含めた豊かな文学の土壌のうえに、現代のアフリカ文学の優れた結実があるといえよう。
10  アフリカでは、母子の語らいにも、歌が欠かせない。母親は、家族や生活のこと、また先祖の歴史や英雄の伝承等を、歌にのせて子に伝えていく。さらに裁判でも、自己の主張を、ソロの歌唱や合唱で述べることもあるという。なんと情緒があるというか、優雅というか、それだけ、音楽が生活に密着し、日つねに根差しているのであろう。
 アフリカ文化のなかでも、とくに現代芸術に影響を与えたものの一つが彫刻である。彫刻の場合、現在のナイジェリア地域は、優れた作品を生み出してきた。そのうち最古のものは、ノク彫刻といい、紀元前五百年ごろに生まれたとされる。「ノク」とは、ナイジェリア中部に位置する最初の出土地の名称である。この伝統は、十一世紀に始まるイフェ美術、十三世紀以降のベニン美術にも引き継がれ、なかでもベニン彫刻の伝統は、十九世紀末まで存続している。
 西洋美術史上、二十世紀の最も重要な革新の一つは、キュービズム(立体派)の運動である。対象の立体性(三次元)を平面(二次元)の中に再構成する手法は、絵画の概念すらくつがえす美術上の大変革であった。
 その運動の中心となったのは、ピカソとブラックであるが、二人とも、アフリカの美術、彫刻に、早くから強い関心をいだき、精力的に収集に当たっていた。彼らが、アフリカの美術に芸術上の尽きない感興かんきょうを得て、そこから画期的な創造、革新へのインスピレーション(啓示)を受けたことは間違いないといわれている。とくにピカソはアフリカ彫刻を単なる美術作品というより、それを超えた宗教的なもの、生命力の象徴としてとらえていたようだ。
11  アフリカの文化の伝統が世界的な影響力を及ぼしたのは、美術に限らない。音楽においても、世界の多彩な大衆音楽のリズムは、大半はアフリカにルーツをもつといわれており、アフリカ文化の伝統が、現在のさまざまな音楽の形成・発展に果たした役割の大きさは計り知れない。
 かつて、アルゼンチン・タンゴの世界的巨匠マリアーノ・モーレス氏と会談した折も、そのことが話題となった。そのさい私は、日ごろから抱いている所感として「アフリカの音楽には、人間生命の奥深い律動、そして素朴にして清らかな情熱のリズムが、息づいている。いわば、人間本来のリズムが、なまの形で残り、流れている」と語った。
 モーレス氏は、心から賛同され、私に″音楽の原点を知る詩人″との励ましの言葉を贈ってくださった。恐縮の限りであるが、ともあれ、アフリカ文化の特質が、人間生命の直截ちょくせつな表現、そして宇宙の運行にも即応するかのような素朴にして雄大なリズム感などにあることは間違いないようである。
 世界の文化の深層に流れ、脈動する、アフリカ文化の確固たる伝統。その影響の強靭きょうじんさ、広範さを思うとき、私は、アフリカの文化が民衆の″生活″と一体となり、つねに民衆とともにあったこと、そして絶えず、人々の生きゆく力の源泉となってきたところに、その秘訣ひけつがあるように思えてならない。
 そのような素晴らしき「民衆文化」の根付くところに、やがて大いなる「繁栄」と「平和」の黄金時代が訪れないわけがない。「二十一世紀の大陸・アフリカ」に栄光あれ、幸あれと心から念願し、祈念していることを、重ねて申し上げておきたい。
12  あたたかき″一言″こそ大切
 さて、話は変わるが、日蓮大聖人の御在世当時、駿河国するがのくに(静岡県東部)の富士方面に南条平七郎という門下がいた。くわしいことは分かっていないが、南条時光の一族の人であると思われる。
 また、この平七郎の母に、大聖人御正筆の御本尊が授与されていることを日興上人は本尊分与帳(弟子分帳)に記されている。私には、一家の中心となって信心に励み、大聖人門下の誇りに燃えて活躍していた、けなげな母の姿が目に浮かんでくる。
 いつの時代でも、どこの地にあっても、子供の成長の陰には、こうした凛々りりしき信心の″母″の姿があるものである。諸君のお母さん方も、そうであろうと思う。時には、信心や生活上の注意が口やかましく思えるかもしれないが、それも″愛情″ゆえのことである。そのお母さんの心をくみとっていける諸君であってほしい。
 どうか、諸君は立派なリーダーとなってお母さんを安心させ、楽をさせてあげられる一人一人であっていただきたい。
13  建治二年(一二七六年)の十二月、厳寒の身延におられた大聖人のもとへ、この平七郎から御本尊への御供養として、米一駄(馬一頭に負わせる荷物の量)と里イモ一駄が届けられた。
 大聖人は平七郎の真心を喜ばれ、ただちに御返事をしたためられて平七郎の使いの人に託される。その御手紙が、「本尊供養御書」である。
 大聖人はその一節に「法華経を持ちまいらせぬれば八寒地獄の水にもぬれず八熱地獄の大火にも焼けず」──法華経(御本尊)を受持するならば、八寒地獄(八種の極寒の地獄)の水にもぬれることなく、また八熱地獄(熱気や火炎などで苦しめられる八種の地獄)の大火にも焼けることはないのである──と仰せになっている。
 ここでは、御本尊を受持した功徳の偉大さを述べられ、いかなる地獄の苦しみにも侵されない、金剛不壊こんごうふえの境涯を築いていけると仰せなのである。
 人生には、思いもよらぬ逆風や烈風がある。生死の苦海もある。しかし、信心強き人は、何ものにも破られない。ゆえに何ものをも恐れる必要はない。広布に生きる私どもは、この大確信に立ってみずからの使命のままに前進していけばよいのである。何ものをもじ恐れない不屈の魂──これこそ″学会精神″であり、信仰者のほまれである。
 また、大聖人は平七郎の御供養に対し、即座に返礼の筆をとられている。こうした御振る舞いからも指導者の大事な姿勢を学んでいきたい。
 私自身もつね日ごろ、″素早い反応″を心掛けているつもりである。真心には真心で、誠意にはどこまでも誠意をもって応えていくしかないからである。″心″を即座に″行動″で表していく──。どうか諸君も、誠実さと温かな心を忘れない″行動の人″″実践の人″であっていただきたい。
14  ところで、この御手紙は短く簡潔な御文である。そのことについて御手紙の末尾には「事多しと申せども年せまり御使急ぎ候へば筆を留候いおわんぬ」──書きたいことは多くあるけれども、年の瀬も迫り、使いの方も急いでいるので、筆を留め置くことにした──と仰せになっている。
 すなわち″法門のことは、いくらでも書いて差し上げたい。しかし、今は年の暮れであり、どの家でも忙しく、また人手がることであろう。ゆえに、この使いの方を長時間、引き止めて待たせては気の毒であるし、少しでも早く帰して差し上げたい。短い返事となってしまうが、どうかそうした心であることを察していただきたい──″との、大聖人のまことにこまやかな御心づかいが拝されてならない。
 また、内容は短い御手紙であっても、この″一言″が添えられたことによって、大聖人の御心が平七郎に何倍も深く、強く伝わっていったにちがいない。
15  次元は異なるが、私どもの日々の振る舞いにおいても、こうした″一言″の重みを大切にしたい。ともすれば″言葉足らず″であったり、″表現がへた″なために相手にいやな思いをさせ、感情的になって互いにそんをしている場合がある。リーダーとなりゆく諸君は、この点をよくよく考えていっていただきたい。
 たとえば会合で、「忙しいところ、また寒いなかを本当にご苦労さま」と言われれば、心はなごむ。それを「会合なのだから来て当たり前だ」というような傲慢ごうまんな心、権威的な心であっては絶対にならない。それでは、賢明な「庶民の心」は、どんどん離れ去っていくにちがいない。人を見下すようなまずしく、いやしい心の人は、これまで退転していった幹部にも如実にみられるように、結局、自分自身をほろぼしていってしまう。
 ともあれ、難解な仏法の法理を教えていくことも当然、大切なことである。とともに、社会の荒波の中にあって、厳しい現実とけなげにたたかっている尊い仏子ぶっし、我が同志の″きょう″を、そして″あす″を、どう守り抜いていくか。いかにして最高に価値ある前進のリズムをつくり出していくか。広布の指導者は、この一点をつねにみずからの心に課し、決して忘れてはならない。そして、日々の生活、身近な足元を大切にしていく意味からも、年末は、それぞれの″我が家″の一年の締めくくりと新年の準備をしていただけるように心を配ってほしい。
 どうか諸君も、ご家族とともに本年を有意義に締めくくり、お一人お一人が最高に素晴らしい″正月″を迎えていただきたいと申し上げ、私のスピーチを結ばせていただく。

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