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日蓮大聖人・池田大作

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「8・24」大田、世田谷、杉並区合同支… ″本物の一人″よ出でよ

1988.8.24 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

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1  万年の広布へ、一歩また一歩と
 本日、八月二十四日はご存じの通り、「壮年部の日」であり、また私の入信記念日である。この日を記念して、皆さま方とともに、″生死の二法″を説く最極の大法である「妙法」と「信心」の対話ができることは、私のこの上ない喜びである。
 人生には、さまざまな道がある。あの道、この道、無数の生き方があり、軌道がある。なかには名声や権力へとつづく道もある。華やかな脚光とを浴びる花道もある。またデコボコの人生街道や、飲んべえ横町の路地もある。
 そうした、あらゆる道のなかで、御書に照らし、すべての経文に照らして、この妙法の世界こそが「無上道」である。御本尊の仏界の光につつまれた、この広宣流布の大道以上の「道」は宇宙にない。
 この「無上道」の世界に、ともどもに生き、楽しみ、福徳を積みながら、自分らしい最高に価値ある人生を無限に開ききっていく──これが私どもの人生である。これ以上のすばらしき人生も絶対にない。
 十九歳の入信以来、四十一年間、私は日蓮大聖人の仰せを奉じ、戸田先生の指導のままに、広布に走り、走りぬいてきた。だれが何と言おうとも、この事実は私の無上の誉れである。
 ともあれ私は、皆さま方のご健康とご活躍と、ご長寿を、毎日、それは真剣に祈っている。この祈り、この思いは、くる日もくる日も、一貫していささかの変わりもない。
 昨日、私はイギリス・オックスフォード大学のボドリーアン図書館のベイジー館長とお会いした。館長は、この世界最大級の図書館にふさわしい教養あるイギリス紳士であり、イギリスらしいユーモアを交えながらの有意義な語らいとなった。
 初めに私は言った。きょうは通訳を介しての会談ですが、実は戦時中、日本では英語などを勉強していると″非国民″と非難されました。同席している創価大学の高松学長は、その非国民の道を選び一生懸命、学問に励みましたが、私は愚直に国家の方針どおりにしたもので英語は避けてしまった、と。
 ベイジー館長は「私も日本語ができないものでスミマセン」と言われ、会談はまことに和やかに進んだ。
 ──実は、かつて水滸会の折、私は戸田先生に質問した。これからは海外の広宣流布に備えて、語学を勉強したほうがよろしいでしょうかと。
 戸田先生は、笑いながら、私にだけは「おまえは通訳を使いなさい」と言われた。私の語学の才能がないことを見ぬいておられたのであろう。また少々の勉強をしても、すべての国の言葉に通じるわけにはいかない。世界中の国に平等でなければならない、将来の私の立場を考えられての言葉であったと思う。
2  ボドリーアン図書館の再興に″一人″の存在
 さて本日は、創価大学生、創価学園生の代表も出席しておられるし、このボドリーアン図書館の歴史にまつわる、あるエピソードを紹介しておきたい。
 現在、同図書館の蔵書は五百万冊を超える。しかし、その出発はどうであったか。なんと一三二〇年、たった三百五十冊の寄贈書から始まっている。
 どんな壮大な歴史も、その始まりは大河の一滴である。焦る必要はない。源流の精神を、とぎれなく脈々と伝え、広げていけるかどうかである。その清らかな″流れ″の勢いがあるかぎり、時とともに滔々たる潮流となっていく。
 オックスフォード大学自体の起源も、今から見れば小さな塾のような、ささやかなものであった。
 一三二〇年といえば、日本ではちょうど日興上人の晩年にあたる。大石寺の開創から三十年のころである。
 以来、六百七十年近く、オックスフォード大学の図書館は「人類の知的遺産」を残しゆかんとする人々の営々たる努力によって、尊き歴史を刻んできた。
 私も一九七二年(昭和四十七年)、招待をうけて同大学を訪問した。さすがに、世界のあらゆる分野の指導者を輩出してきた、伝統と風格薫るキャンパスであった。
 偉大な建設には時間がかかる。何事も一朝一夕にできるわけがない。ゆえに、いささかも目先の現象にとらわれることなく、五百年、千年という大いなる未来を、まっすぐに見つめて進まねばならない。そのとき、私どもの歩みは、一足ごとに、五百年、千年、万年分の重みと深き意義をもった一歩、また一歩となる。
3  十五世紀半ば、大学総長であったハンフリー公の寄贈によって、同図書館は本格的な「大学図書館」として出発する。
 その寄贈書には、プラトン、アリストテレスらのギリシャ語の原書などが含まれていた。当時としては、たいへんに珍しく貴重な書物である。これらが十六世紀のルネサンス期に、学問と教育の一つの大きな源泉となった。これは有名な史実である。
 知は力である。時代をも変革していく。そして書物は知識と知性の結晶である。良書を読んでいただきたい。とくに青年の諸君は、徹底して読みきっていただきたい。
 かつて私も数万冊の個人的蔵書があった。少年時代から読み、少しずつ集めた書物である。戦時中は、防空壕に避難させたりして、それはそれは大切にしてきた。今や創大や聖教新聞社にほとんど寄贈してしまったが、青春時代、本こそ私の友であった。片時も手放さないくらい、読書に挑んだ。
 戸田先生の訓練も厳しかった。あれは読んだか、これはどうだ──。読むべき本を読んでいなかったら、厳しく叱られた。また何を聞かれても、きちんと答えられなければならなかった。
 学会のほんとうの人間鍛練が、そこにはあった。時代は変わっても″本物を育てる″この精神には、いささかの妥協もあってはならない。
4  ボドリーアン図書館は十六世紀中期、大きな危機に直面する。宗教的な圧迫を加えるため、権力が介入し、数多くの書籍が破却されてしまったのである。貴重な蔵書は散逸し、先人のせっかくの努力も水泡に帰そうとした。
 権威をふりかざす宗教はこわい。民衆を忘れ、非道を押し通す権力もこわい。民衆自身が賢者となり、勇者となって、それらと戦い、横暴を封じこめる以外にない。
 壊滅的打撃を受け、見る影もなくなった母校の図書館──。このとき、一人の卒業生が立ち上がった。
 トーマス・ボドレー卿(一五四五〜一六一三)である。彼は外交官、政治家、学者として活躍した人物である。そして残された晩年、愛する母校のため、その衰退した図書館の復興、再生に全魂を傾けた。
 自らを育んでくれた学校や人、団体に、尽くしていこうというのは、当然すぎるほど当然の″人間としての道″である。しかし、その実践に励むどころか、反対に、恩ある存在をただ利用し、おまけに傷つけていくような人間は、あまりにも心根が卑しいといわざるをえない。
 ボドレーは、私心なく、報いも求めず、母校のために全力を尽くした。
 彼は、まず自分の蔵書を寄贈した。多くの後輩のために、共有の文化の遺産として、役立てようとした。そしてヨーロッパ中から書籍を購入し、またイギリスの多くの貴族らを促して、その蔵書を寄贈させていった。東奔西走の連続であったろう。さらに彼は図書館の建物の修復にも努めた。
 こうして、たった一人の卒業生の心血をそそいだ尽力によって、一六〇二年には、新たなる図書館が一般公開される日を迎えた。この図書館は、彼ボドレーの名を冠して、「ボドリーアン図書館」とされ、その功労は今なお不朽のものとして顕彰されている。
5  大事を成すは小事に徹してこそ
 すべての歴史に苦難の時がある。その時にだれが本気になって立ち上がるか。
 実は、ただ一人いればよいのである。だれに言われるのでもない、自ら決めて、一人立ち上がり、死力を尽くして活路を開いていく。その偉大なる信念の″一人″がいれば、そこからつねに新たなる勝利の歩みが始まっていく。これが、いわば歴史の不変の鉄則である。
 大聖人はもちろん、日興上人も、ただ一人で正義の戦いを敢行された。日目上人も一人、死身弘法を貫かれた。
 そして牧口先生、戸田先生も、一人立つ戦いに身命を捨てられた。その学会精神の骨髄を体して、私も一人、生命をして、すべてを勝利に導いてきた。
 すべては一人に始まる。その真金の一人を育てればよいのである。私の焦点もつねにそこにある。数ではない。組織のみの力でもない。あらゆる分野で、一人を見つけ、一人を鍛え、一人に託していく。それこそが、万代にわたる不断の発展の原点となる。私の指導も、いわば、その一人のために話しているとさえいってよい。
 皆さま方は、そういう″一人″になっていただきたい。それぞれの地域、それぞれの舞台、それぞれの世代にあって、「あの人ありてこそ」と後世にうたわれる、縦横無尽の活躍の歴史を刻んでほしいと私は切願する。
6  なお、ボドレーは、よりよき図書館を作るために、実に細かいところにまで気をつかった。
 たとえば当時、本は一冊一冊が形も大きく、高価でもあり、盗難防止のために鎖につながれていた。しかしボドレーは、これは「人間不信」に基づくあり方であり、なんとか改良したいと工夫を重ねた。また書籍の分類目録や並べ方なども、一つ一つ研究し、試みた。こうして今日にまでいたる図書館の重要な課題に対して、先駆的に取り組んでいった。
 ある意味で、もっとも地味な、光の当たらない仕事である。しかし、その影響は時とともに計り知れない力を持つ、欠かすことのできない基本である。
 こうした目立たない、だれがほめるわけでもない、細かな基本を、一つ一つ、きちっと固めていく。そのために心をくだき、思索し、陰ながら配慮に配慮を重ねる。これが事をなす人物に共通する姿勢である。また仏法の正しいいき方である。
 私も広宣流布のため、学会員のために、だれひとり気がつかない細かなところにこそ、懸命に心をくだいてきた。神経をすりへらし、思いをめぐらし、気を配りに配ってきたつもりである。
 あの人はどうしているか。この点はこれでよいのか。一つ一つ真剣に手を打ってきた。その針の先で突くような小事の積み重ねを避けて、広宣流布の大事は、現実には一歩も前に進まないことを、深く知っているからである。
 その意味からいえば、幹部であればあるほど、すべてにわたって今の百倍、千倍の配慮が必要であると、あえて申し上げておきたい。
7  さて、話は変わるが、私は昭和三十三年二月十九日(水)の『若き日の日記』に、次のように記している。
 「午前中、先生宅へ。
 (1)少々、元気になったようだ
 (2)十年間、苦難の道を歩みゆけ
 (3)君の本部入りは天の時だ
 (4)理事室に、弥々、新風を入れる
 (5)生活と経済について
 以上の、ご注意、指示、指導をたまわる。
 決意、強し。覚悟、堅し」と。
8  当時、戸田先生のお体の具合はすぐれず、存分に動くこともできなかった。そのためか理事室は信心の厳しさを忘れ、軟風におかされていた。本当の学会精神、戸田先生の精神が失われつつあることを鋭く感じ取られ″これではいけない。青年が必要だ″と、先生は青年の代表として、私を理事室へ送られた。
 多くの先輩もいたが、私は、広布のために、師弟の精神をどこまでも貫き通すために、一切の責任を担い戦った。厳然と広布の舞台を広げ、また学会を築き、守るとの強き決意で戦った。
 広布後継の若き戦士である青年部の諸君は、その気概と峻厳なる精神を絶対に見失ってはならない。
9  妙法は亡き人とも生命の交流
 別の話題に移るが、信心されている方々のなかにも、子供を亡くされた方もおられる。夫や妻に先立たれた方もおられる。また、結婚を前にして恋人を失った人もいる。私も、そうした多くの方々を知っているが、残された方々が強く、幸せに生きぬいていかれるよう願わずにはいられない。
 子息を亡くした松野六郎左衛門尉に与えられたとされる「浄蔵浄眼御消息」のなかで、大聖人は次のように仰せである。
 「妙荘厳王と申せし王は悪王なりしかども御太子・浄蔵浄眼の導かせ給いしかば父母二人共に法華経を御信用有りて仏にならせ給いしぞかし、是もさにてや・候らんあやしく覚え候
 ──妙荘厳王という王は、外道を信ずる悪王であった。しかし、その太子の浄蔵・浄眼の兄弟が王を仏道に導かれたので、父母二人ともに法華経を信じ、ついに成仏された。同じようにあなた方ご夫妻も、亡くなられたご子息に導かれたことを、不思議に思っています──と。
 そして「甲斐公が語りしは常の人よりも・みめ形も勝れて候し上・心も直くて智慧賢く、何事に付けても・ゆゆしかりし人の疾はかなく成りし事の哀れさよと思ひ候し
 ──弟子の甲斐公(日持)が、私(大聖人)に語るには、「(ご子息は)普通の人よりも顔や容姿もすぐれていたうえ、心も素直で、知恵も賢く、何事につけてもすばらしい人であった。それだけに、早く亡くなったということがなんと悲しいことか、と思っていました」──。
 しかし「つらつら思へば此の子なき故に母も道心者となり父も後世者に成りて候は只とも覚え候はぬに、又皆人の悪み候・法華経に付かせ給へばひとへに是なき人の二人の御身に添うて勧め進らせられ候にやと申せしが・さもやと覚え候
 ──「また、よく考えてみると、この子が亡くなったがために、母も仏道を求める人となり、父も菩提を願う人となったことは、ただごとではない不思議な縁と思います。しかも、仏法のなかでも、皆が憎んでいる法華経(御本尊)につかれたことは、ひとえに、今は亡き子が、父母二人の身に添って、信心を勧められたのではないでしょうか」と(日持は)言っておりました。私(大聖人)も、まさにその通りであろうと思っております──と。
 さらに「又若しやの事候はばくらき闇に月の出づるが如く妙法蓮華経の五字・月と露れさせ給うべし、其の月の中には釈迦仏・十方の諸仏・乃至前に立たせ給ひし御子息の露れさせ給ふべしと思し召せ
 ──また、あなた方ご夫妻に、もしもの事があるならば、暗い闇夜に々たる月が出るように、妙法華経の五字が月となってあらわれ、あなた方の行く手を照らすでしょう。そして、その月の中には、釈迦仏・十方の諸仏はもとより、先立たれたご子息もあらわれて、あなた方を成仏の道へと導いていかれることを確信していきなさい──と仰せである。
 この御文は、さまざま観点から拝することができるが、妙法は絶対である。深き強盛な信心があれば、すべてが絶対的幸福への軌道ともいえる、成仏の方向へと働いていく。そして、妙法の光明に照らされながら、生命の境涯は宇宙の仏界の次元に合致していき、亡き人の生命とも楽しく交流するというか、ともどもに、幸の世界に遊戯していけるとの法理である。これが御本尊の壮大なる力用である。
10  ユダヤ教徒の厳しき受難の歴史
 さて、宗教に対する迫害の歴史について、少々ふれておきたい。
 世界史において、宗教が弾圧された例は、枚挙にいとまがない。だが、なかでも、もっとも長く、もっとも厳しい受難の歴史をもつのは、ユダヤ教であろう。
 いわゆるユダヤ民族の起源は、紀元前二十世紀にさかのぼる。当時、彼らは、カナン(のちのパレスチナ)の地にあったが、その後、飢饉に襲われたことから、エジプトに移住する。だが、やがて、奴隷とされ、賤民として徹底した差別を受ける。それに耐えかねた彼らは、モーセの指導のもと、エジプトを脱出する。これが、かの「しゅつエジプト」である。
 再び、カナンに集った彼らは、ユダヤ教の教えに基づいた統一国家を樹立する。そして「ソロモンの栄華」といわれるような繁栄の時代も迎えるが、やがて国は分裂し、国力は衰え、他国の支配に屈する。そうしたなか、はるかバビロニアへの移住を強制され、二度にわたる悲惨な旅に出る。これが、有名な「バビロン捕囚ほしゅう」である。
 ローマ帝国の支配下でも、変わらぬ受難の歴史が刻まれた。数度の反乱も鎮圧され、紀元七〇年には、エルサレムは神殿をはじめ完全に破壊される。
 自らの土地を失ったユダヤ教徒は、文字通り四散し、流浪の民となる。だが、各地に散っても、彼らにはユダヤ教徒としての共通の意識があり、自覚があった。ヨーロッパでは商人として成功した者が少なくなかったが、国境を超えた連帯の意識が、彼らに有利に働いたことは想像に難くない。
 ヨーロッパ社会は、こうしたユダヤ教徒を、自らの繁栄のために利用する一方、あくどいけに固執する″卑しい民″″悪魔の民″として差別し、徹底して迫害した。とくにそれは、宗教的熱狂があおり立てられた十字軍遠征のころから、激しく、きわだつものとなっていく。
 ユダヤ教徒であるがゆえに税金を徴収される──これは、まだいいほうである。あるところでは、都市に入ることを禁止され、もし入った者は死刑とされた。
 また往々にして、街の特別区(ゲットー)に押し込められ、服装も特殊な印をつけたものを強制された。さらに、宗教裁判で異端として処刑された者も、数限りない。
 こうした迫害のなかで、同胞を裏切る者も現れた。ある者は、自らキリスト教に改宗したのみならず、かえってユダヤ教など異端を告発する宗教裁判の裁判官となる。そして、ユダヤ教徒追放令の発布に力を貸したほか、三十万人以上を財産没収し、国外追放した。
 いつの時代、社会にも、この種の変節の徒は、必ず出現し、多くの同志を苦しめるものだ。これは歴史的事実であり、現実である。
 いわんや正法をたもちながら、そのような卑劣な人物の言動に紛動され、信仰を失うようなことは、あまりに愚かであり、浅はかである。
11  長年のユダヤ迫害のなかでも、その最たるものは、ドイツのナチスによるものであろう。
 ナチスは、ユダヤの子孫として血のつながりをもつ者はすべて劣等人種であり、ドイツ国民に苦しみと屈辱をもたらす反国家的存在であるとした。たとえユダヤ教徒でなくとも例外ではなかった。そして、民衆の反感をあおりながら、ユダヤ人およびその混血者を公職から排除し、またユダヤ人との結婚を禁止し、ドイツ人からの隔離を図った。
 さらに、ナチス親衛隊らが中心となって、ユダヤ人への大規模な略奪等を行い、ついには、六百五十万ともいわれる大量虐殺にいたるのである。
 アメリカの講演家M・I・ディモントは「世界史は六回にわたってユダヤ人に挑戦状を投げつけた。その一つ一つが、彼らの存続を脅かすものだった。ユダヤ人はそのたびに挑戦を受けて立ち、ふたたび新たな挑戦を受けるまで生きのびた」(藤本和子訳『ユダヤ人』朝日新聞社)と述べている。
 この間、ヨーロッパにおけるユダヤ人口は激減した。しかし、ユダヤ人は、あらゆる国に、あらゆる方法で生き延び、現在でも、アメリカ合衆国の六百万をはじめ、世界に約千五百万の人が、ユダヤの伝統を引き継ぎつつ、生きている。どんな迫害・弾圧も、ユダヤ人を抹殺することはできなかったのである。
 数々の迫害に屈せず、生きて生きて生きぬいてきた民族の姿は立派であり、信仰者としての信念の証の一端を見る思いがする。
12  ″鍋かむり日親″の不屈の行動
 さて、ユダヤ民族の話ばかり続くと「私は外国へ行ったことがないから、関係ない」という人もいるかもしれないから、今度は日本の話題に変えたい。
 戸田先生がよく法難について語ってくださった話のなかに、″鍋かむり日親″のエピソードがあった。
 この日親は、久遠成院日親(一四〇七〜一四八八)という室町・戦国時代の日蓮宗一致派の僧である。
 皆さまご存じのように、一致派とは、法華経の前半の「迹門」と後半の「本門」に法門上の勝劣はなく、本来一致であるとする″本迹一致″の邪説を立てる宗派である。
 本迹一致の邪義は、大聖人御入滅後、日興上人から離れた五老僧、なかでも日向、日郎を中心にとなえられた。しかし、大聖人はすでに御在世当時から、「開目抄」「十章抄」「治病大小権実遺目」「本因妙抄」等で、徹底的に本迹一致の誤りを破折されている。
 教義のうえでは日親は邪師であるが、ここではその布教への信念を貫いた姿を紹介しておきたい。
 彼は足利幕府に捕らえられ、頭に焼けた鍋をかぶせられたということから″鍋かむり(冠)の日親″と呼ばれている。中山法華経寺で修学ののち、九州の肥前(佐賀)へ布教に赴くが、彼の主張する信仰は過激でさえあった。永享えいきょう九年(一四三七年)には中山を破門されている。
 このころ永享八年には鎌倉で、日蓮宗の僧と天台宗の学匠による法論が発端となり、足利幕府によって日蓮宗の僧俗に対する弾圧事件が起きている。いわゆる「永享法難」である。
13  京都にのぼった日親は「立正安国論」ならぬ「立正治国論」を著して、将軍足利義教に法華経受持を勧める。しかし、これに激怒した義教は、永享十二年(一四四〇年)、日親を捕らえ、彼の信徒とともに投獄してしまう。
 その牢は、広さが四畳分、しかも天井の高さは四尺五寸(約一・五メートル)で天井からは釘が突き出ているという狭いもので、そこに日親ら三十数人が押し込められたという。皆、体の自由もきかず苦痛に苛まれるという、陰惨極まりない刑である。
 皆さまのなかには「自分だって家賃の高い東京の、身動きできないほど狭いアパートだ、しかも何年間も閉じ込められている」と言われる方もあるかもしれないが、日親とはちょっと比較にならないようである。
 私も南米のペルーを訪問したさいに、かつての宗教裁判所の跡を見学した。そこにはさまざまな拷問の道具や牢獄があった。その折、案内の方から、その部屋で行われたであろう惨劇の様子を聞き、その非人道性に慄然とした思いにかられたことが忘れられない。
14  こうした仕打ちにも自らの信念を曲げない日親に、業を煮やした義教は、日親を引きずり出して、ついに熱の鍋を頭にかぶらせる。そして法華経を捨てて念仏を称えよと迫り、日親の舌の端を切ってしまう。しかし日親は、ついに唱題をやめなかったという。
 翌年の嘉吉元年(一四四一年)三月に、日親は彼を責めた義教に対して″百日後にはあなたに何らかの現証が出るだろう″と予言したという。果たせるかな、六月に将軍義教は赤松満祐によって殺されてしまう。なんとも人間の″一念″は恐ろしいというか、あるいは、義教のあまりの非道な人間性の自業自得の結果か──。いずれにせよ、やがて日親は赦されて放免になる。
 彼は一度、中山法華経寺から九州方面の布教を任されたほどの英才であった。だが、出獄後は舌を切られているために、幼児のような話し方しかできなくなっていた。しかし、幕府からの弾圧に耐えぬいた彼の不屈の精神をたたえる声が、京都の町中に満ちたといわれている。
 さらに後年、日親は再び捕らえられる。京都に送られ獄につながれたのち、翌年に赦免という、まさに殉難の生涯であった。
15  信奉する教義は誤っているとはいえ、日親の不屈の行動は、信仰者の精神とは何かを物語っているといえる。
 ましてや私どもは、最高の正法をたもっている。しかも過去の歴史上の迫害からみても、現在の難など小さなものである。皆さま方は、多少の妨害など悠々と見おろしながら、自ら決めた″信念の道″をどこまでも進みゆく勇者であっていただきたい。
 その点強いのは、やはりなんといっても婦人部の皆さまである。「一番頼りないのは壮年部だ」という声もあるが、きょうは折良く「壮年部の日」。私も含めて、壮年部の決意新たな出発の日にしていきたいと思うしだいである。
16  勇者の頭に勝利の「花の冠」
 さて、私が大好きな詩人の一人である、ドイツのシラー(一七五九〜一八〇五)について少々お話ししたい。
 これまで何回か紹介した通り、シラーは、″疾風怒濤″(一七七〇年代のドイツ文学における革新運動)の時代を、青年として炎のごとく走りぬき、″自由の詩人″″闘う詩人″とたたえられた。
 私が青春時代、暗記するほどに読み親しんだシラーの有名な詩に「理想と人生」(小栗孝則訳、『世界名詩集大成[6]』所収、平凡社)がある。一日の活動を終えて、多摩川の土手を歩きながらこの詩を口ずさみ、夜空に輝く星々と語りあったことは、今も鮮烈に胸に刻まれている。
 彼は詠う。
 「依然として人生の中で、苦しいたたかいの天が揺れているかぎり
 そこに勝利があらわれる
 そこには勝利のかぐわしい花の冠が揺れる」
 勝つか負けるか──その抜きさしならない人生の苦闘のさなかにこそ、実は勝利のかぐわしい花の冠が揺れているのだ、とのシラーの言葉は、深い確信に満ちて、勇気と活力を与えずにはおかない。
 さらに彼は続ける。
 「苦闘の中から、君らの五体を解きのぞくためでなく
 戦いぬいた人々の苦しみを慰めるために、におっている」
 ──すなわち、勝利の花のかおりは、苦闘を取り除くためではなく、苦闘と真正面からぶつかり、戦いぬいた人々の苦しみを慰めるためにかおっていくのだ、と。
 障害も何の苦闘もない人生は、ただの木切れや鉄くずのように冷たく味気ないものだ。いずこの世界においても、困難に挑戦し、戦いぬいた人でなければ、現実の勝利の冠と喜びを獲得することはできない。
 いわんや、広宣流布という未聞の大事業においては、あらゆる困難を乗り越える覚悟と勇気がなければならない。それなくして勝利もなく、栄冠の歓喜もなく、人生の前進も、発展もありえない。
 また難との戦いがあってこそ、成仏への直道も、広布の道も、洋々と開かれていくのである。この「難即発展」「難即前進」の厳然たる道理を、深く銘記していきたい。
17  逆風も″追い風″と転ずる信心
 大聖人が、流罪の地、伊豆・伊東でしたためられた御書に「四恩抄」がある。
 このなかで大聖人は「一切衆生の恩」に報ずべき理由として、はじめに、一切衆生がいなければ、すべての人々を生死の苦しみから救おうという菩薩の誓願を起こすことができない、と述べられているが、さらに続けて次のように仰せになっている。
 「又悪人無くして菩薩に留難をなさずばいかでか功徳をば増長せしめ候べき」──また(一切衆生のなかに)正法誹謗の悪人がいなくて菩薩に留難を加えないならば、どうして(法華経修行の)功徳を増していくことができようか──と。
 つまり、法華経を行ずる菩薩にとっては、むしろ正法誹謗の悪人がいるからこそ、仏道修行の功徳を増していくことができると仰せなのである。
 私は、ここに、重要な意義があると思えてならない。
 ここでの「菩薩」とは、当時、伊豆流罪の渦中にあられた、御本仏であられる大聖人御自身のことをさされたものと拝されるが、大聖人の御遺命のまま、広布の実践に励む私どもも、この「菩薩」につらなる者であり、眷属である。
 したがって、私どもの広布の活動にあっては、「難」があるからこそ功徳を増すことができるという、すばらしい法理があることを忘れてはならない。誹謗・中傷されればされるほど、学会は発展の歴史を刻むことができた。これは皆さまもご存じの通りである。私どもの前途に競う難は、「一生成仏」「広宣流布」というすばらしき人生を生きぬくための″追い風″であり、無量の財宝の″糧″なのである。
 ゆえに、私は、何があろうと、正宗の外護と広布のため、最後の最後まで信心で戦っていく。それは、その無量の功徳が、学会の万年への功徳となって広がっていくことを、心から確信しているからである。
 ともあれ、一生は有限である。どうか皆さま方も、その尊い生涯に、すべてを″追い風″と転じながら、朗らかに無上道の人生を限りなく前進していっていただきたいのである。
 敬愛する全国の同志の皆さま方の、ますますのご健勝とご活躍、そしてご長寿を心よりお祈り申し上げ、本日のスピーチとさせていただく。

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