Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第六回本部幹部会 堂々と広宣流布の志高く

1988.6.21 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

前後
2  学会においても同じである。″自分は幹部だから″″高い役職だから″後輩の言うことを聞く必要はない、などというのは本末転倒である。どこまでも「信心」が根本である。組織上の立場をすべての基準とするいき方は、正しき信心の姿勢ではない。
 人間の織りなす世界には、年齢や立場など、さまざまな違いがある。問題は、その違いを生かしながら、絶妙な調和の世界とするか、反対に、複雑で感情的な葛藤かっとうの世界としてしまうか、である。
 その分かれ目は、やはり一人一人の「心」「一念」の姿勢にある。つねに、多くの人々から学び、成長していこうとの、みずみずしい「求道の心」を持っているかどうかにある。
 その意味において私どもは、どこまでも大聖人の仰せのごとく、御本尊を根本に、「法」のため、「広布」のため、共に学び合い、尊重しあい、守り合いながら、真摯しんしに生き抜いていきたい。
3  牧口初代会長が貫く「学は光」の求道の生涯
 さて初代会長・牧口先生は昭和十九年十月、獄中からの最後のハガキの中に「カントノ哲学ヲ精読シテ居ル」と書かれている。
 カント(一七二四〜一八〇四年)といえば、いうまでもなくドイツが生んだ、近代ヨーロッパを代表する大哲学者である。彼の哲学についても、私はいつの日か論じておきたいと思っている。
 それにしても、これは牧口先生が逝去せいきょされる約一カ月前の言葉である。しかも七十三歳というご高齢であった。「学は光」である。牧口先生は、その言葉のままに、最後の最後まで、真摯に学び、思想を深め続けた一生であられた。
4  仏法は観念の遊戯ではない。刻々と変化しゆく生きた現実の中に脈打ち、現実を変革していくべきものである。
 ゆえに、万人の幸福のために、難信難解なんしんなんげの仏法を、どう分かりやすく説けばよいか。時代に応じ、社会の変化に応じて、いかに正しく、また納得のいくように″正法の門″をくぐらせることができるか――。これが指導者に課せられた一つの重大な使命である。
 その意味から、逝去の直前まで、広布のために、真剣に道を求め、思索をこらしておられた牧口先生の透徹した姿勢こそ、私どもの模範であり、その尊き姿が、私の胸には鋭く、また深く映じてきてならない。
 妙法の眼を開けば、所詮″一切の法は皆れ仏法″である。この究極の一点に我が身を置いて、強盛なる信心を根本に、徹して学び、徹して思索しゆくところに、広布への知恵を無限に開いていくことができる。全ての知識を生かす道がある。
 中途半端や、表面的な知識の受け売りでは、民衆をリードする真の力にはならない。社会的にも、現代の、とくに日本には、ヨーロッパ等に比べ、生半可なまはんかな、人マネに過ぎない思想、言論が余りにも多い。そうした脆弱ぜいじゃくな精神風土を変革していくのも、仏法を弘めゆく私どもの一つの重要な使命である。
 ゆえに、学会のリーダーは、誰よりも透徹した求道と思索と、生きた力ある思想の人であってほしい。どこまでも民衆のために、時代の先端を切り開き、豊饒ほうじょうな精神の世界を限りなく開拓していく責任感こそ不可欠である。それが牧口先生、戸田先生が身をもって教えられた指導者の道であった。
5  牧口先生、戸田先生は、偉大なる思想の財産をのこしてくださった。できることなら、もっと多くのものをのこそうと念願されていた心を私は、よく知っている。その心をうけて、私は弟子として、広宣流布のために大いなる思想と哲学を残し、後世への″英知の遺産″を生み出しておく決心である。
 その一つを挙げれば、絶対的な法である妙法を証明しゆく一助として、天台の「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観まかしかん」の法華三大部の研究も、現在、準備を進めている。そうした、たゆみなき努力に、法難のなか、最後の一歩まで、哲学を求め、広布への構想をられた牧口先生の崇高すうこうな「学会精神」の継承があると信ずる。
6  あたたかな″人間尊敬″の喜びを社会へ
 さて、カントには、哲学者として、また人間的に、ある大きな転機があった。それはルソーの思想との出あいである。
 フランスの啓蒙けいもう思想家のルソーについては、先日(四月二十七日)、第一回全国婦人部幹部会の席上でも、少々お話しした。
 カントが、発刊まもないルソーの著作「エミール」を手にしたのは、三十八、九歳のころであったという。彼は、たちまちせられ、むさぼるように読みふけった。カントがルソーを読むために、規則正しいので有名な散歩の日課を中断したエピソードも広く知られている。
 ルソーの思想、なかんずく、そのはつらつたる人間観にカントは目を見はった。
 カントは、このルソーとの出あいによって「私は人間を尊敬することを学ぶ」としるしている。(「『美と崇高の感情に関する考察』覚え書き」理想社刊・カント全集第十六巻所収、尾渡達雄訳)
 すなわち、それまでのカントは、学者として自分自身の知識を増やし、学問を前進させることのみに熱中していた。「知る」ことだけが、人間としての栄光であると信じていた。したがって、無知を軽蔑けいべつし、民衆を見下していた。しかし、ルソーが、そうした自分を正してくれたというのである。真の人間、人生とは、断じてそのような偏狭へんきょうなものではないと――。
 カントの目覚めの本質を端的に言えば、それは知識から知恵へ、単なる真理追求から、人生の価値創造への根本的転回であった。
 ルソーによって、カントは自らの、まやかしの優越感を打ちくだかれた。
 人間の幸福のために役立たない学問、人生に価値を生まない死せる知識を、いくら誇っても、それは幻影のようなものである。まして知識が増えた結果、人間を軽蔑するに至ったとしたら、本末転倒といわざるを得ない。
 カントが目ざめた、「人間」自身への尊敬、そして敬虔けいけんなる愛情――そこに、人類史に輝く哲学の世界を開いた彼の思索の重要な源泉があったと私は見たい。
7  しかし現実には、カントの覚醒かくせいとは反対に、知識によって、いつしか「人間を侮蔑ぶべつすること」を身につけてしまう人々が、あまりにも多い。
 経文にも「人間を軽賎きょうせんする者有らん」とある。私どもの広宣流布の運動は、こうした傲慢ごうまんな人間蔑視べっし、民衆蔑視との戦いでもある。
 有名な御書であるが、大聖人は「不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ(中略)賢きを人と云いはかなきを畜といふ」と仰せである。
 ――(法華経に説かれる)不軽菩薩が、人々を敬い、礼拝らいはいしたというのは、どういうことであろうか、よく考えてごらんなさい。(不軽品は、仏の出世の本懐である法華経の″修行の肝心″であるから、結局)教主釈尊の出世の本懐は、人として振る舞う道を説くことであった。(中略)かしこいものを『人』といい、おろかなものを『畜生』というのである――と。
 人間としての振る舞い、生き方において、賢いものを「人」というと、大聖人は仰せである。人間に生まれただけで真の人間になれるのではない。人間らしく生きる努力が必要である。それなくして、人間を侮蔑ぶべつするような愚かな行動は、「畜生」つまり動物とかわらなくなってしまう。
 法華経には「の経典を受持せん者を見ては、まさって遠く迎うべきこと、当に仏をうやまうが如くすべし」(「妙法華経並開結」六七二㌻)とある。
 妙法受持の者を見れば、遠くから立ってお迎えし、まさに仏を尊敬するのと同じようにしなさいとの釈尊の金言である。
 反対に、受持の者を、いささかでも悪口あっくし、「軽笑きょうしょう」する者は、自身の生命に、はかりしれない罪業を刻むと説かれている。
8  仏法は、「人間の尊厳」を生命という最も根本的な次元から説きつくしている。しかも、いわゆる「観照かんしょう=理性に照らして客観的に見つめるの哲学」に、とどまるものではない。むしろ、現実の人生と生活に生きる実践的な人間学ともいえるかもしれない。
 真実の「人間の尊厳」を自らも事実の上に証明し、他の人にも認め、実現せしめていく。いわば自他ともに最高に「人間を尊敬する」実践が、仏法なのである。その意味で、カントのいう「人間を尊敬することを学ぶ」道は、仏法への序分であり、流通分ともなろう。
 学会は、この仏法の根本精神のままに、徹底して、互いに「人間を尊敬する」世界である。また「人間を尊敬する」生き方を広めている団体である。さらに、そうした実践の中で、本物の「人間」をつくる世界である。
 社会には、さまざまなモノをつくる世界もある。経済的価値や、芸術的価値をつくる世界もある。また戦争を準備するような世界もある。
 そうしたなかにあって、学会は真実の仏法を根底に、一切の基本となる「人間」を立派につくり、鍛え、幸福にしている、かけがえなき世界なのである。正法流布の使命は深く、荘厳であり、他とは根本的に次元が異なっているといえよう。
 ともあれ、人間という高貴なる存在に、どこまでも気高く会釈えしゃくしゆく、心豊かな人生でありたい。そして私どもは、民衆を愚弄ぐろうし、人間の尊厳をおかしていく動きに対しては絶対に反対する。
9  春風の家庭こそ人格陶冶の揺籃
 先日、南条時光の父についてお話をしたが、この父は、時光が数え年七歳のときに病気で亡くなっている。大聖人は、父なき時光のことを次のように思いやられている。
 「いかなれば他人は五六十までも親と同じしらが白髪なる人もあり、我がわかき身に親にはやをくれて教訓をもけ給はらざるらんと・御心のうちはかるこそなみだとまり候はね
 ――世間には五十歳、六十歳と、親子でともに白髪になるまで一緒に生きていかれる人もいる。それなのに″私(時光)は若い身で親に早く別れ、いろいろと教えてもらうこともできなかった″と思われているあなた(時光)のご心中を推し量ると、私(大聖人)は涙を抑えることができない――と。
 まことにありがたい御本仏の御言葉である。この御文の行間から″私をお父さんとも思っていきなさい″との大聖人の慈愛の御心が、私の胸に迫ってならない。
 時光にとって、大聖人はいうまでもなく、仏法の「厳たる師」であられた。とともに限りなく温かな慈父の存在でもあられたにちがいない。
10  以前にも申し上げたことがあるが、時光の父の人柄を大聖人は幾度となくしのばれている。まことに情に厚い、温厚な人格であったようだ。母もまた心やさしく、あたたかな女性であった。
 南条一家のことを、日亨上人は、次のように述べられている。
 「(ご両親をはじめ)穏健な家庭であって、時代の悪風を受けた殺伐さつばつ残酷ざんこくかたむきはない。いたって春風体の(春風のような)あたたかき中に、自然に時光は成人されたであろう。その温和な中に、鎌倉武士通有つうゆう(=共通)な善き気概は包まれてあったのである」と。
 すなわち、春風のようなあたたかい人情に満ち、しかもそれでいて「正義の気概」が凛冽りんれつみなぎっている――そうした家庭に時光少年は成長していった。そのことを日亨上人は鋭く注目されていたと思う。
 後年、時光が「正義」と「慈愛」をかねそなえたリーダーと育ちゆく揺籃ようらんが、ここにあったといってよい。
 子供にとって、家庭は成長のかてともいうべき場である。私も、立場上、さまざまな一家をみてきた。どれほど、両親の姿や家庭の雰囲気が、子供の性格や生き方に深くかかわっていくか。親の信心、家庭の大切さをしみじみと痛感する昨今である。
 ともあれ、時光一家は、幼き日を、父と母の「人格の力」によってはぐくまれ、時代のすさんだ風潮から守られていったにちがいない。
11  大聖人は、御書で末法の時代相を次のように仰せである。
 「常さまには世末になり候へば聖人・賢人も皆かくれ・ただ・ざんじむ讒人ねいじん佞人わざん和讒きよくり曲理の者のみこそ国には充満すべきと見へて候
 ――つねの例では、世が末になれば聖人とか賢人といわれる人は皆かくれてしまう。そして、ただ讒人ざんじん(=真実でないことを、さも真実のようにいいふらす人間)や、佞人ねいじん(=こびへつらう人間)、また和讒わざん(=表面はなごやかだが、陰にまわって人をおとしいれる)の者、曲理きょくり(=道理をよこしまに曲げて我を通す)の者ばかりが、国中に充満するようになる、と経文には書かれている――と。
 悲しいかな、これが末法の世の変わらざる様相である。
 この御文に照らしても、私どもが、人々の「幸福」と「平和」のために広宣流布を進めれば進めるほど、それをさまたげようとする働きが強くなるのは明らかである。反対に障害が現れないのは、そのいわゆる思想、宗教が社会のなかで脈動していない証拠である。
 私どもは、いよいよ正法流布と人間の尊厳という目標を鋭く明確にもちながら、何物をも乗り越えて万年への礎を雄々しく築いておきたい。そして濁った時代とみにくい人間の姿に対し、ある時はつつみ、あるときは見おろして、またあるときは活性を与えながら進んでまいりたい。
12  試練なくして偉大な歴史なし
 さて、文永九年(一二七二年)四月、大聖人は佐渡一谷いちのさわから富木殿にあてた御手紙の追伸の中で、次のように仰せである。
 「大賊に値うて大毒を宝珠に易ゆと思う可きか」――(法華経ゆえに頭をはねられることは)大盗賊とうぞくにあって大きな毒を宝のたまと交換すると思うべきである――と。
 この御文では、信心ゆえに難にあうことが、どれほどありがたいかを教えられている。すなわち、大聖人は、法華経の行者を迫害する人間は大盗賊のごとき悪人である。しかし、その悪人にあい、戦い、信心を貫くことによって、「大毒」つまり自身の生命に積もった悪業あくごうを、仏界の境界という無上の宝珠に転ずることができる、と。
 この御文のごとく、決定けつじょうした信心に徹する人は、悪口あっくも苦難の風も、すべてが成長への追い風となる。そして、苦難の道も、崩れざる幸福への直道となる。
 学会の歴史も、いわば難の連続であった。しかし、それを乗り越えるたびに力をつけ、大きな発展の足跡を刻んできた。これからも、いよいよそうであるにちがいない。
 御書には、″難即安楽″″煩悩即菩提ぼんのうそくぼだい″と、仰せである。その深く、いさぎよい覚悟に立った、すがすがしい人生でありたい。
 少々のことで″ああ、またか″とか″いやだなあ″といつも思う人は、結局、縁に紛動されていることになる。それでは、迷いの曇天を突き破って、生命の歓喜の太陽を仰ぐことはできない。
13  次に、南条時光に与えられた御書を拝したい。大聖人は、次のように仰せになっている。
 「せんするところは・こなんでうどの故南条殿の法華経の御しんよう信用ふかかりし事のあらわるるか、王の心ざしをば臣べ・をやの心ざしをば子の申しのぶるとはこれなり、あわれことの故殿の・うれしと・をぼすらん
 ――(時光殿の素晴らしい信心の姿も)結局は故南条殿(=亡くなった時光の父)の法華経の御信心が深かったことがあらわれたものであろうか。王のこころざししんがのべ、親の志を子が申しのべるとはこのことである。故殿(=時光の父)はどんなにうれしく思っておられるであろう――と。
 親から子へ伝え託しゆく「志」――。古今東西、さまざまな「志」があろう。しかし、「広宣流布」という「末法万年尽未来際まっぽうまんねんじんみらいさい」にわたり、「一閻浮提いちえんぶだい」へととどろきわたる大事業への「志」ほど壮大な、また永遠なるロマンに満ちた志は絶対にない。
 この永遠・悠久ゆうきゅうの「法戦」からみれば、学会もこれからである。
 いずれの時代、いずこの国、またいかなる団体でも、労苦もなく、それなりの難も乗り越えずして、偉大なる歴史の構築を成し遂げたためしはない。それが鉄則である。
14  戸田先生が第二代会長に就任(昭和二十六年)し本格的な出発をしてからわずか三十七年、学会は、いわば最も働き盛りの″青年期″である。今は、さらに多くの経験を積みながら、力をつける時である、と私は申し上げておきたい。
 戸田先生は、よく「御金言に云く『愚人にほめられたるは第一のはぢなり』である。いつも世間から、よく見られたい、ほめられたいなどというのは、卑屈な心であり、私は最も憎む。真の指導者は、そうであってはならない」といわれていた。
 どうか、とくに若き青年部の諸君は、ここから何らかの示唆をくみとってもらいたい。
15  ところで、身延方面の地頭・波木井実長はきりさねながが、日興上人に師敵対し、数々の謗法を犯したことは、これまでも何度か、お話しした通りである。その一族のなかにあって、「原殿」は、純真な信心を貫いた。身延離山を前に、日興上人がしたためられた「原殿御返事」の追伸に次のような一節がある。
 「涅槃ねはん経第三第九二巻御所にて談じて候いしを、愚書に取具とりぐして持ちきたって候。聖人の御経にて渡らせ給い候間、たしかに送りまいらせ候」(編年体御書1735㌻)
 ――私(日興上人)が日円入道(波木井実長)のお宅で講義した折、涅槃経の第三と第九の二巻を、自分の書籍といっしょに持ち帰ってしまいました。これは聖人の御所持の御経ですから、必ず送り返します――と。
 この経典は、波木井家所有となっていたのだろう。それを、誤って持ち帰ったことに対し、日興上人は″必ずお返ししますよ″と、わざわざ御手紙に述べられている。
 日興上人が、いかに厳然と公私を立て分けておられたか。その一端が、この短い御言葉からも、よくうかがうことができる。つねに日興上人は、いささかも門下を軽んずることなく、丁寧ていねいに一人一人と接しておられた。
16  しかし、その日興上人に対して、身延離山のさいに、身延山から多くの宝物ほうもつなどを持ち去ったとの非難が、長い間なされた。むろん事実無根である。総本山第五十九世日亨上人も、この暴言に対し、「謹厳きんげん無欲の開山上人(日興上人)を毒することはなはだしいものである」と、いきどおりをもって、その非を破しておられる。
 いうまでもなく、この非難は、いわれなき誹謗ひぼうであり、いわば、ためにする″デッチ上げ″であった。
 悪人が自ら捏造ねつぞうした″デマ″を事実と強弁し、周囲も真偽しんぎを確かめず、何となく憶測おくそくのみで断定し、言い広げていく――大なり小なり、いつの世にも見られる、悪意の中傷である。
 ともあれ、日興上人は、いかなる悪口雑言あっこうぞうごんをものともせず、ただひたすら、大聖人の教えのままに、広宣流布、令法久住りょうぼうくじゅうのために邁進まいしんされた。まことに毅然きぜんたる尊い御姿であられた。
 大聖人は、南条時光への御手紙のなかで、「人もそしり候へ・ものともおもはぬ法師等なり」――人がいろいろ謗るであろうが、我ら日一門は、悪口や誹謗ひぼうなど、ものとも思わぬ法師等である――と仰せになっている。
 真実は、どこまでも真実である。正義は、どこまでも正義である。したがって、誰に、どう言われようと、おくすることはない。恥じることはない。いかなる悪言あくげんがあろうと歯牙しがにもかけず、法のまま、まっしぐらに進めばよいのである――大聖人と、日興上人の、こうした烈々たる御精神が、深く拝されてならない。
17  ″一切は心のまま″の境涯を深く
 最後に、時光が十七歳の時に与えられた御抄を拝しておきたい。
 「が大事とおもはん人人のせいし制止候、又おほきなる難来るべし、その時すでに此の事かなうべきにやとおぼしめして・いよいよ強盛なるべし
 ――自分が″この人は大事な人だ″と思っている人が、信心をやめさせようとし、また大きな難がやってくる。その時こそ、諸天の加護があると確信して、いよいよ強盛に信心すべきである――。
 「さるほどならば聖霊・仏になり給うべし、成り給うならば来りてまほり給うべし、其の時一切は心にまかせんずるなり、かへす・がへす人のせいし制止あらば心にうれしくおぼすべし
 ――そうであるならば、聖霊(亡き父)は、成仏されるであろう。成仏されたならば、来て、あなたを守護されるであろう。その時、一切は心のままである。くれぐれも、信心を妨げる人があったならば、心にうれしく思いなさい――と。
 十七歳といえば、今なら高校生の年代である。その時光に、大聖人は「大事とおもはん人」が信心を邪魔しに来ること、また、やがて大難が来るだろうことを述べられながら、「父子一体の成仏」の法理を示されている。
 つまり、難が来た時、いよいよ強盛に信心に励めば、亡き父も成仏し、三世の福徳に輝いていく。むろん、それは父に限らない。母をはじめ、亡くなった親族も、すべてその通りとなる。ゆえに、障魔の嵐の時こそ、一家、一族の永遠の安穏、幸福を開いていく絶好のチャンスである。
 反対に、難の時に逃げたり、憶病おくびょうになったりすれば、自身の福運のみならず、亡き父、親族の福徳をも消してしまう。これほどに、仏法は峻厳しゅんげんである。
18  時光は、大聖人のこの仰せのままに、熱原の法難にあっても、青年らしく、凛々りりしく戦い抜いた。そして大聖人御入滅後も、日興上人を外護げごし、大石寺の創建に尽くした。まさに、「富士門今日の大基礎を築き上げられた宗門の大功労者」(日亨上人)であった。
 それに加え、父や弟の分まで長生きし、晩年には多くの子孫に囲まれつつ、最高の幸せを満喫し、七十四歳の生涯をまっとうした。
 たび重なる大難との死闘のてに、まさしく大聖人の「一切は心にまかせんずるなり」(一切は心のままである)の御約束通りに、自在の境涯を開き、見事なる所願満足の生涯を飾った。これもすべて、「広布の正道」をひたすらに歩み抜いた結実にほかならない。
 広布の″将の将″として奔走ほんそうされている皆さま方もまた、大聖人の御遺命のままに成仏の道を行く尊い仏子の方々である。最大に、この一生を楽しみ、一家の限りない幸福と安穏を開いていかれるお一人お一人であっていただきたい。
 その皆さま方に、心から敬意を表するとともに、更なる皆さまの健勝、長寿をお祈りし、本日のスピーチとさせていただく。

1
2