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日蓮大聖人・池田大作

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第11回本部幹部会 ″信心の丈夫″の道を一筋に

1988.11.30 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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1  ″地道″″真剣″の人に栄冠
 本日ご参集の皆さま方に″寒いところ、また遠いところ本当にご苦労さまです″と申し上げたい。
 本日は、12・2「文芸部の日」を記念する勤行会も開催され、この会合にも多くの文芸部の代表の方々が参加されているとうかがっている。文芸部の皆さまは、日ごろ各地のセミナーや講演を担当してくださり、私のもとにも″大変に感動した″等々の共感の声や手紙が数多く寄せられている。この席をお借りして、文芸部の皆さまに心より御礼申し上げる次第である。また、そのほか芸術部、ドクター部などの方々にも各種会合などで多いに活躍していただいている。なかでも芸術部のセミナーはとりわけ反響が大きいようで、″副会長が十人ぐらい来るよりも人気がある″との声もある。友人の方々も喜んで、帰りには入信を決意されるというケースも多いと聞く。
 また学術部の講演も、じつに鋭く深い洞察に基づいた、素晴らしい内容のものが多い。時には″むずかしくて、よく理解できなかった″という場合もあるようだが――。ともあれ、広布と社会の″光″である文化本部各部の皆さまのご努力に、私は最大の敬意と感謝を表したい。
2  戸田先生が第二代会長に就任された昭和二十六年五月――。当時二十三歳の私は、蒲田支部の大森地区委員の任命を受けた。現在でいえば地区部長の立場にあたる。
 私も、本日参加の皆さま方と同じように、地区、支部の第一線の役職を務めてきた。戸田先生は、将来のために私を決して甘やかさず、すぐには高い役職に任命されなかった。同僚の役職がどんどん上がっても、私はいつも地味な部署で戦っていた。
 当時、戸田先生の事業は危機に陥っており、大変な額の負債もあった。私はその先生の事業を支えに支えながら、一方で懸命に時間を生み出して弘法に走った。当時、私は日記に次のように記している。
 「先生、必ず吾が地区も前進させます」「吾が大森地区が心配でならぬ。地区が完璧になるよう、御本尊に祈る」「吾が地区も頑張らねばならぬ。……自分が頑張ることだ。自分が責任を持つことだ」と。
 私には″戸田先生の構想をなんとしても実現したい″との一念しかなかった。たとえどんなに小さな組織であっても、自分の担当した地域に全魂を注ぎ、広布の城を完璧に構築していくことだ。千里の道も一歩からである。現実の自分の足元から広布は進むのだ――こう決意して私は戦った。
 「地道」であっても、強い「責任感」をもって「必死」の取り組みができる人は、どこへいっても勝利の道を開くことができる。反対にそれができない人は、何をやっても中途半端になる。私は広布のために、どんなに地味で小さなことでも全力でやりきり、勝ち抜いてきたつもりである。「信心」の精髄、また「師弟」の強い絆といっても、こうした地道な努力と戦いなくして絶対にありえないからである。
 この精神は、その後の文京支部、男子第一部隊の時代においても、また関西や山口の法戦においても、まったく同じであった。どこにあっても私は命懸(が)けで戦いきった。その歩みにいささかの悔いもない。
 どこまでも広宣流布のために、戸田先生と「師弟一体」の戦いであった。″ここで勝てば、戸田先生に安心していただけるだろう″″ここに手を打っておけば、学会員が守られるだろう″――。私はつねにそのことを考えながら、今日まで広布前進の先頭に立って勝利の指揮をとってきた。これからも全く変わらぬ覚悟で、皆さまとともに進んでいく所存である。
 そうした青春の日々、激務のなかにも私の胸にはつねに美しい詩歌があった。大森方面も、当時は緑も豊かに輝いており、打ち寄せる波も白く清らかであった。私は自然を友とし、太陽と語り、星と語りながら、人生と広布のロマンを大空に思い描いた。一切は生命に満ち、生命は希望と歌に満ちていた。
3  エドゥアルド・カランサといえば、コロンビアの有名な詩人である。彼はある機知に富んだ詩の中で「すべてがうつくしい」と、次のようにうたっている。
   すべてがうつくしい 野原の緑
   風はダイヤモンドの口笛を吹き
   風のなかにくっきりうかぶ枝
   椰子の木のうえの光。
 そして彼は次々と南の国の自然と人生の美しさをうたいあげていく。清らかな詩人の眼は、つねにいたるところに美の宝石を見いだす。詩人にとって、すべては汚れなき″生命の歌″である。さらにカランサは記す。
   生き そして死ぬこともうつくしい。
   太陽、月、無垢の万物、
   すべてがうつくしい、ぼくの心を除いて。
         (田村さと子訳、世界現代詩文庫(7)『ラテンアメリカ詩集』土曜美術社)
4  本来、生命は″調和″である。本来、生命は″躍動″である。本来、生命は″美″の名曲を奏でている。この生命本然の律動に耳をすまし、身をゆだねる時、生きることは喜びであり、あまりにも美しい。のみならず死することさえもまた、素晴らしき荘厳な美の光を放っていく。自然がうたう生命の歌にあっては、生も死も欠けてはならない妙なる音律なのである。
5  生も美しく死も美しい――コロンビアの詩人がうたった世界は、私どもの立場でいえば、妙法に包まれた信心の世界を志向しているといってよい。この生命の大法に、一生涯、最後の最後まで生き抜く時、初めて最大に満足にして最高に美しき「生」と「死」を我が人生に実現することができる。それは″生命の勝ちどきの歌″であり、大宇宙が賛嘆する″栄光の人生の詩″である。ゆえに私どもは、いつまでも若々しく、そして妙法とともに、三世永遠にわたる″美しき生死″の旅路を歩んでまいりたい。
6  先日、小泉前参議会議長が亡くなった。皆さま方のなかには、ご存じの方も多いと思うが、学会草創の大功労者であった。″どこまでも学会を死守し、悪人とは妥協なく戦い抜く″という、信心の丈夫であった。
 小説『人間革命』(第9巻)でも記しておいたが、戸田先生は、小泉前議長(当時、理事長)について次のように語っておられる。
 「まことに本人を前において悪いけれども、この信心をすれば頭がよくなって、馬鹿が利口になるという問題の見本が理事長であります。小学校の先生をしながら勉強がきらいで、酒呑みときては余り使いみちはない。また、あまり口は上手じゃない。はじめて会ったものは馬鹿ではなかろうかと首を傾けたくなります。
 私はいまでも覚えているが、彼は聟にいって追い出され、風呂敷包みなど持って時習学館にやってきた。その日が彼が御本尊を受持した日でありました。それがいまは、うらやましい家庭をつくられ、その円満なること、穏やかなること、われわれの手本とすべき家庭ができあがっております」
 不肖、私も創価学会の会長として、理事長の職につかせ、かつまた蒲田の大支部長としてその任に当たらせるのに、頭が悪くてやらせられるわけがありません。頭がよくなったんですよ」
 「皆さんも信心に純粋な態度を貫き、さすがに信心していればこそああなったのだという姿を示せば、その姿そのものが折伏になっており、そしてわれもわれもと信心するようになれば、広宣流布は自然にできあがる。いま、そのような時になりつつあるのです」
 そして「広宣流布の時は来ているのですから、御本尊様のお力は非常に大きい。それなら昔の御本尊には力がなく、いまの御本尊様に力があるとはおかしいというかもしれませんが、御本尊には変わりがなくても、受けるわれわれに変わりがあるのです。東の空から出る太陽も、昼の真上にくる太陽も、太陽には変わりありません。しかし法華経は午の刻と申し、昼をさしている。いま他の仏教は午の刻とは言われていません。
 いま真昼の太陽のような大御本尊様の直射を、われわれは受けている。その功徳を我が身につけるもつけないも、あなたがたの自由。しっかり信心して、たんまり功徳をいただきなさい。――これが私の教えることです」と。
 小泉理事長の姿を通されての戸田先生の話は、じつに分かりやすく、深い仏法の哲理をはらんだ信心の根本を述べられている。
7  過日、牧口門下生らが集い、後世のために正しき広布の歴史と真実を語り合った。その座談会の折、小泉前議長が、最後にひとこと、こう語っている。
 「一人でも不幸な人を救っていこうというのが、学会の変わらない精神なんだ。牧口先生、戸田先生、池田先生は、その先頭に立って戦ってこられた。これが僕達の誇りなんだよ」と。これが、小泉前議長の遺言ともいうべき言葉であった。
 「不幸な人を救っていこう」――これこそ、私どもの使命であり、信心の目的である。名誉や地位を得ることでもない。財宝や権威で身を飾ることでもない。苦悩の人々を救い、世界から「不幸」と「悲惨」の二字をなくす広布の法戦を貫き通すことが、学会の永遠の精神である。それを忘れて私どもの人生はありえないはずである。さすが学会の柱であり、大功労者であった小泉前議長は、千鈞の重みをもつ言葉を残して、尊い生涯を終えられている。
 地涌の勇者としてこの世に生を受けた私どもである。世のいわれなき非難を恐れる必要もない。また、媚びへつらう必要もない。この言葉通り、堂々と我が使命の道を進んでいけばよいし、自分自身の誉れの道に生ききっていけばよいのである。
8  「妙音」奏でゆく鼓笛の友
 話題は変わるが、″平和の天使″鼓笛隊についてお話ししたい。
 この「富士鼓笛隊」は本年で結成三十二周年を迎えた。去る七月二十四日には、代表百九十五人が、「’88ドリルチーム世界大会」に特別出演し、テレビでも放映されるなど、世界の鼓笛隊へと大発展を遂げている。そして、各国、各地域にあっても、希望と歓喜のメロディーを奏でながら多くの人々に親しまれている。長年にわたるその功労は計り知れないほど大きい。そうした尊い歴史を後世にとどめるために、ここで、紹介させていただきたい。
 私が提案し、鼓笛隊が結成されたのは、昭和三十一年七月二十二日。この日、出発した第一期生はわずか三十三人という小さなグループにすぎなかった。しかし、特筆すべきことは、当時の三十三人(二人が故人)のほとんどが現在まで退転なく、信心を貫いているという事実である。
 今日のような発展の姿が初めからあったわけではない。結成当時は、十分な楽器もそろわないなかでの、鍛錬に次ぐ鍛錬の日々であった。私は、発足以来、折あるごとに、励ましと真心の援助をしてきたし、その懸命な姿をだれよりもよく知っているつもりである。
 たとえ小さなグループでもいかに大きな使命を果たしゆくか、また青春時代の鍛錬と努力がいかに大事か――その模範の実証を示してくださったのが、鼓笛隊の方々であった。歴代の鼓笛部長(隊長)も、各地域にあって重要な広布推進の役割を担い活躍しておられる。また現在、七十四人の名誉鼓笛隊員の方々がいるが、それぞれ鼓笛隊時代の薫陶を胸に各分野で頑張っておられる。
 こうした先輩方の奮闘によって、鼓笛隊は今や世界二十二カ国・地域に誕生し、日本においても約二万人のメンバーを数えるまでになった。(平成七年<一九九五年>現在、二十五ヶ国・地域で活躍)
 ″世界の舞台で活躍する鼓笛隊に″というのが私のかねてからの願いであったが、まさに我が鼓笛隊こそ、質量ともに″世界一″の存在に成長している。私は改めて、鼓笛隊で活躍している方々、また素晴らしい伝統を築かれた先輩の方々に″本当にありがとう″と心から申し上げたい。
9  鼓笛隊が結成されたころ、青年部の心意気は春爛漫の季節のように満ちあふれていた。昭和二十九年五月に音楽隊が結成。同年十一月には第一回の体育大会が開催された。今でこそ、この体育大会は、現在の文化祭、音楽祭の淵源といわれているが、当時の学会の最高幹部は、これらの活動にだれも理解を示そうとしなかった。そればかりか、ほとんどが反対であった。
 しかし、戸田先生だけは違っていた。「よかろう。反対が多いのであるならば、自分の力で自主的に進めていったらどうか。君たちがやるのなら、僕は見に行ってあげよう。やれるだけやってみなさい」と、どこまでも私たち青年を信じ、応援してくださったことは、今でも懐かしい思い出である。
 もう三十年も前になるが、昭和三十三年五月、北海道鼓笛隊が五十人で発足した。戸田先生の去の一カ月後のことである。当時、中心者の故・嵐慧子さん(北海道初代女子部長)はこうに語った。「戸田先生亡きあとも、北海道女子部員が元気でいるところを鼓笛隊の演奏でお見せしよう」と。心美しき乙女らの、健気にして強き共戦の思い――これこそ、今なお脈打つ鼓笛隊の伝統精神であるといえよう。
10  ところで、昭和三十二年十月、第一回の鼓笛隊登山会の折、″妙音菩薩としての鼓笛隊の使命″について私は話をさせていただいた。
 妙音菩薩については、法華経妙音菩薩品第二十四に明かされているが、遠い昔に仏に十万種の伎楽を供養し、八万四千の宝の器を奉った功徳によって妙音菩薩として生まれたとされる。そして、釈尊の説法の座に向かったとき「経る所の諸国……百千の天楽、鼓せざるに自ら鳴る」(開結六一三㌻)――妙音菩薩が通る国々は、種々、妙なる天の音楽が自然に奏でられた――と説かれている。
 この経文に照らして、妙法流布のために「音楽」をもって活躍する鼓笛隊のメンバーは、この″妙音菩薩″に通じる方たちということができよう。そして、妙音菩薩は、諸の衆生に応じて、三十四身といって梵王、比丘から地獄界の姿まで、あたかも劇を演ずる名優のように、さまざまな姿を現じながら、自在に衆生を救っていくとされている。
 これについて大聖人は、「御義口伝」の中で「所用に随つて諸事を弁ずるは慈悲なり是を菩薩と云うなり」――衆生の苦しみ、悩みに応じて、それを解決していくのは慈悲であり、これをなしていく生命活動が菩薩である――と仰せになり、妙音菩薩が三十四身を現じ、衆生を救うのは、すべて慈悲のあらわれであるとお示しになっている。
 諸の衆生に応じて、種々の相を現じて教化していく妙音菩薩の姿を、私どもの活動に敷衍して述べれば、「平和」「文化」「教育」という現在の立体的で多次元にわたる諸活動は、これらの原理にのっとって展開されているということができる。まさに、今日の学会の諸活動は、法華経の法理に則っての法戦なのである。
 ともあれ、妙なる″天の曲″を奏で、広布の同志を鼓舞し進みゆく素晴らしい使命の乙女ら――その限りない成長を心から念願するとともに、どうか幹部の皆さま方も、そうした若い人たちの活躍を大きく見守り、その労を理解し、たたえていっていただきたい。
11  さて、先日、ドクター部や白樺グループの方々が、興味深い話をしていた。高齢化社会を迎え、「老い」に直面した人たちにとって「ボケ(老年性痴呆」はいちだんと深刻な問題となっているが、人間にも″ボケやすい″タイプと、″ボケにくい″タイプがあるというのである。当然、いちがいにはいえないであろうが、医師の一つの視点として紹介しておきたい。
 どんなタイプが″ボケやすい″のか。石川先生らの話によると、大体、六点あげられるという。
 第一に「自分中心性が強く、頑迷で人の意見など耳を傾けようとはしない人」。ああ、あの人のことかなと、顔がつい思い浮かぶ場合もあるかもしれない。
 第二に「神経質で、いつもイライラ。気短で、自分の意にそわないと怒鳴ったりする人」。そういえば、学会に反逆し、退転していった人間も、このタイプの幹部が多かった。短気で権威的な性格は、身体はおろか、一生をも取り返しのつかないものとしてしまう場合がある。
 ともあれ、ボケ防止の意味からも、とくに幹部の皆さまは、絶対に会員を怒鳴ったり、叱ったりしてはいけないと、申し上げておきたい。
 第三は「趣味ももたず、遊びの余裕もなく、仕事一徹できたような人」。そして第四に「物欲が強く、何事もカネやモノと考える、人間不信の人」。
 ともすると、現代の日本人の場合には、この第三、第四のタイプが、少なからず見受けられるようだ。もちろん、皆さま方の中にはいらっしゃらないと思うが。
 第五に、「一見、同調性があるように見えても、ただ調子を合わせているだけであって、心の底からは人の輪に溶け込めず、友だちもできない人」。「人間」は「人」の「間」と書くが、確たる自分というものがなければ、その「人」と「人」との強い絆は結べないであろう。
 最後の第六は「情緒や感情に乏しい人。たとえば、喜びもなければ感動もない、笑いもなければ、ユーモアを解することもないような人」。これは、もう手のつけようがない。感動や歓喜、笑いがなくなったら、人生はあまりにも味けない。そうであってはならないし、とくに人生の先が見え、夢も希望もなくしがちな壮年期にある幹部の方々に、この点は申し上げておきたい。
 反対に″ボケにくい″タイプとは、どんな人であろうか。やはり六項目にまとめて話してくださった。
 まず第一に「新聞や本などをよく読みつねに頭を使っている人」。第二に「物事にくよくよしない人」。第三は「書き物をしたり、対話が好きな人」。第四に「利己的でなく世話好きな人」。第五に「喜びや感動など感受性の豊かな人」。最後、第六に「自分なりの生きがいをもち、向上心の強い人」。
 こうして見てくると、学会のなかで、戦い、活動している皆さま方が、いかに″ボケにくい″方々であるかを痛感せざるをえない。毎日、「聖教新聞」は読む。人生の悩みも、信心の実践の中で開き、解決していく。その体験を、同志に語り、友の幸のために奔走する。そして、同志の蘇生に歓喜し、感動し、人生と生命の醍醐味を、いつも、実感する――。これでは、ボケる暇などない。
 ともあれ、仏法こそ、生命を永遠に輝かせゆく″生涯青春″の大法である。どうか、日々、朗々と題目を唱えながら、若々しき希望と喜びの人生を生き抜いていただきたい。
12  日亨上人、日昇上人の学会への深きご慈愛
 ところで、明年秋には、日亨上人、ならびに日昇上人の三十三回忌を迎える。亡くなられたのは、日亨上人は十一月二十三日、日昇上人は十月十四日。両上人とも、学会を、その誕生からあたたかく見守られ、終生、変わりなく、深甚の御慈愛を注いでくださった。私どもにとって、まことに忘れがたきお二人であられる。
 あらためて申すまでもなく、『富士宗学全集』等としてまとめられた日亨上人の畢生のご研鑽は、宗史に輝く不滅の大業であられる。今日、私どもが拝している『御書全集』も戸田先生の発願により、日亨上人の編さんを仰いで、完成をみたものである。まさしく『御書』は、上人ご一代のご研鑽の賜であり、それとともに、この発刊に命を注がれた戸田先生の赤誠の結晶であったといってよい。
 研究に専念なされる意味からも、御隠尊となられた日亨上人のことを、戸田先生は、よく「学会のおじいさま」と呼んでおられた。日亨上人も、折あるごとに、学会の会合に出席してくださり、ご講演をいただいたものである。思えば、そうした折に、日亨上人は、にぎり飯を持参でおいでくださった。時代といえば時代であるが、今からすれば、申し訳ない限りである。
13  昭和二十九年(一九五四年)五月三日、第十回本部総会(東京・国技館)に出席された時は御年八十七歳であられた。そのさい、次のように学会の前進を、お喜びくださっている。
 「学会の日に増し年に増し発展していく姿をみたり聞いたりして、じっとしていられず自分にむち打って参りました。今度は会場が広くなり(中略)この隅までぎっちりつまった状態をみまして、ひとりでに胸が躍り、年が二十も三十も若返った様な気持です」(「聖教新聞」昭和二十九年五月九日付)
 話は前後するが、昭和二十七年(一九五二年)の聖教新聞の元日号には、次のお言葉を寄せてくださった。
 「(=学会発展の)裏面には折伏強義の撓まざる大々辛苦がある。会員の一々が五十展転随喜の歓喜法悦は生活を犠牲にし生命を賭しての極労極苦の賜である」
 つまり、戦後の学会の目覚ましい発展は、学会員一人一人の生命を賭した戦いと大労苦によって成就されたものであると、最大にたたえてくださっている。とくに日亨上人は「極労」「極苦」と仰せになり、法華経に説かれているごとく、末法における弘教がいかに至難の業であるか、またそれを行じている学会はいかに正しく崇高なる使命があるかを御指南してくださっている。
 だが、残念ながら、正宗の清流に背き、反逆した悪侶らは、この折伏行の尊さ困難さを、いっこうに理解しなかった。こうした信心なきエゴの徒輩に、絶対にだまされてはならない。
 さらに日亨上人は、「創価学会一結の勇猛の進展」は、日本国内にとどまらず全世界へと広がり、また宗教次元のみならず、政治、経済、教育など社会のあらゆる分野に広がっていくにちがいない、と述べられている。そして御書に説かれた有徳王、覚徳比丘の姿に触れつつ、はるかな広布の未来には「無限不可量の大歓喜と大法悦が有る」と断言され、老齢のゆえに、その未来の「事の寂光土」に接することができないのが残念であるとのご心情を述べられている。
 現在、滔々たる広布の大河は、国境を超え、民族をも超えて流れている。また仏法を基調にした平和、文化、教育の運動として、社会の各分野にも壮大に広がっている。その前進の姿を、日亨上人は、早くから見通されていたのである。私どもの真剣な努力を温かく見守ってくださった日亨上人の先見性と広大な慈愛に、改めて感慨を深くせざるをえない。
14  日昇上人が御登座なされたのが昭和二十二年七月であった。当時は、いわゆる「農地改革」の渦中であり、総本山も困窮の極みにあった。
 そのなかを、昭和三十一年の新春にご勇退を表明され、同年三月に日淳上人に譲られるまでの九年間――法号の「日昇」のご威徳そのままに、学会の大前進とともに、宗門は「旭日昇天」の未曽有の大興隆を遂げるに至った。
 「大法弘通慈折広宣流布大願成就」とお認めの「創価学会常住」の御本尊は、日昇上人より賜った御本尊である。
 日昇上人は、学会を守りに守ってくださった。昭和三十年、小樽問答における学会の大勝利を契機として、他宗からの学会攻撃の策動も、いよいよ激しさを増し、秋には、学会への誹謗・悪口がしきりにマスコミに取り上げられていた。「暴力宗教」とか、「軍旗のある新興宗教」といった、デッチ上げの記事が書かれ、また「破防法適用か」との、悪意に満ちた事実無根の記事も掲載されたりした。
 私は、戸田先生のもと、渉外部長として、その矢面に立って青年らしく戦いきった。その真っただ中の十一月三日、後楽園球場に、七万余の会員が集い、第十三回秋季総会が開催された。この総会に、当時、七十六歳であられ、勇退直前の日昇上人がご出席くださり、講演をしてくださった。そのお言葉は、今もって私の耳朶から離れない。
 日昇上人は次のように御講演を結ばれた。「近時、創価学会の飛躍的発展を妬み、種々なる中傷や逆宣伝をなし、本宗の純正なる信仰を惑乱せんとする者がありますが、諸士には、これらの邪義暴論を顧慮することなく、敢然起って、法戦を挑み、いよいよ不自惜身命の実効をあげ、本宗の教風を国内全土に宣揚し、広宣流布の一日も速からんことを念願するとともに、不肖日昇も等しく諸士と同心戮力(=力を合わせること)を惜しまず、死身弘法以て、仏祖の鴻恩(=大恩)に応えんとするものであります」(「聖教新聞」昭和三十年十一月十三日付)と。
 「邪義暴論など歯牙にもかけるな」との烈々たる励ましのお言葉である。とともに、七十六歳のご高齢であられた日昇上人みずから、学会員と同心に力を合わせて戦おう。そして死身弘法をもって日蓮大聖人の大恩にお応えてしていきたい、と師子吼してくださったのである。私は、学会員を思ってくださったこのお言葉を、終生、忘れることはできない。
15  大法を根本に、御聖訓のままに生きよ
 ともあれ私どもは、どこまでも御聖訓通りに、「大法」を根本基準として生き抜かねばならない。最後に、このことに触れておきたい。
 大聖人は「四恩抄」に、こう仰せである。
 「日蓮はせる妻子をも帯せず魚鳥をも服せず只法華経を弘めんとする失によりて妻子を帯せずして犯僧の名四海に満ち螻蟻をも殺さざれども悪名一天にはびこれり」――日蓮はそうした妻子をも持っていない。魚や鳥の肉をも口にしない。ただ法華経を弘めようする失によって、妻子を持たずして破戒の僧という名が世界に満ち、オケラやアリさえも殺さないのに、悪名が天下にはびこっている――と。
 大聖人は、まさに聖僧であられたにもかかわらず、まったく反対の、女犯等の中傷が広められていた。この御書がしたためられたのも、伊豆流罪という大難の渦中であられた。
 また続けて「恐くは在世に釈尊を諸の外道が毀り奉りしに似たり」――おそらくは釈尊の在世に多くの外道の者らが釈尊をそしりたてまつったことに似ている――と。
 大聖人が迫害を受けられたのは、まさしく釈尊と同様であり、同じく「法華経の行者」としての御振る舞いなのである。そして「是れひとえに法華経を信ずることの余人よりも少し経文の如く信をも・むけたる故に悪鬼其の身に入つて・そねみを・なすかとをぼえ候へば是れ程の卑賤・無智・無戒の者の二千余年已前に説かれて候・法華経の文にのせられて留難に値うべしと仏記しをかれ・まいらせて候事のうれしさ申し尽くし難く候」と。
 すなわち(迫害は)ひとえに法華経を信ずるうえで、他の人よりも多少、経文通りに正しく信を向けたゆえに、悪鬼が人々の身に入って嫉妬するのであろう。そう思えば、これほどの卑しく、無智で、無戒の者(自分)が、二千余年も前に説かれた法華経の経文に載せられ、″必ず難にあうであろう″と仏が記し置かれたことのうれしさは、とても言いつくすことはできない――との仰せである。
 もったいなくも大聖人御自らが、まったくいわれのない誹謗・悪口の矢面に立っておられた。それは、すべて「法華経を弘めんとする」ゆえであり、「経文の如く信をも・むけたる故」であられた。難こそ、経文をその通りに「信じ」「行じ」ている証拠なのである。
 したがって大聖人は、御自身への迫害を、法華経の経文通りであり、「うれしさ申し尽くし難く候」と、こよなく喜んでおられる。この″経文通りに生き抜く喜び″を、私どもは私どもの立場で、それぞれ深く拝してまいりたい。
 すなわち私どもは信仰者である。信仰者である以上、「法華経の文」そして「御聖訓」に照らして、どうであるのか。一切を、「大法」を根本の基準として見きわめ、正しく行動していくべきである。そこに信仰者としての「証」がある。また信仰者ならではの″誇り″があり、″喜び″がある。かりにも無認識な悪口などを、判断の基準にしたり、いささかでも紛動されることがあれば、厳しくいえば、その瞬間から、もはや正しき信仰者とはいえなくなってしまう。
16  ところで日興上人が折伏された甲斐(山梨)の門下の一人に、南巨摩郡下山の因幡房日永がいる。
 日永は、父ともいわれる下山兵庫五郎光基から、信仰ゆえの圧迫をうける。その折、大聖人が日永に代わって下山氏あてに代筆してくださった正義の弁明の書が「下山御消息」である。当時、大聖人は五十六歳であられた。同抄が十大部の一つに数えられる重書であることは、よくご存じの通りである。その結論の段に、次のような御文がある。
 「いかにも聞食さずしてうしろの推義をなさん人人の仰せをばたとひ身は随う様に候えども心は一向に用いまいらせ候まじ」――(正しい道理を)聞きただそうともしないで、陰で勝手な推測をするような人々の言葉には、たとえ身は随うようであっても、心では決して(その言葉を)用いることはありません――。
 無認識な人々に、どんなに法華経を捨てて阿弥陀経を読めと迫られても、随うことはできない。
 そして「又恐れにて候へども兼ねてつみしらせまいらせ候、此の御房は唯一人おはします若しやの御事の候はん時は御後悔や候はんずらん世間の人人の用いねばとは一旦のをろかの事なり上の御用あらん時は誰人か用いざるべきや、其の時は又用いたりとも何かせん人を信じて法を信ぜず
 ――また、恐れ多いことですが、前もって御注意しておきたいことは、この御僧侶(大聖人)は、たった一人しかおられない(かけがえのない)方です。もしも亡くなられるような時には、あなたも後悔されるでしょう。
 世間の人々が(大聖人のことを)信じないから(それにならって、あなたも信じない)というのであれば、それは目先にとらわれた愚かなことです。国主が(大聖人を)用いられた時には、だれが用いないことがあるでしょうか(だれもが信じるでしょう)。その時に、信心を始めても、どんな意味があるでしょうか(それでは遅いのです)。(そういう世間の動向によって信仰を左右されるのであれば、所詮それは)人を信じているのであり、法を信じないということです――。
 すなわち世間が悪口している時には信じない。世間がなびいてきた時には自分も信じるというのでは、「法」ではなく「人」が基準になっている。それではならないとの御警告と拝される。
 涅槃経ねはんぎょうには、有名な「依法不依人」(法によって、人によらざれ)の文がある。仏法は、あくまでも「法」が根本である。仏の教えを一切の規範きはんにしていかねばならない。それ以外の言葉は、所詮、あてにならない。いわんや、深き「哲学」も「慈愛」もないエゴの人間の無責任な言動に、ふりまわされることは、あまりにも愚かである。
 移ろいやすい人心に動かされていちいち右を見、左を見ているようでは、結局、確たる″自分″がなくなってしまう。それでは最後に、みじめになるのは自分自身である。
17  なお大聖人は、この代筆なされた「下山御消息」を、日興上人を通じて日永に渡されたようである。その折、日興上人が、読みやすいようにと、わざわざ、ふりがなをふってくださったともいわれている。まことに、こまやかなお心づかいが拝されてならない。
 この「下山御消息」を送られた下山兵庫五郎光基は、ついに念仏を捨てて、大聖人に帰依きえすることができたといわれている。
18  これほどまでに、大聖人また日興上人に大切にしていただいた日永であった。しかし大聖人御入滅後、彼は日興上人に違背いはいした。日興上人は「弟子分本尊目録」(弟子分与帳)に「ただし今はそむおわんぬ」と厳然と記されている。
 大聖人、日興上人の御在世であっても、他にも一生成仏の途中で退した人間はあまりにも多い。「大法」とともに、最後まで生き抜いていくことが、どれほどの難事であるか。御本仏と日興上人に、計り知れない御慈悲で包んでいただいたにもかかわらず、彼らは″師弟の道″を貫くことができず、ちていった。
 ゆえに、現在のように、大きく広がった広布の世界にあって、少数の退転者が出ることは、ある意味で、やむを得ないともいえる。また、それは後世への戒めともいえるであろう。どんなに恵まれた環境にあったとしても、信仰をまっとうできるかどうかは結局、自分自身の心が決めることなのである。
19  妙法こそ三世永遠の大法
 先日、私は西ドイツ・ボン大学の教育学研究所所長であるガイスラー教授と会談した。その折、ゲーテの教育思想も話題になった。そのゲーテの言葉に「一貫したものは環境においてでなく、自分みずからのうちに求めよ」(『ウィルヘルム・マイステルの遍歴時代』関泰祐訳、岩波文庫)とある。
 若き日に胸に刻んだ一文であり、仏法にも通じる道理とも思う。
 たしかに、すべての環境は、変化、変化の連続である。また人の心も移ろいに移ろいを重ねていく。それらに不動のものを求めることはできない。変わらざる「一貫性」――それは、ほかならぬ自分自身の中に求め、そして築いていく以外にない。
 ″人は変われども、自分は変わらない″、この決意で、正しき信念の軌道を生き抜いていく。不変の「法」への確信に徹しぬいていく。そこに信仰がある。また、ここにのみ自分自身が常楽の当体として輝いていく唯一の道がある。
 大切な一生である。この人生の舞台で、どう自分らしく最高に価値ある「人生の主題テーマ」を描ききっていくか。どう永遠の歴史をつづり、残していくか。その答えもまた、汝自身の胸中にあると申し上げておきたい。
20  ともあれ、内なる我が生命と外なる大宇宙――その一切を貫く常住の大法を、私どもは受持している。三世永遠に一貫して変わらない絶対の法にのっとって生きている。これ以上の人生はない。まさしく″無上道の法″に生きる″無上道の人生″である。
 ゆえに私どもは、いかなる変化の″波″や″嵐″がおそいかかろうとも、決してたじろいではならない。迷ってもならない。すべて、この「大法」を基準としながら、自分らしく、限りなき勇気をもって、そして快活なうえにも快活に、前進していただきたい。このことを心より念願し、本日のスピーチとさせていただく。

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