Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第10回全国青年部幹部会 一歩また一歩新しき世紀へ

1988.12.10 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

前後
1  現実の行動こそ大切
 本年の掉尾とうびを飾る青年部幹部会、本当におめでとう。
 当初、ここでは、ソクラテスの哲学と仏教について、少々、論じたいと思っていた。が、「年末はそうしたテーマの話は、頭に入らない」、また「難しい話は、一年の終りを飾るのにふさわしくない」といった声もあり、それは、別の機会としたい。そこできょうは、私が日ごろ考えていること、また、ぜひ、諸君に語り残しておきたいことを、思いつくままに、懇談的に、お話しさせていただきたい。
2  先ほどは、音楽隊、鼓笛隊の代表の皆さんが、素晴らしい演奏を聴かせてくたざった。その真心に、心から、感謝申し上げたい。演奏を聴きながら思った。どれだけの人が、音楽隊の凛々りりしき青年に感銘し、学会の世界へと心を開いていったか。また、何人の人が、鼓笛隊の清らかな姿に心を動かされ、入信を決意したことか。それは、数限りないであろう、と。また、これは多くの心ある人々の一つの結論でもある。
 理論や理屈によるというよりも、ほとんどの方は、身近な学会員の姿を見、真心に触れて入信してくる。
 「学会の人は、話し方がすがすがしい。思いやりが深い。誠実である」「学会には、素晴らしい音楽・文化がある」「学会の女子部は美しく、さわやかである。ぜひ息子と結婚させたい」、「職場でも、信心している人は、意欲的だし、どこかちがう」――こうした私たちの日常の姿、平凡な振る舞いに心ひかれ、人々は仏法に興味を持ち、関心を深めていくのである。
 反対に、人々の心を遠ざけ、時には離反させていったのも、心ない幹部の振る舞いや、不用意な言動であった。
 所詮、仏法の真髄しんずいの一つは、振る舞いである。また難信難解なんしんなんげの仏法を、いかに弘め、多くの人々に教えていくか。その意味でも現実の行動が大切である。とくに幹部の皆さま方は、さわやかで、誠実な振る舞い、姿勢であるよう、つねに心掛けていただきたい。
 リーダーの話を聞き、また人柄に触れて、「何か、ホッとした」「とても楽しく、疲れが吹き飛んだ」「話に納得性があり、仏法への理解が深まった」――そういった声が広がっていくようでなければ、今後の、さらに壮大なる広布の発展はありえない。
3  「新しき世紀をつくるものは、青年の熱と力である」――これこそ、戸田先生の永遠の叫びであったし、今も変わらぬ万国共通の法則である。
 新しき世紀――二十一世紀の幕開けは、近い。ゆえに、私には、諸君こそ最も大切な存在であり、諸君に、後事の一切を託し、お願いするしかないと思っている。
 この一年も、青年部の成長と活躍は、大変に目覚ましかった。心からご苦労さま、ありがとう、と申し上げる。とともに、広布の未来にとってまことに重要な節目となる来年、再来年も、秋谷会長を中心に、「青年部が全責任を担っての活躍を」と、強く訴えておきたい。
 草創期にあっても、一切を企画・推進し、先頭に立って苦境を開き、広布の原動力となったのは、私ども青年部であった。このほまれの伝統を、確かに諸君は引き継いでもらいたい。そして雨が降っても、雪が降っても、嵐となっても、着実に一歩一歩、進んでいくことだ。どんなに小さな歩みであっても、つねに前進を忘れなければ、やがて輝かしい進展が未来に待っているからだ。
4  「別当御房御返事」に次の一節がある。
 「大名を計るものは小耻にはぢずと申して、南無妙法蓮華経の七字を日本国にひろめ震旦高麗までも及ぶべきよしの大願をはらみて」云々。
 ――大いなる名声をはかるものは、小さな恥にとらわれないといって、私(日蓮大聖人)は、南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘め、震旦(中国)や高麗(韓国)にまでも及ぶようにとの大願を抱いている――。
 この御文の詳しい背景等は略させていただくが、いうまでもなく、御本仏・日蓮大聖人は、一閻浮提いちえんぶだいの広宣流布、一切衆生の救済という壮大なる大願に立っておられた。この御文は、その比類なき壮図そうとを抱かれた大聖人の大境界を表されていると拝される。
 戸田先生も、この御文を拝読し、大聖人の広大にして悠々ゆうゆうたる御境界を、しみじみとしのばれていたものである。
 私どもの使命は、大聖人の御遺命のままに、全世界に妙法を弘め、全民衆を救済していくことである。その偉大な事業に、困難や苦境が伴うのは、むしろ当然のことである。思わぬことから、迷惑をこうむる場合もある。
 所詮、社会は闘争であり、それも一面、やむをえないことであろう。もとより、小事をないがしろにしてよいということではない。しかし、少々のことで、いちいち心が動揺し、足をとられるようでは、あまりにもおろかである。一切を悠々と見下ろしながら、朗らかに、堂々と「大願」へと進んでいけばよい。このことを、重ねて申し上げておきたい。
5  真心、誠実、謙虚に人格の輝き
 さて私は先日(十二月五日)、中国・復旦ふくたん大学の蘇歩青そふせい名誉学長と会談した。きょうは、一つの″人間学″として、この蘇名誉学長のことについて、お話ししておきたい。
 一切法はすなわれ仏法であり、総じて、人間として立派に生きている人の姿は、そのまま仏法の一分に通じている。ゆえに妙法をたもった私どもの信心即生活のうえからも、学ぶべき多くの点がある。いな、信仰しているからこそ、どこまでも謙虚けんきょに、また真摯しんしな態度で、一切に学んでいくべきである。
 人間完成のための信心である。向上し、成長し続ける人間、人格──そのなかにこそ、仏法の生命は脈動している。
 反対に、最高の大法をたもったからといって、もはや何も学ぶべきことがないかのように慢心し、独善的になったのでは、仏法の精神に反する。厳しくいえば、「法」を利用して、われ尊しと粉飾ふんしょくする虚栄の人生であり、見せかけの信仰でしかない。
 かつての悪侶や退転者らも、常々、まことに視野の狭い独善的態度であった。ゆえに、社会の心ある人々からは、まったく相手にされない。
6  蘇名誉学長も、いつお会いしても変わらない謙虚な人格である。
 先日の会談の折も、みずからの信条を、ずばり「生涯勉学」であると言われていた。「一生涯すべてに学びたい」と、率直に心境を述べておられた。
 名誉学長は、今年八十六歳。また中国の数学界の最高権威でもある。その蘇氏にしてなお、この謙虚さである。
 つねに言うことだが、世界の一流の人はみな謙虚である。また信念があり、確かな人生観・世界観にのっとって行動している。信義を裏切らない。語り合った後まで、さわやかな余韻よいんが残る。諸君も、そういう人になってもらいたい。それが私の願いである。中途半端は、何をしても中途半端でしかない。
 蘇氏は仏法についても真摯に探究心を向けておられた。私も、問われるままに、ていねいに話をしたつもりである。氏は、一つ一つ、うなずかれて、「勉強になります。哲学について、もっと勉強したい」と語られていた。その姿に私は感銘した。
 学会についても、民衆自身のなかから生まれ、盛り上がってきた歴史を高く評価されていた。権威で民衆を見くだすのみの宗教は、もはや過去の遺物であると考えておられた。
7  私も、氏に、いろいろと話をうかがった。「生涯勉学」、これは私自身の信念でもある。
 『心に残る人びと』の中でも紹介したが、一九八〇年(昭和五十五年)、蘇名誉学長(当時、学長)と上海でお会いしたさい、氏の専門である数学に関して何点か質問した。そのなかで、″数学の学び方″について、こう語っておられた。
 「私は数学を五十年間教えてきました。その経験から言えることは、勉強するには一歩一歩、歩んでいくことです。いつまでも歩き続け、自分の最高の目標に達するには、とうていできないと思うこともあるが、そこを我慢して、ある程度いくと開けていく。私は、これが悟るということに通じることではないかと思う」と。
 地味なようで、含蓄がんちくの深い言葉である。信心の境涯を開くのも、″一歩″また″一歩″の努力である。止まってはならない。行き詰まったら題目をあげ、行動して開いていく。その、たゆまぬ繰り返しによって、初めて宇宙大の境涯へと一歩一歩近づいていくことができる。
 また、復旦大学のモットーについて、尋ねたときには、「とくにはないが『実事求是じつじきゅうぜ』ということでしょうか」と述べられた。″事実に即して真実を探究する″という精神であり、堅実な手がたい真理追究の在り方である。『漢書』に見える言葉のようだ。
 私どもも、どこまでも、この精神で進みたい。いわんや事実に即していない言論等に紛動されることほど、つまらないことはない。
 また、もう一つ「正直に一歩一歩と教育をするということです。着実にやること──これしかありません」と語っておられた。万般に通じる道理であろう。
 ちなみに、復旦大学の「旦」とは太陽が昇る意であり、朝のことである。「復旦」には、「復」すなわち「もう一度」太陽を昇らせ、夜明けの光をもたらそうという意義があるともいえる。
8  蘇名誉学長は、数学の微分幾何学の領域で多くの業績をあげられている。また半世紀にわたり大学教育の任にあたり、後進の育成に力を尽くしてこられた。さらに中国数学院、中国科学院数学研究所等の設立にも尽力されている。
 そして今春には、政治協商会議の副主席に選ばれ、国家の指導者の一人として活躍しておられる。
9  心には心、信義には信義を
 この蘇氏と初めてお会いしたのは、ちょうど十年前の一九七八年(昭和五十三年)、第四次訪中の折である。
 二度目は一九八〇年(昭和五十五年)、第五次訪中のさい。上海・錦江飯店きんこうはんてんの私どもの宿舎に、わざわざ足を運んでくださった。
 三度目は一九八四年(昭和五十九年)六月、第六次訪中の折、私が復旦大学名誉教授の称号を頂戴した時であった。
 四度目は同年十一月である。創価大学を訪問してくださった名誉学長に、つつしんで創大の名誉博士の学位記を贈らせていただいた。
 今回は五回目の会談である。私は氏とは何度もお会いしたいし、先日の会談でも明後年(一九九〇年)、氏の米寿(八十八歳)の年に、ふたたび創大に来ていただきたいとお願いした。
 また昨年六月には「平和の大河」と題して、一詩を贈った。先日、その詩を収めた私の詩集(『友誼抄』)に対して真心こもる返詩を贈ってくださったことは、ご存じの方も多いと思う(「聖教新聞」十二月六日付一面に掲載)。
 心には心で、信義には信義でこたえる。この″心が通じる″ということほど、うれしいことはないし、私がお会いした「人物」に共通する美質でもある。
10  日中の歴史に薫る蘇夫妻の人生行路
 ところで、ある中国の友人が語っていたが、中国では周恩来元総理夫妻を「模範夫婦」、蘇歩青ふせい夫妻を「理想夫婦」と呼んでいるという。
 周恩来夫人の鄧穎超とうえいちょう女史とは、長いお付き合いである。妻ともども親しく接していただいている。日本の迎賓館げいひんかんでお会いした折にも(一九七九年)、時間が許せば、ぜひ私ども夫婦の自宅に訪問したいとさえ言われていた。
 余談になるが、この周夫妻のことで忘れられないエピソードがある。周総理が亡くなられた時、女史が追悼ついとうの心を込めて、「周恩来戦友」としたため、ひつぎの側に置かれたという話である。
 「戦友」──この二字には、女史の万感の思いが込められていよう。ご夫妻の関係を何にもまして端的に象徴していると思う。大目的に向かって、ともに戦い、手をたずさえて進みゆく戦友、同志──仏法が示す夫婦の在り方の真髄の一つもそこにある。
 青年部のなかにも、結婚している人も多い。また、これから家庭を持つ人もいる。一度しかない人生である。充実した、素晴らしい一生であり家庭であっていただきたい。そのためにも、私は新しい理想の夫婦像を諸君が実現してほしいと願う。目的観もない、感情のままに左右される結婚であり、夫婦であっては、結局、自分が不幸のかげりをおびてしまう。きょう、私が蘇名誉学長夫妻のことをお話しするのも、諸君に何らかの参考にしていただきたいからである。
11  蘇氏の夫人は、じつは日本人である。日本名は松本米子さん。中華人民共和国成立後の一九五三年(昭和二十八年)、中国国籍を最初に得た日本人として有名である。日中友好の宝のごとき存在であられた。二年前、一九八六年(昭和六十一年)五月、八十一歳で亡くなられ、今年は三回忌に当たっている。
 蘇氏は雑誌「人民中国」(本年四月号)に、「妻 米子をしのぶ」との感動的な一文を寄せられているが、お二人の波乱万丈の人生行路は、まさにドラマそのものである。やがて劇などで上演される計画があるともうかがっている。
 お二人が結婚したのは一九二九年(昭和四年)の桜花の季節。蘇氏は東北帝国大学に留学中で二十六歳、米子さんは二十三歳の春であった。
 当時、日本は軍部の勢力が次第に台頭しはじめ、日中戦争への危機がきざしていた。そうしたなか、米子さんの父親(東北帝国大学教授)をはじめ反対も多かったようだ。ある意味で無理もないといえる。その困難さは、現在からは想像しにくいかもしれない。中国人を不当に侮蔑ぶべつする傲慢ごうまんもはびこっていた。現今の″経済大国意識″にも共通する日本人のみにく悪癖あくへきである。
 しかし米子さんの母親の温かい理解によって、二人は、ようやく結ばれる。
 それからも蘇氏は地道に学業に取り組んだ。いつも抜群の成績であった。そして理学博士の学位を取得し、やがて大学の講師も務めるにいたる。当時、外国人の講師は異例であり、新聞にも報道されたようだ。こうして夫人の協力のもと、氏は見事に周囲の尊敬と信頼を勝ち取っていった。事実にまさる雄弁はない。
12  蘇氏は米子夫人と子供を連れて中国に帰国した。
 一九三一年九月、柳条湖りゅうじょうこで日本軍が軍事行動を起こす。いわゆる満州事変の幕開けである。以来、十五年間の日中戦争が続く。
 ただでさえ、慣れない異国の地での生活は、若い米子さんにとって大変な苦労であった。生活の条件も、日本よりも厳しかった。そうしたなか、蘇氏は米子さんを陰に陽に守り励ます。米子さんが食べられない中国の料理があると、味つけを工夫して食べられるようにしたこともあったという。
 かつて戸田先生を囲む勉強会の折、″女性解放″をテーマにして、イプセンの『人形の家』を教材に選んだ。その席で、先生が「男は強いばかりが能じゃない。横暴になるのではなく、たまには、こういう本も読みたまえ」と言われていたことが懐かしい。
 男性は誠実に女性を守り、支える紳士であってほしい。青年部にあっては、男子部の諸君は、女子部、婦人部の方々を尊敬し、陰ひなたなく助け、大切にする真心の人であっていただきたい。口先だけの人、また格好だけの人は信用できない。現実の一つ一つのことに、こまやかに心をくだき、祈り、行動する──それが真の信仰者の姿である。
13  蘇名誉学長夫妻は、八人(六男二女)の子供に恵まれた。そして突入した日中戦争。生活も苦しさを増してきた。夫の名誉学長のほうは、授業や研究で忙しく、子供や家のことをかえりみる余裕がなくなっていった。そのなかで夫人の米子さんは、八人の子供さんたちの教育はもとより家事一切を一人で切り回してきた。夫の友人や学生たちが家に訪れてきたときも、いやな顔ひとつせず、温かな心でもてなしていった。
 苦しい戦争の間、夫の仕事を支え子供たちに尽くしてきた米子さん。蘇名誉学長の主な研究は、じつに、この苦労の時期に完成しているし、多くの優れた学生たちも育てている。今は各大学の教授や研究所長らとして大成している学生たちは、名誉学長の家を訪れたときの米子さんの温かな心を、だれ一人忘れてはいないという。
14  米子さんは少女時代から、琴をくのが一番好きだった。結婚し、中国に行くときも琴を持っていった。だが、戦争の苦しい生活のなかでは、琴にふれる余裕さえなかった。
 現在も、その琴は名誉学長の部屋に置かれており、弦を爪弾つまびくとき、古曲の美しき調べを奏でる夫人・米子さんの姿が、目の前に浮かんでくると蘇氏はしるしている。
 中国の古典『詩経』には、夫婦の愛情の深さを、琴としつ(中国古代の弦楽器)の音にたとえた次のような詩句がある。
 「琴瑟きんしつぎょり、静好せいこうならざるはし」と。
 「ぎょ」とは、そば、かたわら、ということ。つまり、私の側にある琴と瑟も、静かで美しい音色を奏でる。夫婦の愛情も、この琴瑟の音が相和して響くように美しい、との意味である。
 蘇名誉学長夫妻も、まさに琴瑟の音のような夫婦愛に相和しておられたにちがいない。
 私も結婚のとき妻が琴を持ってきた。当時、これほど多忙な生活になるとは思ってもいなかったし、秋は月を仰ぎ、春は花をめでながら妻が琴を弾き、私が尺八か横笛でもふき、また詩歌をみ、人生の春秋の歴史をつづりたかった。
 ところが、場面はガラリと変わり、広布の法戦の嵐の中に入ってしまった。怒涛どとうの前進の渦中に身を投じてしまった。それが私ども夫婦の宿命的ともいえる人生であった。
15  さて、米子さんが中国に行って十四年目の一九四五年(昭和二十年)、戦争は終結し、四年後には新中国が誕生する。
 その後、夫の蘇名誉学長も復旦大学に転勤し生活にもゆとりができた。しかし、あるとき、いい服でもつくったらという話に、米子さんは「子供は多いし、使命もまだ果たしていない」といって、変わらず質素な生活を続けた。心が定まっているというか、無意味な見えを追う人ではなかった。
 私も訪中の折、名誉学長とともに米子夫人にお会いする予定があったが、体をこわされて、お会いできなかったことを残念に思っている。
 子供さんたちも成長され、余裕ができてくると、米子さんは、家族委員会のメンバーとして家庭内の問題の調停にも当たるなど、社会活動に参加する。どのような人にも真心と誠実で接し、喜んで中国の人々のために尽くしていった。
 その人柄は、多くの人に尊敬され、あの文革の嵐は蘇名誉学長にもおそいかかったが、米子さんを批判する「大字報」は一枚もなかったという。
 蘇名誉学長は″言動には気をつけよう。自分も普通の労働者である。いばってはいけない″と、つねに自分自身に言いきかせてきたという。
 これも、同僚や学生と話をするとき、大声で語るのを、しばしば米子さんに注意されていたことがきっかけになっていたようだ。
 蘇名誉学長の自戒の言葉にもあるように、青年部の諸君にとくに申し上げておきたいことは、どんなに高い立場になっても権威的になったり、いばるような傲慢ごうまんな人間になってはならない、ということである。
 つねに、謙虚で誠実にして真心の言動の人はやはり光っている。
 学会本部のある副会長は、新入の職員であっても、必ず「さん」づけで呼んでいる。それは、相手の人を大切にしている心の表れであり、その副会長はその人柄のよさによって、後輩の人たちからも尊敬され、人も集まってくる。
 ずいぶん前のことになるが、ある幹部が、自分の側にいる人を、傲慢な態度で呼び捨てにしていた。それを聞いていた故・小泉前参議会議長が、「そんなに、いばって呼び捨てにするのはやめなさい。君だって、自分の力だけで、今の立場になれたわけではないではないか。彼だって立派な青年部員だ。君づけぐらいしたらどうだ」とたしなめたことがあった。
 地位とか立場は、仮のものであり、着替えのきく洋服のようなものである。必ずしもその人の人間的偉さを示すものではない。それを、さも自分が偉くなったように錯覚して、人を見くだしたり、軽べつするようなことは本末転倒である。
 私も数多くの幹部をみてきたが、権威的で、傲慢な心にとらわれた瞬間から、その人の成長は止まっている。そして、結局は、最も人間的な世界である信心の世界に居られなくなり、反逆するか退転して去ってしまっている。
16  米子さんは、平凡な一主婦であったかもしれない。しかし、自分の役割、使命に徹して生き抜いた人であった。夫や家族、そして地域の人たちへの、女性らしいこまやかな目と心をもって、″最も人間らしい生き方″を貫いた生涯だった、ともいえよう。
 私には、そこに、たとえ平凡であっても人間らしく生き抜く、信仰者としての生き方に通じるものが感じられてならないのである。
 名誉学長夫妻の八人の子供さんたちは、全員が立派に成長され、それぞれの分野で活躍されている。年齢順から長女は化学鉱山大学の英語教師、長男は二年前に故人となられたが海運学院の教師、次男は復旦大学の教授(生物学)、三男は上海交通大学の助教授、四男は復旦大学の教授(外国語学科日本研究室)、五男は上海材料科学研究所に勤務、次女は浙江省定海県の副県長、六男は上海無線技師である。
 米子夫人は、二年前、八十一歳で生涯を終えられたが、その遺骨は分骨され、故郷の仙台と、蘇州・香山公墓(国営墓地)に納められている。香山公墓は、太湖たいこを見下ろせる小高い山の頂上近くにあり、墓石の側には二本の桜の木が植えられているという。
17  広布大願へ″魂の同志″の絆を
 蘇氏は金婚式の日に、数十年にわたって支えてくれた米子さんへの感謝を込めて一詩を贈っている。
  桜花時節愛情深  桜花の時節に愛情は深し
  万里迢迢共度臨  はるか万里を共にわたりて臨む
  不管紅顔添白髪  紅顔(妻の顔)に白髪の添えるもかまわ
  金婚佳日貴於金  金婚の佳日は金よりも貴し
 さらに氏は、亡き妻をしのぶ一文を次の言葉で結んでいる。
 「私は今、『心に生きている』ということばを深くかみしめている。(中略)数十年も助け合って生きてきた妻は忘れられない。夜になると、きまって私とことばを交わす米子の姿を夢想する。(中略)米子一人の写真は肌身はなさずもっている。私と一緒に、構内を散歩し、教壇で授業をし、人民大会堂での会議に出席する……」
 大いなる目的のために、苦楽を共にしてきた夫妻。人生の万里の道を乗り越え、深く、美しく、強い絆で結ばれてきた夫妻。その歴史こそ、まさしく黄金の輝きを放っていく──。
 ともあれ、ともに大目的のうえに立った夫妻の姿には、美しい光彩がある。使命に生き抜くその姿こそは、いわば永遠にわたって結ばれた、「魂の同志」とも呼ぶことができよう。
18  牧口初代会長のクマ夫人が亡くなられたのは昭和三十一年九月十八日、本年で三十三回忌を迎えた。その学会葬には約三千人が参列したが、戸田先生は、夫人に語りかけるように、弔辞ちょうじで次のように述べられた。私も側でうかがっていた。
 ──かえりみますれば、昭和十九年に先生がなくなりましたときの、あのときのようすを、私が牢から帰ってうけたまわりまして、じつに人生の、人の心のたのみがたいことを泣きました。
 願わくは、私の力のかぎり、またあなたの命のある時代において、先生の真心を、人生にたいする慈愛を、この世に残したいと念願いたしました。そのときの先生の葬式は、わずか六人か、七人の見送りですんだと聞いておりますが、本日、あなたを見送りする創価学会は、すくなくとも私の人生をかけたひとつの記録であります。(中略)
 もし(牧口先生に)お目にかかるときがありましたならば、城聖、心のかぎり、先生のあとを継いで闘争していると申しあげていただきたいと思います──と。
 私は、戸田先生のこの言葉を決して忘れることができない。
 この広布への決意で結ばれた絆こそ、「創価家族」であり、「同志」であり、「戦友」の姿である。人生の「師弟」の強い絆でもある。私も今日までこの決意のままに戦ってきた。それは、戸田先生の心情が私の胸に流れ続けているからである。
19  真の「喜びの人生」のための信心
 諸君は若く、人生は長い。長い人生には、さまざまな苦しみや喜び、悲しみや悩みがあるのは当然である。ましてや広布の「大願」に生きゆかんとする諸君には、人に倍する苦難や苦悩があるにちがいない。
 しかし、「煩悩即菩提」の信心である。悩み、苦しみを人生の大いなる飛躍台としながら、何があっても生き抜いていかなければならない。そして、一歩一歩、前へ進んでいっていただきたい。目先の困難に負け、後退するような卑怯者ひきょうもの、敗北者にだけはなってはならない。
 現実はつねに厳しい。ある場合は、両親の面倒をみなければならない。また妻子をかかえて社会の荒波を生きていかねばならない場合もあろう。それは、きれいごとを言ってすむようなものではない。″きょうを、あすを、どうするのか″というような熾烈しれつな日々を勝ち抜いていかねばならないのが現実だ。
 そのためにも若き諸君は、何かに浮かれ、夢ばかりを追い、あわ安逸あんいつと享楽に酔っているような人生を歩んではならない。人々があるいは遊んでいるときにも、妙法という確かなる法則のうえに立ち、三世にわたる幸福の土台を営々と築いていっていただきたい。そのための「きょう」であり、「あす」であることを、強く申し上げておきたい。
20  思えば、順調な時はよかったが、ひとたび私の会長辞任の気配を見てとるや、さまざまな動きが始まった。人の心は恐ろしいものである。私も多くの人にだまされ、おとしいれられ、うそをつかれ、苦しめられた。また、私が体をこわしたと聞けば、恩をあだでかえすように、みずからの悪業をたなにあげ、誹謗ひぼう・中傷の限りを尽くした者もでた。
 人の心は、時とともに激しく変化するものだ。このことは御書に仰せであり、戸田先生からもよく言われたが、これほどまでにすさまじいものか、とよく実感できた。
 ともかく、″仏法は勝負″である。私はそうした障害と戦い、すべてに勝利してきた。諸君もまた、信心のうえで絶対に負けてはならない。ひとたび負ければ、それは人生の敗北のみならず、″永遠の敗北″に通じてしまう。永遠の勝利者となりゆくためにも、この信心において断じて負けてはならない。
21  法華経に、随喜功徳品第十八がある。題号の「随喜」とは「随順慶喜ずいじゅんきょうき」の義で、仏法に信順して歓喜することをいう。何度も拝し、私の大好きな一節であるが、この「随喜」について大聖人は「御義口伝」で次のように仰せである。
 「所詮しょせん寿量品の内証に随順ずいじゅんするを随とは云うなり、しかるに自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり所詮しょせん今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時必ず無作三身の仏に成るを喜とは云うなり
 ──結局は、寿量品第十六の内証である三大秘法の南無妙法蓮華経に随順することを「随喜」の「随」というのである。自他ともに智と慈悲があることを「喜」というのである。所は、いま末法において、日蓮大聖人及びその門下が、南無妙法蓮華経と唱え奉るとき、必ず即身成仏して無作三身の仏になることを「喜」というのである──と。
 人生や生活にはさまざまな喜びがあろう。ラーメンを食べて「ああ、おいしい」と思うのも喜びだし、また恋人とのデートがこのうえない喜びの瞬間だと感じる人もいよう。さらに、職場の役職が上がった、立派な家を建てた等々、それなりの喜びがある。
 しかし、こうした喜びがいかにはかなく、長続きのしないものであるかは皆さまもよくご存じの通りである。また財産や地位、名誉などは、突き詰めれば、自分の外面を飾る″衣服″や″装飾品″にすぎない。結論として、信心に励み、仏の境界を得ることこそ、崩れざる真実の喜びである。そしてその仏の境界に立脚してこそ、甚深の「智」がわき、限りない「慈悲」の心を持っていくことができる。そこに人生の「歓喜」がある。
 さらに大聖人は「然る間随とは法に約し喜とは人に約するなり、人とは五百塵点の古仏たる釈尊法とは寿量品の南無妙法蓮華経なり、是に随い喜ぶを随喜とは云うなり惣じて随とは信の異名なり云云、唯信心の事を随と云うなり」と仰せである。──それ故、「随」とは「法」に約し、「喜」とは「人」に約すのである。「人」とは五百塵点劫の当初の古仏である久遠元初の自受用報身じじゅゆうほうしん如来であり、「法」とは寿量文底独一本門どくいちほんもんの南無妙法蓮華経である。これに随い喜ぶのを「随喜」とはいうのである。総じて「随」とは「信」の異名である。ただ信心のことを「随」というのである──と。ここでは随喜を人法の本尊に約され、結論として、信心こそが肝要であることを示されている。つまり御本尊への強盛な「信心」によってのみ、真の「歓喜」と「幸福」の人生を得ることができると仰せなのである。
22  断じて不屈の学会精神で
 最後に、広布の未来の一切を担い立つ青年部諸君に、リーダーの在り方について日ごろ感じていることを少々、申し上げておきたい。その一つは「わが先輩や後輩や同志をほめたたえることのでない人は不幸である」。またその人は「小さな境涯の人である」といえまいか。
 ほめるときには心から人をほめ、励ましが必要な場合は真心をもって友を励ますことができる人であっていただきたい。先ほども申し上げたように、ただいばり偉ぶって周囲の人に窮屈な思いをさせていくのは間違いである。
 御書を拝すれば、大聖人が純真に信心を貫いている門下をどこまでもたたえられ、一人一人を大切にされていることがよく拝察される。
 人々に勇気と希望を与えゆくことができない人は、真の指導者とはいえない。また、真の仏法者とはいえない。自らが率先して人を励まし、そして自らがすべてを乗り越えながら成長している人のもとでこそ、多くの人々が安心し、同じように成長していくものである。
 ただし、「称賛」と「お世辞」は違う。また「励まし」と「おべんちゃら」は違う。この点はよくわきまえていくべきであろう。
 ともあれ、権威や役職の上に乗って、口先だけの言葉で泳いでいこうとする人は″本物″のリーダーではない。また、そういう人は必ずといってよいほど後輩の成長にやきもちを焼く。傲慢ごうまんな心はじつに浅はかであり、自分自身も、後輩をもダメにしてしまう。反対に、本当に偉大な人は、後輩の成長を何よりも喜ぶものである。
 諸君は、こうした心の善悪に対する鋭い批判力をもっていただきたい。そして偽善(ぎぜん)の奥にある傲慢と無知の本質を見破りながら、堂々と信念の道を進みゆく「賢明」と「勇気」を兼備したリーダーであっていただきたい。
23  また、二十一世紀の広宣流布の勝利のために、存分に身体を鍛え、学び抜いていただきたい。私も青年時代は病弱であったが、戸田先生のもとで鍛えに鍛えた。おかげで現在も日々、青年の気概で、法のため、人のために戦い抜くことができるようになった。
 疲れたときは早めに休み、熟睡を心がけることである。夜ふかしによって、翌朝をはつらつとスタートできないのではなんにもならないし、リーダーとして失格である。
 どうか、信心を根本とした正しい生活のリズムにのっとり、社会での勝利を一つ、また一つと積み重ねていっていただきたい。それが素晴らしい人生の勝利の栄冠を飾ることにつながるのである。
 現実社会には、思わぬところに悪事や陰謀いんぼうが隠されているものである。諸君は悪い者にだまされ、権威や権力に屈服して策略さくりゃくのワナにはめられるようであっては決してならない。
 青年は、物事の本質を見破り、「悪」と対決して「善」を守り抜いていく「正義の心」を失ってはならない。リーダーに勇気がなくおろかであっては、後に続く大勢の人々がかわいそうであり、不幸である。またそういう人は結局、だれからも頼られず、″心の敗北者″″人生の敗北者″となっていかざるをえない。
 ともあれ、青年に勝るものはない。また、民衆に勝るものもない。そして、正法と信心に勝るものは絶対にないのである。どうか、いかなる時もこの確信を忘れないでいただきたい。
 これまでも学会は幾多の険難けんなんの尾根を乗り越えてきた。誰もが「敗れた」と思うような嵐にも、私は絶対に負けなかった。信心で勝ち抜いてきた。どうか、青年部の諸君は、″信心の英雄″となって、立ち上がり、走り、また立ち上がり、歩み、そしてまた立ち上がり、前進していただきたい。
 これが大聖人門下の誉れであり、不屈の学会精神がここにあると申し上げ、お一人お一人の偉大なる「勝利」と「前進」と「成長」を心から祈り念じて、私のスピーチを結ばせていただく。

1
1