Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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港、目黒、渋谷区合同支部長会 世界に開く先駆の道を

1988.9.12 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

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1  「病」「死」を乗り越える人生観の確立を
 本日、九月十二日は、末法の御本仏・日蓮大聖人が竜の口の大法難におかれて「発迹顕本」なされた、もっとも意義深き日である。総本山では、御法主日顕上人の大導師のもと、厳粛に「宗祖御難会」が奉修されている。
 そうした意義ある日に、広宣流布のための伝統の支部長会が開催できたことを、地元・港区はもとより、目黒区、渋谷区の支部長、支部婦人部長の皆さま方と、ともどもに、心から喜びあいたい。
 また先ほどは、この日の意義をこめ、合唱団の方々が、殉教の誉れ高き「熱原の三烈士」の歌をご披露してくださり、深い感動をおぼえた。心から感謝したい。
 また、私はご参集のすべての皆さま方に、心から「ご苦労さま」と申し上げたい。皆さま方が、お疲れにもかかわらず、″よし、支部長会だ″と、自ら率先して、広布への思いも強く、御本尊のもとに集ってこられた──この心意気、強盛な一念こそ、信心の精髄ともいうべきであり、成仏への根本姿勢でもあると、私は敬意をこめて申し上げておきたい。
2  先日、『聖教グラフ』(九月二十一日号)に紹介されていたが、ある若き医師が次のように言っていた。
 「人間にとって恐ろしいものは、白血病でも、ガンでもない。生きる生命力のなくなった弱い自分なのだ」、また「『死』の恐怖を乗り越え病気と立ち向かう人生観を確立することが、健康な時になすべきことであると思います」と。
 数々の「生」と「死」をみてきた経験からの、人生の本質をとらえた言葉だと思う。大聖人は「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と仰せであるが、健康のとき、活動できるときに、「病」と「死」を乗り越えていける人生観の確立こそ、人生の最大事であり、生き方の根本でもある。私たちは幸せにもその道を知っている。
 さて、皆さまもご存じのように、近く世界五十四カ国からSGIのメンバーが、第九回SGI総会など一連の行事に参加するために来日する。日本の皆さま方には、何かとお世話になることと思うが、温かく迎えてくださるよう、くれぐれもよろしくお願い申し上げたい。
 そこで、本日の支部長会では、SGI総会の慶祝の意味をこめて、世界広布の舞台で活躍してきた一人の妙法の先駆者を紹介させていただきたい。
 現在、アフリカ大陸には、五千人を超える妙法の同志が、勇んで活躍している。いうまでもなく、仏法史上、かつてない燦然たる偉業である。
 学会は世界に正法を弘めた。これは厳たる事実である。心ある人々は、あまりにも尊く、刮目すべき姿として注目し、たたえるにちがいない。私どもの、その信心の功徳も永遠である。
3  アフリカ広布に永遠の足跡
 アフリカのメンバーをこれまで陰に陽に支え、励ましてきた一人の勇者がいる。それがアフリカ総合長の薬袋忠さんである。
 現在、彼は四十七歳。十四年前の一九七四年(昭和四十九年)一月、聖教新聞の特派員としてガーナに渡った。三十二歳の青年であった。
 「先生、アフリカへ行かせてください」──彼は「二十一世紀は、アフリカの時代」という信念から、自らアフリカ広布の礎になりたいと申し出た。
 私は、その青年らしい心意気が、うれしかった。本部の四階の階段に二人で腰かけながら、私はさまざまに語り、激励した。そして「体を大事に」と言って、万感の思いで送り出したことを今も覚えている。
 以来、一九八四年(昭和五十九年)十二月、日本に帰国するまで、実に十一年間、熱の天地で、アフリカ広布のために彼は戦いぬいた。
 ひとくちに十一年というが、一般に商社などでも、アフリカの熱帯地域への赴任は、三年間が限度とされている。それほど、気候をはじめとする諸条件が日本と大きく異なっている。高熱の出るマラリアとの戦い、食べものや水の違い、旱魃、物資の不足。文化・習慣の隔たりも大きい。
 一日一日、体を張っての戦いである。いわんや、そのなかで布教をし、指導に走る。筆舌に尽くせぬ苦労の連続だったにちがいない。クーデターもあった。そうしたなか、「死」を覚悟することも一度や二度ではなかった。こう彼は語っている。
 しかし彼には深き「使命」の自覚があった。アフリカ広布──その一点に徹していた。ゆえに彼には不動の強さがあった。グチもなければ、弱音もなかった。
 今、日本には多くの幹部がいる。そのなかの何人が、彼と同じ状況下で、毅然と戦っていけるか。華やかな立場はなくとも、人目につかぬ陰に、こうした本物の学会っ子がいることを忘れてはならない。
 夫人の恵子さんも、彼とともに、身をなげうって頑張ってくれた。
 私も二人に真剣に題目を送った。
 「呵責謗法滅罪抄」の一節に日蓮大聖人は、こう仰せである。
 「何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」──世の中がどのように乱れようとも、あなた方を、法華経・十羅刹よ、助けたまえと、湿っている木より火を出し、乾いた土より水を出すように、強盛な一念で祈っている──と。
 これは大聖人が佐渡の地より、はるか鎌倉の門下一人一人を思いやられての御文である。
 私は、青年時代からつねに、この一節を心に浮かべて戦ってきた。そして今も、門下を思う大聖人の大慈悲を深く拝しながら、私は私の立場で、全世界の同志の安穏を毎日、懸命に御本尊に祈っている。
 聖教新聞の「我が人生の譜」のなかで薬袋さんは、こう語っている(本年五月三十一日付)。
 「十年余のアフリカ滞在中、私はずっと先生の題目に守られ続けてきたことを、しみじみと感ずる」と──。
 信心で結ばれた同志の生命と生命の絆は深い。かりに遠く離れていようとも、あたかも精巧な送信機と受信機のごとく、一念の波動を鋭敏に伝え、感受していく。さらに、題目は死後の生命をも妙法の光でつつんでいく。
 余談になるが、かつて『裁判の書』(三宅正太郎、牧野書店)という本を勧められて読んだ。今は絶版のようだが、そのなかに裁判官が判決に臨む心として、こういう意味のことがあったと記憶する。
 ──生者のこと、現世のことのみを考えていたのでは裁判はできない。むしろ目に見えぬ無数の死者たちと交流し、その声にも耳を傾ける謙虚な心で臨むべきである。ゆえに私はつねに厳粛な思いで仏前に端座することにしていると。
 妙法を知らぬ人でさえ、このような深い見方をしている。まして私どもは、生死を超えて、あらゆる生命に功徳を回向してあげられる「法」を知っている。題目の力はあまりにも偉大である。
4  かつて、作家の松山善三氏も、取材でガーナを訪れたさい、薬袋さん夫妻とさまざまに語りあうことがあったようである。松山氏は、そのときの模様を、『ああ人間山脈』(潮出版社)のなかで述べておられるが、夫妻の住まいに滞在して三日間、ただの一度もガーナの悪口、生活の不満を聞くことはなかったという。
 好き嫌いにとらわれた、わがままな信仰などありえない。味方もいない、厳しい試練や迫害の真っただ中で道を開いていく人こそ、本当の信仰者である。その意味から、薬袋さんの名は、アフリカの大地に刻まれた見事な広布の足跡とともに、永遠に輝いていくにちがいない。
5  大聖人は、佐渡の千日尼にあてた御手紙の追伸に、次のように仰せである。
 「豊後房に申し候べし・既に法門・日本国にひろまりて候、北陸道をば豊後房なびくべきに学生ならでは叶うべからず・九月十五日已前に・いそぎいそぎまいるべし
 ──あなた(千日尼)から豊後房に、次のように申し伝えてください。すでに日の法華経の法門は、日本全国に弘まってきた。北陸道を教化するのは豊後房の役目であるが、それも学問がないとできないことである。九月十五日以前に、急ぎ急ぎ身延へまいるように、と──。
 「いそぎいそぎまいるべし」、つまり″急いで私のもとに来て学びなさい″との大聖人の御言葉である。ここには、一つの地域の広宣流布を担うということが、どれほど重大なことであり、そのための中心者の成長がいかに大事であるかを示されていると拝せよう。
 もし、中心者が慢心の人となって、正しき「師」を求めようとせず、また「法」を学ぶ努力を怠ってしまったならば、その地域の広宣流布は停滞し、多くの人々の信心もにごらせてしまう。それほどに、仏法は厳しく、中心者の責任は重い。
 ともかく私どもは、久遠元初からの約束で、それぞれの地に願い来った「地涌の勇者」である。環境に負けたり、困難を避けては、自らの使命を果たすことはできない。
 中心者の「信心」「教学」「人格」の前進が、その人自身の成仏はもとより、後輩の成長、地域広布の前進へとつながりゆくことを深く銘記したいものである。
6  法戦の矢面に立った舎利弗と目連
 さて、舎利弗と目連といえば、有名な釈尊の高弟である。釈尊の十大弟子のなかでも、舎利弗は「智第一」、目連は「神通第一」とうたわれた、釈尊門下の代表する弟子たちの双璧であった。ともに傑出した「知性」と「力」、「勇気」と「情熱」をあわせもった後継の存在であった。
 しかも彼らは、座して学究に没するような″閉じこもった″ひ弱な″インテリ″ではなかった。また、権威をカサに着て上から命令するだけの傲慢な″エリート″の存在でもなかった。自らが率先して信仰者としての範を示し、師・釈尊を守り、教団の同志を守るために、矢面に立って戦いぬいた真の弟子であった。
 ちなみに現代では″インテリ″というと、なにか学究肌の弱々しいイメージが定着している感がある。しかし、本来の″インテリ″すなわち真の″知性の人″とは、磨き深めた「学識」と「人格」の力をもって自らをも惜しまず民衆のために働き、民衆を賢明にリードしていく存在であると、私はつねづね思っている。
 その意味で、民衆を救うため命がけで仏法を学び弘め、尊い仏子を守りぬくために思想戦、言論戦の″矢面に立って″戦った釈尊の十大弟子も、また大聖人の弟子門下も、その時代の″知識人″″インテリ″であったといえよう。
 自らの指導的立場や権威を保つことに々となり、批判や迫害を恐れ逃げていく人は″インテリ″の名に値しない。
 とくに後継の青年部の諸君は、あらゆる法戦の矢面に立って大切な仏子を守り、広布の前進をリードしゆく、強靱な「知性」と「勇気」の指導者として成長しぬいていっていただきたい。
7  師の釈尊に対して悪逆の限りを尽くした、かの提婆達多が、あるとき釈尊の教団の分裂をはかった。信仰の純粋性をたくみに装った提婆が、まだ釈尊の仏法の真意を理解できない五百人の新参の弟子をたぶらかし、彼らを引き連れて釈尊のもとを出奔してしまうという事件が起こった。
 一般に、いかなる組織にも、こうした分裂の危機は大なり小なり必ずある。それは宗教界にとっても同様であり、宗教の歴史も教団の分裂という、いわば宿命的な戦いの連続であったともいえる。わが学会においても、そうした卑劣な策謀が近年あったことは、皆さまご存じの通りである。だが、決して学会は破られなかった。
 提婆が五百人の釈尊の弟子を誘惑し、破和合僧をはかったとき、敢然と提婆のいる本拠地に乗り込んで戦ったのが、舎利弗と目連の二人である。
 おごりたかぶった提婆は、やってきた舎利弗と目を見て、この二人の高弟までが釈尊のもとを出て自分になびいたものと思いこむ。が、実はそうではなかった。二人は師・釈尊の正法正義を証明するためにやってきたのである。
 提婆は二人に五百人の弟子への説法を任せたとき、二人の戦いは始まった。舎利弗と目連は、釈尊の教えの正義と″和合僧″の重大な意義を訴え、それを破らんとする悪知識・提婆の反逆を弾劾した。二人の勇気の言動、真実の声によって、一時は分別のつかない愚かな心のために提婆に引きずられるままであった五百人は、自分たちがだまされて道を誤ったことに目覚める。
 こうして舎利弗と目連は、五百人の弟子を無事に提婆の魔手から取り戻し、師の釈尊のもとへ連れて帰ってくることができた。
 釈尊の教団の分裂という事態は、二人の弟子の活躍によって回避された。自らの策謀に致命的な鉄を加えられた提婆は、悲憤のあまり熱血を吐いたとも伝えられている。
 悪逆の提婆の計略を打ち破り、師の正義を見事に証明した──ここに、釈尊の弟子を代表する舎利弗と目連の誉れと真価があるといってよい。
 後継の弟子の見事な活躍ぶりを、釈尊もさぞや賛嘆したであろう。私は広宣流布の未来を担いゆく青年部諸君の活躍も、かくあってほしいとの願いをこめて、このエピソードを思い起こす昨今である。
8  「慈悲」こそ真の「智」の源泉
 さて、まもなく「敬老の日」を迎える。そこで、「敬老」の意義をこめ、「富木殿御返事」の一節を拝読しておきたい。
 文永十二年(一二七五年)二月、富木常忍は大聖人にかたびらを御供養申し上げた。帷とは、もともと″片ひら″(片一方の意)という意味の言葉で、裏地のない一重の衣類のことである。
 それに対して、大聖人は、御礼の御手紙をしたためられ、次のように仰せである。
 「此れは又齢九旬にいたれる悲母の愛子にこれをまいらせさせ給える我と両眼をしぼり身命を尽くせり」──これはまた、年齢が九十になっている悲母が、愛子であるあなた(富木殿)にさし上げられたものである。自ら両眼を無理し、身命を尽くして作られたのであろう──。
 「我が子の身として此の帷の恩かたしと・をぼして・つかわせるか」──富木殿は、子の身として、この帷の恩は報じがたいと思って、私(大聖人)のもとによこされたのであろうか──。
 「日蓮又ほうじがたし、しかれども又返すべきにあらず」──日蓮もまた、その恩は報じがたい。しかし、かといって、返すべきではあるまい──。
 「此の帷をきて日天の御前にして此の子細を申し上げば定めて釈梵諸天しろしめすべし、帷は一なれども十方の諸天此れをしり給うべし」──この帷を着て、日天の前で、この詳しいいきさつを申し上げれば、きっと帝釈・梵天・諸天善神も知られることであろう。帷は一つであっても、十方世界のあらゆる諸天善神が、このことを知られるであろう──。
 「露を大海によせ土を大地に加るがごとし生生に失せじ世世にちざらむかし」──それは露を大海に入れ、土を大地に加えるようなものである。生々に失われないし、世々に朽ちないであろう──と。
 少々、長い引用となったが、御文に仰せの通り、このとき母は九十歳。ちょうど、亡くなる一年前のことであった。子の常忍も六十歳ぐらいであったと推測される。何歳になっても、母は母である。老母は、すでに手もともおぼつかなかったろうに、愛するわが子のために手ずから帷を縫った。あまりにも深く尊い、母の慈愛である。
 一針一針に愛情をこめ、縫いあげられた真心の帷──さぞやすばらしいものであったにちがいない。それを目にした常忍は、自分が着るより、まず、だれよりもお慕い申し上げる師・大聖人に着していただきたいと強く感じたのであろう。そこで、母にも相談しながら、あえて御供養申し上げたと推察できる。
 一枚の衣に仕立てられた「心」と「心」のドラマ──大聖人は、すべてを、御存じであられた。
 とくに、九十歳になっても子のためには労を惜しまぬ母の姿に、深く感銘を受けておられたと拝される。その尊い母の恩は「日蓮又ほうじがたし」とまで仰せになっている。
 そして「この帷を着て、日天の前で、くわしい経緯を申し上げよう。そうすれば、あらゆる諸天善神が母子の麗しい真心を知り、三世にわたり、二人を守っていくでしょう。それは永遠に変わることがないのである」と励まされている。御本仏の、まさに宇宙大の御境界と、広大無辺の大慈大悲を拝さずにはいられない。
9  それにしても、大聖人が、こまやかに人情の機微をとらえられ、最大の真心で門下を激励されている御姿に、私は心打たれる。愛する同志、後輩のために、一人一人の心の綾をたんねんにたどり、踏まえながら、どこまでも尽くし、守りぬいていく──この強靱にして慈愛豊かな人間性にこそ、仏法の精髄があることを知らねばならない。
 戸田先生は、よく言われていた。──一次元からいえば、「慈悲」があるということは、即「智慧」につながっていく。真の「慈悲」の人は、あの人のためにどうすべきか、どうしてあげたらいいかと、つねに心をくだきにくだいている。ゆえに、だれも気にとめないようなところにも気がつき、うっかり見過ごしてしまうようなところまで、自然に見えてくるものだ──と。
 所詮、「智慧」といっても、なにも特別な「力」や「才」がなければ得られないというものではない。広布へのめども尽きぬ信心の深さがあれば、しだいに心からの思いやりとか、心くばりがそなわっていくものである。
 しかも「智慧」は、単なる「知識」ではない。「知識」を生かし、活用していく源泉が「智慧」である。いかに「知識」があっても、″慈悲なきインテリ″″冷酷な知識人″であっては、ほんとうの「智慧」はわいてこないし、「知識」のみでは、生きゆく力も、幸せの価値も生み出せないであろう。「慈悲」こそ、真の「智慧」の源泉であり、「信仰」の根幹である。
10  「進まざるは退転」の心意気で
 人も社会も、時とともにうつろい、変化していく。しかし、仏法は、いかに時代が変わろうとも、いささかも変わらぬ常住・不変の法である。ゆえに、仏法をたもった私どもは、どんなことが起ころうとも、だれにどういわれようとも、紛動されることはないし、動じることもない。悠々と、堂々と生きぬいていくことだ。
 ともあれ「進まざるは退転」の精神を胸に、大聖人に賛嘆されるよう、ともどもに凛々しき前進を続けていきたいと申し上げ、本日のスピーチとさせていただく。

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