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日蓮大聖人・池田大作

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創価学会創立58周年記念勤行会 自分らしく「人間」の道開け

1988.11.18 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

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14  戸田先生は、私どもの仏道修行における「忍辱の姿」について、次のように述べられている。
 「折伏は慈悲の行為であり、法施ほうせなのである。その人をたずぬれば仏の使いであり、仏よりつかわされたる人であり、仏のを行う者である。その位置を考うれば、秀吉、ナポレオン、アレキサンダー等より幾十億倍すぐれる。普賢ふげん文殊もんじゅ弥勒みろく等は、遠くよりこれを拝し、梵天帝釈ぼんてんたいしゃく等も、きたつかうるのである。かかる尊き身をかち得て、折伏を行ずる、われわれの喜びは、何ものにも、たとえようもないものであるべきだ」と──。
 この戸田先生の言葉は、皆さま方が日々懸命に弘教に励んでおられる姿、それがどれほど尊く、崇高なものであるか。また皆さま方お一人お一人が、どれほど偉大な立場にあるか、を示されている。
 末法において一言でも仏法を語り弘めることは、仏の使いとしての使命である。今日、その偉業にまい進している団体は、この地球上に日蓮正宗創価学会をおいてない。皆さま方は、いわば世界の人類の″先覚の道″を歩んでおられるのである。
 さらに先生は、こうも述べられている。
 「しかるに、この行事たるや、難事中の難事なのである。ゆえに、法華経にも、このことをたとえていうのには、須弥山しゅみせんを、足のつま先で投げとばすことよりも、また、枯れ草を背にして、大火のなかにはいって、焼けないことよりも、この折伏を行ずることは、なお至難であると説かれている。なぜかならば、今日、末法の世は、五濁悪世ごじょくあくせとも、三毒強盛さんどくごうじょうの世ともいわれて、すなおに仏意を信ずる者は、皆無かいむの時代だからである。自我偈じがげにも、顛倒てんどうの衆生といって、良き宗教を悪しと思い、悪き宗教を良しと思う者ばかりの世であるからである」
 「われらが、情けをもって折伏するといえども、即座にこれを聞く者は、皆無と思うべきである。反対する、悪口罵詈する。あるときは打擲ちょうちゃくにもあうのであって、水におぼれている者が、救わんとする人の手に、かみつくようなものである。無智にして貪欲どんよく傲慢ごうまん、いいようのなき衆生を相手にして折伏するのであるから、その至難さはいうばかりもない。さて、はじめは情けをもって折伏するも、前記のような衆生であるがゆえに、凡夫のわれらは、ときによって、自己の尊貴そんきな位置も、崇高なる使命も忘れて、かれらと同等の位置におちいり、口論けんかとなるときもある。かかることは、おのれをけがし、大聖人にそむき、釈迦仏教界の菩薩級にも、あざ笑われる仕儀しぎにもなるのである」と。
 そのうえで先生は、「吾人は言う。折伏にあたっては、忍辱のよろいよ、と。無智の者より、悪口罵詈されたならば、われ忍辱の鎧をれり、と心に叫んで、慈悲の剣を振るうことを忘れてはならぬ」と結論されているのである。
 折伏は崇高な慈悲の修行であり、無智と憎悪ぞうおの人々による理不尽りふじんな非難や悪口があるのは、御聖訓に照らし当然である。それらに紛動ふんどうされて、自分まで怒りや憎悪の心を起こし、相手と同じ次元に境涯を落としてしまうことは、ひいては法を下げ、御本仏・日蓮大聖人の御心に反することにも通ずる。
 皆さま方は、そうした低次元のことで、成仏の軌道をふみはずすことがあっては断じてならない。心に忍辱の鎧を着て、慈悲の剣をもち、それらを悠々ゆうゆうと見おろしながら、自らの目的に向かって進んでいけばよいのである。この点を、私は強く申し上げておきたい。
 最後に、私は日々、全世界の同志の方々のご健康、無事故を御本尊に一生懸命に祈念している。大切な御本仏のお使いであり、地涌の眷属けんぞくである皆さま方に、私は「くれぐれもお体を大切に」「寒いので風邪をひかないように」、また「夜はよく休んで疲れをいやしながら、爽快そうかいな一日一日を」と申し上げたい。
 本日お集まりの皆さま方の「ご長寿」と「安穏」「ご活躍」を心よりお祈りし、スピーチとさせていただく。

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