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日蓮大聖人・池田大作

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第七回本部幹部会 民衆の大地で″精神の戦い″

1988.7.26 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

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2  かな文字の御書に民衆仏法の心
 ご承知の通り、五老僧は権力の迫害を恐れ「天台沙門しゃもん」と称した。天台宗の権威のカゲに隠れ、「私は天台の弟子です」と名のることで、圧迫をようとしたのである。
 それは大聖人門下としての「誇り」を捨て去り、どろにまみれさせる背信であった。権力への卑屈ひくつな迎合によるみずからの「保身」である。退転者のこの本質は、いつの世も変わらない。
 大聖人の仏法はしき権威・権力と、真っ向から戦う民衆の宗教である。にもかかわらず、世間の権威にすり寄り、権力にこびへつらい、ただ見ばえと格好の良い方へと、信念を捨て転身していく。その根底はいやしく、憶病な「保身」以外の何ものでもない。要するに、権威に弱い自らの心に負けただけの話である。そうした″格好主義″の五老僧的な体質は、彼らの行動の、いたるところに表れている。大聖人の御書の扱いにおいても、そうであった。
 五老僧は、天台宗の漢籍かんせき(漢文で書かれた書籍)を重視した。現代でいえば、ことさらに″横文字″を重んじたり、難しい哲学書を、わかりにくいがゆえに、ありがたがったりする態度に通じよう。
 そして彼らは最も大切な師・大聖人の御書を見くだし、バカにしていった。とくに大聖人が在家の門下のために、わかりやすい″かな文字″で書かれた御手紙に対する軽視と蔑視べっしは、まことに、はなはだしいものであった。彼らは、大聖人御直筆の御書を、あろうことか、すき返して新しい紙にしたり、焼き捨てさえした。もしも後世に残すのならば、漢文に書きかえよとも主張した。
 何という増上慢であろうか。彼らの根底には、大恩ある師をもあなどる心があった。御本仏に親しく教えを受けながら、その偉大さが彼らには、まったくわかっていなかった。哀れというほかはない。
 次元は異なるが、かつて戸田先生の指導が、余りにもやさしく、かみくだいて説かれているゆえに軽く見た人間もいた。五老僧らの慢心に通じる姿であろう。
3  そうしたなか、日興上人ただ御一人が、大聖人の御法門を完璧かんぺき令法久住りょうぼうくじゅうせねばならないという大責任感のもとに、懸命に御書の収集と筆写、保全に当たられた。また門下に御書を講じ、大聖人の正義を伝えきっていかれた。
 その日興上人の赤誠をも、五老僧らは、「先師の恥辱を顕す」すなわち″かな文字の御書を残すのは、大聖人のはじを顕すようなものだ″と誹謗ひぼうする始末であった。
 まことに根底の「一念」の狂いは恐ろしい。はじめは目に見えない、わずかな一念の狂いが、やがて常軌じょうきいっした振る舞いとなって、表面にあらわれてくる──。
 大聖人は「よくわかるように」「心に入るように」と、庶民を抱きかかえられながら、かな文字を使い、わかりやすい言葉で大法を説き、残してくださった。
 その師匠の大慈大悲の御心を五老僧は踏みにじった。浅はかというには、余りにもみにく心根こころねである。日興上人は彼らに巣くった″民衆への蔑視″を、また、その裏返しにほかならない″権力へのへつらい″の心を厳然と破折しておられる。
 民衆を守り、正法を守るためには、謗法ほうぼうとは一片の妥協も許されない。どこまでも、厳格な上にも厳格に処していかねばならない。それが日興上人の御精神であるし、学会精神である。要領よく妥協した方が、ある意味で″利口りこう″に見える場合も多い。しかし信心は信心である。憶病なる妥協は、信心の死を意味する。
 ″民衆蔑視″と″権威へのこびへつらい″──五老僧を師敵対の転落の道に追いやったのは、他のだれでもない、彼ら自身であった。総じて、いかなるもっともらしい理由をつけようとも、退転は本人自身に原因がある。本人が悪いのである。にもかかわらず、自分の行きづまりや不幸を、他人のせいにして、人をうらみ、にくんでいくのも退転者の常である。
 また、かりに退転や反逆の姿を現していなくとも、組織上の立場や、さまざまな権威を利用し、庶民を視して、いばり、横暴に君臨していく──そうした行為そのものが、すでに五老僧に通じる″悪″であることを鋭く見ぬかねばならない。そして芽のうちにつみとっておかねばならない。
 そうでなければ、いつしか組織のなかでガン細胞のように広がり、その結果、本当にまじめで、純真な庶民が苦しんでしまう。指導者として、それは絶対に許すわけにはいかない。
 組織の拡大とともに、どの宗教もたどってきたであろう、こうした宿命的ともいうべき悪しき傾向に対し、私は身をていして戦っているつもりである。
4  現存する大聖人の御書の御正本ごしょうほんには″ふりがな″がつけられている場合がある。その多くは、日興上人が、門下が拝読しやすいようにと、御みずから筆を入れてくださったものである。
 五老僧と何と大きな違いであろうか。日興上人は大聖人の御心を御心とされ、世界の民衆のために、正しく、厳として大法を護持してくださった。そして「民衆のために″かな文字″で書かれた御書が、やがて必ず世界中の言葉に翻訳される。その時を見よ!」と大宣言しておられる。
 まさに今、「その時」が来たわけである。
 ともあれ、どこまでも民衆を愛し、民衆の大地に根ざしていく──これ以外に正しき広宣流布の大道はない。この大道こそが、大聖人の仰せである「一閻浮提いちえんぶだいの流布」へと、まっすぐに通じている。
 かつて学会は「貧乏人と病人の集まり」と侮蔑ぶべつされた。しかし、実はそうした最も苦しんでいる″庶民の中の庶民″の海に飛びこみ、傲慢ごうまんな権威からの侮蔑を受けきって、民衆とともに走りぬいてきたからこそ、今日の世界的な、壮大な発展がある。その歩みはまた、お一人お一人の人生の凱歌がいかの歴史でもある。
 かつて九州を訪れた時、ある婦人部の最高幹部の方が言っていた。「貧乏人と病人ばかりだと悪口を言われましたが、今では、みんな幸せになって、長生きをし、はつらつと活躍されています。本当に不思議です」と。その通りの事実の証明が、いずこの地にも眼前にある。
5  真の宗教運動は限りなき理想の前進
 日達上人は、次のように称賛されている。
 「大聖人様の久遠元初くおんがんじょの南無妙法蓮華経以外に、真実の仏法はないのであります。これを世界に流布しているのは、いま学会以外にはないのであります。まさしくこれ、末法の広宣流布の始まりであり、広宣流布のそのまっただ中であると信ずるのでございます」(第六十四回本部幹部会。昭和四十年八月二十八日)と。
 この世界への広布の広がりも、皆さま方が、日本のそれぞれの地域にあって、地道に、また着実に根を張り、活躍してこられたがゆえである。″わが地域の前進″こそが、そのまま″世界への流布″の原動力となる──。ゆえに、皆さま方こそ、最も大切な″根っこ″の存在なのである。
 その意味で、私は県長、県婦人部長の皆さまをはじめ、すべての地域のリーダーの方々に最大の敬意を表したい。
6  さて、大聖人は仏法流布の方軌ほうきについて、「教機時国きょうきじこく抄」に、こう記されている。
 「仏教は必ず国に依つて之を弘むべし」と。
 それぞれの国の国情や習慣などを、よくよく考慮しなければならないとの仰せである。
 日達上人もまた、先の講演のなかで「日本のごとき謗法の国は、ただ折伏をもっておもてとしていかねばならない。他の国々においては、四悉檀ししつだん随方毘尼ずいほうびにの法理にしたがって広めていけばよい」という趣旨のことを述べられている。
 四悉檀とは、四種の法の説き方のことである。一つは、社会の人々の欲する願いにしたがって法を説く「世界悉檀」、二つには相手の機根や個性に応じて説く「為人いにん悉檀」、三つにはむさぼり、いかり、おろかの三毒を自覚させ克服させるための法を説く「対治たいじ悉檀」、四つには、真理をそのままただちに説く「第一義だいいちぎ悉檀」である。
 また「随方毘尼」の毘尼びにとは「戒」のことで、仏法の本義に違背しない限り、各地域の風俗や習慣にしたがい(随方)、また時代の風習にしたがう(随時)べきであるとの戒である。
 仏教は本来、こうした幅広い柔軟な考え方をしている。信心を根本に、その国の良き国民とし、良き市民として、ありのままに伸び伸びと成長し、社会に貢献していくことが、大聖人の仰せにかなった正しき軌道なのである。
 ともあれ世界は広い。いよいよ、これからである。私は今、一年また一年、限りなき希望をいだきながら、また真心の応援を重ねつつ、本格的な「世界の舞台」を開くために、一つ一つ盤石な布石を打っている。私どもの努力は、時がたてばたつほど、壮大な未来図として結晶すると確信している。
7  また日達上人は、言論問題の渦中に開かれた昭和四十五年五月三日の第三十三回本部総会の折、次のように語られた。
 「今日、世間の多くの人々は、日蓮正宗の教義の本質を見極めず、また、創価学会の信心のあり方を曲解し、種々の非難を会長池田先生の一身に浴びせております。
 池田先生がこれらのいわれなき非難にひたすら耐えておる姿を見る時、私は仏道修行のためとはいいながら、実に気の毒でなりません。
 学会の皆さん、一致団結して、この会長を守り、さらにきたるべき十年へ向かって前進し、広宣流布の大願を成ぜんことにご精進願いたいのであります」
 慈悲にあふれたお言葉である。私自身のことはともあれ、現在の学会に対する様々な誹謗ひぼうも、その本質は、あの時代からいささかも変わっていない。そこには、正しい認識もなければ、真の批判もない。ただ、恣意しい的な曲解と偏見、そして悪意と嫉妬しっとがあるのみである。
 新しい運動には、必ず反動が起きるのは歴史の常である。反動が大きいということは、社会にそれだけ強い影響を与えている証左ともいえよう。かつて社会をにぎわした数々の新宗教も、今では、非難・悪口はおろか、話題にすらのぼらなくなっているものも多い。所詮、何の変革の力も持たないものは、相手にもされないものだ。
8  自由の天地を開いたピューリタン
 ところで、キリスト教の歴史にも、幾多の革新と反動の変遷があった。その最も大きなものは、ルターに始まる改革と、その反改革の歴史であろう。
 その影響は、イギリスにも及び、やがて、カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)を折衷せっちゅうした、独自の「イギリス国教会」が成立する。これに対し、新旧いずれからも強い不満と批判が寄せられるが、プロテスタントの立場から、国教会の徹底改革を唱えたのが、「ピューリタン(清教徒)」と呼ばれる人々であった。
 「ピューリタン」という呼称には、異端としての侮蔑ぶべつの意味あいも含まれていたようだが、本来は、国教会を純化(ピューリファイ)するよう求めたところから、呼ばれるようになったという。
 彼らの目には、カトリックも教会の権威主義と世俗化に流れ、またイギリス国教会も中途半端な改革にとどまり、どちらも堕落した宗教の姿としか映らなかった。そこで彼らは、真剣に国教会を糾弾し、批判を繰り返した。これに対し、イギリス王権は、様々な形で圧力・迫害を加え続けた。
9  一六〇八年の夏のことである。あるピューリタンの一団が、信教の自由を求め、故国イギリスを離れた。そして宗教上の寛容を認めているオランダに移住するが、深刻な生活苦にみまわれ、子弟の教育にも苦慮くりょするようになる。
 たまたま、アメリカ植民地の話を耳にした彼らは、新大陸への移住を決意する。そして一六二〇年九月、帆船メイフラワー号に乗って、大西洋を船出した。彼らこそ、ピューリタンとして初めてアメリカに植民地を開いた、かの「ピルグリム・ファーザーズ」であった。
 メイフラワー号に乗ったのは、乗客百二人、乗員四十七人。そのうち、宗教的理想を求めて乗船したのは、四十人足らずであったようだ。
 航海は、困難を極めた。だが、約二カ月後、船は新大陸に到着。しかしそこは、当初、目指していた現在のニューヨーク付近とはほど遠い、北方のニューイングランドであった。
 先日も横須賀沖で痛ましい事故があった。これだけ広宣流布が進めば、そうした中に学会員がおられる場合もあるが、私はいつも仏法者として亡くなられた方々の追善をさせていただいている。
10  ところで、この移民団のリーダーの一人で、当時三十歳であったウィリアム・ブラッドフォードは、このようにつづっている。
 「かくも大海原を押し渡り、幾多の苦難を乗り越え来たるに、出迎える友もなく、波風に打たれし身体をいたわり休める宿もなく、よるべき家も、ましてや町もなく……見渡す限り恐ろしく淋(さび)しき荒野にて、(中略)……夏は去り、万物はすざまじき形相にて立ちはだかりき……」(関元著「アメリカの原像」毎日新聞社)
 見渡す限りの荒野に降り立った彼らは、冬を迎える。一団は、厳寒と病気に苦しんだ。そして春までに半数以上が死亡し、生き残ったのは、わずか五十人ほどであった。
 だが、ピューリタンは屈しなかった。いかなる厳しい環境にあっても、胸中には、イギリスで達成できなかった理想社会建設への情熱が、赤々と燃えさかっていた。彼らは、ひたすら働き、努力を重ね、苦境を乗り越えた。そして、アメリカ建設の祖として、歴史にその名をとどめるのである。
11  自由の天地アメリカに、我が理想の都を建設したい──ピューリタンは、この確固たる信念に生涯をかけ、命をも惜しまなかった。教義の高低浅深はともあれ、彼らなりの「精神の戦い」は、今なお確かな足跡を残しているといえよう。
 とくに、自治の市民政体を組織し、法の制定と遵守じゅんしゅを約す「メイフラワー誓約書」は、民主的な契約社会のモデルを示し、その後のアメリカ社会の建設に少なからぬ影響を及ぼしていく。
 また、ピューリタンが一六三六年に創立したアメリカ最古の大学ハーバード大学は、アメリカの「知性の府」として著名だが、これも彼らが残した尊い遺産の一つといえよう。
12  ピューリタンはプロテスタントを奉じて、後世に輝く″精神の遺産″を残した。宗教は、いわば、高貴なる″精神の戦い″である。崇高な精神なくして、宗教はないし、信仰もない。本来、宗教とは、名声とか富とか、現世の一時の利益とは、根本的に次元の異なるものである。
 ましてや、最極の大法である妙法を信じ、行じている私どもである。そのたゆみない「精神の闘争」は、五百年後、千年後に、壮大なる結実をもたらし、人類の最高の精神遺産として、尊ばれ、称賛されていくことは間違いないと、私は確信する。
13  忍難弘通を貫かれた大聖人
 さて、先日、神奈川の支部長会でお話しした通り、像法時代の天台にも、嵐のごとき「難」があった。しかし、それは、いうまでもなく、末法の御本仏たる大聖人の「大難」に比べれば、まったく問題にならないものであった。
 これについて大聖人は「竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を並べがたし」──竜樹・天親・天台・伝教が難にあったといっても、私(大聖人)にはかたを並ぶべくもない──と仰せになっている。
 大聖人の受けられた大難に、「伊豆流罪」と「佐渡流罪」に二度の流罪があったことは、皆さまもよくご存じの通りである。
 釈尊の滅後末法において法華経弘通の行者に三類の強敵が競い起こることを説いたのは「法華経勧持品かんじほんの二十行の」である。その中に「数数見擯出さくさくけんひんずい」との文がある。擯出とは、所を追われるとの意味であり、「数数とは度度なり日蓮擯出衆度流罪は二度なり」と仰せである。
 「数数」に当たる二度の流罪にあわれた法華経の行者は、大聖人御一人であられる。ちなみに、伊豆流罪は御年四十歳から四十二歳、佐渡流罪は御年五十歳から五十三歳のことであられた。
 すなわち「刀杖とうじょう(刀で切られ、杖で打たれること)の難」などとともに「伊豆」と「佐渡」への二度の流罪は、まさに法華経勧持品の文を色読しきどく(身で読まれること)されたわけである。それは、まさしく大聖人こそが、末法の御本仏であられることのあかしであった。
14  御書に仰せのごとく、広布の法戦には「苦難」や「嵐」は必定ひつじょうである。
 正法を弘通してゆく学会にあっても、牧口先生は、軍部権力によって獄死という殉教じゅんきょうの道を歩まれている。戸田先生は、四十三歳で、同じく軍部権力による入獄の難があった。そして、牧口先生の後を継いで学会再建に立ち上がられるや、事業の失敗という最大の苦難にあった。それは先生の五十歳のときである。
 また、私の場合も、日本、そして世界へと、法戦を展開するなかで、四十一歳から四十二歳のとき、いわゆる″言論問題″が起こった。さらに、五十歳から五十三歳のときは、私をなきものにせんとの正信会の理不尽な策謀さくぼうがあった。
 こうした学会への相次ぐ迫害の嵐は、御書に照らして、私どもの広布の活動が正しかったことの何よりの証左であり、これ以上の信心のほまれはない。
15  ところで、大聖人を二度ばかりか、三度流罪にしようとの動きさえあったようである。しかし、大聖人は、悠然ゆうぜんたる大境界であられた。ここで、その御心境にふれられた「檀越某だんのつぼう御返事」を拝したい。
 この御書は、差し上げられた方のあて名が記されていない。そのため「檀越某」、つまり檀越とは檀那だんなのことで、檀那の″ある人″への返事という意味から、このように呼ばれている。ただ、四条金吾へのお手紙ではないかと推測されている。御執筆は弘安元年(一二七八年)の四月と推定され、大聖人の御年五十七歳のこととなる。
 この年、身延におられた大聖人は、ずつと下痢げりで体調をくずしておられた。そうしたなか、ある人から「三度流罪か」という、風評があることが報告された。それに対して、大聖人は、まず次のように仰せである。
 「日蓮流罪して先先にわざわいども重て候に又なにと申す事か候べきとは・をもへども人のそんぜんとし候には不可思議の事の候へば・さが候はんずらむ」と。
 つまり──幕府はこれまで二度にわたって日蓮を流罪し、そのむくいで、種々の災難が重なっており、もういいかげんりているだろう。したがって世間でいわれているような、″また私(大聖人)を流罪する″ということはないだろうと思われる。しかし、人は、ひとたび運が尽きて滅んでいくような場合には、常識では考えられないようなことを、平気でしでかすものであるから、そうした流罪のようなことがないとも限るまい──と。
 このように大聖人は、世間の風評を、悠然と、また冷静に分析しておられる。これは広布の指導者である私どもが、よくよく拝していかねばならない重要な点である。
 この御文でも仰せのごとく、少しでも理性をもって先例を見てみれば、正法に敵対することがいかに罪が深く、必ずその報いをうけていくかは一目瞭然りょうぜんのはずである。それでも、″懲りず″に迫害してくるようであれば、もはや自滅の坂を一気にころげ落ちていくばかりである。これが、厳しき仏法の因果である。
16  それはそれとして、さらに大聖人は次のように仰せである。
 「もしその義候わば用いて候はんには百千万億倍のさいわいなり、今度ぞ三度になり候、法華経も・よも日蓮をば・ゆるき行者とはをぼせじ、釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御利生・今度みはて見果候はん、あわれ・あわれ・さる事の候へかし
 ──もし流罪があれば、(私の主張を)なまじ用いてもらうより百千万億倍も幸福である。今度で三度の流罪となる。法華経も、よもや日蓮を怠慢たいまんな行者とは思われないであろう。釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の諸菩薩の御加護を、今度こそ見極めたいものである。ぜひとも大難が起こることを願っている──と。
 そして「雪山童子の跡ををひ不軽菩薩の身になり候はん、いたづらに・やくびやう疫病にや・をかされ候はんずらむ、をいじに老死にや死に候はんずらむあらあさましあさまし、願くは法華経のゆへに国主にあだまれて今度・生死をはなれ候わばや
 ──雪山童子の跡を継ぎ、不軽菩薩のような身になりたいと思う。いたずら生き永らえても、疫病えきびょうにかかって倒れるか、むなしく年老いて死んでしまうかである。それではあまりにも残念である。願わくは法華経のために国主に憎まれて、今度こそ生死のばくを離れたいものである──。
 二度にわたる流罪──それが、どれほど苛烈かれつなものであったか。
 後に御年六十歳の折、大聖人御自身、次のように述懐されている。
 「日日の論義・月月の難・両度の流罪に身つかれ心いたみ候いし」──日々の論義・折伏、月々にうけた難、さらに伊豆・佐渡の二度の流罪で、身も疲れ心もいたみました──と。
 しかし大聖人は、それに追い打ちをかけるような三度目の流罪さえ、″さあ、こい!″とばかりに受けて立たれる御心であられた。いな、″むしろ望むところである″と、莞爾かんじとして待ち構えてさえおられた。
 大難にあえばあうほど、いやまして赫々かっかくたる大生命力を発揮し、烈々れつれつたる大闘争心を燃えあがらせていく──これこそ、大聖人の大境界であられる。私どもはこの大聖人が御自ら示し残された信仰の骨髄をどこまでも拝していかねばならない。
 いかにすべてが整っていても、「心」が惰弱だじゃくであり、意気地いくじがなければ偉大な仕事は成しえない。いわんや絶対の幸福境涯も確立などできるはずもない。
 苦難の時こそ、どれだけ強じんな「一念」「一心」を発揮して仏道修行を貫き通すか。信心の要諦ようていは、ここにある。
17  皆さま方は大聖人門下として、妙法流布に生きゆく使命を自ら願ってきた、広布の指導者である。広宣の途上に起こりくる難や「わずらわしさ」を決して避けてはならない。
 それらと戦っていくところに仏道修行があり、宿命転換の道がある。そして、一つまた一つと苦難の坂を勇んで越えていってこそ、広布の前途は洋々と開ける。反対に、要領のよい、口先ばかりの人は、結局、自分が苦しむことになる。
 いずれにしても、決定けつじょうした一念の人は、「魔」の働きが強くおこればおこるほど、広布への戦いの勢いをいや増し、生命力も強く″元気″になる。これこそ、信心の痛快つうかいな「醍醐味だいごみ」であり、その強じんな一念に生命の最高峰がある。
18  生活に勝ち人生に勝つ信心を
 私どもがこれまで何度となく拝してきた有名な「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」の御文は、この「檀越某御返事」の一節である。すなわち、先ほどの御文のあとに、「各各の御身の事は此れより申しはからうべし、さで・をはするこそ法華経を十二時に行ぜさせ給うにては候らめ」──あなた方お一人お一人の身の上のことは私(大聖人)から(諸天に守護を)申し上げましょう。(だからあなたが)そのまま(出仕されて=出勤して)おられることこそ、法華経を昼夜に修行されていることになるのである──と。
 そして、「みやづか仕官いを法華経とをぼしめせ、「一切世間の治生産業は皆実相と相違背いはいせず」とは此れなり」──宮仕え(仕官、主君への奉公)を法華経の修行と思いなさい。(天台が「法華玄義」で法華経法師功徳品第十九の文を釈して)「政治、経済、産業など社会の一切のいとなみはすべて実相(妙法)と違背しない」と説かれているのは、このことである──と仰せになっている。
 くわしい事情は明らかではないが、この御返事をいただいた人は″現在の宮仕え(仕事)をやめたい。そして出家したい″との考えを、大聖人にご報告、ご相談申し上げたのかもしれない。
 この″檀越某″を四条金吾であるとすれば、金吾は一時、入道して遁世とんせい(世間からのがれ去り、かかわりを絶つこと)したいとの考えをもったことがあり、この一節はそのことへの御指導とも拝される。
 ちなみに金吾は、主君の仕打ちに憤慨ふんがいして宮仕えをやめたいと、大聖人に御指導を仰いだことがあった。それに対して大聖人は建治二年七月の「四条金吾釈迦仏供養事」(御書1144㌻)で主君の恩を忘れてはいけないと、金吾の考えのあやまりをさとしておられる。そして、現実逃避とうひから出家しても、かえって悪縁にあって悪業をつくってしまうことになると、軽はずみな考えをいましめられ、今はまだ出家してはいけない、と御指導されている。
 いずれにせよ、この″檀越某″といわれる人は職場でさまざまな圧迫の渦中かちゅうにあったのであろう。そのうえ師匠である大聖人は、これまで大難の連続であられたのに、今度は三度目の流罪にあわれるかもしれないという──。こうした状況に″つくづく世の中にうんざりした″との心境であったとも思われる。
 しかし、大聖人はくじけそうになる心を温かく包容されつつも、″信心は逃げてはいけない。現実の生活の中にこそ仏法がある″と、厳として御指南されている。
 ″ドロ沼″のごとき、現実社会の真っただ中で苦難に取り組んでこそ、本物といえる。「信心即生活」「仏法即社会」の実証も示していくことができる。
 ましてや現在の多少の苦難や「わずらわしさ」など大聖人当時から見れば、比較にならないほど、小さなものである。各地のリーダーである皆さま方は、広布の本格的な時の到来を確信して、今いる自分の現実の中で、さらに道を開いていただきたいのである。
19  日達上人は昭和三十五年五月三日、私が第三代会長に就任した第二十二回本部総会(東京・日大講堂)の折に次のように講演されている。
 「今日、学会の発展にともなって、ますます諸難がくるのでありまして、この諸難を打ち破っていかなければならないのが学会の使命であります。いな、学会は向こうからくる諸難を待っておるのではなく、むしろこちらから諸難をつくっていって、その諸難を打破していかなければならないのであります。
 大聖人様は『いえば諸難重なりきたる、いわなければ地獄の責めをいかんせん、いまの諸難は今生の小苦であるからなげかしからず、後生には大楽をうべければ大いによろこばし』とおおせあって、一難あるごとに、さらに折伏をすすめていったのでございます。いまの学会こそ、そのあとをつぐ人々であります。(中略)会長はその指標にたつところの人でありますから、私は会長のこの使命を期待して待っておるのでございます」
 日達上人は、学会はむしろ難をつくっていく気概で進んでいくべきであると述べられている。
 牧口先生の生涯は、まさに、この日達上人の仰せの通りの尊い弘教の一生であられた。戸田先生は「命を捨てようとした者に、なんで他の悪口や難が恐ろしいものであろうか」と、常々言われていた。これが師弟を貫く峻厳しゅんげんなる精神であり、広布への気概である。
 私は、大聖人の御聖訓のままに前進してきたつもりである。また日達上人の御言葉通りに指揮をとってきたつもりである。そして、恩師戸田先生の指導通り、道を開いてきたつもりである。ゆえに、いささかの悔いもない。ともあれ、広宣流布は御仏智である。大聖人はすべて御照覧であられると確信している。
20  戸田先生はある時、学会の将来を見通して次のように言われた。
 「政治の権力、宗教の権力の谷間に学会はある。これらが腐敗すると、両者から利用され、圧迫され、奴隷どれいのごとく使われる恐れがあるから、重々注意しなさい。信心の団結で代々の会長を守りながら前進していくように」と。
 ご存じのように宗門では御法主上人に反逆した正信会の悪侶あくりょらが出た。そして権威をカサに着て理不尽にも純粋な仏子をいじめ抜いた。
 また一方では、政治の権力にいしれて信心をなくした人間が、庶民を軽蔑けいべつして自らの野心を満足させるために利用するだけ利用する。それが出来なくなると逆恨さかうらみして、自らの立場を使い、ありもしないことを批判し始めるのも、皆さまがご存じの通りである。
 まさに、戸田先生が見抜かれた通りになった。前には宗教的権威をカサに着た悪侶、後ろには野心をもった政治家──こうした存在を見るにつけ、戸田先生の遺言のごとき指導の正鵠せいこくさとするどさを心から実感する昨今である。
 そのうえで戸田先生はこう結論された。
 「しかし、南無妙法蓮華経という宇宙の根本法にかなうものは何もない。強盛な信心にかなうものはないのである」と。私どもには絶対不壊ふえの「妙法」がある。何ものにも崩されることのない「信心」がある。何があっても信心の団結で、代々の会長を中心に晴れ晴れと進んでいけばよいのである。
 最後に、大切な、大切な皆さま方の「健康」と「長寿」「活躍」を心からお祈りして、本日のスピーチを結ばせていただく。

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