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日蓮大聖人・池田大作

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第四回全国婦人部幹部会 賢明なる生活即信仰

1988.11.24 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

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1  健康のうちに悔いなき実践を
 第四回の婦人部幹部会、おめでとうございます。また本当に、ご苦労さまです。
 寒さがつのる折でもあり、風邪かぜなどひかれないよう、十分気をつけていただきたい。とはいえ、私も、つい先日、懇談した人から風邪をうつされてしまった。しかも、その″犯人″はドクター部員。こんな迷惑な話もないので「罰金をとれないか」と法律家に相談したら「今の法律では、ちょっと無理でしょう」とのことで、やむなく、あきらめることにした。
 この間、夢でアインシュタイン博士がたずねてきて、いろいろと語り合ったが、彼は言っていた。「私も原爆をつくるような研究ではなくて、風邪を絶滅する研究をすべきだった」。毎年、世界中でどれほど多くの人が風邪で苦しんでいるか。科学者として、もっと、そういう面で貢献すべきだったと、深く反省していた。私も大いに賛成しておいた。
 にっくき風邪を地上から絶滅するために、本当にアインシュタイン博士のような大天才が出てもらいたい。政治家の方も、いろいろと、楽してもうけている人も多いようだから、そのお金を″風邪対策″のために、そっくり寄付してもらったらどうだろうか。風邪を撲滅ぼくめつする方策を一度、国会でも真剣に取り上げて、しかるべき″責任者″を呼び、いかなる対策・方針をもっているのか、鋭く問いただしてほしい。
 ま、冗談じょうだんは冗談として、科学も政治も経済も、すべては人間の、現実の苦しみを減らし、幸福を増すためにこそある。徹底して、そのために貢献させていかなければならないと私は思う。
2  私のもとには一年三百六十五日、朝となく夜となく世界中から連絡・報告が入る。あまりにも大勢であるし、複雑な問題も多い。判断をあやまると、取り返しのつかない場合も少なくない。手が抜けない。一瞬一瞬が真剣勝負である。
 また私は毎日、皆さま方の健康と安穏、ご多幸を一心に祈っている。
 つい先ほども、この幹部会に来る直前、ある幹部から本部に電話が入った。病気のため入院中で、心配していたところだった。こう語っていたと聞いた。みな同志であるし、ありのままに紹介しておきたい。
 「今、ようやく(集中治療室から、病院の)自分の部屋にもどりました。昨日は先生から、わざわざ伝言をいただき、本当にありがとうございました。お忙しい先生にご心配いただき、心より申しわけなく思っております。
 集中治療室は二十四時間だという約束だったのに、もう一日おかれたことは、つらく感じました。二十四時間が、これほど長い長いものだと思ったことはありません」
 「集中治療室は、テレビもなく、なんにもやることもなく、そのうえ、となりの患者が苦痛を訴えたり、寝るわけにもいかないのです。
 おかげさまで部屋にもどれまして、(退院まで)あと一週間か十日です。本当にありがとうございました。とりあえずご報告と御礼をお伝えいただきたく電話させてもらいました」
 この幹部は、これまで人並み以上に健康だったため、病気がよほどこたえたようだ。
 病気になって、あらためて信心と学会のありがたさを痛感した人は数限りない。しかし、″のどもと過ぎれば″というが、ともすれば、病気が治ると御本尊への深き感謝も、いつしか薄らいでしまう。人情の常とはいえ、それでは結局、自分が損である。一生成仏への遠回りをしてしまう。
 また、ある人は三十年もの間、信心に反対し、学会を批判し続けた。今、ガンを病み、余命いくばくもなくなってから、悔いても悔いきれない思いを親族に語っている。
 「病」や「老」また「死」を間近に見た時、人間は生命力の根源である妙法をい、渇仰かつごうする。
 その深き意義は意義として、だからこそ私は、健康で存分に活躍できる時に、悔いなき信心の実践を重ねておくことだと申し上げておきたい。
 妙法を唱え、仏道修行できること自体が、実は素晴らしい功徳なのである。最大に感謝すべき現実なのである。その自覚と感謝の一念が強い分だけ、福徳は加速度をつけて増大していく。
3  安穏な一家は婦人の知恵に
 さて、本日はまず、無事故の生活のために「身近なことに気を配る」という点を申し上げておきたい。
 先日、少壮の学術部員が亡くなった。三十九歳の若さであった。
 原因は心臓マヒ。その朝、夫人が朝食の用意をしていると、二階で人が倒れる大きな音がした。駆けつけて救急車で運び、切開手術までしたが、手遅れだった──。
 私は、知らせを受けてすぐ追善の唱題をさせていただいた。
 私はたずねた。前の日の様子はどうだったのか。何時に帰って、何と言ったのか。彼が帰宅したのは夜九時半。「すごく疲れる」と話していたという。それでも、就寝したのは夜中の二時ごろであったようだ。
 この後一家は他にも心臓の病気の方がいらして、そういう宿命的傾向性かとも思った。私は、他にも細かく状況を聞いた。
 東京の中でも郊外で、寒さが厳しい場所である。疲れがひどい時には、無理をせず、もう少し早く床につくなど、体に留意しながら、ご自身のためにも、夫人と二人のお子さんのためにも、もっと長生きしていただきたかった。
 私はご一家が悲しみを乗り越え、ご主人の遺志を継いで、毅然きぜんとして立ち上がられるよう祈り、全魂で激励した。
4  一方、西ドイツでは、三十八歳の幹部が、交通事故で亡くなっている。深夜の事故であった。
 交通事故もまた、自身の注意でいくらでも防げる場合があまりにも多い。
 夜半、疲れてからの運転、睡眠不足の運転、まして酒気をおびての運転など当然、絶対にあってはならない。また同乗者が運転する人に、あれこれ話しかけて、注意力を散漫にさせているケースも多い。
 さらに火災も、まことに悲劇である。これも、火の始末に注意するのはもちろん、基本的な常識を、どれだけ守っているかにかかっている。
 小さな子供がいる家は、マッチやライター等を子供の手の届くところに置かないとか、油を使ったげものをしている時には、そのままにしておいて途中で他のことをしないとか、ガス器具を使う時には十分換気をするなど、ほんの少しの配慮である。
 天ぷらを揚げながら、ペチャクチャと長電話に夢中になって、油に火が入ったケースもある。また火災ではないが、電話中に子供が熱湯でヤケドをした例もある。また、たとえば油に火がついても、あわてず座ぶとんや毛布などを上からかぶせるなどして初期に消火すれば、大事にいたらない。それを気が動転して逃げてしまったのではどうしようもない。このように、ささいな過失で、重大な結果を引き起こしている場合が、ほとんどである。
5  また、これは、婦人部の代表の方々との懇談の折であった。私は、いつものように、ありのままの意見を聞き、要望等に耳を傾けた。そのなかで、ある第一線のリーダーの方が、こう言われていた。
 壮年部や青年部の幹部のなかには、会合が終わってから飲みに行く人がいる。──ドキッとする男性も多いかもしれないが、別に酒をてなどと、不可能なことを言っているのではない。その婦人が言うには、飲みに行ったりして、夜が遅くなる。朝も早い。寝不足となり、疲れもとれない。勤行ができないまま出勤する。ますます疲れがたまる。いつしか悪循環となっていく。事故を起こしたり、病気になっても、決して不思議ではない──と。まことに鋭い観察である。
 また、ある学会員から本部に苦情が寄せられた。夜中の一時ごろまで集まって話をしたり、出入りが騒がしいことがあると。
 一事が万事、どんなに立派なことを言っても、非常識ではだれも信用しない。社会のルールにも反するし、仏法にも反する。最後は、自分自身の生活までも破壊しかねない場合もある。
 御書には「夜は眠りを断ち」と仰せであるが、夜中まで、いつまでも起きていなさいということではない。奥底の不惜ふしゃくの一念を教えられているのであり、信心の自覚の問題である。
 ともあれ私どもは、内外を問わず、常識豊かに人に接していかねばならない。そのさわやかな生命と生命の交流が、仏縁となり、広宣流布へと連動していくことを忘れてはならない。
 要は自分の生活、生命を賢明にリードし、コントロールしていくことである。
 たとえば五座三座の勤行は基本中の基本である。夜はなるべく早く勤行するよう心掛けていきたい。そのうえで、夜中に仕事で疲れて帰ってきて、どうしても三座の勤行をするのは大変だという時もあろう。もうろうとしてグルグル回ってなかなか終わらない勤行をしても、価値的でない場合がある。近所迷惑な面もあるであろう。
 そういう場合には、あるいは方便品・自我偈の勤行でもよいし、唱題のみでもよいと思う。題目三唱だけしかできない時もあるかもしれない。無理をせず、早く休んで、翌朝さわやかに起き、朗々と朝の勤行を行ったほうが、長い目で見れば、ずっとよい場合も少なくない。
 大切なことは少しでも御本尊を拝そうという「信心」であり、その一念がある限り、福運が消えることはない。自分自身の生命である。知恵を使って「聡明そうめい」に疲れをとり、日々、すっきりと一日を出発できるように工夫していただきたい。
 こういう指導をすると、すぐに″悪用″する男性が出るだろう。しかし「要領」であるか、「賢明さ」であるかは、本人が一番よく知っている。だから奥さま方は、ある意味で、おおらかに、温かく、ご主人を包容してあげていただきたい。
 疲れたり、人知れず落ちこんでいる時に、耳もとで「勤行、勤行」と口うるさく、迫られたのでは、かえって逆効果ではないだろうか。また、せっかく勤行したのに、意地わるく時間をはかったりして、終わったとたん、「あなた、題目が少ないわよ」と攻撃を受けたのではたまったものではない。ご主人に同情せざるをえない。
 むしろ「疲れているんでしょう。今日は私があなたの分まで、しておきますから、安心してゆっくり休んでください」とでも言えば、たとえ口先だけでも、ご主人はホロリとなって、少しはまじめに勤行しようかなと″改心″するかもしれない。
 ともあれ、日蓮大聖人は「女人となる事は物に随つて物を随える身なり」──女性となることは、ものにしたがうことによって、かえってものをしたがえる立場である──と仰せである。
 この御文は、最高の″男性操縦そうじゅう法″の秘けつを教えてくださっているとも拝されよう。
 手綱たづなさばきも見事な、賢い婦人であっていただきたい。まして信心のことで、いさかいを起こすようなことがあってはならない。仲良く、幸せに暮らすための信心なのだから、それでは本末転倒になってしまう。
6  わが生命に崩れざる幸福の境涯を
 お一人お一人が、大切な一生である。かけがえのない使命の人生である。非常識や、つまらない不注意で、自身も周囲も不幸にまきこむようなことが決してあってはならないと重ねて申し上げておきたい。
 「無事故」「健康」「安穏」──この最も平凡に見える生活の現実にこそ、信仰のあかしがある。
 高邁こうまいな理論も大切である。社会への壮大な運動も大切である。大勢が集まっての指導・激励も当然、必要である。しかし、それら一切は、何のためにあるのか。
 それは所詮しょせん、各人・各家庭の「幸福な生活」のためである。今日という、二度とない一日の「安穏」と「成長」のためである。
 身近な生活を離れて信心はない。そして過去といい未来といっても、この″今″という現実の姿にこそ仏法はある。ゆえに一日一日を、生き生きと、ていねいに生きていただきたい。自分のため、一家のため、同志のために、大切な今日という一日を、生命力満々と開始し、見事に仕上げていっていただきたい。
7  私どもはどこまでも「常識豊かに」進まねばならない。
 しかし、ある場合には幹部である私どもを頼って緊急の電話が夜遅く入ることもあるにちがいない。本人にとっては切実な相談かもしれない。その指導いかんで人生の明暗が分かれてしまう場合すらある。それを相手の心も考えず、非常識だときめつけて、おざなりにすませてしまうようでは、無慈悲であり、指導者としての責任を捨てることになってしまう。
 リーダーは、大切な仏子ぶっしのために、尽くしきっていくことが、自身の仏道修行となることもさらに銘記していただきたい。
8  さて、ある著名な文化人が「幸福」について次のように言っていた。
 「飽食時代である。しかし、だからといって、すべての人が幸せとはいえない。一戸建ての家を持った。また、病気もせず健康体である。それもいいだろう。だが、それで常住の幸福を得たことにはならない。絶えず人生は移ろい、諸行無常なのである」と。
 この方は、仏法をたもった人ではない。むしろ、これまでは、反対していた一人でもあった。しかし、いかに学会が暴言を受け、攻撃されても、厳然と民衆の側に立ち、発展を続ける姿に、彼は大いに認識を改めた。そして内心、これまでの学会批判の行為を悔やんでいるようでもある。
 それはそれとして、彼の言には、真理を見つめた深い洞察どうさつがあると思う。
 確かに、何十年か前に比べれば、日本は、はるかに裕福となった。しかし、それで、国民は、本当に幸せとなっただろうか。おいしい物を食べる。それは幸せかもしれない。だが、それで糖尿病になってしまえば、かえって不幸である。たとえ、健康であったとしても、事故にあってしまえば、何にもならない。また一見、何不自由なく暮らし、幸せそうに見える人でも、子供のことなどで、人知れぬ悩みを抱えている場合もある。今、流行の未公開株でも手に入れて、たとえ、一時的に大金を得たとしても、やがて深い悲哀を味わうこともあろう。
 幸福はいくら追いかけても、限りなくかなたへ逃げていく。かりに、この手につかんだように見えても、あたかも霧のように消え去ってしまう。それが、この無常の世の真実ではなかろうか。
 御書には「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」と仰せである。
 歓喜の中の大歓喜とは、わが生命のうちに築き上げた金剛こんごうの境涯である。大宇宙を貫く常住不滅の法にのっとった妙法の世界にのみ、永遠の幸福はある。
9  しかし、信心しているからといって、すべて悩みがなくなるわけではない。生きているかぎり、人生はさまざまな悩みとの闘争であり、戦いである。たとえば、だれでも病にふすことがある。死の恐怖におびやかされることもあろう。これは、人生のけ得ぬ現実である。
 日蓮大聖人は、五十六歳のころであられようか、「既に生を受けて齢六旬に及ぶ老又疑い無し只残る所は病死の二句なるのみ」──日蓮もすでに「生」を受けて六十歳になろうとしている。「老」であることは間違いないし、あとは「病」「死」の二句が残っているのみである──と仰せになっている。
 私には深い意義が感じられてならない一節である。「生老病死」は人生のことわりである。
 生命は永遠であり、三世を貫いていく。ゆえに、一時期、病等に苦しんだとしても、その人の立場、立場で最後まで信心を全うしていけば必ずそれが次の生への大きな推進力となる。
 御書に「病によりて道心はをこり候なり」──病によって仏道を求める心は起こるものです──と仰せのごとく、病気が信心の発心の機縁となることも少なくない。また、その苦しんだ経験が、人格を深め、慈愛の心を豊かにはぐくんでいく。
 要するに、病気の苦しみに絶対に負けないことだ。それを信心で打開し、克服しながら、大いなる境涯を開きゆく突破口としていくこともできるのである。
10  門下の激励に心くだかれる日目上人
 第三祖日目上人が門下に送られたお手紙のなかに、次のような一節がある。
 「昨日伊賀いが房をまいらせしかとも、かんひやうのために上総かずさ房も用にや候とてまいらせ候」──昨日、伊賀房を、そちらにつかわしましたが、看病のために、上総房も役に立つであろうと思い、つかわします──。
 日目上人は、病にふしていた門下のために、相次いで、二人の弟子を看病に行かせている。一人では何かの時に心配があるし、二人いれば、日目上人に病状を報告することもできるであろう。そうした、まことにこまやかなお心づかいが拝されてならない。
 むろん、次元は異なるが、私どもも、病気に悩む同志に対しては、心をくだきに砕いて守り合い、激励していくことが大切である。
 ただし、病院での看護も整備されている現代にあっては、だれもかれも見舞いに行くことだけが、真心ではない。むしろ、病院には行かないで、自宅等で題目を送ったほうが価値的な場合も少なくない。ともあれ、人情の機微をふまえた励ましを、お願いしたい。
11  ここで、もう一通、日目上人のお手紙を拝しておきたい。これは、磐城いわき国(福島県)菊田の地の門下・四郎兵衛に送られたものである。
 奥州(東北)は、日目上人が青年時代から弘教のために何度も往復された思い出の天地であった。四郎兵衛も、その折に日目上人に教化された一人のようである。
 私どもの法戦にあっても各地に、その思い出を持っている人は幸せである。どこにも、心許せる同志がいるし、それが無量無辺の福徳を積んでいるあかしでもあるからだ。
 さて、日目上人は、次のように仰せである。
 「せうに少弐きみがくもん学問もし候。きやう今日もし候。よにねんころに候也。よくよくがくもん学問せさせてまいらすへく候」──少弐公しょうにのきみは学問もしております。今日もしました。大変に一生懸命です。さらに、よくよく学問させていきたいと思っております──と。
 この少弐公は、お手紙をいただいた四郎兵衛の縁故の青年であった。郷土の人々の大いなる期待を受けながら、日目上人のもとへ修行にせ参じた青年であったのであろう。
 日目上人は、その勉学の様子を「一生懸命がんばっていますよ。大切に伸ばし、育てていきますよ」と、郷里の人に伝えてくださったわけである。
 何げない一文かもしれない。しかし、先日も申し上げたように、後継の青年を宝のようにいつくしみ、はぐくまれた日目上人の甚深しんじんのお心が、しみじみと拝される。
 また次元は異なるが、青年を愛し、温かく見守り、育成されている婦人部の皆さま方の姿も、私には思い起こされてならない。
12  日目上人は次いで、この四郎兵衛にこう仰せである。
 「さいしやう宰相あさり阿闍梨、いたわりかをこり候て大事に候ほとに、さばくのゆへまかり、二七日ばかりは候はんずらん。それらに候らん法花衆たちに、さうじせさせ給候へく候」──宰相阿闍梨さいしょうのあじゃり(日郷)が病気になってずいぶん重いので、そちらの「さばく三箱のゆ」(現在の湯本の温泉)に湯治とうじに行き、二週間ほど滞在することになるでしょう。そちらにいる法華衆の方々に、その宿舎の掃除をしていただくようお願いします──。
 ちなみにこの「さばくのゆ」とは、かつて大聖人が御入滅の前に向かわれようとした「常陸ひたちの湯」のことであると、日亨上人は示されている。
 いずれにせよ、日目上人は、病気に苦しむ門下を湯治へと送り出し、その宿舎の掃除などの細かい点まで気を使われているのである。広布の活動にあっては、こうした細かい心配りが大事である。それができてこそ、本当の指導者といえる。
 私が、このように日目上人についてお話をするのは、日蓮正宗の第三祖であられるし、大聖人の御遺命である広宣流布のために四十二度に及ぶ諫暁かんぎょうをなされ、最後は、天奏の途次、厳寒の美濃・垂井たるい御遷化ごせんげなされた日目上人のことを、よく知っていただきたいからである。
13  異体同心の後継の流れ
 さて私どもがこれまで、繰り返し拝してきた「異体同心事」には、次のように仰せである。
 「日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし、譬へば多くの火あつまれども一水にはゑぬ、此の一門も又かくのごとし
 ──日蓮の一門は異体同心なので、人数は少ないけれども大事を成就して、必ず法華経は弘まるであろうと思われる。悪は多くても一善に勝つことはない。たとえば、多くの火が集まっても一水によって消えてしまう。この一門もまた同様である──と。
 第二祖日興上人の跡を継がれた日目上人は、この大聖人の仰せのままに一人一人に光をあて、「異体同心」を図られながら、令法久住りょうぼうくじゅうへの揺るぎない基盤を築かれたのである。
 世間でも、よく″第三代で決まる″といわれる。発展するにしても、衰退していくにしても、その分岐点は「第三代」にある、ということであろう。
 学会もまた、第三代の私の時代に一切が決まってしまうとの決意で法戦を展開してきた。そして、組織的にも人材の面でも万年への盤石な基盤を築き上げてきたつもりである。
14  話は変わるが私は先日、イギリスの著名な童画家であるブライアン・ワイルドスミス氏とお会いした。
 こうした方にお会いするたびに感ずることは、やはり一流の人はどこまでも謙虚けんきょである。それでいて責任感が強く、深い教養と道理にかなった明快な思考をもっているということである。
 自らのモットーは「ネバー・ギブ・アップ(断じて負けるな)」であるとも述べておられた同氏は、会談後、私に次のような言葉を残してくださったとうかがった。私のことになるが、私どもの運動に対する大切な示唆しさが含まれていると思うので、あえてそのまま紹介させていただく。
 「池田先生の指導者としての存在は、政治家や財界人のそれとはまったく違い、人の心の中深くに影響を与え、正しい方向へ向かわせるものであろうと思います。したがって、時には、権力者や財界人の一部からも、批判やさらに強い攻撃にさらされることもあるでしょう。しかし、先生は、現代社会及び人類の将来にとって絶対に必要不可欠な指導者であると存じます」
 「例えば政界や財界には、″人を働かせる″ことを目的にするリーダーも多く見受けられる。しかし、池田先生はそうではない。人間として本当の意味で人生の″満足感″″充足感″と″自己達成感″を人々に与えておられる、重要な、そして極めてユニークで偉大なリーダーであると思います」──と。
 大変に過分な評価をいただき恐縮きょうしゅくのいたりである。
 さらに氏は続けて、こうも言われている。
 「その先生の流れを、政界や財界のリーダーはさまたげようとするにちがいないと思います。そして彼らは、自分たちに向かってマスコミなどが反論しようとすると、権力・財力を使って自分たちに有利にしようとするでしょう。ですから学会は、思想の団体であるけれども、そういう反動や攻撃にも負けない力をもって進んでいただきたい」と。
 こうした氏の言葉をうかがい、私は″さすがに一流の人というものは、見るべきところを見ているものだ″と強く感じた次第である。
15  正法を護持する学会の使命の偉大さ
 学会の目的と使命に深い深い理解と信頼を寄せてくださった日淳上人は、戸田先生が逝去せいきょされた翌年の新春に、次のように述べられている。
 「(戸田)先生は大御本尊を信ずること極めて強く、しかも厳格に守護したてまつるという念慮ねんりょ(一念)に徹せられ、むしろきびし過ぎるとまで感ぜしめる程でありました。従って聖祖(日蓮大聖人)の教えにおいては寸毫すんごう(ほんのわずか)も違わないことを心掛けられ常に教義の研鑚けんさんに励まれ、しかも自らこれを実践し、また会員にもすぐ実践せしめることに努められたのであります。これは要するに正しい御本尊によって、正しく信仰せしめ、正しく助言をする、このことを常に目標として指導されたものであります。まことにその言行は地涌千界の眷属けんぞくの出現ならではなし得ないところでありました」(日淳上人全集)
 戸田先生の実践は大聖人の教えにかなったものであるとの御称賛であり、先生の指導のままに進みゆく学会の存在を最大にたたえてくださったお言葉と拝される。
16  また日達上人は、「日興遺誡置文」を拝されて、「私は、世界の人の前で、この身軽法重しんきょうほうじゅう(身は軽く法は重しとの意で、一身をとして法を弘めるべきであることを示した章安大師の文)の行者、折伏の指導者である創価学会会長池田先生を大事にします。また、折伏の闘士として、創価学会の皆さんを大切にします」(創価学会第二十九回総会御講演)と言ってくださった。
 私は日達上人に何百回となく御目通りし、さまざまなお話をいただいた。日達上人は私どもをだれよりも信頼され、また私どもをだれよりも守ってくださった。さまざまなことを言われ、さまざまなことがあっても、学会の真の姿を深く理解され、非難の言動の本質をよく知り抜いておられたのである。
 ある折のことであった。「これだけ大勢になると恐ろしさを感ずる。宗門もそうですが、学会も本当に大変だと思う。マスコミに攻撃され、ねたみの人々から非難、迫害され、それはそれは、考えられないほど大変な偉業であると思う。商売でもない。事業でもない。根本的な生命の仏道修行という前代未聞の法戦ですから、これから先も、さまざまな苦難と迫害と、また分裂させようという悪人が何度も出てくるにちがいない。しかし、頑張ってください。いな、頑張り抜いてください」と、励ましてくださった。
 そして「私をはじめ日蓮正宗の僧侶は、永遠に学会をお守り申し上げる。また私は毎日、大御本尊に祈念している」と言われ、「少々、僧侶とケンカしても、兄弟ゲンカ、親子ゲンカだから大御本尊から見ればたいしたことありませんよ」と、呵々かか大笑しておられたことが忘れられない。″正法広宣にまい進する信徒を断じて守り抜く″との、日達上人のお心であられた。
 近年、各地で純真な仏子である学会員を理不尽にもいじめ抜いた正信会の悪侶らは、日達上人のお心を踏みにじった。その行為は大聖人に弓を引き、自らを仏敵におとしめてしまうものである。その罪はまことに大きい。
 また学会のなかからも同調して信心を捨て、反逆の坂をころげ落ちる者も出た。こうした徒輩の末路がいかに哀れなものであるかは、皆さまがよくご存じの通りである。仏法は厳しく、仏罰は厳然であることを知らねばならない。
 私どもは、少々の難や障害に紛動されてはならない。どこまでも大聖人の御金言のままに、勇気凛々と朗らかに進んでいけばよいのである。
17  負けない信仰の女王
 婦人部の皆さまは、若き日に女子部として活躍してこられた方も多いと思う。
 もう三十四年も前(昭和二十九年)のことになるが、新春の女子部幹部会の折、戸田先生は妙法の乙女らに次のように語りかけられた。
 「女性は朗らかであれ。生命が清らかならば、しぜん、笑い声まで朗らかになろう。意気地いくじのない女性で、男性に負けるようではならない。女性みずから、自己と戦うのでなければならぬ。それが大事です」と。
 戸田先生が、ここで述べられているように、まず、皆さま方は、いつまでも生命の清らかな人であっていただきたい。生命のにごった人は、疑い深く、傲慢ごうまんな心となる。それでは、信心の深化も、人間的な成長もなしえないからである。
 また、いつも申し上げるとおり、一家にあって、婦人は夫や子供たちに、実に大きな影響を与える。私も、これまで数多くの家庭を見聞きして、夫が夫人の信心によって、いかに左右されてきたかを、よく知っている。夫の信心を失わせた夫人に共通しているものは、慢心、エゴ、見えっぱりの心である。また、夫や家族の信心をくるわす「夜叉女やしゃにょ」のような婦人もいた。皆さま方は決してそうであってはならない。
 さらに、何があっても負けない皆さま方であっていただきたい。宿命に泣く弱い女性であってはならない。暗いなげきの人生であってもならない。そのためにも戸田先生は″なんじ自身に負けない″との一点を、若き生命の奥深く、強き″しん″として植えつけようとされたのである。
 どうか、世界一、朗らかに生き抜いていただきたい。世界一、たくましく生き抜いてほしい。生き抜いた人こそ、勝利の人である。そして″何があっても負けない″「信仰の女王」「生活の女王」であっていただきたい。そこに信仰者としての真の姿があるからである。
18  次に、ある著名な学者から寄せられた、私の対談集への感想を記した手紙を紹介させていただきたい。
 「カラン・シン博士との御対談『内なる世界』を、只今、言葉に言えぬ深くおおきな感動と驚異をもって、読了させていただいた所でございます。その一週間ほどの間、驚異から驚異へ、歓喜から歓喜への連続でございました。決して一言半句の誇張なく申し上げておるのでございます。
 カラン・シン博士といい、先生といい、まるで永い東洋の歴史と叡智えいちが生んだ奇蹟きせきのごとく、互いにその深淵しんえんの真理を、易々やすやすと、次から次へととりかわし、語り合っておられます。
 文は壮麗を極め、学は古今東西を貫き、視点は歴史の原点からはるか無限の未来に沿って論及されておられますが、何れも究極の人間の神秘を、限りない慈悲の御心をこめておられます。拝読してゆくことは、まるで真理の経緯を辿たどってゆくような思いがいたし、最後の一句までえりを正さずには、おられませんでした」と。
 また「先生の『人間学』もいまだ拝読中でございますが、先生は人間を見、人間の本質をつかむ天才でいらっしゃること、人間を見る視点について、実に多くのことを御教示いただきました。特に先生が人間をゆるし、抱擁ほうようせられるその人間的空間の広大さ、その自由な偉大さには、深い感銘を受けずにはおられません」と記されていた。
 大変なおほめの言葉であり、私に対する励ましの言葉と思っている。
 こうした対談集で述べている私の思想も、哲学も、すべて仏法を根本としたものであり、学会の理念と実践にもとづいたものである。その意味で、この学者は、仏法の偉大さ、学会の理念と実践の素晴らしさを深く認識してくださっているわけである。
19  学会員のなかには、あまりに自分たちの身近なところにあるためか、仏法の卓越さや学会の素晴らしさが分からなかったり、見失ってしまう人がいるかもしれない。しかし、他の世界にあって、行き詰まった自分たちの社会や運動に、何らかの活路を見いだしたいと悩み、願っている人たちにとっては、仏法や学会の素晴らしさが、よく理解できるにちがいない。
 私どもには世界第一の仏法がある。その仏法を奉じて世界の平和と人類の幸福のために行動している学会は、世界最高の思想団体であり、実践の教団なのである。そのことを深く確信し、また誇りともして、広宣流布という尊い目的と使命を果たしゆくために、悠々と進んでいただきたい。
 最後に、婦人部の皆さまのご健勝とご多幸をお祈りするとともに、よき母親であり、うるわしいご家庭であり、朗らかなご一家であられるよう心から念願し、私のスピーチとしたい。

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