Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

練馬、町田、飾区合同総会 広布に徹す福徳は三世に

1988.11.3 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

前後
2  私は常々、八王子を創価文化の中心地に、との構想を描いてきた。創大では現在、二年後の創立二十周年へ向けて、記念講堂の建設計画を進めている。これは、大学の講堂としては、規模、設備の面でまことに立派なものになる予定で、さらに校舎等の施設も拡充していくことになっている。
 また、学会創立六十周年を記念して、牧口初代会長の遺徳をしのび、高齢になられた牧口門下生の方々の功労を顕彰する意義を込めて、創大の近くに仮称「牧口記念自然公園」を設けていくことになった。
 この公園ができれば、八王子市民や学生をはじめ皆さまのお子さん、お孫さん、また来日する海外の友にとっても、素晴らしい憩いの場所になると思う。そしてこの公園の記念碑の下に、本日の行事に参加された方々全員の氏名を埋納し、後世に残していくことを提案させていただきたい。
 ともあれ一回の会合での指導が、三世永遠の出発を決する契機となる場合もある。また、九州では、「多宝会」という年配の方々のグループも集っておられるとうかがっている。
 そうした意味から、本日は、″人生最終章の仕上げを、どう生きていくか″、また、″妙法を持った人の人生はどうちがうのか″ということについて少々お話ししたい。
3  アメリカSGIの先駆の勇者たたえる
 私のもとには日々、日本各地はもとより世界中の友から、さまざまな報告や相談が寄せられている。当然、学会本部の会長、理事長、また各副会長のもとにも寄せられるが、なぜか私が一番″人気″があるようだ。私に報告すれば「ことが早く運ぶ」という賢明なご判断のゆえか、こうした報告は、膨大な数に上っている。
 問題は多岐にわたり、また多くの難問もあるが、的確に、即座に解決にあたるよう務めている。尊い仏子である同志の皆さまにかかわることは、たとえ一枚の報告書であっても、いささかたりともゆるがせにはできない。こうした深い心と心のきずなを大切にし、築いてきたのが私どもの世界である。
 ″私は、会員の皆さまのためにある″との信念と誇りで、今日まで戦ってきたつもりである。会員の方々が事故にあわないように、病気をしないように、幸福でありますように──と一生懸命、心を尽くして私は日々御本尊に記念している。
 幹部の皆さま方も、そうした「一念」と「責任感」で祈り、行動していただきたいと思う。それが私の切なる願いでもある。幹部の一人一人が、その深く強き「一念」に立つならば、広宣流布の運動はさらに十倍、百倍と広がっていくにちがいない。
4  さて、二週間ほど前に、アメリカのアリゾナ州の州都・フェニックスの地から一通の便りが届いた。それはアメリカSGI(創価学会インターナショナル)の副理事長、テッド・オオサキさんからのものであった。
 実はオオサキさんは、今年の三月に肺ガンで、すでに肝臓にも転移していることがわかり、以来、闘病生活を続けていた。
 一枚の便せんのその手紙には、私が御書を差し上げたことに対する謝辞が簡潔につづられてあった。「この御書を根本に病魔と戦います。勇気を奮い起こして戦いきり、元気いっぱいで池田先生をアメリカにお迎えしたい」と……。
 私には、この手紙を涙でつづったであろう彼の心情が深く察せられてならなかった。
 それを読んで私は即座に、短冊たんざくに「三世山安穏城」としたためた。そして、本部で決定した「創価学会名誉副会長」「教学部師範」の称号とともに、ちょうど訪米の途につくところであったSGI本部事務局の職員に託して、フェニックス市の病院に届けた。オオサキさんは心から喜ばれていたようである。
 そして二日後の十月二十二日に亡くなられた。享年五十七歳であった。
5  安祥とした臨終に信心の荘厳な実相
 オオサキさんの最後の姿について、何人かの方から感動を込めての報告があった──。
 その日、秋晴れの朝、オオサキさんは六時過ぎに起床した。ちょっと息苦しいと言いながらも唱題をしていたという。
 八時ごろから、好きだった「人間革命の歌」をテープで聴き、夫人と懇談。この折、夫人に対し「ありがとう」との言葉をかけている。
 九時五分ごろ、「おいしいなあ」と言いながら水を飲んだ。その後、静かに休んでいたので、夫人は題目を唱えはじめた。
 九時八分、あまり静かなので見たところ、オオサキさんはすでに息を引きとっていたという──。
 ガン特有の痛みの症状も全くなかった。「半眼半口はんがんはんくで、死後五時間たっても温かく、みを浮かべて眠っているようでした」と夫人は語っていたそうである。
 夫人も、また二男二女のお子さんたちも、故人の心を継いで、立派に信仰と人生の大道を歩んでおられるとうかがった。
 その凛然りんぜんたる姿は、無言のうちにも、周囲の人々に深い感銘を与えたようである。
 これこそ、妙法に生ききった人の臨終の姿である。折伏を行じ、広宣流布に徹しぬいた人に共通の、荘厳な霊山への旅立ちの姿である。
 私は真心の歌を贈らせていただいた。
 「偉大なる アメリカ広布の 君なれば 三世に諸仏も 守り讃えむ」と──。
6  使命の人生に信行を悔いなく
 オオサキさんは、いわゆる二世として、アメリカに生まれ育った。空軍の中佐にまでなった軍人であった。
 入信は一九六四年(昭和三十九年)、三十三歳の時である。今年で二十四年──。信心一徹の後半生を歩んでこられた。
 彼が責任者として指揮をとった方面は、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ワシントン、シカゴ、そして最後のアリゾナと、全米にわたっている。
 どこに行っても、彼は愚痴ひとつ言わず戦った。彼が行くところ、必ず弘教の波が起こり、人材が伸び、見事に広布の組織が発展していった。
 何ごとであれ、所詮、「人」である。指導者に人を得るかいなかで、一切の消長が決まってしまう。また真剣でなく、力がない人間に限って、何かあると文句を言ったり、立場を利用して、うまく立ち回り、結局、多くの人々に迷惑をかける結果となることが多い。
 真摯しんしな人は、どこに行っても真摯である。中途半端な人は、何をしても中途半端となる。
 オオサキさんは、常に高い気概をもっていた。それは最も正しく、最も尊貴なる「弘法ぐほう」の行動──これに関しては″誰にも負けない″ということだった。そうした彼の活躍の姿は、「組織を伸ばす名人」として、人々の語り草になっている。
 彼はまた「個人指導の名人」として慕われていた。「一人」の人が、心から納得すること。いつ、いかなる場合でも、これが組織の基本である。この基本に、彼は徹底して忠実であった。
 大きな掛け声だけで人を動かしてみせても、それで広布が進展していると考えたら、大きな錯覚である。それでは、決して長続きするものではないし、地についた発展の軌跡は描けない。
 彼は、とりわけ青年を愛し、育てた。病床にあっても、自らが育てた多くの人材の活躍を見守り続けた。
 要するに彼は、「行学の基本」に徹しきった。たとえば「リーダーは勤行が正確にできなければ失格だ」と、口グセのように語っていたという。また御書も、わからないところがあると、謙虚に、また真剣に、どこまでも質問し、学んでいった。
 亡くなる二カ月ほど前のことである。彼は自分の心境を、まるで遺言のように語り、テープにとどめている。
 そこで彼は「人生の師をもち、師弟の道に徹してきたからこそ、今の自分がある」とし、繰り返し、これ以上の喜びはないと語っている。そして広布の組織への尽きせぬ感謝の思いを、しみじみと述懐していたという。
 彼は、亡くなる二日前にも「もう一ぺん、元気になって広宣流布のために戦いたい」との心意気を語っている。
 「広布の世界」「信心の世界」で戦ってきたことが、どれほど、ありがたく、他では絶対に得られない充実と幸福に恵まれていたかを、彼は痛感していたのであろう。
 これは、一度でも病に倒れたことのある人の共通の実感でもある。ゆえに、健康の時にこそ大いに働くべきである。そうでなければ深い悔いを残してしまう。
 彼が最後に広宣の指揮を執り、そして逝去せいきょしたフェニックス市は、その名も「不死鳥」の意である。
 我が身を燃やしつくし、その炎の中から、再び新しき生命を得てよみがえるフェニックス──。私は、彼がすぐに、愛してやまなかったアメリカの天地に蘇生してくると信ずる。今世の信心の大いなる果報を生命に満ちあふれさせながら、再び「妙法広宣流布」の陣列に、はせさんじてくるにちがいない。
 ともあれ、彼は、生涯の最後の瞬間まで、信仰一筋に生き抜いた。身は病に倒れようとも、信心の情熱は衰えることがなかった。心のまなこ炯々けいけいとアメリカ広布の未来を見つめていた。
7  妙法に生き抜く人が王者
 「信心」を我がいのちに染め抜いた人は強い。永遠に輝く不壊ふえの生命となる。尽きぬ無限の知恵と力がわいてくる。妙法は宇宙大の法であり、信心の「心」を開けば、宇宙の大生命力が満々とみなぎってくる──。
 これほどの宝をもちながら、信心が中途半端で終わってしまっては、あまりにも、もったいない。三世にわたる最大の損失である。
 食べ物のオデンでも、″ダシ″がよくみこんでいるかどうかで味がきまる。幹部であっても、また社会的地位があっても尊い仏子である同志を見下し、利用したり、うまく組織を泳いでいったのでは、本当に信心を生命に染め抜くことはできないし、最後は自分が不幸である。
 どうか、一日また一日、一年また一年、いよいよ強き強き信心を重ねて、これ以上はないという人生の醍醐味だいごみを味わいきっていただきたい。
 オオサキさんの死は、若いといえば、まだ若かったかもしれない。しかし、実は六年前、彼は一度、大きな心臓発作で倒れている。
 私は、これまで、数えきれぬほど人々の「生」と「死」のドラマを見守ってきた。幾千、幾万の臨終の姿を見、また報告も受けてきた。その経験に照らして、断言できることは、たとえ一見、短命のように見えたとしても、必ず「更賜寿命きょうしじゅみょう」(さらに寿命を賜え)の経文のままの功徳の実証が、何らかのかたちで厳然と、あらわれているということである。
 いわゆる世間の眼や肉眼だけではわからない。信心の眼から見る時、そのことは、おのずから感じられるものである。
8  日蓮大聖人の門下の一人「石河の兵衛ひょうえ入道」の娘は、やまいのため、若くして亡くなった。一説では、彼女は南条時光のめいにも当たり、こうしたえんからか、早くから親子ともども純真な信心に励んでいたようだ。
 この「ひめ御前」は、亡くなるすぐ前に死を覚悟し、「さいご(最後)の御ふみなり」(これが最後の御手紙になります)としるした手紙を大聖人にお届けした。そして、臨終の折には題目を粛然しゅくぜんと唱え、亡くなっている。
 その姿に対し、大聖人は「此の女人は・なにとなけれども自然に此の義にあたりて・しををせるなり、たうとし・たうとし」と仰せになっている。
 つまり、彼女は、なんとはなしに、自然のうちに、正しい実践にかなった信心を貫き通した。これは、まことに尊いことである、尊いことである、と御本仏自ら最大の賛嘆の言葉をくださっている。
9  真実の「勝利」と「幸」の生涯であったかどうか──それは人生の途中の姿では分からない。また、単に長生きしたかどうかで決まるものでもない。最後の最後まで、正しき信心の道を歩み抜いたかどうか。ここに、すべてを決する要諦ようていがある。
 生命は永遠である。かりに病気等で早世そうせいしたとしても、妙法を根本に広布のため、人々のために戦いきった場合には、今世よりは来世、来世よりはその次の世と、限りなく福徳を増し、生命力を強めながら三世永遠に「幸福」の軌道を飛翔ひしょうしていけるというのが妙法の絶大なる力用である。
 ゆえに″若死にしたから信心がおかしい″とか、″子供を亡くしたから信心が弱い″とかいうことは絶対にないし、単純にそう考えることはあやまりである。
 たとえ平凡であれ、短命であれ、妙法にのっとって生き抜いた人は、まぎれもない「生命の王者」であり「生命の王女」となる。
10  ともあれ私は、すべての同志の皆さま方の、ご長寿とご健勝を心からお祈りしたい。それとともに、どうか、何歳になっても″心若々しい″人であっていただきたい。どんなに長生きしても、まるで″三百歳″の枯れきったような、生気も希望もない生き方であっては、かえって不幸であろう。
 そして″楽しい総仕上げ″の人生であってほしい。悩みや不安ばかりの最終章であっては、あまりにもさびしい。「本当に楽しかった」「充実の人生であり悔いは何もない」──そうした所願満足の人生を創造しゆくための信仰である。
11  私事で恐縮であるが、私の母の死去も、まことに安らかな姿であった。まさにみを浮かべるがごとき最期さいごであったといってよい。義父もそうであった。兄も弟もそうであった。そして、次男もまた、眠るがごとき姿でいた。
 肉親の死去にあうたびに、私は、この大白法が、いかに素晴らしき「生死不二」の大法であるか確信してきた。それ以外にも、見てきた多くの臨終の姿の一つ一つが御聖訓の通りであった。信順の人は「福十号に過ぎ」、謗逆ぼうぎゃくの徒は「頭破作ずはさ七分」となる。「死」の姿にこそ、厳粛にして厳然たる″人生の総決算″が凝縮されるといえよう。
12  尊き労苦にいそしむ婦人部の方々を大切に
 さて、ここで佐渡の大聖人門下であった千日尼について、若干ふれておきたい。
 ある時、千日尼は「謗法の浅深軽重」について大聖人に手紙でうかがっている。思うに、佐渡の門下や親しい人々のなかにも、完全には正法に帰伏しえず、謗法のとがまぬかれえない人もいたのであろう。千日尼は、そうした人々を、何とか誤った宗教の悪夢から救い、成仏の道へと導きたかったにちがいない。
 大聖人が千日尼に与えられた御抄のなかに、次の一節がある。
 「一谷の入道の事・日蓮が檀那と内には候へども外は念仏者にて候ぞ・後生は・いかんとすべき」──一谷入道は、内には日蓮の檀那であるとなっているけれども、外に対しては念仏者として振る舞っている。後生は、どのようにするつもりなのであろうか──と。
 一谷入道は、佐渡の地の有力者の一人であった。御流罪中の大聖人の御振る舞いに心を動かされ、心中では帰伏していたようだが、世間体からか、堂々と念仏を改めることはできなかった。
 千日尼は、一谷入道に謗法の恐ろしさを教え、正法に目覚めさせようと強く念願していたのではなかろうか。大聖人は、この尼の思いを深くみとられ、一谷入道の夫人に対して長文の御手紙をしたため激励されているほか、千日尼に、この夫人を心から励ましていくよううながされてもいる。
 一谷入道だけではなかったろう。千日尼にとっては、このほかにも、みすみす謗法によって堕地獄となるのを見過ごしがたい人が、たくさんいたのではないか。
 「謗法の浅深軽重」について、大聖人にわざわざ質問し、健気けなげに佐渡広布に奔走した背景には、いかにも婦人らしい千日尼のこうした温かな心情があったと思えてならない。
13  人間というものは、一人一人実に多彩である。それを一人ももれなく、「成仏」の道へと導く広宣流布は、まことに至難の大事業といってよい。
 その途上には、予期せぬ事件もあろう。思わぬつまずきもあるかもしれない。しかし偉大なものは、さまざまな波浪を受け、さまざまな経験をしなければつくれない。未来を凝視しながら、すべてを達観し、堂々と、悠々と前進していけばよいのである。
 こうした点では、婦人の方が、ちょっとしたことではたじろがないというか素晴らしい強靭きょうじんさがある。
 大聖人は、四条金吾の夫人への御手紙のなかで「日本国と申すは女人の国と申す国なり」──日本国は女人の国といわれる国である──と仰せである。
 これは、直接的には、いわゆる天照太神が女神であることなどから述べられた御文である。しかし私は、いずれの社会、一家にあっても、婦人こそかけがえのない「太陽」の存在であることを示唆しさされているように拝されてならない。
 とくに学会においては、婦人部の皆さま方の労に対し、私は心から感謝と尊敬の思いをささげたい気持ちである。
14  こまやかな励ましを忘るな
 夫の阿仏房が亡くなったあと、千日尼の存在は、ひときわ光ってくる。大聖人は、佐渡の門下への御伝言や御指示も、こまごまと千日尼に託しておられる。
 また、御抄のなかに次のような一節がある。
 「山伏ふびんにあたられ候事よろこび入って候」(昭和新定御書2121㌻)──山伏房を、あなた(千日尼)がふびんに思って面倒をみてくださったことを、私(大聖人)は悦び入っております──と。
 何気ない一節かもしれない。だが、千日尼が″広布の母″″地域の母″として、どれほど心を尽くしているかを、大聖人はすべて御照覧であられた。決して目立った活動ではなかったろう。地道に、黙々と、同志を励まし、苦境の友に心を砕いていったにちがいない。
 次元は異なるが、私どもは第一線の友の労苦をこまやかに知り、心からねぎらい、励ましていかねばならない。なかでも家事や子育ての合間をぬって懸命に走り、苦労されている支部婦人部長、地区担当員、ブロック担当員といった婦人部の皆さまを、最大に守り、たたえ、支えていくべきである。とくに壮年の幹部の方々は、くれぐれもお願いしたい。
 なお、この千日尼とコンビをなしていた、もう一人の婦人がいた。国府尼こうあまである。
 阿仏房・千日尼夫妻には、立派な後継の子息がいた。しかし、この国府尼夫妻には、子供がいなかった。
 ある年、阿仏房と国府入道が二人して、大聖人のもとを訪れるため、身延へと向かった。しかし、ちょうど稲刈りの季節が近づき、人手となる子供のいない国府入道は、残念ながら途中で引き返さねばならないというようなこともあった。そうしたことも、大聖人は御書にわざわざ記してくださっている。
 身延を訪れることができなくても、大聖人はどこまでも二組の老夫婦を公平に温かく見守っておられた。
 その国府尼への御手紙の冒頭に「同心なれば此の文を二人して人によませて・きこしめせ」──(国府尼と千日尼は)同心の二人であるから、この手紙を二人で、人に読ませてお聞きなさい──との一節がある。
 ″同心なれば二人して″と仰せであるが、婦人にとっては、高齢となり、ましてや夫に先立たれた場合はなおのこと、何でも語り合える友人のいる人は幸せであるし、最終章の人生を豊かにいろどることができる。広布に生きる千日尼、国府尼の二人も、まさにそのような麗しい同志の関係であったのであろう。
 また、この二人への御言葉からも、千日尼、国府尼の婦人コンビが、仲良く、呼吸を合わせて前進していけるよう、調和の流れ、美しき同志の心の流れをつくってくださっている大聖人の御配慮が拝される。
 現在、学会の組織にあっても「正」と「副」の役職の人がいるし、核となるコンビの人がいる。そうした立場の人たちが、同じ心で仲が良いところは、組織が強いし、地域広布の進展もめざましい。それがなくなると、どうしても魔の働きに、そのスキをつかれて、組織が乱され、信心のみずみずしい前進もなくなってしまう。
15  大聖人が辧殿べんどの(六老僧の一人となった日昭)に与えられた御手紙に、次のように仰せである。
 「さぶらうざゑもん三郎左衛門どのの・このほど人をつかわして候しが、をほせ給いし事あまりに・かへすがへすをぼつかなく候よし、わざと御わたりありて・きこしめして・つかはし候べし、又さゑもんどの左衛門殿にもかくと候へ
 ──三郎左衛門殿(四条金吾)から、このほど使いの人をよこされたが、その人を通して言ってきたことが大変心もとなく、心配に思います。そこで、あなた(日昭)が四条金吾のところを訪ねて、よく話を聞いてあげていただきたい。その結果を手紙で、私(大聖人)の方に、知らせてください。また、本人(四条金吾)にも、このむねを伝えてください──と。
 この御文からは、くわしい事情はわからないが、当時、四条金吾は、信心ゆえに、弘教ゆえに、さまざまな圧迫、苦難の渦中にあった。その金吾からの、人を通しての報告を、大聖人は非常に御心配なされ、長老の日昭が早速、金吾のもとをたずね、話をよく聞いてあげるよう指示されている。
 苦衷にある金吾を守らなければならない。問題の本質をきちんと把握して、的確な手を打たねばならない。それを間違うと金吾をあやまらせてしまう、との御心であったにちがいない。
16  人の心は、まことに微妙である。絶えず変化しており、わずかなことをきっかけに、良い方へも、悪い方へも行ってしまう。
 ゆえに、信心の世界にあっても、立場が上になればなるほど、後輩のかかえている問題や悩みを、正しく敏感に察知して、こまやかなうえにもこまやかに、励ましのうえにも励ましをお願いしたい。そして、その人が立派に成長して、信心と幸福の大道を歩み抜いていけるよう尽くしていく。それが先輩としての慈愛であり、使命と責任である。
 その意味で、門下の一人一人を、抱きかかえるように心を尽くされた大聖人の大慈大悲を拝した次第である。
 最後に、これからは、寒さも一段と厳しさを増す時節であり、くれぐれも風邪などひかれぬようご自愛いただきたい。大切な大切な、使命ある仏子である皆さま方の、ご多幸とご健康、そしてご長寿を心からお祈りして、私のスピーチとさせていただく。

1
2