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日蓮大聖人・池田大作

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第三回全国婦人部幹部会 人類希求の黄金郷運動で

1988.9.7 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

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1  きょうも少々、ゆったりとした気持ちで、懇談的に、お話しさせていただきたい。
 先日、ある少壮の学者が語っていたようだ。
 「仏教の真の運動は、必ずや文化運動として花開く。また、平和運動を志向していくとともに、幅広い教育運動にもつながる。さらに、価値ある生活の源泉ともなり、人間の覚醒かくせい運動となっていく」と。
 まさしく、真実の言である。私どもは、仏法を基調に、自身と社会の向上を目指し、世界に開かれた幅広い活動を推進している。それが、いかに、宗教運動として正しい在り方であるか。その重要な証言の一つとして、この言葉を申し上げた次第である。
2  先月の末、私は、コロンビアの、若き知性的なドゥケ大使と会談した。
 コロンビアといっても、なじみが薄い人もあろう。皆さまのなかにも、聖教新聞の報道を見て、子供さんに聞かれた人がいるかもしれない。「お母さん、コロンビアって、どこの国なの?」「マァ、そんなこと分からないの?しようがないねぇ。ちっとも勉強しないんだからぁ。コロンビアは、アフリカのまんなかにある国よ」――まさか、こんな人はいないと思うが、知らないということは、まことに恐ろしい。そこで、一層、友好を深める願いも込めて、この国について、簡潔に紹介しておきたい。″知ること″は、自分の心の世界を広くするからである。
 いうまでもなく、コロンビアは、南アメリカ大陸の北部に位置する国である。面積は、日本の約三倍。国の南部を赤道が走る。国土の半分以上はアマゾン川の上流域で、ジャングル地帯となっている。が、国の東部には「リャノス」と呼ばれる大草原が広がる。また北西部には、南米大陸を貫くアンデスの山脈もそびえるなど、変化に富んだ、雄大な自然に恵まれた国である。
 アンデスには、五千メートルを超える火山がいくつかあり、山頂には、万年雪をいただいている。一方で、うっそうたるジャングルをいだきながら、彼方かなたに、白きかんむりの高山を望むこともできる。太古より変わらぬ大自然の絶妙なコントラスト(対比)――それは、まさに壮観であろう。
 アンデスの万年雪というと、懐かしく思い起こすことがある。かつて、著名な経済学者の故・大熊信行おおくまのぶゆき氏と、何度か懇談した。氏は、つねづね、私の信念や行動に理解を寄せてくださり、あるとき、「池田先生の労苦は、アンデスの万年雪のように積もっているでしょうね」と話された。人生の大先輩に、このようにねぎらっていただき、恐縮した次第であるが、その大きく、温かなお心に、私は感動した。氏が亡くなった今となっては、本当に懐かしい思い出である。
3  「コロンビア」の名は、アメリカ大陸の発見者コロンブスにちなんでいる。コロンビアは、ブラジルに次ぐ、世界第二位のコーヒー生産国であり、そのコーヒーも、やはり「コロンビア」と呼ばれる。
 このコーヒーは、比較的小規模の農園で、丹念に栽培され、時間をかけてゆっくりと乾燥される。ここに「コロンビア・コーヒー」のうまさの秘訣ひけつがあるといわれ、その香りは、まさに逸品いっぴんである。
 鉱物資源にも恵まれているが、なかでもエメラルドは、全世界の八〇%を産出している。エメラルドは、「希望」「幸福」等を象徴する宝石として、昔から尊重されているが、そのあざやかなグリーンの輝きは、緑したたるコロンビアの国土のシンボルでもあろう。
4  コロンビアには、人々のロマンをかきたててやまない「エルドラード」の伝説がある。「エルドラード」とは新大陸にあるとされた「黄金郷」のことである。この伝説は、首都のあるボゴタ地方に住んでいたチブチャ族に起源を持つといわれる。現在も、ボゴタの国際空港の名前は「エルドラード」である。
 「エルドラード」の夢にロマンをいだき、自由に空想のつばさを広げた一人に、ボルテール(一六九四〜一七七八年)がいる。いうまでもなく、フランス革命に多大な影響を与えた思想家であるが、代表作の一つである哲学小説「カンディード」で、彼は「エルドラード」について記している。
 ――主人公カンディードは、各地を放浪したのち、南米の奥深くにある、不思議な国「エルドラード」にたどりつく。なんと、そこでは、子供たちが黄金の服を着て、金やエメラルド、ルビーを石投げに使っている。国は、あらゆる物資に恵まれていたが、豊かなのは物だけではない。国民は、王から村人にいたるまで争うことを知らず、ゆえにここには訴訟そしょうもなければ、裁判所や監獄かんごくもない。そして、「数学や物理学の機械」がぎっしりと詰まった「科学の殿堂」があり、高度な文明を持っている。
 カンディードは、「物質」のみならず「心」も豊かであり、社会が「信頼」と「善意」に満ちあふれている様子に感嘆し、「おそらくこの国こそ、すべてが善なのだ」と語る。(引用は、岩波文庫「カンディード」吉村正一郎訳による)
 ボルテールは、退廃と虚無のやみに沈み始めた、当時のヨーロッパ社会の世相をうれいながら、それとは対照的な理想郷、光り輝く黄金郷として「エルドラード」をえがき出したにちがいない。
 ボルテールは、″我が理想郷″を描写するにさいし、決して物質的な豊かさだけで満足してはいない。いかに物資があふれ、富があったとしても、人間の「心」がまずしければ、絶対に幸福な社会とはならない。「個人の幸せ」も「社会の安定」も、一人一人の「精神」の豊かさがあって初めて、実現することを、この思想家は、鋭く見抜いていた。
 ゆえに、真実の「理想郷」の建設とは、まず人々の「心」をうるおし、「精神」をたがやしていく運動でなくてはならない。その確かな基盤のうえにこそ、理想の地域、理想の社会は築かれていく。
 この意味から、私どもの広宣流布の活動こそ、「人類の理想郷」「未来の黄金郷」を築きゆく王道であることを、私は確信してやまない。
 とともに、広布のために邁進まいしんしゆく我が創価学会ほど、「信頼」と「善意」に包まれたうるわしい世界はない。まさに、ボルテールの夢みた「エルドラード」の世界が、ここにあると思う。
5  思えば、二十八年前、ほんの数時間ではあるが、私はボゴタの「エルドラード」空港におりたことがある。初の南米訪問の帰途きと、飛行機が、給油のために立ち寄ったのである。
 ――深夜であった。待合室から外に出ると、空に無数の銀の星が美しくまたたいている。私は諸天に向かって唱題した。いつかこのコロンビアの天地にも、地涌の勇者が出現することを祈った。
 当時、世界の各地を訪れたさい、私は飛行機でも、車中でも、ホテルでも、つねに唱題していた。――今は、同志はだれもいない。しかし、こうして妙法の種を植えておけば、将来、この地にも、必ずや仏法が花開き、地涌の友が乱舞していくにちがいない――これが、私の心境であった。
 幸いにも、現在では、コロンビアの地にも数百人の同志が誕生し、社会の繁栄と自身の幸福のために、生き生きと活躍されている。これほどうれしいことはない。近い将来、ぜひとも、コロンビアを訪問し、我が同志を激励したいと思っている。その日が、今から楽しみでならない。
 ちなみに、コロンビアの国旗は、黄、青、赤の三色で、学会のシンボル・カラーと同じである。コロンビア国旗の三色は、黄が豊かな鉱物資源、青が雄大な空と海、赤が独立のために流した英雄の血を、それぞれ表している。
 また、三年前のネバドデルルイス山の噴火で深刻な被害をこうむったさいには、学会として義援金ぎえんきんを贈らせていただいた。今後も、さらに、友誼ゆうぎきずなを強めていけるよう念願してやまない。
6  真実の叫びが正義を証明
 さて、きょうは少々、難しい話になるかもしれない。前もって、その点をある婦人にたずねたところ「大丈夫です。婦人部の皆さんは信心と教学の基礎がしっかりできていますから」と語っていた。まことに心強い限りであり、安心してお話しさせていただきたいと思う。
 法華経従地涌出品じゅうじゆじゅっぽん第十五には、地涌の菩薩の徳について説かれている。その中に――「種種の妙法を説いての心おそるる所無し」(妙法華経並開結四八七㌻)また「難問答なんもんどうたくみにして 其の心畏るる所無く」(妙法華経並開結四九三㌻)と。
 これらの経文は、私が入信間もないころ、戸田先生の講義を受けて胸に刻んだ一節である。すなわち、地涌の眷属けんぞくとして、いかなる法戦にあっても、我が心に畏れなく、妙法の正義を堂々と叫びきっていきなさい、と。これができるか否かに、真正の信仰者か、形のみの名聞名利の信仰者かの分かれ目がある。
 また、日蓮大聖人が日興上人に与えられた「聖人等御返事」の一節には、こう仰せである。
 「各にはおづる事なかれ、つよりもてゆかば定めて子細いできぬとおぼふるなり」――おのおのには、恐れることがあってはならない。心を強くもって正義を訴えていくならば、必ず事件の子細も明白になってくると思われる――と。
 これは弘安二年(一二七九年)十月、まさに「熱原法難あつはらほうなん」の渦中に記された御文である。この時、日蓮大聖人は御年五十八歳。日興上人は三十四歳の青年であられた。
 思えば伊豆流罪にあっても、佐渡流罪にあっても、身に影の添うがごとく、ただ御一人、大聖人に常随給仕じょうずいきゅうじされ、ともに大難と戦い、大聖人をお守りしてこられたのが日興上人であられる。そしてこの熱原法難にさいしては、日興上人が若き法将ほうしょうとして、すべての矢面やおもてに立って陣頭指揮じんとうしきにあたられた。まさしく、かの五老僧など足元にも及ばない、尊い忍難にんなんの御姿であられた。
 その日興上人をはじめ、ともに戦う門下に対して、大聖人は障魔の嵐に、決しておじ、恐れてはならない、心に恐れなく進んでこそ真実は明らかになるのだと仰せである。
7  どれほどの難を受けたか。またどれほどの辛労しんろうを尽くして難と戦ったか。そこに、信仰者としての真価が問われる。
 今日の学会発展の源流の一つも、戸田先生のもとで私が一切の責任を担い、矢面に立って戦い、そして皆さま方に支えられつつ、恩師の構想を確かに受け継ぎ、実現しようとの信念に徹してきたところにある。
 やがて今度は、広布の心を心として一切の責任と使命を担って立つ、後継の″本物の一人″が多く現れるであろうことを、私は深く信じ、また期待もしている。
 今日まで、妙法の同志を裏切り、退転した人々は、ほとんどが自分では何ひとつ難など受けたことがない。常に陰に隠れて、策や要領を使い自己の保身のために立ち回ってきた人間ばかりなのが現実である。
 いずれにせよ、難にあったときに、どう信心を強め、行動していくかである。どこまでも″徹して強気で正義を叫びきっていく。そして真実を堂々と証明しきっていく″――これこそ大聖人の仏法の精髄せいずいであることを、申し上げておきたい。
8  「熱原法難」では、熱原の農民二十人が、滝泉寺院主代(住職代理)・行智ぎょうちらの策謀により、まったくの無実の罪で捕らえられた。
 その「罪状」は「不法侵入」「強奪」「暴行・傷害」――。しかし、それらはいずれも、反対に行智らが農民たちに対して加えた悪行であった。
 皆さま方もご存じの通り、一連の事件の真相は、行智が、三烈士の兄である弥藤次やとうじや大進房らをそそのかし、大聖人門下を殺害、暴行したことにある。にもかかわらず、彼等が告発した罪状は、加害者が被害者に罪をなすりつけるというもので、まことに卑怯ひきょうなやり方であった。
 いつの時代にあっても、悪人たちの動きとは、このように狡猾こうかつである。広布に進む私どもは常に、邪智による迫害の構図を鋭く見破り、絶対に負けてはならない。
 もし、策謀さくぼう紛動ふんどうされ、真実を見誤みあやまって信心を破られたり、退転することは、あまりにもおろかである。
9  こうした真実を裁判を通して明らかにしていくため、大聖人は日興上人に、こまごまと具体的な御指示をされている。例えば「伯耆ほうき殿等御返事」には、次のように仰せである。
 「問注の時・強強と之を申さば定めて上聞に及ぶ可きか、又行智・証人立て申さば彼等の人人行智と同意して百姓等が田畠でんぱた数十苅り取る由・之を申せ、若し又証文を出さば謀書の由之を申せ(中略)但し現証の殺害刄傷而已
 ――裁判の時、こちら側から行智の不法なることを強く主張していくならば、執権・北条時宗らの耳にも入ることであろう。また、行智が、熱原の門下の罪状を立証しようとして証人を立ててきたならば、「その証人たちこそ、行智と結託して農民たちの田畑数十を苅り取った盗人である」と主張しなさい。もしまた、行智側が証文を出してきたならば、「それは偽造文書である」と主張しなさい。(中略)ただし、こちら側から主張していくことは、門下の農民が現実に殺害され、傷つけられた事実のみにしぼって、訴えていきなさい──。
 こうした偽造文書が出されたり、無実の、デッチあげのことが言いふらされる。偽造文書を、書いた方が悪いのか、書かれた方が悪いのか。また、デマを言いふらした方が悪いのか、言いふらされた方が悪いのか。
 ある文化人は「当然、書いた方が悪い。書かれた方は何も悪くない」と言っていたが、まさにその通りである。
 しかし、真相の分からない世間の人たちは、書かれた文書や言いふらされたデマを、真実としてしまいがちである。これが策謀家や迫害者のねらいである。
 この御文を拝して、「まるで名弁護士のアドバイスのようですね」と言った人もいるが、現実に的確に対処せずして、勝利はない。
 なかには大聖人は御本仏であり、絶対の御力をもっておられるはずだから、祈りで無実の罪を即座に晴らせないものか、という人もいる。難にあわれても御本仏であるから、祈ればもっと自由自在になれなかったものかという人もいる。だが仏法は道理であり、現実はそう簡単にはいかない。
 もちろん、勝利への根本の方途は信心である。そのうえで、現実の具体的なことには、具体的な次元で対応していかねばならない。
 法律の次元であれば法律の次元において、持てる知識を駆使しながら正義を主張し切っていく──これが「道理」であり、また、真実の指導者のあるべき行動である。そして、一切を自在に使いこなしながら、現実の世界で堂々と勝ち切っていくことが大事である。そのための「力」と「智慧」の源泉が、妙法であり、信心である。
10  *
 いずれにしても日興上人は、大聖人の御法戦の戦い方を、すべて受け継がれ、その通りに広布の指揮をとっておられる。
 大聖人御入滅後二十五年にあたる徳治二年(一三〇七年)のことである。日亨上人のご研究によれば、この年、鎌倉等で、門下に刃傷にんじょうを加えられたり、器物を破壊はかいされるなどの法難が起こった。その裏には、いつものように権力者や謗法者らの「怨嫉おんしつ」があった。
 この事件に関連すると推察される御手紙の中で、日興上人は次のように仰せである。
 「また訴訟そしょう人等、今に行きて返らざるの間、今一度言上のまかのぼり候」
 すなわち──この事件を訴訟するために鎌倉へ行った使いの者たちが、いまだに帰ってこない。そのため私自身が出訴しゅっそするために鎌倉へのぼります──との言と拝される。
 時に日興上人は御年六十二歳。大聖人御入滅の御年(六十一歳)を、すでに超えておられた。しかし日興上人は、御自ら先頭に立って、裁判の指揮をとられる。そのために、御高齢にもかかわらず、わざわざ鎌倉まで出向こうとさえされた。
 もちろん現在のような交通の便はない。徒歩か馬での難儀なんぎな旅である。それも、すべて愛する門下を守るためであり、正法正義を守りぬくためであられた。なんと崇高な御振る舞いであろうか。
 我が一身をなげうって、大切な仏子を守り、正義を叫びきっていく。ここに真実の広布の指導者の姿がある。
 私もこの実践に徹してきたつもりである。「法のため」「広布のため」「同志のため」に──私の行動の根本は、ただただ、その一念である。
 反対に、かりに指導者が、同志に対する圧迫を、いささかたりとも他人ごとのように傍観視ぼうかんしするようなことがあれば、その罪は大きいといわざるをえない。そうであってはならないと日興上人が身をもって教えてくださっていると拝する。
11  なお日興上人は、この御文に続いて、次のように仰せである。
 「自身のらうまいをもち候間どさん(土産)なんどをもまいらせず候。やまのいものこ一かみふくろ・しゐたけ五つらぬき・かわのり一じょうまいらせ候。御学問候御人に紙などをもまいらせす候事、心もと無く候」
 すなわち、くわしい事情は不明であるが、御自身が鎌倉にのぼるに際して、──自分の粮米りょうまい(食糧)を持っているので(それが荷物になるから)、十分に、おみやげを持っていくこともできない。(そこで、この使いの人に託して)ヤマノイモノコを一紙袋、シイタケ五れん、川のり一帖を送っておきます。学問に励んでいるあなたに紙など(の学用品)をも、さしあげられないことは残念でなりません──との、温かな御言葉である。
 弟子を思いやられる師としての御心が、しみじみと胸に迫ってくる。法難のさなかにあっても、日興上人は、これほどまでに、こまやかな御心づかいをしておられた。とくに若き門下に、なんとか思う存分、勉強させてあげたいとの御慈愛に、私は深く心を打たれる。学会でいえば、学生部・未来部の諸君にあたるだろうか。
 私どももまた、同志を思いやり、大切にし、誠意を尽くしていく「心」を忘れてはならない。指導者は、どうすれば友が喜び、心はずんで信心に励んでいかれるのか、常に考え、配慮に配慮を重ねていかねばならない。あらゆる知恵をつかって友を歓喜させていこうという、その誠実そのものの行動と、人間性あふれる心のきずなによって、ゆるぎなき広宣流布の大道はいやまして広がっていくからである。
12  臆するな、広布と同志のために
 さて、この法難の翌年の徳治三年(一三〇八年)四月八日、日興上人は、あの熱原三烈士の追善のため、御本尊を書写しておられる。三烈士が法難に生命を捨ててから約三十年。時は経ても、日興上人の御胸中には、常に彼らの壮烈な殉教じゅんきょうの雄姿が生きていた。
 私どもの広布の長征にあっても、ともに戦い、苦楽をともにした同志のことを、永遠に私は忘れない。
 日興上人は、御本尊のわき書に、三烈士を顕彰けんしょうされるとともに、三烈士を斬首ざんしゅに処した平左衛門尉頼綱へいのさえもんのじょうよりつなの現罰厳然たる末路を、したためておられる。
 日亨上人は、次のように述べられている。
 「(三烈士という)御本仏の賞讃をこうむる程の弟子を持ち其の餘慶よけい(おかげ)で自分(日興上人)(まで)も聖人と大慈無上の師匠の御房(大聖人)から尊敬せられたのは、われ一代の面目であると常に憶念おくねんせられてあった」と。
 すなわち日興上人は、熱原の法難の際、御自身が大聖人から「聖人」とたたえられたのも、自分が偉いからではない。身命を捨てて戦った三烈士のおかげであると、常に心に抱いておられたと、日亨上人は言われている。
 日興上人は、三烈士が在俗の無名の庶民であるにもかかわらず、彼らの命をした信心のおかげで我がほまれもあるとされていた。そして追善の御本尊まで、したためておられる。まことに深き御心であり、麗しい御姿であると拝する。
13  また日亨上人は、次のようにも述べられている。
 ──釈尊がインド固有の極端なる四階級(カースト)を平等視されたごとく、また大聖人が王位・公家・将軍・執権・御家人・農民等の差別に拘泥こうでい(こだわり、とらわれること)なされなかったごとく、日興上人もまた、弟子分帳に格別の階級をもうけておられない──と。
 人間は一切、平等である。社会的な差別など微塵みじんもあってはならない。権力者であるから偉いのでもなければ、庶民であるから低く見るのでもない。これが仏法の根本精神である。これをゆるがせにして、ことさらに立場の上下を言い、権威をふりかざすやからは、仏法の根本に違背いはいする者である。
 さらに″しかし信謗しんぼう逆順ぎゃくじゅんという一点だけは、万年にわたる大法護持のために峻別しゅんべつ(厳しく分けること)せられた。とくに三烈士のことは、万年の信徒のかがみとして、くわしく記しのこされたと深く拝察するべきである″と
 絶対の平等観のうえに立って、ただ「信謗逆順」すなわち信心を貫き通したのか、途中で退し反逆したのか──この一点に対しては、日興上人は厳格なうえにも厳格であられた。
 器いっぱいにたたえられた清水も、毒物を一粒いれたら、もう飲むことはできない。妙法はあまりにも清らかな法であるゆえに、謗法へのいささかの妥協も許されない。
 個人の信心においても、大聖人は「何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」──いかに法華経を信じておられても謗法があれば必ず地獄にちる。それは、あたかも千杯のウルシがあっても、カニの足一つを入れたら、すべて効力を失ってしまうようなものである──と厳しく御指南しておられる。
 広布の世界もまた、いささかの濁りも許されない。妙法の信心を永遠に純粋に伝え、広めていかねばならない。ゆえに謗法・反逆とは妥協なく戦わざるをえない。また、そうした悪の存在は外に出てもらった方が、ありがたいのである。
 日興上人がお示しのごとく、ここに大聖人の仏法の、絶対に平等にして、厳粛なる″法の世界″がある。
14  不惜の信仰に永遠の福徳
 話はかわるが、大聖人は「開目抄」の中で、妙法の不求自得ふぐじとく(求めざるに、おのずから得たり)の大利益について、涅槃ねはん経の″子を守るために命を捨てた母″の説話を引かれて示されている。
 「たとえば貧女の如し居家こけ救護くごの者有ること無く加うるに復病苦飢渇にめられて遊行ゆぎょう乞丐こつがいす、他の客舎に止り一子を寄生す是の客舎の主駈逐くちくして去らしむ
 ──たとえば一人の貧女があり、住むべき家もなく、救護してくれる人もない。そのうえ、病苦と飢渇きかつ(飢えとかわき)にせめられてさまよい乞食をして歩いた。その時、ある宿に泊まり子供を産んだ。ところがその宿の主人はこの貧女を追い出してしまった。
 「其の産して未だ久しからず是の児を擕抱けいほうして他国に至らんと欲し、其の中路に於て悪風雨に遇て寒苦並び至り多く蚊虻蜂螫ぶんもうほうしゃ毒虫のい食う所となる
 ──子供を産んで、いまだ日もたたないのに、赤児を抱いて他国へ行こうと欲したが、その途中で悪風雨にあい、寒さと苦しみに襲われ、多くのあぶはちどくむしなどにい食われるありさまであった。
 「恒河に逕由けいゆし児を抱いて渡る其の水漂疾ひょうしつなれども而も放ち捨てず是に於て母子遂に共倶に没しぬ、是くの如き女人慈念の功徳命終の後梵天に生ず
 ──恒河にさしかかり子供を抱いて渡ろうとした。水の流れは速かったが、母は子供を放ち捨てることなく、ついに母子ともにぼっしておぼれ死んでしまった。このような女人は子供を思う慈悲の心の功徳によって、死んでのち梵天に生じたのである──と。
 川に沈む母と子。しかし、たとえ自分の命はなくなっても最後まで子供を離そうとしなかった母の慈愛の強さ。その慈悲の一念によって、母は、死んでのち梵天に生まれるという大功徳を受けることができたわけである。
 最後まで子供を離さなかった、ということは、たとえ身命に及ぶ大難があったとしても、妙法を捨てない、退転しない。最後まで、信心を貫いた、ということである。また「梵天に生ず」とは、最高の境界、つまり「仏界に生まれる」という大功徳を受けたとの意である。大聖人は、この「母」の姿を通して、信仰者の精髄を教えられているわけである。
15  そして、続けて次の涅槃経の文を引用されている。
 「正法を護らんと欲せば彼の貧女の恒河に在つて子を愛念するが為に身命を捨つるが如くせよ」──正法をまもろうと欲するのであれば、かの貧女が大河の中にあって、我が子を愛念していたがゆえに身命を捨てたように、正法をかたく護持して身命を捨てよ──。「善男子護法の菩薩も亦是くの如くなるべし、寧ろ身命を捨てよ是くの如きの人解脱を求めずと雖も解脱自ら至ること彼の貧女の梵天を求めざれども梵天自ら至るが如し」──善男子よ、護法の菩薩もまたこの通りであるべきである。正法を惜しみまもるためには、むしろ身命を捨てよ。そうすれば、解脱(成仏の境界)を求めなくても、解脱がおのずからくることは、かの貧女が梵天に生まれることを求めたわけではないが、我が子を思う慈愛の一心によって、おのずから梵天に生まれたことと同じである──と。
 皆さま方もご存じの通り、「開目抄」は、大聖人が三類の強敵との大闘争のなか、御流罪の地・極寒の佐渡にあって、したためられた御抄である。
 その御抄で大聖人は、門下に対して、母が強い慈愛の一念で我が子をまもるように、正法をまもり抜きなさい。その不惜身命ふしゃくしんみょう(身命を惜しまずの信心の人こそ、不求自得の大功徳として「成仏」の境界を得ることができると仰せなのである。
 御本尊を受持し、広布に進みゆく皆さまは、「護法の菩薩」ともいうべき方々である。妙法の法戦に苦難の嵐は、御書に照らして必定である。しかし、何があっても、妙法を抱きしめて生き抜いていく強き信心の一念だけは絶対に失ってはならない。それが「成仏」という永遠なる幸福を得ることができるかどうかの分岐点となるからである。
 ともあれ正法を護持し、広宣流布のために出現した学会をまもりながら、日々、信心の前進をされている皆さま方の人生に、妙法の素晴らしい大果報の結実があることは間違いない。それを深く確信していただきたい。
 また、この御文で大聖人は、当時の殿上人てんじょうびとのような社会的地位のある人でなく、武勇にすぐれた大将軍でもなく、平凡な貧しき母の姿を通して、正法をまもり抜く精神と功徳を教えられている。
 信心は社会的地位や名誉、財産で決まるものではない。一個の人間として、一人の信仰者として、どう生き抜くかである。その意味で、大聖人が平凡にして貧しき女人に、尊極そんごくの光をあてられたことに深い意義を感ぜずにはおられない。
16  さて、まことに残念なことであったが、宗門と学会とが、策謀家たちの手によって、一時、不協和音をつくってしまったことがあった。そのときも、私をおとしいれようとしての、さまざまな讒言、非難の嵐があった。
 しかし、そうしたなかで、日達上人は、いつも「あなたの信心は立派です。あなたの信心は正宗の模範です」と、おっしゃってくださっていた。まことにありがたくも、身にあまる御言葉であった。私事で恐縮だが、後世のために、ここに申し上げさせていただく次第である。
 最後に、どうかお一人お一人が「負けない人生を」「朗らかな人生を」生き抜いていただきたい、と申し上げ、本日のスピーチとさせていただく。

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