Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第八回本部幹部会 未来は後継の大河ありて盤石

1988.8.19 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

前後
1  いちだんと麗しい強調の世界を
 朗らかな本部幹部会の開催に当たり、とくに遠くからおいでくださった方々に対し、心から、ご苦労さまと申し上げたい。
 きょうの幹部会では、多くの新任人事の発表があった。機構の上から見れば、役職の上がった人もいる。場合によっては、後輩の方が上の役職になる人もいる。何事も、つねに「変化」の連続であり、年月とともに、役職も様々に移行していくのは当然である。″役職が上がったから成仏が決まった″とか、″役職が下がったから地獄行きだ″などということは、絶対にありえない。
 役職は、あくまで一次元の方便であり、「信心」こそ肝要なのである。それを勘違いして、人事のたびに一喜一憂したり、慢心やねたみを抱くようでは、余りに浅はかである。それでは、せっかく途中まで「成仏の軌道」を歩みながら、自身の卑しい「心」ゆえに、結局はその「軌道」を踏み外してしまうことになってしまう。むしろ、地味な役職で精一杯力を尽くした人の方が、よほど人間として偉いし、福運を積んでいる。
 私は、朝な夕な、広布に向かう全同志が、一人も病気にならぬよう、また、病気の人は早く治癒ちゆするよう、真剣に祈念している。亡くなった人に対しても、つねづね、追善の題目を送らせていただいている。私どもは、広宣流布に走り抜いてきた久遠よりの同志である。互いに励ましあい、苦しんでいる人を守りに守って前進するのが信心の世界である。
 その自覚も新たに、一段と麗しい協調の世界を構築してまいりたい。
2  青年時代こそ「行」「学」を深く
 ところで、きたる二十八日(日)には、青年部教学試験(二級)が、午後一時から二時半まで、全国四百四十三会場で行われる。これには、約十万人が参加することになっている。運営に当たられている全関係者の労を、私は心からねぎらいたい。また、円滑・無事故の運営を、衷心ちゅうしんよりお願いする次第である。
 これほど多くの青年が、真摯しんしに仏法哲理の研さんに励み、努力している──まことに素晴らしきことであり、尊いことである。
 御書には「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず」──行学の二道を励んでいきなさい。行学が絶えたら、仏法はないのである──と仰せである。
 仏法は、単なる観念の世界ではない。弘教そしてまた教学の研さんという具体的な実践なくして、仏法はありえないのである。
 また「行学は信心よりをこるべく候」──行学は、必ず信心からおこる──と。
 私どもは、この御書の通りでなければならない。要するに、あくまでも信心が根本である。信心が立派であれば、おのずから、行学も立派になっていく。
 行学が立派であれば、それは信心も立派な証拠である。また、それが信心即生活となり、生活も立派になっていく。
 近年、教学がありそうに見えても、堕落(だらく)し、退転していった幹部がいた。それは結局、信心がなかった証拠であり、ゆえに教学もなかった証拠である。私どもは、どこまでも信心のための教学であり、行学でなければならない。
 我々もそうであったが、特に青年時代の諸君は、「全員合格」を目指して、若い時こそ真剣に教学の研さんに励んでもらいたい。そうでなければ、本当の教学は固まらない。
3  昭和四十三年八月八日、歴史的な第一回高等部総会が、総本山・大講堂で行われた。そのさい、私は、次の五項目の指針を示した。
 (1)未来に羽ばたく使命を自覚するとき、才能の芽は、急速に伸びることができる。
 (2)才能は独創性をもたなければ、偉大な力として発揮されない。
 (3)英知なくして知識は生きない。信心なくして真実の英知はない。
 (4)十代に身体を鍛えあげること。
 (5)まず一カ国の外国語に習熟すること。
 この総会に参加したのは、四千二百人である。そのメンバーが、二十年後の今日、どのように活躍しているかを調べた。すると、なんと九十数%の人が、総会での指針を胸中深く抱きながら、現在、広布と社会の第一線で、はつらつと活躍している。
 私にとって、これほどうれしいことはない。この一事を見ても、広布後継の大河は、確かに盤石に出来上がっていると確信する。私は、今日を見こして、未来部の育成に全力を注いできたつもりである。第一回総会に出席されたすべての懐かしい皆さまの、さすますの成長と健勝を心より念願したい。
4  ある婦人部幹部からの手紙を紹介したい。そこには、大要、次のように記されていた。
 信心歴は長いが、子供が後継者に育っていない家庭がある。とくに、社会的地位の高い人や、学会の役職をカサに会員につらく当たったりする親の家庭に多い。そうした家では、両親が、自分の家は特別だと思って、子供に、厳しく信心を教えていない。それが子供をダメにしている──と。そして、こうしたことが、これからの学会の大切な課題だと思うと、最後に結んであった。私は、胸をつかれる思いであった。
 子は、親の姿を冷静に見ている。その意味で、子供の信心は、親の信心の一つの表れともいえる。幹部の皆さまは、よくよく、この点を銘記されたい。
 また、時代はますます、高齢化の様相を強めている。若いリーダーだけで、組織の全体を引っ張っていける時代ではない。
 経験豊かな年配の指導者が、いよいよ、重要であり、それぞれの地域で力を存分に発揮しゆく時代が到来していることを、とくに私は訴えておきたい。
5  令法久住のために聖教を収集された大聖人
 ここに集っておられる皆さま方は、広布のえある指導者である。戸田先生は、よく″そつに将たるはやすく、将に将たるは難し″といわれ、幹部は自分の立場の素晴らしさと責任の重さを強く自覚しなくてはならない、と強調されていた。
 その意味で、″将の将たる″皆さま方に、御書を拝しつつ、一言、申し上げておきたい。
 「曾谷入道殿許御書」に、次のように仰せである。
 「予所持の聖教・多多之有り、然りと雖も両度の御勘気・衆度の大難の時は或は一巻二巻散失し或は一字二字脱落し或は魚魯の謬悞あやまり或は一部二部損朽そんきゅう
 ──私(大聖人)が所持している聖教(仏典)も多くあった。しかし二度の御勘気(伊豆流罪と佐渡流罪)やたびたびの大難のときに、そのうちの一巻、二巻を散失したり、また一字、二字と脱落した。あるいは、文字の写しまちがいがあったり、一部、二部を破損してしまった──と。
 そして「若し黙止もだして一期を過ぐるの後には弟子等定んで謬乱びゅうらん出来の基なり、ここを以つて愚身老耄ろうもう已前に之を糾調きゅうちょうせんと欲す」──もし聖典の散失や写しまちがいなどをそのままにしておいたならば、私(大聖人)の亡きあと、弟子等の間に、必ずや誤りや乱れが出てくるもととなるだろう。そこで私(大聖人)が年老いてしまう前に、このことを調べただしておきたいと思う──と仰せられている。
 さらに「而るに風聞の如くんば貴辺並びに大田金吾殿・越中の御所領の内並びに近辺の寺寺に数多あまたの聖教あり等云云、両人共に大檀那為り所願を成ぜしめたまえ」──聞くところによれば、あなた(曾谷入道)と大田金吾殿の越中(今の富山)の領地内と、近在の寺々には、多くの聖教があるといわれる。あなた方お二人は、ともに私の大檀那である。この私の所願を満足させていただきたい──と。
6  この御書は、文永十二年(一二七五年)、大聖人が御年五十四歳のときの御述作とされている。
 この前年の五月には、大聖人は身延に入山され、末法万年の令法久住のために、弟子の育成を本格的に開始されていた。そのためにも、仏典の整備がどうしても必要であったと拝される。そこで、その収集を、曾谷・大田の両人に、大聖人は丁重に依頼なされたわけである。
 当時は、大聖人の御予言通りに、蒙古が九州に来襲した直後であり、世情は騒然としていた。そうした中で、大聖人は、後世のために人知れずあらゆる布石を一つ一つ打たれていた。
 身延に入山されるまで、大聖人は大難、小難の連続であられた。まさに、荒れ狂う怒濤どとうの中を、ただただ前進に前進を重ねられた歳月であられた。そして、今、身延に入られて、法戦の来し方を振り返られるとき、激戦のあまり、正法弘通の基本ともなるべき聖教(仏典)さえ欠落している状態であった。
 そうした不備も、大聖人の御存命のときは、弟子門下に誤りを生じさせることはないであろう。しかし、そのままにしておけば大聖人御入滅後にはどうなるか、混迷の因となりはしないか。それを深慮されて、後世のために御心を砕かれていたと拝する。
 大聖人御自らが、五十代の半ばにあられて、老いを見すえられながら、令法久住のために、万全の手を打っておこうとなされている御姿に、私は深く胸をうたれる。
7  ″我が人生に悔いなし″の信心
 妙法は末法万年尽未来際のための大法である。妙法が永遠である限り、日蓮正宗も、また学会も永遠である。いな、永遠でなければならない。
 万代の発展のために、私は打つべき手は完全に打ってきた。将来の広布への基盤も盤石に築いてきた。牧口先生が構想されていたことも、戸田先生が願われていたことも、私はすべて成し遂げてきたつもりである。ゆえに、何が起こり、なんといわれようと、私には全く悔いはない。心は大空のごとく、晴れわたっている。
 各地域の責任者である皆さま方も、それぞれの地にあって″自分は、これだけのことはしてきた。後悔のないように戦ってきた。私には何も心配はない″と、胸を張っていえるようなお一人お一人であっていただきたい。
 中途半端は必ず悔いを残す。自身の人間的完成もない。成仏への道も開けない。ゆえに、それぞれの立場で、信心だけは、やれるだけのことはやりきり、自らの使命を全うしてしただきたい。
8  なお、大聖人はこの御手紙を終えられるにさいして、再度、曾谷・大田の両人に対しすみやかに聖教(仏典)の収集に取りかかるよう依頼しておられる。そして、収集の「意義」を次のように仰せになっている。
 「此の願若し成ぜば崑崙山の玉鮮かに求めずして蔵に収まり大海の宝珠招かざるにたなごころに在らん」──もし、この聖教収集の願いが成就するならば、(中国の黄河の源とされる)崑崙山の鮮やかなたまが求めずして蔵に収まり、大海の宝珠を招かずして掌中しょうちゅうにすることができるようなものだ──と。
9  ところで学会は、昭和二十七年(1952年)、戸田先生の発願(ほつがん)により、日亨上人の編纂を仰ぎ、総力をあげて『御書全集』の発刊を成し遂げた。
 まさしく、それは立宗七百年(昭和二十七年)を飾る未曽有みぞうの壮挙であった。当時、草創の同志は資金の調達にも、涙ぐましい誠意を尽くしてくださった。この大事業を、大聖人も必ずやお喜びであられたであろうと私は確信している。
 この『御書全集』発刊という大事業を終えられて、戸田先生は、しみじみと次のように述懐されていた。「二十年有余の出版業の経験が、この御書一冊を作るために、過去になされたのであったということを痛感したときに、ただただ自分の生きてきた道を不思議に思うのである」と。
 妙法の世界にあっては、いかなる労苦も辛苦の経験も、やがて何百倍、何千倍もの大きな人生の果実をもたらしてくれる。信心には決して無駄むだはないし″あの時の苦労は、このことのためだったのだ″と、心の底から実感し、納得できる時が必ずくることを確信されたい。
 ともあれ、この御書の発刊によって、学会はいかなる思想戦にも堂々と勝利しゆく因を築くことができた。そして今、この御書を世界へと弘めているのも、わが日蓮正宗創価学会にほかならない。その「意義」と「功徳」はどれほど大きく、深いものかは、はかり知れない。
10  御開山日興上人の御精神を体して
 話は変わるが、ここで大石寺開創七百年を前に、御開山日興上人の御精神の一端を拝したい。
 日亨上人は、『富士日興上人詳伝』で日興上人の弟子分与帳(正式には「弟子分本尊目録」という。日亨上人は「弟子分帳」と略称されている)を拝しつつ、僧俗の在り方について論じておられる。なお以前にも申し上げたが、この『富士日興上人詳伝』は私が願主となって発刊させていただいた。日亨上人は次のようにおおせである。
 「ここに特記すべきことは、弟子分帳の僧俗の身分の区別である。
 第一に日華上人より播磨公はりまこうにいたる僧俗混位の二十八人は、僧とも俗とも記せざるまったくの無標目でありながら、これがまったく一流の御弟子であった。
 第二に南条時光より下山左衛門四郎までの十四人には、明らかに『次に俗弟子分』と標示してある。
 第三に石川新兵衛後家尼より豊前房の妻まで七人には、『次に女人弟子分』と明示してある。
 第四に神四郎より弥三郎までの十七人には、『次に在家人弟子分』と特記してあって、中には在家の農夫ならぬ上野殿の御家人(士分に準ずべきか)もあり、神主もあり、後家尼もある」と。
 そして、「開山上人(日興上人)が、この四級の区別を立てられたのは、鎌倉末期の俗制(社会制度)と宗門のありようとによられたものであろうが」「弟子分帳の四階級ともに『弟子』と首称しゅしょうせられた開山上人の御意図は、尊重すべきでなかろうか。それがまた宗祖大聖人の『弟子檀那』とおおせらるる中にもあることなればである」と。
 その上でさらに、日亨上人は、「開山上人の御深意のごとくぜんぶ弟子であって、僧俗たがいに激励して法門を永久に相続すべきではなかろうか。自分は五十余年前に、新宗制を草案する時に、宗綱の中に『僧俗一途いっと』という新文字をわざと加えておいたが、たいがいは漫然看過かんか(見過ごすこと)のようであろう。戦時中官憲のために何か『折伏』の文字は削られたようだが、『僧俗一途』のみは、開規いらい五十有六年厳然と存在しておる」と記されている。
 「一途」とはいうまでもなく「一体」のことである。
 今日の正宗の宗規にも、第一章宗綱の第五条に「本宗の信行は、僧俗一途にして」としるされている。
 また日淳上人も「信徒の方々は僧侶を尊敬し、同じように僧侶も、折伏をしゆく人を尊敬すべきである」とご遺言のように語っておられたことが忘れられない。
 近年、「僧俗一途」の正道を踏みはずす悪侶が出た。特に若い諸君は、御開山日興上人の御精神をよくよく拝していただきたい。
11  福沢諭吉にみる先駆者の大いなる気概
 さて日本を代表する教育者といえば、福沢諭吉の名を落とすわけにはいかない。別に、高い一万円札の顔になっているから偉いというわけではないが、やはり近代における第一級の人物と、私も思う。
 本日は、彼の人となりをうかがわせる二つのエピソードに触れておきたい。どちらも彼が歴史の偉大な「先駆者」となり得たゆえんを示していると思うからだ(以下『福翁自伝』岩波文庫による)。
 一つは、以前にもお話ししたことがあるが、いわゆる″上野の戦争″の時の彼の悠然たる態度である。
 諭吉が創立した私塾は、慶応四年(一八六八年)四月、東京(当時は江戸)・しばの新銭座ぜにざに塾舎を移した。この時、年号をとって「慶応義塾」と命名し、新しいスタートを切った。ちょうど明治改元(九月)の年である。
 移転した翌年の五月には、上野を舞台に、彰義隊しょうぎたいすなわち旧幕府軍と討幕とうばく軍とが激しくぶつかった。江戸の市中は、どの店も休んでしまい、「何が何やら分からない程の混乱」である。すっかり闇の町と化してしまった。
 その中にあって、諭吉は、遠くに鉄砲の音を聞きながら、悠々と講義を続けた。これは余りにも有名な話である。鉄砲の時代は終わり、文明の時代が始まる――そうした先見の信念からでもあったろう。
 その後も世情の動乱は収まらない。しかし諭吉の厳とした「一念」の力でもあろうか、義塾へは向学の青年が次々と入学してきた。″日本中で、いやしくも書物を読んでいる所は、ただ慶応義塾ばかりという有りさまだった″と彼は述懐している。
 集った門下生に、彼はこの時、オランダの話をして激励した。
 ――昔、ナポレオンによる戦乱の時、オランダは国家の命運を断たれようとした。本国はもとより植民地も奪われ、国旗を掲げる場所が無くなってしまった。ところが世界中に、ただ一カ所のこっていた。それは長崎の出島でじまである。ここにはオランダの国旗が、翩翻へんぽんひるがえっていた。このことをオランダ人は今でも誇りにしている。今、この慶応義塾は、日本の洋学のためには、オランダにおける出島と同様である。
 諭吉は、こう語って「世の中に如何いかなる騒動があっても変乱があっても、いまかつて洋学の命脈は断やしたことはないぞよ、慶応義塾は一日も休業したことはない。この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である、世間に頓着とんちゃくするな」と、雄々しく叫んだ。
 この言葉に私は、先駆者の大いなる″気概″を感じる。
 ――世間がいかに騒ごうとも、頓着するな。我が道を行こう。学問の命脈を一日たりとも絶やさず、堂々と、なすべきことをなせばよいのだ――と。
 世間は人間の集まりである。人間の心は常に動く。個人においても、毎日、その日の気分も体調も違う。変化、変化の連続である。なかんずく四悪趣しあくしゅ、六道の濁った悪しき生命が、限りなくうずまき、刻々とぶつかり合い、せめぎ合っているのが社会の実相である。
 ゆえに何らかの騒ぎも事件もないことなど、ありえない。常に抗争や圧迫等々が、繰り返し現れてくる。それらに、いちいち紛動されていたのでは、大事は何もなせない。
 仏道修行においても、静穏せいおんな、何の波乱もない所で修行したいなどと考えるのは、幻想であり、観念である。真の仏法の在り方ではない。むしろ変化の連続という、一切のありのままの姿を見きわめ、見おろしながら、妙法という唯一の「常住じょうじゅう」の法に徹していくのが、正しき信心である。この″我が大道を行く″信念ありて、広宣流布の命脈もある。
12  戸田先生が事業の挫折ざせつで苦境におちいった時のことである。
 一日一日が厳しい攻防戦であった。てのひらを返したように「戸田の野郎」などと悪口する連中もいた。客観的には、八方ふさがりのようにさえ見えた。
 しかし戸田先生は、そうした難のツブテにも厳然としておられた。そして私ども青年に対して、御書をはじめ、あらゆる勉強を教え、全魂で薫陶してくださった。
 私は感動した。世間は猫の目のように変わる。しかし先生の信念は変わらない。この先生の姿こそ「生命の王者」そのものであると。
 人間の価値を決めるのは、肩書ではない。一時の勝敗でもない。偉大なる人は、牢にいても偉大である。無冠にして、偉大なる「生命の王者」「生命の帝王」。そこにこそ戸田先生の信心の生き方があった。
 諭吉が草創の慶応義塾にかけた情熱を思い起こすたびに、私はこの時の戸田先生の悠然たる大境涯を、あらためて深くしのばずにはおられない。
 私どももまた、歴史の先駆者とし、指導者として、目的に向かう奥底の一念は、厳として不動でなければならない。
 そして諭吉が「この塾あらん限り大日本は世界の文明国である」と誇ったごとく、「我が学会ある限り、人類の未来は盤石である」との気概で、堂々と広布の旗を、地域に翩翻へんぽんと翻していっていただきたい。
13  「独立自尊」の人材育成
 次に触れておきたいのは、諭吉の″無冠の庶民″としての覚悟である。
 明治政府は、まだ仮政府の頃から、諭吉に官職につくよう再三にわたって誘った。しかし彼は、これを断固、固辞こじしきった。その理由は様々に言われているが、彼に政治や出世への野心がなかったことだけは確かである。この時ばかりか、彼は生涯にわたって官につかえず、市井しせいの″大平民″として生きた。近ごろの政治家であれば、栄誉の地位に一も二もなく、とびつくところかもしれない。しかし諭吉の人生観は違っていた。
 知人が彼に仕官を勧め、彼の功労を政府にたたえさせねばならないと言った時のことである。諭吉は、自分はあくまで学者として、あたり前のことをしてきただけだとし、こう言って断った。
 「車屋は車をき豆腐屋は豆腐をこしらへて書生は書を読むと云ふのは人間当前あたりまえの仕事をしてるのだ、その仕事をして居るのを政府がめると云ふなら、となりの豆腐屋から誉めてもらはなければならぬ」と。学者だからといって、特別扱いするのは、おかしいではないかというのである。
14  こうした言葉の根底には、彼の「独立自尊」の精神があった。
 政府や権力のみを尊んで、民衆を卑屈にしたことは封建時代の悪である。この卑屈さからぬけ出て、民衆一人一人が「独立自尊」の気風を確立するところに、一国の独立の基本があるとしたのである。
 その彼にとって一切の虚飾の栄誉など問題外であった。まったく眼中になかった。
15  明治政府が維新いしんの混乱の収拾しゅうしゅうに手まどり、教育の事業に着手できないでいる間に、彼は義塾において、着々と次代を担う新しい人材群を育成していった。
 「文明に向かって進むべし」――この大目的を明快に示しながら、彼のいう「文明」の実質ともいうべき「独立自尊」の建学の精神を、朝夕のちょっとした話の間にも語り、あらゆる方法で繰り返し教えた。
 彼には、日本を世界の中で恥ずかしくない国にしようとの″熱誠″があった。この私欲を超えた真心があったからこそ、純粋な青年たちを引きつけることができたのだと私は思う。
 指導者は目的に対して、いささかの私心もあっては、多くの人材をリードすることはできない。
 「さあ、広宣流布に向かって進もう」――この無上の目的への熱誠の信心にこそ、広布開拓への永遠の源泉がある。策でもない。立場でもない。自身の力へのおごりでもない。指導者として、まず一切を誠実無比に祈りに祈る根本の一念を忘れてはならない。
16  独立自尊――それは立身出世のために学ぶ官学の徒に対する、大いなる警鐘でもあった。「寄らば大樹の陰」「長いものには巻かれよ」等々、日本人の貧しき隷属れいぞくの根性。彼は、これを徹底して批判した。
 たしかに一個の「人間」としての人格の独立がないところには、節操もなく、識見も浅く、むやみにいばり、強きを助け弱きをくじく、品性貧しき国民ができあがるのは当然である。戸田先生も日本人の精神の貧しさを深く慨嘆がいたんしておられた。私も、まったく同感である。
 諭吉の悲願は、この国民の精神を変革して、真に「文明国」の名にあたいする国を建設することにあった。″学者をほめるなら、まず豆腐屋をほめよ″――この一言にも、そうした諭吉の真面目しんめんぼくは躍如としている。
 現在においても、諭吉の叫びの意味はっていない。むしろ、本当に人間として自己の本分をつくした人が尊ばれず、華やかな名声や権威、金銭等のみをあこがれる風潮が、いよいよ強まっているのが現状である。この転倒を正して、無名無冠の実直な庶民こそ最高に尊ばれる時代をつくっていることも、私どもの広宣流布の運動の重要な意義である。
 何よりも人間として″立派な人″を陸続と育てる。この一点に焦点を定めて、粘り強く、人材輩出の活動を繰り広げてまいりたい。
 ともあれ、慶応義塾は後世、数多くの逸材を世に送り出した。その源流には、世のさざ波を見下ろしながら、我が道を行った創立者・諭吉の「信念」と、まったく偉ぶることなく庶民に徹した「人間性」があったことを、見おとしてはならない。
17  ″壮大なる歴史″を″壮大なる心″で
 紀元前三世紀、古代ギリシャの大数学者・アルキメデスは「てこ」の法則を発見し証明した。「てこ」とはいうまでもなく、小さな力を生かして大きなものを動かしていく方法である。その際、アルキメデスは、次のように宣言したという。
 「私に立つべき場所を与えてくれるならば、私は地球をも動かしてみせよう」と。
 つまり『てこ』の法則を活用すれば、どんなに重いものでも自由に動かすことができる。もし宇宙空間に足場があるならば、私一人の力で地球さえも動かしてみせようではないか、というのである。これが「力学」の出発点をなしたアルキメデスの「確信」であり「気概」であった。
 私どもも、広布と人生に対して、このような壮大なる「気概」と「確信」ですすんでいきたい。草創期の学会には、この「気概」と「確信」が横溢おういつしていたし、それが「発展」と「前進」への大いなる原動力であった。
 「妙法」という、生命の尊極なる法則にのっとり、その不動の立脚点に徹していくのが私どもの信心である。そして「妙法」以上に、すばらしい力と可能性を開いてくれるものはない。
 大聖人は妙法の絶大なる力用を、次のように仰せである。
 「横に十方法界に遍する」「竪には三世にわたつて法性の淵底を極むる」と。
 つまり、妙法の力、功徳は、ヨコには十方法界(全宇宙)へと限りなく広がり、タテには三世永遠にわたって「法性の淵底」(生命の最も奥深い、尊極の境涯)を極めていくことができる、との仰せである。
 私どもの「妙法広布」の大遠征は、日本一国などという小さな次元にはとどまらない。世界へ、全地球へ、さらにははるかな全宇宙をも包合しゆく旅路である。また、きょうよりあすへ、そして尽未来際へと、どこまでも広く深く、永遠に、前進を続けていけるのである。まさしく無辺の仏法であり、壮大なる広布の遠征である。どうか″壮大なる心″で″壮大なる人生″を、そして″壮大なる歴史″をもつくっていっていただきたい。
 ともあれ、限りある人生である。どうか共々に仲良く、助けあいながら、また有意義に「価値」を生みだしながら、楽しく朗らかに前進しゆかれんことを念願して本日のスピーチを終わらせていただく。

1
1