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日蓮大聖人・池田大作

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第一回未来部総会 学び鍛えよ 未来のために

1988.8.7 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

前後
1  未来部担当者に心から感謝
 きょうは、全国の各地に約八万人の後継者が集い、元気に未来部総会を繰り広げている。そのはつらつたる壮大な姿は、私の最大の喜びである。心から、ご苦労さまと申し上げたい。
 昨日、関西創価小学校の先生と、しばし懇談した。そのさい、″あすの未来部総会では、少々、長く、難しい話をしたいと思う″と話すと、その先生は″何事も簡略化している世の中である。努力より遊び、との風潮もある。その時代の先端をいく中学生や高校生に、長く、難しい話というのは、あまり得策ではないのではないか″と最初はいわれた。しかし「将来、本格的な仏法の指導者、社会の指導者となるために、長時間で、また難しい哲学、歴史等の話をされることは、大変重要であるし、一生忘れないと思う」と結論として語っていた。
 そういう意味からも、私は、きょうは一時間ほど、少々難しいかもしれないが、一つの歴史を通しながらの話をさせていただきたい。
2  今は、夏休みでもあり、多くの友人は、自由に遊び、楽しんでいるかもしれない。しかし、その時に、真剣に自身を鍛え、努力している諸君こそ、真の人間としての「人格」を養い、将来、偉大な指導者となりゆく人である。その意味から、この研修道場で、学び、語り、決意したことが、将来、どれだけ、成長の糧となり、滋養となっていくか。それは、計り知れないと、私は確信している。
 かつて、夏季講習会では必ず、二時間、三時間の唱題を行った。普通、家にいては、なかなか、長時間の唱題に励むことは難しい。だから夏休みこそ、総本山で、思う存分に唱題に挑戦した。
 唱題は楽ではない。時間とともに、足はしびれ、ヒザがガクガクになってくる。だが、おわるとスッキリし、生命力がわいてくる。こうした青春の鍛えに徹し、自身を鍛錬した人たちは、信心の正道を歩み、今日、力ある人材と育っている。
 ところで、この席で私は、ぜひとも、最初に未来部の担当者の方々に、心から敬意と感謝の言葉を述べておきたい。
 担当者の皆さまは、貴重な時間をさき、大切な後輩たちのために、真剣に奔走しておられる。信心のことはもちろん、様々な相談も受け、妙法の弟、妹たちを、時には、肉親にまさるともおとらぬ愛情で包み、いつくしんでいる。そうした皆さまの慈愛の翼のもとからは、数限りない広布のおおとりが巣立ち、社会のリーダーが育ってきている。
 これほど尊い行動の汗はないし、これ以上の人間としての先輩のほまれはない。私は、つつしんで御礼を申し上げる次第である。
3  未来部の諸君にとって、信仰の先輩が、いかに重要な存在であるか。今は、なかなか分からないかもしれない。
 諸君は若いゆえに、時には、熱心な先輩の激励をうとましく思い、「しつこい」とか、「勤行の説教は聞きあきた」とか、「勉強、勉強ってうるさい」などと思うことがあるかもしれない。
 しかし、現代はエゴの時代である。肉親ならいさ知らず、他人でありながら、真心で人の成長を願い、励ましてくれることなど、まず、ほかの世界では考えられないことである。それが、いかに尊く、ありがたいことであるか。それは、諸君が将来、立派に成長し、社会の指導者として人を育てる立場になった時に、しみじみと、実感してくるにちがいない。
4  「死」は生命再生のための方便
 さて、夏休みに入ると毎年のように、若き大切な友が、交通事故で亡くなったという報告を受けることがある。我が子を亡くした父母の嘆きは、いかばかりであろうか。また私どもにとっても、若い大切な仏子をなくし、後継の逸材を失った悲しみは、深く、大きい。そうした悲報に接するたびに、私は深く御本尊に祈り、追善の題目を送らせていただいている。
 昨年八月十五日には、創価高校・創価大学八期生の井上豊君が、オートバイの事故で亡くなった。享年二十七歳であった。また、つい先ごろの七月二十七日には、創価高校一年生が、道路を横断中に事故にあい、死亡した。わずか十五歳であった。
 二人とも、かねがね私が、次代を担いゆく俊逸として、心から期待し、未来を楽しみにしていた友であった。つねづね家庭の状況などにも耳を傾け、その成長の姿を、わが喜びとしていた。それだけに、訃報ふほうに接した時には、″未来に輝く「金の星」をなくした″と、しばし悲嘆にくれざるをえなかった。
 しかし、生命は永遠である。妙法の世界に育った彼らが、来世に元気に活躍しゆくことは間違いないし、今世の早逝も、より深き使命を果たしゆくための死去であったと、私は確信する。
 そうした思いを込め、二人の死去にさいしては、それぞれ、真心の「詩」や「和歌」を贈らせていただいた。井上君には、「若き君 なに故 父はは残して旅ゆくか それは王者になりて 迎え来るためなるか」と。また森下君には「あまりにも 凛々しき姿の 君なれば 三世の旅路は 父はは守れや」と。
 ともかく私は、若き大切な友が亡くなると、泣けてならない。そのような事故がないように、私はいつも祈る毎日である。
5  恩師・戸田先生は、「死」の深義について、かつて次のように語られた。
 「寿量品の自我偈には『方便現涅槃ほうべんげんねはん』とあり、死は一つの方便である。たとえてみれば、眠るということは、起きて活動するという人間本来の目的からみれば、たんなる方便である。人間が活動するという面からみるならば眠る必要はないのであるが、眠らないと疲労は取れないし、また、はつらつたる働きもできないのである。そのように、人も老人になったり、病気になって、局部が破壊したりした場合において、どうしても死という方便において、若さを取り返す以外にない」
 仏法のまなこから見れば、死は、恐れたり、おびえたりすべきものではない。新たな蘇生、生命の再生のための「方便」であり、豊かな「生」のための「死」であるからだ。
6  また戸田先生は、永遠の生命について、こう指導されている。
 「われわれはこの世に生命を受けて生きているが、けっして今世だけの生命ではない。過去、現在、未来にわたって、三世の生命を体得するのである。今世で死すとも、また生まれてくる。半年、一年ぐらい信仰し、やっと自分の心にだけわかったというのでなく、ほんとうに自分のものとして消化し、これを信じきれるやいなや、ということが問題である」
 「永遠の生命」の覚知こそ、信仰の極致であるといってよい。この三世の生命観に立つならば、今世のみの富や名声など、まさに方便のなかの方便にすぎない。永遠の幸福のためには、確かな生命観、人生観の確立こそ急務でなければならない。
 戸田先生は、続いて述べられる。
 「現世において貧乏であり、また商売をやってもよくいかぬ。からだが弱くて病気つづきであるとか、不幸をみつめながら、自分の身を不幸とは思わず、生命の永遠さも体得せぬものは、現世の生命そのままを、来世に持続していくのである。そこで、その貧乏を、その不幸を、幸福な状態にもっていく、これを成仏という。そのためには、御本尊様をよくみつめて、真剣に取り組むよりほかにない。死ぬまで強固な信心をしつづけることである。この境涯は、永劫えいごうにわたりつづくものなのである」
 私どもは宿業の転換なくして、永遠の幸せはない。その源泉力こそ、信心である。宿業というものは、病院でもなおらない。学校でも、また、たとえ外国に行っても変えることはできない。妙法を実践する以外に、しき生命の傾向性を、転換していくことは不可能なのである。それは、個人であれ、家族であれ、国家であれ、同じ原理である。ここに、全民衆が、正法を奉じ、御本尊を求めていくべき根本的な理由がある。
7  「島原の乱」と宮本武蔵
 さて、きょうは諸君に、「島原の乱」と、その中心者・天草四郎について、少々、論じておきたい。
 天草四郎については、確かな記録に乏しく、その言動についても諸説がある。専門的な立場からなされた様々な分析もある。私もこれまで、何度かお話ししたことがある。ここでは、岡田章雄氏の『天草時貞』および島一春氏の『殉教の島天草』なども参考にさせていただきながら、その歴史の概観を皆さんにお話しし、信仰に生きゆく同じ青年として、何らかの示唆しさみとっていただければ幸いである。
 島原の乱については、長崎の学会員の方が「ぜひ参考に」と、地元の「有家ありえ町郷土誌」を送ってくださった。また、天草と島原の青年部も、自分たちの研究の成果を届けてくださった。そのお礼の意味も含めて、お話ししていきたい。
 乱のいきさつに関しては、いろいろな説がある。私自身も記憶にたよるところが多い。したがって、将来、諸君が読み返してみて、まちがっていたなら訂正してもらいたいと思う。
8  まず初めに、宮本武蔵むさしと乱とのかかわりについて述べておきたい。
 日本の剣道史上、最も著名な剣の達人の一人である宮本武蔵が、その晩年に「島原の乱」の鎮圧ちんあつに参加していたという文献が残っている。つまり、天草四郎を中心にキリシタン軍がたてこもっていた原城を攻撃した鎮圧軍の中に宮本武蔵もいたというのである。
 郷土誌によると、当時、武蔵は、豊前ぶぜん小倉──現在の福岡県で、小笠原家の軍監ぐんかんだったとされている。これは武蔵の養子・伊織が、小笠原家に仕えていた関係によるものと考えられている。
 その頃、宮本武蔵は五十代なかば。これに対して天草四郎は十五、六歳であった。小説「宮本武蔵」の作者である吉川英治氏も、武蔵が原城陥落かんらくの直後にしたためたと推定される手紙をもとに、随筆を残している。
 手紙の中で武蔵は「どうも老人の足の事とて、これはどうか、お察しねがいたいものです」「私は、あいにくと石にあたってすねも立ちかねて居おります」という意味のことを記している。
 この点に関して、吉川英治氏は「その足の事では、武蔵はしきりに自分の″老い″をかこって(嘆いて)いるからおもしろい。若いたくましい武者むしゃたちにして、いや先頭を争って、彼も原城の石垣を、城乗りにかかったと見るべきである。そこで、老足と自嘲じちょうしたり、また、敵の落とした石に当たって、脛もたてないでいると述べている」(『随筆宮本武蔵』)等と解釈している。
 武蔵の老いの姿を見るにつけ、やはり若さというのは素晴らしいし、尊い。いかなる名誉、社会的地位の人よりも、若い諸君の方が、千倍も万倍も、いな無限の可能性を秘めている。ゆえに諸君は、最高の財宝である″若さ″を大切にしていただきたい。
 また、世間では″若さ″をうまく利用しようとする人も多い。その最たるものが、青年を手段にし、犠牲ぎせいにしていく戦争である。諸君は、そうした世の指導者のズルさを鋭く見抜き、絶対にまどわされてはならない。
9  武蔵は、老体でありながら若い兵士たちと一緒になって、城の石垣を登っていった。剣豪・武蔵からすれば、まことに気の毒な姿といわざるを得ない。どんなに偉い人間であっても、″老い″には、いかんともしがたい、みじめな側面が出てくる。
 いわんや臨終の時はもっと厳しい、人生の総決算となる。その意味で若き日の信心は、「老」と「死」を豊かに荘厳し、悔いのない人生とするための自身の錬磨であることも知らねばならない。
 「五輪書ごりんのしょ」は宮本武蔵が、その死の直前までかけて書きあげたといわれる書である。
 それによると、武蔵は幼少のころから兵法(へいほう)を心がけ、十三歳で初めて試合をして勝つ。そして二十八、九歳までの間に六十回以上の試合をしたが、一度も負けたことがなかった。その最後の試合となったのが、武蔵二十九歳の時、かの佐々木小次郎との「巌流島の決闘」であったようである。
 そして三十代以降は、ひたすら剣の理法の追究と鍛錬を積み重ね、五十歳のころ、兵法の道を体得したといわれている。いずれにしても、晩年の武蔵が、青年の天草四郎と相(あい)対していたという史実は興味深い。
10  徹底した勉学は指導者の要件
 天草四郎は、姓を益田、名を四郎時貞ときさだといい、肥後(熊本県)に生まれた。長崎に出て学問をしているころに洗礼を受けたと推測され、洗礼名は″ジェロニモ″といわれている。
 彼が「島原の乱」の総大将として戦ったのは、ちょうどきょう集まった諸君の中学三年生から高校一年生の年齢にあたっている。彼については主に、乱を鎮圧した幕府側の資料が残っているだけで、正確な伝記はほとんど不明である。
 しかし、乱の折、とらわれの身となった母の証言によれば、四郎は九歳の時から手習いを三年、学問を五、六年学んだ。また学問を修めるために、数度、長崎を訪れている。後に、江戸中期の有名な学者、政治家である新井白石が、長崎にいたころの四郎について、次のようなエピソードを語っている。
 それは、ある唐人とうじん(中国人)のともに、一人の十二、三歳になる日本人の少年が雇われていた。唐人の中に人相をみることの上手じょうずなものがいて、この少年は今は従者などという仕事をしているが、天下を望むすぐれた相をしている。しかし運が早いので、(早く亡くなり)その望みは成就しないだろう、と予言した。その少年が天草四郎だったという。
 この話が真実かどうかは分からない。が、いずれにしても長崎は当時の、世界への″窓″であり、そこで勉学に励んだことが、若くして民衆の指導者となっていく上での大きな要素となったことは事実であろう。
 書物を読み、文化を語ることができ、知性と品格をただよわせた四郎は、貧窮ひんきゅうのどん底にあえぐ民衆の希望の存在として、次第に信頼を勝ち取っていった。
 真実の歴史とは、記録された文章の表相のみにとらわれていては分からない。虚偽でつづられた歴史もあまりに多い。何が本当で何がウソなのか。それを鋭く見抜いていく──これが「史観」である。
 私は戸田先生から十年間、毎日のように、こうした物事の見方を厳しく教えられた。ゆえに、何が起きても、どんなことを言われても、その裏も表も手にとるように分かるし、いささかも動じない。
 諸君に、ここで史実を通してお話するのも、若き日に正しく深い「史観」を養ってもらいたいからである。
11  島原の乱の背景に悪政と民衆弾圧
 さて、「島原の乱」の舞台となった島原半島も、その南に横たわる天草の島々も、風光明美な美しい土地として知られている。
 しかし、もともと山地が多いうえ、火山灰地のために土地もやせ、農作物の生産も十分ではなかった。しかも、租税の過酷かこくな取り立てによって、農民たちの生活は窮乏をきわめていた。
 この島原地方も、キリシタン大名の有馬晴信が治めていたときは、それほどでもなかったが、有馬氏が改易かいえきされ、松倉重政が島原領主となってからは、農民たちは一層の苦汁をなめることになる。
 松倉氏は四万石の、いわば″成り上がり大名″でありながら、江戸城の構築のさいには、十万石の軍役を申し出ている。こうした幕府におもねた実力以上の出費のつけは、すべて領民に課せられていった。
 しかも、キリシタンについて幕府の叱責しっせきを受けたことを機に、徹底的な弾圧が始まる。キリシタンへの拷問は、水責め、火あぶり、烙印らくいん、指詰め、穴つるし、硫黄責め、針さし責め、竹鋸たけのこきなど、手段の限りを尽くしていた。そして、最後は「山入り」ということで″雲仙地獄″へ投げ込まれた。こうして宣教師をふくめ殉教者は百五人にも及んだ。
 彼らは信仰の道に幸福を求め、人間らしく生きようとした人々である。それをキリシタンという理由で、言語に絶する弾圧を加えたわけである。権力者の横暴は激しかったが、キリシタンたちは、迫害に耐え、信仰を貫き通していった。
12  さらに藩の財政が苦しくなるにつれ、農民には重税が課せられた。米や大麦、小麦にはもちろんのこと、さまざまな名目で税をとった。たとえば、子供が生まれると人頭税。死者を埋葬すれば″穴銭″をとった。いろりをつくっても、窓をつくっても税をとられた。ナスの木一本にも実を幾つ、などといった具合であった。
 もし、それらが納められないときは、むごい責めが待っていた。妻子を人質ひとじちにとる。または水牢に入れたり、″みの踊り″の責めなどが行われた。″みの踊り″ とは、体をしばり、″みの″を巻いて″みの″に火をつける。すると熱さのあまり、のたうちまわる。その姿を″みの踊り″と呼んだわけである。
 まさに、農民に対する一片の愛情もみられない、過酷な政治であった。しかも、こうした農民への非道な仕打ちが「キリシタン弾圧」の大義名分のもとに行われたという側面ももっていた。
13  一方、天草地方の領主は肥前唐津(佐賀)の寺沢氏で、領民への過酷さという点では、島原藩と変わりはなかった。そのうえ、一六三四年(寛永十一年)以来、この島原・天草地方には凶作が続き、飢饉ききんに見舞われた。しかし領主は、それに対して何の手当てもとろうとはしなかった。農民たちはもはや木の根や草を食べて、命をつなぐよりほかはないほど、困窮の極に追いつめられた。
 こうした民衆の苦悩の中で、乱の発端ほったんとなる悲劇が起こった。一六三七年(寛永十四年)のことである。
 島原・口ノ津村の大百姓・与三右衛門の家では、三十俵の米が納めきれない。延期の願いも許されず、未納のばつとして、嫁が捕らえられ、川の流れに作った″水牢″に閉じ込められた。嫁は子供をみごもっており、しかも臨月を迎えていた。男を代わりにとの、家族の申し出も空しく、六日間、嫁は水漬けにされた。十月のはじめ、彼女は水牢の中で出産。苦しみもがきながら、死んだという。
 この事件を機に、それまで耐えに耐えてきた農民たちの憤りが爆発し、島原の乱の発端となった、といわれている。
14  ところで、この「島原の乱」についての歴史研究では、この乱を「百姓一揆いっき」であるとする見方もある。また、「キリシタン一揆」であると見る場合もある。あるいは両方の面があったと見る歴史家もいる。
 この点に関して、当時、大村の牢にとらわれの身となっていたあるポルトガル人が、貴重な報告を残している。
 それによれば、この乱はキリシタンが宗教のために起こしたものではなく、領主の過酷な政治に耐えかねた農民による反乱だった。そして、領主である松倉氏が将軍や他の大名たちに対して面目めんぼくを失い、また後の処罰を恐れたために「キリシタンの一揆である」と宣伝したのだという。
 つまり、″幕府が禁止している宗教を取り締まる″ことを理由にすれば、民衆に対してどんなに残虐ざんぎゃくなことをしても、当然のこととして正当化することができる。そう考えた領主や代官らの支配者は、自分たちの民衆に対する過酷な政治をごまかすために、″宗教者による反逆″という形に位置づけたという見方である。
 なおかつ幕府も後には、この乱に参加した人々の信仰の面だけを取り上げて、政治的な理由から人々の目をそらせることに努めた。キリシタンに対する恐怖と警戒心をあおるために巧みに利用し、これを機に鎖国政策も大きく前進させた。
 たしかにこの乱で立ち上がった民衆はキリシタン信仰を旗印はたじるしにしてはいるが、その背景には″苛政かせいに対する抵抗″があったことを見逃してはならない。″悪政と民衆宗教への弾圧″は、往々にして表裏一体のものであることを、この島原の乱は示唆している。
15  民衆とともに戦った天草四郎
 かくして島原の地に一揆が起こり、やがて天草の農民も立ち上がった。当時の文献によれば島原領内の人口二七、六七一人のうち、一揆に参加した者の数は二三、八八八人。なんと八六%にものぼった。
 なお、この一揆に農民たちを結集させたのは、天草四郎の父をはじめとする数人の浪人たちであったともいわれている。四郎の父、益田甚兵衛はかつてキリシタン大名であった小西行長の家臣で、当時は浪人の身となっていた。
 ともあれ、ここに一揆の結束の中心として四郎少年が登場する。彼は民衆を守るためにわずか十六歳で立ち上がったのである。
 ちょうどこのころ、朝焼け、夕焼けがいつもより鮮やかにえたり、季節はずれの桜が咲くなど異常な自然現象が続いた。人々は、これを世の中が火の地獄になる前ぶれであると考え、さらに、キリシタンの信者だけは天からの救いがくるといううわさが農民の間に広まっていったという。
 こんな折から、天草四郎の名が、まるで救世主であるかのように、領主の圧政に疲れきった農民たちの間に口から口へと伝えられていった。
 岡田章雄氏は、こうしたいきさつについて「貧窮ひんきゅうのどん底にあえぐ農民が、奇蹟きせきによって救われることを期待し、ことにキリシタンの信仰のみついている土地だけに、その信仰の奇蹟を求めて、心から手をさしのべたということは想像できる。天草島ばかりでなく、島原地方の農民たちの間にも、すでに四郎の名がひろまっていた。そしてそれがこの蜂起ほうきをうながした大きな原動力となったことは間違いない」(『天草時貞』吉川弘文館)と述べている。
 当時のしいたげられた民衆が、″領主や代官はわれわれを苦しめるばかりである″と、自分たちの信頼と希望を託すことのできる「若き指導者」をひたすら渇望かつぼうしていたことは、間違いないであろう。
 時代は常に若々しい息吹にあふれた「知恵」と「勇気」のリーダーを求めている。諸君の中から、自身の身をして、人々を幸福と平和へと導くリーダーが陸続と育ってほしい。これが私の心からの念願である。
16  当時のキリスト教の用語に「か人」という言葉があったといわれている。これは「エンゼル(天使)」を訳したものの方言であろうと考えられる。
 「救世主」というとあらたまった感じになる。しかし、この「善か人」という素朴な言葉には、支配者から徹底的にしいたげられていた当時の人々の願いが結晶していると思えてならない。そしてそれが天草四郎への思いに結びついていった──。
 学会の組織における幹部の役割も、同様である。最も不幸な、最も悩める人々の心のりどころとして立たねばならない。皆が心から安心し、信頼していける「力」と「人格」を備えたリーダーに育ってほしい。
 そのためにも今はしっかりと勉強に勉強を重ね、″あの人ならば間違いない″と信頼され、慕われる一人一人になっていただきたい。
17  一六三七年(寛永十四年)十月、島原で起こった代官と農民の争いを発端に、一揆勢が蜂起ほうきする。これが島原の乱の始まりである。相呼応して立ち上がった天草勢を加え、十六歳の四郎を総大将とした一揆勢は島原城を包囲する。
 しかし、島原城を攻めあぐんだため、結局、島原半島南端にある古城「原城」を修理してたてこもった。ここで幕府方の鎮圧軍を迎えつ作戦である。
 篭城ろうじょう(城にたてこもること)したのは、老若男女を含めて三万七千人と伝えられている。なお城中には、農民にまじって四郎を慕い集まった年配の浪人たちもおり、関ケ原合戦の経験などを生かして″つわものぶり″を発揮したという。
 四郎は城内に設けられた礼拝堂で日夜、祈とうを行い、人々に一層信仰を強めるよう説教していたとされる。
 そうした人々の殉教の覚悟を示すものとして、城中から敵方にあてた矢文やぶみ(矢に結びつけた手紙)が残っている。
 「われわれはただ広大無辺の宝土を求めるだけで、それが許されなければ帰ることは希望しない。城内では苦しみを天上の快楽と思っているので、城をすてて逃げ出すものは一人もいない。われわれを討伐とうばつしたあとで妻子をどうあつかわれても、異存はない」(前掲書より)と。
 まさに決死の覚悟である。
 日蓮大聖人は「少しも妻子眷属けんぞくを憶うこと莫れ権威を恐るること莫れ」──いささかも妻子や眷属を惜しんではいけない。権威を恐れてはならない──と、門下に殉教の精神を御指南くださっている。
 いかなる思想、宗教であれ先覚者の命をした戦いがあって広まっていった。ましてや、大聖人の仏法という人類未聞の「大法」をたもち広めようとする最高の使命をもった私どもである。いかなることがあろうとも、″一歩も退かない″との強く、固い決意がなければならない。
18  先に紹介した矢文(やぶみ)の中で、天草四郎が天の使いとしてあがめられていた様子が書いた一節がある。
 そこでは、四郎は生まれながらに才知を備えた天の使いであり、平凡で愚かな者が口を出せるような存在ではない。一揆の原因が、この世だけのことであれば、キリシタンは将軍にそむくことは一切しない。しかし、信仰が弾圧されるに至っては、これは後生ごしょう(死後の世界)のための一大事であるから、天の使いである四郎の命令に従って、一歩も退かないのである、と記されている。
 キリシタンの殉教の決意は固く、城内にたてこもった人々は最後まで抵抗した。しかし、結局、鎮圧軍によって皆殺しにされてしまう。
 この事実を指導者の在り方という角度から見た場合に、四郎は若く経験も乏しかったがゆえに、あまりにも多くの人々を犠牲の巻きぞえにしてしまった。なかには、何も分からない、未来性ある子供たちもいたのである。
 このことについて、「もう少し何とかならなかったのか」というのが戸田先生の見方であった。そして、長生きし、人生経験を多く積んでいくことも指導者として大切なことであると語っておられた。
 島原の乱でも、人生経験の豊かな、知恵と分別(ふんべつ)のある人が指揮をとっていれば、あれほどの犠牲を払わなくてすんだかもしれない。より多くの人の上に立つリーダーほど責任は重く、人格と見識、判断力を磨き抜いていかねばならない。そうでなければ、人々を安全に目的地まで導くことはできないからである。
 広布の未来の一切を担いゆく諸君は、どうかこの点を銘記して、勉学をはじめ、あらゆることに挑戦し、心豊かに人生経験を積みながら″使命の道″に生き抜いていただきたい。
19  覚悟の法戦に壮絶な殉教
 年が明けた一六三八年(寛永十五年)、正月元旦を期して、幕府の軍は総攻撃を始める。
 この時、総指揮官の板倉重昌(いたくら・しげまさ)が戦死する。圧倒的な武力をバックにした幕府側の総司令官が、農民軍にあっけなくたれてしまったのだから、そのショックは大きかった。そのあと、幕府から送られてきたのが″知恵伊豆ちえいず″と呼ばれた有名な松平まつだいら伊豆守いずのかみ信綱のぶつなである。
 実は、板倉重昌は、この松平信綱が江戸を出発していることを知っていた。重昌は、信綱が到着するまでに、一揆の決着をつけたかった。そこで彼はあせった。
 ──相手は″たかが百姓″である。自分の力だけで城を落とせず、信綱の力を借りたといわれたのでは、男の「面目めんぼく」が立たない。そう思って彼は、十分な準備もととのわないうちに、無理な攻撃をかけ、奮戦ふんせん中、銃弾に当たって死んでしまった。覚悟の死であったともいわれている。
 武士のメンツを守ろうとして追いつめられた重昌の行動を、どう見るかは、人さまざまであると思う。
 ただ諸君は、いかなる時も、絶対に焦ってはならない。焦って自ら破滅の道を選ぶようでは大きな仕事はできない。また反対に、人を追いつめるような行動もあってはならないと申し上げておきたい。
 戸田先生もかつて、重昌の死を通して人事の在り方等を教えてくださった。
20  さて次の総指揮官、松平信綱は、ありとあらゆる手を使って、城を攻めた。
 全九州から集まった軍勢は、およそ十二万人。三万七千余人の四郎たちを完全に取り囲んだ。加えて海上から、オランダ船に城を砲撃ほうげきさせた。
 さらに、食糧の補給ほきゅうの道をった。その上に人質ひとじちを使って、説得に乗り出した。退転すれば命を助けてやるなどと言って人々の団結をこわし、かく乱しようとしたのである。
 四郎の母と姉も、すでにつかまっていた。幕府軍は、この母親と姉に手紙を書かせ、城中に送った。母は五十歳くらい、姉は二十二、三歳だったという。
 しかし、城中からは、すでにみな信仰に命を捨てる覚悟を決めているという返事がきた。いささかの迷いも見られなかった。
 生命破壊の反人道的な生き方は論外として、信仰者にとって一番の恥は退転である。いかなる理由をつけて弁解しようとも、一人の人間として、これほど、なさけない、恥ずかしいことはない。
 信念は最後まで貫いてこそ信念である。信仰を持った以上、途中で道をそれるのでは、見せかけだけのニセ物の信仰であった証拠である。
21  四郎からの返事とともに、大きな紙袋が母たちに送られてきた。なかには、カキやミカン、砂糖、まんじゅう、やつがしらなどが入っていた。
 このプレゼントによって四郎は、お母さんたちに「まだ、こんなに食糧があるよ」「だいじょうぶだよ、心配ないよ」との自分の心を伝えたかったのかもしれない。そして会うことのできない母と姉への、せめてもの真心だったとも思われる。
 その後、今度は四郎のわずか七歳の妹が、使いとして城中に送りこまれる。なりふりかまわない権力者の手口である。もどってきた少女の手には、おそらく四郎からもらったのであろう、一つの指輪と、ムクロジの草(石けん代わりとしても利用された植物)が、しっかりとにぎられていた。
 決して、ダイヤの指輪ではなかったかもしれない。しかし、かわいい妹のために、かれんな指輪と植物を持たせてやった四郎の姿を想像する時、母や姉の時と同様、本当に、いじらしい心情が伝わってくる。
22  当然のことだが、こうした家族もいる四郎が″天からりてきた″わけがない。そういう現実離れした説き方は、仏法にはない。キリスト教では、他にも、聖母マリアが″神の子″を宿したとするなど、余りにも不合理な側面を持っている。ことさらに神秘的な説き方をする傾向は他の宗教でも、同じである。
 これに対し、日蓮大聖人は「我が身は天よりもふらず地よりも出でず父母の肉身を分たる身なり」──この自分の体は天から降ったものでもない。地面から、はえ出てきたものでもない。両親の肉体を分けてできた体である──と仰せである。
 人間の現実の姿を、ありのままにとらえ、どこまでも現実から離れずに法を説いておられる。ここに仏法の偉大さがある。どこか遠いところにではなく、最も身近な現実の中にこそ、仏法はある。この一点を、諸君はよく覚えておいていただきたい。
23  幕府軍は圧倒的な武力で城を攻めに攻めた。しかし、なかなか降伏しない。どうせ無力な農民だとバカにしていた幕府は、当初の傲慢ごうまんな考えを改めなければならなくなった。
 信仰を持った人間は強い。何ものも恐れない。
 人は、さまざまな信念を持つ。そのなかで「信仰」こそが究極の信念であり、絶対的な信念である。いわんや正しき信仰に徹する時、人は想像を超える偉大な力を発揮できる。
 三カ月にも及ぶ城ごもりで、さすがに城内は、食べるものがなくなってきた。
 城をかこんでいる軍が、一揆軍の死んだ兵士の腹を切り裂いてみたところ、胃の中には一粒の米もなかった。そこで、城内の食糧不足が、はっきり分かったという。
 二月二十七、八日、幕府は総攻撃をかける。猛烈な激戦の末、遂に落城、四郎も、あえなく戦死した──。
 戦いに生き残った者も、すべてらえられて、直ちに首をられた。その数は一万八百六十九人という記録がある。四郎の母、姉妹ら一族も、ことごとく処刑された。
 こうして一揆に立ち上がって以来、四カ月にして、四郎ひきいる民衆軍は徹底的に鎮圧されてしまった。壮絶な殉教であった。
 キリスト教でさえ、これほどの大弾圧を受けている。他の国にも無数の迫害に次ぐ迫害の歴史がある。それをて世界宗教として根を張っていったのである。
 まして日蓮大聖人の大仏法を世界に広宣流布する途上にあって、大難がないわけがない。
 これまでの嵐など、ある意味で、まだ小さいともいえる。また今は私が全部、たてとなって守っている。しかし将来は諸君にすべて託す以外にない。ゆえに諸君は、何があっても堂々と乗り越えていく勇者、賢者であっていただきたい。
24  退転は人間としての敗北
 原城に立てこもった三万七千余人は、幕府軍によって殺されてしまった。しかし、ここに一人、生き残った男がいた。信仰を捨て、同志を裏切ることによって、命を永らえたのである。
 彼の名は山田右衛門作えもさく南蛮なんばん絵師であった。天草四郎の「陣中旗じんちゅうき」が今ものこされ、重要文化財に指定されているが、この旗の絵を描いた作者こそ山田右衛門作であると言われている。島原の乱の時には、大将格として参加している。
 では、なぜ彼は、ひきょうにも同志を裏切ったのか──。
 農民を中心とした一揆軍のなかで彼は異質の存在であった。いわば″エリート″であり、経済的にも恵まれていた。土のにおいのない、民衆の苦悩とは別世界の人間であった。ここに一つの問題がある。
 社会的地位をもつ、いわゆるエリートとか、インテリなどは、要領がよく、口がうまくて、愚直なまでの「誠実さ」に欠ける場合が多い。とくに日本では、そうした傾向が強いようだ。しかし本物の深き人生は、大誠実なくして築けるものではない。
 これまで退転し、同志を裏切っていった卑劣な人間たちもまた、一応は社会的地位があり、組織的立場も高く、自分は″エリート″だと、うぬぼれていた。
 しかし本来、学会に特権階級はない。つくってもならない。学会は、どこまでも、頑固なまでに純粋な″信心″を貫く庶民と庶民との団結が根本である。その美しき世界を守り、広げてゆくことこそ諸君の使命である。
25  右衛門作は絵師であるため、裕福なスポンサー(財政提供者)を必要としていた。自然、有力者との近づきも多かったと考えられる。しかも年齢はすでに六十歳を超え、青年期のみずみずしい心を失い、卑しく保身を図りがちな年代となっていた。
 彼は一揆軍の形勢けいせいが不利になってくるにつれ、権力者にとり入り、助かりたいという心が強くなってきた。そして、ついに、かつて仕えたことのある有馬ありま家と、ひそかに矢文やぶみで連絡を取り始める。
 裏切りの始まりである。右衛門作が、はっきり四郎への反逆を決意した時の事件が伝えられている。
 二月十四日、幕府軍の砲弾が、たまたま城内でを打っていた四郎の近くに落ちた。四郎の服も破れ、そばの数人は即死した。その時、周囲の動揺は激しかった。それまでは奇跡を起こす四郎についていれば安心だと信じていた。ところがそれ以来、「神の加護」を疑い、四郎の力への疑問を持つ者も出て、士気が衰えてきたのである。
 人間の心は微妙である。常識から冷静に考えると、当たり前の事件であっても、ふとしたことから動揺する。その意味で、やはり知性を鍛えておかなければならない。知性が弱いと信仰を一生涯、持続していくことも難しくなる。
26  右衛門作は、こうした人々の動きに機敏に乗じた。彼は自分の指揮下にあるキリシタンを、言葉たくみに裏切りへと誘ったばかりか、総大将の四郎をもだまして、幕府に引き渡そうとさえした。しかし策謀は事前に発覚し、彼は命からがら逃げ落ちた。
 そしてキリシタン軍の全滅──。
 彼はこの後、江戸に連れていかれ「切支丹キリシタン目明めあかし」として動き始める。これは信仰を「ころんだ」(退転した)者たちが、元の同志を退転させるために、幕府の手引きを行ったものである。
 彼らは、役人に同志を″売る″ために、やっきとなった。知っている内情を知らせれば、大金がもらえる。「あいつがキリシタンです」「こいつもそうです」──権力を後ろだてにして、彼らは卑劣な告発を続けた。自分が個人的に反感を持つ相手も、でっちあげの情報を流しさえすれば、罪におとしいれることができる。攻撃を避ける方法は誰にもなかった。こうして信仰しているというだけで、多くの人々が無残にも弾圧され虐殺されていった。
 「銀貨三十枚」で師キリストを売ったユダ──。彼ら「切支丹目明し」のことを、当時の宣教師たちは、文字通り″ユダ″ と呼んでいる。
 退転者が権力と手を結んで迫害の手引きとなる。この「悪の連合」は、いつの時代も、宗教の世界のかわらざる構図である。
27  右衛門作の末路は、どうであったか。
 彼は意外なほど長生きする。そして、後には、もう一度、キリシタンの信仰に立ち返ったりして、心定まらないまま、八十歳の生涯を終えた。その晩年を知る人には、彼の姿は「生きる幽霊」のように見えたという。
 四郎たちと三カ月間、同じく原城にこもって、数万人の同志の虐殺ぎゃくさつを目撃し、一万余のさらし首を見た右衛門作。彼らを裏切ったという事実は、一生涯彼の心にとりつき、年月を経るごとに、四郎たちの幻に苦しめられ続けたにちがいない。
 その意味で、長生きは、彼の幸福ではなかった。長く生きれば生きるほど、苦悩は深まり、地獄のような日々が続くだけであった。死ぬにも死にきれない──どこにも安住の地がない、さまよう「幽霊」のような存在として、余りにもわびしい人生を送ったのである。
 これ自体、人の道をはずれた裏切りの人生の結果であった。死後はさらに苦しんだであろう。本当にあわれであり、かわいそうでならない。
 まして仏法にそむき、正法の同志を裏切った罪は、これらとは比較にならないほど大きい。私が「絶対に退転してはならない」と、繰り返し申し上げる理由も、ともかく本人自身があまりにも苦しむことを知っているからである。
28  根が残れば信仰は滅びない
 さて島原の乱の敗北で、天草には、もうキリシタンは根だやしになったと誰もが思っていた。ところが乱の約百七十年後、一八〇五年(文化二年)の調べによって、天草の村々には、なお人口の半分以上を占める信者が潜伏せんぷくしていることが分かった。
 しかも、これは九州西部に散らばる″隠れキリシタン″の、ほんの一部にすぎなかったといわれている。そして、この信仰の水脈は、弾圧のなか、はるか明治時代にまでも続いていく。
 いったん全滅の状態になったとしても、″根″が残っている限り、信仰は滅びない。そこからまた、しぶとく広がり、繁茂していく。迫害され、たとえ殺されようとも、絶対に信仰をたやさない。この不屈の魂こそ、宗教の真髄である。
 創価学会も、将来、思いもよらぬ大きな試練が待っているかもしれない。何もないことなどありえない。しかし諸君は、自分さえいれば、正法の信仰を厳として守り、伝え、広めていけるという強く、また強き信念の人であってほしい。
 私は、様々に迫害を受けた。だが厳然と私は、大聖人の仏法の正義を守った。すなわち、日蓮正宗を外護げごし、また牧口先生、戸田先生のつくられた広宣流布の団体である学会を守った。仏意仏勅ぶついぶっちょくの学会を正しく清らかなままに、死守しきった。このほまれは永遠であると確信している。諸君も、同じく、そうしていただきたい。
29  創立百周年を諸君が飾れ
 ここ軽井沢は、私にとって、戸田先生との深き思い出の天地である。だからこそ先生をしのび、毎年のように訪れている。
 先生は私の人生にとって、絶対の師であった。その一言一言も、振る舞いも、私の胸に、頭脳に、生命に、すべて焼きついている。今も私は日々、先生と会話をかわす思いで、一人、「真実の弟子」の道を走りぬいている。
 ──先生の最後の夏も、この地で語り合った。先生の最後の保養の旅であられた。
30  戸田先生は御逝去せいきょの前、しみじみと語っておられたことがある。
 「大作、お前が、今の私の年齢になった時は、どのようになっているかな」と。
 短くはあるが、心にしみいる言葉であった。
 きょう、私のもとに集い来たった後継の若き門下は、現在、十一、二歳から十八歳。私は六十歳──。戸田先生と同じ心で、私は諸君の未来を胸に思い描いている。
 今、十八歳の諸君が六十歳になるのは西暦二〇三〇年。すなわち学会創立百周年の年である。その時には、広布の舞台は、はるかに壮大に広がっているにちがいない。世界の、ありとあらゆる地域で、ありとあらゆる分野で、絢爛けんらんたる活躍のステージが諸君を待っている。
 いよいよ広宣流布の本格的な展開の時代である。
 この百周年を、諸君は見事に″黄金の歴史″で飾っていただきたい。これが本日の私のお願いである。″遺言″というとセンチメンタルになる。むしろ私は一言、諸君に「しっかり頼む」と託したい。その意味で、本日は、百周年という、すばらしき学会の黄金時代への幕が開かれた──と明確に申し上げておきたい。
31  ともあれ諸君は若い。長い将来がある。
 天草四郎は、余りにも若くして散った。しかし諸君は、健康であり、長寿であっていただきたい。無事故で生き抜き、どこまでもたくましく長生きをしていってほしい。そして一人ものこらず、立派に人格を完成しきって、名実ともに偉大な学会のリーダーに、社会と世界の指導者に育っていただきたい。
 必ず、そうなってもらいたい。また必ず、そうなっていくであろう。それが私の悲願である。私は、諸君の成長を祈りに祈っている。
 最後に、重ねて諸君の「健康」と「長寿」をお願いし、本日の私のスピーチとさせていただく。

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