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日蓮大聖人・池田大作

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「7・3」記念各部合同総会 暖かな、豊かな心の人間世界を

1988.6.26 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

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1  麗しき広宣流布の和合体
 本日は、広布の若きリーダーが集っての各部合同の記念総会、心から祝福申し上げたい。ただ今も素晴らしいピアノ演奏を聴かせていただいた。学会には、各地に「文化会館」「平和会館」という名称の会館がある。会館は広宣流布の拠点であり、仏法を基調とした平和と文化の運動の場でもある。こうしたピアノの演奏をみんなで楽しむのも、その一つの表れといってよいかもしれない。
 いてくださった方の姿もきょうは一段と輝いて、演奏も、格調高い名曲と、皆に分かりやすい学会歌との組み合わせという″気くばり″をしていただいた。
 気くばりといえ、きょうは女子大学会の方々が幹事の浅野さん(全国副婦人部長)はじめ、六年ぶりの総会に集ってこられている。久方ぶりの出会いにも「いつまでもお若いわね」と声をかければ、さわやかである。それを「あなた、けたわね」とか、「顔色が悪いけれど、勤行しているの」などというのでは人情の機微きびもあったものではない。
 また、中野兄弟会の方々の場合も、遠来の友を見つけて「おっ、お前来たのか」ではなく、「遠くから来て偉いなあ、感激したよ」といえば随分違ってくる。
 かつて″気くばり″の大切さを述べた本が大きな話題を呼んだことがあった。人間関係の潤滑油じゅんかつゆともいうべき、人情の機微きびを踏まえた″気くばり″はやはり大切であろう。
 組織の上下関係のみからの傲慢ごうまんな振る舞いや純真な会員を苦しめる言動は絶対にあってはならない。
 もちろん信心の指導はどこまでも厳格でなければならない。その他の次元においては相手の心を温かく包み込む言葉づかい、気くばりを心がけていくべきである。
 そして誰が見てもうるわしい同志愛と家族的な安らぎのある世界をつくっていきたいものである。
 また、リーダーの皆さまには特に、陰で一生懸命に働いている後輩を大事にしてあげていただきたいことも、あわせて申し上げておきたい。
2  建治元年(一二七五年)の七月、日蓮大聖人は南条時光に次のような御手紙を送られている。
 「いつもの御事に候へばをどろかれず・めづらしからぬやうにうちをぼへて候は・ぼむぶ凡夫の心なり
 ――(あなた〈時光〉が御供養を届けられるのは)いつものことなので、驚きもせず珍しいことでもないように思ってしまうのは、凡夫の心のなせるわざである――と。
 そして「せけん世間そうそう忽忽なる上ををみや大宮つくられ造営させ給へば・百姓と申し我が内の者と申し・けかち飢渇と申し・ものつく物作りと申し・いくそ許多ばくいとまなく御わたりにて候らむに
 ――世間はあわただしいうえに、大宮(富士宮の浅間神社のこと)が造営ぞうえいされるので、農民といい屋敷内の者といい、また食物の欠乏といい農作業といい、どれほどかあなたはひまなく過ごされているであろうに(そうした中でのあまりに尊い志である)――と。
 確かに、人は「いつものこと」にはつい慣れてしまいがちである。周囲の人の誠意と真心の行為に対しても、いつしかそうしてもらうのが″当たり前″であるかのように錯覚さっかくし、感謝の心も忘れてしまう。それが「凡夫の心」の常であろう。
 しかし大聖人は、たとえ「いつものこと」であっても、その一回一回に込められた時光の真心を余すことなくみとられている。
 しかも短い御手紙の中で、近づく蒙古襲来への脅威などであわただしさを増していた当時の「社会の情勢」や、浅間神社の造営という「地域の実情」、さらに食物の欠乏に悩む「庶民の暮らし向き」――こうした諸条件を的確に把握されながら、その困難な状況の中での時光の健気けなげな信心を、すべて御照覧されている。
 さらに大聖人は、この時光の清らかな信心の発露はつろに対して、「十方の衆生の眼を開く功徳にて候べし」――十方世界(全宇宙)の衆生の眼を開く功徳となることでしょう――とまで御称賛くださっている。
 真心と真心で結ばれた、深い「信頼」と「安らぎ」のある世界。これが仏法の世界である。
 大聖人の御心に連なりゆく私どもの広布の活動にあっても、幹部は尊い仏子の「真心」や「労苦」を、いささかでも軽んずる姿勢があってはならない。
 学会は麗しき広宣流布の和合体である。どこまでも、人情の″機微″を知り、友の心の″奥の奥″にまで深く思いをはせながら、つねに最大の「尊敬」と「感謝」の心をもって一人一人と接していってこそ指導者といえる。この点を、とくに若き後継の諸君に強く申し上げておきたい。
3  ″民衆の大学″唱えたロモノーソフ
 さて先日、私は、モスクワ大学の創立者ロモノーソフ(一七一一〜六五年)について、簡単に紹介した。本日は、ある方からうかがった、同大学創立にまつわる一つの史実を語っておきたい。「歴史の真実」とは何か。そのことを諸君が考える上で、何らかの参考にしていただきたいからである。
 モスクワ大学(正式名称「M・V・ロモノーソフ記念国立モスクワ大学」)は、一七五五年四月、ささやかな木造家屋を校舎に開学した。
 しかし創立者のロモノーソフは、この開学式に招待もされなかった。そればかりか、彼は自らが心血を注いで創立したモスクワ大学に、ついに、ただの一度も足を踏み入れることさえできなかった。同大を構想したのも、また、その開学のために、誰よりも心をくだき、働き、奔走ほんそうしたのも、いうまでもなく、このロモノーソフその人であったにもかかわらずである。
 当時と事情は異なるにせよ、現在でも欧米等では、確固たる理想に基づき大学を創立したという事実は、政治上の要職など以上に高く評価され、尊敬されている。そうしたなかにあって、なぜ彼は自分のつくった大学を訪れることさえできなかったのか。ここに問題がある。
 それは、このロモノーソフの功労を黙殺もくさつし、闇にほうむって、代わりに自分たちが、創立者のごとく振る舞い、思うままに大学に君臨しようとした勢力があったからである。
4  そこには、権威を後ろだてにした陰湿な策謀があった。
 というのも、当時の帝政ロシアにあって、「民衆に開かれた大学」を創立したいというロモノーソフの構想は、並大ていのことで実現するはずがなかった。そこで彼は、元老院げんろういんから大学設立の認可を得るために、当時のエリザベータ女帝の寵臣ちょうしんで、有力者であったシュバーロフに援助を依頼した。
 高官シュバーロフは、モスクワ大学設立にかかわることは、宮廷の中での自分の地位向上に役立つと判断した。″教育の擁護ようご者″を気取っていた彼は、同大学設立を積極的に提唱することによって、労なく自分の権威を高めようと計算したのである。ここに彼がロモノーソフの依頼に応じた理由があった。
 世間の多くは、自身の利害と打算によって動いている。経済的に、また立場上、得になるかどうか。名誉になるかどうか。美名の裏の心は、余りにもいやしく、勘定かんじょう高い場合が多い。
 こうした社会の常識からみる時、信仰の世界は、おそらく想像もできないほど、純粋で無私であり、真心と献身の世界である。ゆえに周囲の人々からは理解されがたい世界であるように見えるかもしれない。純粋なるがゆえに利用されたり、圧迫されたり、侮辱ぶじょくされる場合もある。残念であるけれども、これが現実である。しかし私どもは、尊き清らかな信仰の世界を、絶対に守っていかねばならない。
5  このシュバーロフは、その後、ロモノーソフの構想に、次々と介入してくる。応援してやっている以上、自分の言うことをきけというのである。ロモノーソフは、教育に無理解の、この高官と戦わざるを得なかった。
 しかし、高官の援助なしには、大学は創立できない。やむを得ず、ロモノーソフは妥協すべきは、甘んじて妥協した。
 その一つとして、彼は、大学の運営にしても、学生たちの声を重んじ、直接、学生に触れる人々によってなされるべきであると考えていた。だが、これは、ひとまず、あきらめざるを得なかった。
 ただロモノーソフは、モスクワ大学を未来永遠に発展させていくために、どうしても必要な根本の理想だけは、絶対にゆずらなかった。
 たとえば彼は、社会のあらゆる階層から自由に入学できるようにしたかった。たとえ農奴のうどの子弟であっても平等に学べる大学――。これが自らも貧しい半農半漁の家に生まれ、教育をうけるために苦闘したロモノーソフの夢であった。
 彼は、この一点は妥協できなかった。貴族や富豪のためだけの学舎まなびやでは意味がない。彼は厳しいギリギリの交渉こうしょうを何度もくり返した。そして、条件つきながら、この原則を、とうとう認めさせている。
 社会は、現実との不断の戦いである。大目的を実現するためには、一歩、退かざるを得ないことも、当然あろう。しかし根本の原理原則に関しては、絶対に妥協してはならない。何を建設するにせよ、それでは、土台自体にヒビを入れることになる。時とともに、その過ちは、とりかえしのつかぬ結果をもたらす。
 私どもの立場でいえば、根本の信心については、絶対に妥協はない。謗法ほうぼうに対しては、一片の妥協もあってはならない。私も、そのために、いかなる圧迫があろうとも、この信念を貫いてきたつもりである。
6  ロモノーソフの、こうした労苦につぐ労苦が、やっと実を結んで、モスクワ大学は、ついに開学した。
 しかし、晴れやかな開学式の式典で、創立者として、その労をたたえられたのは、エリザベータ女帝であり、ひときわ強調されたのはシュバーロフの功労であった。ロモノーソフの名は、ただの一言も語られなかった。
 シュバーロフが、嫉妬しっと名聞みょうもんのために、ロモノーソフの栄誉を横どりした結果である。まことに人の心は恐ろしいといわざるを得ない。ロモノーソフは開学式当時、圧力のため、モスクワ市内にいることさえもできなかったという。
 大学設立に関する当時の公式文書にも、ロモノーソフの名はまったく現れない。こうした表面のみを見れば、うっかりすると、これが真実の歴史であるかのごとく錯覚さっかくしてしまうかもしれない。
 現在、伝わる社会の「公式の歴史」にも、同じような虚偽きょぎと誤りが数多くあろう。それらの奥に真実を見きわめ、発掘し、正していく、鋭き″史眼″と確固たる″史観″を、若き諸君は磨いていただきたい。
7  「創立の精神」こそ大発展の礎
 ロモノーソフは、こうした下劣げれつな仕打ちにも、じっとえ、研究と教育の活動に打ちこんでいった。もとより彼は、私利私欲や名声のために、この教育事業に身をささげたのではない。ただ未来に活躍する青年たちのためであった。
 ゆえに、この後も、陰ながらモスクワ大学のために、懸命に尽力していった。彼としては、それで本望ほんもうであったと私は思う。目指す「目的」と「使命」が明確であれば、人の評価がどうあれ、迷うことはない。毀誉褒貶きよほうへんなど、小さなことであるからだ。
 ロモノーソフの目的は、ロシアを担う「青年」の輩出にあった。私もまた「青年」の育成こそが最大の念願である。
 人を育てる――。私の心には、もはや、それ以外に何もない。学会は、世界の民衆の幸福と平和を担う、かけがえのない人類の希望である。この重大な使命を立派に後継し、未来に限りなく広げてくれる一流の人物を育てたい。広宣流布の本物の闘士をつくり上げたい。ただ、それのみを願い、祈って、私は矢面やおもてに立ち、諸君を守り、尊き広布の世界を守ってきた。
 諸君の成長のためには、どんな苦労も辛酸しんさんもいとわない。これが私のいつわらざる心情であり、また後世に示しきっておきたい信念の生き様である。
8  高官のこうした謀略ぼうりゃくにもかかわらず、真実をおおいかくすことはできなかった。
 モスクワ大学にこころざしを立てて集った青年学徒たちは、みな、「真の創立者」がロモノーソフであることを、よく知っていた。また、それを誇りにしていた。そして、このロモノーソフの創立の理想を、確かに受け継ぐことこそが、愛するモスクワ大学を永遠たらしめる道であると確信していたにちがいない。
 事実、同大学で一番最初に発刊した書籍は、ロモノーソフを大きく顕彰けんしょうするものであった。こうしてモスクワ大学は、″創立者ロモノーソフ″への深い感謝を表し、その名を歴史にとどめたのである。
 二百年後の今もなお、モスクワ大学では、彼の創立の精神を脈々と語り継いでいる。私も初のソ連訪問(一九七四年)の折、創価大学の創立者として、ロモノーソフのブロンズの胸像を贈っていただいた。今も創大に大切に保管してある。
 モスクワ大学においても、真実はやはり青年が鋭く見ぬいていた。正しい歴史を残したのも青年であった。
 諸君も、この尊き学会の「真実の歴史」を、正しく後世に伝え、広く語り、また証明していける一人一人であっていただきたい。本日は、未来の指導者と育つべき諸君の集いであるゆえに、あえて、このことを言っておきたい。
9  自身の歴史たる「恩の大地」忘るな
 ところで、御書に「いねは華果成就すれども必ず米の精・大地にをさまる、故にひつぢ再苗ひいでて二度華果成就するなり」――稲は花を咲かせをならせても、米の精は必ず大地にかえる。ゆえに、再び芽が出てまた花やを結ぶことができる――と仰せである。
 これは、仏法の深き師弟に関する御文であるが、私どもの人生に敷衍して、少々、申し上げておきたい。
 草木は「大地」がなくては生長することはできない。と同じく、私どもの人生にも、それぞれ自分をはぐくんでくれた「大地」の存在がある。それは父母であったり、師匠や先輩である場合もある。また故郷や母校、社会、職場という場合もある。いずれにしても、だれにも自分が育ったところ、また育ててくれたものがある。
 人は、その「大地」の恩恵をうけて大いに成長し、活躍をして人生の花を咲かせる。そして、米の精が大地にかえり、再び花や実を結ぶように、今度は、自分を育んでくれた「大地」の恩にむくいていく――この循環こそが、私どもの人生であろう。
 自分さえ成長し、良くなればよい、それを支えてくれた親や師といった「大地」のことは一切、関係ないというのでは、真の人間性の開花と結実はないにちがいない。
10  先日、ブラジル移民八十周年を祝賀する記念式典が、サンパウロで開催された。それに出場した、私どもの同志であるNSB(ブラジル日蓮正宗)のメンバー一万人による人文字は、まことに圧巻であったようだ。サルネイ大統領はじめ多くの来賓も感嘆、絶賛しておられたという。
 日本人にとってブラジルは恩ある国である。ブラジルという大地の恩恵によって、移住者をはじめNSBのメンバーの今日がある。少しでも、その恩返しができればとの思いで、NSBの代表が出場されたわけである。意義ある記念式典を見事に飾ることができ、私は本当にうれしく思った。
 人それぞれに、決して失ってはならない、大事な「恩の大地」がある。また、自身の歴史ともいえる「恩の大地」を知り、持っている人は幸せである。
 私は創価学会に最大の恩がある。戸田先生のもとに、はせ参じて共に戦い、ここまでにしていただいた。その大恩は決して忘れることはできない。生涯、いな永遠に学会に尽くしていきたい。それが私の、不動の精神であり、人生の道と思っている。
11  戸田先生はよく青年部に、一流の指導者となるための勉強をするように言われていた。そのために、機会あるごとに、さまざまなことを教えてくださった。戸田先生を囲んでの「水滸すいこ会」や「華陽かよう会」もそうであった。当時の青年部は古今東西の名著などを読みあいながら、真剣に研さんしあったものである。
 これからを担う青年部の諸君も、しっかり勉強してもらいたい。とりわけ人間の骨格を築き、人生の本筋をつくるための勉強をお願いしたい。今は、私もこうした会合でなるべく多くのことを語り、少しでも諸君の研さんのかてになればと思っている。
12  正しき″人生の道″教える母の使命
 戸田先生は実に偉大な指導者であった。現実に即した指導、人生の機微をとらえた指導は、天才的ともいえるものであった。また、たぐいまれな教育者であられた。
 その戸田先生が、あるときロシアの作家ゴーゴリの小説「隊長ブーリバ」を通して、次のようにいわれていた。
 「母親は、ガミガミ、年中しかってよい。父親は黙っていても、こわいのであるから、友だちのようになってやることだ。決して叱ってはいけない。叱ったら不良になる。そして、世界、社会に貢献させることを目標において、わが子を愛していきなさい」と。
13  家庭での子供の育て方は、簡単なようで難しい。父親も、母親も、どうしてよいか手さぐり状態かもしれない。あるいは自分たちの感情にまかせての子育てになっていることも多いであろう。
 その点、戸田先生は、親の本質をズバリとらえて、実に簡潔かんけつ明瞭めいりょうに教えてくださった。
 母親は、愛情をもって、人間の生き方をしっかり教えていく必要がある。そのためには厳しく、子供を叱ってもよい。そういわれるまでもなく、叱ることが習性ともなっているのが、世の″お母さま方″のようでもある。
 しかし、なかには、かわいい我が子だ、何でも言うことを聞いてやりたいと、あたかも自分の宝物のように思うあまり、盲愛し、甘やかして育てた母親もいる。
 一方、子供の世話は母親まかせ、という父親も圧倒的に多い。しかし、一から十まで、細かいことを、あれこれと叱ったり、注意する父親では、子供はたまらない。
 私が知っているだけでも、大人になって社会でうまく対応していけなかったり、いろいろな問題を起こす人は、子供の時代に、戸田先生の指導とはまったく逆の育て方をされた場合が多い。この点も、これから子育てに入っていく青年部の諸君の、何らかの示唆しさともなればと思う。
14  人生を飾れ、幸の栄冠で
 最後に、四条金吾に与えられた御抄の一節を拝読しておきたい。
 「だいがくどのゑもんのたいうどの大学殿衛門大夫殿の事どもは申すままにて候あいだ・いのり叶いたるやうに・みえて候
 ――門下の大学三郎殿や池上宗仲殿のことは、私(大聖人)のいった通りにされたから、祈りが叶ったようである――。
 「はきり波木井どの殿の事は法門の御信用あるやうに候へども此の訴訟は申すままには御用いなかりしかば・いかんがと存じて候いしほどに・さりとては・と申して候いしゆへにや候けん・すこし・しるし候か、これに・をもうほど・なかりしゆへに又をもうほどなし
 ――それに対し、波木井実長はりきさねなが殿は、法門のことについては御信用なさっているようだが、この訴訟そしょうの件に関しては、私のいう通りにはお用いにならなかった。したがって、どうなるかと思っていたところ、″それでは訴訟に勝てない″と注意しておいたからであろうか、多少の効果はあったようである。だが、こちら(大聖人)が思うほどには、(実長は)いうことを聞き入れなかったので、訴訟の結果も思うほどではなかった――。
 大学三郎とは、幕府の儒官(じゅかん)であった比企ひき大学三郎能本よしもとのことである。池上宗仲は、かの池上兄弟の兄である。いずれも、大聖人門下として純真な信心に励んでいたが、裁判がらみの問題を抱えていたこともあったのだろう。ドロ沼のごとき現実社会を生きていく以上、大なり小なり、こうした局面を避けられない場合もある。
 しかし、大学三郎や池上宗仲は、大聖人の仰せを素直に拝し、御指導通りに実践した。そして、願い通りに問題を解決することができた。
 一方、同じ門下の波木井実長も、訴訟問題を抱えていた。しかし、″仏法のことはともかく、世間のことは自分の方がよく知っている″ぐらいの気持ちであったのか、大聖人の仰せ通りには行動しなかった。実長の訴訟は、思うように事が進まなかった。
 大聖人は、仏法即一切法を通達つうだつ解了げりょうされた御本仏であられる。大聖人の御指南を守り、そのままに実践していくならば、必ずや無量無辺の福徳の人生を送ることができる。逆に、御本仏の御指導をいいかげんに受け止め、まじめに守らない人に、妙法の真実の功徳は現れない。仏法の因果は峻厳しゅんげんであり、その結果は、歴然としてしまう。
 実長は、大聖人御入滅後、日興上人に師敵対し、正法の清流にそむいた。そのいやしき心根は、大聖人御在世中にも、すでに、こうした増上慢の姿として現れていた。大聖人は実長の慢心はもちろん、その後の退転の姿まで、すべてを見通しておられたのかもしれない。そのうえでの、金吾へのいましめの御文であると拝される。
15  正しき信心の指導を真剣に受け止め、まじめに実践した人は、見事な勝利の実証を示し、歓喜の人生を満喫まんきつしている。反対に、信心指導を小バカにし、また同志の真心の注意を聞き流してきた人は、いつしか正しき信心の軌道をはずれ、あわれな退転の道を歩いている。これは皆さまも、ご存じの通りである。
 正しき信心指導は、一人一人が人生を開きゆくうえで、まことに重要な意義をもっている。その意味からも、会員の悩みに真摯しんしに耳を傾け、激励を続けておられる、各地の相談室の方々、また各部のリーダーの皆さまに、私は心から敬意を表し、感謝申し上げたい。
16  続けて大聖人は、こう仰せである。
 「だんな檀那と師とをもひあわぬいのりは水の上に火をくがごとし、又だんなと師とをもひあひて候へども大法を小法をもつて・をかしてとしひさしき人人の御いのりは叶い候はぬ上、我が身も・だんなも・ほろび候なり
 ――檀那だんなと師匠とが心を同じくしない祈りは、水の上に火をたくようなもので、叶うわけがない。また、檀那と師匠とが心を同じくした祈りであっても、長い間、小法によって大法を犯している人々の祈りは叶わないばかりか、我が身(師匠)も檀那も、ともに滅びるのである――と。
 正法正義を根本とした師弟一体の祈りが、どれほど強く、深いものか。それは、三世に崩れざる「永遠の栄冠」として結実しゆく源泉である。これにまさるものは、絶対にない。それに対し、″大法(正義)を、小法(邪義)でもって犯し″破ろうとする「悪の師弟」が、いつの時代にも登場する。そうしたコンビに限って、清らかな姿を装い、団結を誇示こじしながら、正しき勢力を攻撃しようとするものだ。
 だが、歯牙しがにもかける必要はない。大聖人が断言されているごとく、悪の祈りが成就じょうじゅするわけがないし、最後は滅び去ることは明々白々だからである。私どもは、悠々と幸福の直道じきどうを勇んで進んでいけばよいのである。
 ともあれ、若き諸君に未来の一切を託すとともに、諸君の一層の健康と、楽しく朗らかな躍動の人生、また妙法のリーダーとしての大成を心から念願して、本日のスピーチとさせていただく。

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