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日蓮大聖人・池田大作

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第12回本部幹部会 若々しい精神、若々しい生命で

1988.12.17 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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1  輝く「多宝会」の友は″学会の宝″″時代の灯台″
 この一年間、本当にご苦労さまでした。秋谷会長を中心として、立派な広布の歴史をつくってくださった皆さま方のご活躍を、私は、ただただ深く賛嘆したい。この一年は、いうなれば十年分にも匹敵ひってきする大きな前進であったと私は見ている。
 さて、きょうは、東京の年配者のグループである「宝寿会」が結成された。同じく中部・沖縄でも「多宝会」が発足している。まことにおめでとうございます。
 さらに今後も北海道や四国など全国各地の「多宝会」が、さらに関西では「錦宝会」が結成される運びになっている。九州から始まった、この自発的な波は、全国に広がっている。やがて全世界にも広がるであろう。私は本当にうれしい。また頼もしく、心躍る思いで見つめている。
 これらの方々は、人生経験のうえからも、人格のうえからも、また信心の深さにおいても、大先輩の方々である。素晴らしき妙法流布の使命に生き、活躍してこられた。私どもは「多宝会」「宝寿会」「錦宝会」の方々に、心から感謝し、また称賛申し上げたい。そして思う存分、新たな気概で活躍し、いなき人生の総仕上げを立派に果たしていただきたいと、私は心から念願している。
2  人間は、年配になっても心の若々しい人もいる。反対に若くして、老いた心の人もいる。また社会的に偉くなっても、はつらつたる信心の躍動をなくしてしまう人もいる。
 それに対して、「多宝会」「宝寿会」「錦宝会」の方々は、不思議なる使命と生命力と長寿をもって、広宣流布のために、私どものために、創価学会のために、一切の土台となり、後輩の「励ましの大樹」となり、学会の「守護の門」となって活躍してくださっている。まさに、その名のごとく永遠の「宝」を抱いた存在であられる。
 また高齢化社会にあって、年配者が人生のうえで、社会のうえで、どう活躍していかれるのか。その証明は今や人類的課題ともなっている。
 その先取りとして、勝利の実証を示されている、これらの方々は、いわば「人生と時代の灯台」である。その大光を人類は、こぞって賛嘆し、また慕い求めていくにちがいない。
3  先ほど中野区の有志の方々が「青い山脈」を演奏してくださった。はるか希望の峰を見つめる″青春の心″″青春の調べ″を見事に奏でてくださり、私も生き生きと、はずむ思いで聴かせていただいた。
 この「青い山脈」ではないが、「宝寿会」の結成に当たって、ある人が、こう心境を語っておられた。
 「第二の青春きたる。第二の人生きたる。私は三世にわたる永遠の青春の旅路へ出発する。ふたたび学会の、地域の、希望の星となって、輝き、光り、模範の一生を飾りたい」と――。
 ともあれ私どもは、「多宝会」「宝寿会」「錦宝会」の方々を、心から大切にし、ますますご壮健で、ご長寿であられることを、お祈り申しあげたい。
4  世界の著名人のなかでも、七十歳を超えてなお活躍した人は数多い。
 例を挙げるとアメリカのレーガン大統領は現在七十七歳。故人では西ドイツのアデナウアー初代首相。享年九十一歳であった。またフランスのドゴール大統領は享年七十九歳、イギリスのチャーチル首相は同じく九十歳、インドの″マハトマ″、国父ガンジーは七十八歳。みな、それぞれ人生最後の日々まで、生命を燃やしに燃やして生きた。さらに、「ラッセル=アインシュタイン宣言」で核兵器の廃絶と戦争廃止を唱えた、イギリスのバートランド・ラッセル博士は九十七歳まで、アインシュタイン博士は七十六歳まで、「平和」のために決然と戦い抜いている。
 かつて私のスピーチでも紹介したナイチンゲール。彼女はクリミア戦争の時の献身的看護で有名であるのみならず、九十歳まで、人々の生命を守るために渾身こんしんの力を尽くした。菩薩のごとき光を放った一生である。
 また天然痘の撲滅ぼくめつに奔走し、近代免疫学の基礎を築いたジェンナーは享年七十三歳。今世紀を代表する哲学者サルトルは七十四歳、天才画家ピカソは九十一歳、喜劇王チャプリンは八十八歳――。それぞれ自分の道で、一生涯どこまでも前へ前へと歩みきった。
5  妙法は″永遠の青春″の源泉
 こうした人々に比べれば、私どもの多くは、まだまだ若い。いわんや妙法という生命力の無限の源泉を持っている。「広宣流布」に徹したいさぎよい信心の一念さえあれば、我が生命は豁然かつぜんと開け、何倍、何十倍の生命力で、日々、みずみずしい信心即生活を送っていける。
 要は「決定けつじょうした信心」であるかいなか。使命の人生でありながら、途中で″もう、この辺でいいだろう″とか、″そろそろ引退だ″とか、勝手に決めて、一生成仏への勢いをゆるめてしまったのでは、総仕上げはできない。
 旅は目的地に着かなければ、それまでの歩みも結局、無意味となる。信心も、今世の使命を果たしきらなければ、もう一度、来世以降に、同じ苦労を繰り返さねばならない。それではあまりにも、もったいないし、一生成仏の完成をみれば、今度は、三世永遠の大福徳の軌道に乗ることができる。生々世々に、いよいよ壮大なる境涯と、活躍の舞台を得ていくことはまちがいない。今世において、命の限り、広布に進むことが、大満足の自身をつくる唯一の道である。ゆえに、できる時に、なすべきことを勇んで実践することだと強く申し上げておきたい。
 かといって、これは決して無理をせよということではない。根底の一念の問題である。仏法は道理であり、どこまでもリズム正しい信心即生活の積み重ねでなければならない。
 眠る時には、十分に眠り、休むべき時には、悠々ゆうゆうと休むことである。様々な状況はあると思うが、無理をして体をこわしたのでは、結局、自分の負けである。賢明に、疲れを残さないようにして、健康を守り、生気はつらつたる一日一日をていねいにつくりだしていただきたい。また周囲の方々も、細心の配慮をお願いしたい。
6  また、今、名前を挙げた人をはじめ、偉大な仕事をなした人物は皆、生涯、その道の「戦士」であった。生きるとは戦いの異名であることを知り抜いていた。
 困難の雨嵐あめあらしの中を、時には弾丸と戦い、貧苦と戦い、また思わぬ伏兵にぶつかり、足もとをすくわれ、背後からねらわれ、揺さぶりをかけられ、ありとあらゆる障害を乗り越えねばならなかった。厄介な問題は雲のごとくわき、払っても払っても邪魔は、まとわりついてきた。
 世間の事業でも、こうした戦いにつぐ戦いである。いわんや広布は人類救済という大法戦である。戦いである以上、すべて整った、やりやすい戦いなど、あるわけがない。体裁ていさいのよい、楽な戦いなど、戦いではなく、遊戯である。
 障害があればあるほど、嘆いているひまに、どうそれを乗り越えるか。グチを知恵に、憶病おくびょうを勇気に変えて、逆風を恐れず断じて進む時、社会の風向きをも変えていける。そうしたなかから、本物の人物も鍛えられてくる。歴史にそびえる偉大な金字塔は、一つの例外もなく、だれもが不可能と思った状況を克服した人間の「勝利の記念碑」であることを銘記していただきたい。
7  さて私がこれまでお会いした各国の著名な方々にも、高齢にもかかわらず、毅然きぜんとして活躍されていた方が幾人もおられる。
 亡くなられた方から挙げると、まず、あとで少し触れるが中国の周恩来総理。享年七十八歳で、私が会見したのは去の約一年前であった。ガンで入院中の体でありながら、眼光炯々けいけいと、中国と人類の未来を見つめておられた。
 またソ連のコスイギン首相とは七十歳と七十一歳の二度お会いした。首相が七十六歳で逝去された後、ご息女にお会いした折、私との会見の模様について首相が「きょうは平凡でない非つねに興味深い日本人に会ってきた。大変複雑な問題に触れながらも、話がすっきりできてうれしかった」と語りかけられたとの思い出を聞いた。高齢でも、その頭脳はさえわたり、何ひとつ見落とすまいとする精神力を感じたのが印象的であった。
 さらに今世紀最大の歴史家であるトインビー博士は私が最後に対談した時、八十四歳。三人の通訳が訳しきれないほどの高度な内容とスピードで対話は進んだ。亡くなられる二年前のことである。
 そしてローマ・クラブの創始者、ペッチェイ博士。七十五歳の去まで、たゆまず研究と社会への訴えを続けておられた。
 フランスの首相も務めたエドガー・フォール氏は「フランス革命ならびに人権宣言二百年」記念委員会の会長でもあった。七十九歳で去される九カ月前に、お会いした。同席した秋谷会長が「年齢をまったく感じさせない方ですね」と語っていたように、若々しい迫力を持ち続けた歴戦の闘士であった。
 パン・ヨーロッパ主義の提唱者、カレルギー伯とは七十五歳の時、会談し、対談集を上梓じょうしした。
 微生物学者のルネ・デュボス博士は八十一歳で亡くなられたが、私が会談した時も、すでに七十二歳であられた。高齢を考え、部屋を暖房で暖めてお待ちした。ところが博士は、オーバーをぬがれるや、「暖房を止めてください。大丈夫です。池田先生と対話を始めれば、情熱で体も燃えてきます」と言われた。その青年のような息吹と、聡明にして洗練された物腰は忘れられない。
8  さらに、お会いした方々で今日なお、お元気に活躍されている方々も多い。中国の最高指導者である鄧小平とうしょうへい党中央軍事委員会主席は八十四歳、王震おうしん国家副主席は八十歳である。
 王震副主席は私との会見の折、「八十八歳の米寿の時にも、ぜひお会いしにきたいと思います」と語っておられた。未来への若々しい気概に、私は深く感銘した。
 またフランスのポエール上院議長は七十九歳、訪仏のたびにお会いしているが、いつも家族のように親しく迎えてくださっている。信義と友情の強ききずなで結ばれているルネ・ユイグ氏は八十二歳、世界最高峰の美術史家である。ドミニカのバラゲール大統領は八十二歳、ブルガリアのジフコフ国家評議会議長は七十七歳である。
 さらにノーベル化学賞および平和賞を受賞したポーリング博士は八十七歳。近い将来、博士と私との対談集の出版が予定されており、現在その準備が進んでいる。博士は「私の人生の総仕上げの仕事とするつもりで、全力を挙げて取り組みたい」と言ってくださった。私も後世のために全魂を込め、残す決意である。
 過日会談し、青年部幹部会でもその半生を紹介したが、中国・復旦ふくたん大学の蘇歩青そほせい名誉学長は今年八十六歳である。会見のさいには、できれば私が明年、中国に同名誉学長を訪ね、二年後にはふたたび名誉学長が私を訪ねてきてくださる、という約束も交わした。
 また日本人でも″経営の神様″といわれる松下幸之助氏は、現在、九十四歳である。
 このほかにもつねに若々しい精神をもち明晰めいせきな知性の輝きを放って、各界で活躍しておられる年配者は数限りない。妙法を受持した私どもは、いつの年代になっても″生涯青春″の言葉そのままに人生の旅路を歩みながら広宣流布という、人々の幸福と世界の平和への最高の目的にどこまでも生き抜いてまいりたい。
9  ″先駆″の人ありて広布は前進
 ところで明年は、牧口先生が福岡・八女やめをただ一人で訪れ、九州広布の一粒種が誕生してから、ちょうど五十周年を迎える。
 戦時中の弾圧の中でも、八女では一人の退転者もなかった。戦後は戸田先生の学会再建にいち早く呼応して立ち上がり、草創の九州広布を開く戦いに全力を挙げて取り組んだのである。
 昭和二十六年五月三日、戸田先生の会長就任のさいには、八女支部が東北・仙台支部とともに全国の支部の先駆を切って発足している。また戸田先生が地方指導で最後に訪れたのも、九州の地であった。
 このように、今日の九州広布大発展のいしずえは、どこまでも牧口、戸田両会長と、ひたぶるな草創の同志との尊い″共戦譜″によって築かれたのである。それは信心を退転した人間などには絶対わからない崇高なる絆であり、法戦であった。
 ともあれ、学会草創の″先駆″を担った九州――。今回の「多宝会」も、まず九州が″先駆″となって発足し、それに続いて全国各地に結成される流れができている。こうした九州の模範の発展の姿を、牧口先生、戸田先生もどれほどお喜びのことであろうか。
10  「守護国家論」には「兵者を打つ刻に弱兵を先んずれば強敵倍力を得る」――戦いにおいては、弱兵を先に戦わせると、強敵はますます力を増す――と仰せになっている。
 法然の「選択集せんちゃくしゅう」を破折するために「浄土決疑鈔じょうどけつぎしょう」「弾選択だんせんちゃく」「摧邪輪さいじゃりん」などの書が、他宗の高僧によって著された。しかし、それらは、法然の謗法ほうぼうを中途半端にしか破折していないために、かえって悪法をはびこらせてしまった。その姿を大聖人が、兵法の例を挙げて、厳しく指摘された御文である。
 つまり、ここでは、弱兵の先駆けによる戦いは、かえって強敵を勢いづかせることになる。戦いの先陣は強い兵でなければならないことを示されているのである。
 これは、私ども広布のリーダーたるべき人の深く銘記すべき点であろう。
 先に信心の経験の浅い後輩に苦労をさせて、力量もあり経験も豊富な幹部はいつも後から出ていく、というようなことは絶対にあってはならない。
 もし、そうしたリーダー自身の「傲慢ごうまんさ」と「無責任」によって、尊き仏子ぶっしである後輩・同志が不必要に苦しむことがあれば、それは仏法の精神に反する。広布の指導者として失格である、といわざるをえない。
 ともあれ、広布という法戦にあって、力ある先駆の存在がいかに大切か――。どうか各地域にあって皆さま方は、まず″先駆″を切って対話の最前線へと走り、真正面から悪と戦い、会員を守っていく率先垂範そっせんすいはんの″勇将″であっていただきたい。
 私もこれまで、つねに陣頭指揮で広宣流布のために全力で走り抜いてきたつもりである。そうした一人一人の自覚と使命の活動が進めば進むほど、広布の発展のリズムは一段と大きく、力強いものとなっていくにちがいない。広布と学会の未来のため、この点をあえて強く申し上げる次第である。
11  徹しゆくなかに栄光の人生
 さて、さる十月に会談したソ連の著名な文学者・アイトマートフ氏から、会談後の所感などを記した手紙が届けられた。
 その中には、ゴルバチョフ書記長の良き協力者であり、文学界の″ペレストロイカの旗手″と呼ばれるアイトマートフ氏の世界観、国家観、哲学観をはじめ、さまざまな問題についての洞察どうさつや意見がつづられている。長い手紙のため、すべてをお伝えすることはできないが、氏の真心にお応えする意味からも、その一部を紹介させていただきたい。
 氏は次のように記している。
 「人間社会における″善″と″悪″との関係が、いかにいつの世も問い続けられ、いかに予測し難いものであることか――それはまさに驚くべきことです。
 このようにとりとめもなく書き連ねておりますのは、池田先生という人格にあい対して自分の考えるところを素直に述べたかったからです。
 日本は今日、国家的、社会的、そして文化的に、西洋と東洋の優れたものを融合させた最もユニークなケースでありましょう。そして通俗的な言い方になりますが、貴殿の掌中しょうちゅうにこそカードは握られております」と。
 戸田先生はかつて、″楽土日本を現出させよう″″地上から悲惨の二字をなくしたい″と言われた。それは私ども、当時の青年に託された悲願でもあった。そして、広布の進展に符節を合わせるかのように、日本の繁栄が進んだことも事実である。
 仏法の因果論でこの事実をとらえるとき、妙法の偉大さと学会の活動の素晴らしさを痛感せざるをえない。そして、何よりも皆さま方の今日のお姿こそ、その証明である。将来の日本も、また世界も、その原理はまったく同じであることを深く確信していただきたい。
 そしてアイトマートフ氏は、「貴殿の博識と才能、そして現代の偉大な思想家として世界に占める位置からみましても、貴殿が現在、双肩に担っておられる社会的・文化的使命は、まさに天から与えられたものであると思われてなりません。池田先生は、私にとって新しい″発見″でありました。その人格の中に、私は現代人の精神の昇華を見いだしました」と、私どもの活動に強い期待を寄せてくださっている。
 さらに、ぜひふたたびの語らいの機会をと望み、ソビエト社会に関する所感を分かちあいたいと念願されながら、「どうか、私のこのような気持ちをご理解いただき、また貴殿にも、ソビエト社会とともに生き、ともに悩む人間の言葉を通して、その現実に関心をもっていただければと願ってやみません。どうか固い握手をお受けください!」と語りかけ、書簡を結ばれている。
 折も折、アイトマートフ氏が帰国するさい、私もよく知るソ連大使館の方が、同じ飛行機に乗り合わせたそうである。その方は、アイトーマートフ氏との機中での語らいの模様を次のように伝えてくださった。
 「一時帰国のために乗った飛行機で一緒になり、機中、約十時間にわたって、日本でのこと、名誉会長のこと等、語り合いました。そこでも、アイトマートフ氏の志向するところが、池田先生の哲学と一致していることを知り、『人間革命』という哲学の深さを学びました」と。
 また帰国後のアイトマートフ氏の様子については、「『心に残る出会い』という一時間半のテレビ番組に出演して、日本の印象、池田先生のことなど語り、先生のことを大変にほめておりました。ソ連の人々の求めている哲学は、まさに池田先生の哲学にあると思います」と。
12  皆さまもご存じのように、昨十六日、中国の周恩来総理ドラマ製作取材団が来訪され、周総理との思い出などについてインタビューを受けた。
 取材団には、青年時代の周総理役を演じる若き俳優も一緒だった。彼は、周総理によく似ており、ともに握手し記念撮影に納まったが、ありし日の周総理がしのばれ大変懐かしい思いがした。
 今回の取材は、日本人としては私一人ということであったが、取材団の方々と、周総理の人格、生涯などを語り合った。そのさい、ひょう団長から、周総理の人柄をほうふつさせるエピソードが伝えられた。一つの人間学として、ここで紹介しておきたい。
 周総理は晩年、やまいをえられ、身体も非つねに弱っておられた。しかし、そのような衰弱の中にあっても、重要な会議があるときは、事前に会議室に足を運び、自ら会場の安全性を確認されていた。そして、毛沢東主席の座る椅子いすにも自ら座ってみて、大丈夫かどうかを確かめておられたという。
 総理のもとには当然、多くの人がついていただろう。しかし、他人任せにするのではなく、自分の責任で、細かく気を配っておられた。なかなかできることではない。この一点からも、私は周総理の人間的えらさを改めて強く感じることができた。
 私もいついかなる所にあっても戸田先生に、同様な思いでつかえたことが懐かしい。
13  また周総理の一生は、毛主席に忠誠を尽くして終わった。政治活動のなかにあって、毛主席を中心として、決して自分が主人公にはならなかった。つねに″脇役わきやく″ですべてを支えていた。生涯″脇役″に徹し、中心者を守る、との信念、人生哲学であったようにも思える。
 そして馮団長との語らいでは、「三国志」に描かれている、主君・劉備玄徳りゅうびげんとくに仕えた諸葛孔明しょかつこうめいのことが話題になった。
 ――諸葛孔明は劉備玄徳のために尽くしきった。だが、その孔明にも主人公になった場面はある。たとえば、孔明の策略もあって、曽操そうそうの軍と、孫権・劉備の連合軍とが戦うことになった「赤壁せきへきの戦い」。ここで、魏軍に壊滅的な打撃を与えるために、呉の水軍は火攻めの計をはかる。しかし、それを行うための東風が吹かない。その東風を孔明が祈って吹かせ、呉軍の大勝利で終わるという筋書きである。ここでは孔明が主人公を演じている。
 しかし、周総理は主人公になったことは一度もない。だから、今回は、周総理を主人公にした映画をつくりたい――と馮団長は語っておられた。
 たとえ脇役でもよい。何事においても、向上のために徹する人は強いし、必ず勝利の人生を築いていける。ましてや、どのような立場であれ、広布と信心に徹してこられた皆さま方の勝利の人生は絶対に間違いない。
 なかには、もう年もとったし、今世では間に合わないと思っている人もいるかもしれない。しかし、生命は永遠であり、仏法の因果も厳然である。信心に徹した一生であれば、必ずや来世、再来世の人生で、福徳に満ちた″長者″として花を咲かせていけるのがこの妙法である。広布のために、また人生を楽しむために、願い通りの所に、願い通りの境涯、立場に生まれ、思う存分活躍できる。そのための信心なのである。
14  また、周総理は、早くから創価学会に注目されていた。中日友好協会の孫平化会長は、自著『日本との30年――中日友好随想録』(安藤彦太郎訳、講談社)の中で、「創価学会」について次のように記されている。
 「私の知るかぎり、この社会勢力は、はやくも一九六〇年代の初めに、私たちの敬愛する周恩来総理に重視されていた。あるとき、私が日本訪問から戻り、廖公リアオコン(=元中日友好協会会長の廖承志りょうしょうし氏)に連れられて、中南海の西華庁の周総理の執務室へ行って、総理にじかに報告したことがある。私の報告の中で、周総理の注意を引いたことが二つあった。一つは、日本が道路を上下に交叉こうささせ、高速道路を建設し、近代化された都市の交通渋滞を解決した経験についてであり、もう一つは、創価学会の躍進と勢力の不断の拡大についてであった。
 同総理は私たちに、創価学会と接触する機会をもつようにと言った」と。
 さらに、聖教新聞九月十一日付の「日曜てい談」で、長野大学の菅沼正久教授が、一九七〇年(昭和四十五年)十二月、周総理と会談したときの模様を、次のように語られている。
 「私が人民大会堂で周総理と会いました。会見は夕方四時から七時間近いものでした。そのなかで周総理のほうから創価学会のことを質問された。その核心は創価学会は国家を超えられる団体かどうかということでした」と。見ている人は、本質を鋭く見ているものだと思う。
 大聖人の仏法は「一閻浮提いちえんぶだい」、つまり全世界のための大法である。決して一国のためだけの仏法ではない。周総理は、国家という小さなワクを超えて、民衆のため、そして全人類のための創価学会たりえるのかを、見極めようとされていたにちがいない。
15  困難に負けぬ強靱な信念を
 さて話は変わるが、以前、文芸部員でもある男性の詩人について話をした(昭和六十三年七月十日。第六回全国青年部幹部会)。それに対し、「今度は女性の文芸部員の話をしてください」という要望があった。
 そうしたところ、先日、ある婦人の方が、出来上がったばかりの著作を贈ってくださった。さっそく妻が読ませていただき、その示唆に富んだ、さわやかな内容に感銘を受けたと言っていた。そこで、きょうは少々、その妻の話から、この本について紹介させていただきたい。
 書名は『小説 土佐堀川』(潮出版社刊)。幕末から明治、大正にかけて女性実業家の草分けとして活躍した広岡浅子(一八四九年<嘉永二年>〜一九一九年<大正八年>)の生涯を、事実に基づいてつづった物語である。著者は、文芸部員の古川智映子さん。これはペンネームで、古川こがわぬいさんといい、高校の教師などをされたあと、著述の仕事に専念され、以来、十七年になるという。
 古川さんは、流行作家ではなかったかもしれないが、真摯しんしに、懸命に、文学の道を歩んでこられた。その誠実な生き方に、私の心は共鳴する。それとともに感心するのは、古川さんが、決して仕事だけに埋没することなく、広布、地域の第一線にあって、友の幸せを祈り、動き、学会活動に励まれてきたことである。
 自行化他の実践なくして、真実の仏法はない。これは、御書に照らし、経文に照らして、明白な事実である。また、その実践のために、私どもの信――心と広布の組織がある。
16  主人公・広岡浅子の生涯は、まさに波乱と苦境の連続であった。ここでは、古川さんの著作に即しつつ、彼女の生き方について、思いつくままに述べてみたい。
 浅子は、大阪でも有数の両替商りょうがえしょう「加島屋」にとつぐが、幕末という変革の時代の激浪げきろうが彼女とその一家を次々とおそい、名門の商家をも容赦ようしゃなく押しつぶそうとした――。
 維新に伴う貨幣改革等による経営危機。劇的な近代化を予期して経営に乗り出した炭鉱の火災事故。創業した銀行の倒産の危機。個人的にも、肺病、乳ガンをわずらい、私怨しえんから刃物で刺され、瀕死ひんしの重傷を負ったこともあった。
 こうした相次ぐ苦境にあっても、浅子は、様々な苦難をたくましく乗り越え、夫を支えつつ、実業家としての手腕を発揮していく。
 苦しい時、浅子は思った――人は「七転び八起き」という。それなら私は「九転び十起き」でいこう――。以来、「九転十起生」(九回倒れても、十回起きて生き抜こう)が、彼女の信念となった。
 人間だれしも苦難の時は、自分ばかりが悲劇の主人公で、人は、いつも幸せそうに見えがちである。だが、労苦と困難の連続が人生の現実ではあるまいか。
 要は、次々と競い起こる苦難に対し、それをどう打開し、どう障害に負けない強靭きょうじんな自己を築いていくかである。ここに、価値ある人生を生き抜くための要諦ようていがある。
17  ある時、ある人に、浅子はこう語る。
 「自分で出遭でおうた悲しみ、苦しみをこやしにして、どこまでい上がれるか、勝負や。忍耐づよく努力を積めば、必ず道は開ける」
 「環境が悪い、条件が悪いいうて不満いうたかて、人間大きゅうはならん。自分を深めるためには、悪い条件の中でうんと苦労することや」
 皆さまは、もはや、分かりきったことと思われるかもしれない。だが、この通りに実践し、行動することは、決してたやすいことではない。しかし、浅子は、違った。つねに、立ちはだかる問題に、全力でぶつかり、挑戦していった。
18  ″現実の第一歩″が洋々たる未来に
 彼女は、特別の学問を修めたわけではない。苦難に直面したさいも、理論や観念で問題を理解し、それで解決を図っていくタイプではなかった。どんなときも、まず、現実の中に一歩、足を踏み入れ、活発に行動するなかで、解決への道を探り、果敢に進んでいった。ここに、彼女の強さ、成功の源があったのではないか。
 あるとき、浅子が設立した保険会社が行き詰まってしまう。彼女は他の会社との合併という斬新ざんしんなアイデアで危機をしのごうとするが、夫は、常識的な見方から、それは無理ときめつける。
 それに対し、浅子は次のように語る。
 「何でも初めから無理と思うたら、結果もそのようになります。無理でも目的を立てて、どないしたら完遂かんすいでけるか、焦点をしぼっていくことが大切どす」
 そして、内外の関係者との粘り強い対話を通して、浅子は合併を実現し、会社の業績も飛躍的に上昇する──。
 どちらかといえば、男性の場合は、まず頭で考え、それで無理だと思えば、行動する前にあきらめてしまう。それに対し女性は、一度、思い込んだら、どんな厳しい状況下でも、まず実践、あれこれ考えるより先に、動き出してしまう傾向性があるようだ。しかし、こうした現実性、行動性にこそ、女性の強みがあるといえるのではないか。
 むろん、何でも盲目的に行動すればよいということではない。目的の達成のためには、冷静に状況を分析し、最も効果的な方法で、実践・行動していくことも必要である。だが、理論・理屈ばかりで、勇気ある″現実の一歩″がなければ、何の進展もなしえないものだ。
19  戸田先生は、よく言われていた──男は、見えを張る傾向が強い。だから、概して憶病になる、と。それに対し、ひたむきに行動する女性は、強い。学会においても、″婦人部こそ一切の推進力の中心である″との声もあるが、それも女性の優れた現実性、行動性によるものであろう。そして、″行動″は無量の″知恵″を生み出していく。
 全国の相談室でも、女性の相談員の方が評判がいいらしい。男性は、雄弁だが、婦人は、じっくりと悩みに耳を傾け、親身になってくれるというのである。
 こうしてみると、男性にはが悪いことばかりで、同情を禁じえないが、ともあれ、壮年・男子部の方々は、広布のために、ひたむきな実践に励まれている女性を凛々りりしく守り、包みゆく、勇気ある″ナイト(騎士)″の一人一人であっていただきたい。
20  幕末、明治、大正期といえば、ほぼ完全な男性優位の社会であった。そのなかで、男性として活躍した浅子のような女性は、まことにまれな存在といってよい。おのずと、現在では考えられないような多くの困難な問題にも突き当たったが、そのなかで彼女は″女性の自立″について、確固とした信念を形成していった。
 浅子が、炭鉱経営に乗り出したころである。炭坑夫たちのもとに単身、乗り込み、自ら現場での仕事の指揮に当たった。女性への偏見も強い、当時の荒くれ男らと働くことには、当然、危険もあった。彼女はつねに、ふところにピストルを忍ばせていた。
 同じころ、東京の鹿鳴館ろくめいかんでは、毎夜、ダンスパーティーが開かれ、華やかに着飾った女性たちが舞踏に明け暮れていた。それを伝え聞いた浅子は、強く違和感をいだく。
 「生活はすべて男性に頼り、贅沢ぜいたくな衣装や宝石で身を飾り、深夜まで踊り狂う。それが新しい女性の生き方なのだろうか。勉学をし、しっかりと働き、世の趨勢すうせいを見極めていく。それが真の女性の自立というものではないだろうか」
 こうした信念からであろう、後年、浅子は、日本で初の女子高等教育機関である「日本女子大学校」(日本女子大学の前身)の創立に尽力・奔走する。さらに、晩年まで、女性の地位・意識の向上のために手づくりの女子教育に取り組み、若き乙女らに″女性の自立″への思いを語っていった。故・市川房枝さんも、彼女の直接の薫陶を受け、決定的な影響を受けた一人である。
 浅子は、七十一歳で亡くなる。死が迫ったある日、彼女は、こう語っている。
 「うちは、どんな困難に出遭おうとも、いつもこれからが本番や思うてやってきました。生涯が青春のような気でいこうと思うています」と。
 浅子は、最後の最後まで、「これからが本番」「生涯が青春」の気概で、向上・努力の生き方を貫いた。どんな事業、功績より、ここに私は、彼女の偉大さをみる思いがする。
21  自分らしく使命に生きよ
 アメリカの詩人・ホイットマンに「自分というものがある。あるがままで十分だ」との、私の好きな言葉がある。
 むろん、次元は異なるが、「無作むさ」について説かれた御義口伝の「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり」の御金言にも通ずる、深い意味を有した言葉であるように思う。
 人間にとって、最高の生き方とは何か。それは、あくまで自分らしく、自己の本分に生き抜くことではないか。たとえ、地位や名誉がなくとも、真に自分らしく生きることができれば、そこに確かな幸福と満足があるにちがいない。ゆえに、どこまでも、自己自身に生きゆくことだ。
 私も、これまで精いっぱいに、自分自身に生き切ってきたつもりである。私の本分、目的とは、仏子である皆さま方を守りに守っていく──それ以外にない。ここに、我が心を定め、何があっても変わることなく一貫してきたがゆえに、私には、何の悔いもなければ、恐れもない。
 明年も、これまで以上に、広布のために走り、語り、行動していく決意である。どうか皆さま方も、また一緒に一層のご活躍をお願いしたい。そして、どうかよいお年をお迎えくださいと心より申し上げ、本日のスピーチとさせていただく。

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