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日蓮大聖人・池田大作

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創価学会創立58周年記念勤行会 自分らしく「人間」の道開け

1988.11.18 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

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2  先日、「読売新聞」の日曜版の″こよみ″の欄で、「11・18」について次のように紹介されていた。
 「教育革命を目指していた牧口常三郎の『創価教育学体系』第一巻が一九三〇年今日発刊され、初めて創価教育学会の名がおおやけになった。牧口は小学校長として外国の教育理念の直輸入でない日本独特の教育を主張」と。
 新聞に掲載されたこと自体は、小さなエピソードかもしれない。しかし、この「11・18」学会創立の日は、もはや、一団体の記念日のわくにはおさまらない時代となったわけである。
 この日、一九三〇年(昭和五年)十一月十八日は、牧口先生と戸田先生の師弟によって、歴史に刻印された「創価」(価値創造)の記念すべき″第一歩″であった。
 そしてそれは、日本の「教育史」はいうまでもなく、「思想史」「精神史」、さらには「民衆史」を画する大きな意義をはらんでいたのである。やがてその重みは、時とともにさらにさらに増大していくにちがいない。
 先ほどの新聞記事にも紹介されていたように、牧口先生の「創価教育学」はまことに独創的な学説であった。ともすれば外国の模倣もほうに流されやすい日本の学問の風土のなかでは、これは特筆すべきことである。そして近年では、外国の研究者からも牧口先生の教育学の「先見性」「世界性」に関心が寄せられ、光が当てられている。
 例えばその一人、アメリカ・インターナショナル大学のデイル・M・ベセル教授(教育・人類学)は「現代の教育には人間の『心』を閉ざしてしまう要因が少なくない。これに対し、牧口先生の教育学は、人間の『心』を開き、人間がたゆまずに成長し、前進していくための指標を与えていく」と評価している。
 またこうした研究者等の方々の尽力によって『創価教育学体系』の英訳が、アメリカのアイオワ州立大学出版局から、明年の「11・18」を期して発刊される運びとなっている。さらに今後も、各国語への翻訳が進められ、牧口先生の理念と実践が、広く世界へと紹介されていくことになろう。
3  「教育」は、いうまでもなく「社会」の根幹を担い、「文化」の源を支える重要な分野である。
 牧口先生の「教育」における理念と実践は、日蓮大聖人の仏法を根底にして社会に真実の価値を創造しゆくことを目指したものであった。それはおのずから「仏法即社会」の法理に通じているといってよい。
 この点について日淳上人は、次のように述べられている。
 「(牧口)先生には宗教は即教育であり、教育は即宗教であったのであります」「仏の道を教育において実践された、れが先生の面目であると私は深く考へてをるのであります」(創価学会第二回総会御講演)――と。これに関して日淳上人は、さらに詳細に語られいるが、時間の都合上ここでは略させていただく。いずれにしても日淳上人は仏法の法理の上から、牧口先生の「創価教育学」を最大に顕彰けんしょうし、意義づけてくださっている。
 今日、仏法を基調に世界の舞台で繰り広げられているSGI(創価学会インタナショナル)の「平和」「文化」「教育」にわたる多彩な運動の淵源えんげんも、牧口先生の「創価」の「一歩」のなかにあったことはまちがいない。
 その意味から、今度は、皆さま方お一人お一人が、自らの使命の分野で、また使命の国土で、新しき「創価」の「一歩」を自分らしく刻んでいっていただきたいと念願する。
4  日本の黎明期担った英人医師ウィリス
 さて、先日、日英協会のサー・ヒュー・コータッツィ会長と会談した。
 同会長は、かつて駐日イギリス大使を務められたほか、自ら日本についての研究書やエッセーを執筆し、その何冊かを日英両国で出版されるなど、長年、相互理解の推進に尽力されてきた方である。会談では「『国際化』の本質は『相互理解』である」と述べられていたが、まさにその通りである。
 そのさい、わざわざ、近著の『維新の港の英人たち』を贈ってくださった。本年は明治維新から、ちょうど百二十年。この本は、維新期にあって、日英交流に貢献した先駆の人々を丹念に掘り起こし、その苦労談や業績など、感銘深いエピソードをつづったものである。
 いつの時代であれ、またいかなる分野であれ、草創期を開き、築いた先人の姿というものは、後世のかがみとなり、未来へ、無限の知恵の光を与えゆくだろう。また、先駆の功労は、時とともに輝きを増し、光彩を広げていくにちがいない。
5  コータッツィ会長の著書に『ある英人医師の幕末維新』がある。そこでは、近代日本の黎明れいめい期を生きたイギリス人医師の足跡が、その書簡と報告文をもとにえがかれている。きょうは、その英人医師について、コータッツィ会長の書物を参考にしつつ、少々、紹介しておきたい。
 医師の名は、ウィリアム・ウィリス。わが国には、イギリス公使館の補助官兼医官として着任した。滞在したのは、一八六二年(文久二年)から一八七七年(明治十年)の十五年間。それは彼が、二十五歳から四十歳までの期間であった。
 江戸末期にあって、西洋医学の精通者が、まことにまれであったことは、いうまでもない。しかも、幕末の動乱期である。最新の医学を修めたウィリスは、戦乱で傷つき、倒れた者たちの治療にあたった。戊辰ぼしん戦争のさいは、自らすすんで、厳寒の会津にまで従軍し、敵味方を問わず、負傷兵の治療に尽くしている。
 また、鹿児島をはじめ、各地で外科の実地教育を進め、クロロホルムの麻酔を導入するなど、揺らん期にあった近代日本医学の発展に貢献している。
 とくに、この時期の日本では、外国を撃退げきたいしようとする偏狭へんきょうな「攘夷じょうい思想」も根強かった。ウィリスも何度か、生命をねらわれ、九死に一生を得たこともあった。にもかかわらず彼は、日本滞在を続け、医学を通じて日本人のために献身している。
6  ウィリスは、ある手紙のなかで、次のように述べている。
 「私は日本人の外国人にたいする友情が育つよう、できるかぎりの努力をしてきました。そして、まだ外国人を見たこともない民衆と絶えず接触するようつとめています」
 二百年以上の鎖国の眠りについていた当時の人々にとって、外国人は、まことにめずらしい存在であり、それだけに、嫌悪けんおや恐怖に似たものを感じたとしても、決して不思議ではなかった。
 彼の方にも、はじめは当時の西洋人の多くが抱いていた人種的偏見があったようである。だが「民衆と絶えず接触する」ことを決意した彼の思想の奥底には、″イギリス人も日本人も、同じ人間ではないか″との、人間としての共感があり、素朴な人間愛が脈打っていたように思えてならない。
 また、ウィリスは次のように書簡につづっている。
 「ひそやかな時間の流れに流されながら、われわれの顔や心持は変貌へんぼうをとげ、それから寄る年波に肉体も精神もやがて衰えていくのですが、人間について考える時、私は過ぎゆく時間のなかで人間性の美しい特質がますます昇華されることを望みたいのです」
 「人間性の美しい特質」は、人種の違いや偏見を超えて、時とともに熟成し、花開いていくことを、彼は信じていた。ゆえに、多少の偏見はあっても、目前の患者の治療に誠実に取り組み、多くの日本人と豊かに心を通い合わせ、理解しあうことができた。そして日英交流の草創のいしずえを築き、日本の近代文化の発展に確かな足跡を残したのである。
7  ウィリスの存在は、幕末に活躍した外国人のなかでも、どちらかといえば、地味なものであったかもしれない。しかし、彼の日英交流への夢とこころざしは、百年以上たった今にも、脈々と伝えられ、息づいている。新たな日英の交流に尽力するコータッツィ会長も、ウィリスの足跡を研究するなかで、その徹した生き方から、何らかの無言の励ましや勇気を強く感じ取られたのではないだろうか。
 「生命」の力用りきゆうとは、まことに不可思議である。強靭きょうじんな「精神」は、時を超え、空間を超えて、ひびき、伝わっていく。目に見えるような心の″流れ″があるわけではない。だが、「心」から「心」へ、透徹した「一念」は、確かに流れ、継承されていく。
 ウィリスの「心」は、今日のコータッツィ会長らにも流れ、通っている。それは「心」と「心」の共鳴であり、ウィリスは、百有余年の歳月を経て、最も理解しあえる知己ちきを得たともいえる。
8  私どもの運動も、決して派手なものではない。日々の広布の活動は、むしろ地味な実践の積み重ねであり、華やかなスポット・ライトを浴びるようなものではない。しかし、それぞれの立場で、おのが使命に生ききった人生の軌跡は、後進たちに必ずや道を開き、その限りない激励と支えになっていくにちがいない。
 まして妙法は、永遠である。先駆の功労は三世に輝き、万代へのほまれとなっていく。どうか皆さま方は、世界広布の大願へ、日々、盤石な基盤を築いているとの誇りも高く、我が使命に堂々と邁進まいしんしていただきたい。
 次に日蓮大聖人の御書を拝読したい。どこまでも真剣に御聖訓を拝し、御聖訓のままに行動していくことが、私どもの永遠の規範である。
 「下山御消息」には、こう仰せである。
 「今の人人は人毎とに経文を我もよむ我も信じたりといふ只にくむところは日蓮計なり」――今の(世の)人々は、だれもかれも「自分も経文を読んでいる」とか「自分も経文を信じている」と口では言っている。それにもかかわらず、ただ日蓮ばかりを憎んでいる――。
 すなわち大聖人を憎む世間の人々は、法華経をはじめとする仏の経文を、ただ読んだつもりになり、また信じているように言っているだけであると。
 それでは仏の教えを本当に信ずるとは、どういうことか。
 大聖人は続いて「経文を信ずるならば慥にのせたる強敵を取出して経文を信じてよむしるしとせよ」――もしも(法華経・涅槃経の)経文を信ずるならば、(その経文に)明らかにせている(僣聖増上慢という)強敵が、現実には一体だれであるかを(すなわち極楽寺良観であるということを)はっきりさせ、それをもって、経文を信じて読んでいる証明としなさい――と述べておられる。
 すなわち法華経には、法華経の行者とともに必ず三類の強敵が出現すると説かれている。もしも法華経を信ずるというのであれば、だれが経文のごとく、法華経の行者を迫害している仏敵であるか。
 そうした、迫害する者とされる者の戦いという事実を、はっきりまなこけて見なさい。そして仏敵と戦っていきなさい。そうでなければ、信仰といっても観念であり、かえって法華経にそむくことになる、との御心と拝される。
 さらに「若し爾らずんば経文の如く読誦する日蓮をいかれるは経文をいかれるにあらずや仏の使をかろしむるなり」――もし、それもしないで、経文どおりに読誦する(身読している)日蓮を憎むことは、経文を憎むことではないか。仏の使いを軽んじることになる――と厳しく指摘しておられる。
 法華経の行者を憎むことは法華経を憎むことになる。法華経の行者を軽侮けいぶしたり、そしることは、法華経を軽んじ、見下みくだし、そしることになる。この道理を示しておられる。
 法華経を真実に信じ、読んでいるかいなか。それは経文どおりに、現実に難にあい、強敵と戦っているか否か、この一点にかかっている。
 このことを大聖人は、御自身の外用げゆう(衆生の機根に応じて外にあらわれた姿)の御振る舞いを通して、私ども門下に示してくださった。そして、その真の″行者″とともに仏敵と戦っていく人のみが、法華経を信じ読んでいる人であると教えてくださっている。
 次元は異なるが、私どもが大聖人の真実の門下であるかどうかもまた、御聖訓のままに、難にあい、強敵と戦っているかどうかにかかっている。
 そして、この御文の御心を拝するならば、どんなに御本尊を信じ、御書を拝しているといっても、難と戦っている正しき門下をそしり、軽んじるならば、それは大聖人の御書をそしり、御本尊と大聖人を軽侮することに通じる。仏法に違背する行為となるゆえに、重大な罪をつくってしまう。
9  今こそ万代への「創立の礎」を
 学会は、これまで諸難にあい、ことごとく乗り越えてきた。そこに真の大聖人門下のあかしも栄光もある。牧口先生は、つねづね「悪人の敵となりうる勇者でなければ、善人の友となり得ぬ」と言われていた。悪と戦う勇気がなければ、自分もまた悪に通じてしまう。
 さらに「自分の一個のために信仰している人には決して魔は起こらない」、しかし「敢然と大悪を敵として戦っているような者であれば、三障四魔が紛然として起こるのが当たり前であり、起こるが故に行者といわれるのである」(趣意)と。
 これが御聖訓を拝しての牧口先生の確信であり、覚悟であられた。牧口先生は、この言葉の通りに、国家神道と結びついた軍部権力の弾圧と戦いぬかれた。
 そして創立の日から、ちょうど十四年後の一九四四年(昭和十九年)十一月十八日、厳寒の獄中で、殉教じゅんきょうの生涯を終えられた。時に七十三歳――。ここに、崇高すうこうなる「創立の一念」が、永遠に崩れざる「誉れ」として刻印されたのである。
 この「創立の一念」に、第二代・戸田先生は、ただ一人続かれた。第三代の私は、この戸田先生の弟子の道を、まっしぐらに貫いてきた。師弟という無二の軌道を微塵みじんもゆるがせにせず走りぬいた。ゆえに私には何のいもない。そして何ものもおそれない。
 この初代から二代、三代と続く忍難の系譜けいふにこそ、不滅の学会精神が脈動している。
 牧口先生の亡くなられた年齢に比べ、私も、まだまだ若い。これまでの十倍、二十倍、広布のために、ご奉公していく決心である。
 まして青年部の諸君が、情熱と力の限りをつくして戦っていくことは、全部自分のためであり、当然のことと私は思う。歴代会長に貫かれた「創立の一念」を、壮大なる未来へと受け継ぎ、広げ、目のさめるような素晴らしき広布図の建設を実現していくよう期待する。
10  かつて日達上人は、法華経の結経である普賢経ふげんきょうの文を引かれて、次のように仰せである。
 「本門戒壇の大御本尊を信じ奉り、南無妙法蓮華経と唱えて、自ら「力無畏りきむい」(おそれなき力)の心をもって、謗法を折伏していくのである。そこに大聖人の弟子檀那だんなである皆さまの強さ、偉大さがあり、学会が必然的に増大し、それにともなって、日蓮正宗の発展する根本原理がある″(創価学会第三十一回本部総会御講演)と。
 日達上人は、正しき折伏・弘教の活動によって学会の前進があり、学会の発展にともなって日蓮正宗の発展があると述べられているわけである。
 すなわち、学会には、絶対の「正しき信心」がある。そして何ものをもおそれぬ勇猛ゆうみょうの「心」があり、「行動」「実践」がある。この折伏・弘教の根本原理にのっとっているがゆえに、いかなることがあろうとも、学会は前進に前進を続け、発展に発展を重ねていくことは必然なのである。
11  ともあれ、末法万年、いな尽未来際を志向した私どもの広布の大長征である。その壮大なるスケールに立てば、今もまだ「創立」の時といえるかもしれない。
 皆さま方もよくご存んじの通り、「創立」の英語訳「ファンデーション」そして、その語源であるラテン語の「フンドゥス」には、「基礎」「底」という意味がある。
 ありとあらゆる労苦の経験なくして、盤石なる「基礎」も「土台」もできない。現在、現れているさまざまな課題は、すべて万年の「基礎」を、さらに完ぺきに固めていくためにこそある。そのための御仏意であると私は確信している。仏法には一切無駄はない。
 それらの一つ一つを、勇気ある信心で戦い、勝ち、乗り越えていく――そこにこそ壮大なる世界の広宣流布の、堅固な基礎が築かれていくにちがいない。それを強く確信し、皆さま方は、いかなる苦難をも、楽しく乗り越え、笑顔で朗らかに前進していただきたい。
12  戸田先生は、つねづね、次のように語っておられた。
 「我々の目的は、全人類に仏の境涯、すなわち最高の人格の価値を顕現させていくことにある。そこに世界平和の基盤もつくられ、地球上に真の幸福がもたらされるのである」と。
 世界には、実にさまざまな目的をもった運動がある。しかし、私どもの広布の運動以上に、崇高なる目的と、その実現への確かな裏付けの哲理と行動をもった運動は、絶対にないと申し上げておきたい。
 さらに戸田先生は「我々は久遠よりのきずなで結ばれた、うるわしき同心の人々である。そして、今また、久遠の晴れやかな世界から、この娑婆しゃば世界に、そろって涌出ゆじゅつしたのである」と言われていた。
 末法の人類の幸福のために私どもの広布の運動がある。それを担い、実現せんとして、ある人はイギリスに、フランスに、ドイツに生まれてきた。また、アメリカに、南米のブラジルにと、出現してきたわけである。
 皆さま方は、現在、さまざまな境涯にあるかもしれない。しかし、それは願って生まれてきたのである。一人一人がそれぞれの誓いと使命によって、世界の各地の平和と幸福を担い立った地涌の勇者なのである。その誉れある立場と、この世に生を受けた尊い意義を、決して忘れてはならない。
 そして、この楽しく、清らかな、仲の良い信心の世界を共々に守りあい、苦悩多き現実社会に、妙法のさちの世界を、さらにさらに広げていただきたい。
 どうか、全世界をつつみゆく、この妙法の同志のスクラムとスクラムを強く結びあいながら、一九九〇年に迎える大石寺開創七百年、また学会創立六十周年、そして世界広布三十周年を目指して、晴ればれと前進をしていきたい。
13  尊き弘法を「忍辱」の心で
 次に、弘教を進めるうえで大切となる「忍辱にんにく」の姿勢について、述べておきたい。
 御義口伝には、不軽菩薩ふきょうぼさつの「礼拝住処らいはいじゅうしょ」として「生老病死」「慈悲」など十四箇所が示されている。礼拝住処とは″礼拝するところ″との意味で、仏道修行を成就じょうじゅするための基盤となるものである。
 つまり、不軽菩薩が仏道修行をまっとうする上で、り所とした″場″″住処″のことで、十四箇所のうち最後の「忍辱地にんにくじ」について、御書に次のように仰せになっている。
 「既に上慢の四衆罵詈めり瞋恚しんにを成して虚妄の授記と謗ずと云えども不生瞋恚しんにと説く間忍辱地に住して礼拝の行を立つるなり」――すでに上慢の四衆が不軽に対し罵詈瞋恚をなして、虚妄の授記であるとそしったけれども、不軽は瞋恚を生じなかったと説かれている。ゆえに、忍辱地に住して礼拝の行を立てたことがわかる――と。
 増上慢の衆生が、自分たちが必ず仏に成るであろうとの不軽菩薩の約束はいつわりであると、怒りをなしてののしった。しかし、不軽は、忍辱すなわち忍受してうらまない境地にあって、衆生に対していかりを覚えることもなく、礼拝の行を全うしたのである。
14  戸田先生は、私どもの仏道修行における「忍辱の姿」について、次のように述べられている。
 「折伏は慈悲の行為であり、法施ほうせなのである。その人をたずぬれば仏の使いであり、仏よりつかわされたる人であり、仏のを行う者である。その位置を考うれば、秀吉、ナポレオン、アレキサンダー等より幾十億倍すぐれる。普賢ふげん文殊もんじゅ弥勒みろく等は、遠くよりこれを拝し、梵天帝釈ぼんてんたいしゃく等も、きたつかうるのである。かかる尊き身をかち得て、折伏を行ずる、われわれの喜びは、何ものにも、たとえようもないものであるべきだ」と──。
 この戸田先生の言葉は、皆さま方が日々懸命に弘教に励んでおられる姿、それがどれほど尊く、崇高なものであるか。また皆さま方お一人お一人が、どれほど偉大な立場にあるか、を示されている。
 末法において一言でも仏法を語り弘めることは、仏の使いとしての使命である。今日、その偉業にまい進している団体は、この地球上に日蓮正宗創価学会をおいてない。皆さま方は、いわば世界の人類の″先覚の道″を歩んでおられるのである。
 さらに先生は、こうも述べられている。
 「しかるに、この行事たるや、難事中の難事なのである。ゆえに、法華経にも、このことをたとえていうのには、須弥山しゅみせんを、足のつま先で投げとばすことよりも、また、枯れ草を背にして、大火のなかにはいって、焼けないことよりも、この折伏を行ずることは、なお至難であると説かれている。なぜかならば、今日、末法の世は、五濁悪世ごじょくあくせとも、三毒強盛さんどくごうじょうの世ともいわれて、すなおに仏意を信ずる者は、皆無かいむの時代だからである。自我偈じがげにも、顛倒てんどうの衆生といって、良き宗教を悪しと思い、悪き宗教を良しと思う者ばかりの世であるからである」
 「われらが、情けをもって折伏するといえども、即座にこれを聞く者は、皆無と思うべきである。反対する、悪口罵詈する。あるときは打擲ちょうちゃくにもあうのであって、水におぼれている者が、救わんとする人の手に、かみつくようなものである。無智にして貪欲どんよく傲慢ごうまん、いいようのなき衆生を相手にして折伏するのであるから、その至難さはいうばかりもない。さて、はじめは情けをもって折伏するも、前記のような衆生であるがゆえに、凡夫のわれらは、ときによって、自己の尊貴そんきな位置も、崇高なる使命も忘れて、かれらと同等の位置におちいり、口論けんかとなるときもある。かかることは、おのれをけがし、大聖人にそむき、釈迦仏教界の菩薩級にも、あざ笑われる仕儀しぎにもなるのである」と。
 そのうえで先生は、「吾人は言う。折伏にあたっては、忍辱のよろいよ、と。無智の者より、悪口罵詈されたならば、われ忍辱の鎧をれり、と心に叫んで、慈悲の剣を振るうことを忘れてはならぬ」と結論されているのである。
 折伏は崇高な慈悲の修行であり、無智と憎悪ぞうおの人々による理不尽りふじんな非難や悪口があるのは、御聖訓に照らし当然である。それらに紛動ふんどうされて、自分まで怒りや憎悪の心を起こし、相手と同じ次元に境涯を落としてしまうことは、ひいては法を下げ、御本仏・日蓮大聖人の御心に反することにも通ずる。
 皆さま方は、そうした低次元のことで、成仏の軌道をふみはずすことがあっては断じてならない。心に忍辱の鎧を着て、慈悲の剣をもち、それらを悠々ゆうゆうと見おろしながら、自らの目的に向かって進んでいけばよいのである。この点を、私は強く申し上げておきたい。
 最後に、私は日々、全世界の同志の方々のご健康、無事故を御本尊に一生懸命に祈念している。大切な御本仏のお使いであり、地涌の眷属けんぞくである皆さま方に、私は「くれぐれもお体を大切に」「寒いので風邪をひかないように」、また「夜はよく休んで疲れをいやしながら、爽快そうかいな一日一日を」と申し上げたい。
 本日お集まりの皆さま方の「ご長寿」と「安穏」「ご活躍」を心よりお祈りし、スピーチとさせていただく。

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