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日蓮大聖人・池田大作

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墨田、荒川区記念支部長会 後世に不朽の″深き人生″を

1988.10.12 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

前後
1  子母沢寛氏と戸田先生
 きょう十月十二日は、本門戒壇の大御本尊御図顕の日である。この佳き日に、ご参集の皆さま方と深い友情と同志愛で結ばれながら、「妙法」と「人生」を語り合えることに心から感謝申し上げたい。
 先日、ある一人の青年から、「ぜひ、先生に」と、一冊の本が寄せられた。それは戸田先生がつくられた出版社から発刊された本であった。題名は「大道」。同名の小説をはじめとする作家・子母沢寛しもざわかんの作品集である。
 あるとき私は「英雄には悲劇がつきものである」との戸田先生の言葉を紹介したことがある。かの青年も、その場に居合わせていた。そこで月刊誌「潮」の「人間と文学を語る」の対談でも触れた、この「大道」という小説も、歴史に埋もれた悲劇の英雄を描いたものですからと、届けてくれた。
 さらに彼は、この小説に対する所感も丁寧に書き綴って添えてくれた。私はすぐに読ませていただいた。後継の若き学究の徒の「真心」に対して、私は「誠意」をもって応えていきたい。
 その意味からきょうは、この「大道」の内容を紹介しながら、話を進めさせていただきたい。戦前の小説でもあり、時代感覚が現代の人にはなじみにくいところがあるかもしれないが、私どもの生き方にとっても示唆するところが多いと思う。
2  子母沢寛氏は、皆さまもご存じのように戦前、戦後を通じて人気を博した有名な作家である。
 戸田先生と子母沢氏がともに同じ北海道・厚田村の出身であることは、よく知られている。
 戸田先生は明治三十五年ごろ、一家で石川県から厚田村へ移住されている。一方、子母沢氏は明治三十八年まで同村に住んでおり、お二人は二、三年の間、同時に厚田で暮らしていたことになる。戸田先生は当時三歳から五歳くらい。子母沢氏は先生より八歳年長であった。
 後にお二人が、同郷のよしみもあり、大変に仲良く交際をしておられたことは、先生のもとにいた私も良く知っている。先生が子母沢氏の「大道」を発刊されたのは昭和十五年。その際、この作品にちなみ出版社を「大道書房」とされた。
 私のもとに届けられた本も当時の大道書房刊の単行本で、大変懐かしい思いがした。
3  子母沢家が厚田村に移住したのは明治の初年。旧幕臣であった子母沢氏の祖父が、彰義隊に参加して敗れ、さらに落ちのびた函館でも五稜郭の戦に負けて、生き残りの仲間とともに身を寄せたのが厚田村であった。
 勝敗の現実の姿は厳しい。いかなる戦いであれ「敗北」は辛く、敗残の身はあわれである。
 徳川の世から一変して、明治政府のもとでは旧幕府に連なる者は人物の実力とは関係なく冷遇された。現実は文字通り「勝てば官軍、負ければ賊よ」の姿を如実に示していた。
 祖父を尊敬していた子母沢氏は、人間の実像と社会の評価のあまりの落差に対して、幼心にも憤りを抑えることができなかったのであろう。「正義」とは、「歴史の真実」とは何か──。氏は生涯、「勝者によって書かれた歴史の表通り」ではなく、「陰に埋もれた人間の真実」を発掘し残すことに努めた。この「大道」もその一つである。
 かのナポレオンは「歴史とは合意の上の『つくり話』以外の何物だろうか」と言った。彼は「歴史」というものがいかに勝手につくられ、真実が覆われてしまうかを喝破していたといえる。
 この偏見とまやかしの構図のために、これまでどれほど善人が悪人の汚名を着せられたか。反対に、どれほど悪人が善人として功名を残していることか──。
 紙は白い。白いゆえに何でも書ける。″傲りの力″に「正義」が負ける時、敗者に声なく、″ウソ″に″真実″の装いを着せて歴史はつづられていく。その意味で「正義」であるがゆえにこそ、断じて最後には勝たねばならない。負ければ、その「正義」もゆがめられてしまう。とともに、″文字でつづられた虚偽″を見破る「史眼」「心眼」というものをもたなければならない。
4  「厚田」といえば、私にとっても大変懐かしい。戸田先生の故郷は、弟子である私の故郷とも思えるし、若き日に、戸田先生にご一緒し、忘れ得ぬ思い出を刻んだ地でもあるからである。
 「厚田」の語源には諸説があり、決定的なものはないようだ。その語源について子母沢氏は、「南へ向いた丘」という文章のなかで、「アツ」はアイヌ語で「荒い」または「荒れる」の意味で、「アツタ」は「荒海」とか「海荒の浜」の意味、と聞いたと述べている。
 思えば、牧口先生の出身も、新潟県柏崎市の「荒浜」であった。そして、戸田先生の故郷も″荒海″の意をもつ「厚田」。荒れ狂う波浪に敢然と挑み続けられた牧口先生、戸田先生の生涯を象徴しているように私は思えてならない。
5  信念と誠実に生きた野中兼山
 さて「大道」は、江戸時代初期の土佐藩(現在の高知県)の執政しっせい(藩政担当者)、野中兼山のなかけんざん(一六一五―一六六三)を描いた小説である。
 彼については今なお様々な見方や評価がある。ここでは、この小説に描かれた兼山像を中心にお話し申し上げたい。
 兼山は、約三十年にわたって藩政を担当し、大規模な新田開発、産業の振興、人材登用などに縦横無尽に腕をふるい、土佐の繁栄の基礎をつくった人物である。幕末・維新の際の土佐藩の目覚ましい活躍を可能にしたのも、その淵源は彼にあるといわれている。
 しかし、この大功労者も、功労が大きすぎるゆえにか反対党の嫉妬しっとを買い、その策謀によって失脚。四十八歳で急死する。さらに、一家も過酷な迫害にあい、兼山は長い間、奸物かんぶつ(悪人)として歴史のやみに葬られた。
 子母沢氏は作家の眼で、この闇の中に埋もれていた兼山の信念をよみがえらせ、彼の魂に光をあてようとしたのである。
 先程も申し上げたように昭和十五年刊の作品だが、今も本当の指導者、政治家の生き方に、大きな示唆を与える小説といってよい。
 私も氏には直接お会いできなかったが、戸田先生からよくお話をうかがって知っていた。「いい人だよ。一度、会わせておきたいな」とも言われていた。
6  物語は、兼山の波乱万丈の生涯を表すかのように、嵐の光景から始まる。
 吹きすさぶ風雨。潅漑かんがいのために築いたばかりの堤防が切れるのではないか――兼山の友人、弥右衛門やえもんは、豪雨の中を飛び出していく。
 川は、どんどん水カサを増していく。ふと見ると、堤防の上に腹ばいになっている武士がいる。風雨に打たれながらもつつみを抱きしめるようにして、動かない。それが兼山であった。
 藩の執政自ら、堤の無事を確かめるため、嵐をついて出てきたのだ──子母沢氏は史実に基づきつつ、書き進めていく。
 兼山は藩の政治をあずかる者として誰よりも真剣であった。何ごとにも率先し、全責任をもってことに当たった。ささいな小事も、絶対にゆるがせにはしなかった。「大きい堤もありに崩されることがある」と知っていたのである。まして、生命をかけて築いた″民衆のための長堤″である。たった一人でも守り抜く決心であった。
 こうした彼の姿を、古いという人もいるかもしれない。が、時代がいかに移ろうと、指導者としての生き方の根本姿勢は変わってはならない。自らの責任に徹した兼山の行動は、そのまま現代の指導者のあるべき姿に通じるといえよう。
 嵐の中で兼山は友にいう。
 「弥右衛門、安心せえ、堰堤つつみ未来永劫みらいえいごう、切れぬワ」と。
 なぜか。彼には確信があった。
 「わしは常に正しい者への限りない天佑てんゆう(天の助け)を信じている。野中兼山は、私を以て一塊いっかいの土、一筋の溝をも動かさぬ。ことごとく君公くんこう(藩主)のため、領民のため、はたまた、わが日本のためにぢゃ」
 「この兼山の心を、天下千万人ことごとくが知らなくとも、すなわち天しろしめす。兼山の味方はいつも天と思いおる」──。
 彼の確信通り、堤防は大嵐にも盤石だった。兼山は、誰が知らなくともわが「無私の心」が天を動かすと信じ切って動じなかった。
 私欲なき人は強い。「私心」や「エゴ」や「我欲」を捨てた分だけ、その空いた部分に「小我」を超えた天=宇宙の力がみなぎってくる、と彼は言いたかったのだろう。これは宇宙そのものが「無私」の「大我」の世界であり、「慈悲」の当体ととらえる仏法の一分に通じる。
 まして、広布を目指しゆく私どもの無私の信心が、御本尊に、また諸天に通じないはずがないことを、強く申し上げておきたい。
7  決定の一念は諸天に通ず
 次元は異なるが、大聖人は御自身が幾多の大難を乗り越えることができた理由について、次のように仰せである。
 「いまだ此の事にあはざりし時より・かかる事あるべしと知りしかば・今更いかなる事ありとも人をあだむ心あるべからずと・をもひ候へば、此の心のいのりとなりて候やらん・そこばくのなんをのがれて候」と。
 すなわち日本中から大聖人は迫害をうけた。しかし――いまだ、難にあう前から、こういうことは必ずあると知っていたので、今さら何があろうとも、他人をうらみに思う心をもつべきでないと思ってきた。その覚悟の心が自然のうちに祈りとなったのであろうか。これまでの諸難を生きのびてこられた――との言である。
 いかなる理不尽な圧迫が続いても、そんな嵐は、むしろ当然であり、覚悟の上ではないか。今さら、何も嘆かないし、うらまないと。そうした決定けつじょうの一念によって諸天が守りに守ったとの仰せと拝される。
 私ども門下もこの大聖人の御確信を深く拝さねばならない。一念の差は微妙である。ある意味でタッチの差である。疑いや迷いの、弱き濁りのある信心であってはならない。それでは諸天が感応しないからだ。
 反対に、強き信仰の人は、外がいかに嵐であっても、胸中は雲ひとつない大空のように晴れやかである。あたかも外が豪雨であっても、堅固な家であれば、中は一家団らんの花園でいられるように。その、すっきりとした不動の一念が諸天に通じていく。
 以前にも拝読したが、大聖人は次のようにも仰せである。
 「汝等は人をかたうどとせり・日蓮は日月・帝釈・梵王を・かたうどとせん」──あなた方は(権力者らの)人を味方にしている。日蓮は日天・月天・帝釈天・大梵天王を味方としよう──と。
 いかなる世間の権威、名声も宇宙の大法則にまさるものではない。人を頼らず、ただ天を味方として正義の戦いに挑んでいく。これが真の信仰者の崇高な確信の人生である。
 さらに大聖人は「一切の人はにくまばにくめ、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・乃至梵王・帝釈・日月等にだにも・ふびんと・をもはれまいらせなば・なにかくるしかるべき」と。
 ──一切の人は憎むなら憎め、人がどうであろうと、釈尊、多宝如来、全宇宙の諸仏以下梵天、帝釈天、日月天らに、いとしい人だ、大切な人だと思われたならば、何を苦しむ必要があろうか、むしろ大いなる喜びではないか──と仰せになっている。
 私どもの立場でいえば、日蓮大聖人のおほめをこうむり、けなげな信心だ、大切な門下だと思っていただけたならば、他はすべて、とるに足らない些事さじである。
 根本の基準は、あてにならない世間の目ではない。仏法の世界の「仏眼」である。また法を中心とした「法眼」である。
 この一点に徹した人は強い。何ものにも紛動されない。ここに信仰者としての真髄しんずいの一念がある。その一念通りに生ききっていく人は、そのいさぎよき人生自体が、人間としての勝利の姿となる。
8  さて兼山の友・弥右衛門の父が、兼山に忠告するシーンがある。
 世間の評判を無視するかのように、前進また前進する兼山に危ういものを感じたのだ。少し、おとなしくしていなければ、ねらい打ちされてしまう──。
 弥右衛門の父は「大夫たいふ」と兼山によびかける。
 「大夫はすでに土佐の兼山では無くなっている。天下の兼山なるがゆえに、大夫の一挙手一投足が、ことごとく大公儀(幕府)の眼にとまりをるのですぞ」
 あまりにも多くの仕事を成し、あまりにも大きな力量を証明した兼山は、「出るくいは打たれる」のたとえ通り、藩はおろか幕府にさえ、にらまれ始めていた。
 追いおとそうとすれば、口実はいくらでも創作できる。いかに善意からした事業も、すべて反対に反対にと曲解することは簡単である。
 しかし、兼山は忠告をありがたく受けつつも、こう言い放つ。
 「兼山はただ領民を幸わせにするという、この一筋よりほかにはない」「兼山の一生は、この信念の前に投げ出してあるのです」と。
 私どもの立場でいえば、民衆のため、友の幸せのためという真心以外、何ものもない、という信条である。
 もはや語るべきこともない。「よろしい。それならば、それでよろしいのですよ。後世千年、二千年、何人なんぴとか必ず大夫のために説くものが出る」と友の父は結んだ。
 兼山が迫害をものともしないという以上、後世の正当な評価を信じて、そのまま進ませるほかない──と。
9  価値の日々に「長寿」の意義
 兼山は人生を急ぐかのように仕事に熱中した。そうした人生観をしのぶ次のような彼の言葉が伝えられている。(横川末吉『野中兼山』吉川弘文館)
 現代語に訳すと、「顔淵がんえんは、三十にして死んだ」──顔淵とは、かの顔回のことである。といっても、どちらも知らないという人もいるかもしれないが。現代では余りなじみがないかもしれないが、歴史上有名な孔子の高弟である。
 「(彼は)短命だが万代の人の師である。天地ある限り、その名は消えず、生きているのと同様である。たとえ九十、百まで長生きしても、死後一人もその名を伝えないのでは、アブも同然だ。長生きのかいもない」
 また、「役にも立たず、ぶらぶらと生きて、犬が年よるように老いたのでは、人間といえるだろうか。早く立派な仕事を成せたなら、早く死んでも、これは人間のかいがあるというものである」と。
 もちろん長寿は素晴らしい。その上で、ここで兼山が言っているのは、″人生の価値は、その長短にあるのではない。どれだけ永遠へと連なる仕事を成したか。いかに深き人生の深き時間を生きたかが人間の証明となる″ということであろう。
 人間に生まれた以上、人間としての価値を、この世に刻みつけて死ぬべきだ。そうでなければ何のための人生か──と。
 御書の有名な「百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」──百二十歳まで命をたもって、名を腐らせて死ぬよりは、生きてただ一日なりとも名を上げることが大切である──の御精神にも通ずるものがあろう。
 日本は「長寿世界一」の国になった。しかし一方では、一日一日が空虚に、また浅薄に流される人々が増えている風潮もある。悲しむべきことであり、現代の大きな課題といえよう。
 ″常住のもの″″永遠のもの″を見失った人生は、「無常」の波にただよう人生であり、あまりにもわびしい。
10  兼山は、迫りくる危険を百も承知の上で、「後世千年、二千年」のために、暴風雨の中を突き進んでいった。その不動の信念は、ある意味で、一つの″信仰″のごとき結晶の姿をさえ感じさせる。
 千年、二千年の未来にも不朽ふきゅうの人生。これこそ「真の長寿」ではないだろうか。
 千年、二千年分の価値に通じる充実の一日また一日。これこそ人間らしい「黄金の価値の日々」ではないだろうか。
 人生の持ち時間は、長い目で見れば、各人、大差ないものだ。要は、どれだけ「深く生きた時間」をつくったかである。その集積が人生の宝となる。
 その宝は、金銭等の財産とはちがって、我が生命に厳として備わったものである。
 この、生命に備わった財宝は、だれびとも奪うことはできない。誰人も傷つけることもできない。その最大の価値を日々、つくっているのが私どもの信仰である。
 妙法は「三世一念」と説く。広布に戦い進む信心の「一念」に、瞬間瞬間、「三世永遠」が包まれている。またその労苦は、時がたてばたつほど不滅の輝きを放つ「万年」への大偉業である。
 現代において、ここにのみ真の″不朽の人生″がある。また永遠へと通じる真の″長寿の人生″がある。これほどありがたい、意義深き世界はない。その自覚と感謝の心が、さらに自分自身の人生を大きく開いていくにちがいない。
11  悪人の本質は臆病と慢心
 やがて、藩主の交代により次第に気流が変わっていく。兼山の反対派は、このチャンスを見逃さなかった。
 旧藩主は、兼山の政治に全面的な理解を寄せていた。反対派にとっては、兼山が余りにも藩主に信頼され、諸大名や幕閣ばっかくにまで名声が広まっていることが、ねたましくてならなかった。兼山に対する反感も、所詮、その本質は、男の「嫉妬」であった。
 ──提婆達多の釈尊への反逆も、男の嫉妬の恐ろしさを物語る一例である。権力欲に身を焦がし、正義の人を妬み、そねむ者が、やがて現実に人倫の道を踏み外し、悪逆の徒となっていくのは、昔も今も変わらぬ方程式といえよう。
 また、反対派にとっては、登用された人材が兼山に心服し、大きな勢力になっていることも脅威であった。そして何より、兼山の、遠大な理想に基づく施政しせいによって、自分たちの思い通りの政治ができないことに、いら立っていた。何にでも上手うわてをいく兼山を、いつか追い落としたいと、ひそかに時期の到来をうかがっていたのである。
 藩主の交代。それこそ彼らの待ちに待っていた好機であった。彼らは少しずつ新藩主に兼山の悪口を吹き込んだ。さらに気脈を通じていた幕府の一部をも巻き込み、周到なワナが、ゆっくりと張りめぐらされていく。
12  筆頭国老ら藩の悪人たちは密談を進めた。そのなかで、彼らは心中を生々しく吐露とろする。
 「筆頭国老の体面も、彼(兼山)の踏みにじるに任せ、わしは、意気地いくじなしの、おし同様となって二十幾年すごしてきた。が今度はじゃ、今度はあの高慢ちき、いよいよ腹切りじゃ」そして、「わしは、ただただ今日の日を待った」──と。
 もし、この言葉通り、二十年余も藩政をリードできず、無為に過ごしてきたのならば、何と情けない重臣であろうか。兼山のせいで″我慢してきた″という。しかし、国のために精いっぱい、力を尽くし、行動してこそ、筆頭国老、高官としての責務を全うできるのではないか。
 結局、彼らには、「藩のため」「領民のため」という透徹した一念がなかった。その無私の一念さえあれば、何も怖いものはない。それがないゆえに彼らは、ひたすら時流におもねった。兼山に信任厚い藩主の時は、保身のため、それにへつらい、流れが変わると、本性をムキ出しにしてきたのである。
 旧藩主に追従ついしょうしたのも、ずる賢い「憶病」。新藩主にとりいり、幕府の権力を利用したのも、ウソつきの天才の「憶病」。そういう自らのみにくさを見つめることができない弱さも身勝手な「憶病」。表面は変われども、その本質は一貫していた。終始、彼らは「状況の奴隷どれい」であり、自身を律しきれぬ「エゴの奴隷」であった。
 ただ、悪人には悪人なりの″知恵″があった。
 国老はいう──「人間、突き落とそうとするには、まず一番てっぺんまで、押し上げることじゃ。上げてしまわなくては、なかなか落とすことに骨が折れるでの」
 悪意の言であれ、一面の真理を突いた言葉であろう。
 だれでも、″絶頂″の時が最も危ない。登り切れば、あとは下るしかないからだ。″登り切った時″とは、いかなる時か。それは決して周囲が決めるものでもない。自分が決めることである。すなわち「慢心」が絶頂の時こそ、危険の″絶頂″にある時であり、それは「心」の問題なのである。ナポレオンも、秀吉も、際限を知らぬ「慢心」で自らを破り、後代へのいしずえを失うことになった。
13  私どもも、「慢心」こそ最大の戒めとしていくべきである。幹部は、立場が上になればなるほど、謙虚でなければならない。より多くの人に尽くし、奉仕する立場になっていることを強く自覚すべきである。
 妙楽大師は「教いよいよ実なればくらい弥よ下れり」(教えがすぐれているほど、より低い機根の人も救える)と教えている。むろん、これは「法」についての言葉だが、「人」においても、修行を重ね、信心を深めていくほど、民衆に近づいていくことが大切なのである。
 これに反し、これまでの退転者は、地位や役職が上がるにつれ、「慢心」を高め、おごりを増していった。そして、それなりに″登り詰めた″時点で慢心も″絶頂″を迎え、急速に、人間の正道を外れていった。
 では、「慢心」に陥らないためには、何が大切か――。
 同じく『人間と文学を語る』(潮出版社)の対談でも名前が出たが、大衆作家・中里介山なかざとかいざんは書いている。言うまでもなく長編小説『大菩薩峠』の著者である。
 「人間の不徳のうちで一番いけないのは増上慢である」
 「人間が苦労しなければならないこと、苦労した人間に光のあるというのは、つまりこの慢心の灰汁あくがぬけているからである。苦労なんというものは人生にない方がよいのかも知れないが、それをしないと人間が増長して浅薄になる。苦労も人生の一つの必要である」(「信仰と人生」『中里介山全集第二十巻』筑摩書房)。
 よくよく味わうべき真実の言であると思う。
14  人を育てゆく人が真の指導者
 さて、時節到来として動き出した筆頭国老らは、藩主にあてて、兼山打倒のための「弾劾書だんがいしょ」を書く。悪意の″告発の書″の通例にもれず、大義名分を整え、美辞で飾った文であった。
 彼らは考えた。「藩のため、日本のためと誇称こしょうする土木工事その物を悪いと申しては、あるいは理が立たぬかも知れぬの」――そこで、大義名分として、(1)武士たちが租税で苦しんでいる。(2)農民たちが工事で苦しんでいる。(3)町人たちが御用金で苦しんでいる、の三点をあげた。
 のちに彼らは、ごていねいにも、町人・農民・漁民の代表を呼び、政治への苦情を上申させた。封建制度にあって、藩政を公然と批判させること自体、特例中の特例である。ふだんは、民衆のことなど考えもしない彼らが、この時ばかりは″民衆の声″を持ち出してきた。ここにも彼らの狡猾こうかつさと、いかに追放の口実を欲していたかを見ることができよう。
 事実、土佐藩において、このように民衆の意見に耳を傾けることなど、このあと、ただの一度もなかった(横川末吉著『野中兼山』吉川弘文館)。
 「民衆のために」──口では何とでも言うことができる。しかし、現実に彼らは何を行ったのか。ただ、自分の利益を守り、拡大することにのみ動いたのではないか。それこそ、権力にすりより、民衆と権力を利用する者の正体である。
15  筆頭国老らの告発書が出されてから、わずか十日後に、兼山の辞職は決定する。藩主とも内々の打ち合わせができていたことは言うまでもない。
 むろん、藩主の命は絶対である。「藩主中心の土佐藩」──それは、兼山自身が半生をかけて営々と築いてきた体制であった。その努力が、最終的には、彼自身へのやいばとなった。
 とともに、兼山失脚の背景として、彼が登用した人材の不行跡ふぎょうせきがあった。兼山の名を利用しながら、カゲでは兼山の命に背き、権力をカサに着ての不正や手抜き、民衆いじめを繰り返していた徒輩とはいがいたのである。その小役人への不満や恨みが、兼山一人に集中した。
 兼山は屋敷に帰り、謹慎した。そこで、彼は、子供たちを集め語る。
 「今、ここで父の申すことがわからなくも、その芽を、そち達の胸のうちに残し置いて、やがてそれが、大きな木となり枝となって、はっきりとしてくる日があるように致すのじゃ」と前置きし、「人間はいかなる場合でも休んではならぬ。どのように踏まれてもたたかれても、いつでも再び飛び上がる、以前よりもっともっと高く飛び上がれる心の備え、身の備えがなくてはならぬ」と。
 また「いいか、土佐──いや日本国はこれから一日一日と開けてゆく。人もえる。一人の野中兼山では足りない。百人の兼山、千人の兼山。そなたたちは、一人のこらず、この父の上に立つ、この父を土台とした立派な野中兼山にならなくてはならぬのだ」──。
 民衆のために必要なことなら「いつでもその実行に取りかかれる学問の度胸と──いや、それよりも、もっともっと大切な、信念と誠実と、この日本国を思う忠誠の心とがなくてはならぬ。いいか、一日なりとも学問をおこたっても、この父が許さぬぞ」──。
 兼山には、おのれ一身の行く末など眼中になかった。ただ国のため、民衆のため、いかに真の後継ぎを、百人の兼山、千人の兼山を育てるか、それのみが気がかりであった。
 私も、まさに同じ心境にある。広布の舞台はますます広がっている。後継の青年に対し、兼山と同じ言葉で呼び掛けたい気持ちでいっぱいである。
 だが、諸君のなかには、「一日たりとも休んではならぬ」というのでは、体をこわしてしまうという人もいるかもしれない。むろん、休息も必要であろう。ただ私は、諸君に「絶対に退転だけはしてはいけない」と、心の底から訴えておきたいのである。
16  兼山は、子らに対し、「父を土台にして……」と語った。そこに、私は、自分が生きている間にすべてを教え、残しておきたいとの、深い心情を見る思いがしてならない。
 次元は違うが、日蓮大聖人も、後継の門下に対し、繰り返し、同様の御心情を述べられている。
 云く「しらんとをもはば日蓮が生きてある時くはしくたづねならへ」──(法門のことを)知ろうと思ったなら、日蓮が生きているうちに、詳しく聞いて身につけておきなさい──。
 また「志あらん人人は存生の時習い伝ふべし」──(求道の)志がある人々は、(日蓮が)生きている時に学び、伝えなさい──と。
 大聖人は、令法久住、万代の広布の前進のために、門下の育成に全力で当たられた。そして、後事の一切を託された日興上人御一人が、その御心のままに立ち上がられたのである。
 指導者は、民衆のために自らを犠牲にして、人を育てる。独裁者、権力者は自らの保身のために人を使い犠牲にする。人を育てたか否かの一点でこそ両者は厳然と分かれるのである。
17  人間としての旅路を悔いなく
 戸田先生は、水滸会の席などで、よく「英雄は悲劇である」と言われていた。最後の悲劇性ゆえに英雄というのか、それとも人知を超越した行動のゆえに英雄というのか、私には分からない。
 ただ、大聖人についても「外用(げゆう)の一次元からすれば、大聖人の御生涯も悲劇の連続であられた」と、戸田先生が、涙を浮かべ、語られていたことが、今も忘れられない。
18  さて、兼山の登用した人々の追放が始まった。兼山自身にも、切腹の命が下されるだろうとの、うわさも伝わってきた。しかし、彼は自若じじゃくとしている。
 「驚くことはない。そのくらいのことがあってもいいではないか」「今ここで兼山を殺しても、損をするものは兼山ではなく、土佐じゃ、日本国じゃ──」
 信念に生きる者は、これぐらいの決意と自負がなければならない。
 「しかし、兼山は幸せ者じゃったなァ。(中略)土佐のために、日本のためにつくしてきた。港も堰堤つつみも、河も、山も、みな兼山の血潮とともにあのままに残ってくれる」と。
 彼は「自分のこと」ではなく、自分の残した「仕事のこと」のみを考える男だった。
 私も、大聖人の御遺命である広宣流布のために走り抜いてきた。そして数多くのことをやり遂げ、残してきたつもりである。私の人生には全く悔いはない。
19  南アメリカの「解放の父」といわれるシモン・ボリバルは、自分の信条を、こう表現した。
 「私は自由と栄光のために闘ってきた。しかし、個人的栄達のために闘ったことはなかった」「私は栄光と自由を求めてきて、両方を手に入れた。だから、もうこれ以上の望みはない」「自由と栄光のために働く者は、自由と栄光以外のいかなる報酬も手にすべきではないと私はつねに考えてきた」(ホセ・ルイス・サルセド=バスタルド著『シモン・ボリーバル』水野一監訳)と。
 ボリバルは「目的の達成」以外の報酬は何も望まなかった。栄誉栄達を手にしようと思えばできたが、それは眼中になかった。南米の民の圧政からの自由と独立と解放──そのことのみのために闘い抜いた。まさに、南米の解放自体が、彼にとっての無上の報酬であった。ゆえに、そのためのいかなる苦難にあっても、彼の胸中には「幸福」の二字が輝いていた。
 自らの「理想の実現」──その完成をみれば、他に何も欲しない。友が幸福になること、それをみれば他に何もほしいものはない。これは、無私の精神で民衆のために闘った先駆者に共通の心情であると思うし、指導者として、けっして失ってはならない「心」だといえよう。
20  小説「大道」の最後は、兼山の叫びで締めくくられている。
 「真っ黒い雲の間から、銀の糸をほんの幾筋かひいたようにが輝いていた。
 兼山は、じッとこれを見た。見ていると次第々々に、何かしら叫びたいものが胸一ぱいにこみ上げてきた。
 『俺は人間の大道を歩いてきた。命がけで真面目に信念の上を歩き、誠実の上を歩いてきた。俺は、今日切腹の使者が来ても、本当に笑って死ねるぞ──強い、俺は強い、大道を歩いてきたものは強いッ!』」
 戸田先生が「大道書房」と名付けられた思いも、わかるような気がする。
 「誠実」の道を行け。人目を気にして生きるような、なさけない人間にはなるな。堂々と人間としての大道を歩め──これは戸田先生が、常に教えられたことである。
 兼山はこの直後、病を得て急死する。謹慎中、彼は、正義ゆえに迫害された中国の屈原の詩を愛誦したという。
 なお、藩権力は、兼山の死後、より強圧的になり、兼山の一家を一カ所に押し込め、男児が死に絶えるまで、何と四十年間も幽閉していた。まさに非道の所行であった。
 生き残った娘が出てきた時には、四歳の幼児も四十四歳の老嬢となっていた。その中の一人「えん」の悲劇を描いたのが、大原富枝氏の名作『婉という女』である。
21  妙法の「無常の大道」を堂々と
 ″人間としての偉大さは何か″″だれが真に偉いのか″──人物が大きく、社会の小さな器からはみ出る分だけ、不当な評価が続くものだ。それが歴史の必然かもしれない。しかし、本当の偉大さは、時とともに必ず明らかになってくる。これがこの小説の語りたかった一つの点でもあった。
 兼山の偉業は、やがて土佐藩繁栄のいしずえを築いた不朽の功績として、人々が感嘆し、ふり仰ぐものに変わっていった。
 私どもの広布の活動も、今は、多くの無認識や非難の嵐にみまわれているかもしれない。しかし、必ずや後世の人々によって証明され、感謝されるときがくると確信している。
22  ホイットマンは「大道の歌」で、こううたう。
 「宇宙そのものが一つのみちたり、多くの路たり、旅する霊魂たましいの路たるを知る」
 「あらゆるものは霊魂の前進に路を開いて去る」
 「宇宙の大道に沿うて進む男女の霊魂の行進からすれば、あらゆる他の行進は、これに必要な表号と栄養物にすぎない」
 「彼等は行く! 彼等は行く! 私は彼等の行くのを知ってるが、彼等が何処いずこへ行くかを知らない。
 しかし、私は彼等が最善の方に行くことを知ってる──或る偉大の方に向って」(白鳥省吾訳)
 宇宙の大道にのっとって進む男女の行進とは、まさに学会の姿である。私どもの信心と広布の前進は「人間の大道」「社会の大道」「宇宙の大道」を歩みゆく、尊くも誉れある行進であり、それは人類の闇を開き、未来永遠に光り輝く、つねに新しき創造と発展の旅路なのである。
 この妙法広布という「無上の大道」を、晴れやかに、また堂々と、生涯、ともどもに歩みゆくことを誓いあって、私のスピーチを終わらせていただく。

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