Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第九回本部幹部会 仏法は「民衆」と「時代」に脈動

1988.9.17 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

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2  さて、つい先日、ある著名な、日本人の学者からお手紙を頂戴した。そこには私が近著『私の人間学』をお贈りしたことへの丁重な謝辞とともに、次のようにしるされていた。私信ではあるが、御礼の意を込めて、またありのままの事実として、紹介させていただきたい。
 「先生には相不変あいかわりませず御健勝にて、東奔西走、実に絶倫なる御活躍の日々をお過ごしの御事と存じます」
 「奔流の如く止まることのない先生の御創造力には、何人なんぴとか及ぶ者がございましょう。私など、ただもう先生の無限の御精神力に圧倒せられ、驚嘆するばかりでございます」──。
 続いてドイツ・ボン大学の名誉教授であった故ヨーゼフ・デルボラフ博士と私との対談集『新しい人間像を求めて』の読後感が述べられている。
 読後感といっても、まだ日本語では出版されていない。今春、ドイツ語版が出版されたばかりである。この方は、このドイツ語版で読まれたわけである。ちょうど大学の関係でドイツに行っておられ、帰国された直後だったようである。
 「この夏は、この御作を少くとも読了しようと懸命になり、ようやくドイツ語の方のデルボラフ教授との御対談を拝読しおえたところでございます。
 教授はボン大学にける哲学、教育学の世界的な権威であります。先生は又アジアを代表する権威として、ここにはじめて東西の文化と信念があい会し、相対決したことになります。これまでも幾度か東西の文化と信念が相会し、対決したことがございましたが、いずれもいまだ学識に於いて不備であり、小規模でありましたため、本質と本質が対決し、批判し合う所までは行きませんでした。
 しかしこのたびの先生とデルボラフ教授の出会いと対決に於いて、初めて東西の文化と真理が、仮面を付けず、真向まっこうから、歯にきぬを着せず、出会し合い、批判したことを感じました。
 拝読し合ううちに私自身も思わず興奮こうふんせずにはいられませんでした。一言一言ここに真理と真理が激突し合い、斬(き)り結ぶ刀と刀がここに閃々せんせんたる火花を散らす思いをいたしました。
 まことにホーマーの『イリアッド』か、プラトンの弁証法でも読んでいるような壮観でございました。思わず手に汗を握ったのでございます」
 この方は私もよく存じあげている一流の学者であり、一流の人物にふさわしく、人格もまたすぐれた方である。デルボラフ博士も同様であった。ライン川に浮かぶ船上で率直に語り合ったことが懐かしく思い出される。
 総じてこのような人物は、ウソは通じない。すべて見破られてしまう。また、こちらの方でもウソやお世辞は、すぐに分かるものだ。読んでもいない本を「読んだ」ととりつくろっても、少しつっこんで聞いてみれば、たちどころにわかってしまう。
 こうした方々はまた、いつわりやハッタリがない。みな謙虚である。謙虚であるからこそ真実が真実のままに、くっきりと心に映し出される。おごれる目には眼前の事実も、ゆがんで見える。指導的立場になればなるほど、この点を深く自戒しなければならない。
 余談になるが、先日、私が監修し、聖教新聞に連載している「白米一俵御書に学ぶ」(静岡県青年部編)の中で「世間」について述べられていた(九月十日付)。
 あまり読まれた人もいないかもしれないが、なかに「世間」の″虚妄こもう″の義に触れて、世間は「真理に反する誤った見解が満ちあふれている」と。また世間は「真理を隠す」「煩悩ぼんのうによって真理が隠蔽いんぺいされる虚妄の世界である」とある。
 私どもは、仏法の光で、世間のやみを照らしていく立場である。世間の虚妄を打ち破っていく使命を忘れてはならない。
 書信の文は続く。
 「(東西の対決の)勝敗はうべきではございませんが(中略)流石(さすが)のデルボラフ教授も偉大なる仏法の前には云うべき言葉もなく、沈黙せざるを得なかったのでございます」
 「ルネッサンス以前の欧州を前代未聞の堕落にみちびいたのも、キリスト教でありました。
 デルボラフ教授もついに『仏教はキリスト教よりまさっている』と告白せずにはいられませんでした。
 先生のデルボラフ教授との対談は、この意味に於いて歴史的な、今世紀の最も偉大なる書であると存じます。
 なお御手紙には書けませんが、この御著書から私は限りない多くの御教示を受けました。
 今欧州では仏教がブームとなっておりますが、その基盤を成すのは必ず御著書であると存じます。その意味に於きましても、二重の意味で重ねてあつく御礼申しあげます」と。
 私個人にとっては、過分の称賛しょうさんと思い、恐縮きょうしゅくしている次第であるが、私はただ、仏法の偉大さを、後世何百年先をも見すえながら、あらゆる角度から語り、残しておきたい。
 この対談集も、この思いから取り組み、結実したものである。その私の気持ちを深く読みとってくださったことに、感謝の思いを込め、紹介させていただいた。
3  誠実・謙虚の人に信頼の輝き
 また、このほど中国では故ペッチェイ博士(ローマクラブ創設者)と私との対談集「二十一世紀への警鐘」(国際広播出版社刊)が出版された。
 相前後して、中国でこれまで何冊か私の書物を出版してくださった吉林きつりん人民出版社の代表から礼状が届いた。そこには、良書ができた喜びと感謝の念を、次の文を引きながら、縷々るるしたためてあった。
 「恩を知るは大悲の本なり。善業を開くの初門なり。恩を知らざる者は畜生よりはなはだし」と。
 「大智度論」の有名な文と記憶するが、このように妙法をもっていない方でも、「知恩」「報恩」が人間の根本であることを強調している。
4  先日、本部広報室の方から、まことに興味深い報告があった。それは、彼が、アメリカ・カリフォルニア大学のある教授と懇談した折の話であった──。
 広報室といえば、仕事の性質上、著名人など様々な方とお会いする機会が多い。いうまでもなくそこでは、一人一人と、いかに人間的なきずなを強め、揺るぎない「信頼」を得ていくかがカギであり、すべての出発点となる。
 ただ組織の上にのって指示するだけで、本当の人々への思いやりも、誠実さもない幹部は「信頼」は得られない。「信頼」は、「誠実」の二字から生まれる。ウソも誇張もなく、まじめに真摯しんしに行動してこそ、くずれざる「信頼関係」が築かれることを、リーダーである皆さま方は絶対に忘れてはならない。
 さて、そのカリフォルニア大学の教授は、今後の世界の動向について、次の三点を指摘していたという。
 (1)現実主義(プラグマティズム)の台頭。
 (2)大衆・民主革命の伸展。
 (3)女性の役割の増大。
 いずれも、時代の趨勢すうせいを象徴的に指し示す現象として、絶対に見逃すことのできぬ潮流と私も思う。
5  まず第一の「現実主義」に関して、その教授が指摘するのは、世界的に、「イデオロギー」より「現実」を重視する傾向が強まっているということであった。つまり、かつては、イデオロギーを優先し、政策を推進してきた国家も、今では、ほとんどが新たな「現実主義」を摸索もさくし始めている。
 とくに、「思想」や「理念」の正しさより、経済的な「繁栄」や「発展」を求める機運が高まるとともに、経済発展のためには、「戦争」こそ最大の障害であることが、広く認識されるようになった。現在の「平和」の潮流には、こうした「現実主義」「経済主義」の所産という側面もある──と。
 この「現実主義」そのものの論議は別として、人々が、「理想」や「理屈」のみに心を動かされ、行動するような時代ではないことは事実であろう。「現実」を見すえ、「現実」から出発した、確かな裏づけがなければ、何の説得力も持ち得ない時代となっている。これは、指導者にとって、絶対に見過ごすことのできない流れといえよう。
 元来、仏法は「現実」を最も重視する哲理である。「道理証文よりも現証にはすぎず」との仰せもあるが、「現実」に立脚し、「現実」を変革しゆくための大法が仏法である。
 これが私どもの最大の強みであるし、皆さま方は、この時代の志向性を、どこまでも鋭く踏まえたいき方であっていただきたい。
6  第二の「大衆・民主革命」について、教授は、次のように語ったという。
 長年、独裁や軍政が続いた国にも、近年、着実に民主化の波が訪れ、それは″大衆による民主革命″ともいうべき様相を呈している。どの国でも、大衆の動きが政治の動向を決めるカギとなってきており、いかなる指導者も、そうした民衆勢力の台頭を無視できなくなっている。この潮流を見過ごし、民主化に逆行する傲慢ごうまんのリーダーは、遠からず失脚し、力を失っていこう──と。
 確かに、「民衆の時代」のうねりは、各国で、着実に広がっている。情報化の進展によって、一面、民衆の意識は高まり、大衆は聡明そうめいになっている。その意味から、民衆の心をとらえ、民意を反映していくことのできる指導者が、今ほど希求されている時代はない。
 学会は、誕生以来、一貫して「民衆の時代」の先駆を走り、進んできた。この伝統は、いよいよ時代の要請となっているし、それだけに妙法のリーダーは、一段と民衆のために奉仕し、身を尽くしていくべきである。
 またリーダーの大切な要件とは何か。それは、いかに後進の育成に心をくだき、人材を育てるかどうかである。自己の保身を第一とし、後輩を育てない人は、本当の指導者とはいえない。たとえ自身を犠牲にしても、広宣流布という大目的のために、壮大な人材の大河を構築していくことこそ、指導者の最大のほまれであり責務なのである。
7  第三の「女性の役割」について、その教授は、世界的な女性解放の伸展を指摘し、欧米をはじめ、どの国でも女性の社会進出は年々顕著けんちょとなり、女性が、社会の一つの大きなパワー(力)となってきている。それは、あらゆる分野におよび、アメリカの地方議会でも、女性議員の活躍が、近年、めざましい。総体的に男性社会は、行き詰まりを見せており、それに対し、女性の物の見方、考え方が注目され、社会に新風をもたらし、活性化させるエネルギーとなっている。こうした傾向は、二十一世紀へ向け、ますます強まっていこう──と。
 これこそ、私がつねづね、強調してきたことにほかならない。女性の社会的な役割、使命は、今後ますます、その重要性を増していくであろう。
 いわんや社会の最先端をいくべき広宣流布の活動にあってはなおさらである。これまでも、学会の原動力の大半は婦人部であり、男性の力は微々たるものであったとの声もあるが。「女性の時代」の伸展とともに、一段と女性の活躍が重要になってくるにちがいない。
 幹部の皆さまは、この点を深く心していただきたい。ましてや、傲慢な幹部が、女性をしかったり、意のままに動かそうとすることは、言語道断ごんごどうだんである。あくまで女性の意見を尊重し、できるだけ、その考えを取り入れていくことが、時代にマッチした、最も正しい在り方であることを知っていただきたい。
8  ところで、現在、伝統の支部総会が、各地ではつらつと繰り広げられている。会場は全国で、一万数千カ所にも及んでいる。
 それぞれ、第一線の幹部の皆さまが、一生懸命、創意工夫をし、涙ぐましい努力をしながら、当日を迎えておられる。そのおかげで、地域の有力者をはじめ来賓も数多く出席し、確実に仏法理解を深めておられるようである。
 たとえ、小さな会合のように思えても、それは、まことに尊く、偉大な歴史を刻んでいる。そのために力を尽くし、奔走ほんそうされてきた皆さま方に、本当にご苦労さまと、心から感謝申し上げたい。
 地域の学会員のまねきを受け、支部総会に出席した方から、お手紙をいただくことがある。いずれも「庶民の輝き、庶民の活力に感銘を受けた」「仏法が生活の源泉として脈動していることを知った」「家族にまさるともおとらぬ同志の絆に感動した」「学会の底力を痛感した」等々、学会への理解を幾重にも深めたとの内容であり、うれしい限りである。
 それに対し、厳しい指摘の内容の手紙もある。しかもそれは、一様に、幹部への苦言くげんであった。つまり、話が散漫で、よく理解できない。支部長さんたちは、とても丁重で親切なのに、幹部に限って態度が傲慢である、等々。多くの方は、本当によく見ているものだ。幹部は、よくよく自戒し、注意しあっていきたいものである。
 また、むしろ、役職は高くなくとも第一線の方々ほど、さまざまな分野の方々と豊かな人脈を持っていらっしゃる。その意味からも、最前線の同志を、何よりも大切にしていくことを幹部は忘れてはならない。
9  世田谷の地に広布の思い出
 この四月、東京・世田谷区に東京池田記念講堂が誕生した。その際に世田谷学生部、また婦人部の有志の方々が「世田谷」の地理や歴史についてくわしく調べ、私のもとへ届けてくださったので少々紹介させていただく。
 そこでは「世田谷」の地名について、いくつかの説をあげていた。なかでも最も一般的とされるのが、「勢多せた郷の谷」に由来する、という説である。
 また、アイヌ語に由来する、との説では、「せた」は桜、「かや」は高台の意で、「せたがや」とは「桜のある高台」を表すという。
 このような諸説はあるが、確かに、「世田谷」という地名は、りんとした桜のごとき気品が感じられる言葉である。ちなみにこのたび講堂が完成した地域は、「桜新町」「用賀」という。
 その世田谷に人が住みはじめたのは、今から約三万年前。先土器せんどき時代からのことと推定される。また区内からは「大蔵おおくら遺跡」をはじめ百数十カ所の繩文時代の遺跡が発見されており、世田谷は大昔から「文化の地」であったといえよう。
10  さて世田谷といえば、三十四年前の昭和二十九年一月、戸田先生のつかいとして牧口先生の『価値論』を、成城に住んでおられた民俗学者、故・柳田国男氏にお届けしたことを懐かしく思い出す。私が二十六歳のときであった。当時、周囲には武蔵野の面影おもかげが、色濃く残っていた。
 あいにく柳田氏は留守で、お会いできなかったが、ご存じのように氏は牧口先生と大変に親交があり、『創価教育学体系』には、現行の五千円札の肖像にもなっている新渡戸にとべ稲造氏らとともに、序文を寄せておられる。また氏は、草創の「創価教育学会」の顧問の一人でもあった。
 ともあれ″牧口先生の逝去せいきょ後十年を期して、『価値論』を世界の各大学へ贈る″というのが、戸田先生の決意であった。師匠に対する、弟子の誓いであった。その厳粛げんしゅくなる師弟の心を託されて、私は柳田宅に『価値論』を持参したのである。
 また、この年には梅雨のなかを世田谷へ、知人の折伏に訪れたことも懐かしい。
11  文化祭の淵源となった草創の体育大会
 昭和二十九年十一月七日、初の青年部体育大会を、世田谷・下高井戸の日大グラウンドで開催したことは、忘れ得ぬ思い出である。
 これは一切を私をはじめとする青年部の責任において行った行事であった。青年たちの初めてのこころみは、当時の理事室の了解を得られなかった。そこで戸田先生に直接、お願いをした。先生は「将来のために意味があるだろうから、やりなさい」と私ども青年の心をくみ、許可してくださった。
 たしかに、年配者になると若者の考え、行動を理解しにくくなるものである。しかし、年配者であればこそ、若者の意見をよく聞き、″広布のためであるなら、自分が責任を持つから存分にやりなさい″という度量をもちたいものである。決して、自分たちの古い考えで、みずみずしい青年たちの心を抑えてはならない。
12  やがてこの体育大会が、今日に見る文化祭の淵源えんげんとなったことは、皆さま方がご存じの通りである。
 体育大会の当日、戸田先生は満面に笑みを浮かべて青年たちを見守ってくださった。そして「かくも多くの立派な若人が、私の眼前にこのように出現したことは、私自身の心からの喜びとするところであります」と、最大に激励してくださったのである。
 今日、学会には幾十百万の若人が輩出し、あとに続いている。牧口先生、戸田先生も、いかほどかお喜びのことであろう。この青年たちの姿に思いをはせるとき、前途洋々たる学会を思い、私の心も喜びにあふれる。
 ともあれ、戸田先生のもと、世田谷で初めて行った青年部の体育大会が、今や世界各地の若人による文化祭へと発展した歴史──。それは、いずれの時代にあっても変わらない広布の一つの「方程式」といえよう。
 現在、青年部の手で行われている活動も同様である。たとえ小規模なものであったとしても、それを淵源として将来必ず大きく発展しゆくことを私は確信している。「小さなこと」を軽んじて広布の伸展はない。将来を期して「小さなこと」に徹することこそ、「偉大」なのである。
13  若き日の夢を生涯の希望に
 戸田先生はかつて、次のように話されたことがある。
 「われらが御本仏・日蓮大聖人は、御年十六歳にして人類救済の大願に目覚められ、かつまた宇宙の哲理をお悟りあそばされて以来、三十二の御年まで、その信念の確証を研鑚けんさんあそばされて後、御年六十一歳の御入滅の日まで、若きときの希望、若きときの夢の一つも離すことなく、生活に打ちたてられたことは、じつにすさまじい大殿堂を見るがごときものではないか」と。
 若い時の「夢」、若い時の「希望」を手放すな、との戸田先生の指針である。まさしく、この両者を手放しては、人間として何の意味もない。どこまでも夢と希望を持ち続け、そのすべてを実現していく──ここに「人生」と「信仰」の、素晴らしき「ロマン」があることを強く申し上げておきたい。
 大聖人は、身延方面の地頭であった波木井実長はきりさねながへの御手紙の中で、南岳なんがく大師の次のような言葉を引かれている。
 「若し菩薩有りて悪人を将護しょうごして治罰すること能わず、其れをして悪を長ぜしめ善人を悩乱し正法を敗壊せば此の人は実に菩薩に非ず」──もし、菩薩がいて、悪人をかばってその罪を罰することができず、そのために悪を増長させ、善人を悩まし正法を破壊するならば、その人は本当は菩薩ではない──。
 「外には詐侮を現じ常に是の言を作さん、我は忍辱を行ずと、其の人命終して諸の悪人と倶に地獄に堕ちなん」──この人は、外に向かっては、いつわりあなどって、常に次のようにいうであろう。『自分は忍辱の行を行っている』と。しかし、その人は命が尽きて死んだ後、多くの悪人とともに、地獄におちるであろう──と。
 波木井実長は、大聖人御入滅後、悪師・日向(五老僧の一人)に親近して、大謗法をおかしてしまうが、他の御手紙などとあわせて拝すると、大聖人は御在世中から、その実長の生命の傾向性を鋭く見抜かれていたようである。
 この御手紙では、正法を破る悪を見過ごし、許してはならない。強く破折していかねばならない。そうでないと堕地獄は間違いないと厳しく戒められている。
 「破邪顕正はじゃけんしょう」が大聖人の仏法の根本精神である。もし、正法を破ろうとする悪人に対して、その罪を弾がいすることもなく、悪を増長させてしまうならば、もはや大聖人の門下とはいえない。
 こうした悪をせめ、悪人と戦わない人にかぎって″自分は、菩薩の修行の一つである忍辱にんにく(耐え忍ぶこと)の修行をしている″といって、自らを正当化してごまかしてしまう。しかし、それは自らの憶病さのゆえに、悪の傍観者となっているにすぎない。その人は、いわば悪人と同罪で、成仏はできない、必ず堕地獄の道に入ってしまうとの仰せなのである。
 たもつべき法は世界第一でありながら、持つ人の心が憶病や慢心にとらわれていれば、仏法の信仰者とはいえない。この「心」をどう堅固に持っていくかが大事なのである。いくら口でうまいことを言っても、その厳しき現実は免れえない。
14  学会は庶民を守りゆく世界
 また、以前にも申し上げたように、大聖人の御入滅後も、佐渡には純粋な信仰を貫いていこうとする多くの門下がいた。しかし、その佐渡に富士の門流ではない一人の風来の僧が入り込み、門下を惑わすということがあった。
 大聖人御入滅四十二年目の元亨げんこう三年(一三二三年)六月、日興上人(当時、御年七十八歳)は、佐渡の門下への御手紙で、次のように仰せになっている。
 「御じやうにも、御たれともそうらはす、かうしう講衆よりも、しでし師弟子ぞんち存知せぬと申され候あいだ、御くやう供養おさまいらせず候事は、きはめおそれ入て候へども」
 ──御手紙にも、師がだれであるとも書かれてはいない。また佐渡の門下の人たちも、その僧の師弟子を知らないといっているので、その僧からの御供養を、(日興上人は)収めなかったことは、たいへん恐縮ではあるが──。
 「ほうもん法門たてそうろうことは、ゑんぶだい閻浮提一の大事にて候あひだかよう斯様に、きたい鍛錬申候だにも、しやう人の御せうらん照覧にはゆるくやおぼされ候らんとおそれいりまいらせて候なり」
 ──この法門を立てたことは、閻浮提えんぶだい(全世界)一の大事であるので、このように厳しく申し上げることさえも、大聖人が御照覧になれば、それはゆるやかだとおしかりを受けるかもしれないと恐縮している次第である──。
 「御かうしう講衆じこん自今いご以後おいて、へんぱ偏頗ありてしやう人のほうもん法門にきずたまひ候な」
 ──佐渡の門下も、今より以後、法門上の偏頗があって、大聖人の法門にきずをつけてはならない──と。
 日興上人は、自分の師も弟子もはっきりしない、正体不明の人物によって、純粋な、清らかな信心の世界が、かく乱されることを絶対に許されなかった。日興上人の御指南は、一面、厳しすぎると考える者もいたかもしれない。
 しかし、大聖人の仏法は、閻浮第一、つまり世界第一の大事の法門である。末法万年尽未来際の永遠の大法であり、この大法以外に、人類を救う方途はない。だからこそ、厳格に、少しの誤りも、濁りもなく護持していかねばならない。
 ″このように、強く戒めても、大聖人が御覧になれば、まだゆるやかだ、軟弱だ、とお叱りをうけるかもしれない″と、厳しく律していかれたのが日興上人であられた。
 正しき、清浄な信心の世界を濁らせ、乱そうとするものとは、妥協なく戦っていかねばならない。これが、大聖人の御心を我が心として、大聖人の正法正義を厳然と守り抜かんとされた御弟子・日興上人の深き御決意であられたと拝する。
15  「広布」と「信心」の学会の世界にあっても同じ方程式でなくてはならない。清浄な正法正義の世界を、絶対に濁らせてはならない。濁れば、そこから魔の眷属がはびこり、堕地獄の因をつくってしまう。ゆえに牧口先生も、戸田先生も、邪悪とは徹底して戦われたし、信心には厳格な指導をされてきた。
 私もまた、恩師の歩んだ厳しき信心の道を一分もたがえることなく進んできたつもりである。ゆえに、世界にかんたる学会が築かれたと思っている。今日の創価学会の発展は、私どもの信心、指導、歩んできた道が、絶対に間違いのなかったことの証左にほかならない。
 戸田先生が、青年に厳しく教えられたのも″いかにして純粋な学会の世界を守り抜くか″との一点であった。学会は人のよい善人の集いである。だからこそ、邪悪の者が出れば、いくらでも利用され、かく乱もされてしまう、と未来を鋭く見通されていたにちがいない。
 戸田先生はいわれていた。
 「学会は庶民の味方である。いかにののしられ、嘲笑ちょうしょうされようとも、その人たちのために戦う。仏の目から見るならば、最高に崇高なことなのである。有名を鼻にかけたり、見栄を張ったりする者の応援もいらないし、学会の幹部になっては絶対に困る。学会は純粋な信仰で一切を切り開いてゆく」と。
 戸田先生の、遺言ともいうべきこの言葉を申し上げ、皆さま方の「ご健康」と、「ご活躍」と「ご長寿」を念願し、私のスピーチを終わらせていただく。

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