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日蓮大聖人・池田大作

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第九回全国青年部幹部会 青年よ民衆のために走れ

1988.10.29 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

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2  先日、「青年部員はいったい何人いるのか」ということを調べてもらった。
 それによると、男子部は二百五十七万人。これには学生部及び高・中・少の未来部が含まれている。それらを除き、座談会などの学会活動に参加している男子部の活動メンバーは約百万人である。
 また女子部は約百六十万人。これも未来部を含めた総数であり、同じく活動に参加している女子部員は約四十三万人とのことであった。
 ともあれ世界に冠たる青年集団である。最高の仏法をたもち、理念も行動も、また人数においても世界一ともいうべき生きた青年運動であり、人類の希望の存在である。その自負と誇りをもって、一層の前進と活躍をお願いしたい。
3  特にこの数年間における青年層の入信増加は目覚ましい。男子部は六年間で二十三万人の新たな友が誕生した。また女子部員は四年間で、五万人も増えている。
 ここで皆さまは二つの数字を比較して「男子部の方が頑張っているな」と思われるかもしれない。しかし、単純に比較することはできない。女子部は″結婚すれば婦人部へ人材を送る″という″宿命的なハンディ″を抱えているから大変なのである。
 本日は各地の女子部長や女子部長を経験された婦人部の先輩方も参加されているが、せっかく苦労して育て、いよいよ本格的に幹部として活躍してもらおうと思っていた大切な後輩を、「男子部が″トンビが油揚げをさらうように″お嫁に取っていってしまった」という苦い経験をお持ちの方も多いと思う。
 こればかりは女子部には気の毒であるが「結婚するな」というわけにはいかない。まあ、「罪は男子部にある」ということでご了解いただくしかない。
 ただし、ここで一点だけ前途ある諸君に申し上げておきたいと思う。
 男子部の一部には「幹部と結婚すると忙しいうえに、信心のことでガミガミ言われるから自由がなくていやだ。やはり幹部になる前の女子部の方が、自分の言うことを聞いてくれるから」という人もあるようである。
 日ごろ、口では「信心が大事だ」と、人には言っておきながら、自分のことになると「信心のある人より、自分の自由になる人を」という″二心ふたごころ″──。安易な判断で相手を選んだ人は、後の四十代、五十代になって、後悔している人も多い。反対に、信心がしっかりしている人と結婚した人は、夫人の信心にも支えられ、大きく伸びているし、後になって「良かった」という場合も多い。
 長年、数多くの夫婦の姿を見守り続けてきた私の一つの結論であり、人生の教訓として、申し上げておきたい。
4  生々世々に″長者の人生″を
 話は変わるが、昭和二十九年十二月の第二回女子青年部総会で戸田先生は次のように指導された。
 「学会は、宗教学、すなわち世界最高の哲学を基礎として、民衆に幸福を与えるのであります。それは、私一代ではできようとは思ってはいない。それも、ことごとく若きみなさんの力によってなさねばならぬと確信するのです」「学会の強みは、なんといっても青年によってささえられているので、みなさんの責任は、重かつ大であると思うのであります。
 いかなる事件にであうとも、いかなる事態に即しようとも、ただ一人立つということが大事なのです。青年部は、男女二万の数があると思うが、この人々が、二万が立たねばならぬということではなく、一人、ただ一人立てばよい。ただ一人立つ確信をもって立つところに、いっさいの仕事ができあがるのです」──と。
 今、私も戸田先生とまったく同じ思いである。広宣流布という未聞の偉業は、もはや青年部の諸君に一切託す以外にないというのが、私の変わらぬ信念である。
 それは戸田先生が言われるように、現在の百万、二百万という人数を頼りにしているのではない。いついかなる時代にあっても、″ただ一人立つ″本物の信仰勇者こそが大切なのである。私も戸田先生の心をわが心として″ただ一人″立った。ゆえに今日の学会がある。
 いつの世も広布に厳然と″一人立つ″人は、「仏の御使おんつかい」であり、組織や人数を超越した尊い存在として″広宣の柱″となりゆくことはまちがいない。
5  戸田先生はさらに続けて、女子部に対して次のように呼びかけられている。
 「フランスでは、まさにつぶれんとするとき、かのジャンヌ・ダークが白馬にまたがって登場したとき、フランスの敗戦をくいとめたのです。これも女であります。男にばかりまかせるのが、あなた方の仕事ではありません」
 「『男はみなだめ! 私たち女でやります!』どうだ、景気がいいではないか。この決意で、あなた方の一人が、二人が立てばよい」
 「私も、前世はいろいろな事情がありまして、今世は男になって生まれてまいりました。それで今世は男として働こうと思います。しかし、法華経の法師品第十のなかに『生まれんと欲する国に生まれる』とあるから、来世は女に生まれようと思う」と。
 この″生まれたいところに生まれる″との話に関連して、私には思い起こされることがある。
 それは、日淳上人と戸田先生が懇談されていた折のことである。
 そこでは、御本尊を信受した人は今世の下種によって一生成仏することができる。その功徳は未来世にわたり我が生命を包み、願ったところに願い通りの境涯で生まれてくることができる、との趣旨のお話であった。
 妙法の力は絶大であり、今世の成仏は永遠の福徳へとつながっていく──。
 現在は悩み多き不遇の境涯であるかもしれない。いな、悩み多き庶民であるからこそ、信心をすることができたともいえよう。それが、信心を貫き通すことによって福運の境涯を開き、来世には″長者″として生まれてくるとの仏法の約束である。
 ″長者″とは、現代的にいえば一国の大統領や、大政治家、また大学の学長や社長等、社会的に力ある存在ともいえよう。そして、その立場、立場で、広布に進む仏子を守りゆく「梵天ぼんてん」「帝釈たいしゃく」という諸天善神の働きをしていくことにもなる。
 こうして妙法に連なる生命は、生々世々に福運に満ちた″長者″の人生を繰り返し、その人々の集積がやがて全世界、全宇宙に、広宣流布という妙法のリズムにのっとった完ぺきな世界をつくりあげていくにちがいない。信心に励む妙法の友の連帯は三世にわたるものであり、広宣流布の成就は絶対にまちがいないというのが、お二人の確信であられた。
 どうか諸君は三世をも通暁つうぎょうした仏法の法理を確信し、信仰の固い絆で結ばれた妙法の同志として何があっても守り合い、末法万年への栄光と勝利と凱歌がいかの大河の流れをつくっていっていただきたい。
6  ″誠実″の人に人間性の輝き
 さて第二祖日興上人は、「與大衆書」のなかで、種々、御指南されている。ここでは、その一部を申し上げさせていただきたい。
 つまり、礼儀作法や言葉づかいにも十分注意をはらうこと。また、法門については、その正義を強く、はっきりと言い切っていくこと、などをあげられている。
 そして日興上人は「学性がくしょう入道のまねをしてそうらはば、あなかしくしらぬよしをせられ候べく候」(歴代法主全書)──と。すなわち、さも学匠(学問を十分に積んだ者)のように法門について、たずねてきたら、私はよく知らないと答えておきなさい、との御心であろう。
 人々との語らいや信心の励ましにあっても、礼儀を逸(いっ)した態度ではいけない。えらぶったり、ふざけ半分の姿勢があってはならない。そのうえで、法を説く場合は、厳然と正法正義を言い切っていく。自分の心に雲がかかっているような、どっちつかずの不明瞭ふめいりょうな言い方であってはならない。
 仏道修行の途上にある者として、すべての法門を知っているわけではない。ゆえに、虚勢など張る必要は全くない。あくまでも、正直に、誠実に、そして大確信をもって、法を説いていけばよい。真の信仰者の道には、ごまかしがあってはならないし、背のびをすることもいらない。真摯しんしに、自分らしく、絶対の法理にのっとって、妙法広布のために生き抜いていく──そこに人間性の輝きと昇華をもたらす最高の生き方がある。
7  皆さまもご存じのように、牧口先生は、四十九歳から五十一歳の二年間、現・墨田区の三笠尋常じんじょう小学校の校長を務められていた。その間も、新しい教育の道を開こうとされていた牧口先生には、数々の圧迫があった。
 いつの時代にも、先覚者には必ず迫害があるものだが、この牧口先生につかえ、薫陶くんとうを受けられたのが、若き戸田先生(二十歳から二十二歳まで)であった。お二人とも入信前だったが、この姿も美しき師弟の絆をほうふつとさせてくれる。
 その牧口先生の言葉に「認識しないで評価してはいけない」とある。これは、正確な認識もしないで、軽薄にも人を評価し、物事を判断してはいけない、との人生の在り方を教えられたものである。
 社会には、さまざまな言論がある。そこには、自分で本当に見極めもせず、真実を丹念に調べもしないで、権威に迎合し、さも賢げにつくりあげた言論もある。しかし、これほど空虚なものはないといえよう。まさに、戸田先生のいわれたように″信なき言論は煙のごとし″である。そんな″煙のような″言論を信用したり、まどわされたりするようなことがあれば、まことにむなしい。
 広布の途上に、こうした世間の逆風と荒波が起こってくることは、御書に照らして当然である。しかし、どんなにいやなこと、苦しいことがあっても忍辱にんにくよろいを着て、笑顔で堂々と、確信をもって進んでこそ信仰者といえる。
 どこまでも正直に、誠実に、広布に生き抜いた人に栄光と凱歌の人生はある。また、そのほまれある人生の軌跡は、とりもなおさず、自分自身に勝ち、自身の偉大なる成長を遂げた証左にほかならない。
 妙法の若きリーダーである諸君の眼前には、広布の未来が洋々と開けている。あとは諸君の力でどこまで現実のものとしていくかである。それらを一切、託すような思いで、諸君たちの活躍と前進に心から期待したい。
8  「食法餓鬼」の恐ろしさ
 さて、ここで、「食法餓鬼がき」について、少々、論じておきたい。
 これは、小乗経の阿含部あごんぶに当たる「正法念処経しょうぼうねんじょきょう」に説かれた三十六種の餓鬼の一つで、「法を食する餓鬼」の意である。
 同経には「不浄の法を以て人の為に宣説せんぜつし、財を得て自供せるも布施を行わず、蔵を挙げて積聚み、是の人、此の嫉妬しっとおおう心を以て、命おわりて悪道の中に生まれ、食法餓鬼の身を受けたるなり」とある。
 つまり、衆生に不浄の法を説き、財を得ても人には施さない。富を積んで、嫉妬の心に覆われているゆえに悪道にした生命といってよい。
 日蓮大聖人は「四条金吾殿御書」に次のように仰せである。
 「食法がきと申すは出家となりて仏法を弘むる人・我は法を説けば人尊敬するなんど思ひて名聞名利の心を以て人にすぐれんと思うて今生をわたり衆生をたすけず父母をすくふべき心もなき人を食法がきとて法をくらふがきと申すなり
 ──食法餓鬼という餓鬼は、出家となって仏法を弘める人のうちで、自分が法を説けば、人は尊敬するなどと思い、名聞名利の心をもって人よりも勝(すぐ)れようと思って今生をわたり、衆生を助けず、父母を救おうという心もない人を食法餓鬼、つまり法を食らう餓鬼というのである──と。
 さらに「当世の僧を見るに人に・かくして我一人ばかり供養をうくる人もあり是は狗犬の僧と涅槃経に見えたり、是は未来には牛頭と云う鬼となるべし
 ──当世の僧侶を見ると、人には隠して、自分一人ばかり供養を受ける人もある。この人は、狗犬の僧と涅槃経に説かれている。この者は未来世には牛頭(頭が牛で、身体が人間)という鬼となる──。
 「又人にしらせて供養をうくるとも欲心に住して人に施す事なき人もあり・是は未来には馬頭と云う鬼となり候
 ──また人に(法を)知らせて供養を受けたとしても、欲心に住して人に施すことのない人もある。この者は未来世に馬頭(頭が馬で、身体が人間)という鬼となる──。
 ここまでは出家の僧侶についての御文と拝される。御法主上人に背いた悪侶も、まさにそうした姿であったことは、ご存じの通りである。
9  大聖人は続いて、在家の門下に対しても、こう御指南されている。
 「又在家の人人も我が父母・地獄・餓鬼・畜生におちて苦患をうくるをば・とぶらはずして我は衣服飲食にあきみち牛馬眷属けんぞく・充満して我が心に任せて・たのしむ人をば・いかに父母のうらやましく恨み給うらん
 ──また在家の人々でも、父母が地獄・餓鬼・畜生の三悪道にちて苦しみを受けているのをとぶらわないで、自身は衣服、飲食に飽き満ち、牛馬、眷属は充満して、自分の心に任せて楽しむ人を、どれほど父母はうらやうらまれるであろうか──と。
 そして大聖人は、こうした餓鬼の本質を鋭く喝破かっぱされ、「形は人にして畜生のごとし人頭鹿とも申すべきなり」──形は人間であっても畜生のようなものである。人頭鹿<表面は人間のようだが、心はみにくけもののようであるもの>ともいうべきである──と仰せになっている。
 正法を説き、大義のために奔走ほんそうしていたように見えても、心は名聞名利で退転し、「民衆のため」「社会のため」という尊い精神を失っていった者がいた。また、正義を演じつつも、実は名声と富をむさぼらんがためにのみ行動する者もいた。それは、まさに「形は人でも、本質は畜生」という醜悪しゅうあくな「餓鬼」の姿にほかならない。
 出家であれ、在家であれ、言説たくみに「法」を利用し、「法のため」をよそおって自身のみの繁栄を図っていく者は、要するに「法」を食いものにする邪心のであり、「食法餓鬼」といわざるをえない。
 仏法は峻厳しゅんげんである。地位や名誉のために「法」を勝手に悪用した者が、厳罰を受け、やがて悪道の苦海に沈むことは必然であり、これほど恐ろしいことはない。
 また、敷衍していえば、社会にあって政治や社会事業、学問や芸術、医学等に携わり、本来、社会の進歩や民衆の幸福に貢献すべき立場にありながら、善意の庶民を食いものとし、自己の営利栄達のみに腐心ふしんするのも、広義の「食法餓鬼」といえるかもしれない。
10  青春の誓いの道を自分らしく
 ところで、さきほどは、富士交響楽団の皆さまが、素晴らしい演奏を聴かせてくださった。やはり、一流の方々の演奏は安心して耳を傾け、楽しむことができる。さわやかな秋の夕べに、心なごむひとときをお贈りいただき、厚く感謝申し上げたい。
 音楽は、本当にいいものだ。この四月、私はタンゴの巨匠マリアーノ・モーレス氏とお会いした。その様子や氏の経歴等については、以前にもお話しした通りである。
 なかでも、感銘を深くしたのは、若き日に氏が「タンゴを世界に広げたい」と念願し、それを我が生涯の使命として見事に歩み抜かれた姿と、そうした苦労を感じさせない、さわやかな人格である。
 その間、幾多の苦難もあった。中傷された時もあった。しかし、氏は、タンゴを各国に紹介し、世界に愛される音楽としていくことを、人生の最大の目標とし、その使命の道を貫いた。そして世界的なミュージシャンとなって、我が目的を達成している。
 自ら決めた道をひたすら進み、青春の誓いを実現していく──仏法は知らなくとも、その道に徹し、自分以上に苦労している人がいることを、諸君は知らねばならない。
 いわんや諸君には、「妙法流布」という最高の青春の誓いがあり、使命がある。その尊き道に徹し、自分なりに″やりきった!″″成し遂げた!″という歓喜の人生を築いていくことだ。そこにこそ、最高の「満足」と「誉れ」があることを確信されたい。
11  これも前に紹介したことだが、四年前の初の来日公演のさなかに、氏は愛息のニト氏を亡くされた。しかし、そこで落胆らくたんし、人生ははかないものと絶望するようなことはなかった。いわば、生死を超えた、子息との生命の絆を支えに、氏は、まことに心豊かな人生を生き抜かれている。
 一見、何も苦労などないように明るく生きている人もいる。だが、心の底には、人知れぬ悲しみや失意を抱いている場合が、あまりにも多い。そうした人々の苦悩を、どこまで理解し、我が心の″重荷″″痛み″として同苦していけるか。ここに民衆とともに語り、歩みゆく指導者としての深さ、大きさが凝縮ぎょうしゅくしているといえまいか。
12  諸君の中には、将来のことについて悩んでいる人もいると思う。戸田先生は、かつて、こう語られた。
 「将来、何になるか、実際には、なかなか、わからない。しかし、いま諸君は、自分が何になるかを、まず決めることだ。そして、それに向かって、全力をあげて驀進ばくしんするのが青年だ」と。
 私は、この指導を何回も何回も申し上げておきたい。
 これは、職業についても通じる指針であると思う。また、それ以上に、我が人生の進むべき道を、どこに見いだすのか。その根底の一念を教えてくださっていると私は思う。
 「自分は、この一生を、妙法を流布しきって終わるのだ」「自分は一生涯、民衆の本当の味方となって、生き抜いていこう」──。
 こう、まず信心の心を定めることである。そこから一切が開けてくる。広宣流布に、「信心」の覚悟の一念が定まった場合には、「信心即生活」の原理で、そのうえの努力はすべて、自分にとって最も良い方向へと回転していくにちがいない。
 反対に、世間体のみにとらわれ、自身の弱さに負け、常に右を見たり、左を見たりして、心が定まらない人生は、結局、何ごとも成せないで終わってしまう。
 信心根本の人生、これほど強いものはない。これほど充実した一生もない。経済や社会的地位は、信心という根本のうえの、一次元の「迹」である場合がある。また社会の一時的な評価も同じである。うつろいやすきカゲにとらわれて、根本を見失う愚かな諸君であってはならない。青年らしく、「広布こそ我が人生」の決意で、自身の目標に向かって、まっすぐに「驀進」していっていただきたい。
13  民政に力をそそいだ武田信玄
 次に武田信玄をめぐるエピソードに少々、触れておきたい。最近は歴史は苦手、漢字は大嫌いという人が多いようだが、やはり歴史は未来への知恵の宝庫である。
 天文十一年(一五四二年)、信玄は信州(長野県)の諏訪すわ・小笠原・村上氏の連合軍を撃退げきたいした。──長野の方は、少々、我慢して聞いていただきたい。
 この合戦で、信玄の甲州(山梨県)兵は、敵の食糧を山のように手に入れ、大いに気勢をあげた。しかし信玄は、それを、うずたかく積ませたまま、一切、手を触れさせなかった。
 不満顔の兵士たちに信玄は、こう言っていましめた。
 「武士の道は、そんな、さもしいものではない。百姓の耕作を邪魔じゃまをしたり、ましてや、そのたくわえを奪うなどということがあってはならない。
 それなのに信濃の大将どもは、百姓をいじめ、商人の品をかすめとった。そこで人々は領主を恨み、国は乱れた。そこへ我々が兵を進めたから、人々は助け舟が来たと喜び、協力してくれたのだ。
 だから今、この食糧は民衆に返すべきである。そのことによって、信玄の戦いは決して一身の欲のためではない、ただ民を安楽にしたいという目的しかないということを、信濃の人々に知らせることができる。そうすれば人々は、さらに我々を応援するであろう。そこで合戦の労少なく、国を治めやすくなるのだ」と。
 これが史実そのものであるかどうかは、分からない。ただ、すべての戦いは、民衆の心をつかめるかどうかにある。「さもしい」指導者であってはならない。「いやしい」指導者であっては、どんなに立派なことを口にしても、人々の心は離れる。学会においても、役職を利用して、さもしく、卑しい行為をしては決してならない。
 一事が万事である。指導者は民衆を守るためにこそ存在している。それなのに、自分のために民衆を利用したのでは、絶対に指導者とはいえない。この一点を、深く我が身に刻みつけられるかいなか。そこに諸君が真実の広布のリーダーと育つ要諦ようていがある。
 信濃の兵は、民衆から奪い、信玄の兵は、民衆に返した。今、社会もまた、民衆から奪う指導者があまりにも多くなってしまった。
 そのなかにあって、学会は人々の目につかないところで、真面目な人々を守り、真心から貢献してきている。本当に助かったと感謝をされたことも数限りない。ともあれ、徹底して民衆のために。徹底して会員のために。これが私どもの精神である。
 大切な「仏子」のために、尽くしきっていく。当然の道である。多くの方々が喜び、信心を深め、幸せになってくださること、これが私どもの目的であるからだ。その原則のうえに立って一切を見、行動するのが真の指導者である。
14  勝海舟は語っている。
 「信玄が、ただの武将でなかったことは、ひとたび甲州に行けば、すぐにわかる。見なさい、かの地の人は、今でも信玄を神として信仰しているのだ。これは当時、民政がよくゆき届いて、人民が心服していた証拠ではないか」
 たしかに信玄は、民政に力を注いだ。治山治水ちさんちすい、新田開発、検地、人口増加策など、国を富ませ民の力を強くするべく、さまざまな手を尽くしている。
 なかでも「信玄づつみ」とよばれる堤防は、これまで四百年の間、甲州盆地を洪水から守ってきた。これは御勅使みだい川が釜無かまなし川に合流する、古来、甲州第一の水難の場に、信玄が約二十年という歳月をかけて完成させたものである。
 民衆と国土を水害から守るために、営々として築いた「信玄堤」。先日、お話しした土佐(高知県)の野中兼山にも共通するが、真剣な指導者は常に未来のために、あらゆる角度から思慮しりょをめぐらし、要所、要所に確実な建設をなしていくものだ。
 私も今、真剣に、万年の未来のために、人知れず、あらゆる手を打っている。千年、二千年の単位で、正法の流布を盤石ならしめる建設に、一日一日、心血を注いでいる。
 正宗の寺院を各地に御供養申し上げてきたのも、そのためである。また皆さま方のご支援を得て、日本、世界に、会館等の整備を進めている。そのほか、すべて後になればなるほど、その意義が明瞭(めいりょう)になってくるにちがいないと私は確信する。
15  人材はぐくむ公正のリーダーに
 信玄はまた、臣下のために細かな配慮をした。
 甲州と、その周辺には「信玄の隠し湯」と呼ばれる温泉が幾つもあるという。これは戦地で負傷した兵士のための湯治とうじ場とされている。戦って疲れ、傷ついた者には、きちんといこえる場所をつくってやった。また戦死した者の遺族の領地の安堵あんど(保証)や、あと継ぎがいない場合でも、急きょ、養子を立て、家名を再興できるように法制を整えた。
 このように信玄は、戦場で後顧こうこの憂いなく奮戦できるように、こまやかな心づかいを重ねた。
 一流のリーダーは、緻密である。大言壮語たいげんそうごなら、誰にでもできる。他の人が気づかない、それでいて切実な、急所というべき点に目をとめ、一つまた一つ、仕上げていく。そこに懸命な責任感のあらわれもある。
 ともあれ大切なのは、着実に内を固めることである。華やかな外にばかり目が向いていたのでは、見えっぱりに通じる。また足もとをすくわれる危険が大きい。
 社会を大事にすることと、社会にこびることとはちがう。学会においても、社会の人々に正しく理解していただく努力は当然として、何か、ほめられることを期待し、それのみでことたれりと満足するような心があれば、あまりにも浅はかである。
 学会は学会らしく、厳然と、朗らかに″我が道″を行けばよい。そして、我が同志を守りに守り、我が友がはつらつと活躍できるよう、全力を注いでいくべきである。この根本の路線の上に、一切の展開もある。盤石な″内″から″外″へ──。諸君は、この道理の筋道を転倒させてはならない。
 私どもの前進は、すべて民衆の幸福が目的である。それ以外、微塵みじんの野心もなければ私欲もない。しかし社会は、信玄の時代から比べて、比較にならないほどしく濁ってしまっている。私どもの行動も、なかなか、ありのままに理解されない面もある。
 しかし人の心は変わる。これまでも変えてきた。仏は「能忍のうにん」(よく忍耐する)の徳をもつ。私どももまた仏子として、忍耐強く、粘り強く、真心の行動を繰り広げ続けていきたい。
 私の人生も、この四十年間、嵐のごとき無理解と攻撃の連続であった。命の危険も覚悟し続けてきた年月であった。一家もまた同様である。
 しかし私は、たとえ、誰が分からなくともよい、御本尊様がすべてご存じである。戸田先生が分かってくださっている。その思いで信念を貫いてきた。その確信があるゆえに、いかなる悪意や裏切りにあっても、私の人生は幸福である。
16  信玄は、よく雑談するなかで、部将の教育をした。生きた人間教育、将軍学でもあった。その一つに、次のような、やりとりが伝えられている。
 「人間は、大身(地位が高いこと)小身(地位が低いこと)によらず、その身をまっとうする方法が一つある。その方たち、それを申してみよ」
 それぞれの立場で、自分らしく人生を全うできる道が一つある。それは何か──信玄の問いかけに、皆、返答の声もない。しばらくたってから一同は「どう考えましても、いっこうに分かりません」と、降参してしまった。
 信玄は「人間はただ、自分がしたいと思ったことをせず、いやだと思うことにつとめるならば、それぞれ身を全うすることができるものだ」と教えた。
 「したいこと」でなく、「いやなこと」に努力していく。古い物語といえば、それまでだが、人間の心理と人生の機微をつかんだ言は、現代にも十分、通じる知恵をもっている。
 諸君も、たとえば勤行が「いやだな」と思ったら、ここが身を全うするかどうかの分かれ目と思って、勇んで頑張っていただきたい。
 信玄は人を用いるのに、″かげひなた″がないように戒めた。
 言っただけではない。そのために彼は、忠節・忠功の武士に対しては、身分の高低によらず、ただ本人の手柄に応じて、感状(ほうびの賞状)、恩賞を与えた。人々が″ひいき″や″とりなし″をしても、少しも取り合わなかったとされている。実力主義といおうか、現実の結果を第一に重んじた。この厳正公平さがあったから、人々から、かげひなたということがなくなっていった。
 やればやっただけ、分かってくれ、認めてくれる。これならば、人はみな、良き成果をあげるために、裏表なく働くようになるであろう。そのリーダーのもとに心を合わせ、結集していく。ここに信玄の偉さがあった。
 甲州という貧しい──山梨の人には、まことに申しわけないが──国土を領して、戦国の世に堂々と王者の風をたもっていた秘けつも、このあたりにあったろう。「公平」──これも言うはやすくして、行うにかたい、指導者の心すべき資質である。
17  信玄はまた、さまざまな機会を通して人物を試し、人材を見つけようと心掛けた。
 例えば領内で治水工事やたか狩りに出たさい、村々の様子や山々の竹や木の茂り具合などをよく覚えておき、知らないそぶりで人々にたずねたりもした。さらに、相手の心を知るために、物事についてくどいまでに尋ねるのが常であった。
 こうして、例えば三度ものをいって三度言葉の変わる人間は、ウソをつく人間だと見抜いていった。そのため、ウソをいう者は信玄のそばには寄りつけなかったという。
 彼が多くの書物を読み、よく学んだことは有名である。が、それだけではない。他国の武将の言動をよく調べ、聞き、味方が勝利を得るにはどうすれば良いのかをいつも考えていた。指導者である自分がそうした努力をおこたれば、たちまち国の存亡にかかわるからであろう。
 古い言葉ではあるが、彼は「学というは、物をよむばかりにあらず。おのれ々が道々につけて、まなぶを学とはもうす也」と語った、と伝えられている。
 人それぞれが経てきた、さまざまな経験それ自体が、最大の「学問」である。これを忘れてはならない、との戒めであろう。
18  新世紀への宗教運動
 さて、牧口先生についての研究もされているアメリカの教育学者に、ベセル博士がおられる。
 このほど、「宗教の役割」について、博士が次のように語っていたとの報告が寄せられたので、ご紹介させていただく。
 「宗教は本来、社会を活性化し、新しい価値創造の活動を支える役割を持つべきであると私は思っている。しかし、現実は宗教は社会の新しい発展を促進するどころか、それをさまたげる反動的な勢力となってきた。現代において、宗教本来の使命を果たしている宗教団体は極めてまれであり、そのまれな宗教運動が創価学会の運動です。私が創価学会を評価する最も大きな理由はそこにある」と。
 宗教が社会に果たすべき役割という意味から、博士は学会をこのように評価されているのである。
 博士はさらに「宗教が社会にとって価値ある存在であり続けるためには、その宗教がもっている本質的な部分(教義・精神)の掘りさげとともに、時代の動向(時代性)を鋭く見抜き、その時代に最も適した形で教えを説き、展開していく努力が要求される。時代はどんどん変化していくがゆえに、それができない宗教は形式化し、社会にとって無意味で、かえって邪魔な存在になってしまう」と述べられている。
 宗教運動についての鋭い分析ぶんせきであり、私たちの広布への活動にあっても、心しなければならない識見であるといえよう。
19  誉れある広布の「聖業」貫け
 昭和三十年十一月三日の創価学会第十三回総会の席上、当時、重役であられた日淳上人は、次のように述べられている。
 「今日の人はややもすれば外にのみとらわれて内の心を忘れてはいないかと思われるのであります。若し心を忘れて外の形態のみを追うならば、根をはなれた枝葉であり、根のい生活となってしまうのであります。(中略)しからば心を再建するのは何かと云えば、完璧かんぺきに正しい宗教によりづその依拠えきょを定める以外に無いのであります」と。
 その仏意のままに行動しゆく創価学会の意義について「今、学会が人生に光明こうみょうを失った人を導き、また見出されぬ人に正しい宗教を教え、新生活建設のために指導している事は、誠に尊い聖業せいぎょうであると存ずるのでございます」と。
 日淳上人が「聖業」とまでたたえてくださった学会の活動である。必ずや御本仏・日蓮大聖人から賛嘆していただけることは絶対に間違いない。どうか諸君はこのほまれある広布の大道を堂々と進んでいただきたい。
 終わりに、大切な諸君がカゼをひかないように、また交通事故、火災等にくれぐれも注意していただきたいと申し上げるとともに、二十一世紀の大事な大事な指導者である皆さま方の素晴らしき成長を祈って、本日の指導を終わらせていただく。

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